第十八話 一つの終局Ⅱ――不理解
思わず飛びのいていた。
それは体の反射だ。
熱い物に手が触れれば自然と引っ込み、膝下を叩くと足が跳ね上がったりするのと同じ。
意識とは関係なく起こる反応。
果たしてそれは嫌悪感からか、恐怖からか。
勇麻の首筋を一筋の汗が伝う。
気持ちが悪い。
べっとりとした海風が勇麻の髪を揺らしていく。
爽やかな印象など欠片もなく、肌にべったりと貼り付く湿り気と生暖かさが気持ち悪かった。吐き気さえ覚えるくらいに、本当に気持ちが悪い。
不愉快で不快で不可解だ。
これを取り除くには、何をどうすればいい?
前提条件を設定しようとする。
が、そもそも今現在自分が置かれている現状すらまともに認識、設定する事ができない状況だと言うのに、問題提起などできるはずもない。
オールエラー、オールエラー。システムに異常を確認。
「なんでだよ……何でお前がここに……ッ!? これは何がどうなっているんだッ!!」
「なんだなんだ。いきなりそんな質問攻めにされると、おじさん困っちゃうなー」
「ふざけんなよ、なんでこのタイミングでそんな行動に出る! 仲間じゃないのかよ! こんなの分からねえよ、全くもって意味不明だ……」
「意味不明、か。お前にはそう思えるかもしれないが、俺には意味がある。それだけの話だけど?」
「……くッ!?」
するりぬらりと良いように言葉を躱され、思わず歯噛みする。
気持ちが悪かった。
この気持ち悪さの正体を、何とかしないといけない。
なぜこのタイミングで現れ、どうして仲間を刺すような行動を取ったのか、勇麻には想像することもできなかった。
ただ一つだけはっきりしている事があった。
それが勇麻にとって何よりも優先順位が高く、絶対にクリアしなければならない一つの関門だった。
避ける事は不可能、安易な絶望さえ呑み込む不吉の仮面は、今も不気味に勇麻の目の前に立ちふさがっている。
すなわち、黒騎士。
この男を倒さぬ限り、アリシアは絶対に助からない。
確証なんてどこにも無い。
けれど、そう断言できる程の何かが目の前の男にはあり、勇麻だけが、その不吉に笑う不気味な仮面の恐ろしさを理解していた。
だから、こいつだけは倒さなければならない。
(あいつは俺が倒さなきゃダメなんだ。だから、絶対にここで倒す。あの日の出来事にケリをつける為にも、アリシアを助ける為にも、コイツだけは避けては通れない)
そんな勇麻の肩に泉の手が置かれる。
視線を向けると、なにやら難しく顔をしかめた泉と目が合った。
どうやら冷静さを完全に失っている勇麻とは対照的に、泉の思考は突然の出来事に驚き、クールダウンさせられていたらしい。
落ち着いた声で、
「おい、勇麻。テメェ俺を置いてポンポンポンポン話を先に進めんな。で、アレは誰だ? もしかしてアレが……」
「……」
言葉の最後、濁された言葉の続きが勇麻の耳を打って――
――泉の問いに答えたのは勇麻ではなかった。
「あーやっぱりか」
黒騎士はその仮面の裏に笑いを浮かべ、低い嗤い声を懸命に押し殺しながら、勇麻にむけて言葉を投げかけた。
言葉は人と人とを繋ぐコミュニケーションのツールのハズなのに、嘲笑うようなその口調には隠し切れ無い攻撃性と悪意が秘められていた。
黒騎士は頭の後ろに腕を組んで、フラフラと歩きながら、
「こんな面倒事にわざわざ力を貸してくれるような心優しい友人にさえ、お前は何も話してないんだな。いやー、何をそんなに怖がってるの知らねーけどさ。それってお前を信頼してくれてる仲間に対する裏切りだとは思わないの?」
「……俺、俺は」
「そうやって“悲劇の主人公”気取ってるのは楽しいのかって言ってんだよ。『二代目』ヒーロー様よぉ」
「……」
「おい、勇麻……」
黒騎士の意味深な言い回しに目を細め、より警戒を深める泉に、勇麻は何も答える事ができない。
いや違う。
どれだけ力を籠めようとも、勇麻の口はピクリとも動かない。
まるで、自分の口の筋肉が凍りついて固まってしまったかのようだった。
声を出して否定したい。今すぐ黒騎士の発言を鼻で笑ってやりたい。でもそんな事はできなかった。
できるはずがなかった。
過去に囚われ、自ら憧れの亡霊にしがみついているのは紛れも無い事実だ。そういう意味では黒騎士の言っている事はこれ以上無いくらいに正しい。
そんな勇麻を嘲笑う黒騎士の挑発はまだ終わらない。
「あーあーあー、まただんまりかよ。まあ、楽だよな。そうやってれば時間の経過が全てを有耶無耶にしてくれるんだからよ。つってもお前がそうやって黙秘を続けた結果、不要な傷を負うのはお前の周りの誰かな訳だけどよ」
「……どういう意味だ。お前は一体何を言っている?」
「別に。俺にとっちゃどうだっていい事だしな。ただ、情報の共有くらいしておけば、少なくともあらかじめ警戒するくらいはできたかもなって話だ。場合によっちゃ、その勝敗だって変わったかもな」
「……なに?」
「おい、東条勇麻。一つ質問だ。アリシアはどこだ?」
「……ふざけてるのか、答える訳が――」
勇麻の怒気に溢れた台詞は、だが最後までは続かない。
勇麻の言葉に被せるようにして、黒騎士が言葉という名の暴力を投げつける。
一際強く、潮風が勇麻を撫でつけた。
「――だよなー、“東条勇火クンが命懸けで守った女の子の居場所を”兄であるお前がそう簡単に教えられる訳が無いよなー」
「ッ!!?」
思考に一瞬の空白が生じた。
その後に勇麻を襲ったのは胸を刺すような痛みと、驚愕だった。
「あ? ……おいテメェ、勇火をやったのか?」
泉の驚きと怒りの感情を滲ませた声が、やけに遠くに感じた。
心臓の鼓動が勇麻の頭の中にやかましく木霊する。
なぜ、一体どうして?
