第二十話 対抗戦三日目Ⅰ――夢の終わりは朝の始まり:count 5
気が付くと東条勇麻は“そこ”に居た。
深い深い海の底。
光の届かない深海に差し込む光のような、世界と世界の継ぎ目が置き去りになっている、夢の海。
(ここは……このまえの……)
勇麻はまたも大きな扉の前に立って、向こう側の世界を眺めていた。
夢の世界。東条勇麻の夢のようで、確実にそれだけではない、少し不思議な記憶の中の過去の世界。
いつからここにいたのだろう。
いつまでここにいるのだろう。
分からない。ただ、一つだけ確かな事があるとすれば、やはり目の前に広がるこの光景こそが、今この瞬間は全てであるという事だけだ。
「――ねえ、君。南雲くん……だったかな? そこで何をしているんだい?」
学校からの帰り道だった。
誰とも話さず、誰とも帰らず、ただ一人で校門を後にした南雲龍也に話しかける影があった。
南雲は声に対して首だけをぐるりと回して、大した興味もなさげに後ろを一瞥する。
「……そういうお前は海音寺流唯、だっけ? 何をしてるかって言われたら、そうだな……聞いて驚くなよ? 俺は今学校から家に帰っている途中ってヤツだ。」
ホームルームが終わるとすぐに帰ってしまう南雲を急いで追いかけて来たのだろう。額に汗を浮かべた優男に、南雲は友好的でも非友好的でもない。極めて他人行儀な付かず離れずな距離感で対応している。
やはり勇麻の記憶にはない。誰とでも仲の良かった南雲龍也らしくない南雲龍也だった。
この時点の時系列で言えば南雲と勇麻が出会ったのは去年の夏。だから此処にいるのは勇麻も知っている南雲のハズなのだが……。
(俺たちの前と高校とじゃキャラっつーか雰囲気が全然違う。こっちの龍也にぃは何て言うか……近寄りがたい感じだ)
どちらが本当の南雲龍也なのか、などという問いは愚問であろう。
どちらも等しく正しく、南雲龍也という男の一面であるのだから。
「それで、学級委員長さんが俺に何か用?」
言外に敷かれた境界線。ここから先へ踏み込む事を許さないフィールドのようなモノを張る南雲に対して、海音寺は持ち前の嫌味の欠片もない爽やかな笑みで、ずけずけと領域内へ踏み込んで来る。
「僕らがクラスメイトになって一週間経つけど君とは一度も喋った事がないなと思ってね。……いや、それ依然に君が誰かと楽しげに喋っている所を見たことが無かったから、ちょっと気になってたんだ」
「ふーん、なるほどね。そんな事にまで気を遣って、学級委員長って大変なんだな。でも、それってお節介が過ぎると思うぜ?」
皮肉を効かせた南雲の笑みに、海音寺は一度ポカンとした表情をして、
「委員長? 違うよ。そうじゃなくて、単に僕が君の友達一号になってやろうって思っただけさ。ほら、一番って何でもお得感がある気がするだろう?」
「……何だそれ、変なヤツだなお前」
「はは、入学早々自らぼっちの道を爆進しようとしてる南雲くん程じゃないよ」
「……お前さ、ホントに俺と友達になろうって気あるの?」
それから海音寺と南雲の不思議な鬼ごっこはしばらく続いた。
逃げるように一人帰る南雲と、それを追いかける海音寺。南雲は複雑な裏道や抜け道、近道の類を良く知っていて、いつも途中で海音寺は撒かれてしまう。それでも海音寺は懲りる事無く毎日南雲を追いかけた。
一緒に帰ろうとした。
「ねえ、南雲くん。今日はどこへ行くんだい?」
「お前がストーキングを辞めるって言うなら教えてやるよ」
「酷い言い草だな、僕はただ友達と一緒に帰っているだけじゃないか」
「誰と誰がいつ友達になったんだって? ストーカーは皆そうやって言うらしいぜ?」
この不毛な言い争いを見ていると、何だか南雲龍也が勇麻達と変わらない、どこにでもいる年相応の高校生のように見える。
いつだって完全無欠な英雄であり、頼れる年上のお兄さんだった南雲龍也からはかけ離れていた。勇麻の前では決して見せる事のなかった一面だ。
だが、それでも南雲龍也はやはり南雲龍也だったのだろう。
「――。」
昼休み、南雲が一人で昼食を取ろうとしていた時の事だった。偶然校舎裏で偶然目撃したのはイジメの現場。とは言ってもリンチだの、カツアゲだの、そこまで大袈裟な話じゃない。
