第四十話 VS.救国の聖女Ⅰ――不退転の拳
「――アンタの声がようやく聞こえるよ、クリアスティーナ。目の前の現実に蓋をして、ただただ変わる事から逃げ続けてきたアンタの怯える声が」
突き付けたその言葉に、クリアスティーナの肩が僅かに震えた。
これまでの二度の邂逅の中で、どんな言葉を投げかけようと凪いだ水面のように微動だにしなかった彼女の心が揺れ動いているのを、勇麻は確かに感じ取っていた。
これまでの絶壁のようなイメージは、もう彼女には存在しない。
取っ掛かりのない拒絶の壁ではない、彼女は間違いなく勇麻と同じ一人の人間だ。
傷つけば血を流し、悲しみに涙を流す。温かな血の通った人間だ。絶対に勝てないような怪物などでは断じてないと断言できる。
ここまでクリアスティーナに対する認識が変わったのには確かに理由がある。だが、別段クリアスティーナが弱くなった訳でもなければ、勇麻が強くなった訳でもない。
……今までと今回とで明確な違いはただ一つ。
勇麻と対峙したクリアスティーナ=ベイ=ローラレイが神の力の出力点である彼女の分身の『窓口』であるか、彼女本人であるかどうかだ。
(クリアスティーナの『窓口』と対峙した時は全く感じ取れなかった彼女の感情が、今なら勇気の拳越しに確かに伝わってくる。彼女の声が確かに聞こえる……!)
勇気の拳は勇麻の心理状態に呼応して五感を含む身体能力を増減させる神の力だ。
だがクライム=ロットハート曰く、この力は精神感応系統の神の力なのだと言う。
そして勇麻自身、リコリスとの戦いを経てそれをはっきりと自覚した。
勇気の拳は、勇麻自身と、対峙する相手の心理状態を読み取る力を持っている。
赤黒いオーラが明滅する防御殺しの一撃は、勇気の拳が相手の逃げの意志や守りに入ろうとする弱気な心に反応することで発動する。
そしてそれは、相手が神の子供達だろうと何だろうと、それが心を持つ存在ならば干渉レベルに関係なく作用する強制的な代物だ。
逆に言えば、心を持たない相手に対して勇気の拳はその力を十全に発揮する事はできないのだ。
クリアスティーナの『窓口』とは要するに実体のない虚像のような物。
見た目だけを取り繕った、干渉力の塊に過ぎない。当然、心などというものも持ち合わせていない。
勇麻が彼女に感じた絶壁のような絶望感は、心を持たないが故。感情の一切が読み取れなかった故の得体のしれない恐ろしさから来る物だった。
だが今は違う。
目の前にいるのは紛れもないクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ本人。
彼女と対峙して抱くのは僅かな恐怖と憐み。彼女の心が、まるで幽霊の影に怯える幼子のようで、それが勇麻にどうしても放っておく事を許さない。
……未知の楽園中心区へと向かう車内で、ダニエラ=フィーゲルは語っていた。
『「救国の聖女」……否、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、加害者であり被害者だ。それでいて全てを終わらせた英雄でもある』
『これからアタシが語る事は、その全てが予測でしかない。九十九パーセント正しいと言えるが、所詮一〇〇には……完璧には届かない。過去視に似た予測想像妄想の産物にすぎないさね』
彼女はそう前置きしたうえで、勇麻と和葉に話し聞かせた。
『白衣の悪魔の遺産』と呼称され、後に『逃亡者の集い旗』を名乗る彼らの地獄のような日々と、その結末を。その決別を。
……そう。三年前のあの日、神の子供達へと覚醒した『救国の聖女』によって未知の楽園から神の能力者以外の人間は消滅した。それは悪意を持って神の能力者を虐げ、モルモットのように扱ってきた研究者だけでなく、神の能力者の家族としてこの街で暮らしていた罪なき一般の人間も同様だった。
そしてそれは、ダニエラの夫にも等しく牙を剥いたそうだ。
