第三十三話 幸福な思い出Ⅱ――閉じた幸福の綻び
それからもしばらく、シロとクリアスティーナとの特別メニューは続いた。
「クリアスティーナ、君の好きな物はなんだい?」
「え、私? 私はですねー、家族が好きです! 勿論シロくんも私の家族ですから、好きですよ? じゃあ、シロくんの好きな物は何ですか?」
「僕の好きな物かい? ……そうだね、未知の物に触れた時、僕は至上の喜びを感じるかな」
「ふふっ、シロくんは本当に可愛げのない子です。お姉さんの私より賢そうな事言っちゃあダメなんですからね」
たいては他愛も無い会話がほとんど。
クリアスティーナが好き勝手にべらべらと喋っていたばかりだったのが、日が経つにつれてシロからの質問の回数が増えていく。
クリアスティーナは、それを良い兆候だと考え、質問に素直に答え、より沢山シロに話しかけた。
「それでですね、ディアくんってばいつもいつも私の邪魔ばかりして――」
「――君は、いつもディアベラスくんの事ばかり話すね。クリアスティーナ、君は彼に何か、特別な好意を抱いているのかい?」
「な、ななななににを言ってるのシロくんッ!!? そっ、そそそんな訳ないに決まっていれでそう!?」
「舌がうまく回っていないぞ」
シロは何故かクリアスティーナ以外の子供達と会う事を避けていた。
授業が終わり、先生達のお手伝いが始まる時間になると、いつの間にか姿を消してしまうのだ。
まるで意識の間隙に入り込む睡魔のように、気が付くとクリアスティーナの前から立ち去っている。
もっとも、本当にクリアスティーナが寝落ちしてしまう時もあるのだが。
「クリアスティーナ、君は今の暮らしが幸せだと、そう思うかい?」
「シロくん。この『家』はですね、身寄りのない私達を拾ってくれたんです。世界から見捨てられた私達を、それでも見つけてくれた人達がいたんです。確かに私には本当の家族はいないのかもしれません。でも、それ以上に大好きな兄妹達と、親のような先生達に囲まれているんです。毎日が幸せじゃない訳がないでしょう?」
「そうか……。君はここの人達が、本当に大切なのだね」
「はい! 勿論です!」
シロは『家』での暮らしについてよく聞きたがった。
クリアスティーナにとってこの『家』とそこに暮らす家族は、何よりも大切な宝物だ。だからシロからの質問にも自信を持って堂々と答える事ができたし、シロもその家族の一員なんだと誇りに思ってもらえるように、精一杯楽しかった思い出話や好きな所を語った。
物心つく遥か前から十五年も過ごした我が家は、クリアスティーナや他の子供達にとって掛け替えのない故郷だ。
その故郷をシロにも好きになって貰えたら嬉しいと、そう思った。
だからこそ、
「クリアスティーナ、君は。……外がどんな場所なのか、見たことはあるかい?」
その質問は、意識の外から唐突にやってきた。
「外、ですか……? それって、『家』の……外?」
「ああ、その外で間違っていない」
何かを恐れ、困惑したように言いよどむクリアスティーナに、シロは無遠慮に断定する。
何故だろう理由は分からない。けれどそのシロの言葉に、クリアスティーナはまるで刃物の切っ先を喉元に突き付けれらたような焦燥に駆られる事になった。
「見た事ない、です。……でも、外は危ないって、『化け物』が出るから絶対に出ちゃダメだって、そう先生も言っていたから。私は……」
心のざわめきが、心臓の奇妙な程の高鳴りが、クリアスティーナの心をささくれ立たせる。
警告のような、予感めいたクリアスティーナの直感が告げていた。そこから先に踏み込むべきではない、と。今すぐその場で回れ右をして逃げ出すのだ。
――この少年から……
「――そうか。君は『化け物』が怖いのだね」
けれど、シロはクリアスティーナに後戻りする事を許さなかった。
老獪で純粋無垢な矛盾を内包した瞳が、まっすぐにこちらを見て断言する。
「でも、大丈夫。恐怖は未知を放置する理由に成りえない。行こうクリアスティーナ。好奇心は猫を殺すと言うが。けだしそれは――好奇心とは死と比してなお価値ある感情だという事に他ならない。そうは思わないかい?」
……ああ、後々にして思えば、ここが全ての分水嶺だった。
今なら、今この瞬間ならば、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイはいつも通りの日常へと引き返す事ができた。