馬鹿にして遊ぶと面白いヤツがいるからまた遊ぼうぜ、それくらいの軽い気持ちで行われる、特定の人物の持ち物を隠して遊ぶだけの、些細な嫌がらせの現場だった。
学校ではよくある話だ。自分には関係ない。誰だって標的にはなりたくない。触らぬ神に祟りなし。
そんな言葉で一〇人がその現場の前を通れば一〇人が通り過ぎてしまうような状況で、南雲龍也は立ち止まり、当たり前の怒りを露わに当たり前に声を荒げる人間であった。
朝から胸糞悪いモノを見せられた。誰かを虐げる事でしか自尊心を満たせないゴミ共へ拳を握り締めて殴りかかろうとしたその時。
「――そこで何をしているんだい。高橋くん、若松くん、佐々木くん、名立くん」
にこやかな笑みを湛えた海音寺が、誰もが見過ごすその場所へと一切の躊躇なく踏み込んだ。
「そのうわばき、片山くんの物だよね? 最近さ、片山くんの私物が立て続けになくなっててね。彼、かなり困っているみたいなんだ。もし他にも盗んだ物があるんだったら、返してやってくれないかな?」
「盗んだ? 人聞きが悪いな、海音寺。俺達、宝探しゲームやってるだけだぜ? 片山とは話つけてんだよ、俺らが隠して、あいつが見つける。制限時間内に見つけりゃ俺らが奢り、見つけられなきゃ片山の奢り。どうだ、なかなか愉快なゲームだろ? お前もやるか?」
「……僕は遠慮しておくよ。それから、何か勘違いをしてるみたいだから正しておくけど、片山くんは嫌がっていたよ。君達に複数人に囲まれて脅され、無理やり従わされてるって――」
依然として爽やかな笑みを湛え、感情の底を見せようとしない海音寺の声を、若松と呼ばれた男子学生が遮った。
「――あー、しけるわ、マジで。ノリ悪いなぁ、コイツ。海音寺、なんなのお前? ガッキューイインチョーってそんな偉いの?」
「てか、うわばき以外の物まで俺らのせいにされててウケるんだけど。片山のヤツがトロいから失くしただけだろ? 上から目線でうぜえんだけど」
「つかよ。俺らの友情にケチつけてよぉ、人のことを盗人だかイジメの主犯みてえに言いやがって。お前、これで冤罪だったらどーする訳? 俺らすっげー嫌な気持ちになったんだけど? なあ、これってイジメじゃね?」
「てか、この歳になってマジでこういう事やるやついんだな、マジおもろいわ。てか空気読めよ空気。今時おまえみたいなアホくせえ真面目くん流行らねえぜ? 先公に媚びでも売ってんのかよ気持ちワリィ」
「てか、俺らが上履き見つけてやったとは思わない訳? なんかさ、そーやって先入観で判断するのって良くないと思うぜ、イインチョーさん」
嗤いが続く。嗤いが続く。嗤いが。続く。一人の声を皮切りに、数的に有利に立つ高橋達は好き放題に海音寺を罵倒する。罵って攻撃して痛めつけて、そうやって快感を得る。
多数決のルールが場を支配し、正しいハズの人間を壁際まで追いやっていく。
群れなければ何もできない醜く唾棄すべき小悪党達が、ちっぽけな正義を掲げる孤立した時代遅れの獲物を見つけ舌なめずりする。
そんなこの世界の絶望の縮図のような光景の中、
「僕の事を何て言おうが別にかまわないけど、」
海音寺流唯はそれでも揺るぎなくただ独りで正さを貫いた。
「嘘をつくのは正しくない事だと思うよ」
海音寺が付きつけたスマホの画面。そこに表示された写真には、若宮達が片山の下駄箱を物色している動画が映し出されていた。
そしてもう一つ、ボイスレコーダー。ここでの会話を録画していた、だけではない。静まり返る空間に流れてくるのは、集団で片山を脅す若宮達の声だった。
「――ッ!!? な、なんでそんな物を!?」
「僕がこんな事言うのもおかしな話だけど、悪い事をするならもっと周りに気を遣った方がいいんじゃないかな? 雨のない日の水溜りなんかは特にね」
「……ざっけ、やがって……! くそッ! おい、あいつのスマホを奪え! 証拠さえなければ先公なんざ何もできねえ、こんなヘナっちいヤツ四人ならどうとでも……っ」
胸糞悪い光景を見たハズの朝は、
「――よ、海音寺。こんなところでなにしてるんだ」
「南雲くん……?」
「ちなみに俺はお昼の清掃活動ってところだ。学生たるもの、地域に貢献しなきゃな。――暇なら手伝えよ、海音寺」
何故だろう。いつもより少しだけ心躍る朝になった。
――直後、人の肉を打つ鈍く原始的な打撃音が連続して響いた。
