第二十四話 決戦前夜Ⅰ――奇襲
――我々は運命の逃亡者。
成すべき事から逃げて、己の責務から逃げて、背負うべき罪業から逃げた。
真実を直視しようとせず、疑問から逃避し、与えられる幸福を何の違和感も抱くことなく享受してきた。
我々は弱かったのだ。見せかけの力はあっても、それは真の強さではない。
故に甘えた。
故に投げ出した。
故に押し付けた。
故に逃げ出した。
そんな恥ずべき逃亡者である我らの代わりに一人の少女は全てを背負い、全てを抱えた。
だからこれは決して消えぬ永久の罪。
恥ずべき逃亡者たちは集い、かの聖女を旗に掲げよう。
悪魔と罵られる少女こそが救世主であり英雄だと声高々に謳い続けよう。
聖女と尊ばれる少女こそがごくごく平凡な女の子であると伝え続けよう。
これはその為の基盤。
誰もが掲げる合言葉。
知らずして世界に浸透する象徴にして概念。
いつかいつの日か。逃げる事を止め真実を直視する勇気を持つ人が現れた時。きっとそれらを語り継げるように。
いつかいつの日か。再び少女が停滞を打ち破る時に、その横に並び立てるように。
だからそれまでは、せめて少女の望みを叶え続けよう。
それが我らの罪滅ぼし。
全てを彼女一人に背負わせのうのうと逃げおおせてしまった逃亡者達の、精一杯の献身。
☆ ☆ ☆ ☆
『聖女』が根城としている『操世会』本拠地跡地への襲撃は、夜が更けてから決行される事となった。
かなり遅めの昼飯兼早めの夕食を食べている間にあらかた情報の共有は終わった。
勇麻達がこちら側の未知の楽園に飛ばされるまで……すなわち違和感の原因に明確に気が付くまでかなりの時間を要したが、スピカやレインハートはかなり早い段階でこちら側へ飛ばされていたらしい。
『スピカはねー、すぐ気付いたよー。だって“音”が急に歪んで“全然別の色の音”になっちゃったんだもん』
『いえ、私もかなりの時間を食わされてしまいました。やけに特定の感情を誘発させようとする状況の連続に違和感を覚え、その一つ一つの違和感に対処していった結果、かなりの時間足止めを……面目ありません』
と、これはスピカとレインハートの談だ。
“音を視る”スピカは別空間に飛ばされたことに即座に気付き、喜楽の感情の欠落したレインハートは自分に都合のいい展開を前に感情に流される事なく、違和感を一つずつ解き明かしていった。
そもそもこの二人は最初から騙されてすらいないのである。
散々拳勝の掌のうえで踊らされた身としては、何だか釈然としない気持ちになる勇麻なのだった。
そうして食後の食休みを挟んで行われた作戦会議は、敵について最も情報を持っているディアベラスを中心にスムーズに進んだ。
『いいかぁ、聖女の野郎は空間を司る神の子供達だ。だが、聖女自身が完全に全てを把握してる領域自体は意外と狭え。そもそもヤツには縄張りっつー概念がねぇからなぁ。なにせヤツの神の力自体がこの世の何よりも強固な壁だぁ。ヤドカリみてぇなもんだと考えろ。自分自身が一番信頼を置ける要塞っつー訳だぁ。そんなもんだから、わざわざその外になんざ注意を向けたりしねえ。必然的に索敵範囲は意外と狭い、というかそもそもそんな面倒な工程が必要ない。つー訳でぇ、逆に化け物相手に奇襲が通じるって訳だぁ。……攻撃が通るかはともかくなぁ。で、こっからが問題だ。ヤツの城はご丁寧に逃亡者の集い旗……つまり『遺産』の連中が頼まれてもねぇのに警備についていやがるぅ。だからこその、夜襲だぁ』
奇襲の基本は夜討ち朝駆け。
人数的不利を覆す為にも、不意を突く事は必須であるのは間違いない。
それは神の能力者同士の戦いにおいても同様だ。
『幸い、こっちにはスピカがいる。相手にも探知タイプはいるがぁ……そいつは一度顔を見た相手じゃねぇと追えねえタイプだからここでは除外する。地の利についても俺がいりゃあそこまで関係ねぇ。スピカの音波と耳がありゃあ、連中の目を掻い潜って城内に侵入する事だって不可能じゃねぇしなぁ』
スピカの耳を頼れば、大体の警備は素通りできる。
そのうえこちらにはレインハートがいる。
