第終話 お別れとハッピーエンド
乾いた荒野を彩る湖やマングローブ林。対照的な美しい光景が交錯する『エル・ビスカイノ生物圏保護区』では、大勢の人々が勝鬨をあげたような騒ぎになっていた。
崩壊する未知の楽園から地上へ脱出することに成功した彼らは、互いの命があることを喜び合い、一致団結して困難を打破した事に湧き立っていた。
逃亡者であり続けた彼らが初めて自らの足で立ち、掴んだ勝利。
街は瓦礫の下に消えてしまったけれど、きっとこの街の人々は此処から変わっていくのだろう。そう確信を得るには十分な光景だ。
そんな人混みの中を泳ぐように掻き分けて、クリアスティーナは一人の男を探していた。
(……いない。ここにも……!)
ずっと隣で手を握っていたはずのその青年がいなくなっている事に気が付いたのは、ほんの数分前の事だった。
本来なら誰よりも真っ先に勝利の雄叫びを上げクリアスティーナに抱きついてきそうなディアベラス=ウルタードが、何処にもいない。
初めは他の誰かとバカ騒ぎをしているのだと思った。だが転移前にあれだけ近くにいたのに未だにその姿はおろか声すら聞こえないなんて、何かがおかしい気がしてならない。
レギンにも事情を話し、逃亡者の集い旗の皆にも捜索を手伝って貰っている。
あの男の事だ、こっちが必死になって探しているうちにひょっこりと呑気に顔を出すに決まっている。これはきっと杞憂だ。そう思う。無理やりにそう思おうとするのに……。
「はぁっ、はぁっ、なん、でっ。どこにも……いないんです……か」
胸騒ぎが収まらない。
不吉な予感がクリアスティーナを支配し、昏い感情が勝利の喜びを上書きしようと忍び寄る。
脳裏にちらつくのは、この一連の騒動で無理をし続けたディアベラスの満身創痍な立ち姿だ。
ボロボロになり文字通りに血反吐を吐きながら『ウロボロスの尾』の中継役として、クリアスティーナに干渉力を供給し続けたディアベラスの負担を考えれば考える程に、最悪な結末が脳裏に浮かぶ。
その最悪を振り切ろうと、クリアスティーナはひたすらに足を動かし続ける。
「――クリアスティーナ、どうした。何かあったのか?」
不安と焦燥感に駆られ気が動転していたクリアスティーナは、故に声をかけられるまでその少年の存在に気が付かなかった。
どうやら動揺が表情に出てしまっていたらしい。
血相を変えて走るクリアスティーナを見て東条勇麻が心配げに声を掛けきたのだ。クリアスティーナは止まるのももどかしく、ほんの一瞬だけ後ろを振り返って今にも泣き出しそうな声で、
「ディアくんが……、ディアベラスの姿がどこにも見当たらないんです……!」
「!?」
クリアスティーナの言葉に東条勇麻とその隣にいた九ノ瀬和葉が瞠目して顔を見合わせた。全てを察した二人は、勢いよく立ち上がると、再び走り出したクリアスティーナの後を追うように――和葉が右足の骨の砕けた勇麻に肩を貸しながら――周囲に目を向けながら駆けてくる。
クリアスティーナは二人を待たず、その心遣いには感謝をして、再び捜索を始めた。
走り、人混みを抜け、さらにあてもなく走る。三年間もの間引き篭もっていた少女の身体は、たった数分の全力疾走でさえ悲鳴をあげている。膝に手を突き、呼吸を整える中で今更のように自分がディアベラスを探す為に神の力を使っていない事に気が付いた。
どれだけ自分が動揺してるかを思い知らされつつ、残り少ない干渉力を用いて『支配する者』の力で周辺を精査。すぐにディアベラスらしい人影を感知し、残りの体力全てを振り絞って急行する。
そこは、騒ぎから少し離れた、大きな岩の陰だった。
「……なんだぁ、来ちまった、のかぁ……」
息せき切って走ってきたクリアスティーナを見て、開口一番その男はそんな事を言った。
どこか嬉しそうに、少しだけ悲しげに。
まるで、勝利に沸き立つ人々に水を差す事を嫌ったかのように、そんな寂しげな場所にディアベラス=ウルタードは座り込んでいた。
茫然と立ち尽くすクリアスティーナに追いついた勇麻と和葉は、ディアベラスを見た途端に言葉を失った。息を呑み口元を手で覆う和葉の隣で、勇麻が声を震わせた。
「ディアベラス、お前……それ……」
まるで、ペンキをぶちまけたような目に障る赤。その真紅の湖の中心に、ディアベラス=ウルタードはボロ雑巾のような姿で沈んでいた。
「あぁ、どうやら……無茶を、しすぎた。らしくてなぁ、へへっ、まぁ皆で……生きて地上に戻るってのはぁ……達成できたんだぁ、そう。気に、すんじゃねぇ……」
普段は隠れている人懐っこい瞳が笑っている。自分の目で直接この朝焼けを見たかったのだろう、トレードマークのサングラスは血だまりの中、すぐ近くに転がっていた。
だが今のディアベラスに、まともにこの景色を見るだけの視力が残っているかも分からない。