けれど奇妙な事に、この時のクリアスティーナの頭にはこのシロというこの少年の言葉を否定し拒絶するという選択肢は存在しなかったのだ。
何らかの強制力。もしくは、人の身には抗えない圧倒的な何か。
目の前の年齢不詳の少年から発せられる、どこか異様な雰囲気が一気に強まったような、そんな錯覚さえ覚えていた。
気が付けばクリアスティーナは、シロの言葉に首を縦に振っていたのだった。
この日、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは『我が家』とまで呼んだ『特例寵児育成研』を抜け出し、生まれて初めて未知の楽園という実験都市の空気に触れた。
この街へ来てから、既に十五年の月日が流れた初夏の日の夕方の事であった。
☆ ☆ ☆ ☆
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
もうそんな簡単な事すら分からない。
だが、その一歩だけは、鮮明に覚えている。
外へ。
十五年間、一度も出る事なく赤ん坊の頃からずっと過ごしてきた『家』から、その外へと踏み出した最初の一歩、その感触。
土を踏む裸足の足の裏が、予期せぬ温もりに驚いて転びかけた事まで鮮明に心に焼き付いて離れない。
感動とも、驚愕とも違う。
その時感じた感情、あれは……安堵、だったのだと今になって思う。
そうして十五年間もの月日を過ごしてきた『家』の外に出て、一番初めに感じたのは大地の温度と髪の毛を揺らす風と運ばれてくる土の香り。そして、細めた瞳に差し込む眩しい夕焼けだった。
「これが……外……?」
今まで、環境の変化のない世界で過ごしてきたせいか、目まぐるしく変化する景色と莫大な情報量に頭はパンク寸前だった。
というか……
「なに、これ……頭が、痛い……っ!」
「ふむ。予想より早かったな。まだ施設から外へ出ただけだと言うのに、集団心理でも応用した何らかの仕掛けを施してあったか。だが、悪くない兆候だ」
隣でクリアスティーナの手を引くシロが何を言っているのかも分からない。
吐き気すら伴う頭を割るような猛烈な頭痛が、クリアスティーナから正常な思考力も正しい判断力も何もかもを奪っていく。
「どうした? 行こう、クリアスティーナ。君が恐れていた『化け物』を見に」
「え、あぁ……うぅ…………?」
ただ手を引かれるままに、歩いた。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、そして……。
何か、致命的な事に気が付いた。
「……あ、れ……?」
街はどこか疲れたように廃れていた。
まだ夕方の六時前後だと言うのに人通りはまばらで少ない。数えられる程度の道行く人々の顔には生気がなく、頬はこけ落ち、げっそりとしている。まるで誰もが誰も、絶望のふちでも覗き込んだように瞳から輝きが失われている。
……だが、注目すべきはそこじゃない。
「どうした? クリアスティーナ」
「いえ……その、外にこんなに人がいるなんて思ってなくて……いや、そうじゃなくて、ですね。――なんだかまるで、皆が私に怯えてるみたいだなって……」
何か様子が変だ。
うわずった悲鳴をあげる人。腰を抜かして崩れ落ちる人。涙を流して許しを請う人。恐怖に気を失って倒れ込む人。嚇怒に顔を赤く染めて、罵詈雑言や呪詛を吐き散らす人。
反応は人それぞれ。
様々な感情が、嵐のように渦を巻き、煉獄のように場を取り囲む。
けれどたった一つだけ、この場における共通点があった。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。
この場に居る誰もが、彼女ただ一人を見ていた。
化け物を見るように、死神を恐れるように、悪霊を払うように、災厄に嘆くように、仇を憎むように、全ての感情の中心点に自分がいる事に、周回遅れでようやく気が付く。
だがやはり、その理由が分からない。
そしてこの状況を改めて整理し理解するだけの時間を、世界は与えてはくれなかった。
「……そんな分かり切ったことより、何かリアクションはないのか?」
クリアスティーナの隣に立っていたシロが、いかにも退屈げに口を開く。ただそれだけで、再びクリアスティーナは崩壊へと誘われていく。
