第四十九話 東雲《しののめ》の決別Ⅲ――信じ貫くは正義か我儘か
紛い物の英雄と、天に遍く星々の輝きの如き智を司る『神器』とが対峙する。
空中に鎮座する九つの神々しい扉を背に、輝かしい玉座に座す汚れなき純白の少女と、地べたを駆け回る矮小なる少年。
まるで物語のワンシーンのような情景の最中、純白の少女の鈴のような音を響かせて、天の智を司る『神器』が語りかけてくる。
「東条勇麻、重ねて言うがアナタは英雄の器ならざる凡庸な少年だ。ああ、なにせアナタは英雄たる資格をその身体に一つも持ち得ていない」
否定はしない。
そもそも勇麻は自分を特別な存在だと思ったことなど一度もない。
ただ、そういう特別な存在に。笑顔のままに皆を救う英雄に憧れ、夢見て、自らの手でそれを奪い失って。己を苛む罪の意識と絶望の中で分不相応に英雄の紛い物を演じなければならなかっただけだ。
東条勇麻は英雄ではない。
「きっと、そんな事はアナタ自身が一番嫌と言うほど理解しているのだと思う。己の無力を突きつけられた事がどれだけあったか。理不尽な強さの前にどれだけ膝を着いたか。私とて、主サマの目を通してアナタのことは見てきたつもりだ。そのくらいのことは理解しているさ」
会話の合間にも『天智の書』は攻撃の手を緩めようとはしない。炎の扉に続いて開かれるのは氷の扉。
扉の向こう側から浸食する冷気に世界が白く染まり、降り注ぐ絶対零度を下回る絶氷の吐息が世界に絶対の白線を引きながら東条勇麻を氷の彫像にしようと襲いかかる――
「これまでの数々の戦い、いつだってアナタはあと一歩及ばず、必ずと言っていいほどに何かを見落とし、取り零してきた。それでも紛い物にしては十分な及第点を与えられる成果だ、誇っていいとさえ私は思うよ」
――絶対を超越したそれは時間さえも停止させる絶対凍結だ。生命の時を止める冷凍光線が世界を切り裂くように走る。
しかしやはり勇麻はそれを、まるで何かの声に導かれるかのように紙一重を回避し続ける。
「でも、だからこそ不思議だ。アナタはいつだって勝利と同じかそれ以上の敗北を重ねてきた。だというのにどうしてそこまで自分の可能性を信じられるんだろうか。どうして自分が到底敵わないような相手にさえ、懲りずに何度も立ち向かうのだろうね?」
東条勇麻は所詮は南雲龍也の代替品で、紛い物の英雄にしかなれない。ぽっかり空いてしまった空席を埋め合わせる為の、その場しのぎの都合のいい存在に過ぎない。
いつだって勇麻は自分の力の無さに膝を着き、汚泥をすすり、敗北の悔しさに奥歯を噛み締めて来た。それはこれからもきっと変わらないのだろう。
どれだけ負けを重ねようと敗北を認めぬ限りは終わらない。そんな屁理屈を捏ねた所で、それは所詮は子供の癇癪のようなモノだ。
敗北は敗北。
届かなかった掌の数を、勇麻は決して忘れない。忘れてはならないと己に戒める。
救えないし、救われない。
拳を握り締め立ち上がる度に、東条勇麻は勝利よりも敗北を積み重ねていく。
故に、東条勇麻に南雲龍也のように全てを救うなど、最初から到底不可能な話だ。
……それで? 今更そんな事を言われて、東条勇麻が返答に窮するとでも思ったのか?
『天智の書』の揺さぶりにも、勇麻は動揺一つ覗かせない。
軽やかに己の身体を操り、『天智の書』を理解することでその思考を受信し読み取り、扉から放たれるその必殺を殺していく。
致死の一撃が放たれるその前から、攻撃の軌道が見えているかのような正確無比な動き。
否、勇麻の目には確かにその軌道が見えていた。
『理解掌握』。
対峙する存在を認め、受け入れ、理解しようとする、人と人とが繋がる為の希望の力。
幼き頃、確かに願ったその祈りが、今勇麻の身に宿る異能となって少年を支えていた。
「その問いに対する答えはずっと前に得たよ」
本来ならあり得ない、人の域を超えた尋常ならざるその回避に、『天智の書』がアリシアの形のいい眉を僅かに顰める。
しかしそれも一瞬。すぐに『天智の書』は心の乱れを掻き消すように表情を和らげる。
「……できるかできないかは関係ない、か。ただただ認められないから、その結末を自分が許容できないから拳を握り立ち上がる。確かにそうだ。アナタはそういう傲慢な男だった。でも、だからこそ自分本位なアナタじゃ我が主サマは救えない。アナタが主サマを思えば思う程にね」
意味深な言葉と共に『天智の書』が浮かべる見透かしたような笑み。それに微かな悪寒を覚えつつも勇麻は走るのを止めない。
脳裏に聞こえるのは嘲笑。感じるのは粘つくような悪意と弱者を痛ぶる愉悦と興奮。人の不幸を蜜として啜り喰らう、卑しくも人間らしい欲の声。
『天智の書』が何を思っているのか、まだその全てを掴み切るだけの心の強さが勇麻にはない。どこかでまだその存在を否定し拒絶してしまっている自分がいる。
……弱い己を認めよう。彼女を理解しようとしない自分がいる事を直視しよう。そのうえで彼女を決して諦めて見放す事無く、ありのままを知ろうと、彼女という形を理解しようと抗い続ける。
玉座の上に座する『天智の書』目掛けて東条勇麻は全力でその足を動かし続ける。その間も『天智の書』はよく回るその口を止めようとしない。
扉の向こう側から呼び寄せた異界の力を次々と勇麻目掛けて解き放ちつつ、攻撃に口撃を重ねる。東条勇麻の心を挫こうと、勇麻が救おうとした少女の顔で、声で、勇麻を絶望の底へと突き落とそうとする。
「そもそもアナタはどうして我が主サマを助けようとするんだ? その理由をアナタは自分できちんと理解しているのかい?」
開かれた四つ目の扉から死の息吹が解き放たれる。噴射される死の黒煙は、イカの吐く墨のように拡散せずに一塊に纏まって空気中を弾丸の如く突き進む。
空気に触れた瞬間酸素が腐り、周囲の空気が死んだように淀む。
僅かでも触れた物の寿命を強制的に終わらせる一撃、しかし勇麻はその軌道を言われずとも理解している。
(――四つの扉からの一斉射、直線距離で走る軌道上へ地雷を設置するように放たれる絶対凍結。触れた物を消失させる光りの一閃は三秒後、薙ぎ払うように振るわれる。生命体のように獲物を追尾する白炎はこちらの動きでで誘導して絶対凍結とぶつけるしかない。死煙の噴射は点を穿つように、真正面からこちらが回避する度に連続して放たれる――!!)