過去を語るダニエラはどこか寂しげで、普通の人間だった夫を『聖女』に奪われた復讐者というより、期待を裏切られ続ける待ち人のような背中をしていた。
『あの小娘の時間は三年前のあの日で止まったまま……いいや、止まったままにしておきたいのさ。この街の皆がそうだ。アタシらは誰一人として、前に進んでなんかいない。目を逸らして逃げ続けたアタシらにあの娘を責める資格なんざありゃしないさね。けど、それでも。人間ってのは我儘で自己中で複雑な生き物だからね、アタシはどうしても許せないのさ』
ダニエラは彼女の何を許せないのか、一言も語りはしなかった。
でも……。
「クリアスティーナ、アンタの過去の話を聞いたよ」
あの地獄のような日々に掛ける言葉など、東条勇麻は持ち得ない。
知ったような慰めや同情の言葉など、当事者からしてみれば何よりも酷い侮辱に他ならないだろう。
だから勇麻から言えるのはただ一つだけ。
「俺みたいな部外者からじゃ何を言われても腹が立つだろうけど、それでも一つだけ言いたい事がある」
全てを一人で背負ったクリアスティーナ=ベイ=ローラレイも、
全てを救った少女を讃え、支え、伝えようとした『逃亡者の集い旗』も、
全てを捧げて愛する人を殺そうとした不器用な『悪魔』も、何もかも。
「アンタ、馬鹿じゃねえのか?」
どいつもこいつも馬鹿ばかり。
東条勇麻は、何の躊躇いもなく最大の被害者であり加害者でもある少女へと、そう吐き捨てた。
その一言に、地に倒れて痛みに震えていたクリアスティーナがぐるりと振り向いた。
「……私が馬鹿、ですか……?」
震える膝を地に突き、擦りむいた掌を地に打ちつけるようにして身体を支え、口の端から血を流した少女が立ち上がる。
勇麻へと問いかけるその声は、気が狂わんばかりの怒りと嫉妬に震えていた。
だが東条勇麻は。
「ああ。大馬鹿野郎だよ、アンタは」
彼女の怒りを買うと分かってなお、そう断言する。
クリアスティーナの肩が激しい激情に震えるのが分かる。
彼女は何の関わりもない部外者に過去を踏みにじられた事に怒り、なに不自由ない暮らしを送ってきたであろう天界の箱庭の神の能力者を嫉妬に羨み、そして何も知らない男に己の選択を馬鹿にされた事に殺意を覚えている。
けれどそれだけじゃない。
きっと今のクリアスティーナは、数えきれないほどの人間らしい煩雑で矛盾した感情がその胸中で渦巻いているハズだ。
目の前の『招待客』という宿敵に抱く想いは、両の手で数えられるような簡単な物ではない。
全てをくだらない、興味がない、どうでもいいと吐き捨てる彼女は、その実己の感情に囚われている。執着している。
当然だ。
それは当然の事なのだ。誰かが誰かへと抱く感情は、人が考えているよりも複雑で雑多にごった返していて、自己矛盾を抱えながらも絡み合っている物なのだから。
好意に嫌悪を。悪意に敬意を。愛に憎悪を。恐怖に勇気を。相反する感情すら一緒くたに抱きかかえて生きていけるのが人間という生き物だ。
だから、相手の感情を一つに決めつけるなんて、愚かで馬鹿な真似だとしか言いようがない。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは根本的な部分で間違えてしまっている。
「……確かに私は大馬鹿でしたよ、ええ。この世界がくだらない物だなんて事、当の昔に分かっていたはずなのに。どうして気が付いてしまったのでしょうね。真実なんて誰も幸せにしない。変化なんて誰も望んでいない。私が気が付かなければ、私達はあの閉じた幸福の中で幸せに暮らし続ける事ができたのに――」
「そうじゃねえよ、馬鹿」
乱暴に吐き捨て、そう断じる。驚いたように目を見開く『聖女』に、勇麻は躊躇いもなく現実を叩き付けた。
「管理された幸福なんざ、アンタが真相に気が付かなくてもいつか崩壊してただろ。俺が言いたいのはそういう事じゃねえ。アンタ、まだ気が付かないのか?」
