第九話 チームメイトⅡ――女王と女王艦隊:count 7
少しばかり時間は遡る。
勇麻とシャルトルが選手控室へ顔合わせに向かう中、スネークもまた『設定使い』と共にミーティングルームを後にしていた。
「とりあえずついて来い」
『設定使い』にいきなりそう言われたスネークは、通路を足早に進む金髪の美男子を追いながらその背中に声を掛ける。
「おい、こいつは一体どういう風の吹き回しだ? お前さんが俺を個人的に呼び出すなんざ、ただ事じゃねえだろ。明日世界が滅ぶにしちゃあ、いくらなんでも唐突すぎやしねえか?」
「……無駄口を叩くな。そのただ事じゃない事態が起こるから貴様を呼んだに決まっているだろう」
『設定使い』は余裕のない表情で早口に毒を吐いた。
……どうやら何か問題が発生した――もしくはこれから発生する事は間違いないようだ。
「それで、一体何が起きるって言うんだよ」
先ほどよりも真剣みを増した声と表情で問いかけるスネーク。
『設定使い』は苦虫を噛み潰したような微妙な顔をして、
「……蛇、貴様は確か女の相手は得意だったな?」
そんな事を言った。
「は?」
聞き間違いかと素の表情で聞き返すスネーク。この反応が嫌だったんだとばかりに『設定使い』はぐじゃぐじゃと美しい金髪を掻き上げて、
「だからッ、自称紳士である貴様は、女の扱いに慣れているのかと聞いているッ! 何も聞かずに答えろ『狡猾の蛇』!!」
「それはまあ、年中引き篭もりのお前さんよりはなぁ……つうか、『設定使い』お前大丈夫か? 頭でも打ったか? それとも『設定』とやらがついに壊れでもしたか?」
「それ以上無駄口を叩くようなら貴様に施した『設定』を今すぐ解除すると覚えておけ。……それより、今から来る女をこの先に絶対に通すな。面倒な状況になる」
本気で頭の心配し始めるスネークを鬱陶しげに一蹴し、『設定使い』が声のボリュームを一段階下げる。
その不穏な言葉にスネークは目を細めた。
「……どういう意味だ」
「ここに『新人類の砦』のSオーバー『最弱最大』が向って来ている。天風楓に下手なちょっかいを出される前に追い返さねば最悪今回の囮作戦が完全に破綻すると言っているッ!」
「……ッ! それをさっさと言わねえか! この説明好き!」
出てきた名前に対する驚愕と共に、回りくどい言い方をした『設定使い』に思わず毒づくスネーク。
新人類の砦の『最弱最大』と言えば、暗部にその身を置く者で知らぬ者はいない超大物だ。
おそらくは世界中に最も名を馳せた神の子供達であり、最悪の力を持つ女。
あの奇操令示が唯一従ったという神の子供達である。
天界の箱庭で起こった『ネバーワールド』を襲ったテロ事件『死の饗宴』も、奇操令示は“何者かの指示”――実際のところ寄操を操っていたのは『創世会』だったワケだが――を彼女からの指示だと勘違いして決行された事が判明している。あの狂人の手綱を完全に握っていたただ一人の例外。
そんな存在が、まともな人間であるハズがない。
……確かに、今現在この『AEG』スタジアム内には天界の箱庭、未知の楽園、新人類の砦の三つの都市の代表選手達が同居している。一種の火薬庫のような状態ではある。とは言え、暗黙の了解で『対抗戦』に参加できないはずの神の子供達の一角、それもよりによって『女王』と呼ばれるあの人物が何故天界の箱庭側に接触しようとしているのか。
理由は分からないが、確かな事が一つ。彼女自らが動いて碌な事が起こらない訳がない。
だが動いてしまった分はしょうがない。元より、天災のような女だ。対処法さえ誤らなければ、致命的な状況にだけはならないはず。
