第三十四話 幸福な思い出Ⅲ――救国の聖女とディストピア
まるで見知らぬ土地の見知らぬ洞窟にでも入り込んだような気分だった。
神の力を使って『特例研』……『家』の内部に侵入したクリアスティーナは、息を殺すようにして物影に身を潜めていた。
舞い戻った見知ったはずの『家』は、まるで異界のダンジョンのように不気味だ。
それは自分達がやってきた事。決して触れてはいけない真実に触れてしまったからか、それとも、クリアスティーナが外へ出る以前と今とで、何か明確な変化でもあったというのか。
クリアスティーナは、心の内に巣くう不安と恐怖を少しでも誤魔化そうと一人呟く。
「……戻ってきたはいいですけど、どうしよう……」
既に時刻は午後六時を回っている。
授業が終わり、先生の『手伝い』を開始する時間だ。
クリアスティーナの外出がばれていれば今頃大騒ぎにでもなっているハズだが……
「なんだろう。やけに静かな気がします……」
クリアスティーナの目的は一つ。
何らかの手段で認識を阻害し、クリアスティーナ達を人殺しに使っている先生達の狂行を止める事。
だが、その真実を家族の皆に知られる訳にはいかない。
あんな救いの欠片もない地獄のような真実、いきなり見せられれば誰だって頭と心がおかしくなるに決まっている。事実を知った瞬間に舌を噛み切って自殺しようとする者だっているかもしれない。
クリアスティーナがこうして持ち直したのだって、ある意味奇跡のような物だった。
シロがいなければ、あのまま心が折れて何をしでかしていたか分からない。
あの少年――と言っていいのか最早分からないが――の言葉は抜き身のナイフのように冷たく、鋭かったが、それでもクリアスティーナに立ち上がる事を決心させる力を与えてくれた。
彼が何者なのか、味方なのか敵なのかすら定かではないが、彼がいなければ立ち上がる事すら儘ならなかったのもまた事実なのだ。
「ひとまず、皆に見つかる前に先生達に会わないと……」
現在彼女がいるのは四つある建物のうちの一つ。B棟二階の一角だ。
『特例研』に所属する研究者達――すなわち彼女らの『先生』の生活スペースにあたる場所だ。
普段はクリアスティーナ達子供の立ち入りは禁じられている区画でもある。緊急時に先生を呼ぶ場合も、施設内の無線を使う事が習慣化していた。
だからだろうか。
この場に子供が居るなどとは露ほども思わなかったのだろう。
周囲に憚る事ない先生達の怒鳴り声が、物影に身を潜めるクリアスティーナの耳にも届いた。
「まさか被験体一三〇七が脱走するなんて……」
「どうする!? アレには『操世会』から預かった例の少年も付いているハズだ。これが『操世会』の耳に入れば、事は我々だけで収まるような話ではなくなるぞ!」
「そもそも被験体一三〇七ははどうやって施設の外へ? 彼女の洗脳は? 認識阻害はどうなっている?」
「神の能力者の出入りを禁じる『神性障壁』が、何者かによって無力化されている。その他大小様々のセキリュティシステムも全て……! こんな都合の良すぎる展開、我々を妬んだ他組織からの介入があったとしか思えない!」
被験体一三〇七。
最初、クリアスティーナはその符号のような言葉が何を指しているのか分からなかった。
「今は原因の検証を進めている場合ではない。一刻も早く、事態を収束させる為に動くべきだ。被験体一三〇七の認識阻害が解けている場合、アレが我々に刃を向ける可能性は十二分に考えられるのだぞ! ……ひとまず、他の被験体はマニュアルEに則り強制睡眠によって活動を一時凍結させている。マニュアルFの実行へ移る為にも、一刻も早く被験体一三〇七の身柄を確保すべきなのだ!」
「だ、だが。被験体一三〇七は我々の最高傑作だ。現段階でも、干渉レベルAプラスの正真正銘の化け物。我々の持つ戦力だけで、無力化する事は可能なのか……?」
