第三十五話 聖女と悪魔の協奏曲《コンチェルン》Ⅰ――救いの形
――ディアベラス=ウルタードにはどうしても許せない事があった。
一人の少女の絶望によって閉じた幸福が終わりを告げ、世界が一変したあの時。兄妹達は皆途方に暮れ、絶望し、嘆き悲しみ、世界の変化を前に戸惑うばかりだった。
自分という存在はあまりにも無力だった。
その身に人に余る力を宿しておきながら、大人が居なければ何をすればいいかも分からない。
結局の所、ディアベラス達はどこまでも子供だったのだ。
だが、それを責める事など誰にもできるはずがない。
当然だろう。ずっと信じてきたモノが根底から覆され、今までの人生全てが虚構の上に成り立っていた偽物だと思い知らされて平然としていられる訳がない。
ましてやそれが、極彩色の地獄などという言葉も生温い絶望の底なし沼だったのだ。タチの悪い冗談だと力無く笑う事すらできやしない。
たかが十数年の生を生きただけの子供達にとってその真実は余りにも過酷で、救いがなくて、幸福だったはずの十数年の時間が、幸せだった分だけ重く十字架のように身体中に圧し掛かる。
そしてその十字架を最も多く背負っているのが一人の少女だった。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは確かに未知の楽園を救った。
誰もが彼女を讃え、同時に彼女を恐れるであろう。
ディアベラス達が目にした真実の過去は、彼女を含めた自分達が魔王であった事を示しており、そして未来に彼女は勇者として刻まれるのもまた明白だったから。
……僅か十五ばかりの少女にとって、それはあまりにも酷だ。
誰も彼もが彼女に責任を押し付けているだけではないか。
幸福も。不幸も。絶望も。希望も。過程と結末とその責任、その全てを。
――我々は彼女ただ一人にこの辛く悲しい役目を押し付けてしまった。この罪を贖わなければならない。
そう言って立ち上がった者がいた。
――輩屋災友。
彼は兄妹達に、仲間達に語りかける。
現実を直視せず疑問から逃げ続けた我々の代わりに、彼女は全てを一人で抱え、この街を。そして我らを救った。
ならばそれに応えなければならない。
彼女が一人になってしまわないように支えよう。
せめてもの償いとして彼女が心穏やかに生きていけるよう彼女の願いを叶えよう。
悪魔と罵られる少女こそが救世主であり英雄だと声高々に謳い続けよう。
聖女と尊ばれる少女こそがごくごく平凡な少女であると伝え続けよう。
『救国の聖女』などではない。『白衣の悪魔の遺産』でもない。クリアスティーナ=ベイ=ローラレイという一人の少女を見てくれる人が現れるその時まで、逃げ続けた我々がその名を天に轟かせるのだ。彼女という少女が忘れ去られる事のないように。
『救国の聖女』の偉大さを。
『白衣の悪魔の遺産』の恐ろしさを。
決して忘れてはならない戒めとして、この世に残す。
そうしていつか、逃げ続けた人々が再び自分の意志で彼女と向き合うと決めたその時にこそ。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの物語を始めよう。
……嗚呼、まったく。何て綺麗でお涙ちょうだいな物語だろう。
『白衣の悪魔の遺産』達は誰も彼もが涙を流し、その考えに賛同した。……ただ一人を除いて。
かくして少女は『救国の聖女』として旗に掲げられ、『白衣の悪魔の遺産』達は彼女の偉大さと恐ろしさを喧伝するかのようにその名を広めた。
それこそが『逃亡者の集い旗』
現実から逃げ続けた我らが、いつか再び彼女の隣に並び立てるように。
そんな願いと共に、『救国の聖女』の名を世界へと知らしめる御旗の名前。
……なんだそれは。ふざけてんのかぁ?