直後、斉射される白線の軌道空間上につららが生じ空気と地面が瞬時に凍結。勇麻は僅かに地面を強く蹴り、凍結の範囲外ギリギリをなぞるように走る。
走る軌道を変えた瞬間穿たれる死の煙を身を半身に傾けてやり過ごし、上半身と下半身を分けるように振るわれる光の一閃を、傾けた身体をそのまま倒して地面に手を突き踏み切った。
ロンダートの要領で宙を跳んでくるりと回転すると、身体全体で跨ぐようにその一撃を躱し切る。着地と同時にそのまま勢いを殺すことなく走り続け、真正面から迫る白炎の動きを誘導して衝突直前まで引きつけ、すんでの所で大きく回避し絶対凍結と相殺させた。
灼熱の炎熱と全てを停止させる冷気の衝突に爆発。爆発的に発生した水蒸気の勢いに押され、勇麻は地を這うように低く走り、さらに身体を前へと進める。力強く次の一歩を踏み出す。
「主サマが助けを求めたから? いいや違う。現状はともかく、今回のコトの始まりに関しては主サマは自らの意志で天界の箱庭を離れた。アナタはそれを『アリシアという少女は何者かに脅されているに違いない』とまるで自分に言い聞かせるように繰り返し、自身の疑念さえ押し殺して前に進もうとした。まるで、そうでないと困るとでも言うように。それは何故だろうね」
勇麻の心の柔らかい部分に土足で踏み込もうとする『天智の書』に、しかし勇麻は思考を続ける。『理解』する事を求め続ける。
今ここでこの手綱を手放す訳にはいかない。手放せば死ぬ。
頭の中に流れ込む思考の声という情報を元に完璧な回避を見せながら、さらなる『天智の書』の狙いが、その攻撃の軌道が勇麻の頭に流れ込んでくる。
己の身体をミス一つなく操りながら、次なる一手を同時に模索する。頭がパンクしそうだ。脳味噌が焼き切れる寸前の導線のような断末魔の悲鳴をあげているのがよく分かる。
だがその無茶を、押し付けられた無理難題を、勇気の拳が強引に解決してしまう。
東条勇麻の根性一つでこんなものどうとでもなると、古臭い失笑物の精神論や根性論を成立させてしまう。
本来ならば凡庸な学生でしかない東条勇麻のスペックを、たった一人の少女を想うその感情に呼応するかのように遥かな高見へと引き上げていく。
驚く程に思考はクリアに、身体は軽く羽のようだ。
「答えは簡単さ。それはアナタが彼女に執着しているからだ。そうだろう東条勇麻」
だがその感情の昂ぶりに水を差すように、『天智の書』の言葉が呪いのように心の防波堤を侵食していく。
心が揺れ動く。
無視しようにも決して無視できない言葉が、勇麻の心の柔らかい部分を容赦なく抉り取る。
『――不安だったんだろ? 怖かったんだろ? 神門審判の笑みが自分以外の誰かに向けられるコトが。自分から離れて行ってしまうコトが。……実際こうして神門審判は自分の足で勇麻チャンに背を向け離れて行った訳だけど。……さて、悪夢が現実となった感想はどんなモンなんだい? 東条勇麻チャン??? ――クハ。キヒヒッ! ヒハハハハハハッッッ!!?』
思い出されるのは未知の楽園を訪れる直前に対峙した『創世会』の幹部、シーカーの『三本腕』が一人、クライム=ロットハートの言葉だ。
刻み付けられた敗北の記憶。あの時放たれた言葉と、今『天智の書』が放つ言葉が不吉に重なって見える。急所を突かれたように、背筋がすうっと寒くなる。
波打ち際に水混じりの泥で造られた防波堤など打ち寄せる波で呆気なく壊滅する。
それと同じ。
その言葉は東条勇麻にとってのアキレス腱のような物。
もとより大して強靱でもない少年の心は、『天智の書』の並び立てる致命的な言葉を前に既に綻びを見せ始めている。
「アナタと主サマが運命の出会いを果たしたと言ってもいい七月末のあの事件。――悪の組織に実験体として囚われ自由を奪われ続けた少女がいた。それを知った一人の少年は自分より強大な敵へ勇敢に立ち向かい、死闘の果てに少女を絶望から救い上げる。……あれは一見、そんな英雄譚のようにも思えるかもしれない。でも事実は違う。あの日救われたのは我が主サマだけではないんだ。東条勇麻、他の誰でもないアナタが、他の誰よりも主サマに救われた。否定はさせないよ? なにせあの時、『神門審判』の力を無意識に発動し勇気の拳という受信口を持つアナタと回路を繋げたさせた主サマを通じて、私もアナタの過去を覗き見たのだから」
「……ッ!?」
心に走った動揺が、身体の動きを鈍らせる。今まで完璧な回避を続けてきたその体捌きに、微かな、けれど確かな乱れが生じる。
僅かに掠った炎が、勇麻の髪の先端を僅かに燃やす。慌てて左の義手で燃えた髪をむしり取る。掌の中で一瞬で白髪となった数本の髪の毛に、勇麻はギョッとすると同時、恐怖と焦りを覚えた。
……今の勇麻の回避行動も普通ならば十分以上の動きに思えるかもしれない。だが先程までと比べて生じているその僅かなズレは、確実に東条勇麻の弱体化を表している。