「リアクション……?」
「ああ、目の前にいる物を見て、何か感想はないのかと聞いている」
「あ、え……?」
頭痛のせいでも何でもなく、本気で目の前の少年が何を言っているのか分からない。
ポカンと口を半開きにして呆けるクリアスティーナを、やや呆れたように見上げて、シロは感情の読めない微笑を浮かべたまま肩を竦めて、
「これはこれで予想外の反応ではあるが、こうも薄味では折角君をここまで連れ出した僕の努力が報われないという物だ。君が恐怖していた『化け物』とやらが目の前にこんなにも居るのだぞ? 少しくらい、反応があってもいいのではないか?」
気がつけば、握っていた手も離していた。
「………………………………………………………………………………………………………………え?」
クリアスティーナは、無意識のうちに白い少年から数歩だけ距離を取っていた。
聞き間違いか、何かの冗談か悪ふざけか。
とにかくクリアスティーナは、先ほどから戯れ言ばかり並び立てる少年の悪ふざけをやめさせようと、困惑したように眉根を寄せたままやんわりと窘めようとして、
「あ、悪魔め……!」
少女を罵る言葉と共に投げられた一つの石が、その動作を阻害した。
「いた……っ、」
痛みに反射的に振り返る。
クリアスティーナに石を投げつけたのは、まだ幼い少年だった。
ボロきれのような布を纏い、手足は痩せて細く、酷く貧しい姿をしたその少年は、瞳に憎悪の炎を燃やしてクリアスティーナを一心に睨みつけていた。
……痛い。
掌を傷口にあてると、血が流れていた。
だが、石を投げつけられた頭よりも、幼い少年の言葉が、視線が、クリアスティーナの柔らかい部分に突き刺さって抜けない。
身体中から止めどなく血液が流れ落ちているかのように、クリアスティーナから力が抜けていく。
「恭ちゃん!? 何をやっているのあなたは! お願いだからやめてこっちに来なさい! 殺されるわよ!」
少年の母親らしき女性の悲痛な叫び声が、さらに傷口を深く抉っていく。
殺される……? 誰に? 誰が? どうして?
この人達は、一体何にそんなに怯えているのだろう?
どうしてそんな目で、私を見ているのだろう……?
「お前が……お前らが、僕の父さんを……!! 返せよ! 父さんは、悪いことなんて何もしてないじゃないか! 皆を、……皆が幸せになれるように頑張ってただけなのにっ! 何でお前らみたいな化け物に殺されなきゃならないんだよ!!」
「恭ちゃんっっ!! お願いだから言うことを聞いて……っ!」
知らない。
追い詰められた化け物のように、少女は後ずさる。
「いや、やめて……」
そんな事、知らない。わからない。記憶にない。身に覚えがない。
頭を抱え、目を逸らすように踞る。
「私、は……」
まるで迷子の子供のように呆然とするクリアスティーナ。
瞳を見開いて戦慄く事しかできない少女に、隣に並んでシロは言う。
「自分が憎まれ、恐れられるの理由が分からない。そんな事を言いたげな顔だな。だがな、クリアスティーナ。全ての事情には原因と結果がある。これは、君が招いた結果だろう?」
「シロくんは さっきから何を言っているんですか……? 私には、分かりません……っ」
否定し、何もかもを振り払おうとするクリアスティーナの腕をシロの手が掴んだ。
逃げられない。万力で締め上げるようなその握力に、短い悲鳴をあげる。
思わずシロの方へ視線を向けて、目と目が合う。
思考放棄を決して許さないと、幼さゆえの純粋と年老いたが故の老獪さとを同居させた瞳がクリアスティーナを射竦めた。
「知らないとは言わせない、と言っている。……『化け物』退治をしていると言ったのは、君じゃないか。クリアスティーナ」
今度こそ、クリアスティーナの呼吸が驚愕に止まった。
視線を、逸らせられない。
「彼らが怖がるのも、彼らが憎しみを覚えるのも、実に当然の帰結だと思うが? 『特例研』のロゴの入った手術着。首輪と鎖。この街に住む者なら、馬鹿でも君が何者かを知っている。それに、この騒ぎから推測するに、君の家族の中には『化け物』退治の『手伝い』で実際に外に出たことのある者がいるのではないのか? ……もっとも、今の君と違ってメンタルのセキュリティやケアは万全だっただろうが」
分からない。
シロの言っている事なんて何も分からない、はずなのに……!
