第三十一話 それでも物語はⅢ――対峙する神の子供達
白亜の巨城、その最深部。
四階部分にあたる尖塔の小部屋には、囚われの姫が幽閉されている。
流れ星のように美しい金色の髪と、宝石のような輝きを放つ赤い瞳。女性らしい起伏に富んだ身体。まさに物語の主役に相応しい華やかさを持っている女性だった。
だが彼女は悪い魔王に連れ去られた訳でもなければ、悪いお妃さまに疎まれている訳でもない。
自ら望んで囚われ続ける、引き篭もりの姫だ。
――否、人は彼女を、『姫』ではなく『聖女』と呼ぶ。
であるからにはそれは、『引き篭もりの聖女』と、そう呼ぶべきなのかも知れない。
『聖女』は自分の部屋に閉じこもったきり出てこない。
固く閉ざされた鍵の掛かった扉は、外側からでは開く事が出来ず、彼女を大切に思う者達は、誰一人としてここ三年間の間、“実物の聖女の顔”を見ていない。
だからこそ、ディアベラス=ウルタードは困惑と疑念を同時に感じていた。
「おい、これは何の真似だぁ?」
ディアベラス=ウルタードの視線の先。
天蓋付のベッドに腰を下ろして、投げやりな微笑を浮かべている金髪赤眼の少女に、ディアベラスは怒気さえ孕んだ強い口調で語りかけた。
「別に、なんだっていいでしょう」
己の身長をゆうに超えるウェーブブロンドの髪を、自らのメリハリある肢体に着物の帯のように巻きつけた少女は、“眼前のディアベラスに対して投げやりな口調で答えた”。
異性の前だというのに相変わらず透明度の高いネグリジェを纏った無防備な少女は、その実この世で最も硬い守りを有している少女でもある。
故に無頓着なのか、そもそも彼女が言うように本当にこの世の全てに興味がないのか。
「ハッ、今更になって俺の顔が恋しくなったかよぉ。やっぱりダメ元でもアタックし続けるモンだなぁ、おい。アスティよぉ……?」
「そのふざけた臆測で物を言わないでください。不愉快です」
そのふざけた挑発に、“聖女の凍える赤の視線がディアベラス=ウルタードを射抜いた”。
――聖女の視線の先に居るのは、淑女の寝室に似合わない、野蛮で豪快な男だった。
幾重に傷の走る褐色の肌と、己が野望にギラついた瞳を覆い隠すような黒いサングラス。そしてやはり特徴的なのは、頭の後ろで結んだドレットヘアーだろう。場末のラッパーか、もしくはマフィアの首領。そんな第一印象を与える男だ。
男の名はディアベラス=ウルタード。
最強に一歩届かなかった、未知の楽園二人目の神の子供達。
干渉レベルSオーバーの怪物。
『悪魔の一撃』をその身に宿す、『白衣の悪魔の遺産』が一人。
とある神の子供達との戦いに敗れ、この世界での実体を失った“ハズ”の存在。
――そう、今のディアベラスには肉体――実体があった。
世界と世界の狭間に閉じ込められ、己の神の力を応用する事で何とか世界への干渉を図っていたハズの彼が、再び自らの両脚で大地を踏みしめて立っている。
自らの力で『聖女』の神の力から抜け出した訳ではない。そんな事ができるのなら、ディアベラスはとうの昔に『聖女』を殺している。
だからこその問いかけ。
何故、己の力で封印していたディアベラスを『聖女』自ら世界と世界の狭間から引き摺り上げたのか。
それも、自らの部屋に招き入れるような形で。
「……強いて理由をあげるなら、そうですね。貴方の声は耳障りなんですよ、ディアベラス=ウルタード。貴方はまるで美麗な食事に集る蠅です。払っても払っても、耳元で煩く羽音を響かせる。見えないように蓋をしたのに、それでもその羽音は私の気分を害します」
そして聖女の答えは、実に単純で分かり切っていた物だった。
「――故に、後回しにしていた決着を今此処でつけてしまおうと思ったのですよ。ディアベラス」
存在そのものを消滅させる。
異界へ閉じ込めておくのではない。面倒事を先延ばしにするのではない。反逆の可能性すら完全に詰み取る抹殺を行う。
それはつまり、先送りにしてきた二人の因縁に此処で全ての決着をつけるという事であった。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、ディアベラス=ウルタードを今日ここで殺すつもりなのだ。
「なるほどなぁ。俺を殺すかぁ、アスティ」
「ええ。殺しますとも、ディアベラス」
