第二十七話 絶望と逆境の袋小路Ⅰ――結論と取引
その夜は未知の楽園にやって来てから一番の冷え込みを見せた。
「……俺一人で行く」
崩れ落ち、廃墟となったディアベラス宅。東条勇麻は泣き疲れて眠ってしまったスピカの額を撫でつけながら、静かにそう零した。
勇麻もスピカもそしてレインハートも、身体のあちこちに包帯を巻いている。白い布はところどころ血の赤に染まり、ずきずきと敗北の痛みを傷口が思い出させる。
「……無茶です」
『あぁ、無謀だなぁ』
間髪入れずに挿し込まれた否定の言葉に、勇麻は爪が食い込むほど強く拳を握る。
自分の口から出てきた声は、思ったよりも震えていた。
「だったらどうしろって言うんだよ……。このまま仲間を……和葉を見捨てるのが最適解かよ?」
静かだが苛烈なその問いに、答えられる者なんていなかった。
「……わるい、今のは忘れてくれ」
勇麻だって分かっているのだ。
誰もが皆、和葉が攫われるのを手をこまねいて見ていた訳ではない。
皆必死だった。仲間を奪われまいと、必死になって戦い、死力を尽くしてそして――敗北した。
それをどうして、同じく無様に敗北しただけの勇麻に責める事ができるだろうか。
気を取り直すように息を吐き、勇麻は努めて冷静に、静かに口を開く。
「連中の狙いはあくまで俺だ。和葉の事は俺を呼び寄せる餌だとしか思っていない」
貞波嫌忌は言っていた。
取引をしよう、と。
逃亡者の集い旗の目的はどこまでも一貫して聖女の望みを叶える事。
であれば『招待客』である勇麻を殺す事――それもただ殺すのではなく、聖女の手で正しく殺される事を望んでいる。
だがその望みを叶える為には、勇麻側についたディアベラス=ウルタードが邪魔だと判断したのだろう。
今回和葉を人質として攫ったのは、ディアベラスの動きを封じるための工作に他ならない。
……貞波嫌忌が伝えろと言っていた生生なる名前の人物は、索敵と追跡のスペシャリストらしい。ディアベラスが和葉を助ける為に何らかの行動をとる素振りを見せれば、一瞬で逃亡者の集い旗側に筒抜けになる可能性が高いそうだ。
やはり敵はディアベラスの力を他の誰よりも警戒している。
「だから俺が約束の時間に動かなければ、容赦なく和葉を斬り捨てる可能性だって否定できない。策を立てるにしても、俺が連中の元へ向かうのは確定事項だ」
和葉を助ける為には勇麻が動くしかない。
そしてそれ以外の選択肢を選ぶつもりは、勇麻には毛頭なかった。
だからこれはどう考えても決定事項だ。ディアベラスもそこは否定できないのか、それとも目の前で和葉を連れて行かれた引け目があるのか、いつもの特徴的な巻き舌で話しに割り込もうともしない。
再び横たわる静寂。
それを、
「……一人で行って、それでどうなるのですか」
だから必然的に、その言葉を口に出したのはレインハートだった。
レインハートは切っ先から縦に真っ二つに引き裂かれた愛刀を労るように優しく撫でながら、
「アナタと私の二人で挑んでただ一人さえ倒す事が出来なかった敵です。それをただ一人で挑んで、勝てると本気でお思いですか?」
正論だった。
一ミリたりとも動じない無表情から告げられる言葉は、どこまでも正しくて人の温かみが入り込む余地がない程に冷徹だ。
まさに百点満点の回答。勇麻に反論を許さない実に論理的なお言葉だ。
それで?
正しいから、何だ。
九ノ瀬和葉を助ける為に逃亡者の集い旗の元へ単身乗り込む。ああ、それは選択としては致命的に間違っているのだろう。
それを選択したが最後、東条勇麻は死というバッドエンドへ一直線へ突き進む事になるのかも知れない。
……なら一つ尋ねるが、人生とは、絶対に選択を誤っていてはいけない物なのか?
