第四十一話 VS.救国の聖女Ⅱ――クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは未知の楽園を救った『救国の聖女』である。
かの聖女によって邪悪な白衣の悪魔達は消え去った。
もう誰も、理不尽で非人道的な実験の犠牲になる事はない。
もう誰も、不条理な要求で幸福を奪われたり、遊びに命を奪われる事はない。
たった一人の少女によって地獄は終わりを告げたのだから。
誰もが彼女を褒め称えた。
誰もが彼女を崇め感謝した。
誰もが彼女を英雄だと信じた。
……でも誰もが知っていた。かの英雄は同時に自分たちを苦しめ続けた悪魔の子でもあるのだと。
そしてその事実を誰よりも理解していたのは、クリアスティーナ本人だった。
……ただただ縋るように覚えている。
閉じた世界。管理された幸福で過ごした幸せだった十五年間を。
地獄と背中合わせに過ごした儚く脆くも尊い日常を。
真実に穢される前に感じていたあの幸福を、クリアスティーナは深くその胸に刻み付けている。
……そう。今でも彼女は思い出すのだ。
そんなものは幻だと、汚い大人達の手によって造られた幻影だと知っていてもなお、クリアスティーナはただその時間が好きだった。
皆の笑い声と、くだらないお喋りと、笑顔に溢れるあの『家』を誰よりも愛していた。皆を愛していた。大好きだった。家族が大切だった。
……分かっている。
クリアスティーナ達が過ごしてきた十五年間は、掛け値なしに地獄よりなお酷い底なし沼のような絶望だった。
血と腐臭と欲望と尿糞に塗れた世界を愛しているだなんて気が狂っている。
そんな当たり前の事は分かっている。
血に塗れた臓物を直視せずに、そのうえに乗った宝石にだけ目を奪われてうっとりするような、滑稽で気味の悪い感傷だ。
でも。
それでもクリアスティーナは、あの十五年間を。家族と過ごした毎日を。否定する事なんてできなかった。
だって、『特例研』という家で兄妹達と過ごしたあの十五年間は、クリアスティーナにとっての全てだったから。
真実なんて知りたくなかった。
未知の楽園なんて救いたくなかった。
『救国の聖女』になんて……英雄になんて成りたくなかった。
変わってなんて、欲しくなかった。
いつも通りの地獄が、絶望が続いてくれれば、他に何も欲しくなかった。
例えそれが管理された幸福なのだとしても、少女はその優しい嘘に家畜のように永遠に騙され続けていたかった。幸せなのだと錯覚していたかった。
でも知ってしまったから。
残酷な真実をその目で視てしまったから。
心優しい少女は、その心に育まれたまっとうな正義感が、逃げる事を許してはくれなかった。
そうだ。
正しく真っ直ぐ優しい子に育てられたクリアスティーナは誰よりも正しい事をした。
歪んだ思想と我欲で兄妹達をモルモットとしてしか見ていなかった研究者達を消し去り、彼らによって不当に虐げられていた人々を、未知の楽園を救った。
クリアスティーナと同じように研究者達に洗脳され、騙されていたディアベラス達を管理された幸福から救い出した。
そして――何も知らなかった彼らに『自分達は愛されてなどいなかった。家畜のように地べたを這いまわるただの人殺しなのだ』という残酷な真実を突き付けた。
耐えられなかった。
その真実を知ったクリアスティーナが、ではない。
その真実を突き付けられ、絶望する兄妹達の顔を見る事が、クリアスティーナには耐えられなかった。
……ひたすらに逃げた。
自分が、兄妹達を傷つけた。
不用意に真実なんて物に触れたせいで、大切な人達を巻き込んだ。
彼らまでこんな酷い仕打ちをうける事はなかったのに。あのまま何も知らずにいれば、皆で幸せに暮らしていくことだって出来たのに。