そして『天智の書』はその隙を見逃さない。勇麻の反応を見て愉しげにニヤリと嫌らしい笑みをさらに広げ、畳み掛けんとその口を開き腕を振るう。
「そう、アナタにとって我が主サマ――アリシアという少女は、ある種の象徴なのだろう。あの日アナタは彼女によって一時的とは言え重苦しい過去の呪縛から解放された。彼女という存在が、アナタに拳を握る理由を与えた。今まで紛い物を演じ続けてきた何者でも無い空っぽのアナタに存在理由を与えた。生きる意味を見失いかけたアナタに、再び生きる意味を与えた。……簡単な話なんだよ東条勇麻。アナタはアリシアという少女無しでは、もう生きていく事すらできない。だから、自分の隣から居なくなられては困るから、アナタは彼女に固執する。彼女の意志など顧みず、助けを求められていると決めつけて、自分勝手に彼女を救い出そうとする。なんて傲慢なんだろうね、アナタは」
「……俺は、アリシアが自由を望んでいたことを知っている。天界の箱庭での今の暮らしを愛していた事を知っている……! 初めてできた友達に囲まれてご飯を食べるのが大好きな女の子だって事を、確かに知っているんだッ!! だから――」
「だからこれは主サマの幸せを祈っての行動だと? そこに自身の我欲はないと、自身の独占欲は存在しないと! 卑しい下心も利己的な感情も見返りを求める心も弱者を救う優越感も全能感も英雄行為の快感も何もかも皆無だと!? ただ主サマの身と心を慮っての行いであると!! アナタはそう言うのだねッ!!?」
弁明するように述べられた勇麻のその言葉に、鬼の首を取ったような勢いで『天智の書』がニヤリと笑う。
マズイ。
具体的に何がどうマズイのかは分からない。けれどその場の流れが、東条勇麻にとって最悪な物へと切り変わっていく自覚がある。
けれどもうこの流れは止まらない。一度動き始めた雪崩は全てを呑み込み蹂躙するように、最高潮のテンションに達した『天智の書』は悪魔のような哄笑と共に東条勇麻の心へトドメを刺さんとする。
「ぷくく……っ。あはっ、あははははっははははははははははははははははははははははははははははははは!!! ならそんな心優しいアナタに、主サマを幸福に導くためのとっておきの贈り物を授けようじゃないか! いいかい東条勇麻? アナタにとって主サマは唯一無二の存在だけれども、主サマにとってのアナタは単なる代理品に過ぎない! ……知っているんだろう? あの少年の事を。私が完全なる記憶を名乗った時、アナタが感じた恐怖はそこにこそあるんだろう?」
……分っている。
分っている分っている分っている分っている分っている分っている分っている分っている分っている分っている分っている!!
誰よりも他の誰よりもこの地上の誰よりもそんな事は東条勇麻が一番分かり切っているッ!
だからもう、それ以上は言うな……ッ!!
東条勇麻はきっと恐れていた。
アリシアの過去を。
紛い物でも、代替品でも無い。そこに登場する一人の勇敢な少年を。
「……もし、あの少年の事を主サマが思い出したとしたら。果たして主サマの心は、アナタと彼のどちらを向くのだろうね?」
分からないふりをして、見ないふりをして、本当は心の何処かで気づいていた。
アリシアの笑顔を見るたびに疼く胸の痛みは、自分にこの笑顔が向けられる資格があるのだろうかという、東条勇麻の怖れに他ならない。
そう、だって、あの失われた日々の中で、アリシアの笑顔はいつだってあの少年に向けられていた。
アリシアの心は、最後の最後まであの少年を愛していた。
自分はまた、誰かの代わりでしかないのかも知れない。
アリシアにとって東条勇麻とは……失った過去の焼き回しに過ぎない、そんな恐怖に絡め取られて動けなくなる。
「そう、心の底から我が主サマの事を思うが故、執着するが故にアナタは認められない。アリシアという少女の心がパックという名の少年を求めている事を認められない。許容できない。……だから、我が主サマを本当の意味で救う事などアナタにはできないよ。仮に全ての記憶が戻った時、彼女が心の底から求めるのはアナタではない。東条勇麻、アナタは彼女の英雄にはなれない。永遠の二番手、本物の代替品でしかない偽物風情には、彼女を救う事なんてできやしないんだよ」
『天智の書』の言葉に東条勇麻の足が――止まった。
☆ ☆ ☆ ☆
何も見えず、何も聞こえない、自己と言う名の暗闇の中。
不定形で確固たる存在でさえない、曖昧な霧のような存在としてただ漂う。
自我も曖昧で、少しでも気を抜けば一瞬で意識はその形を失い霧散するだろう。
そんな状況下で、アリシアはただ願っていた。
(私はどうなってもいい。お願いなのだ。勇麻、どうか死なないで……!)