黒騎士の言葉を呑み込み理解するのに、普段の倍以上の時間が必要だった。
頭上の電灯が、ノイズを起こしたように明滅していた。
次第に勇麻の心を覆い尽くしていた驚きが、みるみる内に怒りで染まり、上書きされていくのが分かった。
許せない。
東条勇麻の胸中はその感情で満たされていく。
ふざけるな、そう心の中で絶叫する。
それは駄目だ。
自分以外の人間が、致命的な状況に陥ったかも知れない。
そう考えただけで勇麻の心拍数がさらに数段跳ね上がる。
真偽は確かでは無い。だがそれでも、可能性という言葉が勇麻を締め付ける。
勇麻は自分を責めずにはいられなかった。
黒騎士の言う通りだ。
他人を助けてそれらしい免罪符を手に入れて、過去と向き合っているつもりになっていた。本当に大切なことから逃げてきた結果、勇麻の選択の結果、大切な家族を傷つけた。
こんな事になるなら、誰も頼るべきではなかったのだろうか。
東条勇麻の選択は、全てが全て裏目に出ているのかもしれない。そんな事を考えかけて、勇麻はあわてて首を振った。
心の弱さを見せれば勇気の拳はあっという間に勇麻を弱体化させるだろう。
そんな事になったら、ただでさえ薄い勝ち目がさらに薄くなってしまう。
動揺を表に出しては、それこそ相手の思うツボだ。
気持ちを強く持つ。
脅しには屈しない。
それは敗北を認めるのと同義だ。
「自分が戦場に立っていれば、この俺の狙いは自分一人に集中するとでも思ったか? 東条勇火や、泉修斗は狙われないとでも? おいおい、流石にそれは自意識過剰が過ぎると思うぜ?」
「……」
「おー怖い怖い。そう睨めつけるなよ。まあ、俺は心優しい大人だから安心しろ、殺しちゃいない。ただしばらくの間眠って貰ってるだけだ」
面白がるような口調の黒騎士の言葉に、内心、勇麻の心は揺れ動く。
「……ハッタリだ。勇火を襲ったという証拠がない。俺を動揺させる為にそれらしい言葉を吐いてカマを掛けているだけだ。だいたい、俺がお前なんかの言葉を信じる義理がどこにある?」
声の震えを隠せたかも怪しい。
動揺が表に出てはいないか。
弱気な心を見透かされてはいないか。
そんな事ばかりが勇麻の頭の中でぐるぐると回った。
もしもこちらの動揺がバレれば、黒騎士はすぐさまそこを突いてくるだろう。
弱みを見せて窮地に立つのは何も勇麻だけでは無い。今、この肩には、勇麻の大切な人達の命運が懸かっているのだ。
自分の弱さのツケを、彼らにまで背負わせる訳にはいかない。
だがそんな勇麻の心配も杞憂に終わりそうだった。
敵意と動揺が一緒くたになった勇麻の言葉に、黒騎士は困ったように頭を搔いた。
うーん、としばらく考え込むように唸ってから、
「確かに、敵の言う事をいちいち真に受けるのは馬鹿のする事だわな」
嫌にあっさりと勇麻の意見を認めた。
だが、その素直すぎる態度が逆に言いようのない不安を勇麻に与えていた。
何か、嫌な予感がする。
その先の言葉を聞きたく無い。
ダメだ。
何がダメなのかは判断できない、それでもここから先の言葉を聞いてはいけない。
黒騎士を止めなくては。そう思ったのに、勇麻の身体は動き方を忘れてしまったかのように動かない。
自分の身体が自分の身体じゃないみたいで、まるで夢の中にいるかのような錯覚すら覚える。
「けどよ、」
一度言葉を切ってから、黒騎士はさぞかし愉しそうに。他人の不幸を見て浮かべるような仄暗い嗤い声を、堪え切れ無かったかのように仮面から僅かに漏らす。
それだけの行為で、嫌でも視線が黒騎士に釘付けになってしまう。
息を吸い込む音がした。仮面の中で彼の口が開かれようとしていることの証だ。
そして、
「敵の言う事にまんまと乗せられた“馬鹿のお前”がそれを言うのかよ」
「……は?」
意味が分からなかった。
黒騎士の意味不明な発言。
そんなただの言いがかりにも似た戯言に、けれど勇麻の心臓は握りつぶされんばかりの勢いで脈打ち出す。
夏場だというのに、背筋を走る寒気は治まろうとしない。
勇麻の額から滴り落ちた汗が、掘り返されて荒らされた地面に模様を残す。
乗せられた? 東条勇麻が黒騎士に? おかしい。そんな場面は無かったハズだ。
そもそも、黒騎士と対峙したのは、初めてアリシアと出会ったあの時くらいしかない。
会話らしい会話なんてほとんどしていないし、乗せられる要素だってどこにも――――
「おいおいおいおい、まさかまだ気が付かないのか? 本っ当におめでたい野郎だなお前は」
「何を言って――」
困惑する勇麻の様子を見て、黒騎士は哄笑する。
ゲラゲラとやかましい笑い声を、もはや目の前の男は隠そうともしない。
その耳障りなノイズに頭痛が激しさを増す。頭の中で鐘を突かれているみたいに、脳みそが揺さぶられる。
気持ちが悪い。
嫌だ。ダメだ。聞きたくない。
嫌な予感が風船のように勇麻の中で膨らんでいく。
いまにも弾けそうなそれを、勇麻はただ黙って見ている事しかできなかった。
この先を聞きたくないのなら、今すぐ逃げてしまえばいい。
それができたらどれだけ楽だっただろうか。
身体はまるで金縛りにあったように動かない。そして眼前の黒騎士は、口を開くことを止めはしない。
嫌な予感も、背筋に走る悪寒も、止まらない。
「俺、『背神の騎士団』の人間じゃねーから」
瞬間、勇麻の世界は色を失い、速度を停止した。
