第※話 胎動
十一月末、某日。深夜。
天界の箱庭には神の能力者専門の刑務所が三つ存在する。
一つは、西ブロックにある少年院。もう一つが東ブロックにある東刑務所。
そしてもう一つ。
一般住民には秘匿され、その正確な場所さえ認知されていない。特別な犯罪者を収容する特第一刑務所がこの中央ブロックの何処かに存在していた。
「お疲れ様です、黒騎士様」
「おう」
礼儀正しく……というよりも恐怖から深々と頭を下げる守衛の言葉に、適当に手を振って全身黒づくめの仮面が返す。
「通行許可証はいらねーんだよな?」
「はっ、干渉力の照合によって既に黒騎士様ご本人との確認は取れております。どうぞ、お通り下さい」
「はいよ、ありがとさん」
敬礼を崩さない守衛の横を素通りして、黒騎士は監獄内へと入っていく。
監獄内を走る通路は入り組んでいて、施設内の見取り図を持っていても運が悪ければ遭難できると噂されている程に複雑だ。
もっとも、特第一刑務所に収容される犯罪者の質を考えれば、脱走防止の策はいくつあっても足りないくらいだろう。それでも未だに誰一人として脱走を許していないのは、警備につく人材やそのシステムのレベルの高さを証明している。
陰気な場所だ。
黒騎士は自分の見た目の陰気さを棚上げして、煙草が湿気りそうだと愚痴をこぼす。
黒騎士がこの場所を訪れたのは他でもない。ほんの数日前に黒騎士自ら投獄した二人のとある姉妹の様子を見に来たのだ。
目的の檻の前に辿り着き、黒騎士は足を止め中を覗き込む。
「へえ、これまた良いザマだな」
にやりと、仮面の内側の口角をつりあげ笑う黒騎士に、鉄柵の向こう側の人物が殺気の籠った目を向けた。
「なあ、ナルイル。おまえら調子はどーだよ?」
「……あら。わざわざ私達の前に顔を出しにくるなんて、よっぽど死にたいのかしら? 元上司さんは」
二人用のやや大きめの房の中に瓜二つな顔をした双子の姉妹が身を寄せ合っていた。
黒髪ロングに純白のドレスを纏ったナルミと、漆黒のドレスに身を包んだショートヘアーのイルミ。
二人は『汚れた禿鷲』所属の戦闘員であり黒騎士直属の部下でありながら、『創世会』本部ビル襲撃の実行犯として黒騎士に捕えられこの特第一刑務所へと投獄されていた。
……事の発端は負傷を理由に戦線離脱していたナルミを、クライム=ロットハートが『三本腕』の権限を濫用して勝手に拉致監禁した事からだ。
ナルミがクライム=ロットハートに攫われた事に気づいたイルミは、元より彼女ら姉妹と黒騎士との間にあった契約を一方的に破られたと思ったらしい。
黒騎士の命令に従う限り二人の身の安全を保障するという契約は、しかしさらに上位の権限を持つ『三本腕』によって無理やりに破られた。これは決して黒騎士の本意ではなかったが――しかしどんな理由であれ、契約を遂行できなかったのは事実。その点で黒騎士に弁解の予知などない。
結果として姉を攫われたイルミが怒り狂い、黒騎士を待ち伏せしようと邪魔な『創世会』本部ビルの警備員達を襲い仮死状態にまで追い詰めた。
『創世会』は彼女の行動を組織に対する裏切り、反逆行為であると判断。
元より独断専行が目立ち、一部の人間から目をつけられていた黒騎士は、イルミの裏切りを主導しているのではという疑いを懸けられており、分かり切っている『創世会』襲撃の犯人の捜索と捕縛を命じられた。
要するに黒騎士の『創世会』への忠誠を確かめる為の踏み絵という訳だ。
実際に『創世会』に対する背信行為を行っている黒騎士は、自身の裏切りが露呈するのを防ぐため、彼女達を拘束する他無かったのだ。
