第三十話 それでも物語はⅡ――心の向き
午前二時過ぎ。
廃墟となったディアベラスの家を飛び出した九ノ瀬和葉は、未知の楽園の外周区を一人駆け回っていた。
まるでスプリンターのような全力疾走。
こんな勢いで走って、運動音痴の彼女の体力がもつ訳がない。そんな事、自分が一番分かっていた。
分っていて、それがどうしたと吐き捨てる。
何かの亡霊から逃げるような少女の息は荒く、このまま己の肺が潰れる事を望んでいるかのような、破滅的で自罰的な衝動さえ感じる。
だが違う。
和葉は何の意味もなく己を傷つけて悦に浸るような愚か者ではない。そんな事をしたって、何の意味もない事を少女は知っている。
九ノ瀬和葉は未知の楽園の住人らしく、今己に出来る最大効率を成しているだけだ。
簡単な損得勘定だ。
利益と不利益。
二つを天秤にかけ導いた最適を出力する。
『……終わりにしよう。全ての元凶を。聖女を、討つ。……あの男の望み通り、何もかもを救うために』
その言葉に、和葉だけが首を縦に振る事ができなかった。
逃げるように走り出した和葉を引き留める言葉すら無視して、少女は今ここにいる。
……戦えない自分があの場所に居ていいはずがない。自分のせいで東条勇麻は死んだのだ。なら、その償いを果たすべきは和葉一人だ。
だからこれは逃げたのではない。
これから戦場へと向かう彼らの士気を損ねぬように、邪魔者は邪魔者らしく退散しただけ。言い訳のように、何度も何度もそう心の中で繰り返した。
それに。
「……東条くんを、見つけなきゃ」
『聖女』によってどこかへ飛ばされた東条勇麻を、あの惨状のまま放置しておくことがどうしても嫌だった。
独りぼっちのまま終わるなんて、そんなのあんまりだ。
せめて最後にきちんとお別れくらいしたい。そんな思いが和葉を捉えて離さない。
……もう死んでるのに? 今更東条勇麻を見つけたところで、何になるって言うのかしら?
そんな心の声を、和葉は黙殺する。
自分でもこれが何の得であり何の利に繋がるのか分からない。
一体誰に対しての損得勘定なのか。
未知の楽園で生きる限り、他者とは己が生きる為に蹴落とし利用して糧とする為だけに存在する物のハズなのに。
それがどうして、こんなにも和葉を惑わせる。
どうして涙が止まらない。
どうして、どうして、どうして……!!
「どうして……死んじゃったのよ。ばかぁ……」
口から飛び出す文句にもキレがない。
自己嫌悪で死にたくなる。
自分のせいで東条勇麻が殺されたと分かっているはずなのに。それでも勇麻の元へ向かいたいと心が苦しげに喘ぐのだ。
何て罪深い。何て我儘で恥知らず。何て傲慢で強欲なのだろう。
「あっ、っづ……」
逸る心に身体が付いていかず、足が縺れて和葉は走る勢いのまま転倒した。
地面で擦りむいた膝はじくじくと痛んで泥と血に塗れ、受け身も取れずに胸を打ちつけ衝撃に息が詰まる。
「……っ」
突き立てた爪が剥がれそうになる程に、深く深く指で地面を抉った。
……悔しい。
九ノ瀬和葉は何もできない。
何が東条勇麻を支えてきた自負があるだ。
何が未知の楽園一の情報屋だ。
くだらない。
心の底からくだらない。
そんな肩書きが、そんな自尊心が、一体何の役に立ったと言うのか。
九ノ瀬和葉は独りではこの未知の楽園で生きていくこともできない、弱い存在でしかない。
兄からは見放され、兄以外で初めて得た絆を失い、もう和葉には何も残っていない。
残っていないハズなのに。
どうしてこの弱い心は、彼の姿を求めているのだろう。
「もういないのよ……」
無意識に求めている。
「いないんだってば……」
頼りがいはあるけれど、どこか抜けてる少年のボロボロの背中を探している。
「やめて、もうやめなさいよ……」
心臓の辺りをぎゅっと掴み、食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れた。
