第十六話 一日目の終わりⅠ――混沌へ進みゆくシナリオ:count 7
『天空都市オリンピアシス』で行われている『三大都市対抗戦』、その第一種目が終わりを迎えようとしていた丁度その頃。
特殊な結界で守られた街の中の人々は知りえぬ、戦いとも呼べぬ一方的な虐殺が大空では行われていた。
五〇〇〇メートルの空中に幾重もの血の華が咲き誇る。
――圧殺。
分子レベルにまで圧縮され爆散する白衣が、次の瞬間には嫌らしい笑みを湛え佇んでいる。
――撲殺。
白衣の男が、
――刺殺。
汚ならしいその笑みを、
――爆殺。
変わらず湛え、
――熱殺。――櫟殺。――銃殺。――絞殺。――射殺。――斬殺。――毒殺――惨殺。――滅殺。――瞬殺。
パンドラの前に立ち塞がる。
ありとあらゆる方法で苦しめ、殺し、壊して、けれど白衣の男はそこに立ち続ける。
殺しても死なないのではない。パンドラの放つ一撃一撃は確実に白衣の男の息の根を止め、その心臓を停止させている。
だが、いくら殺しても世界に存在し続ける、殺しても存在が世界から消滅しない。それが白衣の男の不死性であった。
「ふむ。なるほどな」
戦闘開始からかれこれ三時間。
一万一〇一体目の白衣の男をブロック状に分解してサイコロステーキのように焼き殺しながら、パンドラは退屈げに呟いた。
「やめじゃ、興が冷めた」
「おや、殺しきれないと悟り諦めになるのですか?」
いつの間にそこに現れたのか、あるいはいつからそこに居たのか。紫髪の幼女の背後、一万一〇二体目の白衣の男が余裕の笑みを浮かべたままパンドラに向けて肩を竦めて見せる。
「ぬかせ、人間。貴様のような愚図を何千何万潰したところで何の慰みにもならぬというだけじゃ」
対してパンドラは声の主へ振り返る事もなく、本当につまらなそうにそう吐き捨てて、
「それにどうやら、貴様を殺し尽くすべき者はどうやら吾輩では無いらしいしのぅ。“これくらいで残してやらねば”ならんようじゃ。吾輩は運命の奴隷でも信奉者でもないが、運命を切り開こうと可能性に手を伸ばす愚か者は好ましい」
「?」
パンドラの言葉の意味がいよいよ分からず眉を潜める白衣の男。
それを無視して、幼女の姿の『特異体』はふかふかの雪へそうするように身体を後ろへと投げ出し、その場で仰向けになった。
敵前だという事にも構わずそのまま大の字になると、時計の針のようにゆっくりと回転する。幼女の『特異体』は一八〇度回転し足の先を白衣の男の方へ向けて、そしてそのまま大して興味も無さげに問いかけた。
「……貴様は、自身の不死性がどのようなモノか理解は及んでおるのか?」
「? そんな話が貴女様を足止めする為に必要な事だとは思いませんが」
「……ふん、なるほどな。『探求者』も人が……いや、“神”が悪い。ま、吾輩には何がどうなろうとどうでもよい事なのじゃが」
ニヤリ、と。パンドラの口の端がほんの一瞬嗜虐に歪んだ直後だった。
ゆらり。まるでワイヤーに吊るされているかのように、手足をぴくりとも動かす事なくパンドラの肢体が起き上がる。
くだらないと、まるで路傍の石ころを見るような瞳で白衣の男を射ぬき、
「――やれ」
「――かしこまりました」
一言。ただそれだけだった。
今までパンドラの背後で静かに控えていた老執事が、旋風のごとき速度で白衣の男の懐深くへ潜り込んだ。
本心からの驚愕に、白衣の男の瞳が見開かれる。そして、何が起きたか理解も及ばぬまま、白衣の男の腹部に凄まじい衝撃が走り抜け、弾かれるようにその身体が吹き飛ばされた。
(なっ……にっ。がッ、ァ……あ!?)