少しだけ寂しげな不敵な笑みと、諦観すら見失ったなげやりな微笑が交わされる。
互いに互いを殺そうとしながら、心の底では互いに互いを理解しあった不可思議な絆で結ばれた二人。
彼らの交わす言葉は、彼らにしか理解できない類の呪いだ。
「――お前は俺を決して許さないだろぉ」
「――私は貴方に許されなくても構わない」
たった一言の懺悔があった。
たった一言の拒絶があった。
そのたった一言で、互いは互いの全てを理解していた。
……二人が絶対に分かり合えない事も。
「だが構わねぇ、俺は此処でお前を絶対に殺してやらぁ」
「ええ、ですので私は、ここで全てを断ち切りましょう」
直後、常人なら存在する事すら儘ならない殺気が両者の間で膨張して――世界へと干渉する破壊が、その場を満たした。
「――」
「――」
起きた現象は至って単純。
ディアベラス=ウルタードの翳した掌から放たれた紫混じりの朱色の一撃を、ベッドに腰掛けたままの『聖女』が生み出した“陽炎の揺らぎのような無色透明の障壁”が完封した。
聖女と赤紫の閃光とを阻むように発生した透明の極薄の膜は、超高密度のエネルギー砲を受けてなお少しも揺らぐことなく、その全てを包み込むように受け止めたのだ。
発生したはずの轟音すら抑え込まれ、世界は未だ静寂に呑まれたまま。
常人の目には、一瞬赤紫の閃光が瞬いただけにしか見えなかっただろう。
しばし、二人は無言でその視線を交錯させ――直後、まったく同じ現象を七〇〇回ほど繰り返した。
ディアベラスがゼロコンマ一秒のタイムロスすら許さず立て続けに必殺の一撃を叩き込む。
解き放たれた一撃は、まるでレーザービームのように光の尾を引き、軌道上の空気を撹拌して『聖女』目掛けて一直線に突き進むだろう。
距離、射程、射線、その全てを無視して襲いかかる偶然の死。そんな凶悪な概念を内包した赤紫の禍々しい輝きを、まるで聖母の抱擁のように無色透明の極薄の膜が“発射される前”に優しく包み込む。
解き放たれる事すら許されなかった破壊の光線は、輝きを放つ事のみを許され破壊をまき散らす前に収束する。
それはまるで乱打戦だ。赤紫の輝きと陽炎のような揺らぎとが繰り広げる殴り合い。
その結果、目に見える現象は実に綺麗な物だった。
クリスマスツリーを彩るイルミネーションのように、見つめ合う両者の間で赤い光りが綺羅星のようにチカチカと途切れることなく瞬いた。
美しく、幻想的な光景。
見つめ合う二人は、互いを愛し合う恋人のように濃密な感情の籠った視線を交換し、二人にしか分からない複雑な思いを交錯させる。
その現象を成立させる為に、どれほどの神秘と奇跡が消費されたのか。常人には知る由もないだろう。
なにせ彼らは神の子供達。
文字通り、人の領域に留まらない異端で特異な埒外の存在なのだから。
「チッ、」
爆撃を続けながら、忌々しげにディアベラスが舌打ちをする。
これだけの攻防を繰り広げておきながら、会話すら楽しむ余裕がある時点で彼もやはり紛れもない怪物だ。
「忌々しい守りだ。埒があかねぇ。テメェの寝床まで男を招いたんだぁ、期待させた分くらいガードは緩めてくれてもいいんだぜぇ?」
「……それが遺言で構いませんね?」
斬り捨てるような冷たい言葉と同時、攻守が切り替わる。
ディアベラスの神の力を抑えるだけだった『聖女』が、依然としてベッドに座ったままその右腕を気だるげに振るう。
「――ッ!?」
それだけで、ディアベラスの立っていた空間座標が歪む。
それは、歪な斬撃だった。
そのまま立ち尽くしていれば生じた空間の歪なひずみに巻き込まれて上半身と下半身を捩じ切られていただろうディアベラスは、その直前で己の掌から『悪魔の一撃』を放つ。高密度のエネルギー砲をロケットブースターのように使うことで、危険な座標から間一髪脱出する。
神の領域に踏み込まんとする干渉力を伴った高密度のエネルギーの奔流が、ついでとばかりにそのまま『聖女』ごと寝室を蹂躙した。
だが当然のように、『聖女』には傷一つない。
「……乙女の寝室を破壊するだなんて、とんで不埒者ですね」
ディアベラスの神の力によって破壊の限りを尽くされた己の寝室を見やって、何の感慨も無さげに『聖女』がぼやく。するとその一秒後には、何事もなかったかのように部屋が復元されていた。
ディアベラスは『聖女』の部屋を勢いよく突き破り、外に脱出している。