枯れた昔の白黒テレビのような世界の中、思考を停止した勇麻は、ひたすらに黒騎士が放った言葉を何度も何度も反芻していた。
何度口にだしても、何度考えようとしても、言葉の意味は掬った傍から、掌のすき間を通って零れ落ちていってしまう。
脳みそが意味を理解しない。
いや、理解しようとすることを拒否しているのか。
「は、ははは」
ゆっくりと時間をかけて、黒騎士の言葉を転がして、ようやく。ようやく言葉の意味を理解する。
乾いた笑い声しかでなかった。
言葉の意味は理解した。だが、だからと言って黒騎士の発言の意味が分かった訳ではない。
だって、
「だって、そんなのおかしいだろ。だって、だってそれじゃ……」
否定する根拠を探す。
だって、おかしい。
それは、おかしい。
「だって、そしたらコイツらはなんなんだよ。コイツらもアリシアの事を狙っているんだぞ? お前の仲間なんじゃ無いのか?」
未だに倒れたまま動かない二人を指差す勇麻に対して、黒騎士は余裕を崩すことなく、
「仲間? おもしろい事を言うガキだな。お前の中での『仲間』って言葉は、不意打ちでドッテ腹に剣を突き刺すような間柄の事を言うのか?」
「じゃあ、コイツらは……」
「もちろん、俺の敵だが?」
ヤバい、ヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!
勇麻の頭の中で、一生懸命組み上げていた何かが音を立てて崩れていく。
目まぐるしく回転を始める己の脳みそを感じながら、未だに膨らみ続ける嫌な予感と対峙する勇麻。
そして、そんな勇麻をいたぶるかのような、黒騎士の嘲笑は止まらない。
既にその姿の片鱗を見せ始めた絶望目掛けて、勇麻を徹底的に突き落とす。
「ようやく追い付いてきたか? どうよ、自分が守ろうとしていた女の子の味方を、その手で一生懸命潰した感想は。いやー、見物人の立場から言わせてもらうとだな、もう最高! の一言だったぜ! なんせ、守ろうとしてた女の子の足を、テメェで思いっきり引っ張ってたんだからよ!」
「……味方、だと? どういう意味だよ。こいつらだってアリシアを狙って――」
「だーかーらーさ。そいつらはアリシアを助けようとしていた正義の味方の一人だったんだよ。お前と同じヒーロー様って訳」
黒騎士の口から出てきた言葉は、勇麻を黙らせるのに十分な効果があった。
だって、本当に何をいっているのか理解できなかったからだ。
いくらなんでもさすがにそれは無い。
レインハート=カルヴァートとレアード=カルヴァートが味方な訳が無い。
「本当にお笑いモンだぜお前。敵の言葉をまんまと信じて、ホイホイ俺の思惑に乗っかって、手を握るべき同胞と傷つけあう。いやー、まさに八面六臂の大活躍。傍から見てる分には何とも愉快な光景だったぜ。いやさ、なんで俺が言った事をそのまま信じちゃった訳? アホ過ぎでしょ。ロールプレイングゲームじゃ無いんだぜ、登場人物が主人公様に有利な情報ばっか吐く訳ないだろ。どんなご都合主義だよ。そんなに人生甘くねーんだよ、バァーカぁ!!」
黒騎士の言葉は唾棄すべき虚偽であり、こちらの動揺を誘うための卑劣で卑怯な挑発行為だ。
こんな安っぽい挑発、乗ったら相手の思うつぼだ。
それに、もし仮に黒騎士が背神の騎士団で無かったとしても、今の発言はありえない。
「そんなの……それは嘘だ。ありえない。もし仮にコイツらがアリシアを助ける側の人間だっていうのなら、それこそおかしい。だってコイツらは背神の騎士団なんだぞ? この街を脅かそうとする奴らが、どうして女の子を守る側に立とうって言うんだ? だいたいコイツらは、アリシアと知り合いみたいな雰囲気醸し出して近づいておきながら、そのアリシアに完全に拒絶されたんだぞ。そんな奴らがアリシアを助ける側の人間の訳が――」
「――――はあ」
溜め息が、反論を遮った。
「……お前さ、本当に正しく状況を見てねえんだな。アリシアを……神門審判を助けようって割には、その神門審判の事をそれほど分かってるようにも見えねえし。いやさ、実力含めていろいろ期待外れ過ぎて、ここまで退屈だと流石にぶっ殺したくなってくるんだけど?」
「……ゴッド、ゲート。……アリシアの事、だよな?」
ここ数日、何度か耳にした単語を反芻するように、ゆっくりと確かめながら呟く勇麻。
これまでの会話の流れや、以前使われていた時の条件から考えて、十中八九アリシアの事を指す単語だろう。
そして、神門審判という単語の意味と重みを丸っきり分かっていない勇麻に、黒騎士は「やっぱりな」と頷き、
「その単語を知らないって事自体が、お前が神門審判の事を、彼女の抱える事情を知ろうとしなかったっていう事実を表してるんだよ」
「アリシアの事情……だと?」
「お前は本当に何も気が付かなかったのか? 何かおかしいと感じなかったのか? 神門審判の言葉に、態度に、行動に、おかしな点など一つもなかった。違和感を感じるような事などなかった。そう胸を張って言えるのか?」
「それは――」
「――おかしいと感じる点なんて山ほどあったハズだ。どうして『神狩り』に助けを求めず、お前みたいな使えないド素人を頼った? この街に住んでいるなら知ってなければおかしいはずの事をほとんど知らない常識の欠如ぶりはどうしてだ。家はどこにあるのか、家族や友人は心配していないのか。通っている学校はどこなのか。……神門審判と会話をしたなら、俺の言った疑問をお前だって感じてるはずだ。違うか?」
