第四十七話 東雲《しののめ》の決別Ⅰ――完全なる記憶
『痛みの王』
使い手である九ノ瀬拳勝を含めた周囲の人間の痛覚を強制的に引き上げる特異な神の力。
九ノ瀬拳勝自身にも多大なデメリット――むしろメリットの方が少ない――を与えるこの力は、諸刃の剣と言える危うい力だ。だが拳勝はこの神の力で並み居る強敵たちを次々と打ち倒してきた。
弱肉強食の未知の楽園においては自分以外の全てが敵である。そんな思想を体現したような己を含む生きる者全てを傷つける力。何もかもを闘争の痛みに引き摺り込む異常なルールに満ちたその空間こそが、九ノ瀬拳勝がその目で見て生きてきた世界であり彼の神の力そのものだ。
痛覚を引き上げられた世界で九ノ瀬拳勝と戦う者達はどいつもこいつも撃たれ弱い軟弱者ばかりだった。
たった一撃。
喧嘩の始まりと同時に挨拶代りに見舞った拳一つで簡単に相手は地に膝を突き敗北に沈む。
は? なんだそれ、ふざけるなよ。
なんど胸中でそう思ったか分からない。
生きている実感が欲しいのに、それを拳勝に与えてくれる強敵はこの街には存在しない。
何もかもが灰色に色褪せて見えた。自分が生きているのか、死んでいるのか。刹那的な暴力でしかそれを実感できない少年は喧嘩屋なるものを名乗り様々な相手と拳をぶつけてきた。
けれど探し求めていた強敵に巡り合うことはついぞなかった。
中には引き上げられた痛覚の中、拳勝に一矢報い、あるいは拳を受けてもタフに立ち上がる猛者も存在した。そんな敵との戦いは確かに愉しい物だっただろう。拳勝に少なくない生の実感を与え、心を高揚させる、そんな闘争だっただろう。
――だが足りない。満たされない。もっともっともっともっと……!
九ノ瀬拳勝の全てを出し切ってなお、笑って立ち上がってくるくらいの強敵が欲しかった。
殴っても殴っても殴り返してくるような、そんな好敵手を求めていた。
この十数年間、九ノ瀬を満足させられた強敵は『最強』と評されるあの『聖女』くらいの物だった。だが一度完膚なきまでに叩き潰されて以来、彼女は拳勝と戦ってくれない。
敗北した拳勝になど見向きもせず、彼女は再戦を懇願する拳勝に『案内人』などという面倒事を命じただけだった。
退屈だ。退屈で死んでいるのか生きているのかさえ定かではない。
魂の輝きを失いそうになるそんな中、拳勝は一人の少年と出会った。
外部からやってきた少年、『招待客』の資格を得る可能性があるからと、最初は監視対象としてただ目をつけていた東洋人。
東条勇麻。
あの少年の勇気の拳をその身に喰らった時に拳勝は直感的にこう思ったのだ。
……この男ならきっと、自分の全てをぶつけても立ち上がって来てくれる。命も魂も全てを燃やすようなそんな戦いを、演じる事が出来る、と。
☆ ☆ ☆ ☆
腹の底に響く爆音と激しい拳撃音が炎に彩られた聖女の尖塔に木霊する。
階段を塞ぐように燃える炎壁と、それを守護するように立ち塞がる虎のような少年と。番人を打ち破らんと拳を振るうのは金と黒の入り混じった短髪の野生の豹のようにしなやかな少年。
二匹の獣は互いを喰らわんとその拳を握り固め、ただ眼前の獣目掛けて振り下ろす。
「ははっ、あはっはははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」
「くはっ、あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」
拳と炎拳。
蹴りと炎蹴。
殴打と炎打。
互いの攻撃が入り乱れ、獣たちの戦いは乱打戦の様相を呈していた。
……愉しい。
繰り出される泉の右のストレートを拳勝は左腕で阻み、スッと視界から消えるように腰を落とすと足払いを掛けようとする。しかし泉はそれを頭上へ飛んで回避。空中に逃れた泉は身体の炎の一部を爆裂させる事により無理やり体勢を変えると、そのまま拳勝の頭上から鉄槌のようにその拳を勢いよく振るう。
頭上より迫る炎拳を拳勝は転がるように躱して距離を取った。爆炎と破砕音があたりを蹂躙し、打ちつけられた拳に聖女の力で造られた床が軋みひび割れる。
……愉しい、愉しい、愉しいっ。
拳勝はその光景に思わず舌なめずりをしつつ間髪入れずに立ち上がると、燃える男へと己の火傷も顧みずに再度接近戦を仕掛けた。
……拳勝の頬がつり上がるように歪む。
交互に打ちあう拳と脚が互いの身体を打ち、衝撃と痛みが身体を伝播する。命と命を削り闘志と闘志がぶつかり合い、互いの意地と誇りを掛けた殴り合い。
まさに弱肉強食。強き者を証明する為の喰らい合い。
……愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい……ッ!