小馬鹿にするというよりもいっそ憐れむような勇麻の視線に、驚きに見開いていた『聖女』の瞳が音もなく細まっていく。
「……結局今も昔も同じですね。そうやって全てを悟ったような顔で、貴方がたのような人は『正しさ』という大義名分を掲げ『真実』などという毒を私達に吹き込んでいく。私は世界に興味なんてない。この世の全てがどうでもいいし、くだらない。真実だって欲しくない。だから目障りなのです、貴方のような存在が。何かを変えようとする、変えてしまう人が。平穏すらも打ち砕く事を、正義だと信じてやまない愚か者が。――何も知らない癖に、知ったような口を聞くなッ!」
横暴な東条勇麻に、クリアスティーナの感情が爆発した。
低く唸るような叫びの直後、音もなく『聖女』の身体が虚空へと消える。
否、消えたように錯覚させられる。
発生した現象は空間転移。だが、彼女のソレは単なる空間転移系の神の能力者のソレとは根本的な方式が異なる。
己の存在座標の書き換え。移動や転移をする訳ではないが故、彼女の転移にはゼロコンマ一秒のタイムラグさえ存在しない。
空間と次元を司る『支配する者』をその身に宿すクリアスティーナにとって、空間とは己が意志で自由自在に絵を描けるキャンバスなのだ。
一瞬で勇麻の背後に“居た”事実を作り上げた『聖女』が、東条勇麻を縦真っ二つに両断するような軌道でその腕を振るう。
放たれたのは空間を捻じ曲げ切断する、歪な斬撃。そのひずみに巻き込まれれば身体を強引に捩じ切られる致死の一撃だ。
だが勇麻とてここまで伊達に強敵との死闘を繰り広げてきた訳ではない。
まるで空を飛び跳ねるように走る者、光の速さで駆ける者、それこそ今のクリアスティーナのように空間を跳躍する者。
様々な強敵と戦って積み上げてきた経験がある。
ましてやクリアスティーナは明らかに戦い慣れていない。
隠す気もない分かりやすい視線や殺気、勇気の拳が読み取る感情の波。それらから次の一手を予想する事は決して不可能な事ではなかった。
「――ォオオオオオッ!!?」
背後へと振り向きながら、振り回すように放った裏拳が歪んだ空間――『聖女』の放つ歪な斬撃へと触れる。
瞬間、勇気の拳が起動。攻撃を放った敵対者の弱気な感情を読み取り――赤黒いオーラが明滅した。
バギィンッ! ガラス細工が砕けるような盛大な音と共に、空間の歪みが破壊される。
あからさまに狼狽えるクリアスティーナ目掛け、勇麻はそのまま左足を一歩踏み出す。その一歩を合図に、東条勇麻の身体が弾丸のように低く疾く地を駆ける。
「目を逸らしたままじゃ、俺にすら勝てねえぞ! 馬鹿野郎!」
「っ、」
『聖女』はたまらず後方へと転移。勇麻との間合いを急速に広げ、拳一つで己に追いすがる敵へとその掌を翳す。
近寄るなと、そこから先へ踏み込むなと拒絶するかのように。
……何かに怯える子供のように。
「……もう結構です。私では貴方に勝てない? それこそ現実を見ていない妄言です。ですがそれも構いません。見たくもない物から目を逸らすのは人の防衛本能。私としても、もう貴方の顔はもう見たくもない!」
翳した掌の先、『聖女』の干渉力が結晶のように空間上で凝固する。
普段は陽炎のように揺らめく無色透明の実体の曖昧な次元の盾を、聖女は空間に押しとどめるように結晶化。
最高硬度を持つ物質として世界に顕現させる。
それが一つではない。形に大きさまで多岐にわたる多量の『次元結晶』とでも呼ぶべき物質が、瞬時に聖女の頭上を埋め尽くす。
神の子供達の莫大な干渉力によって何重にも折り重ねられたその無色透明の壁が、三百六十度全方位から勇麻目掛けて砲弾の如く叩き付けられた。
「がっぁあ、ッ!?」
破壊不可能の盾は、言わばダイヤモンド以上の硬度を誇る鈍器になる。
正面から迫る盾だけならともかく、周囲をぐるりと囲まれてしまえばどうしようもない。勇麻は標準的な人間らしく拳が二つに足が二本しか生えていないのだ。その全てに同時に対処する事は土台不可能だ。
