第二十九話 それでも物語はⅠ――死してなお終わらないモノ
東条勇麻が死んだ。
目の前で、心臓を握りつぶされて、絶命した。
……正直に言って、そこからの事はほとんど記憶にない。
拘束を解かれ、城の外に出て、どうやってそこからディアベラス達の元へ帰ったのか。
何一つとして自分の行動を思いだせない。
ただ確かなのは、解放された九ノ瀬和葉がディアベラス達の拠点に戻った時には、時刻は既に深夜二時を過ぎていたという事くらいだ。
スピカもレインハートもディアベラスも、こんな時間だというのに皆が皆起きていた。
実体のないディアベラスがいち早く和葉の姿を見つけると、スピカとレインハートが慌てて飛んできて、すぐに介抱してくれた。
怪我はないか。何か酷い事をされなかったか。どこか痛いところや、辛いところはないか。
……どうやら自分でも分からないくらいに、酷く憔悴していたらしい。
矢継ぎ早に繰り出される質問はどれも和葉を慮るものばかりで、それが何より辛くて心が痛かった。
彼女らの気遣いや和葉を心配する気持ちは嘘ではないだろう。
だが、それでも彼女達が最も聞きたい質問は。
待ち望んでいる答えは和葉ではないのだという事だけは分かっていたのだ。
レインハートもスピカもディアベラスも、たった一人で逃亡者の集い旗へと立ち向かったとある少年の安否を知りたがっていた。
あの結末を、語らねばならない。
そう考えると、ゾッとした。身体が、無意識に震える。意味不明の感情が押し寄せて、ここに来るまでに枯れたと思っていた涙が、再び押し寄せ両の瞳から溢れ出て来ようとする。
言いようのない恐怖が、和葉の心を襲っていた。
自分の口から他人に語る事で、彼の死が取り返しのつかない致命的な事実へと確定してしまうような気がしたからだ。
……いや、自分は何を言っているのだろうか。取り返しのつかないことは、もうとっくに起きていたのだ。
きっと九ノ瀬和葉と東条勇麻の出会いそれ自体が、もう取り返しのつかない事だった。
二人は出会ってはならなかったのだ。
九ノ瀬和葉などに出会ってしまったから、東条勇麻は『招待客』などという意味の分からないレッテルを貼りつけられ、聖女によって殺された。
……なにが足を引っ張らないようにだ。
そもそも初めから、出会った事自体が罪だったというのに。
「……」
自己嫌悪と罪の意識。さらには胸の奥にぽっかりと大きな穴の空いたような、正体不明の未知の感情が和葉を苦しめる。
だが、逃げるわけにはいかない。
全てを目にした和葉には、それを伝える義務があった。
涙を流す和葉を心配そうに見やるスピカと、冷静沈着に見えて意外に慌てているらしいレインハートを見ながら、目元を拭った九ノ瀬和葉は端的に嗚咽混じりの事実を告げた。
「……東条くんが、死んだわ」
☆ ☆ ☆ ☆
白亜の城の一階部分、逃亡者の集い旗を名乗る彼らが、一同に会して話し合いなどを行う大広間。
そこに集まった神の能力者の人数がいつもより少ない事に、レギン=アンジェリカは胸に刺すような痛みを覚えていた。
家族が死んだ、まっとうな痛み。
その当たり前の痛みを覚える事ができる事が何よりも嬉しくて、どうしようもない程に悲しい。
……我ながら心とは面倒くさい代物だと思う。けれどもレギンは、自分にその当たり前の面倒くささが許される事をやはり嬉しく思うのだ。そして同時に煩わしくも思う。
そしてきっと永久に感謝し続ける。当たり前が当たり前であるように、世界を変えてくれたあの少女に。
それが彼女の戦うただ一つの理由だから。
「……それで、東条勇麻は死んだんだな?」
「ええ。アタシとサトリン見てたヨ。聖女様自らヤツの心臓握りつぶすトコをさ。そんで東条勇麻は約束に応じたのだから、捕えた少女解放しろて」