それをクリアスティーナは真実などというくだらない物の為にぶち壊して台無しにしたのだ。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイが『救国の聖女』なぞに変わり、世界を変えてしまったから。
――もう会えない。
大好きなのに。今すぐ彼らの元にいって、大声で悲しみに泣き叫びたい。年上の姉や兄の胸に縋りつき助けてと叫びたい、年下の妹や弟をもう大丈夫だよと頭を撫でながら抱きしめてあげたい。
でもそれは永遠に叶わない願いだ。
彼らの幸せを壊した自分に、そんな資格があるハズがないではないか。
助けてなどと、そんな事は口が裂けても言ってはならない。
もう大丈夫だよなどと、言えるわけがない。
全ての原因は、善も悪も喜劇も悲劇も奇跡も絶望も良いも悪いも何もかもクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ、ただ一人にあるのだから。
だから少女は彼らの前からその姿を消した。
逃げて逃げて逃げて、逃げ続けて、自らの力で築き上げた白亜の巨城の尖塔に、隠れるように閉じこもった。
――私はクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。救国の聖女。未知の楽園を救い、本当に守りたかった物をその手で傷つけた、愚かな女。
何かを変えるという事は恐ろしい事だ。
人が変わるというのは悲しい事だ。
だって今が幸せで満たされているのなら、変わった未来には絶望しか待っていない。
だってその人の事をどれだけ愛していても、人は容易に別人へと変わってしまう。
――停滞を望んだ。腐りきって淀んだドブ川のような、淀み切った停滞を。
――安寧を願った。息の止まった死体のような、干乾びた虫の死骸のような枯れた安寧を。
――不変を願った。揺るぐことの無い、盛者必衰の理を無視する成長無き不変を。
世界に興味なんて持たない。自分が関われば関わっただけ、取り返しのつかない何かが変わってしまう気がしたから。
この世の全てがどうでもいいと吐き捨てる。そうしなければきっと、また大切な物を失ってしまうから。
何もしたくないと塞ぎ込む。何かを成すという事は、何かを変えるという事。何かを変えてしまう事は、取り返しがつかない償いようのない罪だ。
故に『救国の聖女』クリアスティーナ=ベイ=ローラレイが守護するのは停滞と安寧と不変。
変わってしまった世界から目を逸らし、これ以上大切な物を取りこぼさないようにと、彼女の世界に変革を齎そうとする不穏分子を狩り続ける。
ただそれだけの、停止した世界を持続させるだけの維持装置。
そんな彼女に少年は言う。
敗北の定めを覆し、死の運命さえ変えてしまおうとする、危険な不穏分子の少年は『救国の聖女』に向けて拳と共にこう突き付ける。
“逃げるんじゃねえよ、馬鹿野郎”、と。
……なら一つ問おう。
何故、逃げてはならないのだ。
三年前のあの日、クリアスティーナは真実から逃げなかった。
その結果招いたのがこの悲劇だ。
親のように慕っていた先生達から裏切られ、自分が人殺しだと自覚して、幸福だと思っていた十五年間は全てが嘘で、底なし沼のような絶望だと理解させられ、愛する兄妹達に残酷な真実を突き付け傷つけた。
立ち向かう事に一体何の意味があるというのだ。
嘘ばかり優しくて、真実は残酷なこの世界に救いなど存在しない。
だから人は目を背けるしかないのだ。
逃げ続けるしかないのだ。
真実から。現実から。目の前の全てから。
ただそれが唯一の、痛みを回避する方法なのだから。
……また繰り返すのか……?
クリアスティーナは自問する。
真実と綺麗ごとばかりを並べた正義面した奴に、また自分は屈するのか?