当然のように敵の座標を知覚している『聖女』は、すぐさま己の身体を転移させた。
転移先は空中、『悪魔の一撃』をロケットブースターのように利用して空を飛ぶディアベラスの真上に跳ぶ。
『聖女』の転移に気付いたディアベラスが己の頭上へ首を巡らせ、サングラスの下の瞳を見開く、だが全てが遅かった。
「……パンツ、丸見えだぜぇ?」
『聖女』はその戯言を無視した。
「墜ちろ」
掌を翳した『聖女』が告げると同時。空を飛ぶディアベラス=ウルタードを不可視の圧力が襲った。
まるで隕石の落下のような勢いで、ドレッドヘア―の青年の身体が地面へと叩き落とされる。
舞い上がる砂埃と共に、落下の衝撃を上回る“何か”によって直径五メートル程のクレーターが落下地点に生じ、さらに地面に走る罅割れは増加を辿る。
疑似重力攻撃。
『救国の聖女』が司るは次元と空間。
空間を己の手足のように支配する彼女は、疑似的な重力攻撃さえ可能とする。空間を圧倒的な圧力で蹂躙し押し潰すそれは、重力操作と見分けが付かない。
そしてディアベラスを襲うのはそれだけではない。上方向から掛かる重力の他に、彼の五体を引き千切ろうとする不可視の力までも加わっていた。
あまりの苦痛にディアベラスの口から呻き声が漏れる。
「ぐ、ぁ……がぁッ!?」
空間圧搾。
莫大な力で対象を押しつぶす、空間を司る彼女の持つ手札の一つ。
かつてはこの力で、とある無力な少年を雑巾を絞るように引き千切った事もある。
威力は絶大。とてもじゃないが、人に耐えられるような代物ではない。
――だがしかし、この程度で沈むようならばディアベラス=ウルタードは神の子供達を名乗ってはいない。
依然として不敵な笑みを浮かべる青年は、口の端から一筋の鮮血を垂れ流しながらも、
「――堕落せよ、悪魔の幸運へ導かれて!!」
意趣返しのような詠唱と共に、宙に浮かぶ『聖女』の四方を赤紫の球体が囲んだ。
それが赤熱し眩い光を放つと同時、宙に浮かぶ『聖女』が雷に打たれた小鳥のように一直線に落下する。
今しがた聖女に叩き付けた光りは“高所からの落下による死”、という概念そのもの。
己より高い位置にある者を強制的に地に落とし、“単なる高所からの落下”以上の概念的なダメージを与える攻撃だ。発動に互いの位置という制約が含まれるため使いどころは少ないが、その分効果は絶大だ。
いかに最強の『聖女』と言えどまともにこれを喰らって、無傷でいられるハズがない。
あくまで、理論上は。
「……なるほど。確かに、私の防御を貫くだけの強制力は秘めているようですね。流石は干渉レベルSオーバー、『神の子供達』を名乗るだけはあります」
砂埃が晴れた先、
地へ墜落ついらくした『聖女』は、傷一つ負っていなかった。
ディアベラスの放った一撃は、彼女を空中から引き摺り下ろすのが精一杯だったのだ。
『聖女』は冷めた瞳で地に倒れたままのディアベラスを見る。
「それで、今のが貴方の奥の手ですか? ディアベラス」
「まさか、挨拶代りに決まってんだろぉがぁ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
何事もなかったかのように首を傾げる『聖女』に、何事も無かったかのように立ち上がり返答する『悪魔』。
両者の戦いの舞台は城内を飛び出し、城門前へ。
城門前周辺で戦っていたハズの『逃亡者の集い旗』を名乗る他の『白衣の悪魔の遺産』達や『背神の騎士団』のスピカにレインハートは、彼ら二人が現れたと同時に速やかに戦闘の場を城内に――『聖女』の背後へと移している。
二人の戦闘の余波に巻き込まれる事を嫌ったのだろう。
極めて賢明な判断だ。
何故なら――
――戦場の中心はこの怪物二人以外にありえない。
ディアベラス=ウルタードとクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。この両者の戦いの結果が、両陣営の勝敗をも決定させることは疑いようも無いのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
『聖女』クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは白亜の巨城を背に立ち、『悪魔』ディアベラス=ウルタードが白亜の巨城を前に牙を剥く。
