第四十八話 東雲《しののめ》の決別Ⅱ――理解掌握《リアライズ・オーバー・ワン》
――九つの扉が開かれる。
燃え盛る炎によって象られた炎熱の扉。
金銀財宝に宝玉の数々で飾られた豪勢な扉。
重厚で遊びの一切ない全てを拒絶する鉄の扉。
死者の積み上げた人骨のみで構成された死の扉。
凍てつく永久凍土から切り出されたような氷の扉。
全体に隙間なく精緻な竜の彫刻が施された威圧的な扉。
巨大な樹木に飲み込まれ半ば一体化した太古の昔に忘れ去られた扉。
複雑怪奇な文様やお札がびっしり施されたどことなく不気味で不吉な扉。
黒魔術の儀式上のように魔法陣やら幾何学模様が何らかの法則に則って配置された扉。
同じ扉は一つとしてなく、贋作は一つとして存在しない。
そのどれもがこの宇宙にただ一つ。原典と通じる真性の扉。
零と零を結び、一と一とを繋ぐ門。世界の境界線となり、また境界と境界を繋ぐ神秘そのもの。
『神門審判』。
此方有らざる彼方と彼方有らざる此方。
本来交わらざる二つを召喚し、結び、繋げ、開く者。
それこそが神門審判、彼の少女の神の力。
であれば九つの扉によってこの世界に繋がれたるは何か。
答えは世界。
召喚される特異なエネルギーはここではない何処か。異界に満ちた純粋な力場そのもの。
遥か異界と異界とを繋ぎ、少女は此処とは異なる世界に満ちる未知の力を。根本の常識から異なるその法則を、自らの力として自儘に振るう。
開かれた九つの内の一つから、漏れ出したソレが顔を出す。表面張力のように扉の淵、世界と世界の境界線上にギリギリで押し留まったソレは、次の瞬間には『天智の書』の号令一つでまるで春の嵐のように、東条勇麻の真横を荒々しく吹き抜けていった。
目で捉える事すら出来ない。
東条勇麻はなすすべもなく、石像のように硬直したままその一撃を受け入れる事しかできなかった。
それは一瞬の出来事、光に包まれ視界が消失した。
「……っ、」
「いい判断だね。恐怖に負けてその場所から逃げようと一歩でも動いていればアナタの身体は綺麗にこの世から消滅していたというのに」
開け放たれた扉の向こう側から降り注いだ言語化不能の色彩を湛えた光の破壊が終わると同時、晴れた視界の先でアリシア――『天智の書』は上から目線で笑っていた。
体感時間にして一秒もない僅かな間光を奪われ、未だ命が残っている事にようやく気付く。
まるで時間を早送りしたかのようだった。
勇麻の本能が扉から降り注ぐ光を拒絶したかのように、『天智の書』の攻撃を認識する事を辞めたのだ。その結果として彼女の一撃は記憶に残らず、まるでうたかたの夢のように、攻撃を受けたという自覚さえ薄い。
「もっとも、単純に腰が抜けただけかもしれないけど。ま、それはそれでその悪運だけは評価しようがあるのかな」
あれだけの力の奔流が吹き荒れたというのに、光の降り注いだ直撃箇所には傷はおろか風穴一つ生じていない。記憶どころか、記録にさえ残らない不可視の一撃。
だがそれは解き放たれた力が地面に傷一つ付けられない程に陳腐な訳でもなければ、破壊力を持たない訳でもない。
今もまだビリビリと震える肌が、勇麻の至近を莫大なエネルギーが確かに通過したことを教えてくれる。
勇気の拳になって鋭敏になっている勇麻の五感が、その光に触れれば生命は終わると告げている。
既存の常識で語る事に意味なんてない。
全てが一撃必殺。そう思って対処しなければ、きっとあっという間に命を落としてしまうだろう。
(……これが、アリシア……? 神門審判の力だって言うのか……ッ!?)