燃える。痛い。熱が身体を侵し、思考にまで侵食してくる。だがそれがいい。身体を内側から食い破りかねない痛みとそれによる生の実感に、高揚が止まらない。興奮が収まらない。まるでサンタさんから貰ったプレゼントに夢中になる子供のように、九ノ瀬拳勝は泉修斗との戦いに熱中している。熱中できるほどの相手が目の前にいる。
九ノ瀬拳勝は戦闘の結果に固執しない。
勿論勝つに越したことはないが拳勝が求めるのは勝利の栄誉ではない、それを求めて繰り広げられる血沸き肉躍る闘争そのものだ。
自分の全てを懸けてもなおギリギリ届くかどうかも分からない、そんな強敵とまみえて拳をぶつけ合い、魂を震わせ命を削り合う過程の中でのみ彼は己の生を実感できる。
勝利の為に闘争を繰り広げるのではない。闘争の為に闘争を続ける獣。
九ノ瀬拳勝という男はそういう種類の戦闘狂で、そういう種類の破綻者だった。
そして今、拳勝の求めていた全てが今此処にある。
泉修斗という強敵を前に、九ノ瀬拳勝は己の生をより強く実感し、その魂を震わせていた。
いつもの生温く退屈な戦いではない。己の全て、その十全を懸ける価値のある死闘。既に引き上げられた痛覚の倍率は十倍を超え、十五、十七と数秒ごとにさらに上昇している。にも関わらず目の前の敵は倒れない。拳勝の拳をどれだけ受けても平然とした様子で逆襲の一撃を放ってくる。
拳を受ければ当然こちらも痛む。ましては燃え盛る炎の拳だ。ただの拳撃とは訳が違う。
あまりの激痛に意識が飛びかけ、ショック死しそうになる。火傷の熱と肌を刺す痛みは膨れ上がり、身体を直接火炙りに掛けられているようだ。脂汗が止まらない。
でも、それでも、九ノ瀬拳勝は愉しかった。
己の生を実感できる相手との戦いが、どうしようもなく。
「あはっははは! 楽しい! 楽しいぞちくしょう!! 殴っても殴っても殴っても倒れねえ! 炎の身体ってのはこんなに便利なモンなのか!? なあ!?」
「うっせえんだよ変態マゾヒスト野郎、サンドバックになんのはテメェだッ!」
ふとした瞬間に炎拳が拳勝の頬を捉えたかと思えば、相打ちの呈で放たれた十字反撃が泉の顔面に沈み込む。
両者威力と衝撃に数歩たたらを踏みも、その数秒後には体勢を立て直して敵へと飛びかかっていた。
体勢を低くして突っ込む拳勝の頭頂部へ泉が踏みつぶすような前蹴りを叩きこむ。しかしあらかじめソレを予期していていた拳勝はクロスした両腕で泉の一撃を防ぐと、泉は咄嗟の判断で拳勝の交差した腕を足場に背後へ跳躍。吶喊する拳勝と距離を取り直し、再び拳を握って拳勝を迎え撃つ。
痛覚が二十倍に引き上げられた狂人たちの領域にあってなお、二匹の獣は戦うことを、傷つくことを臆さない。
「おもしれえッ! 東条の旦那と言いアンタと言い天界の楽園のヤツは最高だ! やっぱり喧嘩はこうでなくっちゃなァ!!」
九ノ瀬拳勝が吠え、繰り出した右のストレートを泉は左に首を振って回避。そのままの流れで滑るように体重移動を行いサイドから左のフックをお見舞いする。切れ味鋭い鋭角な軌道で頭の側面を叩く一撃に拳勝はしかし鋭く反応した。泉の燃える拳をとっさに頭の横に掲げた拳で防ぐ。衝撃と炎による熱、痛み、二十倍に引き上げられた痛覚が拳勝を襲う中、しかし当の本人は少しも怯んだ様子なく左足を蹴り上げた。
痛烈な一撃が泉の鳩尾を直撃し、泉の足が僅かに宙を浮く。しかしドロドロとマグマのように溶解し燃え盛る泉の身体に衝撃の殆どを吸収されてしまい、拳勝の一撃は泉に届く様子が無い。
だが拳勝はその事に戸惑う様子さえ見せない。さらに追撃を掛けるべく着地した蹴り足を軸に身体を半回転。彗星の如く迸った後ろ回し蹴りが泉の顎を撃ち抜く。
のけ反り、顎の上がった泉のがら空きの胴体へ、畳み掛けるように拳勝は拳の連撃を叩きこんだ。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラッ!!!」
……三、五、七、十。
ドッ! ドッ! ドッ! ドッ! 拳勝の拳が泉の鳩尾に突き刺さる度にとてもただの拳とは思えない轟音が鳴り響き、泉の両足が宙を泳ぐ。
……十三、十七、十九、
「――ッ、らぁああああああッ!!!」
……二十。
これで終わりだとばかりに数秒の溜めを伴って放たれた二十発目の拳が泉のドテッ腹に突き刺さり、その身体を炎壁の向こうへと勢いよく吹き飛ばした。
痛覚二十倍の世界。
常人なら最初の一撃で発狂しかねない狂った常識の中で戦う泉が、その痛烈な一撃と共に階段へとその身体を勢いよく叩きつけられる。肉体を走り抜ける痛みは二十倍、高速で走る新幹線に轢かれるような身体が引き千切れる程の激痛を前に流石の泉もその意識を手放す――
「――温ぃな」
ボバッ!! と、火炎が一気に膨れ上がった。
拳勝と階段とを分つ炎壁を内側から食い破り吹き飛ばした爆炎を、さらに切り裂いて現れたのは、その右腕を巨人のように巨大化させた泉修斗だった。
――『火炎纏う衣』。
内臓と骨格を除き己の肉体をマグマのような粘性を持った炎へと変換する干渉レベルCプラスの泉修斗の神の力。
九ノ瀬拳勝の知りえた事ではないが、炎という不定形な物質へと変換された泉の肉体は、自身の体積という制約の中でなら、自由自在にその形状を変化させる事ができる。
だが、泉の見せる巨大な炎腕は、干渉レベルCプラスの範疇を明らかに越えていた。
それに、泉の『火炎纏う衣』は打撃への耐性は高いが衝撃を含めたダメージ全てを殺し切れる訳ではない。痛覚二十倍の中で拳勝の攻撃をまともに受け続けて平然としている事も異常といえば異常だ。
そんな情報を持たない拳勝にとっても、先の連撃が全く堪えていないというのは予想外の出来事だった。
速すぎる泉の反撃に反応が一瞬、だが確実に遅れてしまう。
その僅かな隙を突き、火だるまのように燃え盛る泉修斗が拳勝の懐深くへと一瞬のうちに潜り込む。
そしてそのまま巨大化した右の炎腕を横なぎに振るい、まるで羽虫を叩くような気軽さで九ノ瀬拳勝を壁際まで吹き飛ばした。
インパクトの瞬間、拳勝の意識が剥離する。
衝撃と痛みに心臓が一度止まり、壁に強かに叩き付けられたショックで再度鼓動が復活する。
「がは、げほっごぼ……っ!?」
……拳勝の拳が、痛覚二十倍の痛みが全く響いていない。
壁にめり込んだまま激しく咳き込み、拳勝の顎先から脂汗が滴り落ちる。
……強い。痛い。熱い。死にそうだ。でも、やっぱり愉しい……!!
