第二十九話 四日目、ひと時の休息Ⅰ――朝風呂と嵐のような一家団欒:count 4
「龍也にぃ~、待ってよー」
声が聞える。
いやに聞き覚えのある、南雲龍也を呼ぶ子供の声が。
「ねぇ待ってってば龍也にぃー!」
「あははははっ、鬼ごっこなのに待つわけないだろー」
それが幼い頃の自分の声であることに気付くと同時、自分がまたあの海の底に来たのだということを理解した。
深い深い海の底。
決して光の届くことない深海に差し込む光のような、世界と世界の継ぎ目が置き去りになっている、存在し得ない夢の海。
誰かの記憶の最果ての景色。
勇麻が扉と呼んでいる世界の隙間から、勇麻は勇麻も知らない過去の情景を夢として眺めている。
(これ、俺も覚えてる……)
いつもは勇麻も知らない景色が流れる夢の世界も、しかし今日ばかりは身に覚えのある光景が流れていた。
日曜日の朝の公園で行われる、近所の子供達全員参加の鬼ごっこ。
半ば恒例と化していたこの遊びは、そもそも南雲が企画して始めたものだ。
この日鬼になった勇麻は必死に南雲を追いかけ、小癪な策まで弄して南雲を捕まえようとする。しかし勇麻の浅はかな策など南雲には筒抜けで、勇麻の伸ばした手は呆気なく躱されしまうのだ。
その後、何故か追う側と追われる側が入れ替わり、生意気を言った泉が南雲に追いかけ回されるという見覚えのある光景を懐かしく感じながら思い出の光景に浸っていると、不意に記憶にはない一幕が差し込まれる。
一通り暴れ回って疲れたのか、子供達は鬼ごっこを一時中断し、水飲み場で水飲み休憩をしていた。
この水飲み休憩がいつの間にか水掛け遊びに発展するのを勇麻は知っていたが、そういえば南雲はそれに参加していただろうか……?
勇麻がそう思うと、まるで勇麻の考えを見透かしたかのように視点が切り替わる。
水飲み場ではしゃぐ子供達から、少し離れた木陰に。映すカメラの映像を入れ替えるように、他視点からの光景が流れ始める。
「龍也」
「……なんだ、海音寺か」
木陰に入って汗を拭っていた南雲に声を掛けたのは海音寺だった。
今しがた彼を見つけたとかではなく、今の今まで南雲と子供たちの鬼ごっこを見守っていたらしい。
遊びに一区切りがついたと見て声を掛ける律義さが、何とも海音寺らしい。
南雲は、そんな友人に呆れたように息を吐いた後、楽しげに歯を覗かせて、
「そんなとこでどうしたんだよ。お前もやるか? 鬼ごっこ」
「……いや、僕は遠慮しておくよ。いきなり知らないヤツが入ってきたら子供達も困るだろうし。それより龍也……」
南雲からの誘いを眉根をハの字にして断った海音寺は、そこで一度言葉を区切ると、どこか煮え切らない態度で南雲と地面とを交互を見やる。
そんな海音寺の態度に訝しげに頭上にハテナを浮かべる南雲。海音寺との付き合いそれ自体はまだ数か月に過ぎないとはいえ、それなりに密度の濃い時間を共有してきたつもりだ。そんな南雲からしても、今日の海音寺の様子はあまり見たことのない物であった。
海音寺は、その言葉を切り出すか否かを迷い、逡巡して、最期までその確信を得られぬまま緊張に頬を震わせて真剣な声色で言った。
まるで祈るように、震える声で。
「……例の『子供殺し』の居場所が分かった」
「……!」
海音寺の言葉に、南雲の顔色が目に見えて変わる。
驚いているというより、ようやくその時が来たかという高揚にも似た感情が、南雲からは感じられた。
一方の海音寺の表情からは、怯えとも恐れとも異なる、その一歩を踏み出す事に対する純粋な躊躇いのようなものが見て取れる。
自分の口から切り出した言葉、それ自体に後悔を抱いているような、そんな様子であった。
しかし一人興奮する南雲は、そんな親友の様子に気がつかない。
どこか迷子のように呆然と立ち尽くす海音寺の両肩に、その功績を湛えるように元気よく両手をやって、
「よくやった海音寺、流石は俺らの学級委員長さまだ。予想よりうんと早いぜ」
「……なあ龍也。本当に僕たちだけでやるのか?」
「何ビビってるんだよ海音寺、当たり前だろ? アイツは俺の倒すべき悪だ。お前が正しさを貫く為にも、『子供殺し』は放置してはおけない。言ったじゃねえか、俺達で世界を変えるんだって」