だが、気づく。
その言葉の持つ意味に、すぐに気づいてしまう。
「忘れたのか? いざと言う時の為、アレには緊急用のセーフティーを設けてある」
「まさか……!」
「『ウロボロスの尾』だ。アレとの接続を一時的に解除する。現在ヤツは常時最大出力で神の力を運用している状態だ。力を出力し続けるのに必要な供給源を断ってやれば、まともな生命活動の維持さえ儘なるまい」
「だが! それをすれば、アレの神の力の恩恵に与っている未知の楽園も瓦解しかねないぞ! 最悪の場合、全て……」
会話の内容。その詳細は分からずとも、滲み出る悪意が少女の心をズタボロに痛め付け蹂躙した。
耳を塞いで、全てを忘れ去りたい。そう思った。だけど、もう何もかもが手遅れだった。
「どのみち、この不祥事が『操世会』の耳に入れば我々のうち何人の首が飛ぶか分かった物じゃない。いいか、“言葉遊びではなく、物理的に首が飛ぶのだ”。ならば〇か一〇〇かの博打も、悪くないだろう?」
「そもそも、未知の楽園がどうなろうとも我々には知った事ではない。『操世会』のお気に入りだった我々には緊急脱出の手段もある。最悪の場合、この街には潰れて貰うほかあるまい」
「あぁ……! その通りだ。神の能力者なんて、所詮はどれも碌でもない化け物ばかりだ。貴重な実験データも、我々が生きていなければ何の意味もない。薄汚いモルモット共をベッドに生存を賭けるなんて良心的な賭け事だとは思わないか?」
次々と賛同の声があがる。
希望と夢の溢れる会議の果てに彼らが辿り着いたのは笑顔の殺人。家族殺し。
この街に暮らす神の能力者達の命を犠牲に、自分達だけは甘い蜜を啜ろうと言う醜悪な寄生虫の如き、唾棄すべき決定であった。
「決まりだな。被験体一三〇七を発見後ただちに『ウロボロスの尾』と被験体一三〇七との接続を切断。すぐに回収し、マニュアルFに従い認識阻害と洗脳による復旧作業へ入る。もし、切断の際に想定される不都合が生じた場合――我々は『特例寵児育成研』を放棄。マニュアルEXに従って、すぐさま地上への脱出を試みる。……もしそうなれば、この糞尿臭いゴミの掃き溜めとも、おさらばという訳だ」
この世の地獄は、もう見たつもりでいた。
あそこが底辺。不幸の絶頂で、それ以上は下に下がるはずはない。そんな幻想を抱いていた。
けれど違ったのだ。
クリアスティーナが嵌まっていたのは地獄の底なし沼。文字通り、底なんてどこにも存在しない。
自覚したが最後、ただどこまでもひたすらに堕ちていく。
ズブズブの闇に、どこまでも浅ましく悍ましい人間の邪悪と欲望の果てに、底などある訳がない。生きている限り、絶望は続く。苦痛は永遠に少女を捉えて離さない。
クリアスティーナの生きてきた人生に、幸せなんてどこにもなかった。
そんな簡単な事実に、ようやく気が付いた。
「は、ははは……」
ぺたりと。おしりを床につけて座り込む自分の口から乾いた笑い声が漏れる。
寒い。
体温が急速に引いていく。それと同時に、体の奥底から沸々と何かが沸き上がるのも自覚する。
ここまで育ててくれた先生達への恩返し?
この程度で愛情は消えはしない?
きっと先生達にもこんな事をしなければならない事情があった?
それを止めるのがクリアスティーナの役割?
「――馬鹿、みたいじゃないですか……」
愛されてなどいなかった。
大切になどされていなかった。
家族だなどと妄言をのたまっていたのは自分達だけだった。
モルモットと。あいつらはクリアスティーナ達の事をそう呼んだ。被験体と、そう呼んだ。
認識阻害? 洗脳? 何だそれは。
こいつらは、何の罪もない子供達に知らず人殺しをさせただけでは飽き足らず、全ての尊厳を奪い、好き勝手に利用し、あまつさえ自分達が生き残るための捨石にしようとしているのか……?
