第四十五話 夜明け前Ⅳ――負の象徴
タンカンタンカン、リズムカルな足音が静謐な尖塔内に響き渡る。
走る背中を急かすように時折下層より聞こえる爆発音が、その静けさに彩りを加えるようだった。
長い長い大きく緩やかに弧を描く螺旋階段を無心に登る。まるで永遠に終わることのない回し車を走っているハムスターにでもなったような、そんな錯覚に陥りそうになる。
和葉の手を引き、東条勇麻はひたすらに無限回廊じみた階段を駆けあがり続ける。
聖女の住まう尖塔の最上階たる四階には、彼女の寝室があり、そこから繋がる隠し空間――通称、玉座の間に神器『ウロボロスの尾』とアリシアがいる。
三階で勇麻達の前に現れた九ノ瀬拳勝は未知の楽園崩壊を画策する何者かではなかった。
となるとこの塔の何処かにまだ、勇麻達の敵が潜んでいるという事になる。
「良かったの? 東条くん。さっきの人、あなたの友達……なんでしょう?」
意固地になったように頑なに後ろを振り返ろうとしない勇麻に、どこか遠慮がちに和葉が尋ねる。
だが勇麻は依然として来た道を振り返ろうとはせず、首を横に振った。
「いいんだ、あいつなら何の心配もいらない。だいたいあそこで泉に『勝てるのか?』なんて聞いてみろ、俺がブッ飛ばされるよ。今俺がすべきは泉を心配する事じゃない、一刻も早くアリシアを助ける事だ」
「……そう、信頼してるのね」
「まあ腐れ縁なんだよ、子どものころからのさ」
眩しい物を見るように和葉が目を細める。だが、前だけを見ていた勇麻はそんな視線にも気づく事なく、ただ膝と足を前へ前へと、階段を登り続ける。
「――和葉、多分そろそろだ」
「?」
自分達がどれだけ階段を登ったかも分からなくなった頃、唐突に勇麻が口を開いた。
言葉の意味が掴めずに後ろを行く和葉が首を傾げる。
「感じるんだ、負の感情を。……多分、『ウロボロスの尾』の接続を切断したヤツだ。そいつが、この上で俺達を待ち構えてる」
勇気の拳は対峙した相手の感情を読み取る。
クライム=ロットハートとの対話、そして幾度かの戦闘を経てその力を自覚した勇麻は、周囲へ発せられる強い感情をある程度意識して拾えるようになっていた。
その勇気の拳が告げるのだ。
強い負の感情を持った敵の存在が、すぐ近くにある事を。
もうまもなく四階に辿り着く。
そこで勇麻達を待ち構えているであろう敵の名を、東条勇麻は知っている。
☆ ☆ ☆ ☆
この世界には、確かにどうにも儘ならない出来事が存在するのかもしれない。
誰もが世界平和を願っているはずなのに戦争は無くならなず。
誰もが幸福を願っているはずなのに幸福は一部の人間の特権で。
誰もが危機感を抱いているはずなのに化石燃料は大量に消費され続け、世界終末時計の針は一向にその進みを止める気配がない。
子供の残酷ないじめはいつどの時代でも繰り返される。それを注意する立場にある大人達でさえ差別や偏見をやめようとはしない。
人は人を殺す。
愛を愛する者が誰かを憎み傷つける。
悲劇を悲しむ者が新たな悲劇を巻き起こす。
そんな地獄のような連鎖が、終わらない呪いが、この世界には蔓延っている。
いつかどこかで少年は夢見た。
誰もが幸せで笑い合っていて、皆が手を取り合い分かり合う平和な世界。
世界の皆と分かり合う事ができれば、きっとこの世界から戦争なんてものは無くなるのではないか。そうなれば皆が幸せになれるのに、どうして誰もが手を取り合って仲良くする事ができないのだろうか。
そんな淡い希望。無垢な絵空事を、子供ながら真剣に想い描いていた少年がいた。
そんな子供の絵空事を思い描いていた少年も背丈ばかりは大きくなって、夢と現実との差を幾度も思い知らされ、そして本当の『憎悪』を知った。
――寄操令示。
『冒涜の創造主』をその身に宿した最凶最悪の『神の子供達』。
ネバーワールドを血と肉と狂気の地獄に造り替えた災厄の来訪者。