身体中の血管が引き千切れ、破裂している。いらない玩具のように投げ出された筋肉質な腕に走るいくつもの裂傷が、その破裂の勢いを物語っている。おそらくは拒絶反応によるものだ。あまりに多量に他人の干渉力を自身の身体に流し続けた結果、和葉の『貼り付け』をもってしても世界を騙しきれなくなり、ディアベラスの肉体は崩壊した。
そもそもクリアスティーナとの死闘を終えた時点でディアベラスの身体は満身創痍、干渉力もほとんど底を尽きかけていたような状態だった。
そのうえで未知の楽園の人々に避難を促すために『悪魔の一撃』を連発。さらには和葉の『横暴なる保存者』で無理やり己の干渉力の半分近くをクリアスティーナの物へと上書きし、さらに『ウロボロスの尾』との接続、力の供給まで行っていた。
未知の楽園の住民を一斉転移させるという今回の作戦、この男の双肩に掛けられた負担はあまりにも大きすぎたのだ。
おそらくは筋組織や内臓系もズタボロだろう。もはやディアベラス=ウルタードは生きるための機能を失っている。こうしている今も、いつ心臓が止まってもおかしくないような状態のはずだ。
血をほとんど失ったディアベラスの顔は青白く、まるで死人のようだった。
現実を受け止めきれないのか、膝から崩れ落ちたクリアスティーナがふるふると何度も首を横に振るう。
「嫌だ。嫌だ、よ……こんな、折角っ、折角また家族皆で暮らせるのに……どうして、こんな……っ!」
こんなのは違う。
認められない。認められる訳がない。
誰一人だって失いたくなかった。こんな馬鹿な自分を大好きだと、家族だと言ってくれた人達を失いたくなかった。クリアスティーナの『助けて』に応えてくれた皆を今度は自分が助けたかった。
だって、皆で笑っていたかった。もう自分一人で部屋の隅に引き篭もっているのは嫌で、最後に笑顔で結末を迎えたかったから。
だから、そんな素敵な未来が待っていると思っていたから頑張れた。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、運命を変える事すら恐れずに、英雄になる事を厭わずに、あの絶望に立ち向かえたのだ。
なのに。
必死に何かを変えようと戦ったその結果がディアベラス=ウルタードの死だなんて、そんなの絶対に間違っている。
「……そんな顔、すんじゃ、ねえ……よ。アスティ、可愛い顔が……台無しだぁ」
「ばかぁ! こんな時に、何を言っているんですか、ディアくんは……!」
「そうじゃ、……ねえ。こんな時だからこそ、だ」
反論するディアベラスは、苦痛に歪む顔にそれでも不敵な笑みを浮かべる。
それは愛する人に情けない姿は見せたくないという、男の最後の意地なのか。
「……好きな女ぁ守って、その女に、看取って……貰えるんだぁ。男として、これ以上の贅沢は、ねえだろう。だから最後に……お前の、可愛い顔を見せてくれよぉ。アスティ……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているクリアスティーナの顔に手を伸ばそうとして、しかしディアベラスの指先はぴくりとも動かない。
……酷え……有り様だぁ、チンポジ一つ。弄れやしねえ……、と。ディアベラスは疲れたように笑った。
「本当に、何を言っているんですか、アナタは……っ!」
力を失っていく身体を繋ぎとめるように必死で抱きしめた。その胸に顔を埋める。驚くほどに冷たい。命が失われつつあるその身体は、中身が抜け落ちたかのように軽かった。ディアベラスは何も言わずにクリアスティーナを受け止め、愛おしげにその瞳を細めた。
「アスティ、お前はこっからだぁ。馬鹿な兄や、姉どもと協力して……今度はちゃんと、逃げずに、生きろよぉ……」
「いやだぁ! ディアくんは私を好きだって言ってくれた! なのにどうして私を置いていくんですか!? そんなの酷いじゃないですか、なんで、やめてよ。私を愛してるなら、私の為にもっと生きてよぉ……っっ! また皆で暮らそうよぉ……っ」
ポロポロと、止めどなく涙が零れ落ちる。嫌だ、行かないでと、クリアスティーナは駄々をこねる子供みたいな嗚咽混じりの我儘を言い続ける。
それでもクリアスティーナは、ディアベラスの願いの通りに笑顔を浮かべた。涙と鼻水でボロボロな、また家族皆で暮らす幸せな未来を想像する薄汚い少女の笑みを。
ディアベラスは焦点の合わない瞳でそれを見て、
「サングラス、取ったってのによぉ……、本当、俺ってヤツぁ、大事な時に、大事なモンが見えもしねえ……」
「私っ、まだちゃんと好きだって言ってないっ、言いたい事も、言われたい事も、やりたい事だって、もっともっともっと……ッ!」
「あぁ、そうだなぁ。出来る事なら……ずっと。明日も、明後日も、その次も……毎日。こんな風に……朝焼けってヤツを。お前と二人一緒に……見たかった、なぁ……」
目蓋が力無く落ちていく。
身体から意志が抜け落ち、軽かった身体が泥を詰めたようにガクンと一気に重くなる。投げ出された手が、ぐらりと揺れた。