……嫌だ。
“私はまだ、負けていない”。
クリアスティーナは、もう。
自分の手で自分の幸福を殺すような事は、もうしたくなかったから。
もう誰にもこの平穏を壊させはしない。
どこまでもどこまでも逃げ続ける為、ひたすらに孤独に堕ちる為、愚かで馬鹿で救いようのないその少女は、再び闘争の道を選んだ。
どこまでも独りぼっちのままに。
☆ ☆ ☆ ☆
朝の到来を目前に控え、怪物たちの戦場となった白亜の巨城はひと時の静寂に包まれていた。
額から血を流し、左目蓋を腫れ上がらせて、身体中を痛烈に打撲して、けれど東条勇麻は立っている。
振り抜いた拳の十数メートル先、勇麻の防御殺しの一撃を真っ正面から受けた『救国の聖女』クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは城門にめり込むようにして沈黙していた。
しかしそれも無理のない話だ。
クリアスティーナは最強であったが故に戦い慣れしていない。『次元障壁』で全ての攻撃を防ぐ彼女は、敵の攻撃をまともに受けた事が無いのだ。
それは例え遥か格下の勇麻の一撃であっても同じ事。まして破壊力が数倍、数十倍にも膨れ上がる防御殺しの一撃を受けたともなればなおさらだ。
決着は着いた。
クリアスティーナはもう起き上がる事もできないだろう。
『救国の聖女』を打倒し、東条勇麻はついにその敗北を覆したのだ。
そう思った――
「……?」
安堵するように息を吐いた勇麻の眉が、訝しげに吊り上がる。
ぐったりと気を失っているはずのクリアスティーナの指先が、微かに動いたような。そんな気がして……。
「………………すか、」
――だが違う。
決着はまだついていない。
なぜなら、“どちらか一方が敗北を認めない限り、勝負は永遠に続くのだから”。
そして眼前の少女は、誰がどう見ても勝負を投げ出したりなどしていなかった。
白亜の巨城を包んだひと時ばかりの静寂は嵐の前の静けさ。孤独の中溜めこんだ感情という名の凶悪な嵐はこれから世界を蹂躙する。
「――どうして、逃げてはダメなんですか……ッ!!?」
城門に身体を預けたまま、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイが血を吐くような咆哮を上げる。喉を引き裂くその叫びは、怨嗟と懇願と願望の具現か。
感情の籠った言葉の一音一音が、呪いのように勇麻の心に入り込み、精神を蝕む。少女の悲哀が悲痛が嘆きが世界を包もうとする。
そして。
世界に、怯える少女の干渉力が溢れ返った。
「くっ!!? マジか、よ――ッ」
少女の咆哮に呼応するかのように、背後の白亜の巨城が音を立てて倒壊した。
少女を中心に台風のような暴風が吹き荒れ、まともに目を開けている事もできない。
凄まじい風に思わず顔を翳した掌で覆い、吹き付ける強風が勇麻の靴底を上滑らせる。
目も開けられない暴風の中、暴威の中心点にある少女が、ずるりとその身体を起き上がらせた。
「どうして逃げてはいけないんですか。立ち向かって、向き合って、戦って、それで何になるんですか? ……辛いだけじゃないですか。痛いだけじゃないですか。悲しいだけじゃないですか。悔しいだけじゃないですか。関係ない人を傷つけて、自分も傷ついて、大切な人すらも傷つけて……そんな馬鹿な事に何の意味があるって言うんですかッ!!?」
激情する少女に呼応するように空間が歪んだ。
どこから攻撃を受けたのか分からない。
ただ全方位から叩き付けられる純粋な圧に耐えきれず、勇麻が膝を突く。
「……嘘でも良かった、騙されていても、幻だって構わない。だって、私達は幸せだった! 兄妹皆と過ごしたあの時間が大好きだったのに……っ。それを! 私が壊したんですっ! 正義感に駆られて、間違いを正そうと、世界を変えようとしたから!」
見えない力に弾き飛ばされ、鮮血と東条勇麻が宙を舞う。
そのまま空中で、手足を枷に嵌められたように身体を固定される。
不可視の十字架に張り付けられた少年の眼前に、クリアスティーナは既に立っていた。