『設定使い』の慌てぶりを見るに、そう時間もない。
スネークは覚悟を決め、彼女への対処法をしっかりと反芻した。
彼女と相対する時の絶対条件。それは――
「あら、お出迎えの方が来ているわ。ねえ見て、天界の箱庭の人達は友好的なのね。私、怖い方達だったらどうしようかと思っていたので、少し安心しましたわ。ねえ、ロジャー。アナタもそう思うでしょ?」
「いやいや姫さんよ。どう見てもそういう歓迎ムードにゃ見えねえだろがい。姫さんの目は相変わらずの節穴っぷりだな。そんなんだから毎度下着泥棒に逃げられるんだぜ?」
「まあ、ロジャーったらこんなところではしたないわ汚らわしいわ! 私の騎士としてその言葉遣いを反省なさいと何度も言っているでしょう? どうしてアナタは言う事を聞いてくれないのかしら……」
――絶対に戦意を向けてはならない、という事。
曲がり角の向こうから顔を出したのは、貴族令嬢のようにハーフアップされた絹のように滑らかな美しい銀髪の持ち主だった。
燃え盛る炎より色濃い、血の赤のような瞳を持ち、唇は瑞々しい果実のようだ。成人を迎えたとはいえまだまだ童顔ぎみな顔も、熟した肉体とのアンバランスさでいっそ風情がある。
口元には常に勝利者であることへの余裕漂う微笑を浮かべ、慈悲に溢れた丁寧で柔らかな口調で喋る彼女は、身体のラインを強調する英国貴族のような赤を基調としたドレスに身を包み、豊満な胸元を強調していた。
赤いドレスに合せた赤い手袋、紺のベレー帽にも似た貴族帽を頭にちょこんと載せている。装飾品の類は特に身につけておらず、そのような物に頼らなくとも美しい自分を誇るかのようであった。
身体の内外から溢れ出る高貴なオーラに違わぬ美麗で豪奢な容姿は、まさに女王の名を冠するにふさわしい。
「ちなみにその下着泥棒って俺なんだけどな」
「ッ!!? し、死刑よ! 死刑! ロジャー=ロイ、アナタという人は本当にッ! 今日と言う今日は絶対に許さ――」
「――やだな、冗談に決まってるじゃないか姫さんよ。アンタの清廉なる騎士がそんな事する訳ないだろ?」
「……それもそうですわね。分かりましたわ、私も死刑は冗談でしてよ、ロジャー」
エリザベス=オルブライト。
新人類の砦の誇る神の子供達の一人にして、文字通りにたった一人で『争世会』を乗っ取り街の実権全てを握った女傑。
――彼の女王の前では誰もが無力。帯刀する事さえ許されず、大いなる慈悲に頭を下げるのみ。唯一例外があるとすれば、それは女王に絶対服従を誓った騎士のみである。
「出迎えって訳じゃねえだろうが、まあ、なんだ。わざわざ出向いて貰っちまって悪いね、お二方。知ってるかも知れんが、ウチの姫さんは『世界は自分の為に回っている』と本気で思ってる種類のどうしようもないワガママ娘でな。アンタらのお仲間? にどうしても会ってみたいヤツがいるんだとよ。ま、いつもの気紛れに付き合わされる俺の身にもなって欲しいんだが……」
「まあ、ロジャーったらさっきから随分と酷い事を言うのね。そんな事を言う子には罰として一週間私の護衛から外してあげなければならないかしら」
「ほらな? これが罰になると本気で思ってるんだぜ、この姫さん」
そう言って肩を竦めた軍服の男にも見覚えがあった。
短く刈り上げた金髪とアクセントとして残しているであろう無精ひげ。年相応の落ち着きを感じさせる聡明そうな瞳は透き通った青。
だがそんな落ち着き払った印象を与えるであろう整った渋い顔立ちも、歳を刻んだ者特有の脱力した胡散臭い笑みが台無しにしてしまっている。