世界が一瞬で遥か前方へ流れ行く幾重もの線となり、自身が砲弾のようにかっ飛んでいるのだとようやく理解する。
接近された際と同様、またしても老執事の動きを捉える事ができなかった。
回避はおろか、反応することさえ不可能なただの蹴り。その人外の威力に腹部が破裂し内臓が空の青にぶちまけられ鮮やかなコントラストを描く。ソーセージのような小腸が、まるでこいのぼりの吹き流しのように風に煽られ空を泳いでいる。
だがそれだけ。
絶妙な加減で繰り出された蹴りは頑丈な神の能力者の身体に風穴を開けるに留まり、白衣の男が待ち望む死は一向に訪れない。
これはまずい。白衣の男の神の力は死ぬことによって始めて発動する。
死ぬことができなくなれば、白衣の男はいくつかの暗殺術を極めた空を飛べるだけの単なる人に過ぎない。
曖昧になる意識の中、歯の裏に仕込んだ自決薬を飲み込もうとしたその時だった。
「非常に心苦しいのですが……。しばしの間、苦しみ続けて頂きます。お覚悟を」
「!?」
時速数百キロの速度で吹き飛ぶ人間に平然と並走する老執事という悪夢のような光景に、白衣の男は苦笑をこぼすしかなかった。
命を奪わず意識を奪い、苦痛と破壊だけを広げる悪魔じみた拳が、白衣の男へと一切の情け容赦なく振るわれた。
直後。盛大な地響きと共に、オリンポス山の中腹に直径一キロのクレーターが生じた。
☆ ☆ ☆ ☆
「さて、こちらも始めるとするかのう」
静かになった空に一人立つ幼女が、感情を殺して呟いた。
頭を苛む頭痛は時間を経るごとに酷くなっている。だがそれでも、構わない。
パンドラは友の為、この世界に厄災を齎す。例えエルピスがそれを望まないとしても、パンドラはもう止まれない。自分を止める事ができない段階まで来てしまっていた。
パンドラの視界にもうあの目障りな白衣が靡く事はない。
実際のところ、パンドラがその気にさえなれば白衣の男の足止めなど無視して結界を壊す事も容易ではあった。
だがそれでも、あのような虫ケラに視界の端にチラつかれると目障りではある。それに、無駄だと分かっていても結界の破壊を捨て置いてついつい殺したくなってしまうのだ。
まるで視界をうろつく醜悪な蠅だ。追い払わずとも仔細ないとはいえ、心を苛立たせてしようがない。
そういう意味では、白衣の男はパンドラの足止めを果たすのに適任であったのかもしれない。
煮えたぎっていた殺意をゆっくりと収め、頭痛を無視する。湧き立つ湖面を静謐な水面へと整えて行く感覚で精神を集中させていく。
アメジストめいた美しい瞳をすうっと細め、その掌を逆さ円錐の大地へと翳す。
パンドラは起動状態のまま待機させていた『万能の匣』を発動。
万能の可能性から結界を破壊するという可能性を手繰り寄せた一撃が、『シーカー』の手によって張られていた結界を木っ端微塵に破壊した。
拍子抜けする程、あまりにも呆気なく、『特異体』の一人が施した守護結界が破られる。
ばらばらと崩れ、空気に溶け入るように消えて行く結界魔術を眺めながらパンドラは嘆息する。
「ふん、この程度の結界で侵入を防げるなどと思われるとは、吾輩も舐められたものじゃ。実感として、ここまで大がかりな魔術を使ったのは初めてだったのじゃが、何て事はないのう。この分なら『探求者』もあっさりと――」
だが。
結界が破壊された次の瞬間だった。パンドラの鋭敏な感覚が、何か別の『魔術』の起動を感じ取った。
「――ッ!?」
知覚と同時、シーカーが結界を隠れ蓑に張り巡らせていた狡猾な罠がパンドラを襲った。
それは、結界に守られるようにして隠されていた。
ブラックホールのように口を開いたその黒い靄は、パンドラに絡み付き、その小さな身体を内部空間へと引きずり込もうとしてくる。
「くっ、これは『結界』を生命体に見立てた仇討ちの呪い……!? ……いや、違うのじゃ。これは単なる『魔術』ではない! あやつ、『星の管理者権限』による『時の牢獄』じゃと!?」
しかもこれは厳密にはシーカーの『魔術』ではない。故に、かの『特異体』の魔力の痕跡が存在せず、事前に察知するのはほぼ不可能という超極悪な初見殺しっぷり。
(――不覚、気付かなかったっ! あれほど大規模な結界を隠れ蓑に、こんな大掛かりな罠をしかけていたなど……! そもそもあの結界は、吾輩の侵入を阻止する為の守護結界などではないっ! 結界内部の状況を悟らせない為に吾輩の目を狙いから逸らさせるデコイ……!)