「……」
違う、とは言い切れなかった。
アリシアとのこの短い付き合いの中で、違和感というか何かがおかしいと感じる点は、正直に言って無いとは言い切れない。
そして勇麻はそれらの違和感に気が付いておきながら、あえてそれを放置した。
いかにも複雑な事情を抱えていそうな少女を、助けるなどと宣いておきながら、深く踏み込む事を、深く背負う事を恐れて、何も聞かなかった。
勇麻はそれが彼女を傷つけないで済む選択なんだと自分に言い聞かせてきた。
でもそれは、
「お前、逃げてただけだろ」
黒騎士のその言葉に、勇麻の胸がズキリと一瞬鋭く痛んだ。
「おいおい、そんなもろに図星ですよって顔すんなよ。ポーカーフェイスくらいできるようになっといた方がいいぞー」
黒騎士はそんな風に適当に嘯いて、
「ま、お前が腑抜けた期待外れのションベン小僧だった、って事は別にどうだっていい話しだったな。本題から逸れちまった」
いけねーいけねー、と頭を搔く黒騎士。
一つ一つの仕草があまりにもリラックスしているので、不意にここが戦場だという事を忘れてしまいそうになる。
強者としての余裕を黒騎士は湛えていた。
それは端的に、今この場に黒騎士が敵として認めるような人物はいないという事を示していた。
「ま、このまま楽しくお喋りしてるだけでも俺は構わないんだけど、上からの命令的にそうはいかないんでな。面倒くさいけど、ちゃちゃっと仕事を片付ける事にしますかね」
「ま、まて! まだ俺は……ッ」
「これ以上俺から何か話した所で、お前はそれを信じるのか? だとしたらサル以下のレベルの馬鹿って事になるんだが……。それに、話を聞くなら俺なんかより適任な相手がそこにいるみたいだぜ?」
黒騎士はそう言うと、勇麻の背後を指差す。
首を回し、黒騎士が指差した先に目を向ける。
すると、意外な人物が勇麻の目に飛び込んできた。
そこに立っていたのは、レインハート=カルヴァートだった。
口元にべっとりとした赤い汚れを残し、黒剣が突き刺さった腹からは今も少なくない量の血液が流れ出ている。
美しい顔を苦しそうに歪め、刀を地面に突き立て杖替わりにするようにして、何とか立ち上がっているような状況だ。
まさしく満身創痍、こうして立ち上がっているだけでも辛いはずだ。
それでも彼女が立ち上がった理由は……、
「へー。その傷で立てるって事に驚きだけど、どうもそれだけじゃねーな。……お前、俺の攻撃の軌道を少しズラしたな?」
「黒騎士……やはり、アナタの策略でしたか」
「おー怖い怖い。そんな顔で見るなよ、せっかく久しぶりに会ったっていうのに、美人が台無しだぜ」
レインハートは黒騎士の軽口を無視して、
「どうもこちらの認識と、東条勇麻の認識が食い違っているような、気がしていたのですが……、嫌な予感という物は、つねづね性質が悪い事に、なかなか外れてくれない物、……なのですね」
「そこまで気が付いておきながら東条勇麻を説得できなかったのは、お前らのミスだ。そもそも敵である俺に文句を言うのは色々と筋違いだろ。……つってもまあ、お前ら姉弟に説得ってのもなー。求めるハードルが高い気もするな。お前らそういうの絶対苦手だろ?」
「アナタのような外道に、私達の事を分かったように言われるのは……ごっほ、がはっ。……非常に心外なのですが……。確かにその通りです。激昂する彼を上手く。なだめる自信も無かったので、手っ取り早く無力化して、後でじっくりと事情を聞こうと思っていたのですが……。ここまで粘られるとは正直予想外でした」
全てを理解したのか、レインハートの瞳には後悔の色が浮かんでいた。
それになにより、勇麻を見た時の彼女の顔が、申し訳なさそうに歪んでいるのが見えた。
勇麻はそんな彼女の態度も、二人の間で交わされる全て理解したような会話にも、そのどちらも鼻について、
「ちょ、ちょっと待ってくれ! おい、アンタ。これはどういう事なんだよ。アンタらもアリシアを狙っていたんじゃないのか? 一体何がどうなってやがるんだ。説明してくれよ!」
思わず小さな子供が駄々をこねるように、大きな声で叫んでいた。
そんな勇麻の様子を見て、ますます顔を歪めるレインハート。
彼女は未だ荒いままの、痛々しい息遣いをなんとか抑え、「いいですか、落ち着いて聞いて、くださいね」という前置きを挟んだ。
一度息を吐いて、やはり苦しいのだろうか、表情の落差の少ない顔を苦虫を噛み潰したように歪めると。
「そこの仮面の男が話した事は真実です。私達、背神の騎士団の目的は『神門審判』アリシアの迅速な保護と護衛。彼女を傷つける意思も……ごほっ、なければ。どうやらアナタ、達と戦う理由もなかったようです。黒騎士の策略に上手く乗せられてたとはいえ、何の罪も無いアナタ方。……には、大変申し訳ない事をしました。深く謝罪します」
今度こそ。
本当に今度の今度こそ、勇麻は自分の正気を疑った。
幻聴でも聞いているのだと、そう思った。
いや、思いたかった。
直接本人の口からその言葉を聞いた事で、絶対に信じないと決めていたハズの黒騎士の発言が、急におかしな現実味を帯びてきている。
話の前提が崩れてしまう。
敵は背神の騎士団じゃなかった? ならば本当の敵は一体どこだと言うのだろうか。
黒騎士は一体何者なんだ?