南雲龍也のやろうとしている事、それは、罪なき子供を不当に傷つける凶悪犯――通称、『子供殺し』――を自分たちで退治しようというもの。
子供の正義の味方ごっこでは決して済まない、ある種決死行のような愚挙であった。
南雲は興奮を押さえられない子供のように顔を輝かせ、無邪気に正義の在りかを主張している。
海音寺とて、南雲の言葉が決して間違っているとは思わない。
だが、彼の言葉は、その思考回路は、正義は、間違っていないだけのように思えてならないのだ。
彼の言うとおり、『子供殺し』は絶対に許されざる悪党だ。突如として天界の箱庭に現れた殺人鬼。子供ばかりを狙っては拐い、肉片ごとにバラして殺害し、その無惨な残骸を街中に晒しあげる狂気の殺人鬼。
やつが現れて二ヶ月、犠牲者の数は既に二十一人にも上っている。見過ごせない巨悪であり、決して許せない正義と正しさの敵であることに、疑う余地はない。
だが。
「……僕だって分かってるよ。けど、相手は二十一人もの命を奪ってる凶悪な神の能力者なんだぞ? ……どんな力を持っているかも分からないのに、危険すぎる。僕達だけで対処できるような、していいような相手じゃない。神狩りに通報して、彼らに任せるのが筋なんじゃないのか?」
これまでの海音寺と南雲の活動は、確かに学生の域を些か超えたものではあった。
単なる〝人助け〟では説明できないような馬鹿も沢山やった。
治安を乱す街の不良退治に、銀行強盗の捕縛。薬物の売人をグループを叩き潰し、臓器売買の闇ブローカーを追い詰め、人質に取られた子供を二人で救出し、孤児院を巡る騒動ではヤクザ者との抗争に巻き込まれたりもした。
だが今回の相手は格が違う。今回の事件の犠牲者二十一人の中には、天界の箱庭の治安維持部隊『神狩り』の精鋭達も含まれているのだ。
犠牲になったのは四名。
いずれも干渉レベルBマイナス以上の所謂一般に『天才』と呼ばれる部類の手練れ達が、その魔手に掛かり死体となって帰ってきている。
しかも向こうからの襲撃ではなく、迎撃されての敗北。
先手という有利を取って尚敗北するというのは、相手が彼ら以上の圧倒的使い手だったに他ならない。
規模の大きい相手ならいくらでも相手にしてきた。ヤクザの組を丸ごと一つ相手取って戦い、潰してみせた事だってある。だが、今回異なるのは格だ。今まで戦ってきた小物連中とは、神の能力者としての格が違う。
『子供殺し』の危険度は南雲たちがこれまで関わった悪党の中でも群を抜いている。
たかが学生である南雲や海音寺が軽率に関わっていいような相手ではない。
「せめて龍也のとこのスネークさんたちに……『背神の騎士団』にはこの事を知らせるべきだ」
龍也に親がいないことを海音寺は知っている。天界の箱庭では別に珍しいことでもない。そして彼の事実上の養父にあたる男が、天界の箱庭の裏側で正義の為に暗躍する『背神の騎士団』と呼ばれる組織の人間であることも、海音寺は南雲から聞いていた。
今回の『子供殺し』の件のような、表側の人間だけでは解決しきれない凶悪事件も、『背神の騎士団』の仕事のうちのはずだ。
「ダメだな」
そんな海音寺の必死の説得に、しかし南雲は耳を貸そうとしない。
「いいか海音寺、『子供殺し』があれだけ派手に動いてそれでも捕まらないのはヤツが強いからってだけじゃない。神狩りの捜査状況や動向を知る何らかの手段をヤツが有しているからだ。だから神狩りが動いた瞬間、ヤツは今の居場所を移す。同じ理由で、背神の騎士団もダメだろうな。抑止力として機能するほどの組織だ、裏の世界じゃ名が知られ過ぎてる。ヤツが背神の騎士団を警戒していないとは思えない」
「しかし……!」
「今ヤツを捕まえられるのは、俺達だけだ。存在を知られてすらいない俺達だけが、ヤツの懐に飛び込める。……他の誰かじゃない。俺達がやるしかないんだよ、海音寺」
もう一度海音寺の両肩に手を置いて、南雲は迷いなくそう言い切った。
どこか妄執じみた輝きを宿した瞳に見つめられ、海音寺は息を呑むことしかできず。
そして、諦めたように項垂れる。
(……龍也、にぃ……?)