『救国の聖女』でも『白衣の悪魔の遺産』でもない、ただの少女はその貧弱な拳を振りかぶって、
「残酷なだけの真実なんて、知りたくなかった……ッ!」
鈍い音と鈍痛が連続する。
人を殴った経験など一度もない白魚のような白い手が、拳となって勇麻の頬に突き刺さる。
少女はその白を、血の赤で汚していく。
「自分っが、人殺しだなんて! 知りたくなかった……ッ!」
何度も何度も。
壊れたCDのように繰り返す。
……本当に少女はどこかが壊れてしまったのか、涙腺が壊れたように涙が零れだして止まらない。
「先生達っ、だって、大好き……だったのに……ッ!」
右の拳、左の拳。右、左、右左右……。
楽曲を奏でるように、一定のリズムとテンポで肉が潰れ血が飛び散る生々しい音が耳を汚す。
でも今は、その音すら心地いい。
「未知の楽園、なんてっ、救いたくなかった……ッッ! そんなもの! どうだってよかったッ!」
交互に拳を繰り出す度に、返り血が少女を汚した。
涙と血が混ざり合う。
べちゃりと生暖かい気持ちの悪い感触が、顔にへばりついている。
「『救国の聖女』になんて、……ぐずっ、成りたくなかった……ッッ!」
でもやめない。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、己の全てを吐き出し曝け出すように、目の前の正義面した男を殴り続けた。
それが全てで、それで終わりだった。
クリアスティーナの中には、もう、こんな物しか残っていない。惨めに過去へ縋りつこうとする思いしか持っていない。
後悔なんて聞えの良い代物ではない。こんなのはただの絵空事。残酷な結末の絵本を開いて、その終わり方に駄々をこねるように文句を連ねるような無粋な感傷に過ぎない。子供の我儘のようにみっともない残響だ。
「げほっごほ……っ! ……ずっと、続いてほしがっだっ。何も変わっでなんて……欲じぐながっだのに……ッッッ!!」
喧嘩も碌に知らない少女の拳は、己を痛め付けながら少年の顔面を痛烈に撃ち抜いた。
鈍い音に血が弾けてパッと眼前の少女へと赤が飛び散る。
「はーぁっ、はーぁっ。はぁーっ、はぁーっ……」
ぼだぼだと、殴られ続けて俯いた少年の鼻から血の塊が地面へと零れ落ちる。
少女は荒い呼吸を整えながら、磔にされた少年が動かなくなったのを確認して――
「――それで、気は済んだかよ。大馬鹿野郎」
「……ッ!!?」
血だるまのようになった真紅の貌から、二つの鋭い眼光が、クリアスティーナを射抜いていた。
低い威圧するような声色にクリアスティーナの肩が震えた。
怯え、慄くように後ずさる少女へ、磔にされた少年は怒りを露わに吐き捨てる。
「……黙って聞いてれば、本当に頭に来る。アンタさ、何で変わっちまった物とか失った物ばかりを馬鹿みたいに数えてるんだよ……」
……ふざけている。
何だ、それは。
勇麻の中で激しい怒りの感情が燃え上がる。ふざけた戯言ばかり吐くこの少女に、いい加減に我慢の限界だった。
だって、クリアスティーナの言葉はまるで、全て自分が悪いような言いぐさではないか。
「それは、だって……私はッ、私のせいで大切な物が壊れて、それで皆を傷つけたから……ッ! 逃げずに立ち向かって、得た物なんて何も……」
クリアスティーナの言葉に、今度こそ勇麻は怒りを抑える事ができなかった。
ギロリと、鬼のような視線を向けて、
「おい、ふざけんな。ふざけんじゃねえよ! お前が言ったんだぞ。逃亡者の集い旗の奴らを、大切な家族だったって、大好きだったって、お前がそう言ったんだ!! ……残ってるじゃねえかよ、大切なモノ。あいつらはお前が理不尽な地獄から救い上げたモノだろうがっ。どうしてそんな簡単な事が分かんねえんだ……!?」
そうだ。悪いのは彼らを実験動物のように扱った研究者達で、それを認めていた『操世会』の連中だ。
クリアスティーナ達に責任などあるハズがない。
それなのにどうして、たった独りの少女が全てを背負って泣き続けなければならないような結末になるのだ?
