第四話 帰還Ⅲ――裏への潜入:count error
「先輩、本当にこんな所に『特異体』殺害のヒントがあるんですか~」
少女特有の甲高い震え声が暗がりに反響する。
まるでお化け屋敷か廃病院を探検しているかのような怯え方だが、しかしその声色は少女でも声の主は紛れもない男。そう考えると、可愛げの欠片も存在しはしない。
ただひたすらに腹立たしく苛立たしいだけだった。
「バカ、黙ってろバカ。折角脱走したってのに、上の警備連中に見つかったらどーすんだよ、ったくめんどくせー」
このバカ連れてくるんじゃなかった、とばかりに額に手を当て大きなため息を吐く男の名は黒騎士。
普段より不気味に笑う不吉な仮面で素顔を隠している男は、今ばかりはその容姿を長い黒髪を持った少女の物へと変え、直属の部下である田中(仮)――こちらも黒いショートヘアーが似合う少女の姿になっている――を連れて『創世会』本部ビルの深部を探っていた。
特第一刑務所襲撃の直後、黒騎士の影幻を応用した変身術によってナルミとイルミに化けた二人は、慌てて救援に駆けつけられた神狩りの手によって護送車にぶち込まれ、一時的な収容施設として『創世会』本部ビルの地下牢に収容されていた。
黒騎士の影で手錠を作っていた両者は、見張りの周回の周期を完璧に把握した後、自らの影で偽造した手錠を外し、自由になった両手で檻の錠を解除して外に出た。
そのまま地下牢を潜り抜けた両名は、さらに下の階層へと潜る階段を発見。ナルミとイルミの姿を保ったまま『特異体』殺害のヒントを求めて『創世会』本部ビル内の探索を行っていた。
「いいか、ここはシーカーの腹の中だ。どっちにしろ、俺達の存在はヤツに筒抜けに決まっている。それでもシーカーが手を出してこないのは、俺らのあがきを見て楽しんでるからだ。野郎の気が変わらねー内に貰うモン貰ってズラからねーと、ここで全部終わる。だから口動かしてる暇があったら他の事に気ィ使え」
「な、なんですかそれ!? じゃあ俺達はあの怪物の気紛れ一つで今すぐにでも殺されるって事ですか!?」
「だからそーだって言ってんだろ。実際ヤツは全知全能って言っても過言じゃねーよーなオーバースペック持ちだ。その気にさえなれば、この街一つで起きてる出来事くらい余裕で把握できるだろーよ。それをやらねーのはヤツが全知をつまらない物としてるからだ。……持つ者のお遊びだ。万能の神の奇跡とやらに頼るんじゃなく、自分の力だけで未知を探求したいんだとよ。……人類の可能性だとかもな」
『創世会』本部ビル内部は、まともな建造物として機能している空間とそうでない空間がある。
黒騎士達がナルミとイルミとしてぶち込まれた地下牢はまともな建造物として機能している空間。
そしてそこからさらに下へ潜ったこの階層は、まともでない方の空間だった。
「なんなんすかね、ここ。薄気味悪いっていうか、遠近感が狂う感じが……」
「実際空間の大きさが絶えず変動している、遠近感なんざ狂って当たり前だ」
そう。この空間は生きているかのように蠕動している。距離は秒単位で変動し、扉は歪み、天井は落ちては遠ざかる。
廊下の両サイドに等間隔に並ぶ蝋燭の光りすらも、水槽越しに眺めるかのように時折ぐにゃりと折れ曲がる。
「へへっ、だが悪い兆候じゃねーな。こいつは当たりか?」
まともじゃない空間、つまりここはシーカーの領域だ。重要な情報がこの空間のどこかに眠っている可能性は低くはない。
当然危険もあるが、それは『創世会』本部へと入った時点で同じ事。あの怪物がその気になれば何処へいようが一瞬で黒騎士達など殺されてしまうのだから。
黒騎士は目につく扉を手当たり次第に開け、中を物色する。
目ぼしい物がなかなか見つからない中、時間だけが過ぎ焦燥ばかりがつのっていく。
