第三十八話 不屈の背中Ⅱ――きっと今度は
……懐かしい空気がする。
びりびりと肌が痺れるような、嫌でも背筋を伸ばさずにはいられない血と鉄さびに塗れた不穏な空気。
命と命のやり取りを行う殺気立った戦場の空気だ。
もっとも、この空気が好きな訳でも、戦場に戻って来たいと願っていた訳でもない。
ただ少年の求める物は確かに此処にあった。
それだけの話だ。
少年――東条勇麻は、求めていた者を視線の先に見つけて、遅刻を謝る子供のように言う。
「――悪い、ディアベラス。少し、遅れた」
瓦礫に凭れかかるドレッドヘア―にサングラスを掛けた褐色の青年は、最初、呆けたように背後の勇麻をじっと見て、
「……遅れるにも限度ってモンがあるだろぉがぁ、馬鹿野郎……ッ」
僅かに震える声で、呻くようにそう毒づいたのだった。
その声に勇麻の口元が笑みを形作るように微かに歪む。
……なんとか間に合った。ディアベラスの特徴的な巻き舌を聞いてこんなにも安堵する時が来るとは思わなかったし、まさか本人の姿を目にする機会がこんな形で訪れるとも思っていなかったが、それでもどうにか、取り返しのつかない大遅刻にはならなかったらしい。
その事を、何よりも安堵する。
そして、
「あり得ない……。こんな事、あっていいはずがない……」
戦場を支配する二人の怪物のもう片割れ。
作り物のような禍々しい赤い瞳に、己の背丈より長いウェーブブロンドを着物の帯のように腰に巻いた人形のような美少女が、勇麻の顔を見てその怒りを露わにしていた。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。
悪夢に出て来そうな程に、その神の子供達の恐怖は勇麻の本能にまで深々と刻まれている。
なにせ一度ならず二度も殺されかけた相手だ。こうして対峙しているだけで、恐怖が身体の芯まで浸透しているのが分かる。無意識に震える身体を拳で殴りつけて奮い立たせ、勇麻は真っ正面から『救国の聖女』と向かい合う。
声が震えてしまわないよう、あくまで気丈に。勇敢に。
心の奥底から湧き上がる恐怖を乗り越える為、勇気を捻り出す。
「よう、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。また会ったな」
「……貴方は本当に何なのですか? 不死身の神の能力者? それとも私の心が生み出した亡霊? 貴方の心臓は私が握り潰しました。命の鼓動は確かに止まり、貴方は生命活動を停止したはず。それが誰の許可を得て、三度私の前に立ち塞がるのです」
そう。東条勇麻は確かにクリアスティーナ=ベイ=ローラレイに殺された。
殺した張本人が言うのだから、それはきっと間違いないのだろう。
ならばこの状況は、一体何の間違いなのか。
「俺だってこう何度もアンタみたいなヤツと顔を合わせたくはねえよ。でも、アンタは俺の大切な物を奪おうとする。だったら仕方ねえだろ。俺がアンタの前に立ち塞がるのに、これ以上の理由は必要ねえよ。――アリシアは返して貰う」
「……神門審判のアリシア、それが貴方の目的でしたね。他人の為にむざむざ命を捨てようとするその精神、私には理解はできませんがそれはきっと尊い物なのでしょう」
「他人じゃねえよ、仲間で家族だ。あいつは東条家の居候だからな、勝手に連れて行かれちゃ困るんだよ。家事当番を見直さなきゃならなくなるだろ?」
言葉の応酬に意味はない。
二人は決して相容れない事を、二度の邂逅で既に理解している。
それでも言葉をぶつけ合うのは、互いに一言、言っておかねば我慢できぬ事があるからか。
「何にせよ、生きているというのならば私は貴方の息の根を次こそ止めなければなりません」
「そうかよ。でも、ここで負けたら死ぬって言うなら、意地でも勝つしかないだろ」
ぶらりと棒立ちのままの『聖女』と、全身を切っ先のように鋭く研ぎ澄まし、気を張りつめて拳を構えるちっぽけな少年とが対峙する。
そのあまりにも無謀な光景を前にボロボロのディアベラスが声をあげた。
「……よ、せ。東条勇麻、お前一人じゃ……。こいつ、は俺に、任せて……レイン、ハートと。スピカを連れて……逃げ、ろ……ッ!」
「大丈夫、あいつらなら心配ねえ。俺よりもっと頼りがいのあるヤツらが向かってるからな。きっと無事だ」
「馬鹿、野郎がぁ。……そういう意味じゃ、ねえ、……だろぉがぁ!」
ディアベラスの言葉がこんな状況だと言うのに単純に嬉しかった。
自分だってボロボロの満身創痍の癖に、勇麻の身を気遣ってくれる温かさが、勇麻が強敵に立ち向かう力になる。
分っている。目の前に立つのは本来逆立ちしたって勝てないような化け物。
測定領域外の干渉レベルを誇るSオーバー、神の子供達の一人、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。
本来ならば、脇目も振らずにここから逃げ出すべき相手なのだろう。
「……失礼ですが、彼の言う通りだと思いますよ。貴方がどんな手段をもってして死の底から蘇ったのか知りませんが、例え何度蘇ろうとも私と貴方との根本的な実力差は埋まりません。……もっとシンプルに問い直しましょうか。――本気で勝てるとお思いですか?」