何が目的で、どこに所属し、何を考えているのだろうか。
そもそもの話し。仮にレインハート=カルヴァートの話しが真実だとして、なぜ背神の騎士団はアリシアの側に付くのだろうか。
か弱い女の子を助けるなんて、少なくとも天界の箱庭の崩壊を企むような悪の組織のする事では無いハズだ。
そんな風に、彼らの話を否定する為の根拠を、頭の中から無理やりに引っ張り出そうとする。
そんな風に必死になっている時点で、既に彼らの発言をどこか認めてしまっている自分がいるという事に、勇麻は気づかない。
「俺は……俺はアンタの話しを信じる事ができない。そんな風にこっちに都合の良い事を言って、俺を油断させる気か? 悪いがそんな手には乗らないぞ」
「……信じる信じないはアナタの自由ですが、私がアナタを……騙して、得られるメリットがありますか?」
「そんなの……」
「失礼ながら、アナタ達くらいの相手ならば、搦め手など使わずとも倒す事は容易です。正直に言って腹を……刺されてまでアナタを騙すメリットが一つもありません。まして私は今、命の危機に瀕していると言える状態です。ここでアナタに嘘を吐いて、反感を買うような愚かな真似をするハズが……ごばふっ。無い、でしょう」
苦しそうに言葉を紡ぐレインハートに、嘘を吐いているような素振りは何もない。話の筋だってキチンと通っている。
なのに。
でも、だけど、だって、けれど、だからって、しかし、しかしながら、それでも、なれど、されど、それでも、
そんな風に逆接から言葉を紡ごうとしてしまう。
「でも、だってアンタらは『背神の騎士団』なんだろ? 『天界の箱庭』をぶち壊そうとしてる組織の奴らが、何だって女の子を助けようとしてるんだよ。そんなのおかしいだろ」
勇麻の、思いついたからとりあえず口に出しました感丸出しの反論に、レインハートはあきれたように息を吐く。
依然、顔色の悪い彼女の身体が頼りなくフラフラと揺れているのに、勇麻の意識はそこに向きもしない。
視野を狭めている物の正体など、わざわざ問うまでも無い。
レインハートはかぶりを振って。
「それこそ根拠の無い妄信……だとは思わないのですか? 先ほどそこの男が言って、……いた事全てを正しいと言う訳ではありませんが、どこから拾ってきたのかも分からないような不確かな情報を、そう、やすやすと信じるべきでは……ッ、無いと私は思います。確かに私、達は『天界の箱庭』と敵対してはいますが、それイコール『悪』だと決めつけるのは、いくらなんでも早計過ぎるとは……思いませんか?」
「天界の箱庭とは敵対してるけど女の子の味方はしますよ、って言われて、それこそ信じられるかよ。もし仮にアンタらがアリシアの味方だって言うのなら、アリシアはこの街の敵って扱いになっちまうじゃねえか」
勇麻の指摘に。レインハートの言葉が詰まるのが見えた。
その様子を見て、ようやくまともな反論が自分の口から出てきた事に安堵する勇麻。
だがそんな心の安息は、一瞬で破られる事になる。
「おー、イイところに目ェ付けたな。その通りだよ」
そう横から口を出してきたのは、いつの間にそこまで移動していたのか、退屈げに南国風のヤシの木に寄り掛かった黒騎士だった。
「は? ……何を言って」
「だからよ。『天界の箱庭』と『神門審判』のアリシアは敵対してるんだって」
目を白黒させる勇麻を尻目に、当たり前の事を話すようなトーンのまま、黒騎士は口を開く。
「あー、でもあれだ。東条勇麻君よ、お前のその言い方にはちょっとばかし語弊があるな。正確には、『神門審判が天界の箱庭の敵』なんじゃ無くて、『天界の箱庭が神門審判の敵』なんだけどな」
「は? ちょっと待て意味が――」
「黒騎士。アナタ、それを……話す気ですか?」
「俺の勝手だろ。ちょっとした退屈しのぎに、コイツのリアクションが見たい気分なんだよ。あとその間抜け面も」
相変わらず軽さしか感じさせない黒騎士の態度に、レインハートは苛立ったような瞳を向ける。が、それは牽制にもなりはしなかった。
凍える冷気を放つ視線を無視して、
「そもそもだ。アリシア――――通称、『神門審判』はただの人間なんかじゃ無い」
楽しげに、なにやらもったいぶった喋り方をする黒騎士の言葉を、レインハートが掻っ攫うように継いだ。
「『神門審判』アリシアは、人の手によって造り出された実験兵器です」
衝撃が勇麻を走り抜けた。
痛いくらいの静寂は、果たしてどれくらいの長さだったのだろうか。
体感的にはひどく長く感じたその時間も、実際はほんの一瞬の出来事なのかもしれない。そんな事を現実逃避気味に、一瞬考えた。
そうしないとおかしくなってしまいそうになる程の衝撃を、先の言葉は伴っていた。
ただの人間じゃない。人の手によって造られた。実験兵器。
どうしようもなく不穏な言葉の羅列に、勇麻は軽い眩暈を覚えた。
「嘘……だろ。実験兵器? ふざけんなよ。お前らはアリシアが人間じゃないって、科学者が作り上げたロボットかなんかだって、そう言いたいのか?」
怒りの籠った目で、レインハートと黒騎士を順番に睨み付ける勇麻を見て、黒騎士は大きく肩を落とした。
勇麻のやや後ろに立つレインハートに視線をやると、
「おいコラ、カルヴァート姉。説明下手くそか。そうじゃないだろ。……てか、お前も結局喋ってるじゃねーか」
「アナタのような外道に喋らすくらいなら、げほッ、私の口から伝えたほうが賢明だと判断したまでです」