ぐつぐつと腹の底でマグマのように煮えたぎる、それは怒りだ。
馬鹿で救いようのない少女と、その兄妹達。何の罪もない彼らを騙し、利用し、傷つけ、玩具のように弄んだ非人道的な研究者達。そしてそんな理不尽がまかり通る世界そのもの。
今この目に映る世界を構築する全てが、どうしようもない嚇怒となって、東条勇麻を突き動かす。
「ああもう! どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ! 逃亡者の集い旗だってそうだ! 家族だってんなら拒絶されても無遠慮にアンタの隣に踏み込むべきだろ。なんで周りを囲って、独りぼっちの妹を輪の中心に据えてんだよ。ただずっと隣に居てやるだけで良かったじゃねえか!? ……ディアベラスなんて問題外だ。これ以上苦しむ彼女を見たくない? だったらアンタが手を差し伸べろよ! 苦しむ妹の隣で一緒に苦しんでやるのが兄貴の務めじゃねえのか!? 何勝手に終わった気になって絶望してんだ馬鹿。殺す事が救いだなんてそんなの認めねえ。それはアンタの自己満足だろうが!!」
だって彼らは犠牲者だ。
覚えの無い殺人を強要され、人体実験の餌食となり、我欲と強欲の為に利用させられたに過ぎない。
それなのに、クリアスティーナは強情に首を振り続ける。
全ての罪を背負う事を良しとするように。
それで何もかもが解決するなら構わないと、ふざけた自己犠牲を掲げる偽善者のように。
「それは違います。違うに決まってるんです……。私は、恨まれて当然の事をしたんです。私が真実なんて暴かなければ、私達兄妹は、幸せなまま暮らしていく事が出来たんです……」
「それが逃げてるって言ってんだろッ!?」
鋭い一喝が、クリアスティーナの肩を震わせた。
「何も知らなければ幸せなまま暮らしていく事が出来た? そんな訳がないって、アンタが一番分ってるハズだ。……現に割宮裂姫って子は死んじまってるじゃねえかよ。……お前は、他の奴らがあの子みたいに気が付きもしないうちに死んでる未来を望んでたのか!? そうじゃねえだろ……ッ!!」
勇麻はクリアスティーナがそんな風に怯えて肩を震わせているのが許せなかった。
だって彼女は悪くない。
クリアスティーナは確かに誰かの命を奪ったのかも知れない。
それが彼女の意志で行われた事でなくとも、取り返しのつかない事だろう。失われた命は決して戻ってこない。どんな真実が明かされようとも、彼女が人を殺したという現実までは覆らない。
それでも、彼女は自らの意志で、家族を助けようとした。そうして確かに絶望の底にある誰かを救ったのだから。
(……たすけて……)
――怯え、震えて、助けを求める声が聞こえるのだ。
それは決して誰にも言う事が許されない、秘匿されるべき想いなのかもしれない。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイという少女は、その感情を墓場まで抱えて死んでいくつもりなのだろう。
大好きな家族を絶望へと叩き落とした自分には助けを求める権利などない。そんな馬鹿な事を考えながら、心の叫びを誰にも気づかれることなくたった独りで死んでいく――
――などと、そんなバカな真似は絶対に許さない。
他の誰が知らなくとも、東条勇麻は彼女の嘆きを知った。助けを求める声を聞いた。彼女の恐怖を理解した。
ならばもう、クリアスティーナの孤独な戦いは此処で終わるべきなのだ。終わらせてやるべきなのだ。
東条勇麻の勇気の拳は、少女の身を縛り続ける心の殻さえもぶち破る。
対峙した相手の感情を受信するという力が、無遠慮に強引に少女の秘めた悲痛な想いを暴いていく。
相手の感情も考えない独りよがりで横暴な拳。だけれども、そんな強引な方法でなければ救えない誰かがいると言うのならば。
……身体を戒める不可視の枷が邪魔だ。
今すぐ全て引き千切り、このどこまでも馬鹿で臆病な、それでいて心優しい少女を独りぼっちの暗闇から救い上げたい。