緑色の液体に満たされたビーカーに浮かぶ動物の生首。
中世の貴族の屋敷に飾られるような返り血を浴びた全身甲冑に剣や盾。
高価そうだがどこか不気味で病的なタッチの絵画が壁一面に飾られている部屋。
中央にぽつりとおかしな形の岩が置かれた用途不明の部屋。
壁に埋め込められた多量の水槽の中を元気いっぱいに泳ぐ骨格だけの魚。
床や壁の至る所に誰かの血で魔法陣が描かれた、黒魔術の儀式じみた部屋。
まともな精神を持つ人間が見れば一瞬で発狂しそうな気の狂ったものばかり。『特異体』に関する手掛かりは、一行に見つかる気配がない。
黒騎士が舌打ちと共にこの階層の探索を断念しようとしたその時だった。
「先輩ー、ちょっとこっち来てくださーい」
緊張感に欠ける後輩の間の抜けた声に、黒騎士が若干の面倒くささを感じながらも声のした部屋に向かう。
特にこれと言って何の特徴も無い部屋だった。いくつかの本棚と大きめの平机。資料室、と呼ぶには書物や書類の数は目に見えて少ない。異様な光景ばかりが立ち並ぶこの空間で、平凡という異彩を放っている。
「先輩、こんなの見つけたんすけど……」
中に入ると田中が紐でとめられた書類の束を差し出してきた。本棚や引き出しにきちんと整理してしまわれている中、この紙束だけが埃を被って平机の上に放置されていたらしい。
レポートかなにかのようだ。
「……『神性原典』についての調査報告書……?」
題名を読み上げて黒騎士は少女の顔をしかめた。
『神性』という単語はともかく、『神性原典』という言葉には聞き覚えがなかった。
ぞわぞわと、背中を嬲るような悪寒とも高揚感とも取れぬ、異様な感覚が黒騎士を襲う。
意図的にわざと目立つ場所へ置かれていたレポート。隠すのではなく、堂々と放置し是非見つけて読んでくれと言っているかのようなご都合主義。これも神のお遊びか、罠の可能性だってある。だがそれでも、黒騎士はこの紙束をどうしても無視する事ができない。
何か、この資料を読めば後戻りできない決定的なナニカを知るような気がして――黒騎士は一切の躊躇なく、その決定的なラインとやらを踏み越えた。
「…………………………………………。……、」
ページを捲る紙ズレの音が連続して響く。
黒騎士は無言で、齧りつくようにその文字の羅列を追っていく。
そして、そして、そして……。
「……おい、お前。これの中身読んだか?」
「? いえ、なんかおっかないし、先に先輩に読んで貰おうかなって思ってたんスけど……」
「そうか。ならそのまま、お前は読まなくていい……」
「先輩?」
訝しげな田中(仮)の言葉も聞えていないのか、黒騎士は静かに肩を震わせている。やがて紙束を掴む手に力が入りグシャッ、という耳障りな音と共にレポートを握りつぶした。
「くくく……はは……ははっ、ははははははははははははははははははははははははは!! ふざけやがって! 何だコレは!? あーあーあー、そーいう事かよクソッタレ! はは、何もかもがお前らの掌のうえってか? ふざけた自作自演だぜちくしょう。スネーク、お前あらかじめこうなる事が分かっていやがったな!? 俺がお前を頼らざるを得ないと! だからあの時あんな事をっ。いや……そりゃ当然か、テメェがこんな重大な事実を知らねえ訳がねえ! ……あー、おいおい、冗談じゃねーよ面倒臭えなんてもんじゃねーぞ。冗談にしても趣味が悪い。端から分かり切ってんだよそんな事は、だからその裏技を探ろうとしてるってのに、先にドヤ顔で答え突き付けてくるんじゃねーよ!」
黒騎士は憎悪と嚇怒に焼き焦がれた絶叫と共に、手に持つ紙束を黒炎のように暴れ回る影によって喰らい尽くす。
……認めない。
認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない!!!
