第十五話 対抗戦、開幕Ⅴ――決着の一日目:count 7
――三十九キロ地点。
ここまで来れば、ゴールであり同時に新たなスタートラインでもある『AEG』スタジアムの入口がすぐ眼前に見えてくる。
ゴールまであと一歩であり、選手達が最も油断しがちな位置。
だが第一走目を見れば分かるように、この一キロこそがこの競技において最も重要な一キロであるとも言えるだろう。
神の力などという物理法則を凌駕する力を持った神の能力者達によって行われる競技に絶対はない。一キロもあれば逆転は容易で、三十秒もあれば勝者から一気に敗者になり変わる事が出来るのだから。
だがここにきてなお東条勇麻に油断はない。否、油断しようがなかった。
何せ混戦状態に決着が付かぬまま、この『AEG』スタジアムへと足を踏み入れていたのだから。
互いの拳を撃ち合せ火花を散らしながら戻ってきた選手達に大歓声が送られ、熱狂がスタジアムを包み込む。
観客たちの眼前で今現在繰り広げられる戦いは二つ。
「……ああ、まさかここまで粘られるとはね。なかなかに厄介だ」
「それはこっちの台詞、よッ!」
多量の汗を妖艶に振りまきながら喰らい付くリズ=ドレインナックルと、言葉とは裏腹に涼しげな顔でそれを流し切る十徳十代。
「くそ、やっぱアンタ水と風、二種類の力操ってるよな!?」
「――ッ!」
黙々と手堅い攻めを繰り返し明らかに足止め狙いなシーライル=マーキュラルと、時折応戦しつつも逃げ切りを狙う東条勇麻。
ゴールを目指して進む『障害物リレー』では、結局相手選手と戦う事よりも走る事を優先する事になる。
足を止めれば後続に追い抜かれ、なおかつ明かされていない制限時間をオーバーしてしまうリスクが増す。
よって足を止め腰を据えての本格的な戦闘には発展せず、走る合間に隙を窺って相手へ妨害を入れるような形になる為、長期戦になる場合が多いのだろう。
まさに今回の先頭集団の混戦具合はその典型例だ。
(帰ってきちまったってことは、もう残り一キロ切ったって事か……! あとはこの馬鹿みたいにデカいスタジアムの中をぐるっと回るだけ。一番危ないのはどう考えてもバトンパスの瞬間だ。その前に何とかしてコイツを引き離さねえと……ッ!)
敵と話す事など何もないとばかりにコートの襟で口元を隠したシーライルは、その両腕にぐるぐると回転する螺旋の水流と気流を纏わせたまま、走る勇麻の斜め後ろを追走している。
この男の厄介なところは、風と水、二種類の力を操る事ができる神の力を持っているという事だ。
脚部に風を纏う事による高速移動は、勇気の拳で身体能力が上昇している勇麻にも負けず劣らない。
さらには風と水を合わせる事によって威力、射程、速度をあげた拳撃。遠距離攻撃もこなす事ができる高い汎用性。
派手さはないがどれも堅実で隙がない、自分の神の力の効果的な使い方を理解できているのだろう。
(……だからって、この程度のヤツを倒せないようじゃ、話にならないんだ。楓に優勝トロフィーを持ち帰ってやれねえ……!!)