顔中を包帯でぐるぐる巻きにした貞波の質問に答えたのは生生だ。
隣では竹下悟もバームクーヘンを食べながら生生の言に頷いている。
少し離れた所では、割宮裂姫の身体をぬいぐるみのように腕に抱きながら、リリレット=パペッターが床に座り込んで話を聞いていた。
「……聖女様は九ノ瀬和葉は不問としたか。なら、彼女には今後一切手を出すなって事で。いいね?」
疲れたように言って、貞波は一度息を吐いた。
東条勇麻との戦いで受けたダメージが大きいのか、少し話し合いに参加しただけだというのにすごい冷や汗だ。
不意に、貞波に集まっていた視線が大広間の入口に向けられた。
原因はこつこつと響く足音。
レギンも皆にならって視線を音の方へと向けると、今まで席を外していたリズ=ドレインナックルが大広間に戻ってきたところだった。
リズは広間に入るなりいつもよりもやや真剣な様子で口を開いて、
「嫌忌ちゃん、ライアンスは……しばらくは無理ね。身体のほとんどを機械にしていたからこそ何とか一命を取り留めてはいるけど、本来ならいつ死んでもおかしくない重傷。少なくともあと数年は動かせないわね。あ、ナギリくんの方はもう復帰できるわ」
「お、ナギリ君復活かー。ライアンスは残念だけど、まあイレギュラーな『招待客』を一人消せたんだ。死人が出なかったのをラッキーと見るべきなんだろうな」
貞波はよっこらしょの掛け声と共にその場に立ち上がると、大広間を見渡した。
その姿は、輩屋災友を真似ているようにもレギンには見えた。
「さてと、ここまでやったんだ。情に厚いディアベラスは必ずぶち切れて此処に来るだろうな。……サトリンどうよ、何かいいもん予見えたりした?」
「いんやー我氏にもどーにも。そもそも『未来予見』は、あくまでこれから起こる可能性の一つを覗き見できるだけの力ですしおすし。解決策そのものを見せてくれる訳じゃなし。そもそもヒントが何も埋め込まれていない場面を引く事のが多いくらいですぞ」
「つまり解決策が見当たらない崖っぷちって事か? だあー。これはもう避けられねえんじゃねえか? いやいや、災友くんが居てもアレが限界だったんだ。神の子供達のうえ、実体がないヤツをどうやって倒すんだよマジでさあー」
『白衣の悪魔の遺産』の最年長者として皆を引っ張ってきた輩屋災友は死んだ。
彼の『神の天秤』があってなお、ディアベラス=ウルタードと刺し違える事さえ出来なかったのだ。
正直言って、彼のいなくなった今の逃亡者の集い旗に僅かでも勝ち目があるとは思えない。
「はぁ……。となると、最悪の展開も考えなきゃっぽいな、これは。まったくさぁ、災友くんも、死ぬんならあの裏切り者だけでも何とかしてから逝ってくれりゃあ良かったのに」
相変わらずの貞波の軽い口調に、常ならざる覚悟の切れ端のような物をレギンは感じ取った。
「……やるのか」
だからこの男を気遣うような事を口走ってしまったのも、気の迷いだ。
らしくない事をぼやいた貞波に感化されたに決まっている。
「生真面目ポンコツ委員長枠のレギンがそれ聞く? ……当たり前だろ。俺らはもう逃げる訳にはいかないいんだからさ。ま、ここらで罪を清算するのも悪くない。俺達がいなくなれば、彼女もいっそせいせいするかもしれないし。……ほら、俺って嫌なヤツだったからさ」
「それは言えてるな。私は仲が良かったから悲しまれるかもしれないがな!」
レギンは貞波の言葉を肯定した直後にわざとらしく胸を張ってそう答えた。勿論、今此処に立っている時点で自分の言葉が自虐か世迷言に他ならない事は承知済みだ。
「えーアタシまだ死にたくないんだけどなー」
「リズはホントに死にたくなさげよネ。さっきも狸寝入りして東条勇麻を城の中素通りさせモゴモゴ」