間違ってもなお。
敗北のルートを選んでなお、運命を覆してハッピーエンドを掴もうという心意気さえ否定されるいわれが一体何処にある。
……正しいだけの正論なんて糞喰らえ。
認められない結末を、抗いたい現実を、許容できない理不尽を、東条勇麻はいつだって握った拳で打破してきた。
その歩んできた道の途上で、何かを間違えなかった事なんてきっと一つもないハズだ。
いつだって間違えて、敗北に敗北を重ねて、それでも諦めずに泥臭く立ち上がって来たからこそ今がある。
だから言える。
心の底から、間違う事は間違いではないと、断言できる。
「……勝てる勝てないなんざ、関係ねえだろ。俺は――」
鈍い音が、勇麻の言葉を遮った。
息が詰まる。背中を打ちつけた痛みが、痺れが広がるようにゆっくりと身体全体に広がっていく。
一体何が起きたのか。その答えを求めて顔をあげると、至近で二つの冷たい瞳と目が合った。
レインハート=カルヴァートが勇麻の胸倉を掴みあげ、手近な壁に叩き付けた音だとようやく理解したのはその時だった。
「――いい加減にしろよっ!」
掴んだ胸倉を引き寄せ、レインハートが声を荒げた。
勇麻の目が驚きに見開かれ、眼前のレインハートの瞳には酷く困惑した情けない顔の少年が映し出されている。
今にも泣き出しそうな悲嘆にくれた顔だ。見ているだけで無性に腹が立ち、感情のままにぶん殴りたくなってくる。そんな顔だった。
それをまるで他人事のように感じながら、至近距離のレインハートがなおも激しく感情を露わにした。
「アナタだけが悔しい訳ないだろッ! なんで……なんでそんな! 自分だけで何かを背負おうとしてるんだよ! ……私達は、仲間ではないのですか? 苦しい事も悲しい事も辛い事も分かち合うのが仲間なのではないんですかッ!?」
それは、喜怒哀楽の感情のうち半分を奪われ、精神の平衡を保つ為に残りの感情すら封印してきたレインハートが勇麻に初めて見せた怒りの表情だった。
「アナタが九ノ瀬和葉を心配するように! アナタを心配する人だっているんです……! 忘れないでください。アナタが軽率に賭けようとしているその命は、もはやアナタ一人の物ではない……っ」
勇麻の胸倉を掴みあげていた手が離れる。
外的な支えを失った勇麻は、不要になって投げ出された玩具のように崩れ落ち、後頭部を壁にぶつけて止まった。
「……アナタがここで死ねば、アリシアを助け出せる可能性も薄くなります。無謀な行いの結果犬死して、誰一人救えずに潰えるのがアナタの望みではないでしょう」
「……」
魂が抜けたように口を半開きにして、勇麻は亡者の如く虚空を見据える。
見開かれた瞳孔が胡乱に揺れ動き、頭の中で感情と言葉が行場を求めて暴れ回る。
何かを言いかけて、途中で言葉を失い、そして少年は静かに俯いた。
「……こんなの、分かんねえよ」
だって、分からないのだ。
東条勇麻は九ノ瀬和葉を失いたくない。
アリシアを助け出したいのと同じくらいに、その感情は確かなのだ。
九ノ瀬和葉を助ける事とアリシアを助ける事。
二つを天秤に掛けろと、そう言うのか?
「だったら……だったらどうしろって言うんだよ。お、俺は……俺はそういうのが嫌だったから、認めたくなかったから、っだ、だから今まで拳を握って来たのに。こんなのってねぇよ……。くそっ、ちくしょうっっっ!」
否定したかった。
心の奥底から湧き上がる感情に従って拳を握り、英雄のように立ち上がる事が出来たなら。
それはどれだけ素晴らしかっただろうか。
絶対に失いたくない守りたい人達と、彼らが暮らす世界があった。
過去も罪も義務感も免罪符も何もかも放りだして、ただ己の拳を握るに足りる理由を自らの手で掴み取った。
大切なものを取りこぼし、敗北に絶望した。それでも諦めない事を貫こうと思った。負けてもそれを認めず立ち上がり続ければ、きっといつかは逆転の目が来ると思っていた。
認められない結末があった、抗いたい現実が、許容できない理不尽が、あった。
曲げられない想いと、譲れない物の為に戦ってきたつもりだ。
だから九ノ瀬和葉を失う結末も。アリシアを助けることができない未来も。そのどちらも認められないのだ。
……本当は分っている。