なおかつ“今のパンドラは目覚め始めてはいるものの”『魔術』の扱いになれていない。戦闘経験も浅く、『魔術』を扱う『特異体』同士の戦いなど未経験も同然の状態。張り巡らされた知謀策略を見抜くだけの戦術眼を持ち合わせていないのである。
いつも彼女の傍らに侍る老執事がいれば結果は違っていただろう。
歴戦の戦士でもある彼ならば、おそらく途中で違和感に気付き、何らかの対処を行う事も可能だったはずだ。あるいは、『匣の記憶』があれば――
だが『シーカー』はそれすらも予測した。故に“白衣の男”の役割は『足止め』。しかしそれは『特異体』であるパンドラの足止めではなく、彼女の傍に侍る“老執事の足止め”であったのだ。
かくして全ては予定通り。
『探求者』の望むシナリオに沿って、『特異体』までもがその掌の上で踊る。
絡み付く時間に押し込まれ、パンドラは地球という惑星に存在する時という概念に呑み込まれていく。
脱出不可能な『時の牢獄』。
地球という惑星が縛られ続ける、時間という概念の檻に閉じ込められた者が辿る末路は一つ。
竜宮城の浦島太郎、稀代の大法螺吹きサンジェルマン然り。
――時間旅行。
すなわち、『星の管理者権限』を持つ『シーカー』による任意の時間への転移である。
☆ ☆ ☆ ☆
『創世会』本部ビル。
「ふむ。その姿だと相変わらず詰めが甘いな『厄災の贈り物』よ」
死灰のような色合いをした長髪を掻き上げ、その男は一人チェスに興じながら此処では無い何処かを眺めて微笑を浮かべていた。
「本来、人類史を破綻させかねないオーバーテクノロジーや異分子を世界から一時隔離し急速な発展および退廃による滅びを回避する為のシステムだが、使い方によってはこういう小細工も可能という訳だ。今、貴女の干渉を受けると全てが破綻しかねないのでね。また七日後に会おうではないか、愛しい愛しい我が同胞よ」
クイーンの駒を愛でるようにその手に、シーカーはほくそ笑む。
思いを馳せるはこれより七日後。
神を模倣し者の物語は、ついぞ終結へ至るのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
「狡猾の蛇……」
「ああ、分かってる。結界が破られた」
「という事は」
「まあ『厄災の贈り物』のヤツだろうな。……もう猶予もない。『探求者』がじき動く。『設定使い』、俺に掛けていた『設定』を解除しておけ。結界が破られたなら、『神性』を押さえておく必要なんざどこにもねえ」
「それは構わないが、貴様……これも想定のうちだとそう言うつもりか?」
「想定内? まさか。俺は生まれてこの方、予定通りに物事が進んだ試しが無くてな。未来の事なんざ分からねえよ。だからこそ命張って今日まで生きて来たんだろうが」
「……そうか。はは、この先に待ち受けるのが神さえも分からぬ結末だと言うのならば、希望に賭けてみたくなるその気持ちも、分からんではないが……」
「……ああ。だからこそ俺は、ボウズをここで見極めねけりゃならねえ。それがボウズと交わした最後の約束だからな」
「ならば、彼が希望足りえなかったら?」
「……回りくどい事は嫌いだが、必要とあれば俺は何だってやるさ。こうも毛嫌いされてるお前さんと手を組んだ時点で、そんな事は分かり切ってる事だろ」
「答えになっていないぞ。己の言葉から逃げるな、狡猾の蛇よ」
「……やるさ。躊躇なんざするだけ失礼ってモンだ。一を切り捨ててでも俺は俺の為に全を救う。あいつの愛したこの世界を、こんな所で終わらせはしない。それだけだ。俺ってヤツは……もう、それだけなんだよ」
☆ ☆ ☆ ☆
ふんふんふふふんふーん~♪
じゃらじゃらと。鎖を引き摺る音と男の汚い鼻唄、そして不格好なスキップが音鳴らす。
後から続くのは真冬の隙間風のような、寒々しい空気の軋む音、音、音。
ふんふふんふんふふんふんふんふーん~♪
酷く耳障りな不快音の不協和音。それを誰よりも楽しみながら、多量の鎖を纏った金髪の男は楽しそうに愉しそうに身体を弾ませる。