そう。このシーライル=マーキュラルという男は勇火が打ち破ったユーリャ=シャモフやドラグレーナ=バーサルカル、さらには個人総合の優勝候補の一角として知られるロジャー=ロイなどに比べれば遥かに格下。
この程度の敵に手間取っていては、天風楓の背中を押す為に優勝トロフィーを持ち帰るなど夢のまた夢だ。
「……!」
口元をコートの襟で隠すシーライルの眉が、僅かに訝しげに動いた。
理由は単純。シーライルの前を走る勇麻が、不意に振り返り足を止めたからだ。
勇麻は拳を握り固めて我流の構えを取る。
「後が詰まってるんだ。悪いけど、速攻でケリを着ける」
「……決闘、ね。へえ、悪くない。アンタが足止めてくれるってなら俺にとっちゃあ願ったり叶ったり。スマートな展開だ、受けて立とうじゃねえの。――女王艦隊第三艦隊所属『ハーミーズ』シーライル=マーキュラルだ。生憎、俺にも負けたくない理由くらいはあってな……上司がおっかないとか、八つ当たりにはうんざりだ、とか。そんなのだけど何も無いよりマシだろ?」
初めてその口を開いたシーライルが予想外に流暢に言葉を紡ぐのを見て、勇麻は呆気にとられると言うか、拍子抜けしたようにこう零していた。
「……意外に喋るんだな、アンタ」
「――人生事なかれ主義、長いものには巻かれろ。川の流れは一番速くて楽そうなものに乗れ、それが俺の信条でね」
「?」
要領を得ない言葉に勇麻が首を傾げると、シーライルはコートの中から櫛を取り出してミサイルヘッドのような形の特徴的なオールバックを撫でつけ整えながら、
「なに、要するに、お喋りは嫌いな訳じゃない。けど仕事中に喋ってばっかだと上司に怒られるんだよ。だから普段は口を閉じてるってだけだ、沈黙は金ってな。……で、人がせっかく上司のお叱り覚悟で名乗ったんだ、なにかあるんじゃないか? 感謝料とか」
「……東条勇麻だ。正々堂々、今からアンタをぶっ飛ばす!」
「謝礼はなし、ね。仕方ねえ、アンタの敗北で手打ちとしよう……ッ!」
勇麻の宣言を受け、シーライルがバトンのように櫛を手中でくるくると弄び懐へ仕舞い構えを取ると。
地面を蹴る二つの音が時を同じくして鳴り響いた。
シーライルの言葉を開戦の合図と受け取った勇麻は地面を蹴りつけ瞬時にその距離を詰める。
遠距離攻撃を持っている相手に対してその懐に入り込むのは基本中の基本。
こちらの間合いで勝負を挑み、相手にやりたい事をやらせない。要するに自分の得意分野で戦うという事。格上にも通じるであろう、先手必勝の完封スタイル。
勇気の拳を持つ勇麻なら、初動の速度と手数で相手に反撃を許さず攻撃を封じ込める事だって十二分に可能だ。
先ほどまでの迎撃では見せなかった現時点での勇麻の全力、勇気の拳によって一二〇パーセントの力を発揮し、シーライルの反応速度を上回る。
単純な瞬発力と反応速度の勝負、その分配は勇麻に上がった。
風によって後付けで脚力を強化しているシーライルは、勇麻と同等の速度で動く事はできても勇麻の挙動に完璧に反応できている訳ではない。
コートの襟に隠れた口元が、驚きに歪む。
躱す暇さえ与えなかった。跳ねるように懐へ飛び込んだ勇麻の拳が、シーライルのボディに突き刺さる。くの字に折れ曲がる身体。下がった顎目掛けて繰り出すのは痛烈な膝蹴りだった。
だがシーライルはインパクトの瞬間に自ら後方へ跳び威力を減衰させにかかる。