スピカが敵の場所を掴むスポッターのような役割を担えば、レインハートの飛ぶ斬撃で狙撃しエンカウント前に敵を無力化する事も可能だ。
もちろん、距離、射程、障害物などを無視するディアベラスの悪魔の一撃でも遭遇前に敵を無力化する事は可能だが、彼の攻撃は派手である為に目立ちやすい。
また、敵の探知タイプと顔見知りなディアベラスが大々的に動けば、敵に発見される可能性がある。
今の姿形の無いディアベラスがどの座標上にいる扱いになるのかはやってみるまで分からないが、こんな所で博打を打つ必要性もない。
よって、基本的な戦術はこうだ。
『スピカの耳を頼りにできるだけ警備の奴らを無視して城内に侵入。戦闘は必要最小限になぁ。どうしても避けられない場合だけ、レインハートの飛ぶ斬撃で視覚外から一撃でケリを着ける。んでもって、城内に侵入してからは速さの勝負だぁ。スピカと和葉はアリシアの探索と救助、残る三名で侵入に勘付かれる前に『聖女』の元へ辿り着く。んでこいつをぶっ飛ばす。以上、質問あるかぁ?』
これがアリシア奪還作戦の概要である。
現時刻は午後六時半。
ディアベラス含めた四名は既にそれぞれの準備を完了させており、現在は夜に備えて小休止と仮眠を取っていた。
部屋に一つだけ備え付けられたベッドの上ではスピカが眠っている。もう一人寝るだけのスペースはあるのだが、レインハートは自分は今日までにこの部屋のベッドを散々使っていたからと使用を断り、話し合いの結果ベッドの使用権を(半ば強引に)与えられた和葉は、いつの間にかベッドを抜け出していた。
勇麻は固い床に毛布を敷いてその上で横になって休息を取っていた。背後からはベッドを辞退したレインハートの規則正しい寝息が聞こえてくるが、勇麻はぐるりと寝返りをうって背中を向け、努めてそのことを考えないようにする。
こんなところで入院中のレアードに呪い殺されたくはない。
(待っていろよ、アリシア……。俺が、必ず……!)
きっと、アリシアが助けを待っている。
そのことを考えるだけで、身体に力が漲ってくる。
大丈夫、大丈夫、きっとアリシアはまだ無事だ。
勇麻は己の心に巣くう不安を蹴散らすように、何度も何度も唱え続ける。おかげで先ほどから頭が冴えてしまって、碌に眠れもしないが、雨風を凌げる屋の根の下で横になって休めるだけでもだいぶ違うというのが勇麻の感想だった。
勇麻が考えるのは『聖女』の元にアリシアがいる理由だ。
『聖女』は勇麻の事を殺そうとしていたが、そもそも何故勇麻を殺そうとするのか。その訳さえも定かではないのだ。
全体的に『聖女』の最終的な目的が分からない。
それは、昼間に襲撃を仕掛けてきた『逃亡者の集い旗』についても同じだった。
ただ、『聖女』をよく知るというディアベラスは、こう言っていた。
『アスティ……「聖女」のヤツは、決まって「招待客」と呼ばれる他の未知の楽園から飛ばされてきたヤツを執拗に狙う。それ以外でヤツが城の外へ出る事自体が稀だぁ。つうか、実質的には外に出るのはヤツの神の力を出力する「窓口」であって本体ではねぇんだが……ま、その辺りはこの際関係ねぇ。ようはヤツは「招待客」の命を狙ってるってのが重要だ。んでもって、逃亡者の集い旗……俺以外の「白衣の悪魔の遺産」の目的も同じだ。正確には、「聖女」の望みを叶える事が連中の目的なんだがなぁ』
つまり、現時点で判明している『聖女』の目的は東条勇麻。レインハート=カルヴァート。スピカの三名の殺害。
逃亡者の集い旗も同じように、『聖女』の目的が叶うように行動するだろう。
ならば、何故アリシアが『聖女』の元に居るのか。
普通に考えれば、勇麻達に対する人質と見るのが妥当か。
だが、ディアベラス=ウルタードはその予測に難しい声を返すばかりだった。
『どうだかなぁ。そのアリシアって餓鬼は、お前らの話を聞いた限りじゃ、最初からこっちの未知の楽園に居たって訳じゃねぇんだろぉ?』
そう。アリシアは最初、リコリスやチェンバーノ=ノーブリッジと行動を共にしていた事が確認されている。