――思い出す。否、認識阻害が解かれたその瞬間から今ままでずっと目を背けていた事実を、クリアスティーナはようやく真正面から直視する。
逃げ続けていた地獄と対面する。
『――ここが食堂です。皆でご飯を食べたり、お話する時にも使います。毎日美味しいご飯が食べられるので、シロくんも楽しみにしていてくださいね!』
クリアスティーナ達に出される食事は『カプセル』だけ。まともな食事を出された事は一度もない。まるで獣のように四つん這いになって、床に直接置かれた皿に顔を突っ込み、家畜のような食事を強制されていた。
『――ここは大浴場。あっちが女湯で、こっちが男湯。使用時間は決められていて、シロくん達男の子は八時から九時までなら使えますよ。……そ、その……シロくんは大丈夫だと思いますけど、ディアくんなんかと一緒になって覗いたりしたらダメですからね……?』
大浴場とは名ばかりの、消毒液で満たされた冷たい浴槽。
夏の熱い日も冬の寒い日も関係なく、お前らの薄汚い身体についた雑菌を消毒しておけ、とでも言わんばかりに、三十分もの間それに首まで浸かる事を命令されていた。
『――ここは広場です。神の力の実演や、訓練をやったりもします。あ、災友くんなんかはここで色んな人と組み手やったりしてますよ。災友くんとっても強いから、見てて全然飽きないんですよー。あ、もちろん自由時間は皆で遊んだりもできるんです。ふふ、凄いでしょう?』
神の力を用いた組手と言う名の殺し合い。まるで蠱毒の壺のように、似通った実力を持った者同士で全力の殺し合いを強要された。
広場の隅には処理もされずに敗北した死体が山積みにされていて、鼻の曲がるような悪臭を放っていた。
そんな中でクリアスティーナ達は、自由時間にサッカーをしたり野球をしたりして遊んでいたのだ。遊べてしまうくらいに、頭と心を弄られていた。その事実に愕然とする。
『――ほら、ちゃんと医務室もあるんですよー。怪我をしたり病気になったりした時も、先生達が私達をきちんと助けてくれるんです! 嫌忌くんはよくサボりに来るみたいですけど、仮病はいけませんからねっ』
医務室という名の死体処理施設。もしくは実験場。ベッドに拘束され、電極を繋がれ、メスで身体を好き勝手に開かれ、体内を弄繰り回された。非人道的な実験など日常茶飯事。一体何人が此処で死んだのか、クリアスティーナには想像もできない。したくもない。
『――こっちは教室ですねー。ええ、色んな教室があって、授業ごとに移動したりするんです。教科ごとに先生が居て、私達が退屈しないように毎日面白い授業を考えて来てくれるんです!』
クリアスティーナ達はここで様々な事を学んだ。朝起きたら挨拶をしましょう。困っている人が居たら助けてあげましょう。泣いている人には優しく。正しい事を行い。間違いは正せるような人になりましょう。
人としての道徳。倫理。正義。……そんな教えを一体どの面を下げて垂れる事ができたのか。
その神経が知れない。面の皮が分厚いなんて物じゃない、奴らは人の皮を被った化け物だ。白衣の悪魔だ。
全てが偽りで、全てがまやかし。
授業をしていたあいつらは、何の疑いも無く自分達を信じ慕うクリアスティーナ達を見て、内心嘲笑っていたのだ。哀れな言いなりの傀儡どもを見て。
『――じゃじゃーん! ここは私の部屋です! 自由時間とかはここで読書をして過ごす事もありますよー。昔はリリレットちゃんと裂姫ちゃんと一緒だったんですけどね。少し前に一人部屋に変わったんです。……私は、前みたいに三人部屋とか大勢が好きなのですが……ハッ! べ、別に寂しいとかそういう訳じゃないですからね!? ねっ!?』
部屋に鎖でつながれ、自由な行動を許されなかった。
己の血をインクに文字を書き、絵を描くのが唯一の娯楽。読書だって、誰かの血文字で書かれた誰かの日記か何かだった。トイレもベッドもなく、水も飲めない。同部屋だった割宮裂姫は、その過酷な環境の為かクリアスティーナが六歳の時に死んだ。僅か八歳だった。
冷たくなった幼い死体を抱え、リリレットは裂姫の死に気づかずにずっと一緒に過ごしている。薬品漬けだった裂姫の身体は腐る事すら許されず、当時の姿のままイカレタ日常の象徴としてリリレットと共にある。
友の死を悲しむ事すら、この歪んだ世界では許されない。