今の東条勇麻では、両者を救うなんて土台無理な話だ。
聖女はおろか、逃亡者の集い旗ともまともな勝負にならなかったのだ。
こんなの、幼稚園児でも分かるような理屈だった。
そして、分ってしまったからこそ、もう勇麻は何も分からなかった。
無謀にも立ち上がって一人も救えぬまま愚かに犬死にするのが正しいのか。
良い子ちゃんに正論を飲み込んで、一つを見捨て救える一つを救う事が正しいのか。
何が正解で何が間違いなのか。
失敗も成功も。己の選択とその行動の結果伴う結末と責任。東条勇麻という少年が救えた物。救いたかったもの。救えなかった物。
考えれば考えるほど、苦しかった。
だって、結論なんて最初から分かり切っていて。それ以外を選ぶことは、往々にして少年の心を壊していく物だったから。
俯く少年の右の拳に、透明な滴がぽたたと垂れて小さな水溜りを作った。
抑える事のできない嗚咽を抑えようと、左手で己の胸元をきつく握りしめる。
「俺は……っ、俺、は! なんでこんなに弱いんだよ!! ざっけんなよ……何が英雄だ。こんな御大層な力があったって……龍也にぃみてぇに上手くできねえよぉ!! ……くしょうっ、」
一か、ニか。
そんな二択の選択肢をぶち壊すだけの力が欲しかった。
全てを救える第三の選択肢。
誰もが笑って、誰もが幸福な、そんな夢のような模範解答。
子供ならば誰もがそらで言えるそんな綺麗ごとが、今、どうしようもなく遠い。
☆ ☆ ☆ ☆
結局結論は出せぬまま、いたずらに時間だけが経過した。
疲労と負傷を少しでも癒す為に一先ず休息を取るという結論に達して、ディアベラスを除く三人は崩れかけの廃屋の中で適当に毛布を被って気休めの睡眠をとる事になった。
現在時刻は午後十一時。
襲撃があったのが午後七時なので、既にあれから五時間が経過したことになる。
東条勇麻は一人、廃屋から抜け出して頭上で輝く月を見ていた。
勇麻の心境とは裏腹に、どこか嬉しげに満面の輝きを放つ月。
どこか儚くも優しいその光を見ていると、自分達が今地下の世界にいるのだという事を忘れそうになる。
「……」
『行くのかぁ……?』
……ディアベラスには見つかるかも知れない。
声を掛けられて、決心を固めた際にそんな事を考えたのを勇麻は思いだしていた。
そしてまんまと懸念した通りになったと言うのに、勇麻は月から目を離そうとしなかった。
どこにいるのかも分からない声の主を探すのは諦めて、そのまま勇麻はぽつりと言葉を零した。
「考えたんだ」
……もしかすると、自分はディアベラスに最後に声を掛けて貰いたかったのかもしれない。
「アリシアも和葉も、やっぱり失うのは嫌だ。どっちかを見捨ててどっちかを救うなんて、そんなの俺は耐えられない。例え片方を救えたとしても、きっと全部終わった後で俺は死にたくなる。だから無茶でも無謀でも、例えこの選択が間違いなのだとしても。俺は最後まで俺の気持ちに従っていたい。……我儘、だよな」
『かもなぁ。だがよぉ、エゴも我儘もなくしちまったら、そいつぁもう人間とは呼べねぇんじゃねえかぁ?』
「……ディアベラス。アンタは、俺を止めに来たのか?」
『お前はどぉして欲しいんだぁ』
平然と質問に質問を返すディアベラスに勇麻は笑みを零した。
思えばこの声だけの男は、出会ったときから人を食ったようなヤツだった。
「レインハートの言っていたことは正しいよ。正直、正気じゃないし勝機もない。戦うのは怖いし、戦わないのも怖い。勇気の拳なんて物を宿しておきながら、俺は未だに怖い物だらけだ」
『なら、ホントは此処で止めて欲しいってかぁ?』
「……かも知れない。レインハートは俺を仲間だと言って心配してくれた。スピカなんてぐーすか眠ってんのに俺の服を掴んでずっと離そうとしなかったんだぜ? あぁ、ホント、笑っちまうよな……」
思い出すだけで、自然と笑みが零れてくる。
共に過ごした時間は、実はそれほど長くは無い。レインハートとは命懸けで戦ったような仲だし、スピカと出会ったのなんてほんの数日前の事だ。
共に旅をし、離れ離れになって、それでもアリシアの為に、心を一つに歩み続け、互いに命を預け、預けられ、幾度かの死線を潜り抜けてきた。
そんな程度の間柄でしかない。
けれど。
