第五十話 引き篭もり聖女Ⅰ――英雄へ、再び
……温かい。それにどうしてこんなにも心が安心するんだろう。
レギン=アンジェリカやダニエラ=フィーゲル、他にも未知の楽園中の人々が見守る中。繋いだ手の体温に、クリアスティーナは場違いにもそんな感想を抱いていた。
クリアスティーナの柔らかく小さな手をしっかりと握るごつごつとしたディアベラスの大きな手。
きっとクリアスティーナの抱く恐怖も不安も焦燥も、その全てが繋いだ掌越しにディアベラスに伝わってしまっているのだろう。
だってクリアスティーナにも分かるのだ。
どんな時だって飄々と不敵な笑みを浮かべていたこの男の胸の鼓動も、揺るぎない決意とほんの少しの恐怖も、そしてクリアスティーナに向けられる温かい感情も。その全てが繋いだ体温と一緒に体の中に流れ込んでくるから。
クリアスティーナにはそれがどうしようもなく嬉しかった。離れていても自分達はずっと『家族』だったのだと。互いの心を共有するこの不思議な感覚が、その証明であるような気がしたのだ。
二人の神の子供達はまるで世界の終わりを待つ恋人のようにその手を繋ぎ、その時を静かに待っていた
そして。その瞬間はある意味では予想通りに、そして実に唐突に訪れた。
――アリシアを通して行われていた『ウロボロスの尾』からの干渉力の供給が完全に停止した。
「ディアくん!」
ハッと息を呑む。
身体に流れ込む莫大な熱量が途絶えた事を、悲鳴のような声でディアベラスに伝えた。
「やりやがったな! あの野郎……っ!!」
クリアスティーナの隣のディアベラスが喜び半分緊張半分と言った表情で頷き、覚悟を決めたようにその口元を引き結ぶ。九ノ瀬和葉が緊張を隠しきれない面持ちで彼の身体にそっと掌を当てるのが見えた。
まず留意すべき大前提が一つ。神の子供達であるクリアスティーナ=ベイ=ローラレイをもってしても、彼女一人で『多重次元空間』を維持し続ける事は不可能だという事。
未知の楽園崩壊から逃れ、全ての人々が地上へと脱出する為には、この大前提をどうにかする必要がある。
「……くっ!?」
歯を食いしばる。
一秒ごとに眩暈のするような速度でごっそりと減り続ける莫大な干渉力を感じながら、それでもクリアスティーナはディアベラスに言われた通りに『多重次元空間』の維持に努める。
先ほどまで開いていた次元の穴、空間の亀裂も今は閉じ、クリアスティーナは全身全霊で不安定な空間を固定し続ける。
だがそれも長くは持たない。
クリアスティーナの尋常ならざる干渉力の総量をもってしても、空間を複写しそれぞれ異なる次元へ固定する『多重次元空間』の維持はせいぜい数分が限界だった。
だから今の彼女に出来る事は時間稼ぎだ。
ディアベラスが提案した『賭け』とも言える常軌を逸した方法で、この街の人々を救うための。
苦悶の表情に顔を歪めながら、クリアスティーナは視線を横流しに隣の青年へと向ける。九ノ瀬和葉による下準備がようやく終わったのか、ディアベラスに掌を当てていた黒と白の混じったの少女が深く息を吐いてびっしりと搔いた脂汗を拭う。
そして疲れとやり切った感慨が入り混じった表情で、
「……上書き、完了よ……!」
その言葉に、サングラスの奥、ディアベラスが閉じていた瞳をガッと勢いよく見開く気配があった。
筋骨隆々の肉体から確かに溢れ出る不可視の圧力に、風もないのにドレッドヘア―が揺れる。
纏う空気を一変させ、ディアベラス=ウルタードは集中を極限まで高めていく。
クリアスティーナは案ずるように眉を顰め、無謀な賭けに打って出る最愛の『家族』の姿を見つめていた。
小さな手を握り返す力が、少しだけ強く、痛くなった。
☆ ☆ ☆ ☆
泉修斗に殴り飛ばされて、アリシアを通り越して最大到達点へと達した勇麻の身体は僅かの間全ての力が釣り合って空中に静止していた。