「ったく、これだから口ベタは……おい二代目、安心しろ。お前が今日デートしてた子は正真正銘の女の子だ。ロボットでもなければ、女装した男の娘でも無い、れっきとしたかわいこちゃんだ。よかったな、彼女いない歴=年齢君」
「なッ、それは今関係ねえだろ! それに、そうとは限んねえだろ!」
思わぬ不意打ちに勇麻は抗議の声を上げた。
こんな子供じみた挑発に乗ってしまっている時点で、完全に相手のペースだ。
だが勇麻はその事に気づいていない。
「てか、お前もいい加減分かっただろ?」
「何がだ」
「とぼけんなよ、神門審判の事だよ。神門審判」
黒騎士は、億劫げにヤシの木に預けていた体を起こすと、勇麻の方へ足を一歩踏み出した。
先の戦いでボロボロに砕かれ、剥がれたアスファルトの舗装が、黒騎士の靴底で不快な音を立てる。
そして楽しげな歌でも歌うように、
「なんと! アリシアという少女は、悪ーい科学者の手によって拉致、監禁、そして研究に実験と、それこそ人権もクソも無い、何の尊厳も無い生活を押し付けられてきた、哀れなモルモット! すなわただの実験動物だったのです!!」
そんな風に歌うように放った言葉が、
「そしてそれを助ける為に、背神の騎士団のカルヴァート姉弟は立ち上がりましたとさ。研究者達の隙を突いた彼らは、見事施設内に侵入しアリシアを救出。そのままアリシアと共に、施設から逃亡する事に成功したのでした――」
黒騎士の言葉と共に、勇麻の脳裏にアリシアとの何気ない一幕が次々と浮かび上がっては消えていき、
「あぁぁ、……うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああッッッ!!!?」
叫びながら、アスファルトの捲れた大地を、足の裏がしっかりと捉えていた。
身体の中で蠢く、行場の無いエネルギーの全てを前へ進む力へと変換し、それでも有り余った力を拳に込めて、唾を飛ばしながら振り抜いた。
「があぁっ!?」
「――だがしかーし!」
黒騎士の顔面目掛けて放たれた渾身の右ストレートは、しかし空を裂き、バランスを崩して前のめりになった勇麻の後頭部を、不意に背後に現れた何者かの掌底が襲った。
たいした威力も込められてない遊びのような一撃で、身体の制御を完全に失った勇麻は地面に沈み込む。
頭の中で星が弾けて舞い、削れてガタガタな地面に口づけをした。
倒れ込む勇麻の姿を背後から見下ろすその何者か――黒騎士は、勇麻の突然の突撃をたいして気にする素振りも見せずに、「だけれども」と改めて言葉を区切って。
「そこでめでたしめでたし、とはいかなかった」
黒騎士の言葉に唇を噛み締めたレインハートがそう続けた。
「……実験施設から逃亡の途中、大勢の敵に囲まれ、私達はアリシアとはぐれてしまった。……その結果が今のこの現状です」
「……は、はは、くそ。な、んだよ。それ」
「いきなりこんな事を言われても理解できないかもしれませんが……。神門審判アリシアは、人工的に異能の力を強化させられた神の能力者です」
レインハートの感情を感じさせない冷たい声が、熱帯夜を切り裂いていく。
「彼女は、『神の子供達』と。そう呼ばれる個体の一人です。故に彼女は――既に人の領域から外れた存在なのです」
神の子供達。
聞いたこともない言葉だった。
場違いにも首を傾げる勇麻に、レインハートは冷酷にも先を続ける。
「この言葉の意味が分からないのなら、それはきっとアナタが幸せだという事です。知らないほうがいい事も、この世の中には存在します」
追及を決して許さない声色だった。
レインハートの視線と言葉に凍りつく勇麻。そしてそれをを見て鼻で笑う黒騎士の嗤い声が、端的に全てを物語っていた。
「要するにアレは人間を辞めた『化け物』ってわけだ。分かるか、ヒーロー様」
「……俺は、お前らの言葉を信じられない」
「……あー、アレだな。自分で『敵の言った事を簡単に信じるのはバカだ』とか言っておいてなんだけど、面倒臭いな」
疲れたように息を吐く黒騎士を無視して、勇麻は言葉を続ける。
「だいたいさっきの話だって、全然信用ならないんだよ。結局、背神の騎士団がアリシアを助けようとする理由もよく分からない。何より、お前が今言った事にはまた一つ嘘が混じってる! その嘘を否定せずに肯定しやがったそこの女も嘘吐きだ!」
「へぇ……。嘘、っていうのは何のことだ? 俺は特大大サービスで、事実をそのまま語ってやったつもりなんだけどな」
仮面の奥で、黒騎士が目を細めとような気がした。
その伺い知れない彼の感情に、若干の恐怖を抱きながらも、勇麻は開く口を閉じようとはしない。
「ああ、教えてやるよ! アリシアはな、そこの二人を、レインハート=カルヴァートとレアード=カルヴァートの二人を『知らない』と、そう言ったんだ! 仮にアリシアが今の今まで、どっかの実験施設で監禁されていたとして、そこから助け出してくれた恩人の顔を忘れる訳がないだろ! それとも何か? アリシアが俺たちに嘘をついたとでも言うつもりか? それこそアリシアにとって何のメリットも無い嘘だろうが!」
言葉が怒りと共に噴出した。
湧き上がり頭に昇ってくるのは、真っ赤な血液か、赤よりも赤々しく迸る怒りの言葉か。
信じない。
信じたくないから、信じない。
そんな酷く身勝手な思いが、勇麻を支えていた。
何でその話を信じたくないのか、自分でもよく分かっていなかった。
勇麻は拳を叩きつけるようにしながら、自分の身体をどうにか起こして、