――こいつとだけは未来永劫、絶対に分かり合うことなんてできない。
絵空事を描き続けてきた少年――東条勇麻は奇操令示という男と対峙し、この純粋無垢で残虐非道な敵を激しく憎悪し、殺したいとさえ思った。いや、間違いなく明確な殺意を抱いていただろう。
東条勇麻は分かり合う事を諦めて、奇操令示を憎悪する事を選択した。
……そう。思えばあの時、東条勇麻はその選択をした時点で既に奇操令示に敗北していたのだろう。
誰かを憎む事は簡単だ。容易で怠惰で怠慢な妥協点だ。なぜなら己が向き合うべき全ての絶望を、地獄を、嘆きを、悲しみを、罪過を、その一人に全て背負わせる事ができるから。
憎悪する相手に全てを背負わせて、正当性と正義を叫び、憎悪という私的感情でもって殺戮する。
惨殺も虐殺も抹殺も、どれだけ非人道的な行為であろうとも、その全てが憎悪という私的な感情によって正当化されてしまう。
自分で自分の行いを、その罪を許してしまう。
例え相手がどれだけの極悪人であろうとも、命を奪うという行為の罪深さ自体は何ら変わりはないと言うのに。
……ならばあの時、奇操令示を憎悪する以外の道はあったのか。
勇麻は考える。
安易に憎悪と殺意をばらまくのではなく、もっと他の選択肢はあったのか。仮にそんな物があったとして、その選択肢を選ぶ事が本当に正しかったのか。東条勇麻はどうするべきだったのか。
どれだけ考えても、その答えにはそう簡単に辿り着けそうにない。
大切な仲間を傷つけられ、遊び感覚で他者の命を弄び、勇麻の目の前で大勢の人の命を奪ったあの男を勇麻は今でも許せるとはとても思えない。
でも、それでも。
怨敵を憎悪し殺意に溺れその死を求め命を奪う事を許容する。その選択はきっと、“逃げだ”。
東条勇麻は奇操令示を死なせてしまった。
その結末を殺意をもって許容した時点で、東条勇麻は敗北したのだ。
自分自身の弱さに。人を憎む人の心に。
それは、そんな人の心に巣くう弱さに翻弄され続け、逃げ続けてきたクリアスティーナやディアベラス達を見てきた今だからこそ分かる事だった。
人の振り見て我が振り直せ、なんて言葉もあるが、勇麻自身もまた、目を背けたい何かからつい逃げてしまう弱さを持っている。
そんな簡単な事にようやく気が付いた。いや、認める事ができた、と言うべきだろうか。
そして、同じ間違いを二度と繰り返すべきではないと言う事も、東条勇麻は理解できている。
だからこそ。
その結果を知っていてもなお、東条勇麻は目の前に彼女が立っているこの現実があまりにも悲しかった。
「……やっぱりか」
四階へ飛び込むと同時に飛んできた『遠きを掴む毒手』を右手で握りつぶすようにぶち壊して、東条勇麻は何かを悔やむようにそう言った。
不意打ちにも怒りは感じない。ただ無性にやるせなさが勇麻の身体を鉛のように重くする。
理不尽に襲いかかる悲劇を潰したいと、彼女はそう語っていた。それは彼女なりの正義で、信念のはずだ。
その彼女の出した答えが、これか。
悲劇を憎んだハズなのに、さらなる極大の悲劇を招こうとしている矛盾。
上っ面だけを取り繕った彼女の弱さを、未だに己の心と向き合おうとしない臆病さを、東条勇麻はただ嘆いていた。
「……未知の楽園を壊す。それがアンタの悲劇への復讐だって言うのか、……リコリス」
褐色の肌に白ペンキをぶちまけたような白濁した髪の長身の女性――逃亡者の集い旗の“名を騙るナニカ”の幹部の一人だった女。リコリスが、血走った目をして東条勇麻の前に立ち塞がっていた。
「黙れ、黙れ黙れ黙れ!! アタシの復讐はもう滅茶苦茶だ。計画の要の神門審判は奪われ、チェンバーノもガキ共を使った特殊部隊『フェンリル』も壊滅した。その挙げ句に何だこれは? アタシらの生きてきた『未知の楽園』は偽物だって? ……ざけやがって、どいつもこいつも、アタシらを蚊帳の外で喚いてるだけの部外者だとしか思ってなかったって訳だ。嘲笑ってやがった訳だ。聖女も、逃亡者の集い旗も何もかも! ……アタシはアタシの許せねえ悲劇をぶち壊す。そのためなら、未知の楽園が滅びるくらいの悲劇は許容しねえとだろおッ!?」