彼女にとって東条勇麻とは希望であり英雄であり、そして全てだった。
勇麻に助けられて、広い世界を見た。
『天智の書』を眺めていただけでは知りえなかったであろう様々な事を知った。
皆で食べるご飯の美味しさも、いたずらをしたら怒られる事も、迷子の心細さも、お手伝いをしたら褒められることも、友達がいることの嬉しさも、一人じゃないことの素晴らしさも、楽しい事も辛い事も悲しい事も、色々な事が世界には満ちていて、薄暗い研究所に地下牢に閉じこもっていたら分からなかったであろう事は全部。全部ッ、全部……! 勇麻や皆に教えて貰った。
勇麻がいたから、アリシアは世界を見る事が出来たのだ。
だからアリシアは勇麻の為ならその身を投げ出しても構わない、そう思っていた。
アリシアがリコリスの言葉に乗って未知の楽園へやってき来た理由だってそうだ。ネバーワールドで起きたテロ事件。寄操令示との戦いを経て、どこか不安定になってしまった勇麻のことが心配だったからに他ならない。
どうにかして勇麻を助けたかった。
このままでは少年は崩壊すると告げられて、居てもたってもいられなくなった。
今まで助けられてばかりの自分にもきっと何か出来る事がある。今度は私が勇麻を助けるのだ。そんな決意と共に大好きで大切だった居場所を離れ、遠く異国の地へやってきた。
それだというのに、この身体は東条勇麻を殺す為に動いている。
アリシアの意識は閉めだされ、アリシアの意志は無視される。
何もかもが『天智の書』の思いのまま。
彼の『神器』はアリシアの想いも願いも踏みにじり、彼女の英雄を滅ぼさんとする。
(お願いだ勇麻。私はもうどうなってもいい、私を救ってくれたお主を、私は殺したくないっ! だから私を――)
――見捨てて。
死よりも耐えがたい苦痛に、アリシアは悶え苦しみ続けていた。
だが同時にアリシアは知らない。
彼女の失った記憶の中。
そこにもう一人、彼女だけの唯一無二の英雄がいる事を。
かつての彼女の全てがあることを。
『天智の書』は人の心を弄ぶように嘲笑う。
全てを明かし記憶を取り戻した時、果たしてこの少女は誰を求め誰を欲するのか。
天に遍く星々の輝きの如き智を司るその魔本には、その全ての答えが見えているのかも知れない。
☆ ☆ ☆ ☆
「東条勇麻、アナタは彼女の英雄にはなれない。永遠の二番手、本物の代替品でしかない偽物風情には、彼女を救う事なんてできやしないんだよ」
『天智の書』が突きつける言葉はその全てが残酷な真実であった。
幼き日のアリシアが生き抜いた地獄の日々を勇麻はこの目で見た。だからこそ分かる。今のアリシアに全ての記憶が戻ったとして、仮にパックがあの場で死ぬことなく生きていたとするならば、きっとアリシアはパックを選ぶだろう。
今の勇麻は居なくなってしまった彼の隙間を埋める詰め物のような物。
東条勇麻ではきっと、彼女の唯一無二にはなれない。
だってアリシアという少女を本当の意味で救ったのはパックだ。
あの地獄のような絶望の中、それでもアリシアが最後まで笑顔を失わなかったのは、その隣にパックがいたからだ。
東条勇麻にはアリシアを救う事なんてできなかった。
だって、勇麻がアリシアと出会った時、既に彼女は記憶を失っていて、パックと言う少年に救われた記憶すらも失っていて、取り返しのつかない過去とやらは、もう既にその幕を閉じてしまっていたから。
勇麻に出る幕など残されていなかったのだから。
びきり。
勇麻の中で何かが砕ける音が響いた。
そんな勇麻の様子を見て、満足げに『天智の書』がその口を歪に引き裂く。
「理解したなら逝けよ、正義の味方。アナタじゃ我が主サマは救えない。主サマの心を救えるのはパックだけだ。だからこの結末こそが救済! 民を救い、死して全ての記憶を取り戻した主サマは冥府でパックに救われる! アナタは紛い物の英雄らしく、そこで指をくわえてみているのがお似合いさッ!!」
――勇気の拳は、東条勇麻の精神状態に呼応してその身体能力を増減させる。
「……」
神経をすり減らして回避を続けた少年の息は荒い。肉体的にも精神的にもとうの昔に限界だった。
それでも、東条勇麻はどんな絶望的な局面でもその敗北を覆してきた。子供の我が儘のような意地を振りかざして、敗北を認めずに立ち上がり続けてきた。
神の子供達との絶対的な戦力差も、誰もが諦め絶望するような地獄を前にしても、少年はその敗北を覆すまで拳を握ることを辞めなかった。
だがそれもここまで。
心が砕け、抵抗する気力すら尽きたのか、俯き、ついに足を止めた少年の元へ、開かれた異界の扉から必滅の一撃が流星群の如く降り注ぐ。
……アリシアはきっと東条勇麻ではなくパックを選ぶ。
――握った拳が力無く解かれる。
……東条勇麻はどこまでいっても何かの代替品でしかなく、決して本物にはなれない。英雄の器には成れず、物語の主役は張れず、椅子取りゲームのように偶然空いてしまったその席に、ひび割れたアスファルトの詰め物のようにほんの一時の代わりとしてしょうがなく収まっているだけ。贋作止まりの不揃いな紛い物に過ぎない。
――走馬灯みたいに、アリシアの笑顔が浮かんでは消えていく。幸せだった日々、失いたくないと思った、それの為ならと、拳を握るに足りた何てことのない失い難く尊い日常。
……アリシアに執着するが故に、どれだけ少女を救いたいと願ったところで東条勇麻にアリシアは救えない。パックを求めるアリシアを、東条勇麻では救えない。
――これで終わりなのだと、全てを諦め理解した。
……東条勇麻ではアリシアの英雄には決してなれない。
――だから、もう。終わりにしよう。
迫りくる破滅の光りに東条勇麻はその瞳を静かに閉じて――
「……ごめんな、アリシア。みんな」
――刹那、霞むような挙動で迫りくる死その全てを掻い潜った。
その光景は『天智の書』にさえ予測不能で理解不能な一幕だった。
全てに絶望し、全てを諦めたはずのその男は、まるで荒々しい踊りを踊るように、力強く戦場を駆けていく。
回避してなお追尾する魂を燃やし尽す白い傲火を、拳を解いた左の手刀で叩き落とした。勇麻の左腕は特殊な金属製の義手だ。魂など存在しない無機物、人智の結晶によって、人の尊厳を奪うその炎は容易く退けられる。
動く物全ての時を止める絶対凍結は、叩かれ軌道を変えた白炎と絡み合い、互に互いを食らい合った。
勇麻はそのまま発生した水蒸気のカーテンを突き破り、眼前から迫る死の煙を全力で振り抜いた拳の拳圧だけで薙ぎ払う、降り注ぐ破壊の光りの軌道上を避けるようにジグザグと左右に大きくステップを踏みつつ、玉座に座す少女の元へと脇目も振らずに駆け抜ける。
東条勇麻の燃え盛るような闘志に呼応した勇気の拳による身体能力の増幅・強化。そして相対する『天智の書』の思考を意識的に受信する『理解掌握』による疑似的な未来予測によって、本来なら回避不能の死の一撃を紙一重の危うさで次々と回避していく。
勇気の拳が、勝利のみを見据え貪欲に吠え昂ぶる。
終わらない。終わらせない為に、終わらせる……!