そのまま膝蹴りを顎に喰らい、強烈な衝撃に頭を揺さぶられているであろう状況で、シーライルは反撃に出た。
勇麻の膝蹴りの威力を利用し、そのまま背中を大きく反って、身体を後ろへ逸らしたのだ。
半ばブリッジ、もしくはバク転のような格好で繰り出された蹴りあげが、勇麻の顔面を強襲した。
いつの間に纏っていたのか、気流と水流を纏った蹴撃は鋭さを増してもはや斬撃となっている。
「くっ……!」
「へえ、今の避けんのか。なかなかスマートじゃんか」
勇気の拳による身体強化。脅威的な反応速度で身体を引き、どうにか直撃は避けたものの、水と風を纏ったシーライルの攻撃は範囲が広い。蹴り自体を躱す事ができても、その脚が纏う水流と気流まで避けきるのは至難の技だ。
ぱっくりと切れて目蓋の上からの出血。視界が半分死に、鋭い痛みに思わず顔を顰める。
しかし勇麻は、大きくのけ反るも倒れる事無く右半身を大きく後ろに開いて踏みとどまり、そのままお返しとばかりに引き絞った右の拳を正面へ撃ち出した。
シーライルも同様。二重螺旋のように水流と気流を纏った手刀を、捻りを加えながら槍による刺突のように鋭く突き出す。
真っ正面から互いの一撃がかち合う。その威力に両者後方に弾かれ、結果的に距離が開く。
一見、二人の激突は相打ちのようにも見えたが、
「……へぇ」
シーライルの刺突の切っ先となっていた右の指先は無惨にひしゃげ、壊れた指先から血が噴き出していた。
僅差ではあるが、勇麻が押し勝っているのは確かだ。
「今なら降参してもいいぜ?」
「降参? できるならとっくにしてるっての。ウチはブラックでな、右半身ざっくりとかじゃねえと労災もおりねえのよ……!」
だが、シーライルはその程度の負傷は怪我には入らないとでも言いたげに軽口で応戦。
二人の間に生じた空間を利用し、シーライルが両腕を大きく横薙ぎに振り抜く。
「――五月雨ッ!」
水流を纏ったシーライルの腕から水の礫が散弾銃の如くばら撒かれ、不意を突かれた勇麻は必死でバトンを胸に抱くようにして庇った。
回避できるタイミングでもなければ、勇気の拳を持つ勇麻に防御が出来る訳もない。
直撃、爆発。
舞い上がる水霧に躊躇なく踏み込むシーライル。楓やシャルトルとまではいかないまでも風を操り纏う男に、視界を妨げる煙などは意味がない。
それらを切り裂き、シーライルが標的へと走る。
無防備に先の攻撃を喰らった勇麻は、その体勢を大きく崩している。
(……あいつは水と風を操る。けど、楓や四姉妹なんかと違って近接寄りの神の能力者だ)
シーライル=マーキュラルは近、中距離に対応したバランス型。身体に風や水流を纏う事によって速度や攻撃力を底上げし、離れた敵へは風水弾を放つ。
だが、『風』はともかく彼の扱える『水』はおそらく無限に湧き出すような代物ではあるまい。
一度に操れる量は限られているのか、それとも戦闘中は容易に補充が効かない弾数制限ありの銃弾のような扱いなのか。
その証拠にシーライルは遠距離攻撃を牽制や足止め、目くらまし等に使っている印象を受ける。接近戦を主体として普段から身体に纏って使うのも、消費を避ける為の工夫であり、使用できる水量に限度があると悟らせない為の偽装工作なのだろう。
つまり決定打となる一撃は近接物理攻撃、向こうから勇麻へと近づく必要がある。
(ならこっちからあえて隙を造り出してやればいい。アンタが勝利を確信したその一瞬が、最も勝利から遠のく一瞬なんだから……!)