両者の間合いはおよそ二十メートル。
しかし距離を無視して悪魔的な偶然で相手の命を刈り取るディアベラスと、空間を支配し手足のように自在に操るクリアスティーナ=ベイ=ローラレイに物理的な距離など何の意味もなさない。
この世界に存在するだけで、二人にとっては射程圏内に立ち入っている事を意味する。
既に両者は互いに致命的な間合いにまで踏み込んでいた。
しばし無言のまま睨み合う二人。その静寂を打ち破ったのは、ディアベラスだった。
しかしそれは、開戦の合図とは成りえない。
「……なあ、アスティ。お前をぶっ殺す前に一つ、聞いてもいいか?」
「なんでしょうか」
そのディアベラスらしからぬ真剣な声色に、クリアスティーナが短く先を促した。
これがきっと彼女との最後の会話らしい会話になるかもしれない。ディアベラスはそんな事を胸中で考えながらも、質問する事を止めようとは思わなかった。
答えの分かり切った問いかけを、何かの儀式のように目の前の敵へと告げる。
「東条勇麻を……己の為に他者の命を奪った事を、お前は後悔しているか?」
サングラスの奥、青年の瞳が殺気を帯びてギラリと輝いていた。
『聖女』はそれに気付いてなお、表情を崩す事無くディアベラスを見据えていた。
そして、
「――何故?」
ゆらりと、首を傾げたクリアスティーナが一歩前へと踏み出す。
「後悔とは、完膚なきまでに敗北しそれでも前に進む生者の抱く感情です。後悔には反省と次回への改善が付随すべきです。終わった者に、淀んだ停滞を望む私に、そんな無意味な感情があるわけないでしょう。変わる事を望まない私が思うそれは単なる過去回想。人の書いた本を眺めて感傷に浸っているだけにすぎないのですから」
「そうか」
ディアベラスは、彼女の答えに僅かにその場で俯いた。
……分かっていたことだ。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは、そう答える以外の選択肢を持たない。
彼女は東条勇麻を殺すしかなかった。
そうでなければ、彼女は彼女として存続しえない。
世界に変化を、変革をもたらす異分子を、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイは決して許容できない。
だってそれは繰り返しだ。三年前のあの日のような悲劇を、彼女はもう見たくない。見たくないからと目を塞ぎ逃げ続けている。何も見ずに済むようにと、こんな寂しい誰も居ない城に独り引き篭もっているのだから。
だからきっと、言い聞かせるようにして心を殺して殺したのだろう。
自覚すれば壊れてしまうから。
だからこれは、ディアベラス=ウルタードの責任でもあるのだ。
ディアベラスが逃げずに現実を直視する事が出来ていれば、少なくともこんな風に二人が対峙する結末だけは防げたはずなのだから。
再び顔をあげた彼にあったのは、純然たる殺意。
目の前の女を必ずや殺すという、汚れなき覚悟だけだった。
「クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。やっぱり俺はお前を殺さなきゃならねぇ」
「そうですか」
どこまでも無関心に無責任に無感情に、聖女は吐き捨てた。
己の命についての話題だと言うのに、それすらどうでもいいと目を逸らす。
それが、ディアベラスにはどうしようもなく悲しくて悔しかった。
もう、こんな悲しみは沢山だ。
地獄なら腐るほど見た。彼女も、そして自分も。
「これは弔い合戦でも復讐でもねぇ。違える訳にはいかねぇ男と男の約束ってヤツだ。だから俺は、お前をぶっ殺すついでに、東条勇麻が救おうとしたモンを救う。この命に懸けても必ずなぁ」
だったらもういいではないか。
悲しみも絶望も苦しみも、辛い事は一生分味わった。
だから終わりにしよう。
これ以上彼女が苦しみ続けるのは、割に合わない。
「……約束、ですか。いいですね。私にとっては酷くどうでもいい話ですが、それはとても尊い物なのでしょう。ですが、そもそも貴方に私を殺す事ができるのですか? 同じ神の子供達とは言え力の差は歴然だと思いますが」
「かもしれねぇなぁ」
『聖女』の指摘をディアベラスは否定しなかった。