「うそ……、いやだ。いやだよぉ……ディアくんっ、返事、してよぉ……っ。 ぁあ……うぁああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……っっっ」
その口元に浮かぶ心の底から幸せそうな笑みがどうしようもなく憎らしくて、クリアスティーナはボロボロになった青年を縋りつくように抱きしめ、声が枯れるまで子供のように慟哭した。
朝日に照らされたディアベラスの顔は、微睡みに落ちた少年の寝顔のように安らかだった。
☆ ☆ ☆ ☆
ディアベラス=ウルタードは愛する少女に看取られて、静かに息を引き取って行った。
東条勇麻が願い、皆と共有し、そして全員で掴み取ったハズの幸福な結末は、しかし一人の男の犠牲のうえに成り立った紛い物だった。
「……俺は、俺はこんなくだらない結末を求めて拳を握っていたんじゃねえんだよ、ディアベラス……」
力なく握った拳はふるふると震え、今にも解けてしまいそうだ。
それでも勇麻は力を籠めつづける。そうしなければ、瞑った瞳から何かが流れ落ちてしまいそうだったから。
「……どこまでもふざけた人だったわね、本当に。全体的に下品で粗雑で、だけどここぞと言う時は頼りになって、ふざけた言動ばかりなのにどこか憎めない。彼の元に不思議と人が集まるのも、分かる気がする。きっと、心地いいのよ、どんな時でも不敵に笑うあの人の隣は」
そんな話は聞きたくない。
もう終わったコトのように、過去の人物として、記憶の中の誰かとして、勇麻の知っている人が語られる事が許せなかった。
けれど、これは勇麻が選んだ結末なのだ。
全てをかなぐり捨ててアリシアを救うという我儘を押し通したあの瞬間に、一度は他の全てを諦めた勇麻が受け取るべき報い。
……そんな訳があるか。ふざけるな。
「……ざけんなよ、なんで俺の無能のツケを、クリアスティーナやディアベラスが払ってんだよっ、なんで、俺ばっかり馬鹿みてえに生き残って……!」
握り固めた拳で自分の膝を殴っても、一ミリだって気持ちは晴れやしない。
何が幸福な結末だ。
亡骸を抱いて泣き叫び続けるクリアスティーナも、沈鬱な表情で俯く和葉も、悔しさに歯を食いしばる勇麻も、誰一人だって救われていないではないか。
皆で生きて地上へ逃げられなければ何の意味もない。一人だって欠けてはならなかったのに。
「……お前が居ないんじゃ、何も喜べねえよ……ッ!」
ディアベラスの死というあってはならない結末を前に崩れ落ち、項垂れる勇麻達。
これまでの戦いの意味を、敗北に屈せずに抗い続けてきた全てを否定された鋭い痛みに、全身を貫かれる。
情けなくて悔しくて涙の一滴さえ出てこない。
いや、そもそも勇麻にそんなものを流す資格すらないのだ。
一人の少女を救うかわりに全てを見捨てた東条勇麻という愚者には――
『――あのー、お取込み中悪いんだがぁ……』
どこか申し訳なさそうなその声が響いたのは、失意と悲しみと絶望に沈んでいたそんな時だった。
『えーと、完全に死んだ扱いになってるトコ空気読めなくて申し訳ないんだがぁ、その。なんだぁ、俺、どうやらまだ生きてる? みたいなんだよ、なぁ……』
……は?
クリアスティーナが泣きやみ、和葉は幽霊を見たようにギョッとして辺りを見回し、勇麻もポカンとその口を開ける。
死体が喋った……? のとも違う。
幻聴……ではないと思う。
だがその特徴的な巻き舌は聞き間違いようがない。
いつもの下品で粗雑な口調は今はなりを潜めているが、間違いない。聞き覚えのあるこの声は……。
「……ディアくん?」
相変わらずディアベラスの亡骸はぴくりとも動かない。
だが、泣き崩れるクリアスティーナ達から視線を逸らして、困ったように頭を搔きながら言い淀むドレッドヘア―のグラサン男の姿を、勇麻は確かに幻視した気がした。
というか間違いない。絶対にやっている、そうに違いない。
『あー、なんだ。その……さっきのやり取りの後でちょっとばっかしカッコが付かねえがぁ……。ただいま、アスティ。行かないでって言われたからか、戻ってきちまったみてえだぁ。……迷惑だったかぁ?』
ポカンと呆けていたクリアスティーナの瞳に、再びじんわりと涙が溜まっていき、そして――再び決壊した。
物言わぬディアベラスの身体を抱き枕のように強くきつく抱きしめながら、うわんうわんと泣き出すクリアスティーナに、声だけのディアベラスが慌てまくっている気配が伝わってくる。勇麻と和葉は互いに顔を見合わせて、そのデタラメ具合に声も出せない。ただ放心してその場にへなへなと崩れ落ち、疲れたように盛大に息を吐いて天を仰いだ。
意味が分からないと、そう呟く元気さえ残っていなかった。
「ディアくんのばかぁッ! ホントに死んじゃったと、もうお話も出来ないと、思ったんですからぁぁぁぁぁ……っっ!!?」
『ああ、アスティ落ち着けそんなに強く抱きしめたら俺の身体が壊れる……っ!?』
けれど。
「ぷっ、……はっ、あははははははははははははははははははは!! あー、もう! 本当に迷惑なヤツだ畜生、俺達の涙とシリアス返しやがれってんだよ!」