血走った目で唾を飛ばし、白濁した髪の毛を振り乱して吠えるリコリスは、誰がどう見ても正気ではなかった。
その醜態を見て隣の和葉が目を細める。
「……哀れな人ね、もう自分で自分が何をしたいのか。本当は何をしたかったのか、そんな事も分からなくなってしまったんでしょうね。……あなたは自分が失敗していないと自分に言い聞かせる為だけに、この街の人々全てを犠牲にしようと言うの?」
「黙れ小娘、アタシは失敗なんかしていない! アタシの周りの使えない能無しどもが全部台無しにしやがったんだよ! ……ああそうだ、これはアタシのせいじゃない、理不尽な世界が悪いんだッ! そうだ、そうだよ。いつだって悪いのはこの世界じゃないか。だからアタシが壊してやるって言ってんだろ? なんでそれが分からない。なんで誰も分かろうとしない。 ……はは、あはっははっはははは!!! そうだ、アタシは正当だ。間違った事なんざ何もない。だからアタシはこの復讐で、この腐った世界を変えるんだ。まず手始めに未知の楽園からさ! もうどーでもいいんだよ。どこを見渡しても嘘と地獄と悲劇しかねえこんな街は、アタシが滅ぼして復讐の礎にしてやる!!」
まるで何かのスイッチが切り替わるようにリコリスの感情はコロコロと入れ替わる。
怒り、嘆き、笑い、肯定し、否定する。
感情の値が安定せず、ジェットコースターのように法則性も無く上下に激しく揺れ動く。一秒前と一秒後で発言に矛盾が生じる。そんな無茶苦茶な精神状態にリコリスはあった。
だがそんな不安定な状況下ですら彼女は己の非を一切認めようとしない。
現実から目を背け、ひたすらに責任を他者へと押しやり、自分は何も悪くないと子供のように騒ぎ立てる。
その醜悪な様は、まるでたった一人の少女へ責任も功績もその全てを押し付け続けた未知の楽園の人々の負の側面の象徴であるかのように思えた。
その様はまさに悲劇の亡霊。
己の罪から逃げ続けた逃亡者の末路にして、負の象徴。
逃亡者の集い旗という組織は、現実から目を背け逃げ続けてきた人々がいずれとある一人の少女と正面から向き合う時の為に作られた組織だそうだ。
いずれ訪れるその日の為に、逃亡者達が築き上げた戒めの象徴。人々に己の罪と少女の存在を忘れる事を許さない、世界に刻まれる傷跡そのもの。
だとするならば。
リコリスという悲劇の亡霊を、己の心にある逃亡者の象徴を打ち倒さない限り、この街の人々はきっと先へと進めない。
そんな抽象的なことを勇麻は思った。
だって。
この街の人々が、彼女一人に全てを押し付け己の功罪から逃げる事がなければ、きっと未知の楽園はもっと違っていたはずなのだから。
泣いている女の子一人に当たり前のように手を差し伸べる事ができる、そんな皆の幸せな笑顔が溢れる街になっていたはずなのだから。
「……もういいよ、リコリス。終わりにしよう。アンタの見当違いな復讐に、意味なんてないよ」
悲劇に終止符は打たれた。
もう聖女と呼ばれる少女が、たった一人で孤独に膝を抱え夜を過ごす事はない。
ならば彼女という亡霊は、ここで終わるべきなのだ。
この街の人々が明日への一歩を踏み出せるように。
何もかもを一人に押し付けるのではなく、自分自身と真正面から逃げずに向き合えるように。
一度閉じた瞳をゆっくりと開く。東条勇麻は静かに拳を構え、その隣に少し緊張した面持ちの九ノ瀬和葉が並ぶ。
二人は、一度だけ何かを確かめるように目配せをして、
――直後。リコリスという負の象徴目掛けて同時に一歩を踏み出し駆け出した。
☆ ☆ ☆ ☆
その昔、リコリスには三人の妹がいた。
親はいない。当然のように彼女は捨てられた孤児で、本当に血の繋がりがあるのかすら定かではない妹が三人いた。