『――ここは寝室です。就寝時間は決まられていて、夜の十一時には部屋に集合。十一時半までには就寝します。あ、心配しなくても平気です。皆で一緒に寝るので、きっとシロくんも寂しくないですよ!』
ヘルメットのような機材を頭にかぶせられ、様々なケーブル類を身体に繋いだ状態で、冷たい安楽椅子のような機材に腰掛けて眠る。
研究者達の実験動物を観察するような冷たい視線の中で、様々な数値を取られ、認識阻害の為の洗脳を受ける。朝起きれば薬物を首筋に注射され、全てが歪みイカレ狂った世界の中で、クリアスティーナ達は幸せを誤認して全てを毟り取られながら生き続ける。
搾取され続ける家畜と、何らかわりばえない日常がそこにはあった。
「あは、あははっはあ!! あっはあははははははははっははははっはははははははははははははははははははっははははははははははははははははははははははははははははっっっ!!!」
狂ったような笑いが漏れた。
大切な思い出、温かな日常、その全てが穢されていく。
血と肉と汚物と醜悪な邪悪とが、輝かしかったと思い込まされていた日々全てを極彩色に塗りつぶしていく。
正しい認識を取り戻したクリアスティーナが見たのは、絶望なんて生ぬるい言葉では表現する事のできないような、文字通りの生き地獄。
閉じた世界。管理された幸福。
救いなんてどこにも無い。
この管理された世界には、どこを見渡しても見せかけの幸福とありのままの地獄しかなかった。
気付かぬままに何もかもを奪われ。
何もかもを失って。
これまで得た幸せも、温かさも、絆も、感情も、その全てが虚構の上に成り立っている無意味で無価値な産物だったと知らされて、
残ったのはただ一つ。
「……ない、」
己の身体すら内側から融解させるような沸々と滾る憎悪だけだった。
「許せない……」
湧き上がる感情を抑える事など不可能。
それは、明確な指向性を持って起爆する。
「私は絶対に……ッ、許さない……ッッッ!!」
感情が、既定の値を凌駕する。
限界を超え、周囲の空間が歪に捻じ曲がり、観測不可能の領域へと踏み込んでいく。そして――
――己が身すら焼き焦がす感情と、世界の物理法則を強引に捻じ曲げる力とが、完全に同期し莫大に膨れ上がった。
☆ ☆ ☆ ☆
「……もしそうなれば、この糞尿臭いゴミの掃き溜めとも、おさらばという訳だ」
ニヤリ、と。
研究者の一人が脂汗の浮かぶ顔に邪悪な笑みを湛えた時だった。
耳障りな、人の心に爪を突き立てるような聞くものに不安を掻き立てる哄笑が響いた。
「?」
訝しげに思う暇すらなかった。
次の瞬間。
小惑星の爆発と見紛うような、圧倒的な光りと轟音とが、景色を塗りつぶした。
「――!!?」
衝撃波が施設の床に亀裂を走らせ、莫大な光量が研究者達の視界を塗りつぶす。
吹き飛ばされ、手近な壁に叩き付けられて、血反吐を吐く。世界の上下左右が逆転した彼らの視界が復活した時には、それから一分以上が経過していた。
何が起きたか分からない。
砂煙とうめき声の立ち込める中、それでも自分はまだ生きている事を自覚する。
レンズの砕けた眼鏡を忌々しく投げ捨て、全身を強打した身体に鞭を打ち何とか立ち上がろうとするそんな研究者達の前に、
「せん、せい……」
ふらり、と。
幽鬼のような足取りのクリアスティーナが、爆心の中心。その瓦礫の陰から現れた。
「な、被験体一三〇七!? 戻っていたのか……!!」
状況も忘れて歓喜の声をあげた研究者の一人は、次の瞬間にようやく気が付いた。
今の今まで自分達が大声で話していた会話の内容と、眼前のクリアスティーナ=ベイ=ローラレイの表情の意味に。そして、直前に発生した閃光と衝撃波の示す事実に。
喉が干上がり、寒気とさらに気味の悪い脂汗とが噴き出すが、全ては手遅れだ。
「……」
「ち、違うんだ。今のは――」
「その薄汚い口で、馴れ馴れしく話しかけるな……ッ!」
「がぁッ!? うぁああぁぁあああああぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!?」
圧倒的な力によって、研究者の男の右腕がおかしな方向へとへしゃげた。
「いだっつ……いだいぃいぃいいイイイイィィ腕ぁぁ、私のォ……腕ぎゃぁあああああああああァァァあアアアアアああああああああああああああああ!??」