痛みに視界が歪み、凶悪な吐き気を覚えながらも拳勝は愉悦に口の端を歪めながら壁から抜け出して、
「――辞めだ」
そんな声を聞いた。
泉修斗はまるで痛みなど感じていない素振りで、平然とそんな事を呟くと、自身の肉体をマグマのような粘性を持った炎へと変換する神の力『火炎纏う衣』を解除した。
急速な力の解除に耐えきれず、泉の肌にところどころ火傷が生じる。平然としていた泉の顔が痛覚二十倍の痛みをようやく思い出したかのようにぎりりと歪んだ。ぶわっと噴き出す脂汗が、今までの泉が全く痛覚二十倍の影響を受けていなかった事を示す。
「……おい、それは一体何の真似だ? 泉修斗」
突然の狂行に瞠目し、すぐさま不満げに目を細める拳勝。
不満を隠しもしない低い声に、けれど泉は拳勝を逆なでるような言葉を平然と口にした。
「お前の神の力、痛覚を引き上げる類のモンみてえだが……強くなりすぎるのも考えモンだな。つーか、これは単純な相性の問題ってヤツか。『火炎纏う衣』を使ってるとまるで痛みを感じやしねえ。こんなんじゃつまらねえ」
「おいおいちょっと待てよなあ。アンタさ、舐めてんのか? だからって手抜きで俺とやり合うってのか? ふざけんな、そんなの俺が許す訳――」
「勘違いすんなよボケ、誰もお前の許しなんかいらねえっての。よく覚えとけ、俺はテメェに神の力の強さで勝ちてえんじゃんねえ。実力で勝ちてえんだ。だからテメェとは拳でやる。テメェとやり合う場合はこっちのがフェアだ。そうだろ?」
バシッ、と。己の掌に拳を打ち込み泉修斗は挑発するように不敵に口の端を吊り上げた。
「ステゴロだ。掛かってこいよオメデタ金箔頭。負けた時の良い訳ができねえよう、テメェの土俵でテメェに打ち勝ってやる。そうすりゃその生意気な減らず口も少しはマシになんだろ」
「……ハッ、あはははっはははははははははッ!! あーちくしょう! こんなに頭にキタのは久しぶりだ! 超ムカつくな、アンタ。意地でもアンタに神の力を使わしてやりたくなってきた。ていうかそのうえでアンタをぶっ倒せれば絶対愉しいよなぁ! アンタもそう思うだろ泉修斗!!」
「黙れ馬鹿。楽しむのは俺だけだっつってんだろ……ッ!」
単なる驕りや相手を見下したが故の手加減ではない。泉修斗は九ノ瀬拳勝の強さをこれ以上ないくらいに認めている。その上で、いっそ清々しいくらいに自分が満足する為の、自身を高見へ至らせる為の行動に出ているだけだ。
泉のふざけた自分本位の言動に拳勝は血管が引き千切れそうな程に笑い怒り、唾を飛ばして激昂する。
全力で全てをぶつけ合うからこそ魂は震えるというのに、勝手に実力を見定められ相手に手加減をされるなど堪ったものでは無い。例え相手にその気がなくとも、全力を出さない時点でそれは手加減だ。手加減など許せない、手加減をされなければならない自分の弱さが許せない、だから意地でも叩き潰して目の前の男の本気を引き摺り出す。
拳勝の目の色が変わる。
対する泉も身体を蝕む痛みを楽しむように嗜虐的な笑みを浮かべて拳を握り固め。
合図も無く両者同時に床を蹴り付け、その身体を疾走させた。
ビリビリと空気を焼く熱は泉修斗の造り出した炎だけのせいではないだろう。燃え盛る二人の闘志が熱気となって、場を支配しているようだった。
眼前の敵が迫る。視界が狭まり、ただ打ち砕く敵しかその目に見えなくなる。
時間は一瞬、両者の距離は僅か三歩の内に縮められる。
そして次の瞬間。
二匹の獣は痛覚二十倍の地獄の中、自身の速度と体重全てを乗せた拳を交錯させた。
☆ ☆ ☆ ☆
そこは隠し部屋と言うよりも王城の玉座の間のような、静謐で広大で荘厳な空間だった。
とは言え、取り立て華美な装飾が施されている訳ではない。
金銀財宝や煌びやかな宝石で部屋中が彩られ煌めいているような、誰もが想像する玉座の間からはかけ離れた造りをしていると言っていいだろう。
まず、その空間には終わりがなかった。
終端が歪み、どこまでも続く地平線の見えない異質な部屋の端に、台座のような石舞台。その舞台から高く続く急傾斜な階段を昇り切った先に、二メートルはあるだろう巨大な背もたれを抱えた玉座が鎮座している。
その玉座の背もたれの上。装飾のように取り付けられた王冠を模した透明な巨大ビーカー。
薄緑色の液体で満たされたその中に、巨大な干乾びたナメクジのような、弧を描く先の尖った茶色い異物が浮かんでいる。
――『ウロボロスの尾』
無限の循環。
不完全性。
矛盾する二つの属性を司る神の叡器は、そのみずぼらしい見た目とは裏腹に、それを目にする者に大いなる存在への畏怖を抱かせる。
完全を得て無限を得た存在のみが持つ事を許される、超常の威圧。
世界にある存在としての格の違い。遺伝子に刻み込まれた本能が、ソレに抗う事を許さない。