片や神の子供達として最強の力を有する『聖女』。片や単なる一『神の能力者』にすぎない学生。
勝敗など誰の目にも明らか。わざわざ戦うまでもなく、数秒後に無惨に命を散らせる少年の姿が目に浮かぶ。
「くだらない質問をするんだな、アンタ」
ならばこの戦いは無駄なのか。誰かの為に戦いたいと願う感情は無価値か。諦めないとは愚かで無為な行為なのか。
その答えは――
「アンタは勝てると思ったから戦ってんのか? 俺はそうじゃない。負けられないから、勝ち取りたいモノがあるから戦うんだろうが」
――固く握りしめたその右拳に詰まっている。
「……そうですか。そこまで死にたいのなら仕方がありませんね。すみませんが手加減はできません。心臓を潰してなお蘇ると言うのなら、その肉体をミンチにでもするしかありませんので」
「だったらこっちも先に謝っておく。……これだけ俺の仲間を痛い目に遭わせてくれたんだ。手加減なんかするつもりは微塵もねえ、そのお高くとまった鼻っ柱ブン殴ってへし折ってやるから覚悟しろ」
勇麻の戯言のような宣言を『聖女』は白い目で受け流した。
そんな絵空事のような妄想が現実になる訳がない。いかに不変を変革せしめる『招待客』とはいえ、たかが神の能力者一人、クリアスティーナの敵ではない。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイはまず間違いなく自分以外の神の能力者を全て格下として認識している。
それは確かに事実なのだろう。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイに勝てる神の能力者など、この未知の楽園には存在しない。
だからこその最強。
だからこそ彼女は未知の楽園第一位の神の子供達として君臨しているのだから。
ただ一つ、忘れてはならない事がある。
そんな順不同のランキングの頂点に君臨する絶対的な最強を打倒すのは、いつだって彗星の如く現れる無名の挑戦者なのだという事を。
……さあ、舞台は整った。
挑み続ける者の強さというものを、不変の女王へ教えてやろう。
「来いよ、クリアスティーナ」
握りしめた拳が、燃えるようだ。
恐怖はある。
怯えもする。
身体は死の予感に震えている。
でも、それら全てをねじ伏せようとする熱い想いが、東条勇麻を突き動かすのだ。
これまでのように、そしてきっとこれからも。恐怖を乗り越えようとするその勇気が、少年の最大にして唯一無二の武器なのだから。
「いい加減アンタもうんざりしてんだろ。これが三度目の正直ってヤツだ。今度こそ、決着をつけようぜ」
「……貴方のようなどうでもいいモノにこれと言って特別な感情など抱いていませんが、いいでしょう。お望みとあらば、すぐにでも潰してさしあげますよ」
聖女の発する干渉力が、一段とその圧を増す。殺人的なその力に、後ろに下がりたいという臆病な衝動が顔を覗かせる。
目の前に立っているだけで脂汗が止まらない。
でも、戦える。
一度目や二度目のような絶望感は感じない。
全てを拒絶する絶壁のようだったクリアスティーナを打破する唯一の突破口が、今確かに見えている。
だって、彼女は――
「――うっ、ぐっっっ……ッ!!?」
その時、唐突に己の身体が地面へと深く沈んだような感覚を覚えた。
クリアスティーナが取った行動は実に単純だ。
聖女が何気なしにその場で腕を振るう。ただそれだけ。
華奢な二の腕がギロチンのように降り降ろされた瞬間、世界が勇麻を押しつぶそうと襲い掛かってきた。
空間を支配する聖女による疑似重力攻撃。莫大な圧をもって、文字通り東条勇麻を圧殺しようとする。
とてもじゃないがまともに立ってなどいられない。
圧力に内臓が悲鳴をあげ、早くも口から血が零れる。
地割れが走り、勇麻の半径一メートルの地面がその重圧に耐えきれず二メートル程陥没する。耐えきれず片膝を突き、食いしばった歯からは苦悶のうめき声があがる。
だが決して倒れない。
握った拳に力を籠めて、東条勇麻は抗い続ける。
……正直に言って死ぬほど苦しい。
この生を手放せば、東条勇麻はきっとこの苦痛から解放されて楽になれるのだろう。
そんな誘惑さえ鎌首をもたげている。
だがそんな愚行だけは絶対に犯さない。
東条勇麻はきっと一度死んだのだ。
それでも今こうして生き足掻いていられるのは、そんな勇麻を救ってくれた人がいたからだ。お前の歩みをもっと俺に見せてくれと、そう激励して貰ったからだ。
自分を死の底から救いだしてくれたあの人に、そんな無様を晒す訳にはいかなかった。
それが誰なのか、確証はない。
だが心当たりならある。
その声を、この身体は覚えている。
忘れるはずがない。
だって、彼はいつだって東条勇麻の憧れで、英雄だったのだから。
この世の誰もが忘れたって、東条勇麻だけは、きっとその声を忘れない。忘れることなんて、できやしない。
――龍也にぃ、きっとアンタは今も、俺の事を見ていてくれてんだろ。
立ち上がる事は不可能。だが、それでも意志の力だけで拳を動かす。地に倒れ伏せる事だけは許さない。
勇気の拳が支配する者の圧倒的な干渉力に抗おうと熱く燃え上がる。
負けられない。
負けたくない。
理由がある。想いがある。意地がある。