ほんの些細な事で罅割れ、壊れてしまう儚いモノなのだとしても。
何気ない選択一つを見誤れば零れ落ちていた、偶然の産物なのだとしても。
確かに皆の手で掴んだボロボロの幸福な結末が、そこにはあった。
だって、皆が皆、くしゃくしゃのみっともない笑顔を浮かべていたから。
☆ ☆ ☆ ☆
クリアスティーナの干渉力を体内に取り込み続けた結果か、それともおよそ三年という長期間クリアスティーナの神の力によって次元の狭間に閉じ込められていた経験故か、ディアベラスは死の直前、その魂だけを壊れゆく肉体から切り離し、別次元へと一時的に退避させる事に成功したらしい。
いくら神の子供達とは言え、人間を辞めるどころか本当に神様の領域に踏み込むようなデタラメ具合だが、それでも事実、こうしてディアベラスは生きている(?)。
ボロボロになった身体を凍結保存して、適切な処置を施せば、また魂が肉体に戻れる可能性もあるとの事だ。
そんな経緯で、クリアスティーナが抱き枕にしていたディアベラスの肉体は直後すぐさま逃亡者の集い旗の手によって回収され、ダニエラの指揮の元に適切な処理が施された。凍結保存の代わりにクリアスティーナが直々にディアベラスの肉体を正常な時間の流れから切り離された異次元空間へと閉じ込めたので、当面の間は心配ないそうだ。
地下から地上に出た未知の楽園の人々の今後の事も含めて、状況が落ち着いてからきちんとした設備で治療(蘇生?)をするらしい。
勇麻と泉もスピカやレインハート、シャルトル達四姉妹と合流した。時にこっぴどく叱られ、時に安堵と共に抱きしめられ、時に満面の笑みと共に頭を撫ででとせがまれたりしながら、各々が無事の再会を祝福しあった。
ちなみに勇麻は拾った木の枝を和葉の『貼り付け』によって強度を上げて貰い松葉杖代わりにして何とか歩いている状態だ。
勝利の歓喜に酔いしれていた人々は、少しばかり落ち着きを取り戻したものの今も飽きずに歓談を交わしている。
豪華な食事も酒もない空の宴会は、けれども人生最高の盛り上がりを見せて、勇麻達は未知の楽園や逃亡者の集い旗の人々と肩を組んで笑い合い、未来の事を沢山話した。
それは希望の話。懸命に今を生き、明日に希望を馳せる。人が人らしく生きる為に必要な、明日の話を。
ほんの数時間前まで殺し合っていたはずなのに、人間というのは不思議な物だ。
安易な憎悪に逃げず、先入観を取っ払ってその人のありのままを見てみれば、そこにいるのは自分と何ら変わりない人間なのだと気付くのだ。戦う理由を失った今、そうなるといがみ合うのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
そう言って笑う勇麻に、和葉は「そんな変態あなただけよ」と呆れたように吐き捨てていたが、最終的には生生や竹下悟あたりと楽しそうに喋っていた(一方的におちょくられていたとも言う)から、人間なんてそんな物なのだろう。
しかしこの時間も永遠ではない。
楽しかった時間はあっという間に過ぎ去り、別れの時間は確かにやってくる。
セルリアから帰還の準備が整ったとの連絡を受けるとともに、楽しい時間は終わりを告げた。
勇麻は未だ目を覚まさないアリシアを背中におぶり、クリアスティーナやダニエラの見送りを受けていた。
ちょっと前まで一緒に居たはずの和葉はふらりと何処かへ行ってしまってここにはいない。湿っぽい別れは嫌いなのか、単なる気紛れか、猫のような自由奔放さは出会ったころから変わらないと、勇麻は半ば呆れて息を吐く。
だが、彼女との別れはこれくらい適当な方が良いのかも知れない。
もう二度と会う事もないのかもしれないけれど、それでも明確なさよならで終わりを線引きをしてしまうよりは、ふらりと意識の隙をついて現れる野良猫のようなポジションが彼女には似合っている気がした。
『もう行くのかぁ』
「……ええ、アリシアを無事奪還した以上、我々背神の騎士団が未知の楽園に留まる理由はありません。アナタ方の問題にこれ以上部外者が首を突っ込むのも良くありませんし」
出会った時同様またしても声だけになったディアベラスの問いかけに、レインハートが表情を変えずに答える。
ややディアベラスの状況を理解しきれていないシャルトルとスカーレあたりは姿なき声に若干顔を引き攣らせていたが、レインハートは勿論、スピカや勇麻には慣れたものだ(セピアに関しては妙に肝が据わっているのか天然ちゃんなのかまったく動じる気配がなく「なっ、な、」と、声だけのディアベラスに積極的に話しかけていた)特に何の違和感もなく、会話は進行していく。
「……女の子一人助ける為に逃亡者の集い旗に殴り込みを掛けようっていう馬鹿が現れた時には、これまた威勢だけはいいクソ餓鬼が来たもんだいと思ったけど、まさか神の子供達本人をぶっとばして、そのうえ未知の楽園の馬鹿どもさえ救っちまうとはね。アタシの過去視の炯眼も、いよいよ耄碌したかいね」