「もうっ、死んじゃったんだってば……っ!」
どうやら自分は、涙を止める為の蓋をどこかへ落としてしまったらしい。
ボロボロと零れ落ちるそれを、和葉は拭う事もしない。この心にしつこくしがみ付く想いごと、自分の身体の外に流してしまいたかったから。
――だというのに。
「東条、くん……?」
ふと、偶然あげた視線の先、それが映っていた。
濡れて歪んだ視界にも、その姿ははっきりと分かる。
黒服の男が、二人係で救護用の担架を担いでいる。
慣れた手つきで迅速に担架を運ぶ二人。彼らが運ぶ担架のうえには、和葉のよく見知った少年が乗せられていた。
和葉の心臓が、一際大きく脈を打つ。
大柄な男が二人がかりで、ぐったりとした東条勇麻の身体をどこかへ運ぼうとしているのを見て。
九ノ瀬和葉の理性が焼き切れた。
「……その人を、放せぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!!」
手近な壁に右手を叩き付ける。
鈍痛も皮膚が破れて血が流れるのも無視して『横暴なる保存者』を発動。
石壁の硬度を『保存』。間髪入れずに己に情報を『貼り付け』する。
巌のように頑強になった拳を握りしめ、和葉は下手人達の元へと全力で走る。
自分でも驚くような速度で下手人との距離を詰めると、和葉は勢いよく巌のような拳を振りかぶり、そのまま驚愕に目を見開いている男達をすり潰そうとして――
「うあわああ!? ま、待った待った!」
「俺達は『虎の尻尾』の下っ端団員だ! アンタ九ノ瀬和葉だろ!? 俺達ぁ嬢ちゃんの敵じゃねえよい!!」
ミンチとなるその数センチ手前で、ピタリと拳が止まった。
「……『虎の尻尾』? アナタ達、私の事をどうして知って――」
困惑に僅かに冷静さを取り戻した和葉。しかし男達はそんな事もおかまいなしに、さらに和葉を混乱させる言葉を放った。
「ダニエラの姐さんが言ってたんだ。多分アンタも此処に来るだろうって。……今は時間との勝負なんだ。こんなトコで長話してる“猶予はねえ”、嬢ちゃん、詳しい話は俺らのアジトについた後でどうだい?」
――人生とは往々にして取り返しのつかない物だ。
けれど人の世を見守る神とやらは、時にとんでもない奇跡で必然を嘲笑う。
取り返しのつかない出会いは時に、その運命を捻じ曲げる。
九ノ瀬和葉の予想だにしていない何かが、未知の楽園で起こり始めている。
この時少女は、まだその事実に気が付いていなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
時刻は午前四時半。
人は寝静まり、動物達は朝の陽射しを今か今かと待ちわびている、そんな夜と朝の境界時。
静謐ながら新たな朝の到来を待ち望む、期待と高揚に満ちた時間。
だが白亜の巨城の鎮座するこの城門前には、そんな動物たちの気配は微塵も感じられない。
しかしそれも当然。今この場に立ち込めるのは、戦場特有の殺気立った不吉で不穏な空気ばかり。そういった気配に敏感な野生動物達は、皆この場を離れてしまっている。
なにせこの戦場を蹂躙するのは神の能力者と呼ばれる常識の埒外に存在する物理法則の超越者達なのだから。
城門前に立つ人影は八つ。
対して、それに対峙するはたった二つ。
しかもそのうち一人は、一〇歳前後の幼い少女だ。
城門を守る八人に対して、あまりにも心もとない。
「それで、たった二人で何しにきたんだよ?」
白亜の巨城を守護する集団から一歩前に踏み出して、紫色の髪の毛が特徴の男、貞波嫌忌は嘲笑うように言った。
そう。たった二人なのだ。
ここにいるのはスピカとレインハート=カルヴァートのみ。
九ノ瀬和葉も、ディアベラス=ウルタードも、そして東条勇麻も――いない。
目の前に立ち塞がるは『白衣の悪魔の遺産』と畏れられ、過去に未知の楽園を絶望の淵に叩き落とした神の能力者達。