そして、その一瞬があれば充分だった。
「――起動、『理解掌握』……!」
勇気の拳が持つもう一つの力。否、むしろこの神の力のより本質と言っても過言ではない、人と人との間に広がる無理解の溝を埋める力。
他者を理解し誰かと繋がる為の希望。
相手の思考を意識的に受信し読み取る事ができる勇気の拳の切り札とでも呼ぶべき異能だ。
発動キーは、拒絶や先入観を捨て去りありのままの相手を見て、分かり合いたいと願い望む事。
未知の楽園で『天智の書』との戦闘中に発動させて以来、常時発動はまだ無理でも、きわめて短い時間ではあるものの勇麻はこの力を意図的に発動させる事ができるようになっていた。
――理解する。
雌雄を決するべく踏み出したその一歩を。視界を阻害する水霧を切り裂き飛び込んでくる男の辿る軌道を、東条勇麻は見るまでもなく知っている。分かっている。知覚している。理解している。
勇麻は崩れかけている体勢を立て直すのではなく、重力に身を任せそのまま背後へと倒れ行く。
傍から見れば自ら墓穴を掘るかのように、自殺志願者が死地へと踏み込むように。
――理解する。
「奔れ――『多頭蛟龍水風流鞭撃』ッッ!」
シーライルは自らの腕に纏っていた水流と気流をここぞとばかりに一気に解放。それぞれが逃げ場を塞ぐように上下左右からアーチを描いてしなる鞭が勇麻に殺到し、唯一残った中央のルートを、纏った風によって疾風の如き速度を得たシーライル=マーキュラルが突き進む。
シーライル=マーキュラルの放つ必殺、これから訪れるであろう自分の敗北を、しかし勇麻はやはり頭の中で未来をなぞるように再生する事ができる。
だって、知っている。
これから起こる事を。敵の狙いを。放たれた水流と気流の鞭の攻撃一つ一つの威力を、軌道を、速度を、解き放たれた水流と気流の鞭の切っ先が途中で無数に枝分かれする事さえも、その全てを東条勇麻は――
――理解する。
その時、不可解な事が起きた。
自ら地面へ倒れ込み、不格好に地面に転がった東条勇麻。碌に身動きは取れず逃げ場もない。無防備で隙だらけの絶体絶命の少年へ、無数に枝分かれした数多の鞭が流星の如く叩き込まれる。
だが勇麻はそこから背中の肩甲骨あたりを支点に回転、カポエラかブレイクダンスのような特異な動きを見せて、放たれた全ての鞭撃を針の穴を通すようなギリギリの所で掻い潜り、その全てを躱してみせたのだ。
「……!?」
瞬間、勇麻はバネを使い身体を振り子のようにして跳ね起き、すぐ正面まで迫っていたシーライルの顔を正面から正視する。
必殺であるはずの攻撃を神憑り的な回避で躱されたシーライルは、何が起きたのか分からないとばかりにその目を見張っていた。
それでも咄嗟に水と風を纏った左拳を勇麻目掛けて繰り出したあたりは流石と言うべきか。
「――ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
破れかぶれの特攻に、勇麻は咆哮で応えた。
小さな挙動で力強く地面を蹴り、その姿が霞む。加速した勇麻が体重全てを乗せた右の一撃を解き放つ。対するシーライルの拳は、勇麻が振り抜いた拳に弾かれその軌道が大きく逸らされてしまう。
動揺に揺れる男の無防備な顔面に、そのまま勇気の拳が深々と突き刺さった。
突進の勢いそのままに勇麻に殴り飛ばされたシーライルが、来た道を戻るように数十メートルの距離を水きり石の如く跳ねながら吹き飛んでいく。
その光景に己の勝利を確信した勇麻は――しかし、その直後に思い知る事となる。
勝利を確信したその一瞬こそが、最も勝利から遠のく一瞬なのだという事を。
奇しくもシーライル=マーキュラルという男に対して胸の内で告げた言葉を、自らの身をもって証明する事となった。