そんな愉快気でご機嫌な様子の男の後ろに続くおかしな格好をしたもう一人の男がいた。
決して大柄ではないが、鍛えられた鋼の肉体を覆うのは、ダイバースーツのようなぴっちりと身体に張り付くインナーに防弾チョッキと軍用パンツ。その上から羽織を羽織り腰には和風の鞘を差した時代錯誤な侍だった。
おしゃれと言うより、視界を確保する為だろう。黒髪を掻き上げて後ろへ流し、頭の後ろで一つにまとめている。
ポニーテール、と呼ぶには些か以上に短い。どちらかと言えば熊の尻尾といった調子だ。
彼らが歩くたび、空気が軋む。
どたばたと、次々と氷漬けになって床に倒れゆく有象無象を歯牙にもかけず。その男達は深く深く深部へと突き進む。
ふんふんふんふふふーん~♪
やがて男達は辿り着く。玉座と呼んで差支えない大袈裟な座へと腰かけた赤いドレスの少女の前に。
護衛とおぼしきイギリス海軍風の軍服を着崩した屈強な中年男が、突き刺すような敵愾心と共に少女を庇うように一歩前へ出ようとする。
だが少女はそれを片手で諌めると、嬉しそうに両の掌を合わせニコリと好意的に笑いながら金髪の男へ問いかけた。
「こんにちは素敵な訪問者さん! アナタは私の敵ですか? それとも味方ですか?」
「――あるいはそれ以外、とか」
「?」
「なあ、女王様チャンよ。アンタらの目的に邪魔な天風楓チャン、片づけたくない?」
男の不穏な言葉に天真爛漫な笑みを浮かべていた少女の顔から波が引くように感情が消える。
血の赤色をした瞳に剣呑な光が灯り、女王の周囲に目には見えない圧力のような不可視のナニカが蛇が蜷局を巻くように渦巻きはじめる。
やがて女王は、感情の消え失せたフラットな声で機械のように死刑宣告の言葉を紡いだ。
「……私は平和を愛し争いを憎む物。アナタのおっしゃる言葉の意味がよく分からないのですが――要するにアナタは私の愛する平和を乱す者なのですか? そうなのですね? そうですか」
巨大な毒蛇を前にしたような絶望感。蛇に睨まれた蛙のような絶体絶命の状況を前に、しかし男は相も変わらずにその顔に歪な笑みを浮かべ続けている。
戦意や敵意など欠片もない。ただ、心の底からの悦楽にその身を震わせる男は。
「キハッ! キヒッハハハハハハッッ!! いや、いやいや! これはどうにも俺チャンの言い方が悪かったッ!」
最大最高の玩具を目の前にして、その悪意を花開かせていた。
「ならこうしようか、あくまで自称平和主義者な女王チャンにご忠告だぁ。『シーカー』のお気に入りにして計画の要である天風楓とかいうあの少女、放っておけばこの世界チャンが崩壊するような災厄の引き金となるぜ? 今なら正義と平和の名の元にやりたい放題だけどどーするよ? キヒッ、ヒヒヒハハハハギャハッ!!?」
☆ ☆ ☆ ☆
『天空浮遊都市オリンピアシス』は『AEGスタジアム』を中心として発展している街だ。
街の中央に聳えるシンボルでもあるスタジアム、その東西南北の各入場ゲートより真っ直ぐ直進。上空から見ると十字になるようにメインストリートが伸び、それが街の外周でぐるりとスタジアムとその城下町を取り囲むようにして繋がっている。
街を取り囲むようにぐるりと一周するメインストリートはたまごのような楕円の中に十字を引いたような形をしていて、先の『障害物リレー』では正規のコースとしても利用されているくらい大きな通りとなっていた。
そのメインストリートを挟んで隔てられた楕円の内側と外側では街の色が多少異なっていたりする。
内側が一般の観光客の為の区画とするならば、外側は街を運営、維持する為に必要な施設が多く見受けられる事が分かるだろう。
これは一般の観光客が円の外周……崖に近づかないようにするための配慮の一つでもある。
発電所に下水処理場、食糧庫や対抗戦実行委員会本部、ヘリコプターが離着陸をする為の発着場などなど。