遠目からチラリと目についただけだと言うのにびりびりと肌が痺れるような感覚に、勇麻も思わず息をのむ。隣の和葉の喉が空気が気道にへばり付いたような乾いた悲鳴をあげたのが分かる。
だが勇麻にとっては『ウロボロスの尾』などどうでもいい代物だった。
勇麻が見据えるのはただ一つ。
まるで神々のみが腰かける事を許されたような、巨大な玉座にちょこんと座る、汚れなき白髪碧眼の少女ただ一人なのだから。
「ようやくたどり着いたぞ、アリシア……」
まるで童話の中の妖精が具現化したような、幻想のような儚さを秘めた少女だった。
可憐さの時を止めたような幼い童顔に処女雪のように穢れなき白い肌とそれを包み込む清楚な白のワンピース。そして小川のせせらぎのように背中を流れるのはプラチナのように薄く輝く白髪。そしてその純白の中でいっそう鮮やかな色合いを見せる宝石のような碧い瞳。
だが何よりも彼女を構成する要素の中で異質な存在感を放っているのは、触れれば折れてしまいそうな細い首から紐で掛けたボロボロに古びた魔本だろう。
――『天智の書』。
契約の代価として幼きアリシアの記憶を奪い、世界中のありとあらゆる知識を文字という形で蒐集する『神器』。
しかしアリシアにとっての『天智の書』は本来の『神器』以上の意味と価値がある。
アリシアがその身に宿す『神門審判』は、非常に扱いが難しい神の力だ。本来ならばまともに扱えないばかりか、無理やりその力を引き出そうとすると僅か数日で廃人になってしまうような無茶苦茶な代物なのだそうだ。
アリシアは意図的に暴走させた『神門審判』を『天智の書』によって半ば強引に制御する事によって、制限時間付きではあるが廃人と化す事なくその力を完全に引き出している。
『天智の書』がなければアリシアはまともに神の力が使えないばかりか、ほんの数日のうちに廃人になってしまう。彼の『神器』は、まさに彼女にとっての命綱に等しい。
そんな特異な魔本が持つ魔力のような圧力に圧倒された和葉が、茫然と口を開く。
「なに、アレ……。本が、光って、踊っている……?」
普段は彼女の胸のあたりで静かに揺られている『天智の書』が、今はうっすらと白く光り輝きながら踊るように飛び跳ね、イタズラな風でも吹き抜けているかのように少女の薄い胸のうえでひとりでにそのページが捲れては戻り、捲られては戻りを繰り返している。
勇麻も初めて見る。
アリシアが『天智の書』の補助を受けて『神門審判』を使っている瞬間だった。
「……勇、麻。なの、か……?」
美しい碧眼を目一杯に見開いて虚空を眺めていたアリシアが、その声に気が付いたのか勇麻の方へと緩慢な動作で振り返る。
まるで油を注し忘れたカラクリのようなそのぎこちない動き。そして生気を失って蒼白な顔が勇麻へと向けられる。
その弱々しい姿が鎖で雁字搦めに身体を縛られた罪人を連想させて、勇麻は怒りとやるせない気持ちで胸が一杯になった。
アリシアの様子がおかしいのは誰の目にも明らかだ。
『ウロボロスの尾』と強引に接続をし続ける事がアリシアに何らかの悪影響を与えるのは間違いないだろう。
それでも勇麻はそんな感情を絶対に表に出してやるものかと、笑顔の奥で唇を噛み締める。アリシアとの再会は笑顔でと、そう決めていたから。
それでも震える喉から懸命に絞り出した声は、僅かにうわずって裏返りそうになっていた。
「……ああ、俺だよアリシア。家出なんかしやがって、この不良娘が。迎えに来たぞ……っ」
ここまで長かったと、そう思う。
この数日間、本当に様々な事があった。
スピカとレインハートと共にザルな警備を潜り抜けて『未知の楽園』へ侵入し、直後に離れ離れになった。
見知らぬ地で独り途方に暮れていた所を情報屋を名乗る九ノ瀬和葉に助けられ、彼女の雇った用心棒、九ノ瀬拳勝と共にアリシアを攫った敵組織を追い詰めた。
敵を打倒し全てが終わったと思ったのも束の間、『案内人』九ノ瀬拳勝の裏切りによってここまでの全てが彼の掌の上だった事が発覚。『多重次元空間』の存在を知らされ、『聖女』の住まうオリジナルの『未知の楽園』に『招待客』として飛ばされた。
飛ばされて早々『聖女』に殺されかけ、瀕死の重体のところを和葉に助けられて新しい冒険が幕を開けた。
情報を集めて酒場に潜入したり、盗賊団の女頭領から驚愕の事実を知らされたり、助けた男の子が実は女の子だったり、ピンチに離れ離れになっていた仲間と再会したり、思わぬ助っ人が現れたり。そして恐怖に泣きじゃくる女の子に手を差し伸べて、最後は皆で一致団結したり。
……和葉が攫われて、勇麻が命懸けでそれを助けに行った事もあった。まさか本当に心臓を握りつぶされるとは思わなかったが、それでも今、こうして東条勇麻は二本の足でしっかりとアリシアの前に立っている。
「一緒に帰ろう、アリシア。天界の箱庭へ」