「……な、これは……ッ!?」
クン、と。勇麻の身体が何かに引っ張られるような強い抵抗を感じた、次の瞬間だった。
白濁とした白が、流星となって東条勇麻へと降り注いだ。
「がっ、ごあああああああッ!!?」
拳を振り抜いた体勢で固まる勇麻にそれを躱す余裕などあるハズがなかった。
地面が陥没するような鈍い衝撃に、砂埃が高々と舞いあがる中。内臓が捲れあがりそうな痛みと感覚に、何かが喉元にせり上がってくる不快感。
トラックに激突されるような凄まじい衝撃をドテっ腹に受けた東条勇麻は、堪らずに血反吐を吐き出しながらその乱入者を見た。
「……リ、コ……リス……っ!」
褐色の肌に白濁した白い長髪。高身長で成熟した身体つきと高圧的な雰囲気の女だった。
見当違いの復讐に憑りつかれた悲劇の亡霊。
自分の非を認めず、他者にそれを押し付け逃げ続けた未知の楽園の負の象徴であった彼女は、ギラつく程に苛烈な闘志と戦闘本能、そして歓喜の感情を剥き出しにしていた。
「よぉ……! ひっさしぶりだねぇ、東条勇麻ァ!」
勇麻の腹に痛烈な体当たりをぶちかまし、地面に叩き付けられた衝撃に浮いた勇麻の身体を不可視の手――『遠き掴む毒手』が叩きつけるようにして再度地面へと縫い止める。
背中を地面に、腹を不可視の力によって強打され、強制的に空気が吐き出された。勇麻の身体から力が抜ける。
そのまま馬乗りになったリコリスは『遠き掴む毒手』で勇麻の首を掴み締め上げながら、歓喜に酔ったように唾を飛ばす。
そこにあるのは昏い喜び。絶望の淵に叩き込まれた彼女の、復讐の歓喜に他ならない。
「この前は随分とお世話になったからね、そのお礼を言いに来てやったよ。はは、美女じきじきの追っかけだ。嬉しくて声も出ないってか? オイ」
「な、ん……で。アンタが、」
「ん? どうやって追いついたかって? ああ、別に大した事じゃない、“あの時と同じ”だよ。あらかじめ“アタシのこの手”でスタート前にアンタを掴んでおけば、後はワイヤーを巻き取るようにしていつでもアンタに会いに来れるって訳だ。つうか、アンタも学習能力ねえよな。同じ手を二度も食うとかはっきり言ってどうしようもないバカだぜバカ」
リコリスは心の底から勇麻を嘲笑うように口の端を吊り上げて、さらに首を絞めつける遠き掴む毒手を強める。
息ができない。酸素を求める、肺が、細胞が、心臓が、勇麻の身体の中で助けを求め暴れ回る。
「スタート前に神の力を使うのは反則だって言いたいのかい? でもさ、アタシらは走ってないだけで競技自体は始まってる訳だろ? 残念だけど、競技中の神の力の使用は推奨されてんだよ。分かるか? 悪意あるルールってのはどこにでもあるもんなんだ。アタシが失格にならないってことが何よりの証拠だろ?」
そんな事は今更どうでもいい。
これは完全に自分の不注意、勇麻自身の油断であり怠慢であり失態だ。リコリスの作戦勝ちと言ってもいい。
だが今重要なのはそんな事ではなく、このままではリコリスによって勇火が必死に繋いでくれたバトンを破壊され敗北する、という事だ。
せっかく勇火が自分の成長と奥の手を全て出し切ってまで掴んだ一位。それを兄である勇麻が、こんな形で手放す訳にはいかない。
この逆境を跳ねのける為、もう一度拳を握る。
――託されたんだっ。
しかし抑え込まれた勇麻の身体は動かない。
――負ける訳には、
リコリスはびくともしない。
――どけよ……ッ!
否、これは――東条勇麻の身体が勝利へ喰らい付く意志に反してその動きを止めようとしている……?
――そうじゃねえだろ、勇気の拳ッ。ここは、勝たなきゃならないトコだろうが……ッ!
