第五十二話 引き篭もり聖女Ⅲ――朝焼けの緋色
閉じた目蓋の裏にうっすらとした緋色の光りを感じる。
……どうしようもなく眠いというのに、その明るさが妙に心をそわそわと動かして、クリアスティーナの本能的な好奇心をくすぐる。今すぐに目を開けてこの光源の正体を探ろうとする自分と、身体を支配するこの眠気に永遠に従っていたいと駄々をこねる自分とが、天使と悪魔よろしく頭のうえで争いを始めていた。
「……ねえ、姉ちゃん。ここどこー?」
そんな中、幼い子どもの声がクリアスティーナの耳朶に届く。
外周区の孤児だろうか、母がいないのか真っ先に姉にそう尋ねた少年の声色は、純粋な疑問に満ちていた。
しかしその問いかけに声える声はない。
少年の問いかけが聞えていないのか、はたまた聞こえていたとしてそれに答える気がないのか。いずれにせよ、少年は小首を傾げたまま、不思議そうな顔で姉を見ているだろう事が容易に想像できた。
クリアスティーナは眠気の中、僅かに思案する。
……聞こえていないならともかく、質問に答えてあげないのはいただけない。
この距離でクリアスティーナが聞えているのだ、クリアスティーナより近くにいるであろう少年の姉が聞こえていないことはあるまい。無視しているとあっては少年が可哀想だ。
そんな家族愛からくる微妙におかしな正義感を発揮したクリアスティーナが、弟の質問を無視する姉に話しかけるべく目蓋を開けて上体を起こそうとして――
――視界に飛び込んできた光景に、少年の姉同様言葉を失った。
世界が緋色に包まれるように溶けていた。
クリアスティーナの立つ大地には世界を仕切る壁が存在せず、どこまでも終わりがない。髪の毛を揺らして吹き抜ける、厳しさを孕んだ乾いた風。見渡す限り続く荒野、その地平線。乾燥した大地にはけれども逞しくサボテンをはじめとした植物が生い茂り、時折湖やマングローブ林など、対比的な光景が紛れ込んでくる。雄大で峻厳、それでいてどこまでも自由で縛られるモノなど何もないと主張するかのような壮大な大自然。それを、今まさに天に昇らんとする大きな輝きがどこまでも優しく世界を緋色に包み込んでいる。
――絶句。
言葉を失う、という言葉の意味をクリアスティーナは初めて知ったような気がした。誇張でも何でもない、人間は己の想像と常識を超越するモノを目の当たりにした時、気の利いたセリフなど出てこないようにできているらしい。
生まれて初めて見た。
あれが、本物の太陽……。
そこでクリアスティーナはようやく自分達がいるこの場所が未知の楽園ではない事に気が付いた。
間違いようがない、ここは地下七七七メートルに作られた実験都市でもなければ、とある聖女の干渉力によって形作られた不安定な『多重次元空間』でもない。
此処は……地上だ。
自分達は今、壁も天井もない、果てしない空と無限の大地の上に立っているのだ……!!
地面に倒れ、意識を曖昧にしていた人々も次々に立ち上がっては、辺りを見回し飛び込んでくるその光景に押し黙る。
助かった、という安堵より先に、美しい世界への感動が心を否応なしに埋め尽くしていく。
知らず、涙がこぼれる。
どういうワケか、自分達はようやく地上に帰ってきたのだと、そんな郷愁に近い感情がクリアスティーナ達の胸の奥で弾けてジワジワと身体中に広がっていく。
――朝だ。
これが彼らの、彼女らの、そして私達が掴んだ幸福な結末。
皆が渇望して止まなかった明日に、逃亡者達はついにその手を届かせたのだ。
未知の楽園に朝が来た。朝焼けの空は澄んだような緋色で、夜に怯え続けてきた人々を温かく迎え入れてくれているかのよう。
その光景に、
誰もが期待を胸に抱いた。
誰もが希望に胸を躍らせた。
誰もが喜びを噛み締めた。
そして、ようやく状況の理解が全体に少しづつ広がっていき、
「助かった、のか……?」
誰ともなしに呟かれた言葉に、
「あ、ああ……。多分」
「生きてる。……俺達、生きてる、ぞ……」
「ええ、そう、よね。私達、助かった……のよね……?」
顔を見合わせ互いに半信半疑の言葉を重ね、人々の呆けた顔に引き攣ったような笑みが次第に満面の笑みへとその形を変えて行き――
『『『――ウォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!?』』』
堪え切れなくなったかのように、歓喜の大歓声が朝焼けの大地に木霊した。
その場に居ただけの知らない男と抱き合う。ハイタッチを交わし、手を取り合って飛び跳ね、硬い握手を何度も交わす。涙を流し、互いを讃え、自分の命に喜びと感謝を伝えた。
誰も彼もが笑顔だった。
ただ一つの幸福な結末を目指し、同じ方向を向いて共に戦った戦友たちは、お互いに惜しみない称賛と感謝を送り、喜びと嬉しさ、興奮と感動を分かち合った。
(間に、合った……?)