「あの時の話は言いっこなしだ。それから――こっちこそ悪かった。ごめん、何も知らない癖に、アンタの事を臆病者呼ばわりしてさ」
おどけた態度を取る今回の脱出劇の最大の立役者の一人ダニエラ=フィーゲルに勇麻はしっかりと頭を下げた。
勇麻は初めてダニエラと出会った際、彼女の事を一度臆病者呼ばわりしている。
あの時の彼女の発言は勇麻達を試す物であって、他者と関わる事を忌避する臆病者ではないのだが、あの時の勇麻は頭に血が上っていた事もあって彼女に対してかなり失礼な態度を取ってしまっていた。
クリアスティーナとの最終決戦へ挑む直前に謝罪しようとした時は「謝りたかったら生きて帰って来い
」と軽くあしらわれ、ようやくその機会が巡ってきたのである。
深々と頭を下げた勇麻にダニエラは目を僅かに見開いて、
「おや、アタシに謝る約束、きちんと覚えていたのかいね。そりゃ結構な事さね。あれだけの死地を潜り抜けて、アンタはまだまともな精神を保ってるって訳だ。驚く程に鈍感な心をしてんのか、それとも……。まあ、アタシが一番驚いたのがアンタがウチの家出娘といつの間にか知り合ってたって事なんだがね」
「いや、それが今日一番の驚きなんだけどホントに」
勇麻をからかうダニエラの隣でニヒヒとヤンチャ小僧のような笑顔を浮かべるオレンジ髪の少女、ミランダ=フィーゲルをげっそりとした顔で見つめて感想を言う勇麻――冷静に考えれば名字が同じなので誰の目にも明白だし、おそらく和葉が此処にいればまた呆れられていただろう事は間違いない――は、先の宴会で告げられた衝撃の事実を思い出して冷や汗を掻いていた。
「いやー、関節キスの時もそうだったけどさ、ユウマのリアクションっていつも面白いよなー!」
「ぶふっ!?」
さらに追加で燃え盛る炎の中に爆弾が投げ込まれ、後ろの四姉妹が騒ぎだし、レインハートが無表情のままとても冷たい視線を勇麻に照射してくるという地獄絵図が一瞬で完成する。
勇麻の斜め後ろから泉が「お前また小さい子に手を出したのか……」と、若干リアルに引いたような視線を送ってくるのが痛すぎる。変に藪を突くと面倒な事になるのは分り切っているのであえてスルーする勇麻だが、この選択は吉と出るか凶と出るか果たして……。
少し離れた場所ではピンク髪が特徴のリリレット=パペッターが、何やらモジモジしながらファンキーなうさぎのぬいぐるみを首を傾げるスピカに向かって突き出すように差し出していた。
どうやら他の逃亡者の集い旗のメンバーの元を抜け出して、個人的な理由でスピカの元を訪れたらしい。
「これ、スピカにくれるの?」
「……うん。あの、ね。リリ、アナタの事沢山蹴ったり、殴ったり……殺そうとして、ごめんなさいだし。だから、その……これ……ごめんなさいの気持ち……」
うさぎのぬいぐるみを差し出すリリレットの手は、拒絶される事を恐れるように震えていた。
盲目のスピカは、しかし少女の身体が発する微かな振動から、リリレットの感じる恐怖を感じ取る。彼女の行動に、他意はない。リリレットは心の底からスピカを殺そうとした事を悔い、謝ろうとしているのだ。
スピカはほんの一瞬、うーんと唸る。
スピカはスピカなりの価値感、倫理観、道徳観でもって、自分を殺そうとし、自分も確たる敵意を持って戦ったリリレット=パペッターという少女の謝罪の申し出について考える。
……拒まなきゃならない理由は、特に見つからなかった。
「……ううん。スピカのほうこそ、ごめんなさい。……お友達の子、スピカのせいで居なくなっちゃったんだよね」
「ううん。裂姫ちゃんはもういないけど、リリには沢山家族がいる。それにリズが言ってたし。裂姫ちゃんはもう隣にはいないけど、災友クンと一緒にリリ達の心の中にいるんだって。だからリリは寂しくないし」
少しだけ寂しげなリリレットの声は、けれども後悔はしていないようだった。
割宮裂姫という少女の死をようやく受け入れ、彼女はようやく自分の足で明日への一歩を踏み出していくのだろう。だから寂しさというよりも、不安の色が強く音に混ざっている。スピカはそれをしっかりと“聞き抜いて”いた。
目元を覆い隠すように包帯をぐるりと頭に巻いた盲目の少女はニッコリと微笑んで、
「そっか。ならさ、……スピカとお友達になってよ。裂姫ちゃんもいれて三人、今度は一緒に遊べるように……!」
「リリ達とお友達に? ホントに、いいの……?」
「うん! お友達は多いほうが楽しいから!」
うさぎのぬいぐるみを大切そうに抱いて、スピカは無邪気に笑った。
――罵り合い、殺し合った少女達の、ある種歪なやり取り。まともな倫理観が存在する平和な国なら本来ありえないような会話に、薄気味悪さを覚える人もいるのかもしれない。
でも。
人と人とが互いに歩みより、分かり合おうとする光景は、どれだけ歪でも尊く美しいものなのだと勇麻は思うのだ。
彼女らはともに常人とは異なる異常を抱える神の能力者。