眼前、遥か高見に座す人智を超越する存在を前に勇麻は自分の肌が粟立つのを感じる。
神の子供達という存在が常識の埒外の力を持つ事は、嫌と言う程に身に染みて分かっているつもりだった。
だが、いくら『天智の書』と人格が入れ替わっているとは言え、普段のアリシアからは想像もできないその豹変ぶりに、内心動揺を隠せない。
正直言って恐ろしい。できることなら尻尾を巻いて逃げ出してしまいたいくらいだ。
だがどれだけ危険だろうとも、アリシアを救うためには彼女……すなわち『天智の書』へと接近する必要がある。
『ウロボロスの尾』とアリシアの接続を可能にしているのはアリシアの神の力『神門審判』だ。
アリシアは扱いの難しい『神門審判』を制御する為に神器『天智の書』を使っている。ならば彼女の手から『天智の書』を取り上げてしまえば、彼女は神の力を使えなくなり、『ウロボロスの尾』との接続も自動的に解除される。
本来ならばクリアスティーナ達が未知の楽園の人々の避難を終わらせるまでアリシアに無理のない範囲で『ウロボロスの尾』を使った力の供給を続けて貰う手筈だったが、そんな悠長な事も言っていられない。
『天智の書』は勇麻を殺し、未知の楽園諸共アリシアと心中するつもりだ。
一刻も早くアリシアから『天智の書』を奪い、彼の『神器』の暴走を止める必要がある。
(……やる事は一つ。あの状態のアリシアに近づいて、首から下げられた『天智の書』を奪い取るしかない。……馬鹿みたいな事を言ってる自覚はある、無茶も無謀も承知の上だ、それでも今ここで俺がやるしか道は無い……!)
言葉で言うのは簡単だが、実行するのは不可能に近いと言っても過言ではない。だがそれでも、誰一人欠けずに皆で地上に帰るという勝利を目指す勇麻に残された道は他に何も無かった。
首を回さず視線だけを横に向けると、蒼白な顔をした和葉が勇麻の無事にほっと安堵の息を吐いてるのが見えた。
だがそれだけだ。勇麻は決して彼女の方へ振り向かない。
もう彼女に託すべきものは託したのだ。勇麻が今彼女の方を振り向くのは、彼女の信頼を裏切り、彼女を信頼した自分に嘘を付く冒涜に他ならない。
やがて和葉はその表情を怒っているのか泣き出しそうなのかよく分からない物に変えて、やや躊躇いを残しながらも勇麻を背に空間の出口へ向かって走り出す。
……助けを呼んできてくれという勇麻の言葉をそのまま鵜呑みにした訳ではないだろう。だがそれでも、信じていると言われた以上、彼女は東条勇麻に全てを託して走り出すしかなかった。
そんな和葉に向けて、勇麻は胸中でごめんと呟く。
和葉の神の力は強力ではあるが戦闘向きではない。彼女自身、戦闘は専門外だと事あるごとに吹聴していたくらいだ。
そんな和葉を命がいくつあっても足りない程の危険が付きまとう神の子供達との戦闘の場に残しておくことなど出来るはずもなかった。
例え和葉が勇麻の傍を離れる事を望まないと分かっていてもだ。
そんな和葉と勇麻の言葉のないやり取りを見て、『天智の書』はアリシアの顔に浮かべる笑みをさらに深める。
「……アナタは優しいけど酷い男だな、東条勇麻。彼女の望みを分かっていて、それでも此処から逃がすだなんて。足手まといの仲間が居て邪魔だというのならはっきりそう言ってあげれば良かったのに。それともカッコよく啖呵を切ったものの、心の何処かで己の敗北を認めてしまったのかな? 殺されるのは自分一人でいいとか、そんな自己犠牲に酔った台詞を吐いてしまうのかい?」
「足手まといなんかじゃねえよ。和葉は俺を助ける為に、俺を信じて此処を任せてくれたんだ。俺はあの子の信頼に応えてアリシアを助ける。それに……一人だって傷つけさせるわけねえだろ。アリシアの手は、誰かと繋ぐためにある手だ。お前みたいなヤツのくだらない思惑で汚させる訳にはいかねえんだよ」
誰も望まないこんなくだらない争いで和葉が傷つく事も、アリシアの手が血に汚れてしまう事も、東条勇麻は決して許容できなかったから。
「面白い事を言うね。でもアナタは肝心な事を分かっていないんじゃないかな?」
そんな勇麻の決意を嘲笑うかのように、『天智の書』は嗜虐と悦楽に満ちた底意地悪い笑みを浮かべる。