ぽかんと、いっそ間抜けな表情で喜び合う人々を眺めていたクリアスティーナは、鳴り止まない心臓の鼓動を耳にしながらそんな疑問を浮かべた。
(私、が、これを……)
現実味がない。まるで夢を見ているように、足元がふわふわと落ち着かない。何かで重りをしないと、すぐにでも飛んで行ってしまいそうだ。
息は荒く、見開いた瞳は眼前に広がるお祭り騒ぎをいつまでも眺めていたいと主張している。この光景こそが自分の意志で世界とその運命を変えた結末なのだと自慢するばかりに、高揚感が収まらない。
(一斉転移を……ちゃんと、出来たんだ。今度は自分の意志で皆を……助けられたんだ……!)
ようやく現実を正しく認識したクリアスティーナの顔に喜色の笑顔が走る。
そして、爆発する感情と共に、少女は勝利に沸き立つ群衆の元へと飛び込んでいった。
――誰一人欠けることなく、皆で未知の楽園から地上へと脱出する。
そんな無謀な絵空事を成し遂げた少女も、しかし皆と同じだ。讃えられ、崇められるのではなく、ただ誰かと喜びを分かち合いたかった。
その輪には中心など何もない。そもそも規律無く人々が騒ぎ乱れるその群れは輪の形さえ成していない。
だがそれでも、そこには確かな一つの輪が存在していて。
ぐちゃぐちゃの輪に混ざる大勢の一人として、少女は共にこの勝利を掴み取った戦友達と喜びを分かち合う。
畏怖でも尊敬でもない、純粋な感謝と喜び。邪な感情の削がれた無数の笑顔の中、それがどうにも気持ち良くて、クリアスティーナはその相貌をふにゃりと崩したのだった。
「アスティーっ!!?」
「レギンちゃん……! 私、私やりましたよ! 今度はちゃんと……!」
「うわああぁあああああああああんっっ!? 心配したじゃないか馬鹿ぁああああああ……!」
転移前も隣で手を繋いでいたレギンが、子どもみたいに顔をぐちゃぐちゃにして泣き腫らしながら飛び込んでくる。
クリアスティーナは苦笑交じりにそれを受け止め、ぎゅっと力強く一つ上の姉の背中を抱きしめた。
「良かった……! 本当に、本当に、良がっだよぉ……っっ!!」
子供のように嗚咽を漏らしながらクリアスティーナの豊満な胸に顔を埋める姉の頭を撫で、よしよしとあやしながら、そこでクリアスティーナはある事に気が付いた。
(……あれ? ディアくんは、どこ……?)
レギンと同じくすぐ隣で手を繋いでいたディアベラス=ウルタードの姿が何処にも見当たらない。
☆ ☆ ☆ ☆
大騒ぎしている人々から少し距離を取った位置に腰を下ろして、泉修斗は静かに溜め息をついた。
あのまま生き埋めになるかと思ったが、どうやら無事地上に帰ってくる事が出来たらしい。
「……泉、」
声のした方を振り返ると、適当に地面に転がしておいた勇麻が頭を押さえながらも上体を起こしていた。どうやら意識が戻ったようだ。
声を掛けようと泉が口を開くより先に、
「泉、アリシアは……!?」
開口一番、食い気味に放たれたその言葉に、泉は呆れたような微笑を浮かべつつ嘆息する。
足の骨が砕けているというのにこいつは……。少し心配して損した気分だ。なんかムカつくので一発殴ってやりたい。
泉は浮上してきた殴りたい願望をとりあえず脇にやると、クイと顎をやって、
「安心しろアホ勇麻。テメェのお姫さんならそこでスヤスヤ眠ってるぜ」
「そう、か。……あぁ、良かったぁ」
軽口にツッコむ余裕もないらしい。勇麻はすぐ近くで横になっているアリシアの寝顔を見てホッと安堵の息を吐くと、起こしていた上体を再び地面に沈め、仰向けに大地に寝転んだ。
「戻って、これたんだな……地上に」
乾いた風が吹き抜け、全てを賭した死闘で汗ばんだ勇麻の身体を気持ちよく駆け抜けていく。
泉も鋭く吊り上がった目を僅かに細め、勇麻へ視線を向けもせずに、
「おい、勇麻」
「?」
いつもよりトーンの低い泉の声に勇麻が違和感を覚えて顔を向けると、泉は顔を背けたまま。
「アホ猿の見舞い、まだ行ってねえんだろ? 帰ったら、ちゃんとテメェも行けよな」