子供のように瞳を輝かせる南雲龍也の姿に、勇麻はその時初めて畏怖にも似た感情を覚えた。
――この物語は、何かが破綻している。
そんな予感を漂わせながら、物語の幕引きのように、二人の姿が視界から遠ざかって行く。
世界は途切れ、夢のような夢の時間はいつも通り唐突に終わりを告げた。
☆ ☆ ☆ ☆
対抗戦四日目の朝。
「……、ん、あ?」
馬鹿騒ぎの翌日。どういう訳か東条勇麻はパーティールームに置かれたソファのうえで目を覚ました。
おかしな体勢で眠っていたからか、身体が軋むように痛い。
今日もまた例の夢を見たせいか、頭の奥が霞むような疲労感がしっかりと残っている。
夢の内容は、いつもよりは鮮明さが欠けていたがそれでもしっかりと覚えていた。頭が寝ぼけているせいか、先の出来事が夢か現かその判別が曖昧になっている。
(……、)
勇麻は寝ぼけたまま一つ伸びをして、それから自分の状態と周囲の状況を改めて確認していく。
夢の内容はひとまず頭の隅に放っておく。気にしようと思えば四六時中気にしてしまうような内容ではあったが、今ここで何を考えても、それは既に終わった物語。閉じた誰かの夢物語でしかないのだから、あの続きを考えることにきっと意味などない。
勇麻は意図的に己の感情を制御し、頭を切り替える。
……そんなことよりも。
「うーん、ここに運びこまれたあたりからの記憶がない……というか、すっげー頭痛いんだけど何だコレ……」
部屋の中央には大人数で囲めるようなパーティー用のテーブルが鎮座しており、そこには多量のグラスや料理を平らげた後の皿が散乱していた。喰い散らかされた豪華な食事の残骸が見受けられ、ここで大規模な宴会が催されていたことが分かる。
……記憶はないが、あの馬鹿騒ぎがあの後永遠に続いたのだろうことはよく分かる光景だ。
自分の全身から漂う鼻をつく強烈なアルコール臭と謎の不快なべたべた感に顔を顰めつつ、死屍累々となっている宴会場を床で寝ている人を踏まないように慎重に移動しながらどうにか出入り口の扉へたどり着く。
大いびきを搔いている泉はともかく勇火までこんな所で寝てるなんてよっぽどだ。勇火の寝顔が苦しげなのは北御門さん率いるCチーム所属の鳴羽刹那の腕やら足やらが勇火の身体のうえに堂々と乗っかているからだろう。
なんだか仲が良さげなのでそのまま放っておくことにする。
流石に女性陣や海音寺流唯、十徳十代あたりの姿は見当たらないが、選手の半数近くがここで騒いだまま寝落ちしてしまったらしい。
……一番怖いのは自分の記憶が途切れていることなのだが、頭が回らずその事に気付かない勇麻は、ひとまず身体に染みついた不快な酒の匂いを落とそうと割り当てられた自室のシャワーを目指すこととした。
なんとか自室に辿り着いた勇麻は、オートロックの扉をカードキーを使って解除すると、すぐに風呂へと直行することにした。まだ半分眠ったままの頭でシャワールームを区切るカーテンを勢いよく開ける。
ボサボサの頭を搔きながら服を全て脱ぎ捨て、高級ホテルのスイートらしく、透明なガラスで囲まれた泡の出るバスタブ付きのシャワールームへ踏み込もうとガラス扉を開けて、
「……は?」
泡のお風呂に肩まで浸かる天風楓と、ばっちり目が合った。
全裸の勇麻を前に、声も出せない程の驚愕と羞恥に襲われている楓は泡の水面から見えている範囲の全てをどんどんと赤く燃え上がらせ、こちらを凝視する見開いた目元に涙を溜めて震えながら硬直している。
うっすらと湿った下ろした優しいブラウンの髪からは水滴が滴り落ち、水を弾く柔肌はうっすらと上気した桜色から湯気を噴き出しそうな赤へとシフトチェンジ。
儚げな鎖骨がその姿を堂々露わにし、泡に包まれた胸元を隠すように両手は胸へきゅっと寄せられているが、そのふっくらとした女性らしい谷間が、泡と両手の隙間から勇麻を誘惑するかのようにこちらを覗いている。