「……ったく、ヤンチャがすぎんぞ委員長。お前らの取った行動は尊く称賛されるべきものではあるが――それは俺の仕事だ。お前らが傷付いてまで背負うべきじゃない」
「すみませんでした、槙原先生……」
「ま、お前ら視点じゃねーと今回みてえな件はなかなか気づかんモンではあるんだが。……とにかく、今度からは勝手に突っ走らず一回俺に相談しろ。こう見えて俺も教師だ、頼りなく見えるかも知れねーが、お前ら生徒の悩みや問題をどーにかするのが俺の仕 事なんだしな」
「……はい、次からはもっと早くに相談します」
「おう、分かってくれりゃいーよ。……それから南雲、お前もだ。クラスの皆を常に気にかけてるのは知っちゃいるが、達観したよーに輪の外から眺めてるつもりなお前に言っておく。――自分を見せる事を怖れるな。大丈夫、世界は広い。お前がどんな大馬鹿野郎でも、お前を受け入れてくれる人間ってのは案外いるモンだぞ。……意外とすぐ近くとかにな」
槙原は南雲の胸に軽く拳を突き立てると、ニヤリと口の端を歪め踵を返して行った。
「……」
あれからすぐ、騒ぎを聞きつけた先生達に取り押さえられ、海音寺と南雲はその場で散々説教を喰らう羽目となった。
高橋達は片山の上履きを隠した件について、さらに詳しく話を聞くため職員室に連行。
残された南雲と海音寺は担任である槙原萌の説教とも言えない説教を受けていた、という訳だ。
片手をあげて校舎へと戻っていく槙原の背中を何と無しに見送って、それから、二人揃って壁に寄り掛かり空を見上げる。
「なあ、海音寺。お前ってよく変なヤツって言われるだろ」
「なんだい藪から棒に」
「……俺は言われたよ。――『お前は頭がおかしい』ってさ。俺はただ、正義の味方でいたかっただけなのにな。なあ、知ってるか? この時代、誰かを助けることすら周囲の顔色を伺わなきゃならないらしいぜ? ……海音寺、お前が何かと理由を並べて俺に近づいたのって俺が独りだったからだろ?」
「南雲くん僕は……」
「今日のを見て……いや、ホントはそれ以前から分かってたよ。お人好しなお前は、委員長とかそういうの依然に、仲間外れとかそういうのが許せないヤツだ。例えそれがどんな馬鹿野郎でも、一人ぼっちを放っておけないヤツなんだよな、お前は」
嘘をついていたこと、そして黙っていたことへの後ろめたさからか珍しくその表情を曇らせ俯く海音寺。しかし南雲は彼の予想とは裏腹に、心地よさげな笑みを浮かべて、
「ありがとな。なんだかんだ言って嬉しかったよ、俺と同い年のヤツにお前みたいな変なヤツがいてさ」
「……それって褒めてるの?」
「最上級のつもりだけど?」
ぱちくりと目を瞬かせ尋ねる海音寺に、それこそ真顔で頷く南雲。
しばし二人の間に沈黙が降りて、
「うん。やっぱり君は僕が見込んだ通りのとびきり変なヤツだな……!」
海音寺は、嬉しそうに笑った。
そうして、二人きりの鬼ごっこはいつの間にか二人喋る帰り道へと変わっていた。
「今日は機嫌が良さそうだね、龍也。何か良い事でもあった?」
「べつに、いつも通りだけど」
「ねえ、龍也って子供好きなの?」
「――ぶふぉっ!!?」
「おお、面白いリアクションだ。珍しい」
「お前な、唐突に何を言い出して――」
「この前、たまたま公園で小っちゃい子と遊んでる所を見かけちゃってさ、その時の龍也が楽しそうだったから」
「……。子供は裏表がない。真っ直ぐで純粋だ。悪い事と良い事をちゃんと教えてやれば、ちゃんと分かってくれる。俺はさ、海音寺。もっとちゃんとしたいんだ。正義と平和を愛する善良な馬鹿どもが報われて幸せで、悪人が因果応報に裁かれる、そんな世界じゃなきゃダメだろ」
「……僕もさ。正しい事を、僕は貫きたいよ。正しさを貫く事を、誰にも笑われない世界になって欲しい。正しい事が恥ずかしい事だなんて、そんな考えがまかり通る世界は間違っているから。正しくないから」
どこか哀しそうに遠くを眺めて答えた海音寺に、南雲は不敵にイタズラ気な笑みを浮かべて、
「海音寺、お前も一つ間違ってるぜ」
「え?」
「なって欲しい、じゃないだろ。俺らで変えるんだよ。……ほら、今日は北ブロック第四エリアまで行くけど、どうせ暇だろ? 変人くん。付き合えよ」
「……今日も清掃活動かい?」
「まっ、似たようなもんだな!」