捩じり。捩じり。捩じる。
まるで雑巾絞りのように捩じられ三百六十度骨ごと回転した右腕に、男は瞳に涙を浮かべ激痛に顔を歪めて絶叫する。
だがクリアスティーナは取り合わない。
目障りな汚物の発する耳障りな声に、形のいい眉を不機嫌気に歪ませるだけだ。
その光景を目にした他の研究者達が慌てて走り出すが、その場から一歩踏み出した瞬間に子供に踏みつぶされる蟻のように、その両脚が水っぽい音を残して赤黒い水溜りへと早変わりする。
醜く這いずってでも逃げようと生き足掻く彼らの必死さを嫌悪するようにクリアスティーナは赤い瞳を凍りつかせた。
「……そうですか。私達にはあんな事をしておいて、自分達だけはその生にしがみ付こうとするのですね」
楽に殺してやるつもりは無いが、かと言って逃がすつもりも無かった。
結果として、運よく腰を抜かしていた一人以外逃げ出そうとした者全ての両脚が潰えた。
激痛と恐怖による絶叫が木霊するが、それを確認することも意識にとどめる事もせず、
「兄妹の強制睡眠を今すぐ解除してください……」
「そ、それは……」
「今すぐにっ!」
「ひぃぃいいいっっ!!」
弾かれたように首を何度も縦に振る研究者の男に、先を促すように顎をしゃくる。
恐る恐る、こちらの様子を窺いながら歩き出す男の後を追ってクリアスティーナも歩き出す。
クリアスティーナに怯える研究者の男の後を付いて辿り着いたのはA棟の一階。数ある実験室の一つだった。
中を覗いてみると、クリアスティーナの知る裂姫の死体を除いた九人の兄妹達が、コールドスリープで使うカプセル容器のような機材の中で目を閉じ眠っているのが分かる。
研究者達の言っていたように、強制睡眠状態にあるのだろう。
「早く、皆の眠りを解いてください。……早くッッ!」
今にも噛み殺しそうな低い声で脅すように告げると、研究者の男は怯えながら焦ったように何度も相槌を打つ。
すぐに部屋の前方にあるコンソールに何かのコードを打ち込み、解除の作業を開始する。
――かに思えた。
「くっくく……」
「?」
何か、明らかに様子がおかしい。
訝しむクリアスティーナの予想を裏付けるかのように、男は勝利を確信したように醜く顔を歪ませると、クリアスティーナを嘲るように哄笑をあげた。
「くっははは! あっはははははははははは!!! 残念だったな化け物ぉーっ! これで我々の勝ちだ! おっと、動くなよ? 大切なモルモット仲間を殺したくないんだったらなぁ!? 考えなかったのか? 機材さえ手元にあれば、眠っているこいつらを殺す事だって可能なんだよ!」
半乱狂の体で唾を飛ばす研究者の男は、勝利を確信した下卑た笑みで、綺麗に整ったお人形のように可憐な顔からたわわに実った胸元、流麗な脚線美を持つ下半身までクリアスティーナの身体を舐めまわすように眺める。
「わざわざ人質を確保する手伝いをしてくれた事にお礼を言わなければなぁ? くっくく……馬鹿なモルモットにお似合いの拍子抜けの結末だよ! 実験動物風情がぁッ、我々に逆らうからこうなるんだ。待っていろ、今に『ウロボロスの尾』とお前の接続を切断してやる。そうなれば今のお前は神の力を使う事すら儘ならないただのゴミに成り下がる! どっちが上でどっちが下か、厳しくその身体に調教しなおしてやろう!! 厳しくなあ!? ぎゃはっあはっあはははははははははははははは!!!」
「……」
どこまで行っても救いが無かった。
クリアスティーナはもう、何も言う気にならない。この腐れ外道と何らかの方法でコミュニケーションを取る事自体が、自分という存在を穢しているようにも思えたから。
死んだ魚のように感情の凍えきった赤い瞳で、くだらない研究者の男を睥睨する。
そして次の瞬間。
知らずクリアスティーナを支えていた力の源との繋がりが、唐突に断たれた。
がくり、と。力の源を喪失したクリアスティーナの身体から、凄まじい勢いで干渉力が吸い上げられていく。
驚愕に目を見開くクリアスティーナを見て、下卑た絶叫が木霊した。
「はは……、あははっはははははっはははははははははははっははははははははは!! 勝った!! 『ウロボロスの尾』との接続が断たれた今! お前はただの非力な雌餓鬼だ! いひっ、ひひひ……さぁ、躾のなっていない実験動物には厳しくお仕置きをしないとなぁ?」