そしてその必要な施設の中の一つに、やたら場違いな最高級リゾート施設が紛れ込んでいた。
純白のテーブルクロスの上に、様々な皿と料理が載っている。色とりどりの食材で美しく盛り付けられた料理は、そのどれもが一級品の味わいで、普段庶民な暮らしをしている勇麻からすると「え、こんなごちそう本当に頂いていいの?」と、手を付けていい物なのか躊躇するような代物でもあった。
そんな視覚的にも嗅覚的にも味覚的にも天国な光景の中、聴覚的には非常に鬱陶しい展開が繰り広げられている。
「――ったくよぉ、ホントにだらしねえなぁクソ勇麻」
『選手村』と呼ばれるリゾート施設、高級ホテルのバイキングレストランで、東条勇麻はやけに赤ら顔の泉を前にしてうんざりと頬杖を付いていた。
勇麻のすぐ横の席ではアリシアがお皿に山盛りに盛り付けたハヤシライスや本格パスタ、ローストビーフやパエリアと格闘中だ。
オカン状態の勇火の静止を振り切り大量に持ってきたはいいが、どこから手を付ければいいのか分からなくてオロオロし始めたアリシアは完全に挙動不審。
そんなアリシアを見かねた楓が四姉妹に声を掛け、今現在はスピカも加えて女の子七人で大変姦しく(?)お皿の上の乙女の敵を美味しく退治中だった。
別のテーブルではスネークがアリシアの持ってきた量の三倍はありそうな料理をどんどん胃袋へと放り込んで行き、その少し離れたテーブルで『設定使い』がスネークの爆食ぶりを「下品なヤツめ」と見下すように鼻を鳴らしながら似たような量の料理を次々と平らげて行く。
その二人の様子を完全に化け物を眺める顔で勇火がぼうっと見ていた。
……何だかんだ楽しげな皆さんが羨ましい。
大食いバトルでも、女の子に囲まれての楽しい楽しいお食事会でも今の勇麻にとっては大歓迎だ。
この面倒な状態になった悪友の相手をするのは、精神的にも体力的にも今の勇麻には辛いモノがある。
「……なあ泉、お前いい加減それ飲むのやめろよ」
「あぁ? つかだいたいテメェ、あの女ってアレだろ? 未知の楽園で一回ブッ飛ばしたヤツじゃねえかよ。一回テメェで勝ったヤツに負けてんじゃねえよだらしねえ、舐めて掛かってたんじゃねえか?」
「……はぁ」
もはや聞いている様子がなかった。
泉が機嫌がいいのか悪いのかよく分からないやたらぐちゃぐちゃした感じになっているのは確実に彼の手元にあるジョッキの中身が問題だろう。
本人は麦のジュースだと言い張っているが鼻を刺す独特の匂いは完全にアルコールのソレ。
競技に参加できなくて退屈だった腹いせか、体力が有り余っていたのか、ヤケだとばかりに飲みまくった結果、完全に出来上がってしまっていた。
一人で瓶を七本は開けている。当たり前だバカと突っ込みたい。
時刻は午後六時半。
一日目の競技は無事終了し『選手村』と呼称される代表選手達の宿泊施設へ戻った勇麻達は治療や入浴、思い出したくもない選手全員によるミーティングを済ませた後、バイキング形式で常時開放されているホテル内のレストランへと足を運んでいた。
他の選手達の姿は見当たらない。どうやら勇麻達が一番乗りのようだ。
ここ『選手村』には勇麻達を含む『天界の箱庭』の代表選手は勿論の事、別棟に分けられる形にはなっているが『未知の楽園』や『新人類の砦』の選手達も宿泊している。
今勇麻達がいるレストランは『天界の箱庭』代表選手貸切の施設らしいが、中には共有のレストランや浴場などのスペースもあり、他都市の選手とそこで交友を深める選手もいるそうだ。
もっとも勇麻達の場合、楓の件がある以上は気軽に他都市の選手と交流することは避けた方が賢明だろうが。
「あぁ? おいおい、痛いトコ突かれて苛ついてんのかぁ?」
席を立った勇麻を見て、泉がニヤリと嫌らしい笑みを浮かべる。勇麻は溜め息を隠しもせずに、
「……そんなんじゃねえよ」
「へぇ、じゃあなんでそんな顔してんだよ」
「別に。そりゃ自分のせいで負けたんだ、浮かれてる方がおかしいだろ」