やや線の細く、女性らしい丸みを帯びた肢体が、泡の水面下にもうっすらとそのシルエットを浮かび上がらせていた。
よくよく見ると脱衣所には丁寧に折りたたまれた楓のベージュ色の制服と下着類も置いてあった。
清楚な白を基調としたフリルレースとリボンの装飾が愛らしい実に女の子らしいブラジャーとパンツ一式が。
「……」
勇麻はほんの二、三秒。されど二、三秒は確実に。
美しい絵画に釘付けになるように、水に濡れた天風楓の肢体を思わず凝視して。
バッと勢いよくシャワールームから飛び出して全速力でカーテンを閉めた。
全裸のまま四つん這いにうずくまり、荒く呼吸を繰り返しながら、混乱する頭で情報を整理する。
「……………………は?」
もう一度そんな間抜けな声が口から漏れるくらいには、意味不明な状況だった。
だって、ここは勇麻と泉と勇火に当てられた男部屋であって、楓の部屋はその隣。アリシア達と同室の部屋のハズだ。勇麻は自身のカードキーで鍵を開けた。故にここが自分たちの部屋であることは間違いない。
それが何の因果が捻じ曲がって勇麻たちの部屋と楓の部屋のバスルームが繋がるなんて事になったのか。
さしもの東条勇麻も、この正体不明の現象を説明することは出来そうになくああまずは楓に謝らないとでもそのまえに混乱する頭の中で繰り返し鮮明に蘇る数年ぶりの成長した幼馴染の裸をこみ上げる罪悪感と共に消去しようと正座しながらホテルの床に連続で頭突きをかまして悶えていると、
「おう勇麻おっはよー、ねえねえ楓ちゃんどうだった? どうだった? すっごい成長してたでしょー? もう胸とかお尻とかたまらん具合に育っちまっててグヘッヘー私もびっくりしちゃってさー。こりゃもう是が非にでも既成事実を作ってしまおうと思ってセッティングしたんだけどー浅はかに成功したかなぁ? ……って、わお。朝から全裸土下座で床に頭突きしてる人ってはじめて見たわー」
やたらとハイテンションなその聞き覚えのある声に、この果てしなく馬鹿げた状況に、勇麻は全ての原因と意味を理解した。
これすなわち。
「なにもかも……なにもかもがアンタの仕業かッ! こんの色ボケババアッッ!!」
ビッシィ! と、勢いよく振り返り指差した勇麻の視線の先。そこには二十代後半とおぼしき若い女性(実年齢三十後半)がいやらしいオッサンのようなニヤケ顔で、その整った顔を台無しにしながら立っていた。
黒髪を頭のうしろで結わいてポニーテールにして、エプロンにお玉を装着しているその女性は勇麻の下半身に視線をやって、
「なんだよこのヘタレ息子ー。せーっかくお母さんがとっておきのシチュエーションを用意してやったというのに、我が息子はその息子までヘタレか! せっかく赤飯炊いて待ってたのにーつまらんー」
「うっせえ! つか見るなアホ! 朝から実の息子に向かって直球ド下ネタかましてんじゃねえ! つうか何でここにいるんだよ母さん!!」
「え? 何でって、そりゃ可愛い娘と息子たちの晴れ舞台だもの。日本から遠路はるばるヒッチハイクで勇助さんと応援しにきたに決まってるでしょ?」
「はっはー! やーっぱり父さんも一緒か! ……って、そうじゃなくてだな、ここは俺たちの部屋でカードキーがないと入れないハズなんですけど? アナタがたは一体どうやってこの部屋に侵入したのでしょうか!? はい答えて! 今すぐ答えろ三秒前!」
「どうやって、って……そんなの勇助さんがピッキングで開けてくれたけど……?」
「年甲斐もなくきょとんと首を傾げるな可愛くない! つかアンタら不法侵入の犯罪者じゃねーか!! そもそも電子錠をどうやってピッキングしたんだよあーもうっ!」
凄まじい勢いで繰り出されるパワーワードに頭を掻き毟る勇麻。
話題に出された父があけ放たれた扉越しに嬉しげにピースサインを覗かせてくるのが妙に腹立つ。寡黙だが厳格ではないふざけきった父親なんて、渋くもカッコよくも全然ないし憧れもしない。それでいて母の我儘と無茶ぶりに余裕で応えてしまうという無駄ハイスペックの持ち主なのだからいよいよ手に負えない。