何て事はない、物心つくころには既に四人は寝食を共にしていて、自分がこの子達を守っていた。だからきっと妹なのだろう。そんな関係性の姉妹だった。
とはいえ、未知の楽園の外周区では珍しくもない話だ。道端に捨てられる孤児は誰が親かすらも定かではないのだから、血の繋がっていない兄妹などごまんといる。
だからリコリスもそんなどうでもいい事は気にしたことはなかった。
彼女が気にするのはただ一つ、姉妹で生きていけるだけの食糧が今日も手に入るかどうかだけだ。
幸い、リコリスの身には強力な神の力が宿っていた。
離れたものを掴む力。一般的には『念動力』などと称される物だ。
これがあったためか、リコリスは孤児の子供達の徒党に属する必要もなく、妹たちだけを養って生きていく事ができた。
徒党は力の弱い孤児達が集団で身を守る為の物。所属すると食料なども分け与えて貰えるが、年長者には食料調達などの義務が与えられ、養わねばならない子供の数も増える。
弱いモノ同士が集まって互いに互いを守り庇い合う徒党など、下手な大人なら返り討ちにできるリコリスには必要のない産物だった。
故にリコリスとその妹たちは姉妹だけで外周区の廃屋で暮らしていた。
リコリスが外で稼ぎをつくり、妹たちは家から外へ出ることなくお留守番。これがリコリス達姉妹の基本的な日常だ。
彼女は内周区へ赴くと、その力を使っていくつも盗みを働いた。
沢山の食糧を盗みだし、妹を食わせる為にその日一日を生きつづけた。
貧しく、苦しかったが、それでも姉妹は日々を生きていけた。
それもこれも、リコリスという姉がその身を犠牲にして妹たちを必死で守り、育ててきたからだった。
だがそんなある日、リコリスは妹たちと些細な事でケンカをした。
何が原因だったかは覚えていない。ただ、いつもと違ってその日は無性にムシャクシャしていたのだけは覚えている。
結局、その日は食料調達に出かける時になっても仲直りすることなく、黙って一人内周区へと向かった。
……自分がいなければ何も出来ない癖に。ムカつく。
妹たちへの怒りが収まらないリコリスは、自分がいかに彼女達にとって重要な存在なのかを知らしめてやろう、そんな事を思った。
これに懲りれば、今度からはあんなくだらない事でケンカをする事はなくなるだろう。
妹たちも、もっと私に感謝して尊敬してくれるハズだ。
そんなちょっとした出来心。
もしかすると彼女もまた、親がいない事に寂しさを覚えていたのかもしれない。
僅か八歳という年齢で家族を支える大黒柱として生きている少女の、子供じみた反抗。
彼女はいつもなら外周区に戻る時刻になっても家(と呼んでいる廃屋)に戻らず、一夜を内周区の路地で過ごし、翌朝妹たちの元へと帰った。
姉が帰らない事に、さぞかし妹たちは不安がっている事だろう。
派手なイタズラを成功させたような気分のリコリスのは、昨日妹たちと喧嘩した事など綺麗さっぱり忘れていた。
これできっと、妹たちも私の頑張りを分かってくれる。もっと自分の事を尊敬してくれるに違いない。もしかしたら彼女達は泣いて自分を出迎えるかも知れない。
そんな事を考えながら、うきうきとした笑顔でリコリスが家に戻る。
そうして、そんな彼女を出迎えた妹たちは――
――無惨な、死体となっていた。
内周区で盗んで来た食料が床に落ちて、ぐじゃりと、生っぽい音を響かせて潰れた。
リコリスは何も理解していなかった。
リコリスの妹たちがこれまで安全だったのは、リコリスという強者と共に居たからだ。
それが数時間ならともかく、一日戻ってこないとなれば当然目を付けられる。
まして大好きな姉が帰ってこないのだ。妹たちは姉を探しに外に出て、必死に姉の名前を呼んだはずだ。そうなれば嫌でも目立つ。リコリス不在の情報は勝手に外へ出回る。
夜になってもリコリスが帰ってこない、それはつまり、あの化け物が内周区で失敗し、死んだのではないか?