ディアベラス=ウルタードは許せなかった。
だって、彼女は帰ってこなかった。
たった独り。
潔癖な程に真っ白な巨城に一人孤独に引き篭もり、決して誰にも会おうとしない。
自分の起こした変革を視る事を恐れるかのように、自分が変えてしまった世界を認める事を恐れるかのように、彼女は頑なに外に出ようとしなかった。誰かと交わろうとしなかった。
分り切った事だ。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、『救国の聖女』になんて成りたくなかったのだ。
それを世界が、皆が、状況が、運命が、彼女一人に押し付けた。
何が逃亡者の集い旗だ。
輩屋災友も、他の奴らも、皆同じだ。どいつもこいつも糞以下の馬鹿野郎だ。
結局誰も彼もが、クリアスティーナの気持ちを考えていない。彼女の為という免罪符を手に、クリアスティーナの心を荒らしまわる強盗だ。
ディアベラスには分かる。
クリアスティーナはあの管理された幸福が好きだったのだ。
真実なんて望んでいなかった。
変革なんて求めていなかった。
『救国の聖女』になんて、成りたくなかった。
何もかもが変わってしまった世界で、自分が変えてしまった者達の心を彼女はきっと誰よりも案じて、必要すらないのに心を痛め傷ついている。
だってディアベラスは知っている。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイという少女は優しいのだ。
誰よりも明るく朗らかに笑い、礼儀正しく、常に前向きで、誰にだって優しく平等に接する事のできる綺麗な心の持ち主。
そんな彼女だったからこそ、粗雑で乱暴者のディアベラスは惹かれていたのだから。
……あぁ、分っている。ディアベラスは、ずっと彼女の事が好きだった。
同じ家で暮らしてきた義理の兄妹としてではない。一人の男として、彼女を心の底から愛していた。大好きだった。この先何があってもずっと一緒に居たいと思えるほどには。
そんな彼女がディアベラス達に残酷な現実を知らしめてしまった。
今までの幸福は全て地獄だったのだと、自分達は人を殺す悪魔の子なのだと。そう突き付ける事になってしまった。
クリアスティーナはきっと、ディアベラス達の絶望を全て自分のせいだと思っている。
彼らを地獄に突き落としたのは自分なのだと己を責めている。
だから大好きな兄妹達に会おうともせず、ただ一人で後悔と自責の念に苦しみ続けているのだろう。
彼女はありもしない罪の呪縛に永久に縛られ続けるだろう。
……そんなの。生きているとは言えない。永久に続く孤独な自責など、下手な地獄よりなお残酷だ。
忘れられるように朽ち果てる事を望むなんて、絶対に間違った生き方だ。そんなの、死にながら呼吸を保っているだけではないか。
「……認めねぇ」
ディアベラスは一人呟く。
「……苦しみ続けるだけの人生なんて絶対に間違ってる。アスティ、お前はもう十分に頑張っただろ。頑張ったじゃねえかぁ。だってのにどうして、何でこれ以上お前が辛い思いをしなけりゃならねぇ。何でお前ばかりに押し付けられなきゃならねぇ。もう休んだっていいハズだろぉ。解放されて当然だろぉがぁ。これ以上お前が苦しみ続けるなんてそんなの許せる訳がねぇだろぉがァッ!!」
彼女を。クリアスティーナ=ベイ=ローラレイを愛しているからこそ、ディアベラス=ウルタードは決断する。
他の誰でもない、彼女の為の決断を。
彼女の心を救うために。
「待っていろ、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。俺がお前を絶対に助けてやる……!」
彼女を終わらせる。
無限に続くこの苦しみから少女を解放する。
それが少女を愛した少年が苦しみ抜いて出した、たった一つの結論だった。
――やがてディアベラス=ウルタードは静かに立ち上がる。その憤りが、彼女への止めどない想いが、少年を『神の子供達』へと静かに変貌させていた。
涙を流す権利などありはしない。
結局の所、クリアスティーナがこうなった原因は自分にある。
ディアベラスがもっと強い人間だったのならば、逃げずに現実を直視することさえ出来ていたのならば、こんな事にはなりはしなかったのだから。