それはまるで夢の狭間。
夢と現の境界線に自分が立っているかのようで、止まった世界の頂点から、東条勇麻は全てを眺めていた。
しかしこの全能感も長くは続かない。
やがて世界が常識を思い出したように、勇麻の身体は静かに重力に引かれ落ちていく。
玉座の上でぐったりと意識を失っているアリシアを視界に収めながら、勇麻は紐ごと引き千切った『天智の書』と共に、地上目掛けて落下していた。
全ての力を吐き出し尽したのか、身体は泥の詰まった袋のようだ。
意識がその手綱を手放しかけており、目蓋が重い。このままでは成すすべなく十数メートル下の地面に叩き付けられ、熟したトマトを叩きつけた床より悲惨な事になるのは目に見えているのに、解決策も何も思い浮かばない。
『……あはは、流石に計算外だったよ。アナタがまさか過去の十字架さえかなぐり捨ててまで彼女を救うだなんてね』
そんな混濁とした勇麻の脳裏に語りかける声があった。
落下時間なんて数十秒もないハズなのに、その声はゆるりとしたゆとりさえ持って、勇麻の頭に直接言葉を刻み込んでいく。
『けれどアナタの選んだ救いは救いになりえない。我が主サマは此処で死んだ方がまだ幸福だった。……主サマの救いを拒んだのはアナタだ、東条勇麻。浅ましいアナタの選択が、主サマを苦しめる』
告げられる言葉の意味を理解できない。
でもきっと問題はないだろう。だって脳みそに直接刻み付けられるようなソレは、きっと勇麻の頭の奥に警鐘のようにいつまでも残り続けるハズだから。
それこそが、正義も英雄も憧憬もその全てをかなぐり捨てて己の我欲の為に拳を握った男が負うべき責任なのだから。
『せいぜい気を付けることだよ、東条勇麻。主サマは既に二度死んだ。そして次は無い。――三度目の死と共にこの世界は終わりを告げるだろう』
意識が落ちる。身体より先に奈落へと落ちてバラバラになる。何も分からないまま、何も理解できないまま、勇麻は一切の減速もなく硬い地面に叩きつけられる。
――その寸前。
横合いから飛来した炎を纏った人影が、落ちる勇麻の身体と『天智の書』を乱雑に掻っ攫った。
「……チッ、最後まで手間かけさせやがってアホ勇麻が」
がくんと糸の切れたように意識のない勇麻の首根っこを掴みながら、泉修斗はそう呟いた。
苛立たしげな言葉とは裏腹に、その顔はどこか懐かしさを噛み締めているようにも思える。
背中から巨大な炎の翼を生やした泉は、そのまま玉座に座るアリシアの元まで翼をはためかせると、ぐったりと項垂れた純白の少女も小脇に抱えて、玉座の間を後にした。
先ほどの激しい戦闘の余波か、ぎしぎしみしみしと、不吉な音が辺りから響いてくる。この建物自体も時期に崩れるだろう。
面倒だが一刻も早くこの場を脱出しなければ。
気を失いそうになる激しい痛痒を残しながら、泉修斗は手の掛かる馬鹿どもを抱えて尖塔を脱出する。
☆ ☆ ☆ ☆
身体が熱い。
脈動する心臓の鼓動。迷宮のように枝分かれし張り巡らされた大小さまざまな血管を流れる熱い血潮。細胞の蠕動。呼吸、体内を巡る酸素と二酸化炭素。身体に満ちる命気。世界へと干渉する力。ともすれば自己を丸ごと呑みこまれそうになる中、己の全てが存在感を示すように熱を発し、侵食される事を恐れるかのように自己主張を繰り返す。
ディアベラスはいっそ痛みですらあるその熱に抗い続ける。
少女の掌から伝わる脈動に身を委ね、己という名の小宇宙へと外部からの干渉が行われるのをただ傍観する。
ディアベラス=ウルタードという定義さえ揺らぎ、自分を見失いそうになる中、唯一の命綱は右手に繋いだ少女の温もりだ。
彼女という存在を認識することによって逆説的に自分の存在を証明し続ける事ができる。ディアベラスは確かめるように小さな手を握る右手に力を込めた。