勇麻の胸の裡で燃え上がるその感情が、東条勇麻と勇気の拳を際限なく加速させる。
勇気の拳が、そのギアを上げる。
回転率が、あがる。
――心配かけたけど、もう大丈夫だ。アンタみたいに上手くはできねえけど、きっと……
……夢のような微睡の中、確かに語りかけてきたあの声を思い出す。
それは勇麻の幼い記憶を呼び覚ます、懐かしい声。
慕い、憧れ、壊し、そして紛い物として演じ続けたとある男の声だ。
「――ォ、」
熱い。
感情が熱く燃え滾り、東条勇麻を突き動かす。
勇気が、怒りが、意地が、誇りが、闘争心が、東条勇麻の中で炸裂するようにはじけて、勇気の拳を燃え上がらせる燃料と成る。
勇気の拳が、呼応するように吠える。
頭ごなしに押さえつけるような重圧に抗い、握った拳がゆっくりと、でも確かに動く。
「ォ、ォォオオ……」
血管が盛り上がり、右腕の筋肉が一回り膨れ上がるように膨張して、圧縮されるように元の大きさへ収縮する。
口からさらに血を吐き出しながら、それでも抗う事だけは絶対にやめない。
見えない壁を、力技で押しのける。
鼻で笑われるような時代錯誤の精神論で、神様気取りの最強を打ち砕く。
「……ォオオオオオオっ、オオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!?」
大気が震える。
喉が枯れる程に叫び、千切れた血管から血が噴き出す。そうして臨界点を越えたその瞬間――堰が切れたかのように右の拳が勢いよく解き放たれた。
風圧さえ伴って勢いよく頭上へ振り抜かれた勇気の拳が、世界ごと東条勇麻を押しつぶそうとする聖女の干渉力へと衝突して――
――瞬間赤黒いオーラが瞬き、ガラスが割れるような甲高い音と共に、木端微塵に砕け散った。
「……っ!?」
絶句する聖女と、サングラスの奥で目を見開くディアベラス。
それら全てを置き去りに、一人の少年は己を救った兄へと想いを綴る。
――龍也にぃ、俺はアンタみたいに上手くはできねえけど、きっと今度は――
自らを押し潰そうとする重力の枷をその手でぶち壊した東条勇麻は飛ぶように疾く戦場を駆け抜けて、驚く二人の神の子供達を置き去りにその距離を詰める。
そして。
「ぶっ飛べ! 『救国の聖女』ォォオオオッ!!」
引き絞り全力で振り抜いた拳が、呆けたように固まるクリアスティーナ=ベイ=ローラレイの左頬を痛烈に撃ち抜いた。
――大切な物をこの手で救ってみせるから。
ゆっくりと流れる世界の中、少年を救った声は果たして何と言っていたか。
勇麻はどこか現実味に欠ける痛みを右の拳に感じながら、そのことを思い出していた。
☆ ☆ ☆ ☆
穴が開いたような喪失感と。
虚無に飲み込まれかけるその境界線で。
夢のような微睡みの中、少年はその言葉を聞いた――
――おいおい、嘘だろ。まさか本当に死んだのか?
……あー、死んじまったみたいだな。
まあ無理もないよ。心臓を握り潰されたら“人間”なんて誰だって死ぬさ。
それにしても、いくら『神の子供達』が相手とはいえ、酷い負け方をしたものだな、勇麻。
器としても中身としても中途半端で未完成とは言え、『希望の拳』の本来のスペックならそう簡単に負ける相手でも無いだろうに……。
さて、まあ今更何を言ったところで死んでしまった事実は揺るがない。往々にして、人生は取り返しがつかず、命なんて物はその最たる物だ。
正義は常に悪に勝つ物だけれど。
負けるのが常に悪だけとは限らない。
今回の件が良い例だ。
あの『神の子供達』の少女は決して悪じゃない。勿論、彼女と戦った東条勇麻も。
……いつかこんな話をしたはずだ。
人には人の数だけの主義主張に考え方、好悪、正誤、善悪、正義、幸不幸がある。
相手の考えを変える事は難しいし、自分の考えを捻じ曲げるのも耐えがたい。互いの主張を理解することはできても、真の意味で賛同し許容する事は決してできない。それが人間って生き物だ。
だから人々は争うし、世界に正義と悪が生まれる。
相手に自分を理解してもらう事さえ難しいのに、個人の持つ一つの主義主張へ全を束ねるなど土台不可能だ。
折り合いをつける為には、妥協点を探すか、多少手荒で強引な手段に訴えるしかない。
今回も、ようはそういうお話。
東条勇麻とクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。
二つの正義がぶつかり合い、そして片方が敗北した。
それだけの話だよ。
そんな訳で東条勇麻の英雄譚はこれにて終幕。
英雄に憧れた少年の来世にご期待ください――
――とはいかないんだよな、これが。
東条勇麻はこの世界の希望だ。俺が託した希望を抱いたまま死ぬ事は絶対に許されない。
何故ならそれは、世界の終わりを意味しているからだ。
東条勇麻を失えば、世界は神へ対抗する手段を失う。それだけはあってはならない。困るんだよ。俺も、世界も。正義を愛する、正義が愛する善良な人々も。
こんなところで、希望の灯は潰えてはならないんだ。
絶望ある限り、そこにお前という希望は寄り添い続けなければならない。
夜の闇に月が添い遂げるように。
太陽が恵みと日照りをもたらす表裏一体の存在であるように。