「そんな馬鹿な!? 今の攻撃を全て躱した、だと……!? いや、違う。それ以前にどうしてアナタはまだ動けるんだ。勇気の拳はアナタの精神状態に呼応する。今の弱体化したアナタに、そんな動きができる訳が……!」
ここにきて初めて『天智の書』が激しく動揺。瞠目してその驚きを露わにする。
だが今の勇麻にはそんな事は心の底からどうでも良かった。
今この瞬間苦しみ悲しみ続けるアリシアを助ける事ができるのなら、全ての事がどうでもいい些事に思えたのだ。
「……知らない、知らない、知らない!! 私の知る東条勇麻はここで折れる! 諦める! もう無意味だと匙を投げて絶望するハズだ! だというのに、こんな結果はありえない。どうしてだ東条勇麻。アナタには本当の意味でアリシアを救う事など不可能だ。アナタもそれを理解いる! だというのにどうして、アナタは立ち上がる。拳を握るのをやめない。正義を成し人々と少女を救おうとする私に抗うんだ!?」
本気で目の前の生き物の行動原理が分からない。そう零す人類の叡智を詰め込んだ魔本を勇麻は一瞥して、
「……もうどうでもいいんだよ、そういうの」
一歩間違えば瞬時に命を失う戦場を脇目も振らずに駆け抜けながら、自ら産み落とした疑問に生き埋めにされかけている『天智の書』へと東条勇麻は吐き捨てる。
「アリシアが誰を求めてるとか、俺が偽物だとか、あの子の英雄になれないとか、そんなくだらない事は心の底からどうでもいいッ! ここでお前を止めたら未知の楽園が崩壊するとか、そんなのも関係ない!」
それをきっと、東条勇麻は最初から持っていた。
逃げる事無く『天智の書』と。そして己の心と向き合った結果ようやく気が付いた物でもあった。
『天智の書』という人々の言葉で形作られた存在を通して己を見た事で、勇麻もまた、己の人間らしい浅ましい欲望を自覚する。
アリシアの心がパックを求めている事も、東条勇麻が所詮は偽物でしかない事も、英雄になんて成れない事だって、その全てを認めよう。それは客観的な事実で、言い逃れようのない真実だ。
きっと勇麻は本当の意味でアリシアを救う事ができないし、アリシアも勇麻にそんな救いを求めたりはしないだろう。だって過去のアリシアが求めるのは勇麻ではない。仮に今のアリシアが勇麻に特別なナニカを抱いているとしても、それは過去の出来事を忘れているからの話。アリシアがパックという大切な少年のことを、忘れてしまっているからに過ぎないのだ。
だからそれは全てを思いだせば忘れてしまう幻想のようなモノ。
みっともなくすがる事に意味などない。
東条勇麻ではアリシアを救えない。
感情論で拒絶し認めなかったところで、その事実は揺るがない。変えようがない。もうどうしようもない。
でも。それでも。
少女を救えないという事実は、助けを求めて泣き叫ぶ少女に手を伸ばさない理由にはなりえない。
アリシアとまた何気ない日常を過ごしたいという感情を、封じ込める言い訳にはならない。
いっそ自己中に身勝手に我儘に、勇麻は自らの感情をぶちまける。
「俺はただ、アリシアを失う事が嫌なんだ! あの子の泣くところなんか見たくない! あの子に死んでほしくないッ!! もっとずっと一緒に居たい! 過去なんて知った事か、今のアリシアは過去の出来事を知りもしない! 失われた過去のアリシアじゃない、今此処にいるアリシアは俺達と一緒に生きていく事が幸せだって、そう言ってくれた! だから俺は、今あの子を助けるってそう決めたんだ!!」
『天智の書』の言葉を全て認め、受け入れて、その結果残った純粋な思い。
誰にも否定できない、抜き身の刃のように剥き出しの感情。
「なんだ、それは……。そんな、そんな自分勝手な行為が許されると思っているのか!? アナタのそれは単なる執着だ! ただ一人の少女の為に罪のない多くの人々を見捨て、救えもしないのに紛い物の救いを振りかざす、期待させるだけさせて最後に突き放すような非道だと何故分からない!? そんなものは自己満足の偽善だ、完全なる私情だ、我欲に塗れた我儘だ、アナタの目指す正義の味方に、こんな勝手が許されるワケがないッ!!」
『天智の書』の指摘は全てが正論で、故にどこまでもズレて間違っていた。
……ああ、これはきっと執着だろう。ただの自己中な行いだ。アリシアの気持ちも誰の気持ちも考えていない、単なる東条勇麻の自分勝手な我儘だ。全て自分の事情で私情で感情だ。
全ては『天智の書』が指摘した通り。パックの事や過去の事をアリシアに喋らずに黙っていた事だって、アリシアの笑顔が今隣にいる自分ではなく、過去の彼女の隣にいたパックに向いてしまうのが恐ろしかったからだ。
忘れてしまった辛い過去を伝えて彼女の心がまた傷つくのを見たくないなどと、そんな物はただの建前に過ぎない。
勇麻の隠そうとしてきた本音はもっとドロドロとした我欲に塗れた、薄汚く見苦しく卑しい物だった。
認めたくなかったその感情を、偽らざる己の本心を、勇麻はようやく直視する事ができた。
己の感情を、醜い願望を認め、受け入れた。
その上でそれでも構わないと、どれだけ醜い感情が源泉だろうともあの少女を助けたいという気持ちは本物なのだと、そう断じる事が出来た。
例え記憶が戻ったアリシアが東条勇麻を見向きもしなくとも構わない、それでも彼女がまた下手くそな笑顔で笑う事ができるのなら全力でこの拳を握りしめる事ができる、そう言って笑みさえ浮かべられる。