「ふざけんなよ。本人のいない所で人の事を実験動物だの、モルモットだの好き勝手言いやがって。その上自分達はアリシアの味方だと!? アリシアを救い出したのは私達だと!? 助けてくれた恩人にあんな怯えた目を向ける女の子が、この世のどこにいるんだよ! やっぱり俺は、その話を信じる気にはなれない。理由は分からないけど、お前らが結託して俺を騙そうとしているようにしか思えない!」
怒鳴り散らし、威嚇するように告げる勇麻に、しかしレインハートは表情を変えずに息を吐いた。
息と一緒に生命力も身体の外に出ているのか、先ほどよりもレインハートの足はおぼつかず、刀を杖代わりにしている状況でも、ふらふらと頼りなく揺れていた。
「……彼女は──アリシアは、嘘をついていません」
「ならやっぱり──」
「──ですが、私達も嘘は言っていません」
それでもレインハートは、はっきりと自分の言葉を形にする。
そこには個人的な誰かへ対する感情は籠もっておらず、ただ端的に真実のみを伝えようとする意志があった。
「おそらくですが、私達がアリシアを施設から助け出した、という事を、アリシアは覚えていない」
「?」
訝しむような勇麻の視線を真正面から受け止めるレインハート。
しばらく無言で視線の交錯が続く。
勇麻の目から見てもレインハートの顔は真剣そのもので、その瞳に揺らぎの色は無く、嘘を吐いているようにも見えなかった。
冷たさを周囲に与える瞳をどれだけ見ていただろうか。
不意にレインハートはキッと、視線を勇麻から外し、別の人物へと視線を向けた。
「……なんだよ。そんな怖い顔すると美人が台無しだって言ったろ」
「黒騎士。……アナタの仕業ですね?」
「だーかーらー。俺はお前らの敵だぞ? 文句を言われる筋合いは無いっつーの」
「……やはりそうでしたか」
「どういう事だ? アリシアに何かしたのか」
黒騎士は、二人からの非難の視線を両手を上に上げながらスラリと躱すと、肩を竦めて、
「はぁ。分かったよ、出血大サービスで教えてやるよ。あー、だからよ。アレだ、東条勇麻、お前が最初に神門審判に会ったときの事覚えてるか?」
「最初? ……」
アリシアとの出会い。
あれは忘れもしない、ほんの数日前の出来事だ。
勇麻は買い物の帰り道に、公園で倒れているアリシアに出会った。
あれが一番最初の邂逅だ。
アリシアは意識を完全に失っていて、あれだけの戦闘があってもピクリとも動かず、後で話を聞いた所、敵の罠──おそらくは『神器』──の影響で強制的に身体と意識を分離させられていたらしく──
「──ッ!? まさかお前ッ、『神器』で!?」
「御名答! お前がその単語を知ってるとは少し驚いたが……。まあ、アリシアにでも聞いたのか。そう、『神器』だよ『神器』」
黒騎士は両腕を横に広げ、勇麻に歩み寄ってくる。
静かに、ゆっくりと、だが確実に。
勇麻の中にあった前提が、子供の積んだ積み木のように稚拙な砦が崩壊していく。
「なーに、そう大したことはしてねえよ。神門審判の記憶をちょいと弄くらせて貰っただけだ。永続性もねえし、後数日もすれば元通りになるさ。ま、『砂の袋』なんて下級『神器』でも『神器』は『神器』ってワケだ。相手の意識を奪う程度で済む訳ないだろ?」
「なんでわざわざそんなこと……」
「いやさ、ちょっとした遊びみてーな一手のつもりだったんだがな。まさかここまでハマるとは俺も思わなかったさ。だから、ま、ソイツらや神門審判を責めるのは見当違いだな。なにせ、神門審判は自分を施設から救い出した人間の顔も名前も、ソイツらが名乗っていた正義の組織の名前も、綺麗さっぱり忘れてるんだから」
「ゲス野郎ですね」
「ははっ、生憎俺は美人さんになじられて興奮するような特殊性癖は持って無いんで、そんな事言われても嬉しくねーよ」
聞きたくも無かった事実が、東条勇麻の浅はかさを物語っていた。
要するに東条勇麻は、黒騎士の発言を真に受け、本来なら頼もしい味方になるかもしれなかったレインハート=カルヴァートとレアード=カルヴァートと殴りあい、弟と友人をいらぬ危険にさらし、ましてや助けを求めていたアリシアの信頼と期待を裏切った。
背神の騎士団が敵である。
その大前提が崩れてしまった時点で、もう勇麻にまともな策は何も無い。
全てにおいて考えが浅はかだった。
レインハートやレアードとの会話を思い返してみれば、こちらと噛み合わない点などいくらでもあった。頭に血が昇っていなければ、もっと冷静に対応できていれば、気が付くチャンスもあったハズだ。
そもそもアリシアがかかった罠が、おそらく『神器』であると分かった時点で、最悪の展開を考えておくべきだったのだ。
あの『天智の書』と並び評されるような物体の危険性を、見誤っていた。
あの人のように完璧にはいかない。そんな事は分かっていた。分かっているつもりだった。
でも現実は予想を遥かに超えていた。
無様だ。
こんな体たらくじゃ、誰ひとり助ける事はできない。
アリシアを助け出すと。
襲い来る理不尽から守り抜くと、そう決めたのに。
あの日誓った言葉はなんだったのか。
東条勇麻では、代理品にすら、偽者にすらなれないのか。
「なんだよ、それ……。俺がやってる事、全部空回りしてるじゃねえか」
「アナタに非はありません。むしろただの一般人であるアナタが、これだけ彼女の為に身体を張ったというその事実は、何事にも代えがたい価値ある尊い行いです。胸を張ってください」