外周区の荒くれ者どもに、そう思わせるには十分すぎた。
その結果がこれだ。
リコリスが奪ってきた金目の物も、必死に溜めこんでいた貯金も、全て奪われていた。
そうして邪魔な妹たちは殺された。
全てが自業自得だった。
くだらない事で意地を張って、リコリスのくだらない思い付きで、軽率な行動で、妹たちが死んだ。失った。凌辱の限りを尽くされ殺された。
空の瞳が。ガランドウが、リコリスを責め立てるように見つめている。どうして帰って来てくれなかったの? どうしてわたしたちを助けてくれなかったの? 何も映さない瞳は、終わりの間際の感情を張り付けて固まっている。過去が未来に追いつき、手遅れの死がリコリスを周回遅れで襲う。
けれどリコリスは。
――それを自分のせいだと認める事ができなかった。
世界を憎悪した。
未知の楽園などという残酷な世界を作った大人達を。
悲劇ばかり降り注ぐ腐った世界を。
自分と妹たちに降りかかる悲劇を、自分を捨てた親を、子供一人助けてくれない大人達を、ひたすらに憎んだ。
世界などという大きな物に妹たちは殺された。ならば仕方がない。そんな巨大な物に単身で抗える程、自分は強くなんかない。
そう思う事で、そうやって責任転換する事で、リコリスは無意識に己の心を守っていたのだ。死んでしまった妹たちから浅ましくも許しを得ようとしていたのだ。
真実から目を逸らし、逃げ続ける。責任を余所へ押し付け、自分だけが被害者だと騒ぎ立てる。リコリスという少女は自分の非を誰かに責任転換する少女へと育っていく。
彼女の中にある恐怖、全てを遠ざけようとする『遠きを掴む毒手』は、リコリスのみが知る真相を暴かれる事を何よりも恐れているのだろう。
それ以降彼女は、自分に降りかかる悲劇を、自分の起こした悲劇を、全て世界のせいにして逃げ続けてきた。妹たちの為に悲劇に満ちた世界に復讐すると仲間を集め、ただ復讐をするという行為で自己満足を得る為に復讐を続け、悲劇をまき散らしていく。
それすらも誰かのせいにして。
彼女という人間こそ、この街に巣くう逃亡者以外の何者でもなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
――遠き掴む毒手。
不可視の力が東条勇麻を握りつぶそうと襲いかかる。
分厚い鉄板程度なら、小枝のようにねじ曲げへし折る事が可能な力で、リコリスは人体を破壊し蹂躙しようとする。
毒手が空を走る。
――股下を通って背後の死角。あえて真っ正面から。右からカーブを描く軌道で、稲妻の如くジグザグを描きながら頭上から食らいつくように。
多種多様、様々な軌道で不可視の圧力が勇麻へと襲いかかる。
だが、リコリスの攻撃は通じない。
踏み砕き、真っ二つにカチ割り、裏拳で薙ぎ払い、拳を頭上に振り抜く。そのどれもこれもが赤黒い破壊のオーラを纏い、恐怖と逃げの感情に支配されたリコリスの神の力を寄せ付けない。
東条勇麻の勇気の拳が負の感情を敏感に察知し、リコリスの殺気を――そこから攻撃の気配を過敏に感じ取る。
「なんなんだよ……本当に、何なんだよッ、お前はァ! どうしてお前みたいなヤツがアタシの邪魔ばっかするんだよ! 消えろ、頼むから……アタシの前から消えてなくなれぇええええええ!!」
「……悪いけど、自分一人罪から逃れようとするアンタに差し伸べる手はねえよ。生憎こっちは暇じゃないんだ。誰かに責任を押し付けて、逃げて、楽になるのはもうやめろよ。ちゃんと生きろよ、アンタの失敗はアンタだけの物だろう!!」
激情するリコリスへ叫び返し、東条勇麻がドッと壁面を蹴り付け彼女の間合いに瞬時に踏み込む。