お人好しな少年の致命的な論理の破綻を指摘するのが楽しくてたまらないと、彼女の表情がその心情を物語っている。
「我が主サマが最も恐れているのは他の誰でもない、東条勇麻を傷つけてしまう事だ。そんな事も分からないで、主サマの心を守った気になられるのは心外だな……!」
興が乗った叫び声を号令に、開かれた扉の一つ、炎熱の扉から生き物のようにうねる白い炎が解き放たれた。
それは劫火の如くこの世の全てを炎熱で融かし、地獄の業火の如く人を焼き尽くし、されど決して貶められることのない天の焔。
穢れない白い炎は、その身の罪過全てを根こそぎ削ぎ落し、器でなく中身を徹底的に破壊する。罪ある人の魂を純白にまで焼き尽くす浄化の傲火だ。
人が人であろうとする限り、決して逆らう事のできない原初の光。最も大切な尊厳を破壊しつくす、傲慢な人外の超越者からの贈り物。
神々しさを通り越して見る者に薄ら寒さを与える白炎が大蛇がとぐろを巻くように東条勇麻を取り囲まんとする。
命が宿っているかのようなその傲火に飲み込まれ、勇麻は成すすべもなくその魂を灰塵と化す他道はないかに思えた。
しかし。
(……出来るはずだ)
白き炎が迫る中、東条勇麻は心の中で静かに呟く。
(……アリシアの心の声は確かに聞こえた。だからきっと出来るはずだ。『天地の書』の心の機微をもっと意識的に拾う、感じ取る。『天智の書』には感情がない訳じゃない。人の感性を超越した怪物性と知識欲に塗れた強い欲求を持っている。アレにも喜怒哀楽は存在する。……なら、きっとこの勇気の拳なら……)
勇気の拳は対峙した敵の感情を受信し読み取る力を持っている。
相手の恐怖や絶望、逃げたいという弱気な負の感情に反応して敵の防御を打ち砕き、己の中の熱い感情に呼応して燃え盛る『精神感応』系統の力。
それをもっと意識的に、意図的に使役する事ができるのならば、敵対者の心ひいてはその思考すら読み取る事ができるのではないだろうか?
心は燃え盛り闘志は十二分。負けられない、負けたくない、己の定めた勝利を掴み取る為なら何でも出来る。
けれど頭は冷静に、視野思考は広く冴えわたる。五感すらをも増幅させる勇気の拳、“その回転数をあげる”。
時間が薄く、鋭く、長く、鋭利なレイピアの切っ先のように引き伸ばされる感覚。全てが遠のいて、全てが近い。時の流れを知覚し、時計の秒針の進み方を何処かの誰かが遅める。何もかもが停止する中で少年は一人加速して、東条勇麻は眼前に生命を蹂躙する焔も、己の死すら置き去りに、静かに瞳を閉じる。
……心の声を聞こうとするのではない。
……相手の思考を読み取ろうとするのではない。
……表情から感情を推察するのではない。
理由は分からない。
根拠なんて何もない。
論理的に説明できる証拠なんて何もない。
けれどそれは勇気の拳という力の本質ではないのだと疑いなく信じる事ができる。
東条勇麻は最初からそれを知っている。
何をすればいいのか。自然とその答えは導かれている。
勇気の拳の持つ力をはっきりと自覚した時から、きっと勇麻はそれを知っていた。
答えは最初からこの手の中にある。
何故ならこの力は、この拳を強く握ったのは、他の誰でもない東条勇麻自身なのだから。
かくあれかしと、かつてソレを夢見た小さな少年は確かにそう願いを拳に握り締めたのだから。
……最も大切なのは分かり合おうとすること。
無理解を捨て去り、先入観を脱ぎ捨て、裸のままに、飾る事なく真っ直ぐにその人を見る。視る。観る。診る。看る。
対峙する相手を分り合おうとする、その意志。
心の在り方こそが全ての鍵だ。
――拒絶を拒め。
遠ざける事は諦観だ。それは拭い去れない不和を生み、互いを不理解へと至らせるから。
――憎悪を憎悪しろ。
それは不理解への免罪符。憎悪というフィルターを通して見た世界は、きっと抗いがたい愛憎の魔物に憑かれているから。
――まず己の目を背けている弱さを直視しろ。
ひとたび目を離せば人は真実を見逃してしまうから。捩じれた事実を誤りだと気付き、見逃してしまった大切なモノを見つけるのは、とても難しい事だ。
だから事実を見る事を恐れる弱い自分を認め、それに抗い続ける。それが弱さを超克する一つの道だ。