彼女より早く真実に気が付く事だって、出来たハズなのだから。
『悪魔』は笑う。
彼女を救うためならば、この身この魂、喜んで悪魔に捧げよう。
――化け物となった少年の長く辛い戦いが、幕を開けた。
☆ ☆ ☆ ☆
ディアベラス=ウルタードの放った『悪魔の一撃』が、『聖女』クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの『次元障壁』と激突した。
ディアベラスが放つは最大威力の一撃。
ありったけの干渉力全てを込めて放った鮮血の如き光は、その干渉力でもって世界を鮮やかな血色に染めあげようとしているかのようだった。
地面を抉り、軌道上にあるもの全てを消滅させる極大のエネルギー砲。使い方を誤れば、核兵器のようにこの惑星すら滅亡に追い込む事が可能だろう。
対するはクリアスティーナ=ベイ=ローラレイの神の力『支配する者』による絶対の『次元障壁』。
僅か一ミリにも満たない極薄の守りは、しかし次元という名の絶対不可侵の守りだ。
必殺の一撃と少女の間に差し込まれるのは文字通りの此処とは異なる次元。フィルターのように次元の壁を世界に挟み込み、強引に盾として使っているのだ。その一ミリは永遠に等しい。
けれどディアベラスとて、距離を無視して死の概念を叩き付ける神の子供達だ。
神の力の性能的にはどちらが不利とは言い難い。故にこれは、純粋にこの世界に干渉する力。干渉力の勝負となる。
――毒々しい紫の入り混じる血色の輝きと、陽炎のように揺らめく無色透明の絶対防御とが奏でる轟音が世界から他の一切の音を消し飛ばした。
二つの力の衝突の衝撃に大地が捲れ上がり、地下に作られた未知の楽園そのものが不安定に揺らぐ。
地下という壁にぶつかり行場を失ったエネルギーは上昇、地下七百七十七メートルを駆けあがり、大地そのものを大きく揺らした。
惑星の活動にすら引けを取らない大運動力の発露。
しかしそれだけの破壊力を持ってしてもなお――
「ハハっ、冗談、キツイぜぇ……」
――『聖女』の有利は揺るがない。
「残念ですね、ディアベラス」
パラパラと。
衝撃波で空高く舞い上げられた土や瓦礫が、雪みたいに降り注ぐ中。
その少女は傷はおろか汚れ一つなく、純潔を守る聖なる乙女の如く『悪魔』の前に立ち塞がっていた。
「貴方と私の神の子供達では相性が悪い。なにせ“死”という概念に手を届かせておきながら、貴方は距離などという陳腐な物に縛られている。貴方が与えられる死の形は、結局“距離”を抜け出せない。距離を無視するという思考そのものが、距離に縛られている証なのですから。対して私が司るのは次元と空間そのもの。完全に貴方の上位互換として機能している。勝敗は見るまでもなく明らかです」
先の一撃によって未知の楽園は二分されていた。
『聖女』から横一直線にラインを引いた向こう側とディアベラス側。遮る物もなく直接破壊が席巻したディアベラス側にのみ巨大なクレータが生じている。
中心区をまるまる飲み干した巨大なクレータは『聖女』の造り出した『次元障壁』を境にプツリと途切れており、完全な半円を描いていた。
聖女より後方は白亜の巨城を含め、何一つとして『悪魔の一撃』の影響を受けていない。
……これがクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。
未知の楽園最強の神の子供達。
同じ神の子供達と言えども、同じ舞台に上がるのが精一杯などという規格外の怪物。
その圧倒的な干渉力と神の力で、白衣の悪魔どもの我欲と邪悪に蝕まれていたこの街を救った英雄の力。
「なるほどなぁ、こりゃ参ったなぁ。正直、勝てるが気しねぇわ」
衝撃にズレたサングラスを掛け直し、衣服の砂埃を叩きながらディアベラスはそう零す。
同じ干渉レベルSオーバーと言えど、その実力差はここまでの戦闘から明らか。このまま戦っていたのでは万に一つも勝ち目はない。
「そうですね。なら、どうします?」
なら答えは簡単だ。
「――戦い方を、変えるまでだぁ!」
叫び、ディアベラス=ウルタードの身体が急加速した。
足の裏。ふくらはぎ。肩甲骨の付け根。『悪魔の一撃』はその能力の始点を選ばない。よって使い方によっては、その砲撃は高速起動を実現させる為のブースターと化す。
