第二十六話 決戦前夜Ⅲ――天秤の謀
勇麻達と貞波嫌忌達とが衝突するその数十秒ほど前。
敵の襲撃に最も早い段階で気づいたのは、ディアベラス=ウルタードではなくスピカだった。
スピカの音響領域は、音を聞き取る能力にも長けた神の力だ。
元々、盲目の彼女は音を聞き分けるセンスに秀でている。さらにそれを神の力で補強しているスピカにとって、音とは常人が視覚で得る事ができるの情報の数十倍もの情報を与えてくれる貴重な情報ソースだ。
まるで景色を目で見るように、世界の音を“視る”。
うまく姿を眩ましながら接近する敵の存在に気づいた時には、それでも既に一キロメートル以内への接近を許してしまっていた。
本来、スピカの索敵範囲は半径一・五キロ圏内。反響定位を使えばさらに伸びる。
既にここまで接近されていたという事実が、敵もそれだけ手練れなのだという事を暗に証明していた。
そしてそれをレインハート達に伝えられなかったのは、単にスピカがトイレで小屋から離れていたからだ。
「うぬぬ、これはちょっとマズイかも……」
スピカは情報の精度を上げる為に反響定位を発動。
人間の耳では感じとる事のできない高周波と低周波を複合した音波を発生させ、音の跳ね返りを利用する事によって地形、温度や湿度などの気象状況、敵の人数とその位置まで戦場の全てを把握する。
どうやら襲撃犯は二手に別れて行動しているらしい。
小屋へ真っ直ぐ向かう敵の数は六人。少し小屋から離れた所にいる和葉の元へ向かうのが二人。そのうち和葉の元へ向かう一人が、頭一つ先行している。
「六人は囮? 本命は……和葉おねーちゃん……?」
布陣から敵の狙いを割り出したスピカは、さらに思考を加速させていく。
ここでスピカには二つの選択肢があった。
一つは今から小屋に戻り、襲撃の事をレインハート達に伝え、万全の態勢で迎え撃つ。
そしてもう一つは、孤立している和葉の元へ向かい、和葉を狙っている敵を迎撃。和葉と共に小屋へ戻る。という選択肢だ。
距離的に近いのは和葉の方。
レインハート達がいる小屋にも、今から全力で走って戻れば、敵の襲撃前にギリギリ間に合うだろう。
だがその場合、和葉の方は確実に間に合わなくなる。
となると、距離的な余裕があり、尚且つ敵に狙われている可能性の高い和葉の元へ行くのがベスト。
なにより和葉は敵に対処できるだけの力を持っていない。完全にサポート特化の神の能力者なのだ。
「和葉おねーちゃんを助けなきゃ……!」
やるべき事が決まってからは早かった。
スピカは小柄な身体をバネのようにたわめると、全力で地を蹴り小さな身体で風を切って走り始める。
その幼さからは想像できないスピードで路地を走り抜け、曲がりくねった道を最短距離に和葉の元へと向かう。
……途中、レインハート達に大声で襲撃を知らせる事も考えたが、踏みとどまった。
和葉の元へ向かっている敵の数は二人。
しかもそのうちの先行していた一人のスピードが、先ほどまでよりさらに上がっている。
このまま行けば、スピカより先に和葉の元へ到達するだろう。もしそうなった場合、スピカは後手に回らなければならない。
迎え撃つのではなくこちらから仕掛けなければならない場合、こちらの存在が敵に知られているのといないのとでは雲泥の差がある。
ならばレインハート達にのみピンポイントで危険を知らせればいいのではないか。スピカの音響領域は声に特定の指向性を持たせる事によって、届ける人を選択する事が可能だ。
……しかしこれも無理だとすぐに判断する。
今の位置から指向性を持った大声でレインハート達に危険を伝えるのは難しい。
あれはある程度開けた場所でないと、途中の障害物にぶつかって声が途切れてしまう。こんな入り組んだ路地からでは、おそらくレインハート達までスピカの声は届かない。
スピカはそこまで考えると、レインハート達へ危険を知らせる事をすっぱりと諦めた。
大丈夫。ディアベラスやレインハート、それに勇麻おにーちゃんならスピカが指摘しなくてもすぐに気が付く。そんな信頼と共に、スピカは和葉の元へとひた走る。
そして――
「――いた!」
どこか影のある黒髪の少年の肩に和葉が米俵のように担がれ、今まさにどこかへ連れて行かれようとしている光景がスピカにも“視えて”――