「はい。という訳で改めまして。おかえりアンドおはよう勇麻! 朝ごはんにする? お風呂にする? そ・れ・と・も・楓ちゃんにするぅ~?」
ずずずいーっとニヤケ顔のまま寄ってくる謎のエプロンセクハラ女こと東条勇麻の実の母――東条佳奈美からの問いかけに、勇麻は深く息を吸い込み深呼吸で精神を落ちつけてから応える事にした。
右の拳を握りしめた勇麻のアンサーはこうだ。
A:この馬鹿親どもをさっさと部屋からつまみ出してゆうパックで日本に送り返す……!
☆ ☆ ☆ ☆
「本ッ当にごめんなさいでした……っ!!」
両親とわりとガチの取っ組み合いを演じた後、秒でシャワーを浴び改めて服を着た状態でこちらも着替えた楓と向き合った勇麻は、日本式究極謝罪術たる土下座を駆使して楓に誠心誠意謝り倒していた。
ちなみに楓の着替えは鍵の掛かった隣の部屋においてある為、今は勇麻の寝間着の赤ジャージを借りて着ていた。
替えの下着はなく、穿いていた下着はウチの馬鹿母が一瞬の隙をついて洗濯機に放りこんでしまったので、その、なんというか……直である。
火照った身体を冷ます間もなく急いで準備した為だろう、風呂上りで上気し、若干湿り気の残る楓の肢体にはうっすらと汗が浮いていて、髪の毛もやや水気を含んでどこか艶めかしい。
……なんだかこの状態の楓を見ているだけでも、自分がとんでもなくいけないことをしているみたいで心臓に悪いので、勇麻はひたすら頭を下げ続ける。
男物なのでややサイズが大きく、だぼっとしている為身体のラインが浮き出ないことだけが救いだった。
息子の後ろでは東条佳奈美と東条勇助の主犯二人が、同じように土下座をしている。
勇麻に強要されての土下座である為、佳奈美はぶーぶーと文句を垂れながらの土下座であった。
この母、まったくもって反省の色が見えない。
「あ、あはは……ゆ、勇麻くんはわたしがお風呂に入ってるなんて知らなかった訳だし、しょうがないよ。むしろ謝るのは勝手に勇麻くんの部屋のお風呂を使ってたわたしの方だから……」
「いや、楓に謝られたらそれこそ俺の立場がないって! この状況で女の子に謝らせるって、鬼畜かなにかかよ俺は……」
「そうそう。勇麻がきちんと鬼畜ならあそこまでお膳立てされて何もしない訳がないわよねー」
「で、でもわたし……勇麻くんの裸とか、その……色々とばっちり見ちゃった訳だし……」
「いやあのそれ赤面されながら掘り返すような場面じゃないよね? むしろそこでも罵倒して貰ってしかるべきは俺のハズなんだけど!?」
頬を朱に染めて挙動不審に勇麻から視線を逸らしまくる楓。自分の全裸を女子に見せつけるという変態露出魔的悪行を掘り返される地獄のような羞恥プレイに勇麻も羞恥で燃えるように頬が熱くなる。何の罰ゲームだこれ。
「あら、意外。勇麻、そういうちょっとアブノーマルなのが好みなの? Mなの?」
「……というか俺は絶対的に謝るべき主犯に全く反省の色が見えないのが問題だと思うんだけどッ!?」
「あ、あはは……。か、佳奈美おばさんも、勇助おじさんもお久しぶりです。あ、頭あげてください。ホントに、わたしは大丈夫なので」
漏れ出る殺意を隠そうともしない勇麻に、息子の激憤をヘラヘラ笑って受け流す佳奈美。
再び勃発しそうな親子戦争に楓は苦笑を零し、どうにかこの場の舵とりをしようとする。どこか懐かしい光景だ。
楓の優しさに今は甘える訳にはいかないのだが、このままでは収拾がつかなくなるのも事実。ここはひとまず楓に免じてこの馬鹿母と馬鹿父の説教は後回しにすることにした。
一端落ち着こう。
……どうせ勇火が帰ってくればこの場は火の海と化すだろうし。
「ほーら。楓ちゃんだってこう言ってるじゃないのっ! ごめんね楓ちゃん。ウチのヘタレ息子と息子息子がヘタレでー。あともうひと押しだったんだけど、次こそは頑張らせるから許してあげて?」