正義の為の悪、みたいな言葉は俺は嫌いだけど、それもまた一つの事実を表している事に違いはないからね。
もっとも、いずれ悪はこの地上から塵も残さず消滅するべきだと俺は考えているけど。
話が少し逸れたな……。
何が言いたいかと言えばとどのつまり、東条勇麻がここで死ぬ事を俺は許さないという事だ。
だから仕方がない。
貯金はいざと言う時切り崩す為にある物だ。
奇操令示との戦いやそれ以前の俺の戦い……この二十五年あまりで地道に溜め込んできた『憎悪』を今ここでパーッと豪勢に使い切るとしよう。
なに、脳死する直前ならどうとでもなるさ。
元よりこういう事態は想定していた。
というより、これはこれで俺としては都合がいいんだ。
『再臨』、『再誕』、『死からの復活』、『特異体』共との最終決戦前に得ておく『記号』としてはどれもこれ以上ない代物だ。
最終的にどちらに転ぶにせよ、取得しておいて損はない『属性』を得られる事になる。
俺は今回で溜まった憎悪を使い切る事になるだろうから、しばらく表には出られなくなるだろう。
だからこんなチート紛いの裏ワザが出来るのも今回限りって訳だ。
だがまあ、ここ最近の勇麻を見る限り特に心配はしていないさ。
なにせ今回だって、俺に頼ることなく一人で立ち上がる事が出来たんだから。
……ああ、あれだけボロクソに言ってはいたものの、まだ期待はしてるんだよ。これでも一応、あれの兄を名乗っていた者だからね。
それに俺は正義を愛する者だ。勇麻がそれを成そうとする限り、いつまでも俺は勇麻の味方だよ。
――さて、まずは心臓の再生から始めるか。
悪しき者を憎悪し打ち滅ぼし善なる者を愛し癒すこの右腕を久しぶりに振るう時が来たって訳だ。
……腕どころか身体がないからいまいち締まらないけどな――
――意識が再構築されるように、水底から自分という欠片が次々と浮上し融合する。
その際に足りないパーツがあるような気がしてどうにも不安な気持ちを覚える。でもそれが何なのかは分からない。理由を考えようとするも頭は重く、水を吸ったスポンジみたいに働かない。それでも確かに分かる事を数えるように、心臓は鼓動を刻み続けていた。
「……、」
……死んだように眠った次の朝というのは、寝起きも良くないのが常である。
泥の中にずぶずぶと沈み込むような、どこか背徳的な快感に身を任せて、気が付けば昼を回っていたりする。
怠惰な惰眠を貪った頭は、正気を失ったかのように不鮮明。思考はまとまらず、意味のない言葉が口から漏れる。
自分が誰でここはどこで、自己も場所も何もかもが判別の付かない特異な空白が生まれる。
それはきっと夢と現実の狭間。曖昧な境界線に立つ時、人は今まで見ていた夢の景色と現実の世界を同時に平行して認識する。自分がどちら側の住人なのか、一瞬分からなくなる。
だからきっと、人は夢を忘れてしまうのだ。
自らの存在を現実の世界の住人であると肯定する為に。記憶に残る夢の残滓は、それでも幻のようにぼやけて歪んで、それが虚像であった事を理解させる。
だから。時系列さえあやふやな中ではっきり鮮明に聞こえたその言葉は、夢のようで夢ではない何か、なのかも知れない。
(……あの声、どこかで――)
少年――東条勇麻は――妙に重たい目蓋を開く。
人工的な白い光に目を細め、ピンボケしたカメラのように世界が歪んだ。瞬きを幾度か繰り返し、焦点を合わせた視界に飛び込んで来たのは――見知らぬ白い天井だった。
辺りを見回す。
清潔ながら殺風景な部屋だ。医療器具やベッドが並んでいる事を鑑みるに、どこかの病院の病室の一つにいるのかも知れない。
壁に掛けられた時計が示すのは数字の五。時計の針は五時を指している。
けれどここは地下なのか部屋に窓はなく、これだけでは今が午前か午後なのかの判断がつかない。
「俺、は……」
……どうして眠っていたのだろう?
東条勇麻は寝起きの薄ぼんやりとした頭のまま、己の記憶を辿る。
勇麻は人質として捕えられた九ノ瀬和葉を助け出す為、単身逃亡者の集い旗へと殴り込みを掛けていたハズだ。
勇気の拳の身体強化で立ち塞がる敵をどうにか薙ぎ倒し、和葉とアリシアがいると思われる白亜の巨城へと辿り着く。
そこで二人を探していた勇麻は、和葉のものと思しき声を聞いて、声のする部屋へと踏み込んで――
――『聖女』に心臓を握りつぶされた。
「………………………………あれ? 俺、殺された、のか……?」
何度記憶を反芻しても、映像はその場面へたどり着き、そこで途切れている。
泣き叫び、東条くんを殺さないでと必死に懇願する和葉と、涙を流して絶望に暮れる和葉の顔を見て、場違いな心配を浮かべる死人。
そして色鮮やかな己の臓物を、己の目の前で握り潰されるという奇妙な光景。
間違いない。
東条勇麻は死んだはずだ。胸に大穴が開き、心臓を握りつぶされてなお生きている人間などいるハズがない。
だが……。
「塞がってる……?」
ベッドの中で上体を起こして胸元に手をあてる。聖女によってこじ開けられたはずの胸の穴は、軽い火傷のような跡を僅かに残して綺麗に塞がっていた。手を当てた胸からは、確かな心臓の鼓動が響いてくる。
傷が塞がっているどころか、握りつぶされたはずの心臓までもが当たり前のようにそこにあった。
だが、あり得るのか?