力強い一歩に踏み込んだ右足が聖女の尖塔を揺るがす程の地鳴りを起こす。そして生まれたそのエネルギーを、東条勇麻は突如上へと向けた。
「!?」
勇気の拳によって高められた身体能力でもって力強く跳躍し、東条勇麻はリコリスの頭上を跳び越える。
鮮やかなその跳躍にリコリスの注意と視線が自然勇麻へと引きつけられ、胴体ががら空きになる。
そこへ、
「はぁあああああああああああああああああああああああああああああああああーーーッ!!」
勇麻の少し後ろを隠れるように走っていた九ノ瀬和葉が、リコリスの間合いへと一息に飛び込んだ。
裂帛の気合と共に振り抜いた全力の拳が、無防備な鳩尾目掛けて勢いよく叩き込まれる。注意を上へと引きつけられているリコリスは和葉の奇襲に咄嗟に反応できない。
衝撃、“岩をも砕く少女の硬い拳”がリコリスの内臓を撹拌し、助走をつけて叩き込まれた運動エネルギーがリコリスの意識を奪っていく。
「が、はァ……っ!?」
驚愕に目を見開いたままリコリスは口から血反吐を吐き、白目を剥いて流れるようにその場に膝を突くと、意識を手放した。
――逃亡者。この街の人々の負の象徴は、あっけなく地に倒れ伏した。
同じく、この街に生きる者の手によって。
「……ふぅ。こんな事もあろうかと、あらかじめ聖女様の『次元障壁』を自分に『貼り付け』しておいたのよ。冴えてるわね、私って。……ま、“上書き”できたのは『硬度』だけだけど、あなたみたいな小物相手には私で十分よね」
額の汗を拭うようなわざとらしいジェスチャーと共に、一仕事を終えた九ノ瀬和葉が達成感を込めて一つ息を吐いた。
☆ ☆ ☆ ☆
大理石の床のうえに褐色の肌に白濁した長髪の目立つ女が一人仰向けになって倒れ込んでいる。
初めて誰かを思いっきり殴ったという和葉は、興奮したように頬を紅潮させ、自分の活躍をそれはもう嬉しげに五割増し程の脚色ありで勇麻へ語り、勇麻が相手をしてくれないと分かると誰もいない空間へ向けて語っていた。
もしかすると、よほど暇なのかもしれない。
リコリスとの戦いは拍子抜けするほどにあっけなくその決着が付いた。
もっとも、この少女との戦いの決着は既に付いていたのだ。やる前からここまで結果が見えている勝負というのもなかなかないだろう。
リコリスは結局、己の中の弱さに打ち勝つことができなかった。
自分から逃げ続けるだけの臆病者に負けるほど、東条勇麻と勇気の拳は柔じゃない。
「それにしても、どうやって『ウロボロスの尾』が保管されている空間に侵入したのかしらね、この人。失礼な話だけど、この人に聖女の空間結界を破る程の力があるようには思えないわ。……というか、よく考えてみたらこの人って私が暮らしてた未知の楽園に居た人よね? なんでこっちに来てるのかしら」
和葉のもっともな疑問に、勇麻は心当たりがあった。
『……だいたいよぉ、こちとらテメェらの足取り掴むのにどんだけ苦労したと思っていやがる。こっち側へ渡るっつーのに一丁前に女なんざ侍らせやがってぇ。おかげで滅茶苦茶な座標に飛ン出った挙げ句、アスティの馬鹿野郎に先越されちまうし、見失うしで散々だってんだぁ』
思い出されるのは、まだ“声だけ”だったディアベラスとの初対面時に言われたあの文句だった。
「……多分あの時だ。空間に亀裂が生じた時、和葉が俺に咄嗟に掴まってこっち側へ飛ばされたように、リコリスも『遠き掴む毒手』で咄嗟に俺の洋服でも掴んでたんだろう。ディアベラスがイレギュラーが起きたって言ってただろ? 『招待客』である俺以外の人間が俺に掴まって一緒にこっちに来ちまったせいで、本来飛ばされるべき座標に飛べなかったんだとすると、偶然リコリスが『ウロボロスの尾』が保管されている空間に飛ばされる可能性だってゼロじゃない。悪魔的な偶然っつーか、最悪の確率を引いたって感じだけど」