頭を垂れるように俯くクリアスティーナは、何の抵抗もしない。
悠々と歩み寄ってくる研究者の男を前に、ただ黙ってその場に立ち尽くしている。
そして男の無事な左手がクリアスティーナの肢体に伸びて――
――豊満な胸に触れた指先が、砂の城が崩れるようにボロボロと剥離し、空間に溶け入るように消えた。
「へ」
変化はそれだけでは終わらなかった。
消滅した部位から浸食するように、研究者の男の身体が、見えない何かに食われるように少しずつ粉塵となって消滅していく。
痛みはない。
それがかえって恐ろしいとでも言うように、男は発狂したような声をあげた。
「ば……な、なんっっっ!!? 何だコレェェエエえええええええええええ!!」
「……」
「嘘だ! だって、だってぇえええ! 『ウロボロスの尾』との接続は確かに切断した。今のお前に『多重次元空間』を維持したまま神の力を使える訳が……いや、まさか……!?」
己の言葉にハッとした研究者の男の顔色が、変わる。
畏れ、慄き、震える声で男は尋ねた。
「まさか、『神化』を? 『壁』を越えたのか!? 『神化』直後の暴走状態ならば、確かに、『ウロボロスの尾』無しでもこの出力は頷ける。だが、まさか……このタイミングで、『神の子供達』として完成したのか……!?」
問いかけに対する答えは、たった一言で充分だった。
「消えてください」
その言葉と同時、出力を増した少女の神の力によって、男の存在がこの世界から抹消された。
最後の言葉を残す事さえ出来ず――
――塵となって消えた。
「……ふは、」
場を支配する沈黙を、思いだしたような少女の哄笑が打ち破った。
「ははは……あはっ! あははっはははははははっはははははははははははははっは!! 消えた! ゴミクズが! 私達を騙していた外道が一人! 消えました。私が、消しました! ぁあ、褒めてくださいよ、皆! これで、私は……私達はこれで幸せに…………………………」
びきり、と。
少女の中で、何かが壊れた。
「……………………ふざっっっけんなぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
滂沱と血のような涙を流し、髪の毛を掻き毟り、拳を床に打ちつけて、それでも少女の怨嗟の声は止まらない。
己の中で行場を失い燻っている莫大な力が暴走する。
少女の望むを叶えるべく、未知の楽園全てを飲み込んで、憎悪のままに彼女の敵全てを世界から刈り取らんとする。
「なんなんですか! 何でこんなの……嫌だぁああ……嫌に決まってるじゃないですかぁあああああああああ!!! わたっ、私はっ、大好きだったのに。この家も家族も、大切だと信じてたのに、こんな……なにもかもが偽りで、感情さえも、私を裏切るのに! 私は、一体何を信じたらいいんですかッ!」
暴走する。
己の力を制御できない。
心が真っ黒に塗りつぶされて、何もかもが憎い。全てを破壊したい衝動に駆られる。
そして少女は、それをただ見ていた。
抗うことなく、戦うことなく、心のままに、塗りつぶされた衝動のままに、己の力全てを解放する。
――そうして少女は『神化』を果たす。
己の中の『壁』を乗り越え、『神の子供達』として完璧に完成する。
干渉レベルSオーバー。
『支配する者』。
次元と空間を司る、神の子供達。
「こんな現実……消えて、無くなってしまえええええええええええええええええエエエエエエエエエエッッッ!!!」
超新星爆発の輝きにも匹敵する純白が、全てを包み込んだ。そして――
――この日、未知の楽園から神の能力者を除く全ての人間の大人が消滅した。
なかには何の罪もない善良な人間や、神の能力者と結婚して夫や妻としてこの街にやってきただけの人間も居た。
だが、圧倒的な力は、その全てを平等に容赦なく飲み込んだ。
『特例寵児育成研』は跡形もなく消滅。まるで隕石が衝突した跡のような、巨大なクレーターだけが深々と刻まれている。
『操世会』も同様に、施設ごと跡形もなく消滅。
ほぼ形だけとは言え、未知の楽園を管理運営していた組織が中心人物から末端に至るまで、跡形もなく消え去った結果、未知の楽園は事実上の無政府状態になった。
家族を失った者。路頭に迷う者。絶望から解放されたと歓喜する者。変化にただ戸惑う者。
残された人々の反応は様々で、けれど誰もが、突如訪れた終わりに何をすればいいのか分からず茫然と空を見上げていた。