「さぁ! 馬鹿女!! 俺と楽しく踊ろうやぁ!」
口汚く罵るように叫び、身体の様々な所から炎を噴き出し滑るように地を駆けるディアベラス。
その掌に赤紫のエネルギー球が生まれる。普段なら標的に向けて一直線に解き放つそれを、ディアベラスはそのまま握りつぶした。
ぐにゅり、と。そんな音を立てそうな勢いで潰された赤球の形が縦に歪む。やがてそれは筒状の――槍を模したような得物へと変貌した。
男の子なら誰でも一度は憧れるそれは――
「ビームサーベルって奴だぁ。ロマン溢れるだろぉ? やっぱ男なら接近戦で斬り合い殴り合いだよなぁ!」
「女の私に言われても困るのですけど」
言いながら、サーベルにしては些か長い槍のような得物で斬りかかってくるディアベラスの縦一閃を、聖女は局部へ集中させた『次元障壁』によって防ぐ。
ぶぉん、と。その熱量で空気を焼きながら切り裂くような独特の風切り音と共に、朝闇を斬り裂く赤い軌跡が地下世界に走る。
ディアベラスは弾かれた勢いを利用してその場で回転、振り向きざまの横一閃をこれまた部分的な守りでクリアスティーナは弾く。手の中で槍をくるりと回し、今度は切れ味鋭い突きを放つ。点の攻撃に対し、クリアスティーナもやはり点の守りで対応する。まるで己の余裕を見せつけるかのような対応に、ディアベラスはさらに刺突の速度と苛烈さを増していく。
胸、首、腹、顔、膝、と連続して突きを放ち、かと思えば突如直進の槍の軌道を斬り上げるようにして額を狙う。
だがクリアスティーナはその余裕を崩さない。回避すらせず、己の予測した軌道上へと『次元障壁』を張り付けるだけ。白熱する槍の動きを阻害し、弾き、いなす。
無差別に襲いかかる砲撃と違い、その斬撃の軌道をある程度絞り込み特定できる分、一か所のみに障壁を張り巡らせることで十分に対応できる――
「――と、思ったかぁ?」
生み出された障壁と激しい鍔迫り合いを演じていたディアベラスがニカっと笑みを浮かべ、クリアスティーナの心の内を読んだかのように嘯く。それが合図だった。彼の周囲に浮かび上がるように発生した赤熱するエネルギー球がクリアスティーナへと一斉に牙を剥いた。
赤紫の閃光が瞬いたのと爆発音とが発生したのとはほぼ同時。
ディアベラスの攻撃は確かにクリアスティーナに直撃したかに思えたが……。
「ええ、事実。十分に対応できています」
黒煙を斬り裂いて、それを涼しい顔で受け切ったクリアスティーナの反撃がディアベラスを襲う。
振るわれるのは空間を力技で捩じ切る歪な斬撃と、疑似的な重力攻撃。
重力フィールドに捉えられれば一貫の終わりだ。ディアベラスは大慌てで肘や二の腕、膝に即席のブースターを点火させ、バッグのまま猛スピードで彼女の攻撃範囲から離脱する。
が。
「――いつまでも私が防御ばかりだとは思わない事です」
「ッ!?」
声の方へ振り返り、自分の背後にクリアスティーナがいる事にディアベラスの心臓が凍り付きそうになる。
寄り添うよう影のように高速移動するディアベラスの背後にぴったりと張り付くクリアスティーナは、まるで投映されるプロジェクター映像だ。現実味に欠けていて気味が悪い。
そんな余計な事を考えている間に、ぐりんっと正面に回り込んだ聖女の細い指がディアベラスの骨太な首を掴んだ。
それだけで地面に縫い付けられたようにがくりと身動きが取れなくなる。
音速に迫る挙動で動いていたハズの身体に急制動を掛けられ、慣性の法則なのか単なるGか内臓が不気味に揺れる。
「ごぁ……ぐぅ……お、ぁ……ッ」
明らかに筋力以外の何かが働いているとしか思えない馬鹿力で首を絞められる。
息が出来ない。苦しい。握っていたはずの槍が掌から力無く零れ落ちる。警告か何かのように視界が赤く色付く錯覚を覚える。酸素を欲して身体中の細胞が悲鳴を上げているのが分かる。
腕力でどうにか少女を押しのけ引き剥がそうと足掻くものの、神の子供達の少女はビクともしなかった。
クリアスティーナは無言のまま、さらにその指に込める力を強める。軋むような音が強まり、ディアベラスの危機感をよけいに煽る。
このまま首がへし折れるのではないかという激痛と共に意識が揺らぎ始め、ディアベラスは悪あがきに『悪魔の一撃』をこの密着した至近距離から数発叩き込んだ。
衝撃と熱波と爆発音とが連続して、
「……」