総じて纏う魅力としては逆方向、どこか怪しげな秘密と汚れに塗れた危険な大人と言った印象か。
ネクタイを取っ払い十字架のネックレスを垂れ下げ、中に着ているシャツはふざけたピンク色という、イギリス海軍風の軍服をギリギリまで着崩して纏った、その笑みと同じく胡散臭い中年白人男性の名は……
「……お前さん、ロジャー=ロイか」
ロジャー=ロイ。
新人類の砦の誇る最強の矛。
公式にその存在が明かされる事のない神の子供達とは事なり、人々に愛される表側の最強。
天界の箱庭で言うならば天風楓と同様の位置にあるその男は、確認するようなスネークの問いかけにニヒルな笑みを浮かべて大仰に両手を広げて、
「これはこれは、アンタみてえな有名人に覚えて貰えてるなんて恐悦至極とでも言えばいいのか、背神の騎士団なんて物騒な集団の頭に目ェ付けられてる事に震え上がればいいのか、正直判断に迷っちまうな、スネークさんよ」
「それはこっちの台詞だ。どこまで調べ上げたか知らないが、見かけによらず随分と仕事熱心なようだな。……これはその判断材料の基準にしてもらえると助かるんだが、こちとらアンタのトコの問題にまで顔を突っ込むつもりはないとだけ言っておこう。自分のトコで割と精一杯なんでな」
「……俺達の邪魔をしなければ、なんて枕詞が付くんだろ? おー、怖い怖い。これだから自分が正義だと信じて疑わないヤツってのは手に負えねえんだ。なあ、団長さん」
スネークはそれ以上ロジャー=ロイの軽口には取り合わず、
「……始めまして、お嬢さん。スネークだ、以後お見知りおきを」
エリザベスの手を取りその甲に軽く口づけをする。するとエリザベスは嬉しそうに頬を染め微笑んで、
「あら、初めまして神に背きし反逆の騎士様。私、エリザベス=オルブライトと申しますわ。ネバーワールドでの件はウチの寄操くんがごめんなさいね? あの子も悪い子ではないのだけど、ちょっとやんちゃが過ぎる所があって……。あのような悲劇が起こらぬよう、私もこれまで以上に尽力していきたいと思います。これから私と仲良くしてくださると、とても嬉しいわ」
「……ネバーワールドでの一件は『創世会』との間で話が付いていると聞いてるんでね、非合法の非公式団体からはノーコメントとさせて頂こう。それで本日はどういった御用で? 生憎、我々は野蛮で物騒な騎士団でしてね、女性をもてなす準備も来客用の紅茶もお茶菓子の用意も出来ていない」
「構いませんわ。私、お紅茶もお茶会も勿論大好きですけれど、今日は人に会いに来たの。――そうよ、アナタにも会いたかったわ、『設定使い』」
ふるふると首を振って、エリザベスの視線がスネークからその横の『設定使い』へと移る。心の底から嫌そうな顔をする『設定使い』に、けれどエリザベスは嬉しそうに微笑んで、
「ふふっ、相変わらず恥ずかしがり屋なのね、ロジャーと違って可愛げがあるわ」
「そこでいちいち俺を引き合いに出すあたり、姫さんも俺のこと相当好きだろ……」
疲れたようなロジャーの発言は当然の如く無視される。
エリザベスは真っ直ぐに『設定使い』を正面から見据えて、
「今日こそ私の所有物になるつもりはなくて? 『設定使い』。貴方と一緒なら、きっと私の夢も叶える事ができるわ。ええ、そうに違いありません……!」
「ぶっ!!?」
唐突な求婚にスネークは思わず噴き出した。
すかさず『設定使い』のつま先が脛に突き刺さり、苦悶の表情を鉄仮面の裏側に押し殺す羽目になるスネーク。『特異体』だろうと、脛を蹴られれば痛いものは痛いのだ。
『設定使い』はある種の諦観を浮かべながらエリザベスをねめつけて、
「……前にも言ったはずだ『女王』。私は貴方の掲げる設定を認めてはいないと」