ディアベラスは、ごきりと首を鳴らすと、自然体のまま眼前の難敵を見据えて、
「だが一つ覚えておけ、クリアスティーナ。……人を殺した外道が迎える末路は、等しく地獄だぁ。だから俺もお前も、今日ここで共に堕ちようじゃねぇかぁッ!!」
咆哮と同時、ディアベラスが右腕を横一線に薙いだ。
彼の腕の動きに呼応するかのように、何処からともなく襲いかかる赤紫の閃光が世界を染めあげ塗りつぶそうと少女に迫る。
赤色の絵の具をぶちまけたような惨状、しかしそれは『聖女』には関係のない話だった。
次元と空間を司るクリアスティーナにとっては、降りかかる閃光など脅威に成りえない。己と攻撃との間に一時的に異なる次元を挟み込む事によって疑似的な障壁を作り出す。
無色透明。されど確かにそこに、何かがあると主張する陽炎のような空間の揺らぎ。
『次元障壁』。
僅か一ミリにも満たない極薄の壁は、されど絶対的な壁となる。
「何度やっても同じだと言うのに……。懲りないのですね、貴方は」
「へ、お前が言ったんだろ頑固女。俺って奴ぁしつこいってなぁ……ッ!」
やはり『聖女』は無傷。衣服に汚れ一つ付着していない。その結果を悟っていたディアベラスは、すぐさま大地を蹴って走り出す。止まっていれば彼女のいい的になるからだ。
片手間で振るわれる空間圧搾と疑似重力攻撃を、時には足裏からブースターのように『悪魔の一撃』を噴射して紙一重で躱しつつ、何千何万と赤と紫の入り乱れる閃光を炸裂させる。
レーザービームのように次々と放たれる一撃。光が瞬き破壊が乱舞する。
しかし『聖女』はその全てを徹底して抑え込む。
爆発も、熱風も、衝撃も、轟音も、エネルギーも、命を刈り取る概念も、その全てが薄膜一枚に阻まれ届かない。
全力で追いすがるのでもなく、
好敵手を前に燃えるのでもなく、
ただただ惰性に、目障りだから程度の心持ちで『神の子供達』の放つ全身全霊を防ぎきる。それが可能なのはおそらく世界に彼女一人だけ。神の子供達の中でも極めて強力な守りを持つ彼女だけの特権だ。
「……圧倒しているとはつまらない事ですね。貴方の“殺し”は、決して私に届かない。なんて無意味で無価値。なんという皮肉なのでしょうね。これこそまさに私の愛すべき泥沼の平穏。淀んだドブ川の流れのような停滞。貴方が幾億の光りを降らせようとも、変化など何もない。……悲しい事ですね、ディアベラス=ウルタード。誰よりも『招待客』達に協力し、私諸共この安寧を破壊しようとした貴方が、誰よりも『招待客』達に遠い。どれほどこの不変の現状を覆そうと足掻いても、貴方一人では決してこの世界を変えることは出来ない。……もっとも、だからこそ『招待客』などという不確定要素に頼ろうとしたのでしょうが」
千でも万でも『聖女』相手には足りない。届かない。意味がない。
――ならば億の雨を降らせるまで。
己の不利を知ってなお、ディアベラスは不敵に笑う事を止めない。
さらに輝きの密度とその連続数を増す閃光に、けれど『聖女』は動じない。
愚直に攻撃を放ち続けるディアベラスに呆れたような――表面上そう見えるだけのポーズでしかない――溜め息を吐いて、
「それが――無意味で無価値だと言っているのです」
瞬間、空間に水溜りのようなちぐはぐな“穴”が幾つか生じた。
それを知覚した刹那、『聖女』へ向けて放ったはずの『悪魔の一撃』が、ディアベラス=ウルタードへとその矛先を反転した。
「――ッ!」
ディアベラスの五体が消し飛ばなかったのは、咄嗟に掌から放った『悪魔の一撃』がある程度のエネルギーを相殺したからだろう。
それでも二つのエネルギーの衝突によって発生した爆発の熱風と衝撃波は、容赦なくディアベラスの身体に襲いかかり、内臓にまで甚大なダメージを走らせる。
抗いがたい爆風に身体は落ち葉のように宙を舞い、十数メートルの距離を転がった。
己の放つ一撃にも似た鮮血を口から吐きつつ、ディアベラスは今起きた現象を分析する。
……ディアベラスの放った『悪魔の一撃』が空間に突如生じた歪な穴の一つに吸い込まれたかと思うと、幾つか展開された別の穴の一つから、吸い込まれた『悪魔の一撃』がディアベラス目掛けて吐き出されたのだ。
その光景が示すのは、
(俺の攻撃を跳ね返した――いや、あの“穴”、空間を跳躍させて、軌道を変更したってのかぁ……?)