何か、頭の奥で引っ掛かりを覚えるのだ。
破棄された記憶。忘れ去れらた何か。触れることは許されないと分かっているのに、白髪の少年の視線が逃げる事を許してくれない。
そして。
意識した途端、それはやってきた。
――白衣の悪魔の使い魔め……!
――許せない……許さない……!
――あいつらが憎い。自由を、命を、何もかも奪った化け物どもが……!
――いやだ、死にたくないっ、殺さないでくれっ
――ああ、神よ……どうかお救い下さい
「――っっ!!? ッハァっ! ァ、ハァっ! ァ……」
既視感のある光景が、頭の奥で弾けた。
脳裏を槍で貫かれたような衝撃が走る。身体が雷に打たれたように痙攣して震え、弓なりにのけ反った。
視界が歪む。過呼吸のように嗚咽混じりの荒い呼吸を繰り返し、滴る汗が顎を伝って地面へ落ちた。
「ほう、ついに“解けた”か」
怨嗟と絶望と悲哀。この地獄を、クリアスティーナは知っている。
何も驚く事なんてない。
だってクリアスティーナは、この光景を幾度となく見てきたのだから。
モニター越しに、全てを傍観していた。
……傍観だって? 違うだろクリアスティーナ。お前は覚えているはずだ。
だって、この手で――
――殺してきたのだから。
「……うっ、おぶっっ……おろぉごぼぉっ!!?」
喉元にせりあがってきた不快感が、吐瀉物となって地面にぶちまけられた。
口の中に不快な酸っぱさが広がり、両の瞳からは止めどない涙が流れていく。
脳裏に浮かんでは消えた地獄。
助けを求める声。怨嗟の声。嘆きの声。絶望と諦観の声。
フラッシュバックした全てに、クリアスティーナは身に覚えがあった。
あり得ない。そんなはずはない。あってはならない。何度も首を横に振って、必死に否定しようとする度に、
『「化け物」は、ぶち殺さなければいけませんからね!』
『君が恐怖していた「化け物」とやらが目の前にこんなにも居るのだぞ?』
『「化け物」退治をしていると言ったのは、君じゃないか。クリアスティーナ』
己の言葉とシロの言葉とが交互にちらつく。
頭の中に確かに残る記憶が、映像が、それを間違いなく自分の物だと認めている。
「ぁ、ぁあ……」
そうして少女は気づいてしまう。
「ぁあ……あァぁあアアぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!?」
別に、複雑で難解な隠された真実がある訳ではない。これはもっと、極めて単純なお話だ。
先生に言われるがままに退治したきた『化け物』は、『家』の外で暮らす何の変哲もない罪無き人々だった。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、にっこり笑って十五年もの間人を殺し続けていた。
ただそれだけの、単純なお話だった。
☆ ☆ ☆ ☆
気付けばクリアスティーナは逃げるようにその場から駆け出していた。
「はぁ、はぁっはぁはあはぁっ、はぁはぁ……っ!」
短い髪の毛を振り乱し、緑色の手術着も泥だらけにして、訳も分からず走り続ける。自分が今どこを進んでいるのかすらクリアスティーナには分からない。
人の集団と出会うたびに聞える悲鳴が、クリアスティーナの心を着実に削ぎ落としていく。
知っていたはずなのに、その目に殺した光景をしっかりと焼き付け刻んでいたはずなのに、今の今まで自分が人を殺しているという事実に、気が付かなかった。
おそらくは物心つくずっと前。およそ十五年間もの間、クリアスティーナはその身に宿る神の力で無辜の命を奪い続けてきたのだ。
「信じない……信じない信じない信じない……ッ!!」
……何故こんな事になってしまったのだろう。
そもそも、クリアスティーナ達に『手伝い』と称して『化け物』の退治をやらせていたのは『特例研』の先生達だ。
クリアスティーナが人を『化け物』と勘違いしたまま殺し続けていた事を、指示を出していた彼らが何も知らなかったとは考えにくい。
だが、それはつまり……大好きだった先生達がクリアスティーナ達の事を利用していたという事になる。
知らない間に何の罪もない人々を数えきれない程に殺していた。
それをやらせていたのは大切な家族である先生達だった。
そんな物が真実だというのなら、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイという少女の十五年間の人生は一体何だったのだ?