照れ隠しなのか、やや投げやりに告げられた言葉に勇麻はしばしの間沈黙を返す。そして、ぽすんと頭を地面に落とすと、朝焼けに染まった空を見上げながら静かに頷いた。
「……ああ、そうだな」
そう答える事が出来るようになった。
それは確かな成長で、変化だった。
きっと二週間も前の勇麻だったら、高見秀人のお見舞いに行くどころか、その名前でさえ聞く事を嫌がっただろう。
あの敗北を認めたワケではないけれど。それでも、自分をひたすらに責め続け諦観を浮かべる安易な逃げの道からは脱却する事ができている。
弟の勇火と向き合って分かった事。未知の楽園の人達と出会って分かった事。様々な経験が、様々な出会いが、今の勇麻の足を前へ前へと動かす糧となっているのだ。
誰もかれも立ち止まってなどいられない。
人は成長し、変化する。
それは必ずしもプラスに働くとも限らない。
時間という流れがある限り、きっと取り返しのつかない事だってあるだろう。
それでも、変わる事を恐れる事に意味なんてないのだ。
人が人としてこの世界に生きていく限り、停滞し続ける事などありえないのだから。
勇気をもって、未知という先の見えない未来へと、人は自らの足で歩んでいくしかない。
「ていうか泉、ちゃんと高見のお見舞い行ってたんだな~。今回俺を助けに来てくれたことと言い、何だかんだ良い子ちゃんだよなお前。不良ぶるのいい加減やめたら?」
「あ? バーカ、違えよ。俺は腹抱えて笑う為にあのアホ猿の間抜け面拝みに行っただけだっつーの」
どこか湿った空気を替えるように、沈黙を破った勇麻が再び上体を起こして泉をおちょくるように笑うと、泉はこめかみをヒクつかせつつ鬱陶しげに毒を返す。
戻ってきた日常。
懐かしい、いつも通りのやり取りに、不覚にも目頭が熱くなるのを勇麻はさらなる軽口で誤魔化した。
「あーはいはい、分かった分かった。泉修斗くんは相変わらず意地っ張りですなー」
「よーし分かった。そんなにブッ飛ばされてえなら今すぐヤルか。むしろ殺るか?」
「やめとけよ泉、俺を病院送りにしたところでお前が見舞いに行く回数が増えるだけだぞ。というか生憎もうお前のパンチのおかげで足折れてるから。あ、見舞いの品はコンビニのおいしいプリンで頼むわ」
「あぁ? 面白い事言うじゃねえかクソ勇麻。ならついでに墓参りの回数が増えるかどうかお前を使って実験でもすっか? 特別にコンビニプリンどころか一刻道の高級なめらかプリンをお供え物にしてやんよ」
「やっべ、コイツ顔がマジだ……!?」
こめかみをヒクつかせる泉をどう宥めるか勇麻が冷や汗を搔きながら思案していた時だった。
「東条くんっ……!」
どこからか全力疾走で駆け寄って来た九ノ瀬和葉が、その勢いを殺さぬままフライアウェイ。勇麻目掛けて雌豹のように飛びかかってきた。
宙を舞う和葉の矮躯に、勇麻はサッと血の気が引いていく。衝突はもう秒読みだった。この無謀な突撃を躱そうにも、勇麻の両脚は泉の炎拳を受けて折れている状態の訳で当然身動きなど取れるはずもなく、そのまま飛び込んできた和葉と衝撃とを真っ正面からその胸に受け止めるしかなかった。
「ぐげっ!?」
なんてカエルみたいな鳴き声を発しつつ、突撃の勢いを殺し切れなかった勇麻は和葉を抱えたまま二人仲良く荒野を転がる。突然の闖入者に、怒りを忘れた泉が面白い見世物を見るようにスマホを構えながら二人を眺めているが、ローリングに巻き込まれている勇麻本人にそんな事を気にする余裕はない。
ゴロゴロと互い違いに位置を入れ替えながら最終的に和葉がマウントポジションを取ったところで、ようやく二人の動きが止まる。
……同時に勇麻は、その息が止まりそうになった。
密着する身体の柔らかさに息が詰まる、勇麻の顔の横に手を突いた和葉の顔が視線のすぐ先にある。二人の視線が絡まり、時が止まったような錯覚さえ覚える。
言うべき言葉を忘却し、和葉のツンとした青い瞳に吸い込まれそうになって――
「東条くん、あなたズルいわ……」