だからこそ結ばれる絆だって、きっとある。
『お前らにはいくら感謝してもしたりねえくらいの恩が出来ちまったなぁ。ま、この借りはいつか何らかの形で必ず返すって事で勘弁してくれやぁ』
「ええ、私達としても何かお礼が出来ればいいのですが……」
「やめてくれよ、こっちはアリシアを迎えに来ただけなんだ。特別な事なんて何もしてねえよ」
「そうですね。私達はあくまで仲間を保護しに来ただけです。未知の楽園の行動はその全てがアリシア奪還という目的の為の行動。いわば私達の為の行いです。お礼を受け取るような真似など何もしていません」
「えー、折角なんだから、貰えるモノは貰って行けばいいじゃないですかぁー。ぶーぶー」
今も背中で寝息を立てる白い少女を揺らして笑う、変に欲のない勇麻と、生真面目なレインハートが二人の申し出を躊躇いなく断ると、後ろで現金なシャルトルがつまらなそうに頬を膨らましていた。
そんな背神の騎士団のやり取りにクリアスティーナとディアベラスは笑い、ややあってクリアスティーナが懐から一つの石を取り出して勇麻に渡した。
きらきらと七色に輝くその石は、クリアスティーナの干渉力が込められた『輝石』だ。
『ま、そっちの言い分も分かったがぁ、それじゃあこっちの気が収まらねえんだ。何かあったらその石使って連絡しろやぁ。何が出来るか分からねえがぁ、俺達逃亡者の集い旗はいつだってアンタらの力になるさ』
「……東条勇麻。私が貴方にしたことは、到底許される事ではありません。ですが貴方は馬鹿な私に手を差し伸べてくれた。私達家族に道を示してくれた。ありがとう、貴方の行為は常識的に考えて人の事を言えないくらいに馬鹿げていますが、私達はそんな貴方に救われました。これからも、どうかお変わりなく」
相変わらずやけに耳元で反響するディアベラスの声と、馬鹿馬鹿と連呼されたことを何気に根に持っていいるのか、真面目な顔で人の事を馬鹿呼ばわりしてくるクリアスティーナに勇麻はややげんなりと脱力して髪の毛を搔きながら、
「……褒めてるのか貶してるのかよく分からねえけど、ま、仲直りが出来て良かったよ。じゃあなクリアスティーナ、ディアベラス、ダニエラとミランダも。他の奴らにも、よろしく言っておいて――」
「――アスティ、」
「?」
勇麻の言葉を遮ったクリアスティーナの言葉の意図がよく分からず思わず首を傾げる。
するとクリアスティーナは、親しみを込めた、はにかむような微笑を勇麻へと向けて、
「クリアスティーナ、では長いうえに他人行儀です。アスティと呼んでください、東条勇麻」
勇麻が答えを探すように口を開きかけたその時、クラクションが耳朶を叩いた。音のする方を振り向くと、十人は余裕で乗れそうな巨大なワゴン車が停車していた。セルリアが裏手から大きなワゴン車を回してきたのだ。
皆、口々に別れの言葉を交わしながらワゴン車に乗り込んでいく。
勇麻は時が止まったように、何と無しにその光景を見ていた。
「おい、アホ勇麻。はやくしろよ」
泉の急かす声に勇麻は苦笑を浮かべ、適当に返事を返しワゴン車へと歩み寄った。
車に乗り込む直前、勇麻は後ろを振り返るとクリアスティーナ達に微笑み返して別れを告げる。
「……じゃあまたな、アスティ。みんな」
「ええ、きっと。いつかまた」
『達者でなぁ』
「また来いよな! ユウマ!」
「新しい街が出来たら、今度は酒を飲みにきな。せいぜいぼったくってやるさね」
全員が車に乗り込んだことを確認し、ドアが閉められる。
蛇足のような別れの言葉を方々へ投げかけ、投げ返されて、それが次第に視界の外へと遠ざかって行く。
窓の外、小さくなる人影と流れる景色を眺めながら、勇麻は遠ざかっていく人達の顔を忘れてしまわないようにと、しっかりと彼らの笑顔を目蓋の裏に焼きつけた。
それと同時に、窓の外にある人影を探す――
「――あいつ、あんな所に居やがった……」
荒野に荒々しく屹立する岩のうえ、白と黒の混じったの髪と猫耳キャップが特徴的な少女が一人、腰掛けていた。
ツンとした青い瞳を微笑に細めて、少女はひらりと片手を振った。
勇麻も苦笑と共に、軽く手を振りかえす。二人の距離は一瞬のうちに離れていき、あっという間に肉眼で視認することもできなくなる。
何もかもが見えなくなって、それから勇麻は口の中でぽつりと小さく呟いた。
「またな、未知の楽園」
――人と人は出会い、互いの胸に何かを刻んでいく。
それはきっと形のないもので、言葉じゃ言い表せないようなもので、それでも確かに存在する大切なモノだ。
時に人はそれを愛と呼び、時に人はそれを憎悪と呼ぶ。それ以外の数多の想いが、人の胸には刻まれていく。
愛憎は表裏一体。人の感情は秋の空よりも多感に移り変わり、自己矛盾を内包する。誰かを愛し誰かを憎む。誰かに愛され誰かに憎まれる。
そんな当たり前を繰り返しながら、人は誰かと繋がり今日もこの世界を生きていくのだろう。
とある少女と少年が、その心を結んだように。