勇麻と彼女らの間に何一つとして芽生えた物がなかったかと言われれば、そんなのは嘘だと断言できる。
「だからさ、そんなヤツらを悲しませる事だって、俺は恐ろしいんだ。失う怖さを、俺もこいつらも知っているから。……でも、同時に思ったんだ。レインハートやスピカが仲間だと言ってくれた東条勇麻って男は、こういう時に拳を握って立ち上がる人間だったんだよなーって」
無理でも無茶でも無謀でも。
勝ち目とか勝算とか可能か不可能かとか、そんなくだらない事はどうでもいい。
ただ、認めたくなかった。
このまま、敗北のまま終わらせてしまう事を。
「迷わないって決めた矢先にこれだ。我ながら心の脆さにびっくりする。けど、まだこれはただの逆境だ。俺達は負けた訳じゃない。何も終わってなんかいないんだ、絶望するにもし足りない」
東条勇麻は、もう敗北に屈して諦める事はしないとそう誓ったのだから。
「レインハートとスピカには、謝っておいてくれ」
『遺言が女への謝罪とははなぁ。やっぱテメェ、死ぬ気か……?』
「まさか」
勇麻は、その顔に笑顔さえ浮かべて、晴れやかにこう言った。
「帰ってきた後が怖いからに決まってるだろ」
☆ ☆ ☆ ☆
ひっそりと、物音を立てぬように出ていく足音は、まるで子供達が起きてしまわないように早朝ひっそりと仕事へ出かけていく父親のようでもあった。
……と言っても、レインハートの両親は彼女が四歳の頃に交通事故で他界してしまっている。記憶に残る父親像も、実に曖昧で途切れ途切れだ。
レインハートは敷布団の代わりに床に毛布を敷いて、薄手のタオルケットを一枚かけて横になっていた。
扉に背中を向けて、ベッドでぐっすりと眠っているスピカの横顔をなんとなしに眺めていたレインハートは、ゆっくりと閉められる扉の軋む開閉音にしばし意識を向けていた。
「……行って、しまったのですね」
『なんだぁ、お前。起きてたのかよぉ』
予想通り、姿の見えないディアベラスがレインハートの言葉に応じた。
何となく彼もまだ起きている気がしていたレインハートは、そのいきなりの出現にとくに驚くことなく頷いた。
「眠らなければ、というのは分ってはいるのですが……。いくらか感情を失ったところで、私は機械のような冷徹で冷静な人間にはなれなかった、という事なのでしょうね。感情がいつも以上に不安定です。目が冴えてしまって眠れそうにありません」
『……止めないでいいのかぁ?』
同じ言葉を相手に返したいと思うくらいには、ごく当然の質問だと思う。
レインハート自身、幾度となく自問した。
だがそれは、既に決着した問答でもある。
そうでなければ、今こうしてのんきにディアベラスと言葉を交わしてなどいない。急いで少年の後を追っているハズだ。
「……それが彼の出した結論だと言うのなら、私にはどうする事もできません。……あの少年は、どれだけボロボロになって絶望して心が折れかけても、最後の最後には拳を握って立ち上がる、そんなおかしな人です。私程度が立ち塞がった所で、彼は諦めないでしょう。だったらもう、願うしかありません。それに……」
レインハートは笑顔が分からない。
喜びも、楽しさも、嬉しさも、彼女は知識としてそれを知っていても、実感としてそれは失われてしまっている。
レインハートは喜楽を含む正の感情を強奪された。
だから、今本来自分が感じているべき感情も彼女には想像もつかない。
それでも、もし自分に正常な感情が残っていたならば、こういう時、人は微笑む物なのだろう。
そんな事を思いながら、
「彼ならば何かをやってくれるのではないか、そんな期待があるのですよ」
熟睡するスピカの頭を撫でて、無表情にそう呟いたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
未知の楽園中心区。
天をも貫く尖塔が堂々とその威容を示す街の中心には、巨大エレベーターの他に重要な施設が一つ存在する。
いや、正確には“した”と言うべきか。
『操世会』本拠地。
かつて未知の楽園を管理運営していた権力者達の野望と欲の城は、今現在では汚れなき白亜の城へと生まれ変わっている。
そしてその白の最上階には、お姫様よろしくたった一人の少女が暮らす開かずの間が存在するのだそうだ。