「あら、どうしてかしら? アナタは素敵だと思わないの? 争いごとの起こらない平和な世界。誰も戦争に倒れることのない、血の流れることのない理想の平和。アナタが私の所に来てくれれば、また一歩そんな世界が実現に近づくのよ? なのにどうして――」
「――それが貴方の武力による支配を前提とした夢物語だからだ。『女王』……否、『戦争を軽蔑する者』よ」
そう。
それこそがエリザベス=オルブライトの本質。
『最弱最大』、『最弱の神の子供達』、『女王』。
様々な二つ名で怖れられる彼女は、その二つ名の通り戦う力を何一つとして持たない最弱の神の子供達だ。
そんな彼女が様々な勢力から怖れられ、『争世会』をも乗っ取るに至った理由は一つ。彼女の神の力にこそある。
『平和の支配者』。
拳に刀に槍、重火器に戦車、戦艦に戦闘機にミサイル。果ては神の力まで。『戦う為の力』……すなわち『武力』の支配権を得る神の力。それが彼女の持つ彼の寄操令示さえも支配してみせた力だ。
彼女が『武力』と認識した物は、例えそれが何であろうとも彼女の許可なしには使えなくなってしまう。
逆に彼女の掛け声一つで、使い手の意志を無視してその『武力』は振るわれる事となる。
人類から戦う力を強奪し、自らのみに蓄える世界を崩壊させる力。
最弱にして最大の戦力を有する『女王』。
戦争を忌み嫌い軽蔑し、平和を愛する博愛主義者。だがその平和の求め方は、どこまでも歪に歪んでいる。
『戦争を軽蔑する者』。
彼女は戦争を憎み、やまない争いを嘆き悲しみ、人を慈しみ、平和を心の底から愛し、欲している。願っている。
それなのに彼女は誰よりも強欲に『武力』を追い求める。
自身のみが『武力』を得る事による、強制的な平和を実現する為に。
自身が世界最強の抑止力となる事で、争う者を根本から消滅させ滅亡させ絶滅させる為に。
彼女の本質は支配者であり、平和すらも支配する物として認識している。故に彼女は、全てを支配する事で平和に手を伸ばそうとしているのだ。
彼女の目的は世界征服による世界平和。
そんな子供の絵空事のような戯言を、現実に出来る力を持ってしまった神の子供達。
それがエリザベス=オルブライト。
故に『設定使い』は、世界を順守する者は、彼女の生きざまを否定する。
「貴方の掲げる設定は平和などではない。単なる閉じた世界だ。誰も望まない、誰も笑わない、恐怖の中でしか芽生えない偽りの平和などに価値はない。……世界を守る者として、貴方の夢は許容できない」
突き放すような『設定使い』の言葉に、エリザベスは赤い瞳に不穏な輝きを灯す。
ぐるぐる、ぐるぐると瞳の中で渦を巻く疑念と執着。どうして理解を得られないのか理解できない彼女は、ゴキッ、ゴキッ、と、どこか不気味な動作で小首を傾げる。
「? どうして? 『設定使い』、アナタは平和が好きじゃないのかしら? 誰だって争いがなくなれば嬉しいハズよね? 平和が好きなはずよね? それなのにどうして賛成してくれないの? 賛同してくれないの? 参加してくれないの? 私の味方になってくれないの? 分からない、分かりませんわ、分からないのよ。アナタもその神の力で、戦うための力で、『武力』で、私の大好きな『平和』を乱そうと言うの言うんでしょうそう言うのね???」
「ちょ、おい姫さんっ。落ち着けって、そいつは……ッ!?」
不可視の力が、女王の周囲で鎌首をもたげるように渦を巻く。
舐めまわすように、値踏みするように、スネークと『設定使い』をソレは眺めまわしている。