和葉の力がディアベラス=ウルタードという一つの世界へ干渉し、ゆっくりとその全てを彼女の定めた法に従って侵食し改変していく。
神の力とは言わば世界に干渉し物理法則をねじ曲げる力。世界の法則を自分の中の法則へと書き換える神々の反則技の一端だ。
その中でもとりわけ九ノ瀬和葉の『横暴なる保存者』は、既存の物資を全く異なる物へと上書きし書き換える事の出来る理不尽とも言える干渉力を秘めている。
故にこれは必ず生じる矛盾を世界に悟らせない為の偽装工作だ。
九ノ瀬和葉が『貼り付け』によって書き換えるのは、“ディアベラス=ウルタードの干渉力の半分”。
上書きするのは勿論”クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの干渉力”。
体内に満ちる干渉力の五割を彼女と同質の物へと上書きする事で、ディアベラスとクリアスティーナの間に同質の干渉力を元とした回線を作成し、その状態でディアベラスが『ウロボロスの尾』と接続する。
つまり、ディアベラスは和葉の力をもって半ば強引に『ウロボロスの尾』とクリアスティーナの中継役を担おうとしているのである。
自身をクリアスティーナの身体の一部とする事で、アリシアのように『神門審判』を利用して力を横流しするのではなく、直接的な接触によって干渉力の受け渡しを行おうとしているのだ。
(同じ神の子供達に出来る事を、俺ができねぇ訳がねぇ。……いや、出来なくてもやるんだ。今此処で限界を越えろぉ。そうじゃねえと、今日まで生きてきた意味がねぇ……ッ!)
まさに前代未聞の前人未到。
一つの身体の中に、同時に二種類の干渉力を持つことが人体にどんな影響を与えるのかは全くの不明。
臓器移植の拒絶反応のように身体が他人の干渉力を拒絶し爆発四散する可能性の方が高いくらいだ。
必死にこの作戦の無謀さを説明しようとする和葉に、しかしディアベラスは頑なに譲らなかった。
未知の楽園の人々を救うには、もうこの方法しか残っていないのも事実。最終的に和葉も押し切られ、地雷針の穴に糸を通すような繊細で危険な綱渡りをさせられている。
慎重に、冷静に、少しずつ。ディアベラスの肉体が拒絶反応を起こさないように、少しずつクリアスティーナの干渉力をなじませていく。
少しでも世界が矛盾を嗅ぎ付ければ、発生した矛盾を拒絶するように上書き対象は崩壊してしまう。
和葉のミスはすなわちディアベラスの死を示している。
そしてディアベラスが死ねば、和葉を含めたこの街の全ての命が潰えることとなる。
肌が焼け付き溶けだすような緊張感の中、和葉は気の遠くなるような命を背負っているという現実を意識の中から蹴り飛ばして、極限まで神経をすり減らしながら干渉力の上書きを続ける。
(……東条くんはしっかりと自分のやるべき事を果たした。信じてるって言ってくれた。互いの最善を尽くすというあの誓いに東条くんは答えてみせた。なら私が、こんなところで全てを台無しにする訳にはいかないでしょう……!)
掴みたい勝利があった。
あの少年と見たい朝焼けがあった。
誰一人欠けることなく地上へ脱出する。それがどれほど馬鹿げた絵空事か、九ノ瀬和葉は理解しているつもりだ。そんな事できる訳ないと鼻を鳴らす自分が心の何処かにいる事だって否定できない。
だがそれでも、九ノ瀬和葉は一度くらい信じ通してみたかった。
自分なんかを信じてくれた、そして自分が信じたいと思えたあの少年を。
人の持つ可能性を。
こんな馬鹿な自分達でも手を取り合って、一つの結末を掴み取れるのだという事を、証明してみたかったから。
(お願いっ、私達に勝利を……! 東条くんの願いを、叶えてあげて……!)