「すぅぅうう――、っわっっっっ!!!」
大きく息を吸い込み、敵がこちらの接近に気づく前にアウトレンジから音波振動波を叩きつけた。
不意に吹き荒れる音の衝撃派に、今まさにこの場から跳躍しようとしていた襲撃犯の少年の鼓膜が内側から破裂する。ボクサーのアッパーを受けたように脳みそごと頭が揺さぶられ、少年の意識がたまらずブラックアウトした。
耳から血を吹き出し倒れる少年を無視して、スピカは投げ捨てるように宙に放り出された和葉の身体をその小さな身体で滑り込むようにして受け止めた。
「おっ、とと……」
バランスを崩しながらも、小さな身体でどうにか和葉を受け止め、ほっと息を吐くスピカ。
どうやら意識を失っているようだが、呼吸は正常。命に別状はなさそうだ。
ひとまず不意討ちには成功した。
とにかく、早くレインハート達と合流しなければ……。
ホッと一息ついた矢先だった、尋常ならざる殺気と共に放たれた拳撃がスピカの頬を襲った。
「きゃっっ!?」
痛烈な打撃と、頬の内側から炙られるような熱を感じた時には、スピカの小さな身体は弾き飛ばされるように宙を舞っていた。
背後から。
それも、スピカの音響領域による索敵を掻い潜っての奇襲。
(そんな、あり得……ない!)
攻撃を受けるまで特に怪しい反応は無かった。和葉の元へと向かう敵の数は変わらず二人。
うち先行していた一人はスピカの攻撃で無力化し、残る一人とはまだ距離があったはず。
ならこの攻撃は一体――
脳みそを揺さぶられる感触に吐き気を覚えながら、スピカの小さい身体が勢いよく地面を転がる。
天地の上下が分からなくなり、抱えていたはずの和葉の感触が腕の中から喪失して、スピカはそのまま木の幹に背中を打ちつけた。
肺から空気の塊が吐き出される。
「が、はッ……!?」
「ナギリ君やられるの早すぎじゃない? しかもこんな子にノされるなんて、流石に笑っちゃうわ」
疼痛に悶えていると、スピカの耳に聞き覚えのない声が入り込んでくる。
「うーん、どうせなら可愛い男の子が良かったんだけど。ま、戦力的にアタシがこっちに割かれるのはしょうがないかな」
濃いモスグリーンの長髪を靡かせた、二十代くらいの若い女だった。
色っぽく胸元をはだけさせた、いっそ下品なまでの衣装を纏ったその女は、殴り飛ばしたスピカと地面に転がっている和葉とを興味なさげに交互に眺めて、
「こんばんは小便臭そうなお嬢ちゃん☆ アタシの“存在が聞えなかった”? ごめんなさいね。でもレディの居場所を暴こうとするなんて、訴えられても文句は言えないと思えない?」
「く、……スピカ、は……小便臭くなんか……ないもん」
殴られた頬と、打ちつけた背中とがズキズキと熱を持ったように脈動する。
身体の芯が頼りなく揺れ、今にも崩れ落ちそうになるのを懸命に堪えて、スピカは地面に膝と両手を突き立ち上がる。
「あら。まだまだおしめが手放せないお年頃だと思ったのだけどね~。だったら遠慮なくぶっ殺しても構わない?」
女はスピカを明らかに見下し、嘲弄している。
確かにスピカは他の背神の騎士団のメンバーに比べて戦闘の経験は少ない。
味噌っかす扱い……とまではいかないものの、皆がまだ幼いスピカの事を気にかけて、少しでも負担を減らそうとしてくれている事も知っている。
だがここは戦場だ。
そしてスピカも、れっきとした背神の騎士団のメンバーなのだ。
スピカには巻き込んでしまった一般人を、九ノ瀬和葉を守るという責任がある。
だとするならば、
いつまでも大人達の背中に甘えて、守って貰ってばかりいる訳にはいかない。
「そうやって、侮っていれば……いいよ。スピカは、……一人でも、お前を倒せる……っ!」
闘志満タンといった調子で立ち上がったスピカに意外そうに眼を細めて、女は再び拳を握る。
「あら。まだやるの。ちっちゃな女の子にあまり興味はないけど、仕方ないわ。アタシはリズ=ドレインナックル。それじゃあ。死後、お見知りおきを。糞餓鬼お嬢ちゃん☆」
死を告げるにはどうにも軽々しい調子の声が投げかけられ、緑色の髪の毛が踊って翻る。
リズ=ドレインナックルがスピカとの間合いを一気に詰めるべく駆け出したのだ。
(……やっぱり、音を全然感じない。それなら……!)