だから、和葉のその言葉でようやく我に返って、別れ際のやり取りを思い出した。胸を刺す罪悪感とこんな大切な事を忘却していた自分の浅ましさへの羞恥とで死にたくなる。
それでも謝るよりも彼女が聞きたがっている言葉を選択する。これ以上和葉の悲しげなその顔を見たくなかったから。
「……ありがとな、和葉。お前のおかげでこうして生きてるよ。俺だけじゃない、皆で生きて帰る為に頑張ってくれたんだろ?」
「……はぁ。やっぱりズルいわ。卑怯よ、あなた」
どこか晴れがましい勇麻の表情に和葉は毒気を抜かれたように嘆息すると、困ったように眉尻を下げて微苦笑を浮かべる。
和葉は勇麻の上から退くと、その隣にぽすんと腰を下ろした。勇麻も腰を下ろしたまま、上体を起こした。
ツンと唇をとがらせて彼女は言う。
「ま、それはそれとして、やっぱり私はあなたに謝罪を要求したいのだけど?」
「あー、それはもう返す言葉もないと言いますか……、ごめんなさい」
「よろしい、今度からはこの未知の楽園一の美少女情報屋をいきなり突き飛ばしたりしないように。自分の犠牲を前提にしたようなお馬鹿な行為も禁止。それから――ありがとね」
和葉は笑顔でそう言うとお説教はお終いとばかりに、勇麻から視線を外して前を見据える。そのまま吹き抜ける風に耳を澄ますように瞳を閉じた
「……」
そのありがとうに込められた万感の想いに、勇麻は胸が苦しくなる。それは今まで一緒に未知の楽園を冒険してきたことに、逃亡者の集い旗に捕まった時に一人で助けに来てくれたことに、生きていてくれたことに、そして未知の楽園の皆を救ってくれたことに、出会ってから今までの全てに対するありがとうだった。
そう、二人の関係に終わりが近づいている事を和葉も理解しているのだ。だからこそ、これは終わりのありがとう。
さようならの代わりに告げられた言葉。
寂しいと同時、素直に嬉しく思う。でも、自分に和葉からの感謝の言葉を受け取る資格があるのか、それが勇麻には分からない。
だって勇麻は結局何もしていない。この街の人々を救ったのは勇麻ではなくスピカやレインハートを筆頭とした『背神の騎士団』や、ダニエラ率いる『虎の尻尾』。そして和葉やディアベラス、クリアスティーナといった未知の楽園の人々自身だ。
それに、東条勇麻は……
「いいわね、風って。……なんだか不思議、私の世界はいつだって壁に遮られていて、自分自身で周囲に壁を作って、そんな狭い場所でずっと独りで生きて来たのに、此処には終わりがないのね」
白黒の髪の毛が、始めて触れる自然の吐息に気持ち良さげに靡いていた。
和葉は己の今までの人生を壁の中で孤独に生きて来たと言った。だが、それもきっと終わる。
今の彼女を遮る壁など、どこにもない。この大地にも、そして勇麻と出会い、確かな変化を経た彼女の心にも――
勇麻はそんな和葉をしばらく無言で眺め、やがて意を決したように息を吐くと、真剣な声色で懺悔のような言葉をぽつぽつと絞り出す。
和葉には、彼女にだけは言っておかなければならないような気がしたのだ。
「……和葉。俺さ、最後の最後に皆で地上に帰ること、諦めたんだよ。アリシアを助ける為に、一度それ以外の全部を捨てたんだ。俺は未知の楽園を、ましてやこの街の皆を救ってなんかいない。和葉の事だって俺は一度は見捨ててる。だから、俺は――」
「それは違うわよ、東条くん」
遮るように挟まれた和葉の言葉に「え、」と、戸惑ったような顔をすると、和葉は柔らかな笑みを勇麻に向けてまるで子供に諭すようにこう言った。
「だって、あなたは託してくれたじゃない。私を信じてくれたじゃない。あの時の『助けて』に、あなたは全てを乗せたのよ? アリシアちゃんを助ける事以外の全てを。幸福な結末を掴む為の全てを、私を信じて託してくれたのでしょう? だからあなたの意志と、それを引き継いだ私達が、皆を救ったのよ。だから誰が何と言おうとあなたは皆を救ったヒーローよ。他の誰が知らなくとも、私はそれを知っているわ」