あれだけ美しく街を照らしていた夕日は、いつの間にか沈んでいた。
そして、『特例寵児育成研』のクレーターに、ぽつりと取り残された九名の子供達もまた、唐突に終わりを告げた己の悪夢と向き合う事となった。
洗脳が、認識阻害が、解けたのだ。
絶望する者。声をあげて泣き叫ぶ者。混乱する者。周りを励ます者。怒りに燃える者。途方に暮れる者。
言語化できない阿鼻叫喚の感情の嵐は、一晩や二晩で収まる事はなく、まるで呪いのように彼らの心に深い傷を残した。
ただ共通して言える事は、誰もが皆、立ち止まらずに前を見据えようとしていた事だろう。
……ただ一人の少女を除いて。
――白衣の悪魔の遺産と恐れられ、憎悪される少女が居た。
――救国の聖女と呼ばれ、慕われる少女が居た。
どちらも真実であり、どちらも虚構。
二律背反の勇者と魔王は、己の齎した結末を誰よりも恐れ否定した。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、家族だった九人に別れを告げる事もなく、彼らの前から忽然と姿を消した。
☆ ☆ ☆ ☆
その結末を、満足そうに見届ける少年――にも見える老人見える年齢不詳の少年が居た。
老人のような生気のない枯れた白髪と、若く瑞々しい肌を併せ持った、間違い探しのような少年は、老獪さと純粋無垢とを兼ね備えた瞳を輝かせ、変革を遂げた未知の楽園を実に興味深げに眺めていた。
『ッジジ……――それで、満足のいく結果は出ましたか? シーカー様』
若干のノイズを伴って頭に直接響く年若い男の声に、シーカーと呼ばれた少年シロは、何かを達観したような笑みをこぼす。
「ふむ。まあな。わざわざ姿を偽ってまで“私”自ら潜り込む価値はあったと判断していいだろう。それに何より、久しぶりに面白い見世物を見れた」
既にそこに少年の姿はなく、代わりに一九〇はあろう長身の男が佇んでいた。
その長身の足元まで伸びる長い髪の毛は白が濁ったようなくすんだ死の灰色。
白髪染めに失敗したようなその中途半端な色からは、髪の毛が随分と痛んでいるのが分かる。長い歴史を生きてきた事をありありと察せられ、時代の流れすら感じた。
古びた髪の毛とは裏腹に、その顔は誰がどう見ても二〇代前半の色男。瑞々しい若い肌は生気に満ちていて、美しい瞳に宿る若さの色香と老獪さとが、矛盾を秘めて輝いている。
老いと若さとをいっしょくたにしたような、どこまでも不自然で気味の悪い男だった。
『……悪趣味ですね。もっとも、私に言えた事ではないかもしれませんが』
ニヤリと、普通の人間が見れば悪寒を感じるような嫌な笑みを浮かべる白衣の男の顔が手に取るように想像できて、シーカーもまた鼻を鳴らす。
「……とはいえ、やはりアレに第一候補を任せるのは些か無理がある。『巫女』の器としての評価は高い。『神性因子』との適応率も破格の一言に尽きる。出力も神門審判を凌駕してはいる。だが……これは方向性の違いだな。アレは内側に特化しすぎている。外からの干渉を、あれは無意識化に拒絶するだろう。外と内の双方へ力を向ける必要がある私の計画とは、相性が悪い。惜しいがあれでは第二候補止まりだな。とはいえ、『神化』の際に世界に溢れ出したエネルギー……莫大な干渉力は、実に旨味があった。この調子で神の子供達が増えて行けば、時機に私にとって理想の環境へと世界の方から整っていく」
『これからどうします?』
「一度そちらに戻ろう。目的は果たした。全ては予定通り、数多くの憎悪と怨嗟を抱えて未知の楽園は無事崩壊。『巫女』の第二候補もこうして確保した。世界もその神秘を取り戻しつつある。首尾は上々だ、この私がつい遊びに熱中してしまうくらにはね」
『それほどまでにあの少女がお気に召したのですか?』
「なにを言う」
シーカーはそこで一度言葉を区切ると、感情の読めない声で、
「かわいい我が子達だ。愛おしいに決まっているだろう。当然、彼女に限らずな」
夕日の沈んだ地下世界の空を見上げながら、思ってもいないような事を言ったのだった。
……太陽は沈み、世界に闇が落ちていく。
あれだけ夕焼けに輝いて見えた街並みも、いまやさながら地獄の底のような淀んだ黒一色だ。
長い長い夜が、未知の楽園に訪れようとしていた。