――反響定位の弱点は、物体にぶつかって跳ね返ってきた低周波と高周波を聞き取る事に神経を使う為、本来聞き分けが可能な微細な音を聞き取りにくくしてしまう事にある。
リズ=ドレインナックルは何らかの方法でスピカの神の力を知り、己の反響音を偽装したのだろう。おそらく、そういう類の神の力か『神器』を使って。
結果、跳ね返ってくる音の中にリズ=ドレインナックルの反応を見つける事ができずスピカは奇襲を受けた。
それはつまり、スピカにとって彼女が相性の悪い敵だという事を示している。だがそんな事は関係ない。弱点がばれているなら、それを逆手に取るまでだ。
対処方法は極めて単純だ、反響定位を切ればいい。
そうすれば、彼女自身が発する足音や心臓の鼓動。それらの音がリズ=ドレインナックルをスピカの耳に鮮明に映し出してくれるのだから。
スピカは発動していた反響定位を解除。
高周波と低周波を駆使した音の跳ね返りを利用した索敵を中断した瞬間、スピカの耳に眼前の女の発する音がはっきりとクリアに映る。
瞳を包帯で覆った盲目の少女は、繰り出される拳をまるで見えているかのような精密さで掻い潜り背後へ回り込むと、その華奢な背中へ蹴りを浴びせる。
「っつ!?」
まさか反撃が来るとは思っていなかったのだろう。スピカの蹴りを受けてリズ=ドレインナックルの体勢が僅かに崩れる。対してスピカは、蹴りの反動を利用して距離を空けると空中へ跳躍、リズ=ドレインナックルとの間合いを調節する。
そしてそのまま空中で大きく息を吸い込んで「――わっっっ!!!」と、音波振動波を叩き込んだ。
先ほど、遠距離からこの直撃を受けた黒髪の少年は一撃で意識を失った。威力は折り紙つきの一撃だ。それを至近距離から浴びせられて、リズ=ドレインナックルも堪らず意識を失うかに思えた。
「……うっさいわね」
耳からたらりと一筋の血を垂らしながら、不機嫌気にそれだけを告げたリズ=ドレインナックルの拳がスピカの鳩尾にめり込んでいた。
「ッ! っぁッ!?」
下から掬い上げるようなアッパーカットの一撃に、スピカの身体が再び宙を舞う。さらに宙に浮かび上がった少女を突き落とすようにリズ=ドレインナックルの踵が浮かび上がった少女の背中を痛烈に打ち抜いた。
まだ成長途上の少女の内臓が激痛に破裂したような錯覚を生みだし、スピカの意識を揺らす。
小柄な少女の身体が、血反吐を吐きながら勢いを殺す事無く地面に叩き付けられた。
手加減容赦の一切ない一撃に天地が回り、視界が激しく明滅する。
身体が言う事を聞かない。必死に立ち上がろうとするたびに、指先が芋虫みたいに僅かに動いた。
何事もなかったかのように響くリズ=ドレインナックルの規則正しい足音が、彼女の無事を言外に物語る。
至近距離から音波振動波を叩き付けたハズなのに、一ミリも揺るがない。
脳を揺さぶり意識をぐちゃぐちゃに撹拌したはずなのに、なお倒れない。
防がれた? でも、形のない音の波を、一体どうやって……?
敵は何らかの方法でスピカの反響定位を潜り抜けてきた。やはり、スピカと同じで音に何らかの関わりのある神の力を宿しているのか……?