――身勝手に相手を諦めるな。
それは一方的な決別。だって理解する事を放棄してしまえば、そこで全ては終わってしまう。終わらせない為には、決して歩みを止めてはならない。立ち止まってはならない。手を伸ばし続けなければならない。
自分じゃない誰かを理解する事はきっと難しい。自分を理解する事だって難しいこの世界で、それは当然のことだ。
世界にはそれこそ人の数だけ主義主張、考え方、持論哲学見識信念善悪好悪正誤幸不幸がある。
人の心は複雑怪奇。
胸に抱く感情は決して単一の物ではなく、自己矛盾を繰り返す。
己の心ですら満足に測り知る事もできないというのに、血も繋がっていない誰かを完璧に理解しようだなどと思うのは傲慢ですらあるのかも知れない。
でも、それでも。理解したいと願う気持ちは、その想いは、きっと無駄なんかじゃない。
大切なのは受け入れる事。
ありのままを許し、認める事。
……許すとは相手の罪や行い全てを無条件に許すのではない、善悪関係なくその存在が此処に居る事を認めるという事だ。
人は誰かを愛し誰かを憎悪する生き物だ。特定の感情を消し去るなど、そんな事は不可能だし、そもそもする必要がない。してはならない。
一つの感情で心を盲目的に塗りつぶすのではない。ただ逃げずに向き合い、相対し、何の色眼鏡も脚色もなく、相手のありのままを見る。知ろうとする。色のついていない事実をただ知る。
例え互いに相容れない存在なのだとしても、全てを諦めてしまう事は悲しい事だから。
大切なのは勇気をもってこちらから一歩踏み込む事だ。
そうすればきっと、世界はその見え方を少しだけ変えてくれる。
自ら進んだ歩幅の分だけ、少年が希った世界に近づいてくれるハズだから――
――再び少年が目を見開いたその時には、視界の先の世界は確かにその色を変えていた。
(……そうか、そういうことか)
頭が熱い。視界の端で火花が弾けるような、不思議な錯覚。
脳味噌がシェイクされ、火にかけられたように沸騰している。中身が器を突き破った飛び出しそうだ。フル回転する脳に身体が悲鳴を上げ、ギャリギャリとかき氷を削るような速度で脳細胞の寿命が削がれていくのが分かる。例えるのならオーバーヒート。本来のスペックを越えた要求を無理やり実行した結果、不可能を可能へと塗り替えた反動が勇麻を蝕んでいた。
処理限界を起こしかけている理由は明白。
東条勇麻は、ついにその域へと到達する。
「――起動、『理解掌握』」
発動キーは、拒絶や先入観を捨て相手を理解し分かりあいたいとただ願う事。
己から逃げず、相手から逃げず、ただ真摯に向き合った者のみが至る事のできる到達点。勇気の拳の持つ対峙した相手の感情を読み取る力を極限まで活性化したその結果として、意識的に相手の思考を完全な形で受信し読み取る異能。
相手の思考を予測再現するのではない、直接的に介入し、チャンネルを繋げてその思考全てを掌握する自分勝手で究極敵に横暴な一方的理解。
自分じゃない誰かの思考を、感情を、声なき声を、勇気の拳が受信し読み取る。包み隠す事など不可能。全てを暴き、全てを受け止める。相手を理解する為、強制的にその思考を理解し、人と人との間に生じる壁を埋める力。
誰かと繋がる為の異能。
幼き少年が確かに願った、希望の力だった。
己の脳裏に響く彼女の声に、勇麻は感嘆を込めて短い一言を胸中で呟いていた。
(アンタは、あの子の見てきた俺達そのものだったんだな……)
魂を焼き尽くす白炎が、勇麻を中心に半時計回りにとぐろを巻いて逃げ道を封じようとしている。
しかし勇麻には動揺も迷いもない、まるでその炎の動きを完全に見切っていたかのように一切の躊躇いなく跳躍。ムーンサルトの要領で背後に大きく飛びのくと空中でさらに身体を捻り、ヘビのようにのたくる炎の僅かな隙間へ己の身体をねじ込んで安全圏へと退避を図る。
(聞える。分かる。相手の狙いが、次の一手もさらにその数手先まで全てが聞こえる。把握できる。……一見逃げ場など無いように思えるけどそうじゃない。絶えず形を変えるという事は、その都度生じる弱点……隙間を隠しているという事。ならあとはその指示の法則性から隠そうとしている部分へと飛び込めばいい)