色んな事があって、色んな人達と拳を交わしてきた。勝つこともあれば負ける事もあって、絶望しそうな時も、到底勝てないような敵と絶望が立ち塞がる事もあった。それでも勇麻は最後まで敗北を認めず、必死に抗い続けた。決して諦めようとはしなかった。
それは全て、アリシアに再び会いたかったからだ。
もう一度、アリシアが不器用に下手くそな笑みを浮かべている所を天界の箱庭の皆と見たかったからだ。
アリシアと、いつもの皆と一緒に何て事のない日常を謳歌したかったからだ。
そんな思いが根底にあったからこそ頑張れた。ここまで拳を握ってこれた。
アリシアの存在こそが、今の勇麻が拳を握る理由そのものだったから。
勇麻は玉座の鎮座する石舞台へと歩み寄り、その手を天へと伸ばす。
アリシアは澄んだ碧い瞳でそれを見て――ホロリ、と。見開いた瞳からその宝石の欠片が零れ落ちた。
「アリシア……?」
いきなり大粒の涙を流し始めたアリシアに、勇麻が怪訝げな声をあげる。アリシアは玉座の上から静かにかぶりを振って、
「……いや、すまない。泣くつもりなんて、なかったのに。あぁ、勇麻。私、私は……」
動揺し、どこか取り乱した様子のアリシアが泣き顔を隠すように両手で顔を覆ってしまう。
肩を震わすアリシアは、不安定な窓際に置かれたガラス細工のように危うい。不用意に触れれば、そのまま窓の外へと転がり落ちて、取り返しのつかないレベルで砕け散ってしまいそうで。
ここに来る前に感じた胸騒ぎが、肌が粟立つあの感覚が蘇る。
「アリ、シア……?」
勇麻はアリシアがどこか遠くへ行ってしまうような気がして、確かめるようにもう一度その名前を呼んだ。
しかし、
「私は、何という事を願ってしまったのだ……! 勇麻、私の事はもういい、今すぐここを離れてくれ。私は、お主が……死んでしまったのかと思って、それで……それで、こんなつもりじゃ……っ!?」
「何を言ってるんだアリシア。落ち着け、もう大丈夫だ、俺はちゃんと生きてる。今もこれから先もお前の目の前にいる。お前がそんな風に泣く必要なんて、もうどこにもないんだよ! だから――」
パニックじみた訳の分からないアリシアの独白に重ねるように、勇麻も大声をあげる。
言葉を重ねて必死に彼女の心を落ち着かせようとするが、全て逆効果。
安心させようと優しい言葉を投げかけるたびに、アリシアは反発するように髪の毛を振り乱して激しく首を振る。
「――違う! そうじゃないっ。そんな話ではないのだ、これは……。勇麻が殺されたと告げられたあの時、私は確かに思ってしまったのだ。勇麻のいない世界を呪い、こんな世界で生きている価値はない、私も死んでしまいたいと、世界なんて滅んでしまえばいいって……! それを、その願いを『天智の書』に読み取られた! だからきっと“アイツ”が現れる。今はまだ私の意識が表に出ているが、本来『神門審判』を完全に扱えるのは私ではなく――」
がきり。
そんな音が聞えた。
イメージしたのは異物が挟まり詰まった歯車を無理やりに回してしまうような、破壊をもたらす歪な怪音。
そんなイメージを境として、何かが切り替わるように、アリシアの瞳から輝きが抜けた。
ハイライトの消えたような、感情の失せた平淡な瞳が東条勇麻を真っ直ぐに見据える。
魂の奥の奥まで見透かされるような、不気味な瞳が東条勇麻を舐めまわすように注視して、
「――そう。『神門審判』の力を完全に引き出せるのは我が主サマではないよ。そもそも暴走状態にあるこの力を制御するのが私の役目なのだから、それも当然であると分かるだろう?」
“ソイツ”は、お人形のように整ったアリシアの口元を歪に引き裂くと、笑みのようなナニカを作らせた。
感情の起伏が乏しいアリシアの普段の淡い笑みが嘘のような、邪悪で嗜虐的で獲物をいたぶる狩人のような嘲笑を。
やめろ。
やめてくれ。
……その顔で、その声で、そんな風に、笑うな。
現実逃避するように一心に願うが、勇麻の声無き声は誰にも届かない。
そんな勇麻の反応を愉しむかのように、“ソイツ”は笑みを深めて言葉を重ねた。
「やあ、東条勇麻。こうして直接会うのは久しぶりだけど、会話をするのはちょっとぶりだね。なんにせよ私の忠告に素直に従ってくれたみたいで何よりだよ。……あぁ、イイね。実にいいよその表情ッ!! どうしてアナタはそんなにも私の心をくすぐるんだろう。心身共にボロボロになって、それでも最後の最後まで諦める事無く抗い続け、ようやくハッピーエンドを掴み取れると思った瞬間に再び絶望に突き落とされたアナタの顔ッ! あぁ実に好みだ。好ましいよ。やはり物語はこれくらい波乱に富んでいなければ。最終的にバッドエンドでも構わない。東条勇麻の物語はそれくらいに泥まみれな方が好ましいッ!!」
どこかで聞いた事のある声だと思った。