「本当にそれだけか?」
酔っているからなのか、なかなかにしつこい。
勇麻は適当な言葉で赤ら顔の泉の追及を逃れようとして、
「アホ勇麻、テメェの事だ。また何かくだんねえ事でも考えてんじゃねえのか?」
……どうやら酔いに身を任せ支離滅裂な事を言っている訳ではないらしい。
猛獣を思わせる鋭い瞳が理知的な色と共にさらに細められ、勇麻をしっかりと射抜いていた。
勇麻は観念したように溜め息をついて、
「……ホントに大した事じゃない。ただ――」
脳裏に浮かび上がるのは、勇麻の首を締め上げ昏い歓喜に浸る白濁した髪を持つ褐色の女。
『アンタのおかげでアタシはアタシを許せそうにねえけど、やっぱり世界も許せない。そんでお前も許せない』
そして『理解掌握』を起動していた勇麻が強く感じ取った、己の罪にもがく彼女の絶望だった。
「――当たり前の事を再確認しただけだ」
一瞬、気圧された。
動けなくなった。戦えなくなった。彼女の抱く己への絶望が、深い憎しみが、深い悲しみが、あのドス黒い煮立った地獄の泥窯のような全て。それらの感情を、リコリスが苦しむ羽目になった原因の一端を、他でもない自分が作ったのだと僅かでもそう思ってしまった途端。
東条勇麻の勇気の拳は一瞬ではあるが確かに大きく弱体化した。
……あれは間違いなく勇麻が変えたモノだ。
他者に全てを押し付け自分の罪から逃れ続けてきたリコリスと。自分の罪に押しつぶされそうな今のリコリス。
どちらが正しい事なのかなど、今更問うまでもない。リコリスは自分の犯してしまった罪と逃げずに向き合うべきなのだと勇麻は今でもそう思う。
未知の楽園で彼女と対峙した際の自分の主張は間違っていないと、少なくとも全てを他者に押し付け逃げ続けてきた彼女の見当違いの復讐よりは正しかったと、確信を持って断言できる。
だが、それでも。
彼女から向けられた行場のない真っ黒な憎悪と苦しみの一端は、確かに東条勇麻が変えたモノなのだと自覚して、少し恐ろしくなったのだ。
東条勇麻の信じ貫いた正義が、彼女の負の感情を生み出したのだと思うとゾッとする。
自身の行いが間違っていないと分かっていても、なまじ相手の感情を感じ取ってしまえる分、自分の選択が巡り巡って彼女を苦しめているという現実が胸を突き刺す。
正しい行いだったのだと分かっていても、心が怯える。
正さの引き金を引く事に躊躇を覚えてしまう。
……認めなければならない。
それは今まで知らなかった現実で、見ようとしてこなかった事実だから。
勇麻の行いは、誰かを助けたくて振るってきたこの拳は。
もしかすると勇麻の知らないところで知らない誰かを不幸にしているかもしれないという事を。
因果応報。
良くも悪くも、東条勇麻の歩いてきた道のりは、いずれ必ず自らに牙を突き立てる。
それは生きている限り当たり前の事で、本来なら意識するような事柄でもないのだろう。誰しもがそれを受け入れ、当たり前の事だからと蓋をして、自分の行いが自分の知らない場所で何かに結び付くなどと、いちいち考えはしないのだろう。
――自らの一存で誰かを救い、誰かを倒す。
他の誰でもない。自らの意志と信じる正義のみで取捨選択をして、世界を変える。
それが『英雄』という存在であるならば、きっと彼らには変えた世界を背負って生きていく義務があるのだろう。
だが勇麻は違う。
東条勇麻は『英雄』になんてなれない。成れなくても構わない、そう決めた。
崩壊する未知の楽園とたった一人の少女を天秤に掛けた時に、自身の我儘で前者を切り捨ててしまった時点で、東条勇麻は我欲に満ち堕ちた愚者だ。
街にいる大勢を救う事を諦めた、投げ出した、人任せにした。誰かがやってくれると他力に縋った。
そんなものは『英雄』ではない。
勇麻の知る『英雄』はもっと完璧だ。完璧に笑顔のままに全てを救う。一か一〇〇かの選択で一々悩んだりなんかしない。その手で一〇一を救ってみせるのが本物の『英雄』だ。