何の疑いも持たない、全幅の信頼を寄せた和葉の言葉。それは勇麻が和葉に寄せた信頼の数だけ返ってくる、引き波と寄せ波のようだった。
それが少しくすぐったくて、けれどとても嬉しいことだと勇麻は感じた。
不思議な話だ。和葉に許され認められただけで、こんなにも胸が軽くなるなんて。
「ホントに変わったよな、和葉……」
「ええ、そうね。私をこんなにした誰かさんには責任を取って貰いたいものだわ」
「いてっ、いきなりなにすん――!?」
ツンっ、と勇麻の鼻を弾く和葉。
ばっと反射的に勇麻が振り返ると、その視線の先には――瞳を閉じて顎を少し持ち上げた和葉がいた。
まるで何かを待っているかのようなその和葉の姿勢に、勇麻は完全に思考が寸断され、
「ふふ、、冗談よ」
突然の行いに唖然とする勇麻に和葉はイタズラが成功したように愉しげに微笑んで、それからすぐに少しだけ寂しげな表情をした。だがそれも一瞬で、すぐにいつものふざけた調子を取り戻す。
「……あなたからの依頼も、これでお終いね。あーあー、なーんでこんな面倒な男に此処まで付いてきてしまったのかしら。正直言ってどんな報酬を貰っても割に合う気がしないわ。赤字よ、大赤字」
『報酬』、という言葉に勇麻はギクッとした。そう、思えばこの少女、初対面時に値段はお高いけど超優秀な美少女情報屋を紹介するとか宣った挙げ句、恥ずかしげもなく自分を紹介したようなタマなのだ。それをイレギュラーな事態が続いたとは言え、神の子供達との全面戦闘から未知の楽園の滅亡を巡る戦いにまで付きあわせてしまった。どんな高額報酬を吹っかけられるか分かった物じゃない。
戦々恐々する勇麻。内心の動揺を読み取られないようにしつつ、慎重に和葉の顔色を窺いながら、それとなく報酬について釘を刺そうとする。
「あー、あのー、和葉さん? 報酬のお話なんですが、実は今あまり手持ちが無くてですね……できればお手柔らかにというか、なんというか……」
しかし和葉からの返答は拍子抜けもいいところだった。
「ああ、脅かすような事を言ったけれど、それなら心配はいらないわ。報酬、実は前払いでもう貰ってしまっているから」
「は? え? それってどういう……?」
拍子抜けというか、気付かぬうちに何かを支払っていたらしい事実にむしろ戦慄するべきなのか。今すぐ財布の中身を確認すべきなのか、もう何が何だかよく分からなず混乱する勇麻。
状況についていけず置いてけぼりを喰らう勇麻の問いに、和葉は朝日の輝きのような満面の笑みを浮かべて、イタズラ気に弾む声でこう言った。
「さあ、内緒よ」
☆ ☆ ☆ ☆
涙でぐちゃぐちゃに歪んだ視界の先、東条勇麻が眠っている。
『救国の聖女』によって握りつぶされたハズの彼の心臓は今も止まることなく今も鼓動を刻み続けている事を少女は知っている。この耳で確かめたのだから当然だ。でも、それでも、彼が生きていてくれたことは奇跡のような幸せで、少女にそれを気付かさせた。
誰かの為の行動とは、誰かを思いやる心そのもの。
損得勘定なんて必要ない。愛情という形の見えない物の為に、人は立ち上がる事ができるのだ。
だって、心を満たす愛情は、こんなにも暖かく優しくて、人を幸せにする事ができるのだから。
―ー少女が手に入れたのは大切なモノ。
東条勇麻は九ノ瀬和葉の胸にソレを刻んでいった。
ならば九ノ瀬和葉は、この少年の胸に何を刻む事が出来たのだろうか。
……東条くんは生きてくれている。なら、これから刻んでいければ、それでいい。
報酬は前払いでいい。
だから今だけは、この温もりを独り占めしていたい。
眠る少年を少女は愛おしげに見つめて、瞳を閉じると。その頬にそっと唇を近づけた。
――確かに刻んだ一ページ。誰も知らない、誰に語られる事もない、物語と物語の狭間の幕間。けれど確かに少女がその胸に刻み、少年から奪ったものがそこにあった。
きっと誰に明かす事も無く、その心の内に永久にしまい続けるであろう宝物に、少女はこれ以上なく満足げな笑みを浮かべていたのだった。