握りつぶされた心臓も、身体に空いた穴も。あの光景は全てが夢だったと言うのか?
そんなハズは無い。
東条勇麻は、確かにクリアスティーナ=ベイ=ローラレイによって殺された。
ならばここにいる自分は、一体……。それに、夢のようにおぼろげなあの声は――
「――東条くんっ!!」
蹴破るような勢いで部屋のドアが開いたのはその時だった。
その侵入者は黒と白の混ざったの髪を靡かせて、凄い勢いでこちらに詰め寄ってくる。運動音痴をここでも発揮したその猫耳キャップは何もない所で躓き、転びそうになりながらも、勇麻のベッドへたどり着いた。
そして、
「げばっぼッッ!?!」
ベッドに寝そべる怪我人に、フライングボディプレスの要領で九ノ瀬和葉が跳びかかって来た。
何というかベッドに仰向けで寝そべる勇麻の下半身に馬乗りというか、お前スカートで足開いて跨るなよ色々当たってるよお尻が直接というかこれ布団越しじゃなかったら色々と大変な事になってるだろッ!!? という勇麻魂の叫びは、
「ばか。心配をかけ過ぎなのよ、あなたは……」
今にも掻き消えそうな少女のか細い声によって、口から飛び出す寸前に押しとどめられた。
「……ごめん」
勇麻の胸に顔を埋めて震える少女の肩を抱いて、勇麻はただそれだけを口にした。もっと他に言うべき事があったはずなのに、頭の悪い勇麻ではそれくらいしか言葉が見つからない。
勇麻の心臓が握りつぶされる寸前の少女の懇願する表情を、心が強く覚えている。
少年の死を悲しみ、嘆き、憤り、怒り、絶望した少女の感情を、その痛みを知っていたから。失う悲しみを与えたくないとあれほど思っていたのに、与えてしまったから。
そんな勇麻の心情を知ってか知らずか、少女は言う。
「……次、あんな風に私の前で殺されたらあなたを絶対に許さないわ」
「ああ、分ってる」
冷静に聞くとなんともおかしな会話をしていると、苦笑交じりの返答をした。
死にたくてもそう何度も死ねる物じゃないというのに、次があるという事が何だかおかしい。そもそも今の自分が生きているのか死んでいるのか。聖女によって一度は本当に殺されたのか。それすらも勇麻にはよく分からないのだ。
けれど。
「……でも、助けに来てくれて、嬉しかったわ。………………ありがとう」
ただ腕の中の少女の温もりはどうしようもない程に本物で、
耳元で小さく囁かれた言葉に籠る感情が、勇麻の言い知れぬ今の自身への不安のような物を溶かしていって、
そうしてようやく、失いたくない物を一つ、どうにか救い出す事ができたんだと。漠然とそれだけを理解した。
……ああ、そうだ。東条勇麻は生きている。九ノ瀬和葉がここに居る。今はその事実だけを噛み締めていればいい。
あと少しだけこの幸福な瞬間を堪能していたい。勇麻は今にも曖昧になってしまいそうな己以外の確かな何かに縋るように、温かな幸福を抱く腕に少しだけ力を込めた。
――和葉の跳躍の拍子に床に落ちた猫耳キャップだけが、抱き合う二人を静かに見つめていた。
☆ ☆ ☆ ☆
ほどなくして病室にダニエラ=フィーゲルが踏み込んで来て、勇麻は二重の驚きで心臓が再び止まるかと思った。
今のこの状況は心臓に悪い。勇麻自身は何もやましい事などしていないハズなのに、ベッドで寝ている勇麻のうえに馬乗りになっている九ノ瀬和葉というこのとびきりデンジャーな光景は、傍から見れば二人であんなことやこんな事をしてしまっているように誤解されかねないのだ。
何と言い訳を……否、この状況を説明しようか。今更ながらの周回遅れな思考の波に身を溺れさせていると、
「……ったく、ようやくお目覚めかと思えば平然とイチャコラしやがって。まったく、うちの娘もこんなののどこがそんなにいいやら……」
「よく分からないけど、何だか全力で否定させて欲しいんだけど……」
ぼそぼそとした呟きは細部まで聞き取れず、何を言っているのかよく分からないが、見事に誤解を喰らった挙げ句、ダニエラが何やら不穏な台詞を吐いているのだけは伝わってきた。
そしてこの状況から察するに、東条勇麻の命を救ってくれたのは盗賊団「虎の尻尾」の頭領を務めているこの女性という事になる。
だが、形だけとは言え『虎の尻尾』とは敵対関係と言っても過言ではない間柄だったはず。その頭領を務めている彼女が何故……?