「生生ちゃん、後で美味しい杏仁豆腐奢ってあげるからちょっとこっち来ようか☆」
「まさか、気絶したふりを? リズ=ドレインナックル貴様というヤツは……ッ!」
「だ、だってあんなのアタシ一人残ってたところで勝てないわよ~。ほ、ほら、なるべく被害を抑える戦略的撤退ってヤツ?」
まるでいつかのような賑やかな言い合いに、レギンはふいに昔の記憶を重ねる。
何も知らない無知な子供だった頃。
誰もが幸せで、この手にあるもの全てを幸福だと無邪気に信じていた時代。
管理された幸福。
あの日、一人の少女によって世界は一変した。
幸福だと信じていた物はあっけなく崩れ去り、これまでの人生が極彩色に彩られた地獄だったと気付かされた。
救われたと同時に、深く傷つき、絶望して、これが悪夢だったらどんなに良かったかと何度思ったかも分からない。
現実という地獄から逃げ続けた逃亡者達は、一つの旗の元に集った。
己の罪を償う為に。
自分達を救ってくれた彼女の支えとなれるように。
そんなレギンの考えを肯定するかのように、貞波は静かに自分たちの終わりを悟っていた。
「逃亡者の集い旗の名は世界に広がった。きっと大丈夫だ。俺達がいなくとも、新たな旗の担い手は現れる。ならばこの命、今こそ我らが主の為に使い切る時。……ホント、キャラじゃねーことはやりたくねえよなー」
――最後の戦いが始まる。
『白衣の悪魔の遺産』と呼ばれた存在同士の共食い。
同じ釜の飯を喰らい、幾千の夜を共にし、共に偽物の幸福を享受し、共に地獄を過ごした。互いに志を同じとしていたハズの誰かと誰か。
今もなおその想いは変わらぬはずなのに、彼らは決して互いを認めはしない。
目的は今も同じ。
されどそこへ到達する為の道のりは、決定的に違ってしまっているから。
☆ ☆ ☆ ☆
彼女が一人で戻ってきた時点で、本当は分かっていた。
「……東条くんが、死んだわ」
魂の抜け落ちた抜け殻ような顔でそう告げられて、彼女を責められる人などいる訳がなかった。
いいや、それになにより。この場の誰よりも彼女が東条勇麻の死に深く傷ついてるのは明白だったから。
だからそれを、レインハートはただ黙々と聞いていた。
レインハート=カルヴァートに喜怒哀楽の喜楽はない。
クライム=ロットハートに感情の半分を強奪されてからというもの、彼女の顔から笑顔という物は喪失した。
彼女は心的ストレスによる身体への悪影響を抑える為、常に感情を平常値で保つようにしている。
悲しみや怒りだけで心を埋め尽くしてしまえば、それだけで人は容易に疲弊し壊れてしまう。感情を表に出すという事は、レインハートにとって寿命を縮める事に他ならない。
……分かっている。
それは合理的では無い。
無駄な感情は彼女を苦しめ、その命を蝕む毒でしかない。だから飲み込め。無理に抑え込むのではない、丁寧に事実を噛み砕いて嚥下し消化する。衝撃を伴うから痛みを伴うそれを、優しくゆっくり時間をかけて、感覚を麻痺させるように身体に流し込むのだ。
いつもやってきた事だ。
仲間であり家族でもある高見秀人が昏睡状態になった時も、幾度となく戦場で家族の死を看取った時も、レインハート=カルヴァートはそれを行ってきた。
大丈夫。今回だって大丈夫だ。レインハート=カルヴァートは、己の残り半分の感情をきっとうまく制御できる。
胸を裂くような悲しみも、全身を襲う絶望の無力感と脱力も、すぐに薄めて消し去る事ができる。
できるはずなのに――
「……勇麻おにーちゃん、帰ってこない、の……? も、もう、スピカのあだま。なででぐれないの?」
――上目遣いで必死に涙を堪えようとしゃくりあげながらレインハートの袖を掴むスピカに、レインハートの心は一瞬で平常を失った。
「――スピカっ!」