――そうして九ノ瀬和葉の干渉力が世界を完璧に騙し切る――
「……上書き、完了よ……!」
九ノ瀬和葉による一世一代の干渉力の上書きが終わった。どれだけ大金を詰まれても、もう二度とやりたくない。少女は露骨な程にそんな顔をしていた。
緊張感から解放された和葉が脱力と共にほっと息を吐くと同時。その手が離れる。
離れる体温と感触を受け、ディアベラスは意識を一点へと集中。
己の中に満ちる半分。ディアベラス=ウルタードの干渉力を用いて遠方の『ウロボロスの尾』がある空間へと意識を飛ばす。
勝負はここからだ。
無理やりにでも『ウロボロスの尾』と接続し、クリアスティーナに干渉力を供給する。
それさえできれば、いくらでも取り返しがつく。ディアベラスの命が持つ限り、クリアスティーナ達は落ち着いて冷静に避難を再開する事が出来るのだから。
要は『神器』と自分との間に力をやり取りするある種の霊的なラインを作ってしまえばいいのだ。
距離など関係ない。二つの点を結ぶ為に必要なのは概念的な繋がり。力が流れ込む為のきっかけのようなものだ。
身体がそこにある必要はない。
意識のみがディアベラスの身体を離れ、崩れかかっている尖塔へと向かう。途中尖塔を脱出する人影とすれ違いながらも玉座の間へとたどり着き、真っ正面から『ウロボロスの尾』と対峙する。
――己の『悪魔の一撃』の特性を最大限利用しろ。
拡大解釈。偽装。誤認。独自解釈による定義の螺子曲げ。イカサマ。何でもいい。打てる手札は全て出せ。どんな偶然でも幸運でも何かの間違いでも構わない。どれだけ身体に負担が掛かろうとも、『ウロボロスの尾』とのラインさえ確立してしまえばこちらの物だ。
滝のように流れ落ちる不快な汗が集中を乱さんとする。持続する嘔吐感。身体が訴える自身の違和感を全て蹴散らしてディアベラスはどうにか『神器』との接続方法を模索し続ける。
「ぐ……っ、ごめん、なさい。もう、持ちません……っ!」
呻くような言葉と共に隣のクリアスティーナが膝を突く。同時に未知の楽園を不気味な縦揺れが襲い始め、天井からパラパラと不吉に粉塵が降り注ぎはじめた。
状況はもう一刻の猶予も許さない。
クリアスティーナの干渉力は既に底を尽きかけ、『多重次元空間』の崩壊を遅らせるので手一杯だ。
(……くそ、焦るんじゃねぇ。必ず何かがあるハズだぁ。神門審判は異界と異界を繋ぐ扉を開く神の子供達。ヤツは己を一つの世界と見做し、『ウロボロスの尾』という『神器』を一つの世界と定義し直して『扉』をもって強引に二つを繋げ合わせたぁ。今、その繋がりは東条勇麻によって半ば強引に断たれている。正しい手順を踏まずに、神門審判側がいきなり回線を引っこ抜いたみたいな中途半端な状態だ。ならそこを利用しろぉ、回線はまだ閉じちゃいねぇ、割り込みを掛けるように俺という存在を無限の循環の中へ組み込んじまえばいい……!)
使えるものは何だ。
神の子供達と讃えられる自身の力。そのうち、この状況を打破する鍵となるモノは……!
悪魔的な偶然。死。悪魔の幸運。物理的な距離に関係なく唐突に訪れる死。……違う、この方向性ではない。ならやはり目を向けるべきは……距離を無視するという特性。
そして……。
(俺の神の力の始点を無理やり『ウロボロスの尾』の循環の循環の環の中へぶち込む。単体だけじゃ不完全な『神器』に俺という最後のピースを足す事で、無限の循環は成り立つ。起動の条件は整うハズだぁ……ッ!!)