「アンタが俺を助けてくれたのか……?」
勇麻の質問をダニエラはありふれたつまらん質問だと鼻で笑って一蹴した。
「ま、そういう事になるさね。と言ってもアタシらがやった事なんざ、足りなくなってた血を輸血したくらいさね。特にこれと言って大した事はしてないよ」
「え、でも……」
なら胸に開いた大穴と握りつぶされた心臓は一体誰が? ……いやそもそも、本当に胸に穴なんて開いていたのか? 全て自分の悪い夢だと言われた方が、正しいような気さえしてくる……という勇麻の心の声を読んだかのようにダニエラは笑って、
「アンタの気が狂った訳でもなければ、幻覚を見ていた訳でもないさね。それは紛れもない現実だよ。でも安心しな、潰れた心臓も胸の穴も綺麗さっぱり元通りさね。とりあえず今はそれで満足してな。それから、アタシがアンタを助けた理由はただの“気紛れ”だよ。それ以上の詮索は許さないさね」
台詞の後半には有無を言わせない迫力があった。思わず勇麻は反射的に頷いてしまう。何にせよ、今はダニエラを含む『虎の尻尾』は勇麻と敵対するつもりはないと見て問題なさそうだ。
それが分かっただけでも収穫である。
ダニエラはベッドの近くにパイプ椅子を二つ引っ張ってくると、いつまでも勇麻の上に乗っかっている和葉を引き剥がすように椅子に座らせる。
やけに頭を気にしながら珍しく大人しく従っている和葉。この二人の間にも何かあったのだろうか?
椅子に腰かけたダニエラは、その顔に少しだけ真剣みを増して勇麻を真っ直ぐに見据えて話を切り出してきた。
「さて。それにしても見事な負けっぷりさね。だから言ったろ? 『白衣の悪魔の遺産』には気を付けろって」
ダニエラの言葉には不思議な魔力が籠っているようだった。こうなる事が分かっていて、どうしてあんな馬鹿をしたのか。折角忠告までしてやったのに。
……そうやって愚かな自分の行動を呆れられ、窘められているような気分になる。なにか、自分が言いつけも守れない子供のような惨めな存在になった気がして、
「……アンタは、まるでこの結果が見えていたみたいな言い方をするんだな」
反射的にそんな事を言い返していた。
ダニエラは拗ねた子供のような勇麻の言葉に一瞬目を丸くして、次の瞬間ぶっと噴き出して、何がそんなにおもしろかったのか腹を抱えて笑い始めてしまった。
呆気にとられる勇麻は完全に取り残された形だ。
「あっはははははははは! ま、当たらずとも遠からずってか。別にアタシは未来が見える訳じゃないさね。ただ既に起きた出来事を見れる。見るっつっても、どちらかと言うと予測に近いけどね。現在という一つの指標を元に、一定期間を遡り結末から原因を推察するってトコかね。なにせこの『過去視の炯眼』ってのはそういう神の能力なのさ」
教師めいた言い方になっちまうのも、何でもかんでも知ったかぶっちまうのも悪い癖さね、とダニエラは笑う。
笑い過ぎて目元に浮かんだ涙を指で拭い、一度話の流れを区切るように息を吐いた。
「さて、大した使い道もねえこんな力だが、それでもアンタらが今どういう状況にあるのかぐらいは分かる。ディアベラスの小僧も、東条勇麻のお仲間達も皆ピンチだって事もね」
「ッ!!?」
ダニエラの言葉に勇麻は頭が真っ白になった。
そういえば今夜、勇麻達は聖女の住まう未知の楽園中心区の白亜の巨城にアリシアを取り戻す為奇襲を掛ける算段になっていた。その直前で逆に逃亡者の集い旗からの奇襲を受けて和葉を連れ去られ、人質として連れ去られた和葉を取り戻す為に勇麻は単身乗り込みを掛けたのだ。
予定では和葉を取り戻してから全員で聖女の元へ再度襲撃を掛ける事になっていた。
だが、勇麻や和葉が抜け、戦力人数共に欠けた今の状態で、もしディアベラス達が聖女へ戦いを挑んでいたとしたら?
可能性としては十分に考えられる。何よりディアベラス達は戻らなかった勇麻を聖女か逃亡者の集い旗との戦いに敗北したと考えるだろう。そうなった場合、あの三人が強硬手段に出る事は容易に想像が付く。
そんな勇麻の嫌な予感を裏付けるように和葉が表情を暗くする。
「東条くんが死んだ……と思った後、ディアベラス達は自分達だけでアリシアちゃんを助ける為に聖女へ戦いを挑もうとしていたわ。私は、その直前に……逃げ出してしまって……だから、今頃はもう……」
最後まで聞く前に、身体が動き出していた。
「東条くん!?」
「皆を助けにいかねえと……ッ!!」
「待ちな!」
ベッドから飛び出し勇麻の身体を鋭いダニエラの一喝が押しとどめた。
びりびりと肌が痺れるようなプレッシャーに、思わず身体の動きが固まってしまう。勇麻は中途半端な体勢のまま怒りすら滲む瞳でダニエラを見て、
「……邪魔しないでくれ、ダニエラ。俺を助けてくれた事、本当に感謝してる。でもこのままじゃ俺の仲間が殺されちまうんだよ!」
「それで? このままアンタが助けに行ってそれが一体何の足しになるんだい? また心臓を消費しに出掛けるつもりかいね。だったら使いモンになるウチに臓器移植のドナーにでもなった方が百億倍有意義さね」
「それは……」
咄嗟に反論を並べようとしたが勇麻の口は思うように動かない。