得物を狙う狡猾な狩人のように白炎が執拗に追いすがる。着地の瞬間を狙って勇麻の足元に襲いかかり、勇麻はそれを見極めて冷静に横合いに転がり紙一重で回避する。立ち上がった直後、鎌首をもたげた傲火が方向転換。
(頭の中を覗いてるみたいに分かる。『天智の書』の感情。心の声。でもまだだ。まだ薄くて弱い。きっと心の何処かで、俺はあいつを拒絶しちまっている)
大蛇のような緩急ある動きで食らいついてくる炎に対し、勇麻はバックステップとサイドステップを組み合わせてひたすらに回避を続ける。十数程同じやり取りを繰り返し業を煮やした白炎は、三つ首竜のようにその矛先を三つに枝分かれさせ左右上空の三方向から一息に勇麻を飲み干そうとする。
勇麻は何かを観念するように三つ首の炎を見やり、
「はぁああああああああああああっ!!」
烈火の気合を一つ、地面に向かって全力でその拳を叩きこんだ。
まるで打ち上げ花火のような豪快な音が腹の底に響く。
インパクトの瞬間、赤黒い輝きが明滅して――クリアスティーナがその神の力で造り上げた空間の地面に罅割れが走り――崩落して穴が開いた。
(……アリシアの心は戦いを望んでいない。だったら勇気の拳であの攻撃そのものを破壊できるかも知れない。けど、『天智の書』は違う。あいつは今のこの戦いを、俺を痛ぶる事を愉しんでいる。アリシアと『天智の書』どっちの感情で判定が下るか曖昧なこの状況なら、かつての逃げ続けた『聖女様』が造ったこの空間を破壊する方が手っ取り早くて確実だ……っ!)
そして炎が勇麻に喰らい付くその寸前、弾かれたように全力で地面を蹴って後方へ。巨人の股下を潜り抜けるように三方向から襲い来る炎スレスレを強引に突破する。
空間に生じた穴――勢い余って次元の裂け目に首を突っ込んだ白き傲炎は、そのまま裂け目に引っ張られるように穴に飲み込まれていった。
「肝心な事も分かっていないヤツがアリシアの心を守った気になるな、だったっけか」
空気を焼きつく轟々という音も、苦痛な悲鳴も、愉悦の哄笑も、何もかもが収まった息も凍る静寂の中。
驚きに目を丸くする『天智の書』へ、勇麻はやや呆れたようにこう言った。
同じ事を何度も説明するのは手間だと言いたげに、天に遍く星々の如き幾億にも及ぶ智を司る存在へと、不遜に不敬に傲慢に、その低能な勘違いを正す為に。
「人の話を聞いてたか? 言っただろ、一人だってアリシアには傷つけさせやしないって」
お前如きの攻撃では己に傷一つ付ける事もできはしないと、自分より高位にある存在へ躊躇いもなくそう言い切って見せた。
しかし『天智の書』はなお嬉しそうに笑って、
「……言うじゃないか、東条勇麻。アナタは我が主サマを決して傷つけず、主サマがその手でアナタを傷つける事さえ許さず、彼女を救い出してしまおうと言うのだね。身の程知らずで分不相応なその蛮勇、やはりアナタは私が見込んだ通りの男だ。英雄の器でも何でも無い、本来なら物語の主役足りえない凡庸な身で、不遜にも世界なんて物を救おうと届かぬモノへ手を伸ばし続ける。語り部として、これほど面白い観察対象もそういない。けど、アナタは本当に救えると思っているのかい? 世界を、この街を、そして我が主サマを。自分にそれだけの価値があると、そんな力があるとホントに思っているのかな?」
たかが一撃を回避しただけ。こんなものはお遊びだと、言外に『天智の書』は勇麻に告げていた。
依然として勇麻とアリシアの間に横たわる距離は遠く長く、『天智の書』の余裕は揺るがず、その攻撃はさらに苛烈さを増していく。
☆ ☆ ☆ ☆
避難開始から二〇分。
既に未知の楽園の総人口の七三パーセントが中心区に集められ、城門前はいまや王族の演説を待つ民衆達が集ったような、そんな混雑具合を見せていた。
五つのうち、此処を含めた三つの未知の楽園の避難は既に完了し、今はクリアスティーナの神の力と『輝石』の力を借りて残り二つの未知の楽園への道を開きこちらも同様の手順で避難を開始している。