天啓のようなひらめきを受け、ディアベラスは即座に行動を開始する。
神門審判側が無理やり回線を切断したことによって無限の循環の環に生じた綻び。環の切れ目。干渉力が漏れ出している座標に、『悪魔の一撃』の始点を生み出そうとする。
だが。
「う、ぉ……がはッ!?」
「ディア、くん……!?」
こみ上げる猛烈な吐き気。
己の体内を巡る干渉力の半分をクリアスティーナの物へと『上書き』されているせいか、『悪魔の一撃』を上手く起動する事ができない。
身体がぶるりと震え、堪え切れずに血塊を吐き出す。拒絶反応のような現象が起きている、いくつか内臓が死んだ感覚。だがそれだけだ。心臓は脈動を続け、脳みそは状況を打破する為にフル回転を続けている。
――ふざけんなぁ。
越えろ。
距離を、常識を、定められた定石とやらを。固定観念など踏みつぶし、不可能を可能へと昇華させる。物理法則を超越する神の子供にできないのならば、他の誰に出来るというのだ。
やるしかない。
ここでやれねば、ディアベラス=ウルタードの生に意味など何もない。
混ざり溶け合う干渉力。身体の発する熱が異常な値に達する。身体中の穴という穴からドロリとした泥のような粘ついた血が溢れる。
クリアスティーナが悲鳴を飲み込む音が繋いだ掌越しに伝わる。ディアベラスの手を握る力だけが僅かに強まった。だが彼女は決してディアベラスの無謀を止めようとはしない。
自分も苦しいだろうに、ディアベラスの覚悟も決意も見届けようというその強い意志に感謝しながら、ディアベラスは己の限界に挑み続ける。
誰かを倒す為でもない。誰かを傷つける為でもない。敗北を避ける為でもない。
ただ自分を越える為に。大切な誰かを守るために。皆の勝利の為に。
悪魔的な幸運によって誰かの命を奪う『悪魔』が、理不尽に終わりを迎えんとする誰かの為にその命を爛々と燃やす。
「ぉおお……、ウォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!?」
――神の子供達によって、今、この世の常識が一つ、跡形もなく粉砕される。
『ウロボロスの尾』と神門審判を繋いでいた回線へと、『悪魔の一撃』が割り込み、循環の環へと強引に組み込まれた。その瞬間。
――身体を内側から突き破りかねない莫大な干渉力が、流れ込んで来た。
「クリアスティーナぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」
叫んだ。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの為に調整を施された『ウロボロスの尾』から、間欠泉が噴き出すかのように膨大な量の干渉力がディアベラスへと一気に流れ込む。
和葉の『貼り付け』によって体内を巡る己の干渉力の半分をクリアスティーナの物へと上書きしていなければ、一切の耐性がない身体に流れ込む他者の干渉力への拒絶反応で死んでいただろう。
それでも血管はズタボロに引き千切れ、内臓に甚大なダメージを負い、呼吸は乱れて体温の異常上昇は止まらない。
だが生きている。戦える。
まだ自分は、『神の子供達』として街の危機に立ち向かえる。大切な人を救うために意地を張る事ができる。
ともすれば容量多寡で身体が内側から弾け飛びそうになる中。ディアベラスは『ウロボロスの尾』から止めどなく供給される干渉力を繋いだ右手からクリアスティーナへと受け渡す。