ゾぞぞ、ぞ。背筋を走る悪寒に、スネークの中の防衛本能が警報音を発する。己の身を守れ、ソレと戦えと声高々に叫んでいるのが分かる。
だが知っている。この恐怖に負けて己の身を守ろうと心を構えた途端、彼女はスネークの『武力』を支配するだろう。
『特異体』にとっては本来効果のないモノかもしれないが、スネークは違う。以前の全盛期ならともかく弱体化している今のスネークでは彼女の『支配』に抗えない可能性がある。さらに今は『設定使い』によって施された『設定』により、ギリギリまで『神性』を抑え込んでいるというおまけ付きだ。
一ミリでも可能性がある限り、彼女に戦意を向ける訳にはいかない。一度彼女によって武力を『支配』されてしまえば、彼女の許可があるまで永遠に『支配権』は剥奪されたままだ。
戦う力を……武力を奪う彼女の神の力は、何かを守ろうとする人の意志すら踏みにじり蹂躙する。そういう類の外道の法なのだ。
スネークも『設定使い』も、彼女の干渉力に身を任せ、己の身体の表面を這うその不快で粘着質な力を悉く無視した。
やがて値踏みするような気配は去り、女王を中心とした不穏な空気も霧散する。
ややあって『設定使い』はその顔に疲労を滲ませながら息を吐き、
「……言ったハズだ『女王』。私の力は『世界』を順守する力。この世に争いを齎す為の『武力』ではない。それは貴方が一番分かっているはずだ。であれば、私の力を貴方が支配する事など、出来るはずがないだろう」
先ほどまでの不穏な雰囲気が嘘のように、エリザベスはケロッとした顔で、
「……それもそうですわね。失礼しましたわ『設定使い』。アナタがそんな悲しいことを考えている訳がありませんのに。……素敵な騎士様、貴方も平和を愛するお方のようで私、安心いたしました。もしよろしければ、アナタも私の所有物になってくださいね? お互い平和を愛する者どうし、きっとわかり合えるはずですから。……ロジャー、戻りますわよ」
「あー、へいへい。……って、いいのか姫さん。アンタの脳みそが確かなら、まだ何も目的を果たしてねえ事が分かるハズなんだが」
「ええ、いいの。天風楓さんとお話をするのはこのお祭りが終わってからにするわ。いきなりこちらから押しかけては失礼ですものね。それに何だか私、この方達が必死に守ろうとしている子がどんな子なのか、もっとじっくり眺めてみたくなりましたの。――あ、でも対抗戦で優勝するのは私のロジャー率いる『女王艦隊』ですけれどね?」
聞き捨てならない台詞を残して、くるりと踵を翻すエリザベス=オルブライトは、最後に一度だけ振り返って満面の笑みで、
「また会う事がありましたら今度は私のお茶会にご招待いたしますね。是非、いらしてください。それでは、ごきげんよう」
ドレスの裾をちょこんと摘む恭しい挨拶と共に、嵐のような『女王』は去って行った。
彼女の目的、天風楓に接触しようとした訳。優勝を狙う新人類の砦の真意。考えなければならない事が次から次へと増えていく現状に、スネークは息を吐く。
その背中を見送りながら険しい表情を浮かべていたスネークは、ふいに『設定使い』の肩にポンと手を置くと、纏う空気を切り替えるように急にしみじみとして、
「……お前さんも苦労してるんだなぁ、色男」
「うるさい黙れ死ぬがいいエセ紳士」
☆ ☆ ☆ ☆
スタジアム内は禁煙らしい。
手の掛かるお姫様を貴賓席(と言って騙しているだけで普通の客席)に送り届けついでに、一度外に出たロジャー=ロイ。人の少ない関係者以外立ち入り禁止の選手搬入口付近で丁度いい具合の木陰とベンチを見つけた彼は、一息つこうとポケットからシガレットケースを取り出した。