勇麻は意識と共に萎みそうになる感情を奮い立たせ、勇気の拳になけなしの火をくべようとする。
闘争心が、勝利を求める心が、負けられない理由が、意地が、託された思い、信頼、期待へ応えたいという意志が、ボロボロの勇麻の身体を突き動かす。
弱体化が止まり、反撃の狼煙を上げるべく勇気の拳が熱く吠え滾る。
だが、足りない。間に合わない。萎みかけの心を奮い立たせ燃え上がらせるためには、まだ弱い。
覗いてしまった闇が、絶望が、リコリスの感情が勇麻を縛る。身体が鈍重に、鉛を背負ったように重い。
東条勇麻が不可視の魔手を払いのけ立ち上がるより先に、リコリスの目がギラギラと殺気に輝き口元が勝利と歓喜の愉悦を刻み込む。
「なあ、助けてくれよ東条勇麻。いつかみたいに、あの腐った街を救ったみたいにさぁ。……分からねぇんだよ。何をすればいいのか。結局空っぽのアタシにはこれしかなくて、復讐なんて大それた事をするつもりもねえけどさ、お前に殴られっ放しってのも気が収まんねえんだよ。アンタのおかげでアタシはアタシを永遠に許せそうにねえけど、それでもやっぱり世界も許せない。そんでお前も許せない。見当違いの八つ当たりだってのも勘違いも甚だしい逆ギレだってのも承知だよ。それでも何もかもが、この世の全てが許せない……。だからこれはアタシなりのケジメだ。極めて個人的な怨みでぶっ潰させて貰うぜ、東条勇麻……ッ!」
「く、そ……ったれ、がぁあああッ!!?」
――大袈裟な言い方をさせて貰えば。それは、東条勇麻が変えたモノからの意趣返し。
彼の行動によって変えた世界が、彼に牙を剥いた瞬間であったのかもしれない。
敗北する事への拒絶のような、負け惜しみの叫びをあげる事しか出来なかった。
依然として酸素を得られず断絶しそうになる意識の中、東条勇麻が最後に見たのは狂気じみた歓喜に身を震わせ、拳を振り抜くリコリスと。
その拳によって左手に握った白いバトンが砕かれる瞬間だった。
☆ ☆ ☆ ☆
「あー緊張した。うーん、それにしてもあの人全然私に気づかなかったなぁ。それだけあの男の人に怒ってたって事なのかなぁ。……うん? ひょっとしてあれは修羅場というヤツなのでは? あ、あわあわわ……ホロロちゃんとシャラちゃんには見せられないよぉ……」
リコリスが『遠き掴む毒手』を利用して大ジャンプを決行する直前。
『思考の壁』で彼女の思考に干渉し、ビリアン=クズキという個人を気にしなくなるように仕向けてから跳躍するリコリスの背中にひっついて『AEGスタジアム』までやってきたビリアン。
今回のレース。周囲が戦闘に明け暮れる中、誰に妨害される事もなく難なく一位で幼馴染のホロロへとバトンを繋いだ彼女の完全な一人勝ちなのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
【三大都市対抗戦一日目、第一種目『障害物リレー』】
参加人数
・各チーム三名
勝利条件
・一人四〇キロ、三人で合計一二〇キロのコースをバトンを繋ぎ制限時間内に走破する。
基本ルール
一、神の力の使用推奨。
一、規定のコースから外れた場合失格。
一、制限時間内にゴールできなかった場合失格。
一、他選手に対する殺意ある殺害行為、攻撃を禁じる。殺意がなくとも死亡者を出してしまった時点で失格。これを破った場合失格。
一、バトンの紛失、破損、その他要因で次の走者にバトンを渡す事が出来ない。もしくはゴール時にバトンを保持していない場合失格。
勝利時獲得点数
・一位:五〇点
・二位:四五点
・三位:四〇点
・四位:三五点
・五位:三〇点
・六位:二五点
・七位:二〇点
・八位:一五点
・九位:一〇点
・十位:五点
出場選手、走巡一覧
・天界の箱庭。
Aチーム 浦荻太一、和家梨仁志、戌亥紗。
Bチーム 香江浅火、上久保七春、『リーダー』狩屋崎礼音。
Cチーム 鳴羽刹那、十徳十代、『リーダー』北御門時宗。