一番可能性として考えられるのは、同じ振動数の音波をぶつけて威力を相殺する事だが、それを聞き逃すスピカの耳ではない。
なら一体、何が……
状況の理解が追い付かないスピカに、ご丁寧にリズ=ドレインナックルの心温まる解説が始まった。
「アタシの吸収変換はさ、衝撃に対する一定の耐性があるのよ。だからお嬢ちゃんとはすこぶる相性がいいわけ。吸収率を意図的に弄れば、さっきみたいに音の跳ね返り方にだって干渉できるの。反応なかったでしょ? お嬢ちゃんの耳にはアタシから跳ね返る音が地面から跳ね返る音と同じように聞こえていたハズだもの。……さて、タネ明かしはそろそろおしまい。自分が死ぬ理由、分った?」
リズ=ドレインナックルは、音の吸収率を地面と同じように調整する事で、音の跳ね返り方を変えて擬態していた。
スピカの反響定位でリズ=ドレインナックルを捉えられなかった理由を、彼女は一切の躊躇なく明かしてしまう。
だがそれが分かったところでどうしようもない。
「……ごめんなさいね、お嬢ちゃん。こっちにも便利な神の能力者がいてね、ぶっちゃけ、アナタの事は色々と知ってるのよ。アナタの神の力に対して、アタシが有利って事もネ」
どうしようもないと分かっているからこそ、自らの勝利を確信したリズ=ドレインナックルもわざわざ己の神の力を明かしたのだろう。それは度しがたい強者の傲慢ではあるが、その程度の付け入る隙がなければスピカに勝機などやってこない。
なにせ、目の前の女の言う事が全て本当だとしたら、スピカの攻撃はリズ=ドレインナックルにはほぼ通用しないのだから。
だけど。
「そんなの……関係、ないっ!」
「……。なんですって?」
目の前の女が困惑したように眉根を寄せているのが、スピカには心地よい。
この表情を引き出しただけでも、一矢報いたような気分になってくる。
だがここからだ。
スピカはまだ、負けてなどいない。
「スピカが諦めたら、和葉おねーちゃんが傷つく。そんなのダメなんだもん。まだ小っちゃくてもスピカは、背神の騎士団だから。困ってる人を助ける正義の味方のお仕事だから……ッ!」
攻撃は通用しない。
彼女一人を倒せばそれで終わりではなく、敵の増援も迫っている。
レインハートや勇麻達も襲われていて、ここを切り抜けてなお安全とは言い難い。
けれど。
スピカを絶望から救い上げてくれたあの大きな背中は。
右目に稲妻型の刀傷を走らせた、海賊船の船長のようなナリをしたあの大男は。
「簡単に諦めちゃ、ダメなんだから……ッ!」
どんな逆境でも、簡単に投げ出したりはしなかったから!
血反吐を吐きながら立ち上がった少女の脚は、生まれたての小鹿のようにふるふると震えている。
左手は鈍痛のする腹部を押さえ、右腕も力なくだらりとぶら下がっているだけ。
スピカを支えているのは、自らも背神の騎士団の一員だという矜持のみである。
だが、リズ=ドレインナックルはその立ち姿に脅威を感じた。
実力では明らかにリズ=ドレインナックルに及ばない。しかしこの少女の心は、彼女の主の脅威に成り得る形をしている。
「幼くとも『招待客』として招かれただけはあるってコトね。……いいわ、だったら壊してアゲル。もう二度と生意気な口を聞けないくらい徹底的に!!」
リズ=ドレインナックルが苛立ちと嗜虐を浮かべ、ボロボロのスピカにトドメを指すべく一歩踏み出したその時。
光り。爆発。轟音。衝撃波。
一連の現象が、行き場を失った圧縮空気を解き放つように瞬時に連続して起こった。
原因は明白だ。
そして、誰かがその名を呼ぶ前に、再び迸った赤紫色の閃光が、世界を鮮血のような赤一色に染め上げる。
『――一丁前の口聞くようになったじゃねぇかぁ。俺にビビッて媚びへつらってたヤツとは思えねぇなぁ。リズ。あぁ、わりぃ。跡形もなく消し飛ばしちまったらもう喋れねえかぁ』
聞き覚えのある、特徴的な巻き舌の粗暴な声が響く。
「……ベラ、ちゃん……?」
唖然とするスピカは、自分が幻聴を聞いているのだと思った。
でも違う。
声は、きちんとスピカの言葉に応えてくれる。
『おうよ。ディアベラス=ウルタード、ただいま見参ってなぁ。……待たせちまったなぁ、スピカ』