……取り出したのだが……
「そこのロジャー=ロイッ! 私に書類仕事や面倒事を押し付けてこんな時間まで一体何処へ出かけていたんですか!? もうすぐ開会式も始まるって言うのに、何一つ手続きが終わっていないってどういう了見です!? 言い訳があるなら今すぐお願いします一四〇文字文字以内で!!」
……今世紀最も会いたくなかった女に見つかった。
短めのブロンドヘアーは、傘か逆さにした扇のように先端に向けてゆるやかにカールし広がっている。
見る人によっては冷たい印象をうけるかもしれない、美麗な目鼻立ち。瞳の色は海の上に張った薄氷のような薄青色。理知的な眼鏡がクールな女の立ち姿によく似合っている。
すらっと長く美しい手足に釣り合うだけの高身長、そして身長に比例するように成長したのであろう、溢れんばかりにたわわに実った果実が二つ。
総じて破壊力の高いスタイルと美貌、そして理知的な眼鏡。まさに社長秘書のような雰囲気のお堅い美女だ。
歳は二十半ばだが、ロジャーからしてみればまだまだ小娘の域を出ない。とはいえやはり美しい娘だとも思う
ロジャーとは対照的にイギリス海軍風の軍服をきっちりと着こなしたその女性の名は、ユーリャ=シャモフ。
『女王』より与えられた称号は――
「よお、随分ご機嫌だな『フッド』。いい具合に頭に血が昇ってるみてえで何よりだ。おっぱいにばっか血やら栄養やらが行きがちなお前のことだ。それくらい血のめぐりが良い方が頭も回るんじゃないのか? ほら、書類仕事にもぴったりだ」
ロジャーはケースから取り出した葉巻を口に咥えながらガリガリと頭を搔いてどこか投げやりに言った。
当然、生真面目でサボりが許せない性質のユーリャがそんなふざけた態度の上司に激憤するのは目に見えている事で。
「そんなおっさんみたいな名前の人は知りませんっ!! というか、『フッド』って呼ばないでくださいって何回言ったら分かって貰えるんですか!! ユーリャですっ、ユーリャ=シャモフ!」
咥えた葉巻を取り上げられ、玩具を取られた子供のようにしゅんとした顔になるロジャー。
その表情を演技だと知っているユーリャは情けなく甲斐性も無い年上上司に対して一切の同情心を抱くことなく、己の正当な怒りを正当に叩きつける。
「だいたい先の質問の答えになっていませんしセクハラです! 毎日毎日いい加減にしてください本当にッ! 職務怠慢、職務放棄、責任放棄、居眠り、遅刻、仮病、欠勤、自堕落にも程がある!! どうして部下の私が、上司の貴方の尻拭いをしなければならないのです! これ以上問題行動を重ねるようなら覚悟してください! 私だって出るとこ出る準備は出来ているんですからね!?」
「……確かに出るとこは出てるな」
「どこ見てるんですかこの変態セクハラ魔!?」
鬼のような形相で憤怒するユーリャ。ロジャーはそんなユーリャを上から下までジロリと舐めまわすように眺めてふむふむと何度も頷く。
これぞまさにお手本のようなボンキュッボンだな、などと嘯くロジャーへ乙女怒りの鉄拳が振るわれるが、中年男はこれをのらりくらりとベンチに座ったままで全弾回避。
いい加減疲れたのか肩で息をするユーリャ。ロジャーは猫じゃらしにじゃらつく猫のように、激しく上下するユーリャの胸に目を奪われながら、
「……女の子にお尻を拭わせちゃう俺ってなんか背徳感が凄くね?」
「死ね! 今すぐ死ね! 女の敵!!」
ユーリャの絶叫と共に地中から槍衾のように先の尖った樹木が突き出て無人のベンチを粉砕し、辛くも串刺しの刑を逃れたロジャー=ロイは女秘書風部下の怒りから逃れるべく逃走劇を開始した。