「死んでください東条勇麻。私の安寧の為に。私の停滞の為に。不変を揺るがす貴方は、くだらないこの世界にすら必要のない不用品です!」
疑似重力攻撃や空間圧搾のような概念的な攻撃が拳一つで砕かれるというのならば、いっそ物理的に蹂躙してしまえばいい。
聖女の宣告と共に攻撃はさらに激しさを増す。
鈍器で身体中を殴られる原始的で野蛮な痛みに、身体が悲鳴をあげる。身体中の骨が砕けるようだ。痛みに、目の奥がちかちかと不規則に瞬いている。
だがそれでも、東条勇麻の勇気の拳は破壊不能の絶対の盾を、ただ一撃の元に粉砕する。
正面の障壁を拳で撃ち抜く――後頭部をハンマーで殴られるような重たい衝撃が襲う。
腰を捻り放つ回し蹴りが、瓦割りのように連続して無色透明の障壁を木端な破片へと変える――がら空きになったどてっ腹に障壁がめり込む。
目前に迫った壁に頭突きをお見舞いする――背骨が折れるんじゃないかと疑うような一撃が、背後から浴びせられる。
容赦のない殴打の嵐に、意識を手放しそうになる。
でも折れない。
どれだけボロボロになっても東条勇麻の足は一歩一歩前へ前へと進んでいく。
「何故なのです……」
知らず、『聖女』の声が震える。
「俺を殺せないのがそんなに不思議か、『聖女様』」
時折混ぜる『聖女』の本命、空間圧搾や、空間ごと捩じ切る歪な斬撃、疑似重力による押し潰し、その全てを少年は拳の一振りでぶち壊し、蹴りの一つで一蹴する。干渉レベルSオーバーを誇る絶対無比の攻撃の全てが赤黒いオーラの瞬きと共にただの一撃で木端微塵に破壊される。
折れない。
どれだけダメージを与えても決定打を殺される。
二度も殺し損ね、そして三度目の今。目の前で神の子供達である自分に抗い逆らい続けている少年にクリアスティーナは戸惑い、焦燥を浮かべていた。
それすらも、勇気の拳は機敏に感じ取る。
本当の意味で戦おうとしない臆病者へ、引導を突き付けてやる為に、東条勇麻の拳が熱く燃え上がる。
けれどクリアスティーナには、その燃え上がる瞳の意味が分からない。
東条勇麻の生き方を理解する事がどうしてもできない。
「……何故こんなにもボロボロになって、二度も殺されかけて、それでも立ち向かえる!? 恐怖はないのですか? 貴方はどうして、そんなにも簡単に絶望を覆すのです!!」
身体に数多の攻撃を受けながら、勇麻が不敵に微笑む。
握った拳から自身の血が滴り、笑う瞳は左目が腫れあがり視界を塞いでいる。
だがそれでも、東条勇麻は笑っていた。
「……その目つきが、不愉快だと言っているのですッ!」
聖女が天へと掲げた掌を、握りつぶすように閉じる。
すると聖女の腕の動きと同調するように勇麻の頭上へと集まっていた大小様々の『次元結晶』が、勢いよく内側へ閉じるように勇麻へと殺到する。
それは全方位から迫るギロチンだ。
この世で最高の硬度を誇る壁だ、切断できない物など存在しない。勢いよく殺到した障壁によって東条勇麻の身体は瞬時にみじん切りになるだろう。
しかし、
「だっ、らぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
パズルのピースを一つだけ砕くように。
積み木の城から積み木を一つ抜き取り崩壊させるように。
躊躇う事無く繰り出された右のストレートが、死角の存在しない全方位のギロチンにたった一つ致命的な穴を生み出す。
拳を振るう勢いのまま前傾姿勢に倒れ転がり込み、僅かに生じた安全地帯を潜り抜けて東条勇麻は必殺の刃から九死に一生を得る。
転がった勢いのままくるりと回って立ち上がり、間髪入れずに聖女との距離を詰めるべく勇麻の足が地面を蹴る。
「怖くないのかだって? そんなの怖いに決まってるだろ! で、だったらどうすんだよ。アンタみたいに、目を塞いで尻尾巻いて逃げ出せってか!? それで解決すんなら俺だってそうしてるさ。で、アンタは現実から逃げ続けて、何か良い事あったかよ」