逃げ遅れた外周区の人々を避難させるのにやや時間が掛かってしまったが、それでもペースは悪くない。まだ十分に挽回が出来る範囲での失速だ。それに三つの都市を手分けしていた人手を二つに分け直した事により単純な人手も増えている。逃亡者の集い旗の連中までもが、今やクリアスティーナに協力し、人々の避難を手伝っていた。
避難効率はさらに良くなり、速度も上がっている。
……いける。
誰とも無しに、誰もが心の内でそう思っていた。
慢心でも油断でもなく、ただ純然な現実を見ての論理的な判断。
事実、未知の楽園の人々の避難は事前に想定されていたよりも遥かに速いペースで着実に進んでいる。
このまま何事も無ければ、無事に全住民を地上へと逃がす事ができる。そう思うのはごく当然の心理であると言えよう。
だが、想定外の事態とは、決まって物事が順調に進んでいる時に起こる物である。
「……くっ、」
まず初めに、クリアスティーナが膝を折った。
「……っ!? アスティ! どうした、大丈夫かぁ!?」
「大、丈夫……です。これ、くらい……!」
いち早く異常を察知したのはディアベラス。
どうにか別次元への道を維持しながら苦しげに呻くクリアスティーナに――依然として『悪魔の一撃』の行使を続けながら――ディアベラスが駆け寄る。そしてその異常に気が付く。
『多重次元空間』を維持する為に力を行使するクリアスティーナの干渉力が安定しない。
『ウロボロスの尾』との接続によって常に消費分の干渉力を供給されるはずなのに、干渉力が燃焼するように一気に底を尽きかけ、瞬時に最大まで回復、さらにまたゼロ付近まで一気に減少する。一時として安定せず、ジグザグと稲妻を描くように値が上下変動する。
干渉力が激しく増減するせいかクリアスティーナの神の力の出力も安定せず、別次元と此処を繋ぐ道である空間に生じた亀裂も時折不安定に歪んでいる。
明らかな異常。それもおそらく『ウロボロスの尾』か、彼の『神器』と接続しているアリシアという少女の身に何かがあったに違いない。
「……チッ、あと少しだってぇのに……!」
苛立ちを隠せずに舌打ちする。だが状況は待ってはくれない。さらに畳み掛けるようにセルリア達が担当している未知の楽園と此処とを繋ぐ次元の亀裂が閉じたとの緊急連絡が無線で入る。それも最悪な事に、閉じた次元の向こう側にレインハートやスピカ達を取り残した状態で、だ。
おそらく『輝石』に封入されていたクリアスティーナの干渉力が底を尽いたのだろう。クリアスティーナの想定では十分に持つはずだったが、今の未知の楽園は空間的に安定していない。その不安定な中で強引に次元に穴を空けて道を開くのは、想定以上の干渉力を消費する事だったようだ。
ディアベラスは衝動的にその拳を地面に叩き付けた。
己のを痛めつけるような鈍い音に混じり、焦燥の入り混じった咆哮が木霊する。
「くそっ! ……アスティ。一端ここを閉じて、取り残された背神の騎士団どもを回収することはできるか!?」
「ごめんっ、ディアくんっっ、ここを維持するので、もう……っっ!」
天真爛漫なスピカの笑顔が、そんなスピカを優しく撫でるレインハートの姿が脳裏に過り、ディアベラスは爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
……彼女達とて裏社会の人間。いわゆるプロだ。こうなる事も覚悟の上で、東条勇麻の策に乗ったはず。
自分に言い聞かせるように頭の中で呟く。自分が冷静さを欠いて私情に走れば現場は崩壊する。危機的状況だからこそ、務めて冷静に自分が対処しなければ。
ディアベラスは別次元に取り残されたレインハート達を一度頭の片隅に追いやり、現状の打破を模索する。
今最優先すべきはクリアスティーナの身に起きている異常を止める事。
このままでは『多重次元空間』の維持さえ儘ならない。そうなっては本末転倒、住民の避難どころではない。
『悪魔の一撃』は住民の避難を促進するのに一役買ってはいたが、背に腹は代えられない。
ディアベラスは神の力の行使を一時中断、『ウロボロスの尾』とアリシアに何が起きているのか、勇麻側の状況を確かめ、対処するのが先決だと考えた。
そうして――クリアスティーナに次元の狭間に閉じ込められた際に得た悪魔の一撃の応用技――己の意識のみを遠方に飛ばそうとして、
「ディアベラス!!」