例え最終的にアリシアの心が勇麻を向かなくとも、それでも勇麻は今この瞬間、偽善だろうと自己満足だろうとも、勇麻はアリシアを救いたかった。
これは、ただそれだけの単純な物語。
だと言うのに、『天智の書』は人を超越した存在でありながらなおも無理解を貫いている。
分からない、分からない、分からない、分からない……! と、不理解を喚き散らしている。
――彼女という存在はいわば物語の化身である。
人の紡いだ文字と物語によって形作られる彼女という人格は月の満ち欠けのように、その白紙の項に刻まれる物語によって悪にも善にもなる。
今の『天智の書』はさらにアリシアという契約者の瞳を介す事で文字にはならない物語をも己の中に刻み込んで来た。
例えばそれは、アリシア自身がその足で歩んできた彼女の物語。
例えばそれは、アリシアの目線から見た東条勇麻という名の彼女の英雄の物語。
例えばそれは、とある遊園地で起きた奇操令示という名の狂気の物語。
『天智の書』が纏う退廃的で破滅的な雰囲気と純粋無垢な悪意。それはそんな数々の物語に登場する人々の悪性が僅かに善性に勝ったが為に顕著に表出し浮き出てきた人格だ。
だから彼女は物語に破滅を求め、悲劇を眺め、阿鼻叫喚を欲し、人の絶望を愛でる。
『天智の書』はアリシアという透明な器を通して見た人類そのもので、勇麻達のもう一つの側面であった。
人の不幸を愛し、誰かの絶望を笑い、悲劇を眺め嘲笑する。そんな人々の悪性、弱さが表面化した人格。
透明で空っぽなアリシアがその目で見て触れてきた人間たちの弱い部分。
だからこそ彼女には理解が出来なかった。
かつて仕組まれた純然たる悪意に折れ、絶望から安易な憎悪に走った少年を見てきた『天智の書』だからこそ、この結末を予期する事はできなかったのだ。
――『天智の書』。何も知らないお前に、今から見せてやる。誰しもが持つ、人の強さってヤツを。
理屈も理論も越えた、くだらない感情論ってモノを。
「……正義の味方になんて、英雄になんて成れなくたって構わない。俺はこの街の人々を救えないし救わない。でもそれでいいんだよ」
終わりにしたのは、諦めたのは、唯一を除いた己の全て。
そうでもしなければきっと届かない。だから勇麻は躊躇うことなく全てを諦め投げ捨て終わらせた。
終わらせたなら、始めなければならない。
だからこれは始まりの前の前哨戦だ。全てを諦めた東条勇麻の、終わりの拳だ。
絶望する事さえ諦めた東条勇麻は、ただ一つだけ諦めなかった事を無知な彼女へ告げる。
「俺は今この瞬間、アリシアの味方になれればそれでいいッ!」
それこそが、東条勇麻の信じ貫く妄想の刃。
心に掲げ愚直に信じた、彼の信念。
彼だけの正義
――正義も英雄も世界も糞喰らえ。そんな大きな物、東条勇麻は背負わない。ただ己の心の赴くままに、願い欲するがままに、大切だから手を伸ばす。
それこそが少年が拳を握る、絶対の理由。
それは、英雄の紛い物としての使命感も義務感も贖罪も何もかもが関係ない、己の抱いた英雄の背中への憧憬も、今まで進んだ道のりに対する矜持も、その全てを捨て去ってでもこの手に掴みたいどうしようもない程の我欲。かつて己が希った物さえ放り投げて、遮二無二に今この瞬間の衝動に身を任せる愚行。
でもそれでいい。
後で後悔しても構わない。今此処で我を通せないくらいならば、東条勇麻は死んでしまった方がマシだとそう思う事ができた。
今目の前で悲しんでいる少女を救えるのなら、正義の味方でも紛い物の英雄でもない、己を装飾する全てをかなぐり捨てて、ただの東条勇麻として、アリシアの味方として拳を握り戦おう。
自分という存在の全てを賭して、ただ一人の少女を救おう。
勇麻の張り上げた咆哮に呼応して勇気の拳がさらに猛り、熱く燃え上がる。
踏み込んだ一歩一歩に想いの力が宿る、東条勇麻の身体が一気にグンと加速する。
玉座の鎮座する石舞台までの距離は残り五十メートル。今の勇麻ならば、三歩の内に縮まる距離だ。
「……あはは、ははははははっはははははははっはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!? やっぱり面白い! 東条勇麻、アナタは私の予測すら裏切り、予定調和を覆す! でも、だからこそ、絶望に死にゆくアナタの顔が私は見たい……ッ!」
『天智の書』が腕を横薙ぎに呵呵大笑した。
アリシアの胸で踊る『天智の書』が、その激しさを増す。
台風のただなかに立っているかのようにページは暴れ、破けんばかりの勢いで捲れ上がり、アリシアの純白の髪も美しくも凶暴な舞いを踊る。
「……ッ!」
勇気の拳によって『天智の書』の思考を受信している勇麻の顔に焦燥が走る。
これから放つ彼女の攻撃は、分っていても躱せるような代物ではない。
本能に働きかけるような恐慌に、まるで蛇に睨まれた蛙のように勇麻の動きが一瞬停止してしまう。
威圧と得体のしれない殺気を身体中にぶつけられ、それだけで心臓が停止してしまいそうな緊張感に貫かれる。
未だ閉ざされた残り五つの扉も全てが開き、都合召喚された九つの扉全てがその矛先をたった一人の少年へと向ける。
風より疾く、音より軽やかに駆ける少年を消し去らんと、異なる九つの世界全てを一つに束ねた最大最強の世界の一撃が放たれる。
マズイ、と思った時には全てが終わっていた。
まず初めに、閃光があった。
そして次に、世界から光と音が消失する。