つまり、勇麻やレインハート達と同じで、余所の未知の楽園から飛ばされてきた『招待客』の一人だと考える事もできるのだ。ただ一つアリシアと勇麻達に違いがあるとすれば、
『それはアリシアって餓鬼が直接、「聖女」の手でこちら側の未知の楽園に連れてこられたって点だ』
スピカがアリシアの反応を探知できたのは一瞬だったらしい。いきなりアリシアの声と酷似した声紋が『操世会』跡地に現れ、次の瞬間に消失した。
同じように、『聖女』を距離を無視して監視していたディアベラスもまた、唐突に現れた純白の少女の存在を一瞬捉えている。
おそらくその一瞬が、勇麻達の居た未知の楽園からこちら側へ連れてこられた瞬間だったのではないか、というのがレインハート達と立てた予想だった。
『普通、「招待客」は「案内人」とやらを通してこちらの未知の楽園へ送られる。俺が先回りできるのも、「聖女」が直接的に「招待客」の輸送にぁ関わらねえからだぁ。別にアリジゴクみてぇに、送られてきた餌の真下で大口開けて待ち構えてる訳じゃねぇ。奴は空間の異常を察知してから動き出してる。距離っつー制約のない俺だからこそ、そんな「聖女」をギリギリで出し抜けるっつー訳。東条勇麻の場合は、九ノ瀬和葉っつーイレギュラーが付いてたせいで座標が予想地点からズレて間に合わなかったけどなぁ』
それが出来なかったという事は、つまり『聖女』が直接アリシアをこちら側へ連れてきたという事の証明に他ならない。
であれば、アリシアには他の『招待客』とは異なる特別待遇をする理由があるという事だ。
その特別待遇の理由について、勇麻は一つだけ心当たりがあった。
そう。
アリシアもまた、『聖女』と同じ干渉レベルSオーバーの『神の子供達』であるという点だ。
勇麻の懸念を受けて、ディアベラスはこう告げた。
『……まあ何にせよ、一刻の猶予もねぇのは確かだぁ。あれ以来、俺の方でもスピカの方でもアリシアって餓鬼の反応を察知できてねぇ。何らかの異空間に閉じ込められてる可能性もある。……結局の所、「聖女」をぶちのめして、ヤツの神の力を解除するしかねぇって訳だぁ』
救国の聖女。
干渉レベルSオーバーの神の子供達。
かつて勇麻は、本物の神の子供達と対峙し、辛くも勝利をもぎ取った事がある。
奇操令示。
悪夢のような力と、悪魔のような思想を持った、危険な敵。
結果として、天界の箱庭を守りきり、『ネバーワールド』の爆破も食い止める事には成功した。
だが、奇操令示を倒す為に勇麻の大事な親友が一人、犠牲となった。
高見秀人は今も真っ白な病室のベッドの上で眠り続けている。意識が戻る気配はない。
勇麻はあれを勝利とは呼びたくなかった。
奇操令示を殺すという結末については、もうどうしようもなかったと言うしかない。
あれは生きている事が間違いのような純粋悪だった。
生かしておけば、この先何人の罪なき人々が犠牲になるか分かった物じゃない。そんな相手だったのだ。
だが、高見の犠牲という勝利は決して認められなかった。
高見秀人の犠牲は確かに無駄ではなかった。彼が居たからこそ、勇麻達は奇操令示を退け、大切な物を守る事ができたのだから。彼が命を賭して掴み取った物には確かに価値があった。それを否定するつもりも、否定させるつもりもない。
ただ、その大切な物のうちの一つを取りこぼしてしまった東条勇麻にとっては、あの戦いは勝利ではなく敗北なのだ。
あれでは高見秀人の一人勝ちだ。あのお調子者の高見一人に美味しい想いをさせるのは、どうしても癪なのだ。
きっと楓に泉や勇火。シャルトル達だって同じ思いだろう。
だから同じ轍を踏むつもりはない。
例え相手が奇操令示さえも凌駕するような強敵だったとしても、勇麻は敗北のままで終わってやるつもりなど毛頭ない。
今度こそ、東条勇麻は守りたい者を守りきってみせる。
出来るかできないかではない。そう在りたいから。曲げられない理想や譲れない思いがあるからこそ、勇麻は拳を握り続けるのだから。
(迷わない。例え敵が神の子供達だろうが、関係ない。アリシアが当たり前の日常を謳歌する権利を、誰にも奪わせやしない……!)