……これだけ苦しんであれだけの地獄を生きて、底なしの絶望に触れたんだ。
ならもういいだろう。
そろそろ幸せな結末を掴んだって、誰も文句を言いはしないだろう。
そうでなければ、東条勇麻はこの世界の全てに納得がいかない。
「……アンタは単に怖かったんだ。自分が救った者を、大切な人を、信じる事ができなかった。救った事より、傷つけた事に恐れた。アンタがその手で変えた世界を直視する事が怖かった。変わった世界に幸福よりも不幸が増えていたらと怯えた。嫌われたんじゃないか、恨まれてるんじゃないか、憎まれてるんじゃないか。大好きな人達から向けられるそんな感情が怖くて、勝手に見切りをつけて見限って向き合う事から逃げ出したんだ!」
――誰かが誰かへと抱く感情は、人が考えているよりも複雑で雑多にごった返していて、自己矛盾を抱えて絡み合っている物だ。
好意に嫌悪を。悪意に敬意を。愛に憎悪を。恐怖に勇気を。相反する感情すら一緒くたに抱きかかえて生きていけるのが人間という生き物だ。
だから、相手の感情を一つに決めつけるなんて、愚かで馬鹿な真似だとしか言いようがない。
確かに、中にはクリアスティーナの事を恨んだ者も居たかもしれない。
どうして自分達がこんな目に、あいつがこんな事をしなければ、そうやって自分の弱さから誰かに責任を押し付けようとする事もあったかもしれない。
でもそれだけじゃないハズだ。
きっとクリアスティーナを恨みながらも、正義感に溢れる心優しい真っ直ぐな少女を、どうしようもなく愛おしむ感情だって、確かにあったハズなのだ。
それを見ようとしなかったのは、間違いなくクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ本人だ。
「……自分の変えたモノを否定するなよ」
クリアスティーナは決めつけるべきではなかった。彼らがきっと自分を嫌い、憎み、恨んでいるなどと、思い込むべきではなかった。
彼女がすべきことは、たった一つ。
「……独りぼっちになろうとするなよ」
……ああ、本当に。東条勇麻はこの少女を放ってなど置けない。
こんな悲しげな心で、独り泣き続ける少女を、見捨てるなんて出来る訳がない。
勇気の拳が静かに燃え上がる。
ここで女の子一人救えないようなら、英雄はおろか、男を名乗る価値さえないと歯を食いしばる。
四肢に力が宿る。自由を奪う不可視の枷に、微かに罅が走る。
「……全部自分で背負いこもうとするなよ」
食いしばった歯が砕ける。鋭くなった断面で舌を切り、口の中がさらに濃密な鉄錆びの味に染まる。勇気の拳が少女の声を受け取る度に、その想いに胸が張り裂けそうになる。
やるせない怒りと止めどない憤りが、東条勇麻が限界を越える力となる。戒めを打ち砕く力が四肢に巡る。
身体を縛るのは神の子供達の圧倒的干渉力。
だがそんなものは関係ない。
分不相応でも、無茶でも無謀でも、届きもしないであろう希望にみっともなく手を伸ばし続けるのが東条勇麻だ。
負ける事も、失敗する事も、絶望する事だって確かにあるだろう。
死にかけた事だって一度や二度じゃない。心臓を握りつぶされた事だってあるくらいだ。
東条勇麻が最強なのかと問われれば、誰もが首を横に振って鼻で笑うだろう。単純な戦闘力を競い合うトーナメントがあったとして、二回戦で敗北するくらいの立ち位置にいるのが東条勇麻だ。所詮素人の学生でしかない少年には、その程度の力しかない。
でも、諦めることなく抗い続ければ、どんなちっぽけなヤツだって最後の最後に“それ”を掴み取る事が出来る事を、少年はその身を張って証明し続けてきた。
だから。
罅は全ての枷に広がる、右手を縛る枷が、甲高い音と共に砕けちる。
勇麻の言葉に、砕けていく枷に、クリアスティーナはその美しい顔を青ざめ、かぶりを振って逃げるように後ろへ下がる。
「……やめて、ください……っ。私、は。今更、そんなの。だって、私は……! 大切だった皆に……酷い事を……!」
(誰か、私を。助けて……!)