それは当然で、だって紛れもなくアリシアの声で、だけれども絶対にアリシアの言葉ではない。
覚えている。
『多重次元空間』の存在に気が付く前。リコリスを倒し、アリシアへの道が開けたと和葉と喜びを分かちあおうとして、頭の中に割り込んで来たあの声を。
不明瞭な電波を勇気の拳が受信したあの時、話しかけてきた声の主は……。
「……なにを、言っている。お前は、誰だ……!」
あの時と同じ問いかけに、アリシアの中で誰かが笑う。
「あはは、こうしてやっと会えたと言うのに、誰だとはまた酷い。私はあんなにもアナタの傍に居たというのに。分からないなんて傷ついちゃうな。でもいいさ、折角の機会だし自己紹介から始めようか」
あの時と同じ人を喰ったような返答の後、玉座の上で少女の小さな身体が座ったままその背中を折り曲げてその誰かは勇麻へと一礼する。
「私は天に輝く遍く星々の輝きの如き智を司りし者。知識を探し求める天上の智慧。知恵ある人々の手によって紡がれた文字によって私は生を得る。――『天智の書』。人は私の事をそう呼ぶよ。……ああ、でもアナタにはこう言った方が効き目があるかもしれないな。そう、例えば――失われたとある少女の記憶を完全に保持した存在。もしくは、アリシア完全体、とか? ……あはは、どうだい。ラスボスっぽいだろ? 頭文字にパーフェクトを付けるのは、某超人気バトル漫画でもやってた超定番って奴だ。私は定番に弱いんだぜ? 定番とは好まれるが故に定番。人の好みは私の好みだ。なにせ、彼らの紡いだ物語と文字が私なのだからね。王道も正道も邪道も外道も、みな揃って私の大好物だよ」
鮮烈な悪意を持って、アリシアの中に潜むそれは名乗りをあげたのだった。
「……記憶がある? パーフェクト、アリシア……だと? 」
過去の記憶という単語に胸の奥がズキリと呪いのように痛みを発する。
不吉な予感と恐怖、その理由を、東条勇麻はきっと心の何処かで理解している。
呆然と譫言のように呟く勇麻に、彼女――『天智の書』はその目を輝かせる。
「ああ、そうさ。なにせ、私は主サマが失くしてしまった記憶を全て保持しているからね。私が喰らった過去の記憶と、まっさらな空っぽの器が積み重ねてきた今の記憶。二つの記憶を併せ持つ私は、完全な記憶を持った完全な存在だと言っても過言ではないだろう? なにせ人格というものは体験した出来事に引きずられる。全ての体験を記憶する私は、主サマが記憶を失わなかったイフの存在と言い換えても良いハズだ」
つらつらと決壊したダムのように止めどなく言葉を垂れ流し続ける『天智の書』。これまで喋れなかった分を全て発散するような勢いとテンションだ。
「……そんなヤツが、一体俺に何の用だ。俺はアリシアを助けに来たんだ。アンタに用はない」
「どうして? 私だってそのアリシアの一部なんじゃないのかな?」
「寝言は寝てから言ったらどうだ『神器』。アンタはアリシアなんかじゃない、もっと別のナニカだ……!」
目の前の少女は絶対にアリシアではない。アリシアの形をした、人ならざる化け物だ。
アリシアの声で、アリシアの顔で、アリシアじゃないナニカが何かを喋っている。その違和感と不快感に耐えられず、勇麻は冷たく彼女を拒絶した。
しかし『天智の書』はそんな勇麻の態度を大して気にした様子もなく、玉座のうえで身を捩りながら小ばかにするようにわざとらしく科をつくって、
「つれないなぁ、東条勇麻。私はアナタを助けた事もあるって言うのに……。ま、いいや。私も別に今回はアナタ個人に用がある訳じゃないんだ」
水飴を薄く引き延ばすような、気味の悪い嫌らしい笑みに鳥肌が立つ。
「いやぁ主サマたっての希望でね? 東条勇麻の死んでしまった世界に生きつづける価値はない、滅んでしまえばいいと。そんな願いを受けてね。これでも主サマのお気持ちは痛い程によおく分かっているつもりさ。なにせ彼女は私の契約者なのでね、考えている事は手に取るように分かるのさ、……あぁ、お痛わしや我が主サマ。主サマのお願いを叶えてあげたいのは山々なのだけれども、私は『天智の書』。人々から知識を蒐集する魔本も、文字を紡ぐ彼ら筆者がいなければただの紙束になってしまうだろう? だから世界滅亡なんて物騒な代物から少しだけその結末を幸福な物に書き換えようと思ってさ」
『天智の書』の語る言葉からは不吉な予感しか感じられなかった。
退廃的で破滅的、終末論のように嬉々として世界滅亡という単語を口に出す化け物に、勇麻は悪寒を止める事ができない。
唾をのみ込む勇麻の横で、己の中の恐怖心を握りつぶすように和葉が一歩前へ踏みだしなけなしの勇気と共に声をあげる。
「……結局、あなたの目的は何なの? その子を解放する気はあるの? ないの? 曖昧で抽象的な事ばかり言っていないで、もっとはっきり物を言ったらどう?」