救国の聖女を旗に掲げる彼らが名乗るは逃亡者の集い旗。
聖女の為に生き、聖女の願望を叶え、聖女の為に死ぬ。
そんな馬鹿達が集まった、もはや組織ですらない一つの旗の元に集っただけの個の塊。
「隠しても無駄だ。こっちには生生がいる。裏切り者のディアベラスは聖女様の元へ向かったんだろ? なら無駄だ。あの二人の決着はもうついている。決定的な順列が決まっている争いだ、我らが聖女様に敗北はあり得ない。聖女様の元へディアベラスが向かえば戦力を割けるとでも思ってたなら、当てが外れて残念だったなと言っておこう。もし全てを理解してなおこの無謀な戦いに挑むのだと言うのなら――お別れだ『招待客』。個人的な恨みは特にないけど、お前ら二人は手足を捥がれ、生きたまま聖女様へ献上される事になる」
貞波の両腕と両足に、紫の靄のような霧のような物が不規則に纏わりつき始める。
それが彼の神の力だと、一瞬でレインハートは理解した。
「てっきりディアベラスは俺達を真っ先に皆殺しにすると思ったんだけど。どうやら、今回ばかりは運が味方してくれているらしい。仲間の死より己の目的を優先する。……流石の妄執ぶりだ。三年間、毎朝飽きる事無く無駄玉を撃ち続けた変態ストーカー野郎なだけはあるよ、ホントにさ」
貞波が己の存在を誇示するかのように、一歩前へ。
他の七人も、それぞれが思い思いの構えを取り、戦闘態勢へと移行していく。
聖女を守護し、『招待客』を捕縛せんと狙う化け物が八人。
対峙するのは、背神の騎士団のレインハート=カルヴァートとスピカ。
神に背を向け刃向う反逆の騎士達は、この大戦力を前にしても一歩たりとも引かなかった。
青龍刀を構えるレインハート=カルヴァートは、瞳を細めて、
「……りません」
「なに?」
「二人ではないと、そう言ったのです」
レインハートの言葉に、貞波は怪訝そうに眉を顰める。
だがそれも当然だろう。どこを見渡してもレインハートとスピカ以外の姿は見えない。
だがそれでも、スピカとレインハートは胸を張って堂々と宣言する。宣言する事ができる。
「……スピカ達は、スピカ達だけじゃないんだもんっ。和葉おねーちゃんも、勇麻おにーちゃんもここにいるんだ!」
「なにを、意味の分からない事を……」
「私達の胸には、彼らの意志が宿っている。……えぇ、アナタ達が消し去ったと思っているあの少年は、まだ負けてなどいない!」
青龍刀の切っ先を何かの予言のように貞波嫌忌の顔面目掛けて突き付け、
「故にアナタの質問に、こう答えましょう」
未だ包帯に隠された目元を赤く腫らしたスピカと、感情を封印したレインハートが同時に叫ぶ。
それは魂の咆哮。
出会いによって胸に刻み付けた何かを、この場において自らが受け継ぐという意志の表明だ。
「「覚悟しろ逃亡者の集い旗! 私達は決着を着ける者! 彼の意志は繋げられ、託された。それが途絶えぬ限り、私達に敗北はないと知れ!!」」
大切な仲間であるアリシアを奪われた。
仲間の為に戦い、無様に敗北した。
大敗に誇りは踏みにじられ、東条勇麻の命をも奪われた。
希望を失った。
彼が成し遂げようとした救いを、死によって奪われた。
だから取り戻す。
手にするハズだった勝利を。誇りを。仲間を助け出し、彼の願いを成し遂げる。
そうだ。これは断じて弔い合戦などではない。
「私達があの少年の生と死に意味を刻む。無駄などとは、断じて言わせません」
これは物語の続き。敗北を敗北と認めるのではなく、諦めずに抗うことによってその結末を勝利へと覆す。東条勇麻が無意味な存在で無かった事を証明する。きっとそんな戦いだ。
「……不愉快だ」
レインハートの瞳を見た貞波は、一言そう断じた。
貞波嫌忌が一度その目を閉じる。そして次の瞬間、鋭く短い呼気と共にその四肢に紫の靄のような物をはっきりと纏わせた。
『死々纏い』。
両拳と両足に高濃度の干渉力のオーラを纏わせる、単純だが強力な神の力。