「か、佳奈美おばさん!? わ、わわっ、わたしはその別にそういう展開を望んでたって訳じゃないんですけど……ッ!?」
「あ、それから楓ちゃん? 楓ちゃんは私達の娘で家族なんだから。いっつも言ってるけど、私と勇助さんのことはお母さんとお父さんってちゃんと呼んで。というか呼ばないとセクハラするわよ? ぐへへぇ~」
手をいやらしくわきわきと動かす佳奈美。
もう存在がセクハラだった。
というかセクハラする台風だ。自然災害だ。
勇麻が説教の手を緩めたのをいい事に調子に乗っておられるようだった。これが自分の母親なのだと思うと頭が痛い。
「……母さん、ひとまず話が進まないから一回落ち着いて。何でこんな事になってるのか、誰でもいいから一通り事情を説明してくれ」
勇麻は目頭を揉みながらそう促す。
滅茶苦茶な母と無口な父は使い物にならないので無視、ぶーたれる佳奈美に汗を掻きながら話し始めた楓の説明をまとめると、だいたいこんな感じだった。
――うっかり鍵を部屋の中に忘れて出掛けてしまい、オートロックの部屋に閉め出されて困っていた楓。
部屋の中で熟睡しているアリシアに電話を掛けるも全く反応がなく、同室のセルリアやスピカが起きている様子もない。そんなこんなで途方に暮れていたところを、勇麻の泊まるホテルの部屋を看破し通りかかった佳奈美と勇助が発見。
およそ一年ぶりの再会に喜んだあと、当たり前のように勇麻たちの部屋の鍵をこじ開け侵入した佳奈美たちに楓は強引に連れ込まれ、汗を搔いていた為にそのまま風呂に放り込まれることに。
押しに弱い楓は結局薦められるままに入浴を楽しんでいたのだが、湯船につかっている最中急激に眠気に襲われ、うつらうつらしていたところに勇麻が帰宅。
そのまま寝ぼけ眼の勇麻がシャワールームに突撃したところで物音によって意識が再覚醒し、以下略。という具合だ。
ちなみにお母様からはご丁寧に湯船に催眠薬を混ぜていたとの供述を頂いた。調合したのはお父上だった。なんか知らぬ間に両親の罪状が増えてる。
「なるほど。つまり悪いのは全部ウチの母さんと父さんか……ッ!」
「そ、そんなことないよ勇麻くん! そもそも鍵を忘れたのはわたしだし、佳奈美おば……お母さんも、お父さんもわたしを助けてくれただけだから」
「~~~ッ!!? 楓ちゃん! もっかい! もっかいお母さんって呼んで! もっかい!」
なんかウチのダメ母が雷に打たれたように悶えているが構っている余裕はないので勇麻は即座に切り捨てるように話題を放り込む。あちらにペースを握られたままではまともに話にならない。
「まあいいや、どうせ母さんと父さんのことだ。ホテルも碌に取ってないんだろ? 丁度ベッドも余ってたから今日一日はこの部屋使っていいから」
「やったー! さっすが私の息子! 愛してるよ勇麻ーっ! むちゅーっ」
赤ん坊をあやす時のようなふざけたおちょぼ口でキスをしようと飛びついてくる佳奈美と勇助に真剣に身の危険を感じた勇麻は、足の裏で両親を撃退し距離を取る。
この馬鹿どもは一体自分の息子を何歳児だと思っているのだろうか。
「だぁー、いい歳した大人が抱きつくな鬱陶しい! ……てか、楓も楓で何だってこんな時間に外に出てたんだ?」
「そ、それは……あ、あはは……」
現在時刻は朝の六時半。佳奈美たちが閉め出された楓を見つけたのは朝の六時頃ということになる。そこまで早起きして、楓は一人で一体どこに行っていたのだろう。
そもそも今の楓は、『創世会』から狙われているという危険な立場にある。神の力が使えず、『対抗戦』にも楓の替え玉としてシャルトルが出場しているような状況だ。
楓自身、自らが置かれている状況は理解しているハズ。そのうえで危険を冒してまで一人で勝手な行動するような子ではないのだが……脱衣所に畳まれていた楓の制服が、いつもより汚れていたように見えたのは勇麻の気のせいか?