「……ありがとう、ディアくん。この力、確かに受け取りました……!」
眦を決したクリアスティーナが、崩れゆく世界の時を止めんと『支配する者』の力を最大解放。『多重次元空間』を維持すべく、ディアベラスを介して『ウロボロスの尾』から供給され続ける干渉力を一気に解き放った。
空間と次元を支配し司る力が、未知の楽園を優しく覆う。
その圧倒的な干渉力によって、世界の法則を自らの色へと書き換えていく。
クリアスティーナの神の力により『多重次元空間』の維持が再開され、不気味な縦揺れを続ける『未知の楽園』は――
――しかしなお、崩壊の予兆は止まらなかった。
「え、」
止まらないどころか成長するようにどんどん大きくなる縦揺れ。
呆けたようなクリアスティーナの声。
その茫然とした表情と声からは『信じられない、信じたくない』という彼女の心の声がひしひしと伝わってくるようだった。
全てが終わった。
皆の努力が全て水泡に帰した。
何もかもが手遅れで、無意味で無価値。
『時間切れ』。
世界はどこまでも無情だった。
今からクリアスティーナが何をしようとも立て直しは不可能な程に、『多重次元空間』の崩壊は致命的なラインまで進んでしまっていた。
未知の楽園はもう間もなく崩壊する。
既に破滅の雪玉は運命の手を離れ、坂下へと転がり始めていた。
☆ ☆ ☆ ☆
一つの欠片を抜いた途端に連鎖的に崩落する積み木の城のようだ。
縦揺れは止まらず、なおもどんどんその揺れ幅を増していく。もうまともに立ってもいられない。外周区では老朽化した廃屋が崩れているのか、円の外側で砂煙がもうもうと立ち昇っている。
否応なしに世界の終末を予感させる光景。
城門前に集めた未知の楽園の住民から人の心を引き裂くような悲鳴がたびたび上がる。その度に城門前に集ったレギン=アンジェリカを筆頭とした『逃亡者の集い旗』の面々が、騒ぎを治めるべく慌ただしく対応にあたっている。
「うそ、でしょ……」
ひくひくと、和葉が痙攣するような半笑いの体で呟いた。
現実を受け止めきれないのか、人は本当の絶望に突きあたると笑わずにはいられないのか、表情筋が仕事を放棄して状況に見合う表情を作れないでいるようだ。
「……」
あのディアベラスでさえも言葉を失い、サングラスの奥で見開いた瞳から滂沱と血の涙を流していた。
頭が真っ白になった。
絶望よりも驚嘆よりも何よりも、ただ目の前の受け入れがたい現実を前に心が許容限界を起こしている。うまく感情を起こす事さえ出来ずにいるのだ。
そんな最悪の状況の中。クリアスティーナは瞠目させた瞳の焦点をふるふると震わせながら、一人思案を続けていた。
……未知の楽園崩壊まで、おそらくあと五分もない
……避難は間に合わない。今から次元に亀裂を開けたとしても、確実に逃げ遅れる人が出てくる。どうする。間に合った人だけを地上へ逃がすか? 次元を跨ぐわけではないから可能とはいえ、これだけの大人数だ。『ウロボロスの尾』と無理な接続を続けているディアベラスの負担を考えると地上への転移は一度が限界。東条勇麻もまだ戻ってきていない。それに、避難に協力してくれた『逃亡者の集い旗』の家族たち、『背神の騎士団』や『虎の尻尾』の団員達の中には閉じてしまった亀裂の向こう側、別次元の未知の楽園へと置き去りになってしまっている人もいる
そんな中、唯一の転移を使う? 自分達だけが助かる為に未知の楽園の危機に立ち上がって協力してくれた大切な仲間達を見捨てるのか?