Dチーム 音無亜夢斗、沖姫卯月、薬淵圭。
Eチーム 東条勇火、東条勇麻、『リーダー』天風楓。
・未知の楽園。
Aチーム リヒリ―=リー、『リーダー』リコリス、チェンバーノ=ノーブリッジ。
Bチーム ナギリ=クラヤ、『リーダー』リズ=ドレインナックル、リリレット=パペッター。
Cチーム 竹下悟、『リーダー』貞波嫌忌、レギン=アンジェリカ。
Dチーム 『リーダー』ドルマルド=レジスチーナム、サマルド=ドレサー、アブリル=ソルス。
Eチーム シャラクティ=オリレイン、ビリアン=クズキ、『リーダー』ホロロ。
・新人類の砦。
Aチーム ピア=ナルバエス、エバン=クシノフ、『リーダー』ロジャー=ロイ。
Bチーム クレボリック=シンボル、セナ=アーカルファル、『リーダー』ブラッドフォード=アルバーン。
Cチーム 『リーダー』ドラグレーナ=バーサルカル、シーライル=マーキュラル、シャロット=リーリ。
Dチーム メリー=コクラン、『リーダー』トレファ―=レギュオン、イヴァンナ=ロブィシェヴァ。
Eチーム 『リーダー』ユーリャ=シャモフ、ルフィナ=アクロヴァ、ゲオルギー=ジトニコフ。
補足
・失格チームは失格直前の順位を問わず脱落となる為、例外なく付与される得点の対象外となる。
・競技終了後にルール違反が発覚した場合も失格となる。その場合、本協議で得た得点は没収とする。
【結果発表】
一位、未知の楽園Eチーム:五〇点(シャラクティ=オリレイン、ビリアン=クズキ、『リーダー』ホロロ)
二位、新人類の砦Cチーム:四十五点(『リーダー』ドラグレーナ=バーサルカル、シーライル=マーキュラル、シャロット=リーリ)
三位、未知の楽園Bチーム:四〇点(ナギリ=クラヤ、『リーダー』リズ=ドレインナックル、リリレット=パペッター)
四位、未知の楽園Aチーム:三十五点(リヒリ―=リー、『リーダー』リコリス、チェンバーノ=ノーブリッジ)
五位、天界の箱庭Cチーム:三〇点(鳴羽刹那、十徳十代、『リーダー』北御門時宗)
以下、失格により脱落。順不同。
バトン破損により失格、天界の箱庭Aチーム・浦荻太一。
コースアウトにより失格、天界の箱庭Bチーム・香江浅火。
コースアウトにより失格、天界の箱庭Dチーム・音無亜夢斗。
バトン破損により失格、天界の箱庭Eチーム・東条勇麻。
コースアウトにより失格、未知の楽園Cチーム・竹下悟。
バトン破損(北御門時宗との戦闘)により失格、未知の楽園Dチーム・アブリル=ソルス。
コースアウトにより失格、新人類の砦Aチーム・ピア=ナルバエス。
コースアウトにより失格、新人類の砦Bチーム・クレボリック=シンボル。
コースアウトにより失格、新人類の砦Dチーム・メリー=コクラン。
コースアウト(ちょうちょを追いかけ街中で迷子になっていた所を三大都市対抗戦実行委員会によって保護)により失格、新人類の砦Eチーム・ルフィナ=アクロヴァ。
【一日目終了。合計得点発表】
天界の箱庭:三〇点
未知の楽園:一二五点
新人類の砦:四五点
【個人総合、上位三名】
一位、未知の楽園シャラクティ=オリレイン:十五点。
一位、未知の楽園ビリアン=クズキ:十五点。
一位、未知の楽園ホロロ:十五点。
※チーム戦に参加して得た得点の三割が個人総合の得点に加算される。なお同チームに所属していても競技に参加しなかった場合、得点は加算されない。
※個人による競技、個人戦の場合は得た得点がそのまま加算される。
・二日目、第二種目発表。
【三大都市対抗戦二日目、第二種目『三種競技』】
☆ ☆ ☆ ☆
観客という群衆に紛れて、『感情』を司る誰かは腹を抱えて嗤う。
「キヒッ、キヒヒヒヒヒハハハッ!! いやぁ、残念残念。東条勇麻チャンってば負けちゃったかぁー。でもまあ、アレだよなぁ。誰かを救い、誰かの笑顔を求めた行いが回り回って誰かを苦しめるってんだからホント英雄チャンも大変だよなぁ!? いやマジでさーあ、皮肉なモンだと思わねえのかねぇ。誰かを救う行いが結果として誰かからの怨みを買うってんだから、この世界ってのは死にたくなっちまう程愉快だよなぁ。いやーホント、面白いモン見せて貰ったぜ」