そこに引き篭もっている少女こそが、この未知の楽園を救った救国の聖女。未知の楽園最強の神の能力者なのだと。
だが、今回用があるのはこちらでもない。
時刻は深夜十二時ジャスト。
約束の刻限とはやや異なるが、まあ大した問題はないだろう。
少し大胆な勘違いをしたとでも吐き捨ててやれれば、それだけで少しはこの胸の煮詰まった感情も冷めるかもしれない。
そんなくだらない事を考えていた。
「生生から東条勇麻に動きがあったと聞いてやってきてみれば……おい、これは一体何の真似だ……?」
だから、苛立ちの見えるその言葉を引きだせただけでも、幸先のいいスタートを切ったと評価できるかもしれない。
勇麻の前に立ち塞がる紫色の髪の少年貞波嫌忌に、精一杯の不敵な笑みを向けて、東条勇麻は大胆不敵に宣言した。
「何の真似って……おいおい、もう忘れたのかよ鳥頭。約束通り、取引に来たんだよ。言われた通りに一人で」
「時間は明日の正午十二時だと言ったハズなんだけど?」
「あー、ちょっと大胆な勘違いを。もしくは、待ちきれ無くて徹夜で並びに来たとか……?」
「……なあ、ひょっとして俺達の事舐めてんのか?」
「まさか。アンタらみたいな薄汚い連中を舐めるだなんて、変な物を口にいれてはいけませんって、お母さんに習わなかったのか? 悪いけど、そういう特殊性癖は他のヤツに期待してくれよ」
視線が激しく火花を散らして交錯する。
互いに一歩も譲らぬ激しい睨み合いは、体感時間では数時間にも感じられた。
やがて、根負けしたのか単にその態度に呆れたのか、大きく息を吐いた貞波が勇麻から視線を逸らす。
「まあいいか。時間を長くとったのは、アンタに決心をつける時間を与えてやろうって言う俺達の慈悲だ。それが早まる分には、別にこっちに文句はね――
――貞波嫌忌の言葉は、それ以上続く事はなかった。
理由は単純。
貞波が勇麻から視線を外したその瞬間。全力で地面を蹴ってその懐へ飛び込むと、一切の躊躇なしに勇気の拳をその顔面に深々と叩き込んだからだ。
ダン! 小気味良く響くは踏み込むの音、僅かな溜めの後、上段から振り降ろされた拳が、霞のような残像を残してその顔面の肉に深々とめり込む。
肉を叩き潰す原始的な音が響いて、凄まじい勢いで地面に叩き付けられた貞波嫌忌の身体がそのままバレーボールのように大きくバウンドした。
遅れて発生した拳圧に勇麻の髪の毛が揺れる。
殴り潰された顔面から血が尾を引くように流れ、きらきらと満月の光りを受けて幻想的に輝いた。
勇麻の唐突な凶行に呆気にとられたかのように、世界が一時の静寂に包まれる。
ドサリと、無骨な落下音に世界が音を取り戻して、
「何の……真似だッお前ぇぇぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっっっ!!?」
鼻と口から大量の血を流し、立ち上がろうともがきながら小鹿のように震える貞波の叫びに、勇麻は行動でもって答える事にした。
激昂する貞波を無視して、勇麻の下半身の筋肉が勇気の拳の力によって爆発的に膨れ上がる。
そして、炸裂。
瞬きする間に、全てが終わっていた。
またも刹那のうちに距離を詰めた勇麻。その膝頭が、その疾走の勢いのままに立ち上がる事が出来ずに座り込んでいる貞波の顔面に突き刺さったのだ。
鈍い音が響く。追突の衝撃に貞波の歯が数本砕けて零れ落ち、顔面が陥没する嫌な手応えを得る。
完全に意識を失い、電池の切れた人形のようにぱたりとそのまま後ろに倒れる貞波があまりにも不憫で、しょうがないから勇麻は質問に答えてやる事にした。
「独りで来たんだよ。和葉を助けに」
貞波嫌忌は言っていた。
『操世会』跡地に一人で来い。一人で来れたら、九ノ瀬和葉の命は助けてやる、と。
だから約束を守って一人で来た。
そして東条勇麻へ持ちかけられた取引の条件に、逃亡者の集い旗に抵抗するななどという文言は存在しない。
この場に一人でやってきた時点で、取引は成立した。ならここから何をしようが、文句を言われる謂れなど何も無い。
勇麻は不敵な笑みを崩す事無く、右の拳を眼前にそびえる白亜の巨城へ突き付けた。
「知ってたか? 逃亡者の集い旗。俺って実は、諦めが悪い方なんだぜ」