その声に、スピカの顔がぱあっと喜色に輝いていく。
姿は見えない、実体すら定かでは無い、声だけの存在。
その異様な在り方故に、人から不気味がられる事もあるだろう。
だがそれは、音だけで世界を構成しているスピカという少女にとってはどうでもいい些細な問題だ。
「……ベラちゃんっ、遅い! でも、大好き!」
だってスピカには聞こえるのだから。
その優しく温かい大きな掌が、スピカの頭を慣れない手つきで優しく撫でている事が。
粗野で野蛮な口調の裏側に、どこまでも温かな心を持っている事が。
スピカの耳には、しっかりと“視えている"。
姿形も、その実体すら不確かな神の能力者、ディアベラス=ウルタードがそこに居た。
『安心しろ、お前も九ノ瀬の嬢ちゃんも、俺が来たからにはもう安心だぁ。あとは、東条勇麻達のトコ戻って、このうざってぇハエどもを片付けるぞぉ』
干渉レベルSオーバー。測定不能の領域に踏み込んだ、最強として君臨する神の子供達その一人。
『悪魔の一撃』を宿した男の登場と、その悪魔の如き苛烈な一撃によって、事態は一気に終息へと向かった。
――そう、まごうことなき終息へ。
「――誰が、消し飛ばされたって……?」
爆発によって発生した噴煙を斬り裂いて、一人の女がディアベラスの視界内に飛び込んで来た。
深いモスグリーンの髪が踊るように揺れるのを、警戒を完全に切っていたスピカは確かに“視た”。
『な、……ッ!?』
それは、ディアベラスが神の力で容赦なく消し飛ばしたリズ=ドレインナックルに他ならなかった。
確かに身体を打ち抜いた手応えはあった。
それだというのに、何故五体満足で生存している……?
ディアベラス=ウルタードの『悪魔の一撃』は距離、射程、射線を無視して超高密度のエネルギーを叩き込む回避不能の死そのものだ。
“距離を無視してその命を刈り取る悪魔の偶然、『運命』という防御や備えなどとは関係なしに気紛れに命を刈り取る理不尽”という概念を形にした、死神の如き神の力である。
その一撃が秘める圧倒的な干渉力は、有無を言わさず触れた対象を消滅させる程。
それこそ、この一撃に拮抗できるのは同じ強度の干渉力を持つ神の子供達くらいのハズだ。
だというのに。
「まったくもう、いくらアタシの事が嫌いだからって、お姉ちゃんに向かって酷い事をするのね、ディアベラス。そんな悪い子に育てた覚えはないわよ?」
『てめぇ……んで生きてやがるぅ!!』
予想外の事態に唖然とするディアベラス、それでも彼が完全に硬直した時間はほんのゼロコンマ一秒にも満たないような僅かな時間だった。
悪魔が我に返った直後、スピカ達の頭上数十メートルに、夥しい数の赤く輝くエネルギー球が一斉展開される。
“音を視る”ことしかできないスピカにも理解する事ができた。
世界の終焉とは、こんな光景の事を指すのかもしれない、と。
直後、世界を真紅に染める血の雨が降り注いだ。
赤い流星群の如き鮮血の雨。
その数は億にも到達する。まさにたかが人の身で避ける事など不可能な馬鹿馬鹿しい厚みの弾幕。圧倒的物量で全てを塗りつぶす、神の子供達だけに許された神の如し芸当だ。
だが、
『この確率論どころか因果律にまで干渉するようなこのデタラメはっ!? まさか……これは、輩屋災友ッ、テメェかぁぁあああああああああああああああああ!!』
当たらない。
その全てが見えない力に引かれるように捻じ曲がる。
億をも凌駕する降り注ぐ真紅の輝きは、そのどれもがリズ=ドレインナックルを避けるような軌道で地面に深い穴を焼き穿っていく。
「……リズ=ドレインナックル! 行け、我が親友よ。今なら届く! 我らが主の悲願の為に!!」
巻き上げられた土煙と爆炎の向こう側から、誰かの野太い声が響くと同時。まさに奇跡としか言いようのない幸運で弾幕をすり抜けたリズ=ドレインナックルが地面に倒れて動かない九ノ瀬和葉の元に達した。
『ッ!? マズい、スピカ! あの女を止め――』
切羽詰まったディアベラスの声に、茫然と状況を静観していたスピカがようやくハッとし動き出す。
燃えるような空気の熱さも無視して、身を削って懸命に息を吸い込んで放った一撃は、