これがおよそ一週間前――世間では集団洗脳や精神系神の能力者によるテロ事件だと騒がれている『雷雨の狂気』の裏側で起こっていた出来事だ。
「ナルミ、こいつ殺そう。今すぐ殺そう……!」
「ええそうね、イルミ。わざわざ向こうから殺されに来てくださったんですもの。それ相応の対応をしなければ失礼という物よね?」
イルミが殺気を膨れ上がらせ、剣呑に眉を吊り上げる。妹の懇願に姉のナルミも空恐ろしい微笑を刻み込み、いっそ艶やかな表情の中で一対の瞳が狩人の如き光を灯している。
だが、ここは対神の能力者用の監獄だ。
暴動を起こした神の能力者に対する対処も完璧だと言っていい。
そもそも神の力を使用しようにも体内の干渉力をかき乱すジャミング装置が等間隔で設置されているこの場所では、神の力を使った途端暴走に巻き込まれて内側から爆発するのがオチだろう。
ナルミも本当はそれを理解しているのだろう。凄惨な笑みの中、殺意と憎悪に染まった瞳で黒騎士をねめつけてはいるが、軽率な行動を起こそうとはしない。
……もっとも、今にも暴発寸前な妹のイルミの方は姉のナルミが手綱を握っていなければそう言った常識全てを無視して黒騎士を殺す為に動いていただろうが。
あんな狂人の暴走に巻き込まれるのは勘弁だとばかりに黒騎士は仮面の内側からくぐもった息を吐き出す。
「バーカ、俺だって来たくて来た訳じゃねえよ、こんな所。つーか、この刑務所内じゃ互いに神の力なんざ使えねえからな?」
言って黒騎士は懐から何かを取り出し、予想よりも姦しい檻の中へとそれを放り込んだ。
投擲された物体は封筒だった。イルミが露骨に警戒心をあらわにし、ナルミが訝しげに眉を顰める。
「これは……何の真似かしら?」
「別に。お前らは何も受け取っていないし、俺は今日ここを訪れてもいない。何せ黒騎士様は汚れた禿鷲の糞爺様にお呼ばれして本部で会談中だ。そうだろ?」
「……監視カメラなら数えるのを諦めたくらいの数が転がってると思うのだけど?」
「あー、それなんだが……。俺らのやり取りが映像に残る事はないと思うぞ」
なぜ?
と、そうナルミが尋ねる直前だった。
轟ッ!! と、瞳を焼く光を伴って鼓膜を貫く爆音と衝撃波が施設を襲ったからだ。
「アナタ、まさか……」
「おっと、勘違いするなよ。別に俺は何もしてねーよ、面倒くせーしな。ただ、小遣い欲しさにちょっとばかし密告だけだ。特第一刑務所の位置情報と警備情報、さらには収容されてる囚人のリストを。あー、そいえばリストん中には背神の騎士団のメンバーもいたような気がしたなー」
どこまでも白々しく、餌をバラまいた張本人は他人事のように肩を竦めていた。
とここで、短いコール音が鳴る。
黒騎士はそれを予期していたかのようにワンコールで懐からスマホを取り出すと、耳に当てて、
「あー、もしもし。……田中か。あん? 名前が違う? あー、いいっていいって後でな後ではいはい。それで? ……目撃者の口封じは完了したんだな? これで撃ち漏らしがあったら俺もお前も仲良くおじゃんだ。確認を怠ってやがったらめんどくせーけどお前からぶっ殺すかんな」
不運にも、偶然爆発に巻き込まれてしまった看守の死亡を確認。
その他目撃者も火災に乗じて発生した“煙”による一酸化炭素中毒で死亡。
さらに爆発によって監視カメラ含む全ての情報を破壊、バックアップとして別サーバーに常時送信され保管されているデータも、田中(仮)がウイルスを流し込み損壊させた。
こちらは背神の騎士団の奇襲に紛れて仕込んだ爆弾が、ピンポイントで吹き飛ばしたのだから確実だ。