静かに瞳を閉じながら、勇麻は決意を固めていく。
決戦の時は近い。
例えどれだけ泥にまみれて敗北に汚泥を啜ろうとも、立ち止まらなければ終わりにはならない。
諦めさえしなければ、どんな地獄の底からでも勝利へ近づく事はできるのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
九ノ瀬和葉は一人で外の風に当たっていた。
他の皆が気を使ってくれたため、和葉はベッドで寝る事ができる権利を得たのだが、何だか気が進まない。
別にベッドを自分が使う事に抵抗がある訳ではない。ただ何というか、彼らと同じ場所に長時間共にいる事が今の和葉には気まずいのだ。
「はぁ……」
ボロ屋の風化した塀に腕を預け、溜め息を吐く。
原因は分かっている。
レインハート=カルヴァートという女性との、些細な言い争いだ。
「我ながら馬鹿馬鹿しいわね。一体何をムキになっているんだか……」
理由なら痛い程に分っている。
……ただ、なんというか。面白くなかったのだ。
此処に来るまで、あの少年を支えてきた少なくない自負のような物が和葉にはあった。
トントン拍子に物事が進み、一度はドン底に叩き落とされ、文字通り生死の境を彷徨って、それでも再び立ち上がり、知恵を絞り、力を合わせて共に逆境を乗り越えてきた。
仕事の依頼と報酬の金だけの関係のハズだった二人の間に、明らかにそれ以外のナニカが生じている事に、和葉もうっすらと気が付いていた。
自分の利益の為でなく、誰かの為に行動する事の意味を知った。
――例え意味なんてなくても、それは素晴らしい事なのかもしれない。そう思えた。
誰かの為に行動するという非効率は、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
――損得勘定も、効率や非効率も気にならない笑顔と涙と感情の激動がそこにはあった。
全部全部、東条勇麻と共に歩いてきたからこその感情だ。
なのに。
あの少年のピンチに颯爽と駆けつけ、和葉ではとてもじゃないが真似できないような圧倒的な強さで敵を退けた彼女達と、彼女達を見た途端に嬉しそうに顔を輝かせた少年の顔とが、脳裏にこびり付いて離れない。
ここまで少年を支えてきたのは自分なのに。
二人で頑張って困難を乗り越えてきたのに。
それをまるで、「お前の役目はここまでだ、ご苦労様」とでも言うような無機質で他人行儀で無感情な台詞が、和葉のささくれ立った心を無用に刺激した。
きっとあの少年の言う通り、彼女に悪気や悪意は無かったのだろう。
だがそれを理性で理解していたとしても、彼女の感情がつまらない意地を張る事を突き通したのだ。
……嫉妬、していたのだろうか。
「ホント、らしくないにも程があるわ。私もいい加減、ヤキでも回ったのかしら……」
和葉はもっと自分を冷めた人間だと思っていた。
今の今まで、兄と自分以外の他人に執着した事など、ただの一度もなかった。
未知の楽園に生きる他の人々同様、自分以外の他人など自分が生きていく為の踏み台でしかない。この世界にただ一つ存在するルールがあるとするならば、それは弱肉強食。他者を生きる為に利用するならともかく、他人の為に自らの利益すら放り出すなんて馬鹿げている。
……確かに、あの少年との出会いは、そんな弱肉強食という価値観に風穴を開ける出会いではあった。
見捨てる以外の選択肢を。利益や損得以外の行動理由を。彼女はあの少年から学んだ。
和葉自身、彼の生き方に若干影響されつつあるのを自覚はしている。
その自覚がなければ、あの大聖堂であんな啖呵など切ったりしていない。
ただそれを加味しても、これはあまりにもらしくない。
これじゃあまるで……
「兄さんの代わりを、東条くんに求めてるみたいじゃない……」
自分で言って、体温が若干上昇するのを感じる。
確かにあの少年は、和葉の心が折れそうな時に傍に寄り添ってくれた。
黙って和葉の話を聞いてくれて、慰めてもくれた。
だからと言ってたったそれだけの事で心を依存させていただなんて、あまりにもチョロすぎるではないか。
夕方の風に当たって頭を冷やすはずが、眩しいオレンジの夕焼けと内部発熱でより体温が上がっていそうな有り様だ。
くだらない意地を捨て、大人らしく己の非を認め、彼女にきちんと謝ろう。
そうして壁を取り払ったら、夜に備えて皆と休息を取るのだ。
ただでさえ和葉は直接戦闘では何もできない足手まといだ。寝不足などというふざけた理由で皆の脚を引っ張る訳にはいかない。
そんな事を考えていたその時だった。
「お前が九ノ瀬和葉だな」
「ッ!?」
「騒ぐな。騒げば……殺す」
背後から突如現れた何者かに羽交い絞めにされた。
首を必死で巡らすも、襲撃者の顔はよく見えない。不自然な程に顔に張り付いた陰影が、襲撃者の顔立ちを隠している。
現実に迫る危機を理解した時には、和葉は口元に白いハンカチを押し当てられていた。
慌ててもがき、抜け出そうとするが遅い。
思考が、鈍くなる。頭が、目蓋が妙に重い。不自然な程の眠気に襲われて――そのまま九ノ瀬和葉は意識を失った。