できない。
「……いや、です」
そんな事したくない。
「私は、見捨てたくありません」
だって、東条勇麻はこんな人殺しのクリアスティーナを助けてくれた。自分自身も一度は殺されて、それなのに呆れたように笑って手を差し伸べてくれた。
お前は勇気を出してただ一言、『助けて』と、ただそう言えばいいんだと。何も分からない馬鹿なクリアスティーナにそう教えてくれた。
ディアベラスはクリアスティーナに変わらぬ愛情と絆を証明してくれた。最初から誰もクリアスティーナのことを嫌ってなど、憎んでなどいなかったのだと、クリアスティーナをしっかりと抱き留めて肯定してくれた。受け入れてくれた。
そしてクリアスティーナの『助けて』に、大勢の人が本当に応えてくれた。
かつては敵だった人達も、クリアスティーナが勝手に見限っていた家族たちも皆、皆、皆。
彼らはきっとクリアスティーナを助ける為だけに集まったのではないだろう。皆それぞれ目的があって、想いがあって、理由がある。でも、それでも。彼らもまた、クリアスティーナと想いは一つ。
笑って結末を迎えたくてここにいる最高の仲間達なのだ。
「私は……」
東条勇麻は言っていた。皆で地上へ帰ろうと。それこそが目指すべき勝利で、たった一つの幸福な結末なのだと。
『ウロボロスの尾』による干渉力の供給があってなお、『多重次元空間』の維持はもう不可能。
崩壊は取り返しのつかない段階まで進んでしまっている。
全ての人を救い上げる選択肢は潰え、誰かを切り捨てねばならないありきたりで当たり前に残酷な現実が顔を覗かせている。
でもクリアスティーナは知っている。
まだ一つだけ、皆で地上へ脱出する方法を。
自分にしかできない事がある事を。
「諦めないっ、諦めたく……ない!!」
決意と風が、崩れゆく未知の楽園に吹き荒れた。
金色の髪が乱れ踊り、クリアスティーナの纏う雰囲気が一変する。
流れる髪と同色の金色の輝きが少女を包んだ。粉雪のように少女の身体から湧き上がる金色の鱗粉、純白の天使の羽根が舞うのを幻視する。
否、限界を超えた干渉力が彼女から漏れだして世界へと働き掛け、その可視化された物がクリアスティーナを中心に世界を舞っているのだ。
「アスティ、お前……何を……」
繋いだ手からディアベラスの戸惑いと驚愕が伝わってくる。
クリアスティーナの身を慮り心配する優しさも、そして同時に隣の少女の強いまなざしを尊く美しく思う感情も、その全てがクリアスティーナに流れ込んでくる。温かく優しい、いかつい風貌に見合わぬ慈愛に満ちたくすぐったいくらいの愛情が流れ込む。
それすらも己の力に変えて、少女は今までの自分との決別と変わる事への決意を胸にその目を真っ直ぐ前だけを見据えた。
「……やります、未知の楽園の住民の一斉転移を。私が、皆を救います、救ってみせる……ッ!!」
かつて、成りたくもない英雄になってしまった少女がいた。
彼女は救いたくもない街を救い、救国の聖女として崇められ、しかし救った事から、変えてしまった事から逃げ続けていた。
変えてしまう事、変わってしまう事が怖くて、現実から目を背け一人孤独に引き篭もって逃げ続けてきた――そんな少女はもういない。
ここにいるのは、現実と対峙するどこにでもいる少女。
彼女は全てを認めていた。
自分が変えてしまった世界。確かにその手で救ったモノと、壊してしまったモノ。
もう何からも逃げない。自身の行動によって生じる功罪全て受け止めよう。
聖女でも悪魔でも何でも好きに呼べばいい。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの行動は世界を変えるだろう。だが、結果としてどう世界が変わるのかは今は誰にも分からない。幸福を掴む事に繋がるかもしれなければ、失敗してさらなる悲劇を呼ぶかもしれない。
……でも、きっとそれでいいのだ。
変えてしまう事を恐れ、臆病に一人閉じこもっているよりも。
変わる世界に希望を託し、誰かの幸せを願って皆と一緒に立ち上がる事の方が、何倍も何十倍も大切で大変で尊い事なのだから。
行動に結果は付随する。だが動き出さなければ、何も変わらない。怠惰に臆病に閉じこもっているだけでは変えられない。自らの意志で手を伸ばさなければ幸福な結末を得られない。
だから立ち向かう。
絶望しかない世界を変える。
『救国の聖女』。
かつて少女が忌み嫌い、蔑んだその名をもう一度自身の手で手にすべく、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは立ち上がる。