これで黒騎士が今日この場所を訪れたという決定的な物証は消滅した。
「さてと。俺の分身がうまくアリバイを作ってるウチに、俺の方も混乱に乗じて出来る事をやっちまうかねー」
めんどくさげに頭を搔きながら何事かをぼやく黒騎士。いよいよ彼の目的が分からなくなったナルミは、腹の探り合いを諦め、単刀直入にこう尋ねた。
「……このタイミングで私達に接触した目的は何?」
「ナルミ……ッ!」
「落ち着きなさいイルミ。待ても出来ない子にはお仕置きが必要かしらね?」
「……分かった、殺すの、待ってる」
どうして早くコイツ殺さないの!? とばかりに犬歯を剥き出しにするイルミを一言で落ち着かせて、ナルミは黒騎士から投げ渡されたソレを掴んでひらひらと顔の前で振って見せる。
「それで? 自分の手で私達を豚箱にぶち込んでおいて、一体これは何の真似かと聞いているのよ。黒騎士」
「――復讐だよ、おまえら姉妹、そういう物騒なの大好物だろ?」
ナルミの問いかけに、黒騎士は気負いなく答える。まるで、互いの共通の好みの料理を確認するかのような気軽さで。
「復讐? 私達をアナタの復讐の道具に使おうと?」
「柄の無い包丁で料理をするなんて芸当、俺には無理だな。自分の手を傷つけて切り落としちまうのがオチだろ。……端からお前らに期待なんかするかよ、めんどくせー。そうじゃなくてだなー、その……、なんだ。要するに一時的な休戦の申し出、もしくは協力要請みてーなモンだと思ってくれや」
「協力要請? アナタが私達に?」
「ああ、おかしいか?」
「ふふ、いいえ別に。それで、アナタは私達に何を求め、私達は見返りに何を頂けるのかしら。……今なら神の力へのジャミングもない。私達二人でなら、アナタを排除してここから逃げ延びる事も不可能ではないわ。違うかしら? 腹黒い騎士さま」
黒騎士からの協力要請という異例な状況に、噴き出しそうになる程の嘲笑を浮かべていたナルミは、首を横に振りはしたもののやはり愉快そうに笑っている。
腹黒い彼女の事だ。今頃黒騎士の提案から得られる損得を秤にかけて、取らぬ狸の皮算用にいそしんでいるのかもしれない。それともいつか寝首を搔く為に黒騎士の狙いを推し量っているのか。
最も、それは黒騎士とて同じ事だ。
「……当分の間の安全の確保、それから天界の箱庭から亡命する算段を俺の方で整えてやる。その代わり、時が来たら俺が動きやすいように出来る限り状況を引っ掻き回せ。要するに俺の邪魔にならねえ限り何をしても構わねえ。何をしても、だ。想定内の状況に踏みとどまっているだけじゃ、連中の裏を搔く事はできねーだろうからな。だからこそのワイルドカード。お前ら頭のイカレ狂った姉妹の力をちょっとばかし借りようって訳だ。これを拒否して今ここでやり合うのはお前らの勝手だが――時期に此処にも増援が来る。完全に足取りを消すチャンスを失う事になるぞ」
論理的な思考、常識や計算、駆け引きという概念が欠如し、殺意のままに殺刃を振るう狂人であるイルミをコントロールするのは不可能。
だが知略に長け計算高く、短期的な感情よりも長期的な損得勘定で動くナルミならば交渉の余地はある。
しかもナルミを抑える事ができれば、本来制御不能であるイルミでさえも御しきる事が可能だ。
敵に回すと厄介な彼女達と協力関係を結ぶことが出来れば、未だ少ない手札で『三本腕』と対峙しなければならない黒騎士にとって大きな収穫となる。
「ここまでの話でアナタが嘘をついていない根拠は?」
「この襲撃そのもの。だいたい、俺が汚れた禿鷲の糞爺やシーカーの野郎に忠誠を誓った豚野郎だってんなら、こんな真似はしねーだろめんどくせー。常識的に考えろ」