何も知らずのうのうと人を殺し生きてきた自分は悪魔か何かか?
「こんな……こんな現実……嘘、です……! そんなの……ありえ、ないっ!!」
口からこぼれ出る泣き言とは裏腹に、クリアスティーナの頭はこれが現実なのだと認識しつつあった。
記憶に残る映像は、どれもが紛れもない本物だ。
今までどうして気が付かなかったのかが不思議なくらいに、思い浮かぶ光景に身に覚えがありすぎる。
心がそれをいくら拒絶しようとも、頭がそれを認めてしまっていたのだ。
その許容できない乖離に、魂が壊れそうになる。
考えないようにしようとすればするほど記憶が蘇る。
その度に繰り返される凄惨な地獄に、獰猛な吐き気が少女を襲った。
「ひぐっ、ぐず……私は、どうしてこんな……っ」
潰したのだ。
圧殺した。莫大な力で押しつぶした。それこそ缶ジュースのリサイクルでもするような感覚で、中身の詰まった生きている人の肉を直接プレス機にかけるように、莫大な圧力を掛けて押し殺した。
何人も何人も言われるがままに殺し続けた。
「うぅ、ぐぅっ、ぁァあ……」
……覚えている。
助けを求める子供の前で、その父親を潰した。
潰れたトマトのようになった残骸に、子どもは気が狂ったような半笑いを浮かべていた。
……覚えている。
許しを請う妊婦を、お腹の子供ごと神の力で握り潰した。
感情をこそぎ落としたような真顔になった父親が、後を追うように己の喉をナイフで搔き切った光景を、覚えている。
……覚えている。覚えている、覚えている覚えている覚えている……ッッ!!
「……あぁあァァああああああっ、ァあああアアアァぁああぁああああっっ、あああああああああああああああああああッッ!!?」
己の両腕を掻き毟った。突き立てた爪が十五年間日の光りすら浴びる事の無かった柔肌に食い込み、罪人の血が流れる。
血塗れの腕。取れない。落ちない。汚れが、真っ赤なドロドロした物が絡み付いて、染みついて染み込んで、とてもじゃないがとれそうもない。
削ぎ落とせばいいのか?
いつの間にか汚れに汚れたこの薄汚い両腕を、根本から切断でもすればこの汚れも取れるだろうか。
「なんでぇ……ぐずっ、なんでこの……取れないんですか……。汚れ、ひンっ……いやぁ……いやだよぉ……こんなの……」
ボロボロになった両腕で身体を搔き抱きながら、途方に暮れたように蹲る。
自分という罪深すぎる存在が、何故今までのうのうと幸せを噛み締めて生きて来たのか。己の人生そのものが清算することさえできない大罪のように思えてしまう。
「ッ! ……う、ぅげぇがぁ、おごぉ……っっっ!」
今日二度目の嘔吐。
胃の中に吐ける物も残っていないのか、黄色くて酸っぱい液体しか出てこなかった。
気持ちの整理がつかない。
自分が何をすればいいのか、何をするべきなのか。その全てが抜け落ち、クリアスティーナはあまりにも重すぎる己の業を前に何をする事も出来ず、ただただ押しつぶされそうになっていた。
「ここで何をしている?」
「ッ!!?」
だから、その声変わり直前のようなハスキーな声は、完全にクリアスティーナの不意を突いていた。
「なんで、シロくんが、ここに……」
「そんな事はどうだっていい。それより、君はこんな所で蹲っていて、それで満足なのか?」
いつの間に追いついたのだろうか。先の場所に置き去りにしたはずの老人のような白髪と瑞々しい肌を併せ持つ年齢不詳の少年――シロが少女のすぐ隣に立っていた。
クリアスティーナを睥睨するシロの、逃避を許さない厳しく冷たい問いかけに、クリアスティーナの目頭が再び熱くなり、視界が濡れたように歪む。
唐突に突き付けられた理不尽な現実。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかという怒り。
記憶の整合性、認識の異常、己の頭がおかしくなったのではないかという不安と恐怖。