だから東条勇麻には世界を背負うなんて真似はできやしない。
所詮は紛い物。一時その代役を演じただけのそれらしい何か。
でも、だからと言って、他の人々と同じように何も知らずに生きる事は許されないのだとも思った。
東条勇麻は知らなければならないのだ。
自分の行いが何を招き、何を救い、何を救わなかったのかを。
己の我儘を正義として振るった時点で……いや、もっとそれ以前。なまじ南雲龍也の代理品として、一時とは言え紛い物の『英雄』を演じ続けていた時点で、それは逃れられぬ宿命だ。
紛い物ならせめて紛い物なりに、その肩書きを好き勝手に騙った報いを受けるべきだ。
『英雄』の肩書を纏い、自分の為に選択して誰かを救った。自分の大切なモノを守った。
その代償だと言うのならば、喜んで支払おう。
勇麻だけは、ソレを記憶に刻み付けよう。
――何かを変える事は難しい。
変革は、必ずしもその全てがいい方向へと転がる訳ではない。
だがそれでも、変わる事を恐れて尻込みしてしまうのでは意味がない。
停滞を愛していた怖がりな少女が、今を生きる為、明日の為に一歩を踏み出したように。
どれだけ汚れ傷つく事になろうとも、勇麻は進み続けなければならないのだ。
東条勇麻が選択した我儘とは、きっとそういう道なのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
「いやぁ、順調順調、順調チャンよぉー」
楽しげな声。
「流石に目を合わせる余裕こそなかったが、便利な使い捨て駒チャンの現地調達完了ーっと。これまた俺チャン有能すぎて自分が怖いね! 順風満帆チャンってのはこの事だなぁ……ギヒッ! キヒヒヒヒィッ!!?」
愉しげな声。
『感情』を司るその男は敵でも味方でもない。舞台上には決してあがることなく黒幕としてソファの上から醜くも愉快な人々の愛憎劇を堪能する。
「さぁて、さてさてさってさて~。俺チャンの洗脳はいつでもどこでもボタン一つで簡単スタートできちゃう便利な代物チャンだけどぉ……どのタイミングで使ったら最高に愉しいかをよーく吟味しなくっちゃなぁ!? なにせ獲物は東条勇麻チャンと天風楓チャン、これだけ極上の玩具はそう手に入らないっしょ! ぶっ壊すとしたらどのタイミングが一番美味しいかなぁ?」
にちゃり。
見る者に原始的な嫌悪を与える不快な笑みの形に口を裂いて、クライム=ロットハートは思案する。
半分はシーカーから与えられた任務の為。そして残り半分は、自分がこの遊びを最高の形で愉しむために。
「……いや、いっその事、今すぐやっちまうってのもアリちゃんかぁ?」
全てはこの男のさじ加減一つ。
この場の愛憎与奪を握る男の気紛れ一つで、運命は綻び狂い始めるのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
一人レストランを後にした勇麻は、適当に敷地内をぶらぶらしていた。
既に日は沈み、夜の帳が降りている。
景観上、あまり夜間に光を付ける高い建物が少ないのだろう。空が近いオリンピアシスの星空は綺麗だった。
中庭のような場所の花壇に腰掛け、しばし空を見上げていた。
代表選手達で賑わうホテルとは思えない静寂が、優しく勇麻を包み込む。
何らかの異能によって過ごしやすい気温に保たれているとは言え、流石に夜は冷える。勇麻はぶるりと身体を震わせその拍子にくしゃみをした、そんな時だった。
ぴと、と。首筋に何か温かいモノを押し当てられる感覚に勇麻は驚いてびくりと震え、
「隣、いいかな?」
振り返り声の方へ視線をやると、浴衣に着替えた楓が立っていた。
ホットのコーヒー缶を勇麻の首筋に押し当てて、少し恥ずかしげに身を捩ってはにかむ楓は、呆けて言葉も出ない勇麻のだんまりを肯定と受け取ったのか、ぽすんと勇麻の隣に腰を下ろす。
僅かに触れあう肩に体温を感じ、勇麻は寒さが少し和らいだような気がした。