関係はあくまで対等と謳ってはいても、主導権までみすみす渡すつもりはない。
あくまで自分の優位性を見せつけるように投げやりに、ともすれば協力を得られずとも何の問題も無いのだと態度で表明する。
ナルミの探るような視線が突き刺さり、仮面の裏で黒騎士は冷や汗を搔く。
しばし緊張感を孕んだ静寂が場を満たした。
「……いいわ、分かったわ。ここはアナタの思惑通りに動かされてあげるとしましょう。その方が今の私達にとっては都合が良さそうだわ。『創世会』を敵に回した時点で、この街に居場所はないのだし、それなら多少なりとも手札を確保しておいた方が有用そう」
「……なら、決まりだな」
契約成立を告げるように黒騎士が影の黒剣で房の檻を豆腐のように切断する。
今にも飛びかからんとするイルミを抑えながら脱獄を果たしたナルミは、黒騎士から投げ渡された封筒の中身を確認した。
「ぐだぐだ言われんのはめんどーだからな。そいつが前金だ」
中に入っていたのはおよそ百万円分の札束と、
「……へぇ、これは凄いわね。『創世会』のトップ、シーカーお抱えの機密案件がゴロゴロと……。これだけのデータに触れられるなんて、随分信頼されてるのね」
『創世会』に関する機密書類の束だった。
「まあな。コルライの野郎は俺を俺だと思ってねーんだよ。絶対的信頼ってヤツだ、裏切りを疑われることもあり得ねえ。ま、そっちの機密情報の扱いはナルミ、お前に一任する。使うべき時に好きに使え」
だからこそ今回の黒騎士への命令はおそらく、クライム=ロットハート辺りからの牽制だろう、と黒騎士は踏んでいた。
もしくはついにあの男がシーカーに口を割った可能性も否定はできない。
だがそうなれば、黒騎士の裏切りは最早誰にも――コルライでさえ擁護できないレベルで確定されるハズだ。あの男が何故口を噤んでいるかも謎だが、未だに『汚れた禿鷲』のNO.2の座に座っていられる時点で誰にも喋っていないと希望的観測を抱くほかない。
「それで、この後の事はどうするつもり?」
「俺はこの状況を利用して一度『創世会』深部へ潜る。お前らは別命あるまで待機だ。渡した書類の中に、具体的な潜伏場所と移動手段、あとは……まー、諸々の必要事項が記載されてる。楽しい旅のしおりだ。読んだら落とさずに燃やすのが良い子のマナーってヤツだな」
「あらあら、えらく過保護なのね、私達の元上司様は」
「抜かせ、お前らに足引っ張られるのがゴメンなだけだ。何にせよ、俺が動くまで誰にも悟られるんじゃねーぞ。俺が捕まったらお前らは天界の箱庭から逃げる手段を失う。その事を肝に銘じておけ。裏切りなんてめんどくせー駆け引きは、互いにやるべき事が終わってからにしろ面倒くさい」
「……オーケー、分かったわ。ビジネスライクにいきましょう。お互いの為にも、ね」
分かりやすい握手などしなかった。
一度も視線を合わせることなく、双子の姉妹は黒騎士の横を通り過ぎていく。黒騎士もまた、振り返って彼女達に何か声を掛けようともしない。当然だ。必要な事は既に言ってある。不足分も渡した書類が埋め合わせてくれる。必要以上の馴れ合いに価値などない。
闇の中を生きる者達は、利害の一致でのみ他者と手を取り合う。だがそこにあるのは信頼と敬意と期待ではない。打算と知謀と裏切りだけだ。
黒騎士はしばし二人の消えた雑居房を眺めていたが、やがて懐からスマホを取り出すと慣れ親しんだある番号に掛けた。