彼の眼下では今現在順位発表と三位までのチームの表彰が行われていて、周囲の観客たちは選手にメダルが手渡されその名が呼ばれる度に心からの拍手を送っている。
「さーて、と。こっからどうすっかね~。一先ずかったるかったし一日目は様子見がてら試合観戦チャンに励んだ訳ですが……、流石にそろそろお仕事チャンの方も考えてかねーとマジいか……」
そんな拍手の音に紛れる形で、クライム=ロットハートは好き勝手に喋り散らす。本来ならば機密とすべき情報を含む独り言を。
誰に遠慮することもなく、ただ自分の喋りたいという欲求を満たす為に。
「それにしてもまさか楓チャンが出場するなんてなぁ? 上からの報告じゃあ、競技参加は不可って話だったけど、これが責任感チャンってヤツ? キヒヒッ! 俺チャンそーいうのよくわかんなーい!」
クライムはおどけたようにケタケタ笑い、座席で子供みたいに手足をバタバタ振り回す。そして、ふざけ切った態度から一転。人の悪意を餌とする悪鬼のようにその表情を歪ませて、
「でもまあ、責任チャンとか青臭い青春チャンとか? そういうのは分っかんない俺チャンだけどー、悪巧みチャンの匂いには敏感なんだよねぇ……ィヒヒッ、いやぁなぁんか匂うんだよなァ、楓チャンってばさ。いくら責任感あったって、それこそ戦力にならないんじゃ居たって邪魔なだけっしょ。だったら楓チャンが出場したという事実にはどんな意味がある? このタイミングで都合よく復調した? 勇麻チャンが負ける事まで織り込み済みだった? 違うよなぁ、そうじゃない。悪意チャンを用意したヤツは、一体何を狙ってやが……」
珍しく真剣に悪意に歪んだ表情で顎に手を当て思案するクライム=ロットハート。もっとも、その真剣そうな表情さえも自分が楽しむ為のふざけた演技でしかないのだが。
そして、そこで彼はある事に気づく。
「……ん、んん? オイオイオイオイ、冗談きついっしょ」
注視して初めてその違和感に気付いた。
既に目を合わせたハズの二人。クライム=ロットハートの意志一つですぐにでも洗脳を開始できる状態にあるハズの東条勇麻と天風楓。
それなのに神の力を通して得たハズの繋がりが、眼前にいる天風楓からは微塵も感じられない。
「……まさか、俺チャンとの繋がりを浄化された? いやいや、それはまずあり得ねえ。楓チャンと俺チャンの接触を知る人物なんている訳ないっしょ。だとするとまさか……偽物?」
そう。この街に天風楓がいるのは確かだ。天風楓との繋がりを、確かにこの付近から強く感じる。だからこそ、今の今まで競技に出ている天風楓が偽物であるという可能性を考えもしなかったのだ。
天風楓は確かにこのスタジアム内にいる。
だが元より競技に参加できるような状態でない彼女は競技には出ていない。
なら天風楓は今どこにいる?
「……」
精神を集中し、クライム=ロットハートは自身の『心傷与奪』による彼女との繋がりを今一度強く意識する。
暗闇の中、細く長い糸を辿るような感覚。一度手放せばすぐさま闇の中に溶け入ってしまうであろう頼りない細い糸のような感覚にクライムは身を委ね、そして――
「――キヒッ! ブッヒャヒハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッ!!!!! ダメじゃんダメじゃん、ダメダメじゃん! 隠すんならもっとちゃあんと隠さなきゃあ、こんなのダメダメちゃんじゃんかよォッ!!! ……ヒハッ、クヒヒヒ! あぁダメだ腹ぁ痛ぇ、頭隠して可愛いお尻が隠れてないぜぇ? 天風楓チャン?」
観客席の二階。不自然にフードでその身を隠している少女の姿を、クライム=ロットハートの瞳は確かに捉えていた。
「見ぃツケタぁ……!」