脳裏に蘇るのは『聖女』の反則的で圧倒的な強さ。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイという神の子供達は、何度戦ったところで勝てるビジョンなど到底見えない絶壁のような敵だった。
勇麻がこのまま一人で行ったところで、どうにかなるような相手ではない。
絶望が心に忍び寄る。こうしてる今も、勇麻の知る誰かが痛みに呻き、血を流しているかも知れない。そう考えるだけで、血の気が引く。己の身を引き裂かれるような苦痛を感じる。
「折角拾った命だ、分ったら大人しくしてな。幸いアンタは街の外の住人だ。アリシアって子も、仲間達も全部諦めて地上へ帰るってんなら、『聖女』とか呼ばれてるあの娘っ子もこれ以上アンタに構いやしないさね。アレにとって重要なのはこの街だ。わざわざそれ以外にまで関わろうとはしないからね」
ダニエラの言う通りだ。今から勇麻が駆けつけたところで、死体が一つ増える未来しか見えない。それは折角救われた命を無駄にする行為だ。
……冷静になれ東条勇麻。いい加減に大人になるんだ。
そんな言葉がどこからか聞こえてくる気さえした。
確かに、ダニエラの言っている事は全てが正論だ。どうせ勝てもしない敵の前に飛び出して命を無駄遣いするくらいなら、自分の命が助かった事を幸運に思い、地上へ逃げてひっそりと暮らした方が余程建設的だろう。
犠牲になった仲間達も、勇麻が無闇に死ぬ事を望んでいるとは思えない。
まさに模範解答。
これ以上の答えなんて、どれも落第点を貰うに決まっている。
でも。
「……ダニエラ=フィーゲル。助けてくれた事、アンタには本当に感謝してる。だから、アンタの助言は有難く受け取っておく事にするよ」
「そうかい。なら、地上に帰る案内くらいはアタシが――」
「けど、地上へは戻らない。俺は聖女の所に、皆の元に行く」
昂ぶる感情を抑え、東条勇麻はいっそ穏やかな口調でダニエラを拒絶した。
冷静になって考えた。
今この状況で、自分が何を成すべきかを。
……救われた命を無駄遣いするべきではない。――確かにそうだ。
……勇麻が行ったところで何も変わらない。――確かにそうだ。
……今すぐに未知の楽園から逃げ出し、地上へと逃げ帰るのが賢明な判断だ。――確かにそうだ。
それら全てを吟味し、熟考した。そのうえで、けれど勇麻の出した答えは逃避ではなく挑み戦い続ける挑戦だった。
ただ、それだけの話だ。
ダニエラは呆気にとられたように固まった後、僅かに瞑目して眉間をこねる。
「……理由を聞こうかいね」
「単純な話だ。どんな理不尽を突き付けられようとも、俺は諦める訳にはいかないんだよ。この戦いで負けを認めるって事は、俺にとって死ぬのと同じだ。アリシアにレインハートにスピカ。そして和葉。勿論ディアベラスだって、俺にとっては大切な仲間なんだ。あいつらのいない世界なんて、想像できない。だから、これは〇か一〇〇かの戦いだ。皆で帰るか、皆死んじまうか。結末なんてその二択以外に用意されてないんだよ、きっとさ」
レインハートはこんな馬鹿を仲間だとそう言ってくれた。こんな自分勝手な馬鹿野郎を心配だと気遣ってくれた。
スピカは勇麻の身を案じてくれた。一人で戦って欲しくないと、眠りながらも決して離れてしまわないようにと迷子の袖を掴むような少女の温かさに、心を救われた。
ディアベラスは迷う勇麻の背中を押してくれた。彼が勇麻を信じてくれていなかったら、きっとあの時、勇麻は最後まで悩み続け、和葉を助けに動く事もできなかっただろう。
そんな彼らが今、アリシアの為に、そして勇麻の為に立ちあがり戦ってくれている。
そんなお人好しの馬鹿野郎共を見捨てて生き延びて、恥ずかしくないのか? そうまでして生き延びて、それが一体何になると言うのだ。胸を張ってその後の人生を生きていけるはずもない。
それでは何の意味もない。勇麻が守りたかった物は、既にそこには生きていない。
なら答えはおのずと見えてくる。
「呆れた馬鹿野郎だね、アンタ。折角拾った命をわざわざ潰してまでやりたい事が、皆仲良く揃っての心中とはね」
「まさか、俺は皆で帰る以外の結末なんて考えてねえよ。……俺がここで動かなきゃ皆はきっと殺されちまう。それは全員が死ぬ最悪の結末だ。だからここで俺が動くんだ。簡単な話だろ?」
そう難しい話ではない。
ようは単純な二択の繰り返しだ。
皆が死んでしまうのは嫌だ、――だから皆で生きて帰る。
今動かねば皆が死ぬ、――だから動く。
諦めたら負ける、――だから諦めない。
単純な問答の繰り返し。己の心に従うという事は、イエスかノーかの二択をひたすら己に繰り返すという事。それを続けていればやがて、心の底から思っている自分の気持ちに辿り着けるのだから。
「そうすればもう片方の結末……皆で帰る未来を手繰り寄せる事が出来るとでも本気で思ってるのかいね? そんなのは精神論よりなお青臭いただの醜い願望だよ。アンタは殺される。アンタと『聖女』とじゃ、素の実力が違い過ぎる」
「また殺されるなんて百も承知だ。でも、俺がここで動かなければ間違いなく皆は死ぬんだ。だったらもう動くしかねえじゃねえかよ。やってみるまで結果は分からないんだ。だったら挑んでみる価値があるかどうかくらいは俺が決める」
最後まで自分の思いを貫き通す。我儘でも自分勝手でも、もう迷わないと勇麻は決めた。例えどれだけ敗北を積み重ねようと、諦めずに立ち上がり続けるのだ。そうして最後の最後で逆転勝利を手繰り寄せればいい、終わりよければ全て良しなのだから。