強がるような少女の強気に既に勘付いているのか、『天智の書』は面白がって獲物を値踏みするような、含みある視線を一通り和葉に向けた後一度目を閉じた。
彼女に引き摺られるように場に沈黙が降りる。得体のしれない『天智の書』に気押されるように、知れず和葉が二歩後ろへ下がる。
玉座に収まる『天智の書』は、そんな下々の民の事など気に留める様子もなく、マイペースに胸の中で激しく踊り続ける『天智の書』の外装に優しく慈しみ撫でるように触れた。
そうしてアリシアの姿のまま、彼女は歌うように。
「――大切な人を失い世界に絶望した心優しき彼女は、しかし世界を救うためにその身を生贄に捧げます。愛した人の後を追うように、自らの命を絶って世界を救うと決めた彼女。彼女の決死の献身によって、崩壊の危機にあった街は救われ、死後の世界で彼と彼女は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし……。ふむ。即興で考えた割には中々いい結末だ。語り部だけでなく私には原作者としての才能もあるのかもしれないな」
「……あなた。一体何を、」
「なに、我が主サマはもうこんな世界に価値はないと言っておられる。ならば私は主サマの『神器』としてその務めを果たさねばと思ってね」
ニヤリ、と。『天智の書』はアリシアの綺麗な顔に似合いもしない歪な嗜虐を深々と刻み込むと、
「崩れゆく『未知の楽園』に住まう無辜の人々は、この神門審判のアリシアがその命と引き換えに救ってみせよう!! 愛する人を失いその悲しみを背負いながら崩壊する世界とその身を共にする少女。いいよ、いいなぁ、イイね! 実に悲劇的でヒロイックで私好みの展開だ! ……だが、その為にはアナタには死んでいて貰わなければ困るんだ、東条勇麻。主サマはアナタが死んだからこそその身の破滅を望んだ。アナタが今生きていては私の物語の辻褄が合わなくなってしまうだろ?」
「……そんな、そんなの滅茶苦茶じゃない。死んでいなければ辻褄が合わないから、そんな理由で東条くんを殺そうって言うの……ッ!?」
「酷い勘違いだよ、お嬢さん。これは救済だ。我が主サマと、この街に住まう無辜の人々のね。それに東条勇麻だって正義の味方に成りたかったのだろう? だったら自分の死が平和の礎になることを喜ぶべきだ。それとも何かい、この街を救おうという私を止めて主サマ諸共未知の楽園に生きる全ての人々を生き埋めにする事が君の望みなのかい?」
悪魔のような笑みを浮かべたまま『天智の書』がその小さな掌を翳す。
東条勇麻へと照準を定め、その矛先を突きつける。
そこまでされて、勇麻はようやく何かに気が付いたようにありったけの敵意を込めて小さく呟いた。
「……そういう事か、『天智の書』。リコリスに『ウロボロスの尾』とクリアスティーナの接続を断たせたのはアンタだな」
神の力を用いて強引に勇麻に掴まり空間の亀裂に呑み込まれたリコリスが、悪魔的な偶然にも『ウロボロスの尾』が保管されていたこの空間に飛ばされた事はまだ分かる。
だが、彼女が具体的にどういう手段で『ウロボロスの尾』とクリアスティーナとの接続を切断したのか、『多重次元空間』も知らなかった彼女が、クリアスティーナと『ウロボロスの尾』の接続を切断する事で『未知の楽園』が崩壊するという情報を何処から手に入れたのか、いくら考えても腑に落ちなかった事が、ここに来てようやくその答えを得た予感があった。
『天智の書』はそんな勇麻の糾弾にも悪びれる様子もなく、小馬鹿にしたように肩を竦めて、
「心外だな、私は捕らわれてしまった主サマを助けようと必死だっただけだよ。まさかこんな事になるとは微塵も思っていなかった。本当に本当だとも嘘じゃないよ。……まあ、あの哀れな小娘が『ウロボロスの尾』なんて代物について知ってる訳がない、というのには同感だけどね。……そんな目で睨まないでくれよ。どうやらアナタは私を悪者に仕立て上げたいみたいだけど、この事態を招いたのは本当に私じゃないよ。リコリスとかいう小娘にしたって勇気の拳を持つアナタと違って『神門審判』との親和性もあまり高くなかったから会話をした訳じゃないし、彼女自身は私からの干渉があっただなんて微塵も疑ってないだろう。彼女は唐突に与えられた情報を元に自分の意志で判断して行動した。だから別に私が唆した訳ではない。強いて言うなら……天啓を与えた、とでも言うべきか」
「同じ事だろう、人の心を弄びやがって……!」
怒りに拳を握りしめる。
自分の罪から目を背け、全てを世界のせいだと叫びながら未知の楽園を破壊しようとしたリコリスを擁護する気はさらさらない。
だけど、目の前の化け物がやった事は、絶対に許される事ではない。