弱さも醜さも乗り越えて、手を伸ばして繋ぐ強さを人は持っているのだから。
と、そんな感慨に浸っていた時だった。
もぞもぞ、と。勇麻の隣の規則的な吐息が僅かに乱れる気配があった。
ハッとして視線を向ける。
すると、碧色の宝石のような輝く瞳と目があって――
「――おかえり、アリシア」
全てを賭して救った少女がただ愛おしくて、薄ぼんやりとした寝ぼけ眼のアリシアに、東条勇麻は満面の笑みで微笑みかけたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
遥か高見より自分を見下ろす灼熱の太陽へ、乾いた大地に仰向けに寝そべる少年は手を伸ばす。
届きもしない輝き。
いつか手に掴みたい輝き。
燃え上がるその灼熱に、とある男の面影を浮かべて、ボロボロの少年はただ天にその手を伸ばし続ける。
「何が、足りなかったんだろうな……」
ボロボロの少年――九ノ瀬拳勝は、泉修斗に敗北した。
痛覚二十倍の世界で、純粋な拳と拳による一騎打ち。
同時に駆け出した両者の拳は、ほぼ同じタイミングで、痛烈に相手の頬を穿った。頭の裏で星が弾け、激痛に意識が飛び、心臓が鼓動を放棄する。背中を打った衝撃で肺から酸素が吐き出され、息が詰まる。
来た道をなぞるように弾き飛ばされ地面を転がる二人は、苦悶の表情に今にも死にそうな荒い呼気を吐き出しながら、相打ちという結末に抗おうと拳を握った。
決着は単純。
泉修斗は立ち上がり。
九ノ瀬拳勝は立ち上がれなかった。
単純にダメージの蓄積の差があったのかも知れない。
泉修斗が最初から火炎纏う衣を使わずに戦っていれば結果は分からなかったかも知れない。
……そんな言い訳は、糞以下の価値もない。
九ノ瀬拳勝は全力でぶつかり、そして敗北した。
これはただそれだけの話。
「くそ……っ」
……悔しい。
悔しくて、死にそうだった。
それは、ある意味では生まれて初めて抱いたかもしれない、勝利への渇望。
自身と同じ、血の沸騰するような闘争に身を投じる事に悦楽を覚える闘争の獣だと思っていた相手から告げられた決定的な敗北。彼我の明確な差。
同類であると感じていただけに、この敗北が、自分と泉修斗との乖離が、九ノ瀬拳勝の心をどうしようもなく揺さぶるのだ。
同族嫌悪。
きっと九ノ瀬拳勝は、生まれて初めて絶対に勝ちたいと思った。
ただ血沸き肉躍る闘争に身を預けて、暴れ回り満足するのではない。そのうえで相手を打倒したいと、確かにそう思ったのだ。
だが九ノ瀬拳勝には分からない。
あの時、客観的に見ても泉修斗と九ノ瀬拳勝の実力は伯仲しているように思えた。
ならばあの時、泉修斗を立ち上がらせたものは何だったのだろう。
九ノ瀬拳勝が立ち上がれなかった理由は何だったのだろう。
勝敗を分けたであろうその僅かな差。
だが、いくら考えても、その答えが拳勝には分からなかった。
そんな泉の思案を邪魔するように、ザッ、という足音が割り込んで来た。
「見事な負けっぷりね、兄さん」
「……和葉か」
大地に倒れる兄を冷たく見下ろす和葉は、明らかにご機嫌ななめだ。というか完全に怒っている。
和葉が怒っている理由は、今回ばかりは拳勝も分かっているつもりだ。
「こんなろくでなしの兄貴に何の用だ? 妹を簡単に見捨てる俺みたいなクズ男に、お前みたいな優しい子が関わる必要なんざもうないんだぜ? 和葉」
とはいえ反省はしても後悔はしていない。結局自分という生き物は、戦いの中でしか生を実感できない狂人。
あんな自分勝手をしでかしたのだ。妹に愛想を尽かされるのも仕方がない。というか逆に、良く今まで愛想を尽かされなかったものだと自分に感心するくらいだ。
拳勝は妹からの罵倒と、決別の言葉を予感した。
しかし口を開いた和葉の言葉は、その予想をあっさりと裏切っていった。
「兄さん、あなたに足りなかったモノが何なのか、まだ分からないの?」
「……」
分からない。答える言葉のない拳勝は、妹の問いかけに口を噤んだままだ。
和葉はそんな兄の様子に呆れたとばかりに息を吐いて、
「東条勇麻や泉修斗にあって、あなたに無いモノ。彼らとあなたの違い、それはね、守りたい大切なモノがあるかどうかよ」
「守りたい……大切なモノ……」
「あなたはいつだってあなた自身の為に戦ってきた。ええ、私もそうだったわ。自分が生き残る為に、未知の楽園という弱肉強食の世界でずっと孤独に戦ってきた。でも彼らは違った、彼らは誰かの為に拳を握れる強さを持っていたの。あなたが敗北した泉修斗はその背中に東条くんやアリシアちゃんという大切なモノがあった。だから立ち上がる事ができたのよ、きっとね」
何だ、それは。
拳勝は唖然とすると同時、自分が東条勇麻へと掛けた言葉を思い出していた。
『いい目だ旦那。睨みで人を殺すってのはこの事だな。ヤワな奴は心が“死ぬ”よ、今の旦那と対峙した時点でな。やっぱ旦那は、そういう方がいい。誰かを背に庇っていた方が強ええよ、東条の旦那はさ』