慰めるような言葉をかけてくるレインハートの心遣いが痛かった。
勇麻は力なくかぶりを振って。
「違う、違うんだ。俺の理由はそんな褒められたような物じゃないんだよ……ッ。俺は自分の事しか考えてなくて、その上アリシアを助けようとしていた他の奴らに迷惑までかけて……。最ッ低だ!」
「はははっ! おいおいおい、カルヴァート姉! 傷口に塩塗るなんて、なかなかえげつない事するなお前」
「黒騎士、黙りなさい。アナタのような外道に、彼の行いを馬鹿にする権利はありません」
「いやいや、酷いのはお前だから。いやー、無自覚って怖いな」
黒騎士の嘲笑が勇麻の耳を打つ。
聞いているだけで頭痛が酷くなりそうな、耳障りな雑音だ。
結局、今回東条勇麻は黒騎士の掌の上でいいように踊らされていたのだ。
いいように騙され、レインハートとレアードを倒す為の駒として利用され、こうして目の前で無様をさらしている。
騙され利用されるだけじゃ飽き足らず、勇麻はアリシアの事情に踏み込む事を恐れ、彼女の事を知ろうとしなかった。
もっとちゃんとアリシアと向き合っていれば、黒騎士の策略にも乗らずに済んだかもしれないのに。
アリシアが拉致や監禁を受けていたという事実にも、何となく気付いていた。
なのに、見て見ぬふりをしたのは勇麻だ。
なんて滑稽で、気持ちが悪いヤツなんだろう。
自分で自分に吐き気がする。
そんな風に自分を蔑んでも、やっぱり、この不気味に笑う不吉な仮面のほうが大嫌いだ。とそんな事を考えて、
ふと、一つの疑問が勇麻の頭をよぎった。
「……おい、背神の騎士団がアリシアを守る側ってのは分かった。ならアンタらは一体何からアリシアを助けだしたんだ? てか、そこの仮面男は背神の騎士団じゃないなら、一体なんなんだ?」
「背神の騎士団の敵など、数える程しかいない上に、だいたい大元を辿れば自然と一つに行きつくと思うのですが」
「いいから教えてくれ」
「アリシアを拉致、監禁、管理、研究していたのは『創世会』です」
レインハートの口から飛び出した単語はある意味では予想通りな物だった。
「……ちょっと待ってくれ。創世会ってあの創世会か?」
「質問の意味が、わかりませんが……?」
「冗談だろ……」
だが、その聞きなれた単語が勇麻に与えた破壊力は、想像を絶する物だった。
「アリシアの敵が、創世会。それってつまり……」
勇麻は自分で言っていおいて、頭がどうにかなるかと思った。
こんなの狂っている。
天界の箱庭はいつだって神の能力者にとっての楽園だった。
だれより優しく自分たちを受け入れてくれたこの街こそが、『正義』だった。
そして創世会は、この天界の箱庭の頭脳であり心臓だ。
それはつまり創世会はこの街の中心であり、神の能力者にとっては『正義』の象徴だ。
なのに、その創世会が敵だった。
それはつまり、
「この街が、『天界の箱庭』がグルになって、アリシアを拉致監禁してたのかよ!!」
クソッ! と毒づく勇麻を見て、黒騎士が嗤った。
「随分動揺してるんだな」
「当たり前だろ! 創世会が絡んでるなんて……絶対におかしいだろ。なんでだよ、この街は他のどこより『神の能力者』に優しいんじゃなかったのかよ。アリシアみたいなただの女の子を良いように使って、何をしようとしてるんだよ……」
「それをお前が知ってどうする?」
黒騎士の問いに、答えなど決まっていた。
「止めるにきまってるだろ!」
「へー。いい度胸だが、お前じゃ絶対無理だ。やめとけ、諦めろ」
深い絶望と失意の底、浮かんできたのは怒りだった。
アリシアを襲った理不尽の黒幕と、それに挑む権利を笑う腐った大人。
自分の不甲斐なさも、無様も、失望も絶望も怒りも何もかも! 勇麻の感情の矛先が一点に集約される。
消えかけていた闘志に再び火が灯る。
「諦めろ? 笑わせるなよ」
無理だって事は百も承知だ。
そもそも、こうしてアリシアを守ろうとしたこと自体、ほぼ不可能に近い事を理解したうえで挑んだのだ。
できるかどうかの可能性で諦められる場所に、既に勇麻は立っていない。
「敵が大きければ大きい程、『主人公』ってのは燃えるモンだろうがッ!!」
ならば進もう。
あえて、茨の道を。
誰かが傷つくのを見ているくらいなら、自分が代わりに傷ついてみせる。
そう決めたあの日から、東条勇麻はあの人の代わりになりたかった。
今はまだ偽物にもなり切れ無い、半端な紛い物だけど。それでも、あの日の決意は嘘じゃない。
それだけは偽物なんかじゃない。
「面白い! そんなに知りたいなら見せてやる。この箱庭の闇を。そんなに知りたいなら聞かせてやる。アリシアという名前の、かつて少女だった人間だった者が歩んだ、悲惨な道のりを。そんなに知りたいなら教えてやる。人間を忘れたアリシアという名前の化け物が、これから進む道のりには死と絶望と悲しみしか無いって事をよぉ!」
吠えた勇麻に向け、凄惨に笑う黒騎士が語るのは、昔々の物語だ。
「救いの一つさえ残されていない、『神』とやらに見初められた。哀れな少女の物語を」
終わってしまったが故に、もう取り返しの付かない。既に不幸で締めくくられた、少女だった誰かの物語を。
「『汚れた禿鷲』所属、黒騎士。知りえる事全てを今、ここに語ってやろうとも!!」
黒騎士はまるで愛しい恋人を向かい入れるかのように両手を広げて、
「『影幻』ッ!!」
次の瞬間、全てを闇が呑み込み――――勇麻は、自分の意識が飛ばされる感覚を覚えた。