「……とか言って、この前みたいに孤児院に脅しをかける地上げ業者もといヤ○ザさんに殴り込み、とかは学生としてどうかと思うよ、僕は。……ま、君の場合止めても無駄だろうから、監督役が必要か」
「とか言って、実はビビってんだろ海音寺? ゴミ拾いも、ヤーさんのお掃除も、どっちも似たようなモンだと思うけどな俺」
「うーん、ごめん龍也。その感覚は相変わらず理解できないかな……」
苦笑を零しながら南雲を追いかける海音寺。
そこはかとなく物騒な言葉が飛び出してはいるが、楽しげに駆け出す二人の姿は、放課後の寄り道を友達と楽しむどこにでもいる高校生にしか見えなくて――勇麻には何だかとても、とても幸せで尊い物に見えたのだった。
この二人の物語をもっと見ていたい。そう思った矢先、
(あっ……まて、まだ俺は――)
始まりが唐突なら、終わりも突然だ。
走り出した二つの背中がぐんぐんと遠ざかる。またも意識が浮上する感覚と共に、世界は唐突に途切れ、無慈悲な終わりを勇麻に突きつけた。
☆ ☆ ☆ ☆
三大都市対抗戦三日目を迎えた天空浮遊都市オリンピアシスは今日も快晴に恵まれ、過ごしやすい気候で観客や選手達を歓迎していた。
「……もう朝とか、嘘だろ……」
ベッドの上、カーテンの隙間から嫌がらせのように顔面目掛けて差し込む光によって強制的に起床を促された勇麻は唸るように文句を言った。
あまりよく眠れなかった。
やはり眠っている間の夢の記憶は鮮明に残っている。
あの夢のせいで眠りが浅くなっているのか、脳味噌をフル回転させた直後のような疲労感が頭に残っていた。
いや、そもそも昨日は中々寝つけなかったのだ。
海音寺と共に潜った最下層。そこで見つけた、この天空浮遊都市を浮遊させている動力原となっている神器、『匣の記憶』。
忘れていた記憶、忘れたかった記憶を見せると言われている神器に触れて、勇麻は己の過去の情景をスナップ写真を脳内に直接張り付けられるよに乱雑に見せつけられた。
忘れていた記憶ではない。
忘れていたかった記憶。忘れる事の許されない心の傷。
そして忘れられるはずがない記憶に存在する、ただ一つの欠落を。
そしてもう一つ、自身の記憶とは関係なく、絶えず勇気の拳を通して勇麻の中に響いていた謎の少女の悲痛な声。
どこかで聞いた気がする声の彼女が何者なのか、今もどこかで助けを求めているのか、それとも単に何処かの誰かの記憶の一部が匣を通じて勇麻に流れ込んできているだけなのか。
何も分からない。だからと言って、分からないからで放置してしまうには、助けを求める少女の声はあまりにも悲痛で悲惨な声色を帯びていて、鋭く勇麻の胸を切り裂いてくる。
あのまま放置していいとは思えない。だが、現時点では手掛かりが少な過ぎて行動さえ起こせないというのが現状だ。
(それに、考えるべきはそれだけじゃない。この中途半端にパズルのピースだけ見せられてるみたいな状況を何とかしねえと……)
あの後、楓達の元へ戻ってから長時間応援もせずにどこへ行っていたのかを誤魔化すのが大変過ぎてゆっくりと考える余裕もなかった。
だが、考えてみれば様々な疑問が湧き出してくるのだ。
例えば、そう。
そもそも海音寺流唯は、何故『匣の記憶』を探して最下層へ降りようとしていたのか。
『天空浮遊都市オリンピアシス』の秘密を探っている……というのは確実に嘘だろう。海音寺は最初から『匣の記憶』について知っていた。
元から、『匣の記憶』を求めて最下層まで降りようとしていたのだ。
だがその理由が分からない。
おそらく海音寺は『創世会』に対して何らかの疑念を抱き、敵対している。スネークの反応からも、勇麻達の敵ではない事は確かだ。
それになにより、南雲と楽しそうに笑いあい、共に正義の味方をしている海音寺流唯という男を、東条勇麻は疑う事ができなくなっていた。
なんというか、こんな事を言うのもおかしな話かも知れないが、物語の登場人物に感じるように、海音寺流唯に愛着のようなものを持ってしまったのだ。
夢の中、高校生の海音寺流唯は『正しさ』を貫きたいと、そう言っていた。
ならばこれも、彼の言う『正しさ』を貫く為に必要な事なのだろうか。
そもそも彼の言う『正しさ』とは、一体何なのだろう。
勇麻はまだ知らな過ぎるのだ。
過去の事を。
海音寺流唯の事も、そして南雲龍也の事も。