その声が聞こえる限り、絶対に諦めてなんてやらない。
独りは悲しい。恨まれるのが怖い。大切なモノが変わってしまう事が恐ろしい。誰か私を助けてと、縋るようなか細い少女の心の声を聞いてしまったから。
東条勇麻はこんな結末を認めたくなくて、その少女を助けたいと、そう思ってしまったから。
さらに左足、続いて左腕も自由を得る。目の前で泣いている少女を救う事を妨げるその枷を、東条勇麻は容赦も迷いもなくぶち壊す。
そして無遠慮に土足で彼女の心へとその一歩を踏み込む。
「災友くんだって、私のせいで……死んじゃったのに……っっ!!」
最後まで勇麻を抑えつけようとする右足の枷をもぶち破り、そのまま右足で一歩を踏み出した。
もう逃がさない。
轟音と共に軋む大地を踏み込み蹴り上げて、逃げ出そうとするクリアスティーナへと東条勇麻が瞬時に肉薄する。
いやいやと下がりながら首を振るクリアスティーナが次々と生み出す『次元障壁』を、東条勇麻の勇気の拳が片っ端から木端微塵に打ち砕いていく。
明滅する赤黒いオーラじみた輝きが、星の瞬きのように朝闇の未知の楽園で煌めいた。
「もうやめてよぉ!! これ以上、私の心に踏み込もうとしないで!! 放っておいてよッッ!!」
「いい加減に目を開けろ! アンタが変えた未来を、アンタが変えた世界を! 変えたアンタがいつまでも否定してたら、誰も報われないだろうがッッ!!」
――もうこんな壁は壁とも思わない。
お飾りの薄壁の向こう、たった独りで膝を抱えて泣いている少女がいる。
全てを隔てているように思える壁は見せかけで、踏み出そうと思えばいつだって打ち破る事が出来たのに、怖がりな少女は勇気を出せずその一歩を踏み出す事ができなかった。
だったら丁度いい。
東条勇麻の勇気の拳は勇麻の感情に呼応してその身体能力を増減する神の力だ。弱気を許さず、逃げる事を許さない、正々堂々と、真っ向から立ち向かい、恐怖を乗り越える為に勇気を絞り出す人を称賛する。
逃げる事無く、互いの心と心をぶつけ合う事を望む。そんな願いの結晶だ。そんな希望の詰まった拳だ。
そんな勇気の拳なら、少女が頑なに開こうとしない心の壁も、きっとこじ開ける事が出来ると思うから。
少女と少年は逃げる事を許されず、真っ正面から向き合う事が出来るハズだから。
最後の一枚となった『次元障壁』が、勇気の拳の前にステンドグラスのように砕け散る。
キラキラと赤黒い輝きを乱反射して輝き降り注ぐ次元の破片が、まるで万華鏡のよう。
禍々しくも儚く美しいその輝きは、人の死に様を連想させた。
『次元障壁』を打ち破った拳が、そのままの勢いで少女へ迫る。
赤黒い輝きを纏った圧倒的な力と破壊を宿したその一撃が、少女へ無慈悲に終わりを突き付けんとする。
最後の壁を失ったクリアスティーナは、ぺたりと地面に座り込んだまま、眼前に迫る拳に全ての終わりを予感してぎゅっと目を閉じて――
――真っ暗になった世界を、解き放たれた全力全開の拳の風圧が、クリアスティーナの髪を優しく撫でるように駆け抜けて行った。