むしろ放ったこちらが爆破の衝撃と熱を受ける距離だというのに、クリアスティーナはやはり傷一つない。
彼女は仮面のような無表情を僅かに不機嫌気に歪ませると、ディアベラスの首から手を離し、崩れ落ちるその身体に軽やかな動作で前蹴りを叩き込む。
鳩尾に入った嫌な手応えと共に込みあげる吐き気。支えを失ったディアベラスの身体が無様に地面に転がる。
地面に倒れるディアベラスを睥睨して、
クリアスティーナは何気なくあげたその右腕を、そのまま一気に振り下ろした。
ズンッ! と、不可視の力がディアベラスを押し潰すべく殺到した。
「う、ぎあっ、……がぁああああああッッ!!?」
肋骨が、背骨が、身体中の骨という骨が軋みあげ耳障りな音を奏でる。
内臓が潰れそうだ。再度こみ上げる吐き気に逆らう事が出来ず、口から何かを零した。吐瀉物かと思ったそれは、真っ赤な己の血液だった。
命が流れ出す感覚に背筋にひんやりとしたものが走る。
不可視の力と共にディアベラスを挟み込むようにしている地面がその圧力に負けて、ボゴッ! と音を立てて陥没した。
地球が砕ける音かと錯覚する。けれど違う、砕けるのはディアベラスの身体であり精神だ。
クリアスティーナは、完膚なきまでにディアベラスを打ち砕くつもりなのだ。
地面にひび割れが走り、加速度的にディアベラスの意識がその肉体からふらつきはじめる。
肉体が限界に絶叫を。
敗北の予感に精神が悲鳴を上げているのが分かる。
だが、それでも。
「ぐ、お。……ぉぉおッ!」
「な、に」
この女を殺す前に死ぬことだけは、
「な、私の『支配する者』の干渉力に、逆らって……!」
「ぉおおおおお……」
この身に宿る『悪魔の一撃』に誓って、許容できなかったから。
「ぉぉおおおおおおおおおおおおおッ、ォォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
掌を、ふくらはぎを、『悪魔の一撃』をもってブーストさせる。粘つく重たい空気を断ち切るように二の腕と両足を使って身体を持ち上げる。全力を振り絞って生じた地面の身体の隙間。そこにあらん限りの力を籠めて最大火力の『悪魔の一撃』を叩き込んだ。
カッ! と、真夜中の未知の楽園を、毒々しい赤い輝きが照らして――爆発。
生じた爆風と衝撃波に『聖女』は目を細め、ディアベラスは砲撃の威力と爆発の衝撃を借りて『聖女』の『支配する者』による疑似重力攻撃から脱出していた。
「……クリアスティーナ。やっぱりお前は強えなぁ。あぁ、悔しいぐらいに最強だよ、お前ってヤツぁ」
額から血を流し、ボロボロになりながらもディアベラスはその顔から笑みを絶やさない。
笑顔のままにサングラスの奥の瞳を静かに殺意に燃え上がらせて、
「けどよぉ、勝負に勝つのが常に最強側だとも限らねぇよなぁ?」
何か、ディアベラス=ウルタードの纏う雰囲気が一変した。
言葉にはならない、されど明確な変化に眼前のクリアスティーナが息を呑むのが分かった。
ディアベラスが何かを仕掛けようとしている。その気配を濃密に感じ取ったのだろう。
だが今更遅い。既に仕掛けは終えてある。
……クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは確かに強い。
彼女の『次元障壁』はディアベラス=ウルタードの攻撃全てを完璧に防いでいる。付け入る隙は余りにも見当たらず、勝機など一片たりとも存在しないように思える。
だが違う。一度だけ、ディアベラスの神の力が通用した瞬間があった。
『堕落せよ、悪魔の幸運へ導かれて』
墜落死という概念を叩き付けるこの一撃、ダメージそれ自体は完全に防がれたものの、“強制的な落下”という力は確かに働いていた。
おそらく、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの『次元障壁』には幾つかの穴がある。厳密には穴とも呼べないような、微かな綻びが。
例えば形のない攻撃を防ぐ事ができないとか、ダメージを防ぐ事はできても概念的な効果を防ぐ事はできないとか。
例えば。攻撃だと知覚されない攻撃ならば、いかに彼女の『次元障壁』が絶対であろうとも、防ぎようがないとか。
そして警戒を強めるクリアスティーナは、何かに気が付いたように眉をあげた。