「だから、そんな攻撃効かないわよ!」
効かない。
まるで、意味がない。
衝撃に対して一定の耐性を持つリズ=ドレインナックルは、スピカの音波振動波をものともせずに和葉の身体を担ぎ上げ、離脱していく。
『逃がすかぁ! この糞アマぁあああああああああああああ!!』
「あはっ、実体のないディア君がどうやってこの餓鬼を取り返すって? 焼き焦がしてしまうのがオチでしょう!!」
スピカの顔程の高さに、無数の赤いエネルギー球が発生、間髪入れずに逃げるリズ=ドレインナックル目掛けてその圧倒的エネルギーが解き放たれる。
モスグリーンの髪を揺らす女の下半身を消し飛ばすべく解き放たれた、世界を両断する赤き直線は、しかし直撃の寸前で見当違いの方向へ捻じ曲がる。
否、強力な引力に吸い寄せられているように、その軌道が何者かへ向けて意図的に捻じ曲げられているのだ。
そして、そんなディアベラスの予感を裏付けるように、それは現れた。
「リズには親友たる俺の幸運の加護がある。俺がいる限り、絶対に当たらんよ」
『災友ッ、てんメェ……ッ!!』
先ほども聞こえた声だ。
爆炎と土煙の中から悠然とその姿を現したのは、ソフトモヒカンの似合うガテン系の大男。
筋骨隆々の身体に、強面に浮かぶのはあまりにも不釣り合いな、世話焼きの好きそうな柔らかい笑顔。
輩屋災友。
『白衣の悪魔の遺産』にて、既にその道を分たれた、ディアベラス=ウルタードの旧友の一人だ。
白煙をかき分けて現れた彼は、その身に神々しい白銀の鎧を纏っていた。
おそらくは『神器』。だがその美しい輝きは、既に見る影もなくなっていた。
――輩屋自身の血と肉によって、醜く穢されていたからだ。
災友の右上半身は胸から下が跡形もなく消滅していた。内臓は零れ落ちる端から赤き輝きに飲み込まれて消滅し、流れ落ちる血潮も瞬時に沸騰し蒸発する。
右足は膝から下がなくて、左手に握った木の枝でどうにか身体を支えているような状況だ。
口からは止めどなく血が零れ、何故死んでいないのかが不思議なくらい青白い顔からは、ただ怨念のような気迫が感じられた。
その壮絶で凄惨な姿に、怒りをぶちまけていたディアベラスが僅かに躊躇したように口籠る。
『お前……本気かよ』
『神の天秤』。
触れた人間の幸運値を前後一〇〇ポイント上下させる神の力。だが、反比例するように己の幸運値も上下する為、仲間の幸運値を引き上げると必然的に己は不幸になる諸刃の剣。
それを、災友は。
「俺を除く逃亡者の集い旗全員の幸運を最大値まで引き上げた。やつらの親友たる俺が死ぬまで俺の親友達は皆無敵だ。神の子供達が相手だろうと負けはしない」
呪いのような笑顔で、爽快げにそう言い切った。
輩屋災友より幸運を授けられたリズ=ドレインナックルは、奇跡的な幸運で『悪魔の一撃』が掠りもしない。
その代償として八人分の不幸を背負った輩屋災友は、まるでブラックホールのような吸引力で『悪魔の一撃』を自らへと引き寄せる。
こうしている今も、ディアベラスの『悪魔の一撃』は鎧に宿った神の加護すら打ち砕き、『神器』諸共輩屋災友の身を砕き続けている。
だがそれを意にも介さずに、災友の瞳は静かにディアベラスを射抜いていた。
『これは、何の嫌がらせだ、災友。俺がぁ、そんなに憎いかぁ……ッ!』
「あぁ、憎かったとも。裏切りの親友よ。だが、会いたくもあったぜ、ディア。……ぁあ、この名前を呼ぶのは、いつ以来だろうな……」
束の間、災友の顔が綻んだように思えた。
だが、それは瞬時に崩れ去る。
圧倒的な干渉力に押し負けた鎧の『神器』、その下半身に一点の崩壊が生じる。その亀裂を押し広げるように、悪魔の赤い輝きが、災友の下半身を跡形もなく消し飛ばしたのだ。
災友の顔が、苦悶に歪む。
零れ落ちる血潮すら蒸発させ消し飛ばし、生きてきた証すら残さぬと、悪魔の真紅の輝きが全てを飲み込まんとする。
『くそが! 馬鹿野郎! 馬鹿野郎馬鹿野郎馬鹿野郎っっ!! あの馬鹿アスティがぁ、停滞なんざを望むあのバカ女がぁ! お前らの死を望んでいるとでも本気で思ってんのかぁ!!』
「それはお前も同じだろう? 親友よ」