そして何より己がしでかした罪過への絶望と嫌悪と重すぎる罪悪感。
「そん、なの……」
それら抑え切れない様々な感情が一気に噴火して、逃げ場も容赦もない問いかけをぶつけてきた少年へと、八つ当たりのように当り散らしていた。
「そんなの! シロくんなんかに言われたくないっ! だいたい、あなたが私を外に連れ出さなければ、こんな事にはならなかった! ッわたっ、私はぁっっ、……幸せだった! あの『家』で皆と楽しく暮らしていたのに……あなたが私を外に連れ出さなければ……あなたなんかに会わなければッ、こんな事にはならなかったのにッッ!!!」
「責任転換も度を過ぎれば愉快なものだね。クリアスティーナ、それは逃避だよ。僕は君に事実を認識させただけだ。僕の存在に関わらず、君が『化け物』だと思い込んで大勢の人間を殺していた事実は揺るぎはしない。君は正真正銘の人殺しだよ」
「でもッ! それでもッ! 私は……っっっ!」
「こんな現実は知りたくなかった、と?」
その問いかけに、首を横に振る事はできなかった。
そんなの、知りたくなければ良かったに決まっている。
これが悪夢ならどれだけ良かったか、此処に来るまで何度そう考えたかも分からない。
けれど。
そこまで思っても、クリアスティーナは問いかけに首を縦に振る事もできないでいた。
黙して答えを窮するクリアスティーナに、シロは感情の読めない顔を向けて、
「君は、家族が大切だと言っていたね」
「……」
「ならば、真実を知った君にしかできない事があるのではないか?」
知りたくもない真実を知った。
外に出てきた事を死ぬほど後悔しているし、クリアスティーナを外に誘ったこの少年に対する八つ当たりのような行場のない怒りも当然ある。
けれど、知ってしまったからには引き返せない事だってあるのだ。
クリアスティーナにとって、あの『家』で暮らす人達は他の何物にも代えがたい大切な家族であり宝物だ。
彼らが知らず人殺しの片棒を担がされていると知って、放置できる訳がなかった。
そして、自分達をここまで大きくなるまで育ててくれた先生達についても同じ。このまま見捨てるなんて、できるはずがない。
例え彼らに何らかの目的があって、クリアスティーナ達を利用していたのだとしても、それでも、ここまで育てて貰った恩は消えてなくなったりはしない。
クリアスティーナが育んできた家族への愛情は、この程度で消し飛んだりはしない。
もしあの人達が間違った方向へと進もうとしているのなら、それを止めるのがクリアスティーナの出来る恩返しだと思うのだ。
『授業』という形で彼らに教えられた人としての正しい理性や倫理、道徳心が、クリアスティーナをどうしようもない程に突き動かす。
助けなければ、ならない。
彼らによって育てられたクリアスティーナという少女は、どうしようもない程に暖かく、優しく真っ直ぐな少女として成長していたから。
「私しか、いないんですね……」
「そうだな」
「シロくん、いいえ。……あなたは一体何者なんですか?」
「さあね、それは僕自身が探し続けている答えでもあるのさ。それに今は、僕の事なんてどうだっていいはずだ」
それもそうですね、と。クリアスティーナは疲れたように自嘲気味の笑みを見せると、その場で立ち上がる。
「行くのかね」
「ええ。きっとそれが、真実を知った私にできる事ですから」
涙を拭い、顔をあげ、走り出す。
それは、絶望に屈せずに立ち上がった者だけに許される特権だ。
親しき者達の手で無自覚に繰り返される惨劇を、もう見過ごすわけにはいかない。
これ以上彼らの手を血で汚させない為に、クリアスティーナは自身の幸福な世界に別れを告げる。
もう一度、それを必ず取り戻す為に。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは決意を胸に、慣れ親しんだ我が家へと走り出していた。