キョロキョロと、辺りを窺うように見渡して、
「これは……。周囲一帯に貴方の干渉力が満ちている? 一体、何を……いえ、例えどんな奥の手であろうと、既に貴方は干渉力を使い果たしている。ガス欠状態の貴方に、一体何ができると言うのですか?」
クリアスティーナの言う通りだ。
開幕から何の加減も躊躇いもなく全力攻撃を放ち続けていたディアベラスに、満足に神の力を使うだけの余力は残されてない。
例えここからどんな一発逆転の奥義を放とうにも、今のディアベラスには全力の一撃を放つ事すら不可能だ。
逆転の目など、万に一つもあり得ない。
そしてそれをディアベラスも否定はしなかった。
「あぁ、何もできねぇとも。俺が何かをする必要なんざ、もうどこにもねぇんだよぉ」
「なにを、言っているのです?」
周囲にはディアベラスの干渉力が濃く漂っている。
戦闘開始時からディアベラスは虎の子の『悪魔の一撃』を防御されると分かっていて過剰な程に乱発し続けていた。
『聖女』には届かないと知りながらも積み重ねた何億、何十億もの赤紫の輝きは、単なる無駄弾などでは断じてない。
全ては最後の一手、この為の布石に過ぎない。
「だいぶ時間が掛かっちまったがぁ、それでもこうして間に合った。……アスティ、お前は確かに最強だぁ。だからこそぉ、お前は知らないだろう。不運の敗北と死を。今からお前に突き付けるのは、そういう世界だ。この俺の世界だぁ」
干渉力とはすなわち、世界に干渉しその物理法則を捻じ曲げる力。
『神の能力者』と呼ばれる異能者達は己の中に存在する『世界へと干渉する力』を通して世界に様々な超常現象を起こす。
それが己の内側。肉体へと働きかけるモノなら、人間を越えた身体能力や、いっそ化け物じみた身体的特徴を得る。
それが己の外側の世界。……例えば風へと働きかけるモノならば、世界に流れる風を意のままに操り。
それがこの世の理。生命の神秘や、現象や法則そのものへと働きかけるようなモノなら概念そのものを改竄して振り回す。
神の力とはすなわち、世界の掟に干渉する『反則』のようなモノ。
神にのみ許される奇跡。その一端を操る世界の強制的な書き換えだ。
身体強化系。
自然系。
概念系。
大まかに三系統に分類されるこの『神の模倣技』は、どれもその干渉力によって己のルールに世界を書き換えているに過ぎない。
起きる現象が異なるのは、それぞれ干渉する対象やその規模が異なるからである。厳密に言えば、どんな神の能力者もやっている事は基本的に同じ。自らの干渉力を通す事で、世界へと働きかけている。
つまりディアベラスの干渉力で満たされたこの場は、彼の支配下にあると言い換える事もできる。
じり。
音はクリアスティーナの足裏から。
知らず後ろへ下がったその一歩は、ディアベラスが聖女から初めて引き出した警戒に他ならない。
だが今更何を警戒したところでもう遅い。
ディアベラスは既に、最強の神の子供達に対して王手をかけている――
「――例えば、高台から投げた石が運悪く誰かの命を奪うような」
歌うように、
「――例えば、渡り鳥の運んできた奇病に運悪く感染してしまうような」
誇るように、
「――例えば、偶然足を滑らせて階段から転げ落ちるような」
戒めるように、
「――例えば、何の前触れもなく心臓が止まるような」
嘆くように、
「――そんな不運の敗北を」
『悪魔』は告げた。
「――『運命の悪魔は宣告する!!』
瞬間、世界がディアベラス=ウルタードによって強制的に書き換えられた。
☆ ☆ ☆ ☆
ディアベラス=ウルタードを起点に、空気中に漂う彼の干渉力が淡く赤く輝き出す。
光り輝く血霧の世界が降誕する。
それは綺麗な花の毒の棘のような危うさを秘めた幻惑的な光景だった。
クリアスティーナはその光景に一時目を奪われ、次に眉を顰める。
ふわふわと雲のように漂うそれは、触れても掴む事は出来ずにすり抜けるだけ。一見、人体に何の害も齎さないように思える。
だが違う。
悪魔の幸運などという不吉な名を冠する神の子供達の奥の手が、何でもない訳がない。
ごくりと、生唾を飲み込んだクリアスティーナが、覚悟を決めて一歩前へ踏み出そうとして――
――踏み出した右足が、まるで小枝のようにぽきりと折れた。
――飲み込んだ唾が、気管に詰まった。
「――ッ!!?」