イレギュラー。
勇麻や和葉が滅茶苦茶な座標に飛ばされたという事は、同じタイミングでこちらに飛ばされてきたであろうリコリスもまた、本来ならあり得ない滅茶苦茶な座標に飛ばされていても不思議ではない。
「ほんと、悪夢のような現実ね。大仰な計画でもなければ、絶対的な黒幕がいるのでもなく、あんな子供の癇癪で未知の楽園が崩壊するって言うのだから、悪魔も神様も趣味が悪いわ」
意識を失ったリコリスの身体を簡単にしばり、二人は軽口を叩きながらクリアスティーナが三年間を過ごした寝室へと足を踏み入れる。
広さは畳六畳程。あまり広いとはいえない空間を半ば占領するように、巨大な天蓋付のベッドが部屋の中央に鎮座している。それ以外に家具と呼べるようなものは何もない。まさに寝る為だけに存在する部屋と言った所か。
「……三年間もこんな部屋で独りきりだったなんて、とてもじゃないけど私には耐えられないわ」
和葉が苦虫を噛み潰したような顔でそう零す。
此処に来る前は家宅捜査する気満々だった和葉だが、想像外に寂しいクリアスティーナの寝室を見てそんな気も失せたらしい。
「でも、そんな孤独も今日で終わったんだ。あいつにも俺達同様に未来がある。その明日を閉ざさない為にも、この状況をどうにかしないとな」
「……そうね。私も依頼を完遂させて東条くんから報酬を貰ってパーッと景気よくパーティーでも開きたい事だし、面倒事はさっさと終わらせてしまいましょうか」
クリアスティーナに教えられた手順通りに部屋の壁に触れていく。すると次元の狭間に溶け入るように隠されていた扉が、何も無い壁に浮き上がるように生じる。
クリアスティーナのみが知る隠し空間へと繋がる扉が実体化したのだ。
「……行こう」
噛み締めるように言って、勇麻がゆっくりとドアノブに手を掛ける。
静かに回し手前に引くと、扉が動く感触が伝わってくる。
いよいよだ。
この時をずっと待っていた。
長いようで短い旅路だったと思う。
アリシアが天界の箱庭を離反し、置手紙を残して東条家を出て行ったあの日からまだ数日しか経っていないのが嘘のような濃密な時間を過ごしてきた。
でもそんな時間ももうすぐ終わりを告げる。
東条勇麻はようやくアリシアの元に辿り着いたのだ。
これで全てに決着が付く。
勇麻の前に立ち塞がる戦闘狂も未知の楽園の崩壊を企む敵ももういない。
あとは『ウロボロスの尾』と接続したアリシアに現状を説明し、ディアベラス達が地上への脱出の準備を整えてくれるまで耐え忍ぶだけ。
……これ以上アリシアに負担を掛けるのは正直心苦しい。できることならば自分がその役目を変わってやりたいとすら思う。
でも、アリシアを助ける為にも、アリシアにはギリギリまで頑張ってもらうしかないのだ。自分の無力さのツケを他人に押し付けるようで自己嫌悪に死にたくもなるが、それでもこれが今勇麻の取れる最善だった。
(……大丈夫だ。間違いなく状況はいい方向へ向かっている。未知の楽園崩壊を告げられた時の絶望と比べたら確実に俺達は前進している。だからきっと、大丈夫だ)
きっと大丈夫と、何度も何度も頭の中でまじないのように繰り返す。
まるで知恵の輪のように複雑に絡み付き積み重なる問題の山を一つずつ解きほぐし、ようやく見えたアリシア。
それを前に、否応なしに心臓の鼓動が高まっていく。
勇麻がドアノブを握る手に力を込める。ゆっくりと、扉が開いていく。
此処までの苦労もあと少しで報われる。
これで全てうまくいく。
そのハズなのに何故か、勇麻は肌が粟立つような悪寒を止める事ができなかった。
そして。
『ウロボロスの尾』が鎮座するその異空間へ、東条勇麻は最後の一歩を踏み出した。