耐えられなかった。頭で考えるより先に、身体が動いていた。
幼い身体を震わせ、必死に涙をこらえる幼子を力一杯抱きしめる。
光りを失ったスピカの両目から、滂沱と涙が溢れ出した。
「あ、ぁあ……うああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
……ああ、そうだ。
この子は確かに東条勇麻に懐いていた。短い期間ではあったけど、それでも心を通わせた時間に嘘はない。彼はこの少女にとっては新たな家族同然で、これからも仲良くできると何の疑いもなく信じていたのだろうう。
人が人を想う事に理由なんていらない。
人が人を想うようになるのに時間なんて必要ない。
人が人と出会うという事は、確かな何かを互いに刻み付ける事。
たとえ挨拶を交わす程度の仲だとしても、たとえ毎朝同じ場所ですれ違う程度の関係でも。互いを疎ましいと思っていたとしても。出会いは互いの中に何かを残すのだ。
だから悲しい。
刻まれ、残された何かが主張するから。
唯一残ったそれだけが、己の中でその人を語る全てになってしまうのが悲しいのだ。その先を、それ以外の未来を共に語る事を拒否される事が、寂しいのだ。
嗚咽が、我慢を忘れた少女の泣き声が、レインハートの硬く閉ざした心をこじ開けていく。
泣き崩れた少女をあやすように頭を撫でながら、さらに腕に力を込めた。
制御を失った感情が、胸の中で暴れ狂っている。
――嗚呼、どうして心とはこんなにも痛いのだろう。
まともに定義なんてできない癖に、人をこんなにも惑わし、傷つける。思考はぐちゃぐちゃで、行場を失った感情は荒れ狂い続け、焦燥感と喪失感がレインハートの身体から力を奪い、食いしばった歯が耳障りな音を立てる。その全てが、心などという機能が存在するから起こる不協和音だ。
感情を表に出さず、処理し続けてきたレインハートには分からない。
この胸の痛みを止める方法が。少女の涙を打ち消す魔法が。ひたすらに感情を封印し続けてきた彼女は、ただ何かを堪えるように少女を抱きしめる腕に力を籠めつづけた。
『……そうか、』
やがてそう呟いたのは、ディアベラスだった。
スピカの泣き声が響く中、姿なき男は告げる。
『なら、俺がやる事は一つしかねぇ』
その声は、怒りと決意とやるせなさと。そして、涙に濡れているようにも聞こえた。
『あいつは最後まで誰も見捨てようとしなかった。だから俺も、絶対に見捨てねぇ。あいつが守ろうとしたもの全部守りきらねぇと、あの馬鹿野郎に顔向けできねぇ……』
……握手、とディアベラスは言った。
レインハートは、そのぶつ切りな単語に疑問符を浮かべ虚空に視線を向けると、
『身体すらねぇ俺にあいつは手を差し伸べたぁ。共に戦おう、力を貸してくれと、俺ぁそう頼まれた。だからあいつの望みは、俺が叶える。俺達でアリシアを絶対に救う』
――嗚呼、何が帰ってきた時が怖いだ。ほんとうにふざけている。
「まったく、もう。子どもじゃないんですから……謝罪の言葉くらい、自分の口から伝えなければ……ダメじゃないですか……っ!」
少年という希望は失われ、死という絶望が少女達を痛めつける。
だが、これで終わりではない。
全てを諦めた訳でないのなら、物語は続くのだ。
このまま何もかもをバッドエンドで終わらせる訳にはいかない。ディアベラスの言う通り、彼は一人の少女を救うことを誰よりも願っていた。
だから、少女を助けるまで彼の物語はきっと終わらない。自ら諦めを打たない限りは、永遠に続いていくのだ。
……こんな時でも東条勇麻は「まだ負けてない」と、そう嘯くのだろうか。
『……終わりにしよう。全ての元凶を。聖女を、討つ。……あの男の望み通り、何もかもを救うために』