「……和葉が此処にいる事を、俺は嬉しいって思った。でもそれはきっと、あの時俺が無茶も無謀もやったからなんだ。だったら俺は同じ事を何度でもできる。またみんなで笑える未来があるんだったら、最後までそんな綺麗ごとに挑戦し続けたい。だって、諦めちまったら。負けを認めちまったらそこで終わりだ。もう嫌なんだ。誰かを失うのはどうしようもなく怖い事だから」
勇麻の言葉にダニエラは和葉をチラリと一瞥して、呆れとは違う異質な感情を孕んだ声で問いかける。
「その失う恐怖を、アンタは他人に押し付けようとしてるのに?」
「……ああ、そうだよ。我ながら我儘で自分勝手だと思う。けど俺は行くよ、あいつらの戦う戦場へ。……それに、大事な予定があるんだ」
「予定?」
怪訝そうに眉を歪めるダニエラに勇麻は『ああ』と短く頷いて、
「勝手に出てった事を謝るのと、あいつらにそれを怒られるって予定」
勇麻の答えにダニエラは呆れたように息を吐き、和葉は『いつも通りね。知ってたわ』とでも言うかのように肩を竦めた。
それから生暖かい目で二人は勇麻を見て、
「……安心しな。男なんざどいつもこいつも似たり寄ったりの馬鹿だらけさ。ま、そう言うと思ったよ。お前さんならね」
嬉しそうに口の端を釣り上げると、勢いよく椅子から立ち上がった。
「……裏に車を止めてある、二分で支度しな。今から走って行って最終決戦に間に合いませんでしたじゃカッコもつかねえさね。話は車の中でだ」
「え、は? 車? ってか話って……?」
どうやら全ては彼女の掌の上だったらしい。
主張を百八十度くるりと変えた――というより勇麻の覚悟を試す演技を辞めた――ダニエラの言葉に頭が追い付かず、そんな間抜けな声を零した勇麻に、
「ああ、大事な話さね。東条勇麻、アンタは知らなきゃならないのさね。この馬鹿みたいな争いを止める為に。『救国の聖女』とやらに勝つ為に。クリアスティーナ=ベイ=ローラレイなんて名前の少女の歩みってヤツをさ」
どこか哀愁漂う表情で遠くを見つめながら、ダニエラ=フィーゲルは答えたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
時刻は戻り現在――
――東条勇麻の勇気の拳が『救国の聖女』の顔面に突き刺さる。
瞬間。世界はモノクロに染まり、神様がリモコン操作をミスしたのか、止めどない時の流れに僅かな淀みが生まれる。
肉と骨を殴った際に手首に跳ね返る、無骨な手応えと衝撃。
拳を振り抜くべく筋肉が躍動し、踏み込んだ足が地面に罅を刻む。
少女の口から尾を引くように流れる血の軌跡。弾かれたように後方へと跳ばされていく『聖女』の肢体。何もかもがスローモーション。
きっと今なら、絶えず降り注ぐ雨粒の数だって数える事ができる。
止まったような時間の感覚の中、今自分が見ているこの光景が、全て儚い幻であるかのような感覚に囚われた。目を覚ませば東条勇麻は既に死んでいて、意識体だけになって頭上から死んだ自分を見下ろしているのだ。そういう幽体離脱のような現象を臨死体験? とでも言うのだろうか。
東条勇麻はそんな益体のない事を考えて、次の瞬間。世界に色彩が戻った――
「――はぁーっ、はぁーっ、はぁっはぁっ……」
顔が頬から耳たぶの先まで火照ったように熱い。全力で振り抜いた拳に、遅れて生じた拳圧が頬を撫でる。
ジンジンと響くように痛む拳の皮に、誰かを殴ったという事実が刻み付けられているみたいだ。
心臓の鼓動が嬉しいくらいに煩い。アドレナリンが過剰に分泌されて、勇気の拳が持つ熱量でオーバーヒートを起こしそうだ。
既に身体を押し潰す重力はなく、少年を縛る枷は存在しない。
少年の拳によって、それは木端微塵に破壊されている。
勇麻の視線の先、地面に一人の少女が倒れていた。
最強を誇る神の子供達の中でさえ、その頂点に君臨する異次元の怪物。
『支配する者』。
絶対を誇るハズの『救国の聖女』へと一撃を見舞ったのは他の誰でもない、ただの神の能力者にすぎないハズの少年、東条勇麻だった。
「……嘘、だろぉ。オイ……」
味方であるハズのディアベラスですら茫然とそんな事を呟く。
それほどの奇跡。幸運。ビギナーズラック。天文学的確率。この状況を説明するには、どれも何か言葉が足りない。
そんな本来ならあり得ない、いっそ不可能なまでの偉業を成し遂げていながら、東条勇麻は何も勝ち誇ってなどいなかった。
ただ、痛みをこらえるように呟く。
「……聞えるんだよ」
『聖女』は自分が殴られたという事実を理解できていないのか、それとも痛みという未知の感覚に戸惑っているのか、依然として地に倒れたまま身体を震わせている。
勇麻はそんな最強を見下ろしながら、
「初めて対峙した時、俺にはアンタがまるで取っ掛かりが見えない絶壁のように思えた。でも今は違うぞ『救国の聖女』……いや、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ」
致命的な言葉を、告げた。
「アンタの声がようやく聞こえるよ、クリアスティーナ。目の前の現実に蓋をして、ただただ変わる事から逃げ続けてきたアンタの怯える声が」