ただそれだけ。
いつまで待っても、クリアスティーナが予想していた燃えるような痛みと終わりは訪れない。
「……な、にが……?」
訝しげに思ったクリアスティーナは、恐る恐る瞑った目を開く。すると、少女の僅か一センチ手前で停止した少年の拳が視界一杯に広がっていた。
「……なあ、クリアスティーナ」
知りたくもない真実を突き付けられ、幸福の絶頂からどん底の絶望へと突き落とされた少女がいた。
それは、英雄になんて成りたくなかったのに、英雄になってしまった少女。
自分が変えてしまった物を恐れ、変えてしまった者を恐れた、優しくも臆病な女の子だ。
――彼女がすべきことは、たった一つ。
「……え、」
勇麻は彼女に突き付けた拳をゆっくりと解くと、固めていた五指を広げてその手を差し出した。
助けを求める女の子へ、そうするように。
それが当たり前だと言わんばかりに。
「……アンタはただ一言、勇気を出してこう言えば良かったんだ」
勇麻の言葉にクリアスティーナ呆けたようにポカンと口を開けて、答えを求める子供のように勇麻の顔を見上げた。
だから勇麻は教えてやる事にした。
一人で背負うには重すぎる苦しみや悲しみや不幸を抱えた時、それを解決してしまうとっておきの方法を。
当たり前で、なんでこんな事も分からないのかと、笑ってしまうような単純な答えを。
ボロボロで目蓋は腫れ上がり血だらけの真っ赤な顔に、精一杯の柔らかな笑顔を浮かべて。
「『助けて』って、そう言えば良かったんだよ」
……こうして、独りぼっちで泣きじゃくる少女へと手は差し伸べられた。
その手を取るも取らぬも、それは彼女の勇気次第。
最後の一歩を踏み出すのは結局のところ自分自身に他ならないのだから。
そうして、心に生まれたほんの少しの勇気をもって少女は尋ねる。
拒絶されるのが怖くて、嫌われるのが恐ろしくて、誰にも聞けなかった言葉を。
「……わたっ、私が、私なんかが……助けを……求めてもいいんですか?」
「ああ」
「わ、私は。……ひっ、私が皆を。……きょ、拒絶したのに……?」
「家族なんだろ? 喧嘩くらい誰でもするさ。仲直りもな」
「わっ、私は……人を。……貴方を……、殺して、しまった……のにっ、貴方は、私を助げでぐれるんでずが?」
「見りゃ分かるだろ、だったら俺は何の為にアンタに手を差し出してんだよ。馬鹿」
怖がりな少女は自らその一歩を踏み出せず、お城の尖塔の部屋で独りずっと尻込みし続けていた。
けれど。
こちらから一歩、彼女へと歩み寄りさえすれば。頑なで臆病なその誰かもきっと、その一歩を踏み出す勇気を絞り出す事が出来るかもしれない。
「うぁ、ぁ……ひぐっ、……わだじ……皆、を。……勝手に、見限って、た……のっ、に。信じられ、ながっだ……のにっ! ……それっでも、皆は、私を助げでぐれまずがぁ!?」
だってその少女はただ、誰かから嫌われるのが怖かっただけなのだから。
「ああ。アンタが勇気を出せば、きっと」
――全てを拒む壁が取り払われた今、少女の一歩を妨げる物などもう何処にも無かった。