束ねられ、一つに収束した超高密度のエネルギー砲。その一撃は全てを呑み込む終わりの嵐。世界の始まりと終わりすらも思いのままになるような、神話に刻まれるべき神の鉄槌だ。
世界という圧倒的な熱量の奔流は、神により齎される天災以外の何物でもない。そんな理不尽を前に、たかが一人の人間如きが立ち向かったところでどうにもなる訳がなく。
東条勇麻は、大洪水に晒され流される蟻の一匹のように跡形もなく塵も残さず消滅して――
――何の前触れもなく勇麻の眼前から放たれた鮮血のように鮮やかな一撃が、迫りくる世界の一撃を真っ正面から向い打ち、勇麻を消し飛ばす寸前だったそれをみるみるうちに押し返し……そして拮抗した。
衝突し激しく鬩ぎあうエネルギーとエネルギー。
飛び散るエネルギーの余波と、火の粉のように周囲に散る赤い輝きが、まるで互いの血肉を削って飛び散る鮮血のよう。
バヂバヂバヂィっ! と雷鳴のように鳴りひびく耳を劈く甲高い高音は、世界の終わりの悲鳴のようだった。
衝突の余波で吹き飛ばされて思わず尻もちを付き、足を止めていた勇麻は、ただ茫然と己を救った血染め色の一撃を眺める。
……見間違えるはずもない。
首を巡らしても姿形はどこにも見えず、神の力の始点に制限を持たない。遠く離れた場所からの全力砲撃援護。そんな離れ業が出来る男を、東条勇麻は一人しか知らない。
そしてその声は、唐突に脳裏に響き渡った。
『――聞こえるかぁ、東条勇麻ぁ! 九ノ瀬和葉からだいたいの事情は聞いたぁ。こっちは俺らが何とかする、だからお前は、何に遠慮する必要もねぇ! さっさと『ウロボロスの尾』との切断を断って、大切な女ぁ救ってきやがれぇッ!!』
……言われなくともそのつもりだッ!!
目頭が熱くなるのを無視して、力強く無言で頷く。
言葉を交わす時間さえ惜しい、ディアベラスがその身を削って稼いだ時間、決して無駄にはしない。
揺るがぬ決意を胸に再び立ち上がると、激しくぶつかり合う二柱の光りの柱。その脇を疾風の如き勢いで走り抜け、勇麻はついに玉座の鎮座する石舞台へとその身を乗り上げる。
後は玉座までの急傾斜な階段をひたすら駆け上がるだけ。
だが、
『ぐっ、……ッ!!』
背後、拮抗の破れる音がした。
ディアベラスの『悪魔の一撃』がついに『世界の一撃』の前についに押し返されたのだ。
頭を抑える鬱陶しい障害をも飲み込んだ世界そのものという莫大なエネルギーの塊はそのまま無限に思える空間をしばし直進に凄まじい速度で突き進んで――
――着弾、爆発。
かなりの距離があったというのに、爆発時に発生した衝撃波に耐えきれずに紙屑のように身体が吹き飛ばされる。まだ距離のあった階段へ叩きつけられ、段差の角に痛烈に頭を打ちつけた。
衝撃に意識を手放しかけるが、揺らぐ視界の中全力で歯を食いしばって気を失う事だけは耐える。
額が切れ、大量の流血。血が目に入るのも構わず、震える身体に鞭を打って何とかその場に膝を突き、荒い息を吐く。
人の可聴域を優に超越した暴力的な破壊音に、勇麻の耳からどろっとした血が流れ落ちる。巨大な針を突き刺したような頭痛。
勇麻は今にも破裂しそうな頭を押さえて何とか立ち上がりながら、絶望的な状況に眩暈を覚えた。
「まず、い。階段を昇りきる前に、次を撃たれたら……ッ!」
間に合わない。
次もまたディアベラスからの援護砲撃があるとは限らない。
元よりディアベラスはクリアスティーナとの戦いで干渉力をほとんど使い果たしているような状態だった。先の一撃を撃てた事がまず奇跡なのだ。
『天智の書』の思考を読んでいるが故に分かる。次の一撃が放たれる前に、階段を昇り切りアリシアの座る玉座へたどり着くのは物理的に不可能。
無情で無慈悲な現実が、東条勇麻の前に立ち塞がる。
「……クソッ! 諦めて、たまるか……ッ!!」
だがそれでも、勇麻は足を止める訳にはいかない。毒づき、決して間に合わない歩みをそれでも届かせようと、身体が崩壊するのを承知で無理やりにでも勇気の拳で身体能力を引き上げようとして――
――その時だった。
石舞台に地割れが走る。火山の噴火や地震によって隆起する大陸のように、勇麻の立つ石舞台が内側から食い破られ炎を吹き上げ弾け飛んだ。
クリアスティーナの力によって異空間に固定されていたハズの隠し空間。しかし勇麻が開いた扉を和葉は開け放ったまま放置していた。
それはつまり、現状この空間は隔たれる事なく尖塔内に地続きで存在しているという事だ。
そして下の階層から床と石舞台を突き破り、燃え盛る炎を翼のようにその身体に纏って、勢いよく裂け目から飛び出してきたその男は――
「――クソ勇麻ァぁああああああああああああああああああああ!!!」
燃え盛る炎のような赤茶色の短髪、そして野生の虎のような獰猛な釣り目が玉座のアリシアを一瞥した後しっかりと勇麻を見る。衣服はボロボロに破れ、マグマのように溶解しながら燃える『火炎纏う衣』を纏ったその身体には、所々に本来ならあり得ない打撃による痣がある。
決して無事とは言い難いダメージ。だがそれでも泉は勇麻に追いついた。疑ってもいなかった親友の勝利に、しかし勇麻は己の感情がさらに燃え上がるのを抑えられない。
万感の炎が胸のうちに燃えあがる。
勇気の拳が、さらにその回転率を上げる。
勇麻もまた、その男の鋭い瞳を力強い意志を持ってしっかりと見据える。
声はなく、二人はただ思いを乗せた。
――今この瞬間に俺の持てる全てを賭ける。だから泉っ、俺に力をッ
――水臭ぇ、言われなくても……果てまでぶっ飛べッ!!