「……ああ、俺だ。田中、お前も早くこっちに合流しろ。ああ、予定通りだ。特第一刑務所に収容されてる受刑者どもは、本来なら存在しねー神の能力者だ。ただ処刑するには惜しい有能な人材も多い。だから『創世会』はここを放置する事はできねー、めんどうだろうけどな。殺処理するにせよ何にせよ、見られたくないモンをひとまずお日様から隠す為、危険だと分かっていてなお汚物を一度胸に抱え込むハズだ。ああ、だから、このまま俺とお前で双子になりすまして、そのまま『創世会』内部に侵入する。……『帝国旗』も依然入手に漕ぎつけてねー今、『特異体』のクソをぶち殺す為のヒントが必要だ」
憎悪の焔はなお高く。
どれだけ時が経とうとも摩耗することなく復讐鬼の中で燃え滾っていた。
☆ ☆ ☆ ☆
薄ら暗い空間にぽつんと取り残されたように鎮座するアンティークな肘掛けに腰掛けて、死の灰のような色の髪を掻き上げながら、男は赤紫色の液体の入ったグラスを傾けていた。
「ふむ、悪くない」
どこか満足げな男の表情を淡く照らす光源は、空間に無限に揺蕩う蝋燭。揺らぐ虚無の大きさは一秒ごとに変動し、決して安定しない。先ほどまではサッカーグラウンド程の大きさがあったかと思えば、瞬き一つする間にマッチの小箱程にまで縮んでいたりする。
無限に広がる虚無とも呼ぶべきそこは、彼の私室であり領域でもあった。
特徴的な――特徴のない部位を探すのが難しいくらいの、どこかその佇まいに違和感のある男だった。
容易に一九〇に届くであろう長身に、足元まで届く髪はくすんだ死の灰色。痛み、年老いた髪の毛の質感とは裏腹に、目鼻立ちの整った西洋風の顔は誰がどう見ても二〇代前半にしか見えない。
若く美しい瞳に灯る妖しい輝きは、何とも形容しがたい危険な妖艶さと老獪さに満ち溢れていて、時の流れの壮大さといつまでも変わらない子供心のような純粋さを彷彿とさせる。
肌はピンとハリがあって弾力に富んだ若さそのもので、しかしその指先の爪はまるで年老いた魔女の鉤爪のように折れ曲がり、醜く欠けている。
高貴でどこかの王族のような雰囲気を身体から放出するその男は、間違いない美丈夫でありながら、身に着ける白を基調としたその貫頭衣は簡素で質素を地でいくような代物だ。
どこまでもちぐはぐで、矛盾をそのまま内包したような不自然で気味の悪い年齢不詳の男。
彼を表す名には様々なモノがあるが、それでも今現在の彼を呼称するに最もふさわしい名は一つだろう。
「シーカー様」
と、不意に生じた人の気配が男の名を呼んだ。
茫洋とした空間に降り立ったその男は細身の体に白衣を纏い、柔和な表情を浮かべている。
シーカーの側近にして『創世会』幹部『三本腕』が一人。通称、『白衣の男』。
正気の殺人鬼にして死より蘇った謎の神の能力者は、主の元へ滑るように移動すると、周囲の耳を気にするかのようにそっと耳打ちした。
「……そうか、未知の楽園が」
「ええ、ですが……お言葉ながら既に彼の都市に憎悪の苗床以上の価値はありませんでした。損失は軽微。計画に支障はないかと」
「分かっているとも。だが――そうか、彼女が、な……。ふむ、あの場に立ち会った者としては、実に感慨深い物があるな」
シーカーはどこか他人事のように呟いて、ワイングラスの中の液体をぐっと煽る。芳醇な香りが鼻の奥へと抜け、ほのかな甘みと酸味が舌を唸らせる。
シーカーはひとしきりその感覚を楽しむと、些か唐突にこんな事を切り出した。
「――信仰とは、あるいは人の持つ思いの力、とは。一体なんなのだろうな」
「はい?」
思わず聞き返す白衣の男にシーカーは微苦笑のような哀愁のような、得体のしれない表情を向けて、