輩屋災友は、左上半身のみとなっても笑っていた。
まるで、あの幸せだった日々に戻ったみたいに。
「お前がアスティを想ってあいつに刃を向けたように、俺達もアスティを想ってあいつの望まないことをしちまうんだよ。……親友ってのは、そういうモンだろ?」
最後の、その瞬間まで。
『そこまで分かっておいて……テメェはッ!!』
「あぁ、我が親友クリアスティーナ……どうか、安らかに……」
『くそったれがぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!』
唯一残った上半身と頭部を守る鎧とが崩壊し、神の加護を失った神の能力者は、瞬時に悪魔に呑み込まれた。
輩屋災友の五体は、塵も残さずに完全に消滅した。
そして。
輩屋災友が文字通り命を懸けて稼いだ時間によって、九ノ瀬和葉は逃亡者の集い旗の手に落ちたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
一つの戦闘の終息と同時、貞波嫌忌は右耳のインカムから流れてくるリズ=ドレインナックルからの通信に声をあげた。
「お、九ノ瀬和葉の回収に成功したって。で、災友くんも死んじゃったってさ。……全く、サトリンの『予見』様様だね。災友くんも望み通りにディアくんの目の前で死ねたみたいだし、つまらないくらいに何もかも計画通りじゃん」
貞波は、己の足元にある物をぐりぐりと足の裏で踏みつぶしたまま、こう言った。
「それじゃあな、東条勇麻君。おつかいも済んだし俺達はもう帰るよ。遊んでくれてありがとな」
「……ま、て……っ」
嫌忌の真下。その足裏から微かに響く弱々しい声の音源は、逃亡者の集い旗に完全敗北を喫した東条勇麻だった。
一方的な決着だった。
遠方から銃弾をばら撒き続けるライアンス=アームズを仕留めようと接近を試みる東条勇麻と、それを阻止しようとする貞波嫌忌の一騎打ち。
だが肉弾戦で、東条勇麻の攻撃は一度も貞波に掠る事すら無かった。
偶然、必然、幸運、運命……。
まるで神様のイタズラのように、東条勇麻の繰り出す拳の悉くが貞波の身体を避けて行き、対する貞波の拳撃はその全てが東条勇麻の肉体に叩き込まれた。
五分もせずに東条勇麻はご覧のように地に倒れ伏し、そしてそのすぐ近くでは、愛刀を切っ先から縦真っ二つに切断されたレインハート=カルヴァートが意識を失って倒れている。
こちらはリリレット=パペッターと割宮裂姫ペアと戦っていたハズだが。この様子を見るに大した苦戦もなく終わったに違いない。
レギン=アンジェリカや、後方に控えていた生生は出る幕さえなかったという訳だ。
まさしく完全勝利。
それこそ、勝った当人たちでさえ首を傾げてしまいそうなほどの。
この圧倒的に理不尽な結末こそが、輩屋災友の『神の天秤』の恐ろしさの所以なのだが、その力を宿した神の能力者はもうこの世にいない。
惜しい人材を失くしたと思うと同時に、それだけ今回の事態がイレギュラーであることの証拠でもあると貞波は考えた。
“兄の死に、自分がそんな事しか思えなくなっている事を自覚しながら"。
逃亡者の集い旗が欠けるなど、今まで一度もあり得なかった事だ。
そんな感傷をひた隠しに、足元でボロ雑巾のようになっている東条勇麻に、無傷で佇む貞波嫌忌はこう告げた。
「そんな心配しなくてもアンタはここでは殺さないさ。なんて言ったって、『招待客』は『聖女様』によって正しく殺されるべきだ。だから、取引をしようか」
「取、引き……?」
「ああ、明日の正午十二時に『操世会』跡地に一人で来い。知ってるだろ? 『聖女様』の暮らす城のある場所だ。一人で来れたら、九ノ瀬和葉の命は助けてやる」
「俺が行けば、ごほっ、……和葉は。助かるん、だな……?」
「おっと、ディアベラスが動く気配が一ミリでもあったらこの交渉は無しになるからな。……こっちには生生がいると言え、それであいつに通じるハズだ」
貞波嫌忌は返事も待たずに満足げに笑うと、踵を返した。
「それじゃあ明日、約束の時間に」
逃亡者の集い旗は立ち去っていく。
まるで嵐のように大きすぎる爪痕を残して。