ブラックホールとホワイトホールのような物だ、とディアベラスは結論付けた。
ようは入口と出口を設定し、ディアベラスの放った『悪魔の一撃』を入口から出口へと転送、『聖女』へ向けて放たれた『悪魔の一撃』の軌道を、そのベクトルを変更する事なくディアベラスへと捻じ曲げたのだ。
『聖女』は泰然としたまま地に倒れ伏すディアベラスを睥睨している。
それはまるで鋼鉄の天使。
感情を凍結させ、ただ己の目的を果たす為に淡々と動き続ける、機械の天使のように見えた。
「いい加減理解は及びましたか? 貴方の殺意は最終的に全て自らへと跳ねかえる。私を殺そうとする貴方は、故に私に殺される末路しか残されていない。何を選択しようとも辿る結末は同じ、ならば抗う事を諦めるのが賢いとは思いませんか?」
「……なあ、アスティよぉ。お前確か、この世界に微塵も興味が無いんだってなぁ?」
聖女の質問を無視してディアベラスは問いかける。
不快そうに眉を歪める聖女を見て、ディアベラスはますます意地の悪い笑みを浮かべた。
過去にもこんな風に彼女の言動の揚げ足を取ってからかう事があったなと、そんな場違いな感傷に浸りながら、
「その割にはよく口が回るじゃねぇかよぉ、聖女様ぁ。本当にこの世界がどうでもよくて興味がねぇんだったら、どうしてお前は『招待客』殺しにこうも躍起になってんだぁ? 気付けよ馬鹿女。お前の言動は何もかもが矛盾してるって事に」
……クリアスティーナ=ベイ=ローラレイを呪縛から解放する。
「人の気紛れにいちいち理屈を付けたがる貴方のような愚か者は、私のような者の気紛れで死ぬのです。どうでもいいからこそ、筋道を通す事すら億劫なのですが……それを説明するのも面倒です。やはりこの煩わしい羽音と別れを告げるには、貴方を消し飛ばすしかないようですね。ディアベラス=ウルタード」
もはや言葉は届かない。
ディアベラスが何を言おうと、彼女はそれを否定するだろう。
世界への関心も興味も失った抜け殻として、変革後のこの世界を否定し続ける。変わる事を拒み続け、変わった事すら認めようとはするまい。それがクリアスティーナ=ベイ=ローラレイという少女が己に課した生き方なのだから。
きっと少女は死ぬまでこのまま惰性に死んだように生きつづける。
だから、絶対に負けられない。
己自身に囚われ、永久の責め苦を受け続けるだけの少女を、ディアベラス=ウルタードが焼き尽くすのだ。
その為の力。
その為の存在。
その為だけに、今日まで生きてきたのだから。
……立ち上がれ。
身体は動く。地面を転がりあちこちを擦り切り血の流れる身体。今はその肉体がある事が、何よりも喜ばしい。だから痛みなど気になりはしない。
……翳す掌に力が集約されていく。
距離、射程、射線、あらゆる制約を無視して突如として降り注ぐ偶然の死。
悪魔的な幸運によって齎される唐突な終わりを、その手で再現する神の力。
『悪魔の一撃』。
その力を、今こそ最大解放する。
「……哀れで馬鹿な女だ、お前は。これ以上、お前が苦しむ必要なんざ何処にもねぇ。ここで終わっちまえ、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。……俺に殺されて、終われぇえええええええええええええええええええ!!」
諦観を含んだ無関心と、慈悲に包まれた殺意とが至近距離でぶつかり合う。
二人の神の子供達の干渉力が、たった一つしかない世界で鬩ぎあい喰らい合い、互にこの世界の常識を侵食していった。