「――神は死んだ。かつて、とある哲学者はそう言ったそうだ。それは神秘の喪失、ある種超越的な世界への信仰が消滅したが故に神に価値は無くなったのだと。不信という人の想いが、感情が神殺しを成した。この世界から神秘を消滅足らしめたのだ。――偉大な事だとは思わないかね? 人とは、人の抱く想いの力とは、神にも届きえる無限の可能性であると」
「だからこその必須最重要数値、ですか。神殺しを成した人類ならば、その逆もまたしかり……と?」
白衣の男の言葉にシーカーは意味深長な微笑を見せるだけ。その笑みが言葉にするまでもない肯定を示していることを白衣の男は理解している。
もとより、最初の問いかけの答えすらもシーカーは既に得ているのだろう。
これは自問自答にもならない、予定調和の答え合わせ。口と言う器官を用いて明確な言葉を形作る事で、己の意識と肉体とをすり合わせる再確認と再調整の儀式めいたものだ。
「元より、神という存在は俗物的で娯楽に飢えている。――この場合の神とは勿論、絶対主としてのGODではなく、■■■をモデルとして派生し神話に描かれた神々の方だが――何にしてもかつて神々は人間よりも人間臭い清濁併せ持つ酷く感情的な超越者として人と共存していた。故にこそ、子供達の中に眠るその血は、感情の激動によって突き動かされる」
「シーカー様がそうであられるように、ですか?」
「ふむ、確かにそうであるな。私も長い年月を生きてきたが、未だに人の喜怒哀楽を越える娯楽に触れた事はないよ。『探究』という我が根源の欲求にも勝るとも劣らない、甘美な美酒だ。故に心に刻むべきなのだよ、我々は決して侮ってはならない。人の持つ感情を、想いとは、時に神意も因果律すらも捻じ曲げる錬金術であると」
白衣の男には、それがシーカーの告げた福音であるかのように思えた。
想いの力――それが絶望であれ希望であれ憎悪であれ何であれ――こそが、世界を変えるに相応しい力であると。ならば自分の内に眠るこの感情は、我が主を驚嘆させることができるだろうか。喜悦を与える事ができるだろうか。
「子供達の存在によって、世界はその神秘を取り戻しつつある。計画実行に必要な干渉力の確保も既に目途が立っている。必須最重要数値『憎悪』は目標値に無事到達。クライム=ロットハートによる感情への人為的な干渉による『神化』は東条勇火によって立証された。『起爆剤』、天風楓の状態も悪くない。『巫女』も第一候補を問題なく使用できるだろう。首尾は上々、時機、『厄災の贈り物』も動き始める。我々も、長らく準備段階だった『神門審判計画』を再臨段階へと進めるとしよう」
「はっ、」
白衣の男はその場で跪き頭を垂れて短く力強い返事をすると、
「全てはシーカー様の御心のままに……。それで、報告した件はいかがいたしましょう」
「ふむ、そうだな。スネークには悪いが……これ以上、アレを泳がせておく必要もあるまい。クライム=ロットハートからの報告もある。彼が二代目として完成する前に処理するのが一番だろう」
そして年齢不詳のその男は、言葉をぼかしていた部分を明確にするように、傍らに侍る白衣の男へとはっきりとこう告げた。
「東条勇麻の殺害を許可する。神門審判の精神安定材として起用していたが、やむを得まい。具体案は全てクライム=ロットハートに一任する。丁度、おあつらえ向きの舞台も用意したのだ。せいぜい踊って貰おうではないかね」
さあ、今宵の宴を始めよう。
各々大いに騒ぎ、歌い、踊るがいい。諸君らのあげる喜怒哀楽と阿鼻叫喚こそが、神へと捧げる最上の供物なのだから。
――様々な思惑を孕んで、三大都市対抗戦がもう間もなく開催される。