あの時は単なるイメージとしてそう言ったつもりだった。誰かを背に庇った時のあの少年の眼光が、その気迫が、一回りも少年を大きく見せていたから。
でも、もし本当に彼らの強さの根幹がそこにあるのだとしたら。
全ての力を出しつくして倒れそうになった時、折れそうな心を最後の最後に支える力がソレだと言うのなら……。
「……そうか、そりゃ勝てねえわけだ」
拳勝が喧嘩をするのに大層な理由などない。ただ己が愉しみたいだけ。魂を震わせ、血潮を沸かせるような、熱い戦いを通して自分の生を実感したい。
覚悟も決意も、そんなご大層な物は持ち合わせていない。
貪欲に勝利を求めるのでもなく、ただ心躍る熱い闘争に満足する、快楽の獣。
勝ち負けにさえ拘らない九ノ瀬拳勝が、負けられない理由を背負って戦う男に勝てる道理など無かったのだ。
「そうね、このままじゃきっと兄さんは彼らに一生勝てないわ。だから――」
九ノ瀬和葉は相好を崩すと、義理の兄へと手を差し伸べて、
「――私がなってあげるわ。あなたの守るべき大切なモノに」
予想外の台詞に狐につままれたような顔になる拳勝。だが和葉はその小悪魔めいた気紛れな笑みを崩すことなく、強引に拳勝の腕を掴み取ると、敗北に倒れる兄を起き上がらせた。
「その代わり、兄さんは今日から私専属の用心棒ね。これからは誠心誠意、私を守るように。あ、ちなみに拒否権はないわよ? 今回の事を綺麗さっぱり水に流してあげるんだから、これくらいの我儘は聞いてよね、兄さんっ」
「……」
ここはきっと分岐点だ。
拳勝は今此処で和葉の要求を断る事もできる。拒否権はないという和葉の脅しじみた発言は、断れば関係を断つという宣言でもあるハズだ。つまり断られる可能性を彼女は考慮しているのである。
そうなればおそらく、兄妹としての関係は修復不可能な程に壊れるだろう。
闘争を求め、闘争にのみ生きがいを感じてきた九ノ瀬拳勝という獣にとって、妹という存在は煩わしい枷でしかないハズだ。
胸の裡の獣が叫ぶ。闘争以外の余分を全て削ぎ落とせ、と。そうしなければ、あの男達の領域に九ノ瀬拳勝は永遠に辿り着けない、と。
だが……。
――残飯とガラクタの掃き溜め。煙と死の灰の匂い。迷子になった猫のように途方に暮れた少女の背中。ツンとした青い瞳。鏡写しの自分を覗き込んだような、孤独しか知らない寂しい瞳。それらが頭の奥で乱反射して――
「……ったく、和葉には敵わねえなこりゃ。ほんと、世界にはまだまだ勝てないやつらばっかだ」
ここぞとばかりに畳みかける容赦のない妹に拳勝は諦めたように笑って、
「いいぜ、分かった。九ノ瀬和葉、お前になって貰おうじゃねえか。俺があいつらに勝つ為の最後の一ピースとやらに。……ああ、言わなくても分かってるぜ、妹よ。これはそういう契約だ。分かってるさ、どのみち俺は自分の為にしか拳を握れない刹那的獣だ。でも、それでも、お前のその言葉で勝利への可能性が広がるって言うのなら、迷わず飛びついてやるよ」
気付けば胸中の獣を蹴り飛ばしそんな返答をしていた。
「……決まりね。許される側なのに若干偉そうなのが気に食わないけど」
「あー、まあ、なんだ。……分かったよ。流石に今回は俺が悪かった――」
「今回は? 今回も、の間違いでしょ?」
きつく睨まれ、お手上げとばかりに両手をあげる羽目になる。もう妹からの説教はごめんだ。
「……分かった、分かったよ。反省してるから、そんな目で見ないでくれや。兄ちゃんの心がどんどん萎れてく。妹の用心棒でも何でも、喜んでやらせて貰うとしますよっと」
「そう、じゃあしょうがないから許してあげるわ」
拳勝は妹の小さな手を確かな手つきで握り直しながら、頭の片隅でぼんやりと思考する。
何故、自分はこの絆を断てなかったのだろう。
いいや、そもそも自分はあの時どうして……この少女を『和葉』と呼んだのだろうか。
……思い出せない。ただ、あの時の少女の瞳を自分は確かに放っておけなかったのだ。それだけは確かな事実で。ならば、拳勝にとって大切なモノとは初めから――
「それで、急にそんな事を言い出すって事は何か動くのか?」
「ええ、少しね。情報屋として、気になる事があって。しばらく街を離れるわ」
……まあ離れるも何も、私達の故郷は瓦礫に埋もれてなくなってしまったのだけど、と和葉はぼやく。
「……なるほどな、だからこその用心棒、か。こりゃ、思ってたより楽しい事になりそうじゃねえか。それで、一体何を調べるってんだよ? 妹よ」
「――東条勇麻。ひいては彼の出生からこれまでについて、かな」
拳勝の問いに、和葉は間髪入れずに答えた。
怪訝そうな顔をする拳勝の反応に、和葉は分かっていたとばかりに言葉を続ける。
「東条くんは異質よ。彼という存在の在り方には何者かの仕組まれた意志を感じる。私の思い違いならそれに越したことはない。けど……」
もしかしたら、と。和葉は少しだけ躊躇うように言い淀んで、
「彼は、ひょっとしたら、神の能力者ですらないのかもしれない」