「もう、何言ってんのよ勇麻」
そんな勇麻の疑問に答えたのは楓ではなかった。東条佳奈美は、呆れたような視線を勇麻に向けて、
「楓ちゃんはアンタの為に頑張ってんじゃない。察してやんなさいな、このヘタレ息子」
「はぁ?」
「いいから、アンタはそこに突っ込まんでいいのよ。よりにもよってアンタがそれを尋ねちゃ野暮ってもんでしょ」
「……」
いつものふざけた口調では無い。まるで母親のような慈愛と厳しさの込められた声に、思わず勇麻も黙り込む。
東条佳奈美という人間は、時折子供の全てを見透かしたような事を言う人だった。
いつものふざけた態度からはかけ離れた聡明な光りをその瞳に湛え、遠くを見るように細められた佳奈美の瞳が何を見ているのか、勇麻には全く想像もつかない。けれどもこういう時の佳奈美の言葉は物事の真理を突くように鋭く、正しいことが多い。
しかしそんな佳奈美の真面目モードは往々にして長続きした試しがなく、
「そんなことよりぃー、お母さんは気になって仕方がないのです」
勇麻の予想通り。まるでスイッチを入れ替えるように佳奈美はその口調を激変。ニコニコと笑顔を絶やさないいつもの鬱陶しいハイテンションな佳奈美に戻ると、ゲスい笑顔を浮かべて肘の先で勇麻の胸のあたりをぐりぐりと押して、
「……わざわざ未知の楽園からアンタをおかっけに来たあの子は一体全体どこの誰なのよっ、勇麻。この私に美少女ハーレムを夢見させるなんて、いつからウチのヘタレ息子は出来る子になったんだよこのこの~っ」
「は? ちょ、母さんが一体何の話をしてるのかさっぱりなんだけど……」
本格的に何の事だか分からずに困惑する勇麻。そんな息子に母は「またまた~」と笑って耳打ちする。
「ちょっとツンとした感じの白と黒の髪の毛が特徴的な猫みたいに可愛い女の子よっ。ふふっ、私のことを『お母様』、だなんて呼んじゃってさー。ねえ、あの子ってアンタの愛人?」
「ぶふぉっ!? げほっ、ごほっ!」
飲み込んだ唾が気管に入った。
「それともなに。あちらさんはお兄さんと一緒に来てたけどご家族公認な感じでお付き合いしてるわけ? ウチの楓ちゃんを泣かせたらお母さん許さないけど……でもあの子も可愛くて良い子だったなぁ~是非ウチに欲しい。じゅるり」
身体の震えが止まらなかった。なんというか、こう、身体の奥底から湧き上がる怒り的な意味合いで。
……なんでだろう。こんなことはあり得ないハズなのに、その兄妹にとんでもなく心当たりがある気がする。
勇麻はガシガシと髪の毛を掻きながら、震える声で尋ねた。
「母さん、ちなみにそいつらの名前は?」
「え、たしか……九ノ瀬和葉ちゃん……だったかなぁ? あ、お兄ちゃんのほうは名乗ってくれなかったわね」
「……母さん、そいつらは何て」
「んー? 妹ちゃんの方が勇麻の昔のことを色々知りたいって言うから、ついある事ない事色々話しちゃった☆」
自分の年齢も考えずにてへぺろっと舌を出す母親の言葉に勇麻は頭を抱え、大きく息を吸い込んで。
「……あの馬鹿兄妹は何やってんだよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