「……ったく、一人で何しに来たんだこんな所に。寒いだろ、飯食い終わったなら部屋戻っとけよ」
呆れ半分説教半分な調子で言いつつもコーヒーを受け取る勇麻、楓もその横でプルタブを開けてあははと困ったように笑いをこぼす。
「勇麻くんが一人でどこ行くのか気になっちゃってつい……。それに、ほら」
「?」
「夏休みの時の仕返しができるかなー、なんて」
それは確かに、夏休みの焼き直しのような光景であった。ベンチに座り目を瞑っていた楓の背後に回り込み、キンキンに冷えた缶ジュースを首元に押し当てたあの一幕。
あの時の勇麻は楓の事を信じきる事が出来ず、どうにかして彼女の元へ追い付こうと必死だったのを覚えている。
今回は楓の言うように配役が真逆であったが。
イタズラが成功した子供のように無邪気に笑う楓。これまでの長い付き合いの中で、あまり見たことがない彼女の表情に勇麻は魅入られたように固まってしまう。
「でもベンチから転げ落ちたわたしと違って、勇麻くんはリアクション薄めでちょっと残念な感じだったけどね」
「……いや、楓さんちょっと冷静に考えてみようか。カワイイ声あげてうっかりスッ転んじゃうドジっ子俺ってそんなの誰得なんだろうか」
自分で想像して怖気が走る妄想だった。ちなみに楓の場合見事なチラリもあったので、あれを男子に当てはめるとますます誰得感しか残らない地獄映像となること請け合いである。
「えー、わたし的には見たかったんだけどなー」
「勘弁してくれ……」
それこそ後輩の幼馴染的には、幼馴染の先輩を揺するいいネタになるのかも知れないが。いや、楓は良い子なのでそんな事はしないと東条勇麻は信じている。
そんなくだらない会話をしばし堪能した後だった。しばらく間を開け、楓は少し躊躇うような素振りを見せてからこう切り出した。
「……おしかったね、障害物リレー」
「……いや、完全にやられたよ。一度見た事ある手だったのに、俺のミスだ。それになにより、勇火があんなに頑張ってくれたのに、ホント情けない兄貴だよ俺は」
「……確かに勇火くん凄かったよね。わたしもアリシアちゃんも、びっくりしちゃったよ」
楓は勇麻の言葉を否定はしなかった。けれど、その顔に柔らかい笑みを浮かべながら、
「でも負けちゃった勇麻くんだって、カッコ良かったよ?」
「何だそれ、からかってるのか?」
「ううん、違うよ。本気で何かに挑んでる人っていうのは、どうしてもカッコよく見えるものなのです」
人差し指をピンと立てて、世界の真理を告げるようにどこか自慢げな楓。
自分が今一番苦しい状況だろうに、勇麻を励まし元気づけようとする幼馴染の姿に、勇麻は胸の奥が熱くなるのを感じた。
やはりこの少女は強い。強く、優しい。
でも、だからこそ思うのだ。
誰よりも人の事を思いやる事のできる彼女だからこそ、自分をないがしろにして、一人で抱えてしまうモノもあるのではないかと。
「……なあ、楓」
「?」
「俺達、勝つから。次は、もう負けない。だからなんていうか、その――」
頭の悪い勇麻の語彙で、気の利いた言葉など見つかる訳がない。自分の言いたい事さえ見失いそうになりながら頭を搔き乱して、そうして勇麻は楓目掛けその拳を突き出した。
「――楓、お前も負けんじゃねえぞ」
何に対して、とは言わなかった。
そんな事は、誰に言われるまでもなく楓自身が一番分かっていると思ったから。
自分からこんな事を言い出す事に若干の気恥ずかしさを感じながら、それでも勇麻は楓から目を逸らさない。
最初はポカンと口を開けていた楓だったが、やがて深い慈愛に満ちた穏やかな笑みを湛えて。
「……うん、ありがとね。勇麻くん」
勇麻からのエールをしっかりと受け取った楓が、拳に拳を重ねる。手の甲に返る僅かな痛みが、誓いの儀式のように思えた。
楓と勇麻は夜風に吹かれながら、しばらくそのまま天空都市の星空を眺めていた。
できればこんな穏やかな時間がずっと続けばいいのに、そんな、あり得もしない残酷な絵空事を思いながら。