激痛と思わぬ所からの不意打ちに、今まで何をしても揺るぐことの無かったクリアスティーナの表情が心からの驚愕に染まる。
明らかな異常。
ただ足を踏み出しただけで骨折し、唾を飲み込んだだけでそれが気管を塞ぐ。
あり得ない。こんな偶然、ある訳が――
己の思考にハッとした。
そうして、既に異変は自分の身体全身を蝕んでいる事に、遅れて気が付く。
心臓が痛い。肺が、いつもの二倍以上に膨れ上がっているような圧迫感を覚える。脳に痺れるような痛み。身体中の血管という血管が、今にも破裂せんと悲鳴を上げている。
身体がおかしい。
ここは何かが違う。
この世界は、そもそもの根底からして、何もかもが狂っている。
ディアベラス=ウルタードの干渉力によって満ちた世界。この場においては、彼の『悪魔』が絶対の王であり法だ。その致命的な事実を、クリアスティーナはようやく遅まきに理解して――
「どうした? 何かあったか?」
――笑みを絶やさないディアベラスの声が、耳に突き刺さる。
比喩表現でも何でもない。クリアスティーナの耳からは、本当に何かに刺されたように真っ赤な血が流れていた。
全てを理解したクリアスティーナは、もう呼吸する事すらできなかった。
何をする事も、許されない。
「……理解したみてぇだな。そう、これはお前の『次元障壁』でも防げはしねぇ。いくらお前でも既に発動しちまったモンを防ごうって考えがまず間違ってんだからなぁ。発動させない、が唯一の正解だぁ」
――この世界では、ありとあらゆる行為行動がどういう偶然なのか不幸にも死へと直結する。
息を吸えば肺が破裂し、声をあげれば喉が焼ける。心臓は唐突にその鼓動を止め、食べ物を口にすれば食中毒で倒れ、思考すれば脳の血管が千切れ、歩けば転び、転べば不幸にも頭を打つ。
打ち所が悪ければ、きっとそれだけで死ぬだろう。
人の死とは、そんな偶然によって笑ってしまうくらいにあっけなく訪れる物なのだから。
そう。
ディアベラスの干渉力に包まれたこの異空間そのものが『運命の悪魔は宣告する』。
ディアベラス=ウルタードが己の干渉力を使い果たして初めて使える最終奥義。
敵が何かをする訳ではない。
自分の行いが不幸と偶然の積み重なりによって最終的に自分の首を絞める事に繋がる。
この世界に存在するだけで、人は不幸にも死んでしまう。
そんな概念を形にしたある種の結界世界。
クリアスティーナが膝から崩れ落ちる。
これまでの人生で少女の体重を支えていた膝の腱が切れたのだ。
落下の衝撃で、不自然に内臓が蠕動し、運悪くどこかを傷つけたのか血反吐を吐いた。せり上がった血が気管に詰まったのか、激しく咳き込む。それだけで肋骨が数か所折れて激痛が走る。
連鎖する不幸な偶然が、少女の命を確実に蝕んでいく。
「……すまねぇなぁ、アスティ。これが発動した時点で俺の勝ちだぁ。確かにお前は最強だが、“死”の前には誰もが平等。最強でさえ、それに抗う事はできねぇ」
赤い霧の輝きは依然として損なわれない。
喘ぐような荒い呼吸には血が混じり、今度は片方の肺が唐突に破裂した。
痛い。死ぬ。苦しい。いつ死が訪れるのか分からない。ただ確実に言えるのは、この世界に存在するだけで人は簡単に命を落とす。
そしてそれは神の子供達であろうとも例外ではない。
脱出しようと足掻けば、そのせいで死ぬのだろう。
神の力を発動させようものなら、偶然にも神の力は暴発するだろう。
抗うことを止めれば、そのままに死んでしまうのだろう。
何をするにも八方塞がり。
死の袋小路。
勝利も敗北も何も無い。
そもそも戦闘はもう既に終わっている。
これは、ただ全ての物に平等な死を与える死神の装置に過ぎないのだから。
――敗北する。
互いに互いを殺したいと望み神の子供達同士の戦い。その敗北は、つまりは死を意味する。
その事実を、どこかぼんやりとクリアスティーナは考えた。
死の恐怖に涙を浮かべる事すら許されず、クリアスティーナは全てが麻痺したような曖昧な感覚のままただ経過する時間の中に居た。
そうして、余りにも呆気なく。その瞬間は訪れた。
「――、あ」
何かを思うより早く。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの活動が、唐突に停止した。