ついに許容限界を超え、溜め込んだ感情をここぞとばかりに吐き出す勇麻。自分の知人友人に母親があることないこと恥ずかしいことを吹き込みまくる場面を想像して、悶え叫ぶ勇麻を責めることは誰にもできないだろう。
だが、トラブルとは連鎖し繋がるものである。そして今回は、朝っぱらから大声を上げたのが不味かった。
「……むにゃ、うぬむむ……ゆうまぁ……大声をあげて、どうかしたのか? まだしちじ前なのだぞ、いつもはまだみんな寝てるじかんではないか……むにゃむにゃ」
勇麻の魂の絶叫からほどなくして、眠たげな声と講義の視線が玄関の開いたドアから勇麻目掛けて放たれる。
眠たげな愛らしい声の主、絵本の中から飛び出したような儚い純白の少女アリシアに。東条佳奈美と東条勇助の視線が釘づけになる。
やっちまった、という思いに固まる勇麻と、驚愕で声も出ないのか小刻みに震える佳奈美と勇助。
しばしの間、間の抜けたアリシアの欠伸だけが空間に響いて、
「なにこの生き物かわいいいいいい~~~ッ!!?」
目を血走らせた佳奈美が目にも止まらぬ速さでアリシアに駆け寄り、その小さな身体に抱きついた。
「うぎゅ」
アリシアの白いお餅のような頬に頬ずりし、触れれば折れそうな華奢で儚い肢体をぎゅっと優しく抱きしめる。
何が何だか分からないアリシアは少しだけ苦しげに身を捩るも、嫌ではないのか佳奈美の拘束から抜け出そうとする様子はない。
「ハッ、ひょっとしてこの子……勇麻と楓ちゃんの隠し子的な私達の孫娘なのでは……!? それならこの可愛さも納得がいくわ! なんて言っても楓ちゃんの子供で私達の孫なんだものね!」
「ぶっ!?」
「純和製が何言ってんだ!? 白髪碧眼美少女がアンタらの孫な訳ねえだろ!」
馬鹿の発言に真っ赤になって噴き出す楓。
ひとしきりアリシアを抱き枕にした佳奈美は、アリシアの頭を執拗に良い子良い子しながら、またも碌でもない事を言い出し始める。
しかし佳奈美は、都合の悪い事は全て右から左に聞き流しているようで、
「あらー、アリシアちゃんて言うのね~。ねえアリシアちゃん、私のことおば……おほんっ 佳奈美お姉ちゃんて呼んでもいいからねー?」
「? おねえ、ちゃん?」
「きゃー、かわいいいいいいいーッ!!?」
「ぬぎゅ」
またもアリシアをぎゅっと抱きしめる佳奈美。嵐のような彼女の突飛な行動に流石のアリシアも付いていけないらしく、目を回している。後ろではいつの間に用意したのか、父の勇助が涙を流しながらビデオカメラを回して佳奈美とアリシアの記念すべきファースト抱擁を記録に残していた。
予測不能の嵐を前に、楓はもう諦めたような苦笑を零していた。
まさに混沌。
もう、自分一人ではどうあがこうとも収拾が付かない事態を前に、勇麻は救いを願った。
この場を収められる人間は、この世界に一人しかいない。助けて、英雄、と。
その真摯な願いが伝わったのか、再び、玄関の扉が開く。
……無垢なる誰かの真摯な願いを聞き届け、立ち上がる者こそが英雄と呼ばれるにふさわしいのであれば。
勇麻の願いが彼に届くのもまた、必然であったのかもしれない。
生じた隙間から顔を覗かせた少年の眼光が、純白の少女をいやらしい手つきで弄繰り回そうとしていた東条佳奈美を射抜いて、
「――コンナトコロデナニヲシテイルンダイ? カアサン」
対『東条佳奈美』戦略兵器、東条勇火が数年ぶりに再起動した。