「……ディアくん、力を貸してください。私一人ではきっと絶望に負けてしまう。だから、私達の勝利の為に……ッ!」
「……馬鹿アスティがぁ……っ、水臭い事言ってんじゃねぇ、お前を助けるなんて、俺にとっちゃあ当たり前の事なんだよぉッ!」
ディアベラスの手を握る左手に力を籠めて、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの最後の戦いが始まった。
☆ ☆ ☆ ☆
煙草の煙が朝日を待ち望む黒い空に溶けていく。
ダニエラは実に三年ぶりの煤煙に眉をしかめ咳き込みながら、二人の神の子供達の姿を見守っていた。
「……ったく。小娘が一丁前に成長しやがって。あー、いやだねー。これだから若いってのは。大人の立つ瀬なんか残っていないさね。子供ってのはアタシらが思っているよりもよっぽど強くて繊細で、いつの間にかくたびれ折れ曲がった背中を追い抜いて行きやがる」
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは選択した。
自らの意志で、逃げずに自分の全てと向き合う事を決意した。
取り返しのつかない過去も。自らの変えてしまった今も。そして自らの手で変えていくこれからも。
その全てを現実として正面から受け止めると少女は自ら決心したのだ。
ならダニエラ=フィーゲルは。
彼女の先を行く人生の先達として、何を示すことが出来るだろうか。子供達に誇れる選択する事ができるだろうか。
ダニエラは、隣で同じように二人の子供の姿を祈るように見つめている部下の男に、視線すら送らずに尋ねる。
「……なあ、精神感応で街中の馬鹿ども全員に声を届けるのは可能かいね?」
「は、はい。街中にクリアスティーナ=ベイ=ローラレイの干渉力が満ちている為か次元の境が不安定になっていて、亀裂が閉じた今も回線は繋がったままです。全員で並列的に演算処理すれば……何とか可能かと」
「だったら今すぐ繋ぎな。全ての未知の楽園中に聞こえるようにね。それから、避難している住民どもに簡単な状況の説明を。時間がないよ、なんとしてもあの子らの選択に報いなきゃなるまい。それがアタシらの罪滅ぼしさね」
「はっ」
ダニエラ=フィーゲルには許せない事があった。
『あの小娘の時間は三年前のあの日で止まったまま……いいや、止まったままにしておきたいのさ。この街の皆がそうだ。アタシらは誰一人として、前に進んでなんかいない。目を逸らして逃げ続けたアタシらにあの娘を責める資格なんざありゃしないさね。けど、それでも。人間ってのは我儘で自己中で複雑な生き物だからね、アタシはどうしても許せないのさ』
世界は変わった。
一人の少女によって腐敗していた街は救われた。
けれどその代償として、ダニエラの夫は『救国の聖女』の起こした反乱に巻き込まれて死んだ。
それは仕方がない事だ。彼女達『白衣の悪魔の遺産』の過去を予測できたダニエラ自身、そう割り切る事はできている。納得はしている。だがそれでも、世界を変えた本人がそれを認めずに目を逸らし続けている事だけは許せなかった。
他の誰が否定し拒絶しようとも、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイだけは、世界を変えた彼女本人にだけは、変わったモノから目を逸らして欲しくなかった。
だって、それではあんまりではないか。
自分が変えたモノを否定するという事は、彼女が救った者、救えなかった者、変えた世界とその犠牲になった者、その全てを否定するという事だ。
全てが報われずに救われない。
散った命も、助かった命もその全てが等しく無駄で不要なモノだと言外に斬り捨てられるような行為に思えて、ダニエラ=フィーゲルは『救国の聖女』が許せなかったのだ。
ダニエラは、ただ少女に自分の行いを逃げる事無く認めて貰いたかった。失われたモノの意味と、変わった世界の意味を、少しでも考えて欲しかった。
それが彼女の抱いてきた、自分勝手で我儘な最後の望み。
だがそれも今、こうして叶えられた。
人は変わる。成長することもあれば、間違えてしまう事もあるだろう。それでも、失敗を恐れずに前に進もうとする意志は尊い。
きっと人はそれを『勇気』と、そう呼ぶのだろう。
少女は『勇気』を示した。
なら、ダニエラ=フィーゲルが示すべき『勇気』とは。
「ありがとう、アンタは自分が変えたモノを認めてくれた。ただそれだけでアタシは救われたよ。だからアタシもけじめをつけよう。……あの子は自らの意志で変わろうとしている。アタシら大人がいつまでも逃げる訳にはいかないさね」