そのオーラに直接触れた者へ、確率で何らかの呪いを付与する凶悪な神の能力者。
「……その目だ。まるで現実を見ていないその目。敗北を知ってなお、何かを覆そうとするその目がムカつく。我らが主の、聖女様の力の一端を垣間見てなお折れない心の在り方が目障りだ。……いいぜ『招待客』ども。我らは逃亡者の集い旗。現実から目を逸らし続けた愚かな罪人の末路にして、聖女の望みを叶える願望機。我が主の望みに従い、停滞を打ち破ろうとするアンタらを悉く打ち滅ぼそう!」
それ以上、言葉の応酬は必要なかった。
スピカが大きく息を吸い込む。
レインハート=カルヴァートが青龍刀を斜め前へ突出し走り出す。
そしてそれを、逃亡者の集い旗が迎え撃つ。その先陣を切るのは、その四肢に紫の靄を纏った少年、貞波嫌忌だ。
大きく口を開いたスピカが全力全霊で『音響領域』を発動。敵の神の力の発動を妨害する音波を撒き散らす。
スピカの奏でる歌をバックミュージックに両陣営の距離は数秒でゼロへ、レインハートの青龍刃と、貞波嫌忌の拳とが金属同士の激突音のような甲高い音を伴って衝突した。
「はぁあああああああああっ!」
「だらぁああああああああっ!」
振り抜いた拳と、上段斬りとが瞬間拮抗する。
そして、
ガギギギギイギギギギギギギギギギイッッッ!!!
刃と拳が秒間四合と打ち合い、空間に残像と火花を散らす。
剣戟音は連続して一種の生き物のようにうねり、両腕を霞むような速度で使役する二人の姿はとうに人間を超越している。
レインハートは青龍刀を切り払い、突き入れ、斬り上げ、薙ぎ払い、唐竹割りを叩き込み、時には斬撃の射程すら意図的に伸縮させ、貞波を翻弄しようとする。
だが斬撃に対して振り抜かれる貞波の拳にも迷いはない。突き入れ、撃ち抜き、裏拳で弾き、アッパーカットを叩き込む。紫の靄を纏った拳がレインハートの放つ斬撃その全てを迎撃する。
ここまで、レインハート=カルヴァートと貞波嫌忌の打ち合いはほぼ互角。
ただしそれは、一対一の場合に限った話だ。
「ッ!?」
不意に、レインハート=カルヴァートの視界が突如現れた暗闇によって消失した。
激しい打ち合いの最中、レインハートに勘付かれる事無く接近し、その右肩に触れた手の感触にレインハートは今更のように気が付きゾッとする。
視界を封じられるという緊急事態に、レインハート=カルヴァートの斬撃が微かに鈍る。
「――ネクラでヒッキーなお前にしては上出来だ! ナギリッ!」
その決定的な隙を貞波が突かない訳がなかった。
勝利を確信して貞波嫌忌が吠える。
切れ味鋭い青龍刀の刃すら弾き傷一つ負わない貞波の拳が、レインハート=カルヴァートを容赦なく叩き伏せるその寸前。
「――出し惜しみは、無しです」
刹那、少女の纏う殺気が膨れ上がり、レインハート=カルヴァートを中心とした直径三メートル圏内を不可視の刃が切り刻んだ。
――斬撃。真紅と鉄さびの匂いがまき散らされる。
無風の中、レインハートの絹のように長い金髪が揺れていた。
斬撃の中心に立つ少女、その足元。
まるでお伽噺に出てくる魔女の魔方陣のように複雑な紋様を刻まれた、淡く青に光輝く直径三メートルの真円が生じていた。
――『死蒼円』
レインハートを中心に展開される蒼円内に踏み込んだ不埒な敵を不可視の刃で切り裂く、レインハートの『殺傷距離』の力の一つ。彼女の奥の手である。
これを展開している間、レインハート=カルヴァートは常に莫大な干渉力を消耗し続けるかわりに近接戦において無類の強さを発揮する。
ナギリの『暗黒隠蔽』によってもたらされた暗闇が晴れ、レインハートが視界を取り戻す。
長い金髪を内側から滲み出る闘志と自らの干渉力とで靡かせる少女は、青龍刀をその場で一度切り払い、
「勝負はここから、一気呵成に……畳み掛ける!!」
単身、『白衣の悪魔の遺産』達へと跳びかかっていく。