言葉は不要。
二人は一瞬のアイコンタクトで意志を疎通させる。
泉修斗が吠えながら拳を振りかぶり、東条勇麻が愚直に跳ぶ。
真上に跳躍した勇麻の足裏目掛け、泉修斗が弓矢のように引き絞った拳を撃ち出した。
肘の先を爆裂させ、加速。音の壁を突き破り、瞬時に音速に達した泉修斗の燃え盛る炎拳が、東条勇麻の足裏を確かに捉える。勇麻は膝を折り曲げ、その威力と衝撃を自らの物へ変換。僅かな間、力を溜めるかのように拳と足の裏が拮抗して――
「「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――ッッ!! いッけェえエエエエエエエエエエエエエエえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッッッ!!!!」」
時間が止まったような一瞬の溜めの期間を経て、さらに爆発的な速度で撃ち出される拳に押し出されながら、勇麻もまた折り曲げた膝を全力で解放。たわめたバネを解き放つように、己の身体に伝播する全ての力を斜め上方向へ。玉座への跳躍へと向けて全力放出。
さらに勇麻の足の裏と接地した炎拳を振り抜くその瞬間、泉修斗が拳を爆裂させた。勇麻も姿勢を崩すことなく、ぶつけられたエネルギーその全てを速度と跳躍へと変換する。
今、東条勇麻は一つの弓矢となり、囚われの少女目掛け打ち出された。少年は世界を駆け抜け一直線に空を疾走する。
――これきりでいい。
ドンッ!! と、気持ちの良い轟音が身体中に響き渡り、空気が身体を叩く。泉修斗の炎拳の衝撃を受け止めた足の骨が粉々に砕けたのを理解する。だがそんな事はどうでもいい。痛みさえ感じない。自分が風になったような感覚、否、吹きすさぶ風をも追い越すような速度で、勇麻は空を飛翔する。
――出し惜しみ無しの全部だ、今出せる全てを絞り出せ。
泉修斗の拳をカタパルト代わりにまるで砲弾のように射出された勇麻が、アリシアへと向けて一直線に最短距離で突き進む。
粘つくような重苦しい空気の壁を幾度となくぶち破り、視界が線のようになって遥か後方へと流れていく。
世界の一撃が放たれる暇など与えない。
それはまさに、瞬きする間の一瞬の出来事。
神業のような阿吽の呼吸の連携の果てに、東条勇麻はついに求め続けた少女の元へたどり着いていた。
「アリシアぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
交錯は一瞬、だが時が止まったかのように、勇麻の瞳はしっかりと少女の姿を視認していた。
――今この瞬間、己の全てをかなぐり捨てて、ただ一人の少女を救うんだッ!
玉座に座ったアリシアの身体で、『天智の書』は驚いたような呆れたような曖昧な表情を浮かべて、
「それがアナタの信じた正義か」
「ちげえよ、俺の正義だ……!」
交錯の瞬間、東条勇麻の勇気の拳が、少女の首に掛けられた『天智の書』を紐ごと強引にもぎ取った。
『天智の書』を奪われたアリシアが『神門審判』を制御する術を失う。連動するように、召喚された九つの扉が空気に溶け入るようにするりと消失していく。
まるで最初からそんなものはどこにも無かったかのように、玉座の間に静寂が訪れる。
これで、『神門審判』の制御を失ったアリシアと『ウロボロスの尾』との接続は自動的に切断されるだろう。
そうなればいかに神の子供達であるクリアスティーナといえど『多重次元空間』を維持する事は不可能。勇麻が必死の思いで救った少女諸共、未知の楽園はもう間もなく崩壊する。
落下の最中、まるで走馬灯のように勇麻の脳裏にこの街で出会った数々の人の顔が浮かんでは消えていく。その全てが失われるかもしれない、そんな可能性を自分が造り出してしまった事に胸に鋭い痛みを覚えながら、
(……ごめん、和葉。俺なんかじゃこの街は救えないよ。『天智の書』の言う通りだ、やっぱり俺は英雄になんてなれない……)
でも、心配はしていなかった。
だって、この街にはもう……。
(……未知の楽園は、やっぱりお前らの手で救われるべきだ。よそ者はよそ者らしく、このあたりで退場がいい。だから後は……)
未知の楽園が音を立てて崩れていく。
その崩壊音を聞きながら、半ば意識を失いつつある東条勇麻の身体は地上へと吸い込まれるように落ちていく。