東条勇麻と共に『ウロボロスの尾』の元へと向かっていたと聞いていた九ノ瀬和葉が、息を切らしてやってきたのはほぼ同時だった。
☆ ☆ ☆ ☆
和葉から『ウロボロスの尾』とアリシアの現状の説明を受けて、ディアベラスはサングラスの奥の瞳をすうっと細めた。
「そうか、東条勇麻が暴走した神門審判と戦闘に。アスティの嫌な予感がこんな形で的中しちまうとはなぁ……」
『ウロボロスの尾』からクリアスティーナへの干渉力の供給が安定しないのは、おそらくアリシアが『神門審判』を使用しているからだろう。
本来アリシアを通してクリアスティーナに供給されるはずの干渉力が、同じく力の行使に際して莫大な干渉力を必要とするアリシアへと一部そのまま流れてしまっているのである。
和葉の話によれば、彼女の放つ一撃にはクリアスティーナの『次元障壁』でさえ破りかねない干渉力が秘められていた可能性もあるとのこと。
アリシアという少女はもとより人工的に造られた神の子供達だそうだ。『神器』を用いなければまともに神の力も使えないというその不安定さ故に、そもそも消費する干渉力も大きいのだろう。
だが『ウロボロスの尾』から流れ込むその干渉力はクリアスティーナ専用に調整された物。それをアリシア自身が使うという事は、彼女にとってはまったく免疫のない毒を飲む行為以外の何物でもない。
そしてアリシアが倒れてしまえば未知の楽園も崩壊する。
……アリシアと『天智の書』の暴走を一刻も早く止めなければならない。
だが暴走を止めるという事は、『神門審判』を用いて強引に繋がっているアリシアと『ウロボロスの尾』の接続を切断するという事でもある。
結果として、どちらに転んでも『多重次元空間』を維持する事はかなわず、住民の避難が完了する前に未知の楽園は崩壊を迎える。
……どうする。
何を切り捨てようとも、此処で彼らの掲げた夢は潰える。
目前に迫るのは完全敗北。
誰一人欠けることなくみんなで地上へ帰るという勝利は、やはり馬鹿げた子供の絵空事に過ぎず、もとより達成不可能な世迷言だったというのか。
一人葛藤し押し黙るディアベラス。……もうここまでか、そんな諦観さえ頭に過ったその時。そんな神の子供達目掛けて、九ノ瀬和葉が掠れた声を絞り出した。
「……お願い、ディアベラス。私じゃ力不足だった、何もしてあげる事ができなかった……。東条くんはたった一人、逃げもせずに今も理不尽に立ち向かっている。絶望的な状況だってことは分かってるつもりよ。でも、彼はまだ、負けてなんかいないの! だから、お願いだから……」
和葉は震える声で、心で、拙く言葉を紡ぐ。
だが少女の無力さ故の悔しさ、少年の身と心を案じ、そして勝利を願う想いはどうしようもない程にひしひしと伝わってくる。
「彼を、どうか勝たせてあげて……!」
「!」
どうか、少年の願った結末を。
その言葉にディアベラスは心を激しく揺さぶられた。
……九ノ瀬和葉はまだ何も諦めていない。
和葉は馬鹿ではない。彼女自身、今の絶望的な状況を理解しているだろう。だがそれでも少女は、東条勇麻の勝利を願い、信じている。信じようとしている。
本当は自分ももっと直接彼の力に成りたいのだろう、だが戦う力のない少女は誰かを信じ、託す事しかできない。願う事しかできない。それが彼女に出来る唯一の戦いだったから。
弱肉強食の未知の楽園に生き、自分以外の他者は生きる為に欺き利用してきたはずの少女、そんな彼女がディアベラスに願ったのが、自分の生存でもなく敵の殲滅でもない、東条勇麻の望む幸福な結末の実現であった。
ある意味、どこまでも他力本願なその想いが、けれどディアベラスにはとても尊く思えた。
「はははっ、ははははははははははははははははははははははははははッッ!! ああちくしょう、俺ぁ大馬鹿野郎だぁ。そうだよなぁ、何もかもを諦めるにはこんな絶望、まだまだ生温いってんだよぉ。……ああ、いいぜ分かったよ嬢ちゃん。ただしそれをやるには俺だけじゃ役不足ってやつだぁ。嬢ちゃん、いいや九ノ瀬和葉。協力しろぉ、お前の力が全ての鍵だぁ……!」
驚きを通り越していっそキョトンとする和葉へ、ディアベラスは力強くそう告げたのだった。