「……!」
別に勇麻は逃げる事を悪だと言いたい訳ではない。
誰しも人は完璧ではない。強さがあれば誰にだって弱さもある。嫌な事から、怖い事から、苦手な事から逃げたくなるのもまた人間だ。
逃げる事で解決する問題があるのならば、それも一つの選択だと言えるだろう。傷つかずに解決できる事を、わざわざ心も体も傷つけて解決するのでは損をするだけだ。
誰だって傷つかない方が良いに決まっている。
だから逃げる事そのものを決して否定したりはしない。
けれど人生には、ただ逃げているだけではどうにもならない事が山ほどあるという事もまた事実なのだ。
向き合わなければならない時。立ち向かわねばならない事。そういった分水嶺は、確かに存在する。
そしてそうした人生の分かれ道で逃げ続ける事を許容してくれる程、世界は優しくなんてない。
いつかいつの日か、傷ついてでも必ず立ち向かわねばならない逆境という物はやって来る。
だから勇麻は逃げずに抗い続けるのだ。
今この瞬間が、立ち向かわねば永遠に後悔する分水嶺であると分かっているから。
何度敗北を積み重ねようと、どれだけ失敗を積み上げようと、最後の最後まで決して諦めはしない。
だって、諦めるという事は逃げるという事で。逃げるという事は、敗北を認めるという事だ。
それは嫌だ。
東条勇麻は英雄に成りたかった。
南雲龍也のように、笑顔のままに人々を救うような、そんな存在にどうしようもなく憧れた。
それは何故か。
だって、誰一人欠けることなく彼に救われた人達は皆――嬉しそうな顔をして、最後には笑っていたから。
皆が皆幸せそうで、「良かったね」と仲良く手を取り合っていた。嬉しそうに喜びを分かち合っていた。そんな世界が、まだ幼い少年にも余りにも眩しく思えたから。
……勇麻は己の大切な人達をもう二度と失いたくない。それを許容してしまうという事は、生きる事の放棄に等しい。
それは死ぬより惨めで、死ぬより苦しい結末だ。
だから逃げたくない。
立ち向かいたい。
諦めたくない。
例え抗う事がどれほど苦しくても、負けを受け入れた世界の方がきっと息苦しくて生き苦しいから。
どれほど大きな絶望が相手でも、東条勇麻はそれを乗り越えようと勇気を絞り出す。
それだけが、自分のもつ唯一の武器で。勝利へ繋がる唯一の道だと知っているから。
「俺はアンタから逃げねえ! クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。アンタという恐怖を乗り越えて、この敗北を覆すッ!」
勇気の拳によって増幅された脚力で、東条勇麻が弾丸のように地を駆ける。
瞠目する『聖女』は自分目掛けて一直線にひた走る少年を、無慈悲に空間ごと握りつぶそうとする。
だが捉えられない。
一秒後に通過するだろうと聖女が予測した地点を、けれど勇麻は〇.九秒後に走り抜ける。さらに少し速く。もう一歩だけ先へ。前へ。少年は『聖女』の予測を裏切り続け、結果として、全てを握りつぶす空間圧搾は誰もいない空間を蹂躙する。僅か一秒に満たない時間の中、東条勇麻は強敵との差を埋めるように成長し続ける。その僅かな誤差が、諦めない心と絶え間ない歩みが、ちっぽけな少年に値千金の勝利を引き寄せる。
僅か三歩のうちに『聖女』との距離を零まで詰めた東条勇麻は、目の前の馬鹿野郎に勝利を宣言するようにこう告げた。
「アリシアは返して貰うぞ! この大馬鹿野郎ッ!」
振り抜かれた拳に対して、反射的に『次元障壁』を張った『救国の聖女』。
赤黒いオーラを纏った拳が無色透明な陽炎のような揺らぎに突き刺さり、粉々になった『次元障壁』ごと少女の華奢な身体を豪快に殴り飛ばした。
――世界を滅ぼす悪魔の一撃さえも軽々と受け止めてみせたその絶対防御は、少年の拳一つで粉々に打ち砕かれた。