人の弱さや絶望、感情に付け込み弄び、人を操ろうとするなど、決して許されない行為だ。
アリシアも、そしてリコリスも。
『天智の書』が食い物にしていいような存在では断じてない。
「お怒りなのかな東条勇麻? こんな終わりを前にして、それでもまだ私に抗おうと言うのだね。でもそれはこの未知の楽園に住む人々を見殺しにする選択なのだと、分っているのかな? 正義の味方くん。私を止めるという事は、この街を滅ぼすという事と同意だと理解は及んでいるのかい?」
「……未知の楽園は、お前なんかに救われる程柔じゃねえよ。俺はアリシアを助ける。そしてこの街の人々も、俺の仲間達が死なせはしねえ……」
「なるほどそれは実に東条勇麻らしい選択だ。でも、果たしてアナタに出来るのだろうか? 私は確かに主サマとは別の存在だ。でもこの身体は主サマの物である事に変わりはない。アナタに傷つける事ができるのかい? 過去を失い、自由を失い、人である事までをも失った、哀れな少女の儚く脆いこの身体を」
くだらない問いかけだった。
天に遍く星々の如く智を司る存在が聞いて呆れるような無知っぷりだ。
そんな決まりきった事をわざわざ尋ねるなんて、馬鹿にしているのか。
東条勇麻はそんな無能な『天智の書』へと吐き捨てるように、
「……傷つけさせやしねえよ。俺はもうこれ以上アリシアに傷ついて欲しくないから、此処に立ってるんだ。神だろが悪魔だろうが、もうこれ以上、その子は誰にも傷つけさせはしねえ。人間舐めるんじゃねえよ、古本風情が」
その啖呵に『天智の書』は腹が捩じ切れるとでも言わんばかりに身体を震わせて笑って、
「あはは、……これはこれは、神様の創った由緒ある本に向かって古本とはね。なかなか言うじゃないか、流石は私の見込んだ男だ――」
その哄笑を、瞬時に塗り替えるように瞳を鋭く細めた。
「――図に乗るなよ、小僧」
瞬間。翳した少女の掌から、得体の知れない力が溢れ出した。
密閉された空間に突如突風が吹き荒れる。
悪寒を越えた絶望感に、膝から力が抜ける。
立ち向かう気力はある。闘志は十二分。負ける気などさらさらない。
だが本能的に感じる目の前の存在への根源的な恐怖が、勇気の拳を僅かに弱体化させる。
世界が歪む。
物理法則を超越する力でもって、この世界の理を純白の少女は塗り替える。
『神門審判』。
干渉レベルSオーバー。
神の子供達と呼ばれ畏れられる測定不能の領域に達した化け物達。その中に名を連ねる白い少女の力を、東条勇麻はこの時初めて目にする事になった。
「な、に。これ……」
突如現れたソレに、和葉が茫然と呟く。
ソレは、扉だった。
玉座のうえで掌を翳したアリシア――『天智の書』の顔程の高さに、湧き上がるように現れたソレは幅二メートル高さ四メートルもの巨大な西洋風の扉。
鉄色の重厚な扉を埋め尽くさんばかりに、びっしりと複雑怪奇な文様や模様、様々な意味を込められた記号が彫刻の要領で刻まれている。
中央から左右に開く造りの、いわゆる観音開きのタイプのその扉と似たような形式の扉が、空中に次々と生じていく。
だが、湧き上がる数々の扉に一つとして同じモノなど存在しない。各々の扉に施された装飾も質感も姿形も大きさもその全てが異なっている。
一つ一つが異なる奇跡や特異を孕んだ扉なのだと、東条勇麻は直感的に理解していた。
そして理解したところで意味などなかった。
都合九つもの扉がぎしぎしと傾いだ音を立てて、見せつけるようにゆっくりと開いていく。
それはまるで死刑宣告。その全てが開かれた時、東条勇麻は命を落とす。そんな確信にも似た予感が、頭の中に湧き上がってくる。
「……やばい、わよ。あれはもう、人間が受けていいような物じゃ……」
縋るような和葉の言葉に、しかし勇麻は答えられない。
逃げる。
戦う。
全ての選択肢が、握りつぶされたような感覚。
今自分が生き残る為に何をすべきか、その思考を脳みそが放棄してしまっているみたいだった。
だがそれでも、己が今取るべき選択を少年は理解していた。
「……うまく言えないけど、あれは絶対にダメ。東条くん……」
逃げよう、と。彼女は言葉を続ける事ができなかった。
「え」
東条勇麻は、隣の和葉を精一杯の力で――だけど怪我はしない力加減で――横合いに突き飛ばしたからだ。
「――和葉、助けを呼んできてくれ。……信じてる」
有無を言わせない声色で告げられたソレは、言外に九ノ瀬和葉だけをこの場から逃がす物に他ならず、互いを信じると誓った言葉を逆手に取ったような、卑怯な言葉だった。
東条勇麻は九ノ瀬和葉がそれを拒否できないと知って、その言葉を放ったのだ。
時間に忘れ去られたように空を漂う和葉が何か口を開こうとして、直後。
先ほどまで和葉が立っていた場所をあっさりと飲み込んで、東条勇麻と九ノ瀬和葉とを分つように破壊の光りが降り注いだ。