まるで駄々をこねる子供のように頭の中でそう繰り返し、怨嗟と憎悪の炎によって突き付けられたクソくだらない真実を焼却する。
そうだ。
端から分かり切っていた事ではないか。
殺しても殺せないような存在を殺そうと言うのだ。不可能を可能に書き換える法則を探している時点で、困難な道のりであることは分かっている。
だが気に食わないものは気に食わない。
このレポートを記した人物も、その内容も、この理不尽で不条理な真相とやらも。何もかもが黒騎士の神経に触る。
「はぁ、はぁっ、はぁ、……もういい。こっから出るぞ、田中」
「あの……先輩? いきなりどうしたんすか……てか、さっきのレポート、一体何が書かれてたんです?」
唐突に激怒した黒騎士のその激変ぶりに、間違えられている名前を訂正する事も忘れて思わずそう尋ねる田中(仮)。
黒騎士は苛立たしげに田中(仮)を一瞥して、
「……あの変態野郎、自分の死に方すら探求してやがった。わざわざご丁寧に殺し方の手順まで載せてやがる。感動のあまり涙が出そうだ」
「え、それって『特異体』を殺す方法が分かったって事っすか!? あれ? でも、だったらどうしてさっきはあんな風に――」
田中(仮)の疑問に黒騎士は答えなかった。
沈黙こそが答えだとでも言いたげに、己の部下に背を向け、黒騎士は『創世会』本部ビルからの脱出を開始する。
「くそったれの化け物共め……」
忘れた頃に呟かれた怯えたような上司のその言葉が、田中(仮)の耳朶に不吉に重く張り付いていた。
☆ ☆ ☆ ☆
同時刻、『創世会』本部ビル。とある一室。
アンティークな肘掛椅子に腰かけて、死の灰のような髪を靡かせる年齢不詳のその男は感情の判然としない微笑を浮かべ一人眼前のチェス盤に向き合っていた。
「よろしかったのですか? シーカー様。賊を放置して」
「ふむ、彼らをここで始末するべきだったと?」
「彼は『神性原典』を……神の能力者の真実、そのルーツの一端に触れました。最悪の場合、情報が外に漏れる可能性があるかと」
「構わないとも。我が子供達は真実に怯える愛らしい存在。故に子供達が求めるのは真実ではない、偽りの安堵だ。仮に彼が情報を漏らしたとしても、誰もまともに取り合いはしないだろう。それに、子のイタズラに本気で殺気立つ親などいない」
それに……、と。シーカーは薄氷のような笑みを張り付けたまま視線を白衣の男へと向けて、手元の駒――黒のビショップを動かし駒を進めた。敵のナイトを打ち取り前身する。シーカーは何の魔術か奇跡なのか、独りでに動く敵の駒へと視線を向けながら、
「あれは君が楽しみにしていた獲物だろう。私が今ここで手を下してはつまらない」
「……お心づかい、痛み入ります。シーカー様」
跪き、恭しく頭を垂れる自らの部下へ、シーカーは上機嫌な様子で饒舌を振るう。
年齢不詳の美しい相貌には、愚かな小動物を愛でるような、愉悦と嗜虐が浮かんでいる。
「未知の楽園の少女は、私が外に出ない理由を死を恐れている為だと言ったそうだ。全く――的外れも此処まで来ると愛らしいものがあるとは思わないかね」
「……お戯れを。無知とは言え、余りにも不遜な思い上がりかと」
「私が出ずとも、私に対する疑心暗鬼が世界を動かす。私に対する警戒心こそが、私の望む世界を作り上げていく。疑念を抱き不和に揺れ隣人を憎む、そんな世界をね。人類とはね、一つの種族でありながら一つの群体なのだよ。数多の手足を犠牲に『発展』というただ一つの欲へと進む意志の悪魔。手足をいくら捥がれても、彼らは頭が残っている限りいくらでも再生する厄介な集合体だ。しかし同時に、彼らは『人類に対する一つの巨悪』に対して団結する事は出来るが、目に見えぬ危機には疎い。実感の湧かぬ滅亡を傍観する。私は人類の力を決して侮らない。だが同時に、個々の存在が取るに足らない塵芥である事も理解しているのだよ。頭を先に潰してしまえば、手足が何もできない事も。故に今はまだ、私は傍観者であることを選択する」
意味深な言葉に白衣の男が薄く瞳を開き、シーカーの顔色を窺うように見上げる。
「今はまだ時期ではない、と?」
「私が出るには、人と世界は脆弱だ。だからこそ、私という『人類に対する一つの巨悪』が盤上へ登る場面とは、すなわちチェックメイトと同義であるべきだ。万全を期すためには、な」
シーカーはニヤリと、口角を吊り上げると。
「まずは最強の駒を堕とす。チェスに敵の駒を強奪するルールはないが、郷に入れば郷に従えだ、此処は日本の将棋風に行こうではないか」
シーカーの動かした黒のナイトが、白のクイーンをこてりと盤上に転がした。




