第二十話 混迷する流れⅠ――偶然の出会い
陰鬱な地下牢から出ると、未知の楽園は爽やかな夜風と共に勇麻達を迎え入れてくれた。
(……そもそもの話、この街そのものが地下に作られた実験都市な訳だが、細かい事は気にしない)
現に優しく肌を撫でる夜風は、地上の物そのもののようで、これが地上と気象をリンクさせているだけの人工の風だとはにわかには信じられない話だった。
「ぜぇ、はぁ、ぜぇはぁ……これからどうする?」
『虎の尻尾』のアジトの敷地内から全速力で離脱した勇麻は、同じく隣で肩で息をしている和葉に尋ねる。
神の能力者ながら運動神経が致命的な和葉は、途中から勇麻におぶられていたというのにこの有り様だ。
日頃あまり外に出ないアリシアでさえもっと動けるくらいだ。
(天界の箱庭に帰ったらアリシアにももっと運動させよ……)
運動不足は良くないと思う勇麻だった。
勇麻の脳内で勝手に反面教師扱いされているとも露知らず、和葉はゆっくりと呼吸を整えると、
「……そう、ね。とりあえず外周区にはこれ以上留まる意味がないわ。ダニエラ=フィーゲルの話が本当なら、ここら辺一帯はあの女の縄張りなのだろうし。あれだけ聖女を毛嫌いしていた人の事よ、少なくとも彼女のいる外周区に、聖女への手掛かりはないと見るべきだわ」
「それは俺も同感かな。あの人が逃亡者の集い旗を壊滅させたってのは正直眉唾だけど、少なくとも外周区には居なさそうだし」
「となると……」
「あっちの未知の楽園でやった事と一緒だな。情報を集めながら、壁を越えて中心区を目指す」
ひとまずの基本方針を打ち出した勇麻に、和葉は大きく息を吐く。
「ほんと、行き当たりばったりも良いところよね。スマートじゃないわ」
「呆れた風に言ってるトコ悪いけど、一番行き当たりばったりなのは和葉さんだよね?」
勇麻の鋭くも何ともないごく当然の指摘に、和葉はすまし顔だ。
「あら、酷い言い掛かりね。ここまで全部私の計算通りなのに」
「結局逃亡者の集い旗の事も、聖女の事も何も分からなかったけど?」
「外周区からは追い出されてるって事が分かったじゃない。一応計算通りのうちよ」
「そうだなうっかり虎さんの尻尾踏むのも予想通りだよな」
「ほら、日本にそんな諺があったじゃない、虎穴に入れば虎児を踏むとかなんとか」
「虎穴に入らんずば虎児を得ず、な? 踏むのは尻尾だけでもう充分だし、何も得られてないし、そもそも使い方間違ってるからねソレ」
ぐだぐだ言いつつも意見が一致した二人は、とりあえず今夜の寝床を確保する事にした。
牢にぶち込まれている間、寝る時間はたっぷりとあったのだが、生憎地下牢でぐっすり安眠できる程勇麻の肝は座ってはいない(もっとも隣の和葉は堂々と眠っていたのだが)。
「それにしても、こうして歩いているとおかしな気分になるわね」
「ん、何がだよ」
「……ああ、あなたには分からないのよね。ううん、別に大した事じゃないわ。ただ、外周区は外周区でも、私の知っている外周区とは違うんだなって、そう思っただけよ」
出来るだけ感情を排した声で語る和葉の横顔からは、隠しきれない寂しさが滲んでいるような気がした。
──『多重次元空間』。
同座標上に存在しながらも次元の異なる複数の空間が折り重なっている、平行世界にも似た特異な空間。
反乱を起こした神の子供達の聖女様によって、未知の楽園という都市は世界に複数同時に存在しているらしい。
亀裂の向こう側に飛ばされた今、勇麻や和葉の立っている未知の楽園は、和葉の暮らしてきた未知の楽園とはそっくりではあるが根本的に全く異なる別物だ。
街並みや雰囲気。そしてここに住まう人々。その暮らし。何から何まで元いた世界とは微妙に異なっている。
まるで、姿形だけは似せて作られた、鏡の世界に入り込んでしまったかのような、奇妙な疎外感に襲われる。
……勇麻はともかく、少なくとも和葉にはそう感じるはずだ。
それはこうして人気の潰えた夜の外周区を歩くだけでも明らかで、逆に人々の喧騒が無い分。顕著に現れてしまうのかも知れない。
夜の闇に明確に浮かび上がった街の姿に、不安と焦燥を掻き立てられる。
いつもとどこか違う街並みに、そんな子供のような弱気が映るのだろう。
「全部終わらせて、帰ればいいさ」
「……ええ、そうね」
会話はそれきり。
だが、二人の思いは一つだった。
やるべき事をやり遂げ、自分の居場所へ皆で帰る。
その為にも今は、英気を養うべきだ。
勇麻と和葉は手頃な廃屋を見つけると、交代で見張りを立てつつ眠りに付くのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
朝日も昇って早いうちから勇麻達は行動を開始した。
結局、昨日の夜はあまりよく眠れていない。
周辺に何者かの気配を感じ、その都度和葉の神の力を使って出入り口以外の壁から脱出。新たな廃屋に侵入し仮眠。気配を察知し脱出の繰り返しである。
怪しく周囲にチラつく気配を気にしつつ寝床を抜け出し外周区をたっぷり歩いて第二内周区に到着したのは、動き始めてから二時間以上も経過した午前八時過ぎの事だった。
「うわ、朝早くからなんて人混みだよ……」
「活気と殺気溢れる朝市だもの。仕方ないわ」
到着早々、眼前のゴミのように人が溢れ返る光景に勇麻がげんなりとした調子で文句を零す。
対して和葉は、自分のいた未知の楽園でも見慣れた光景なのか、割り切った風に言葉を返した。
「というか、こういうところは変わらないんだな」
「腐っても未知の楽園ってことね」
「嫌な腐り方だな」
「ほっときなさいな」
とはいえ、勇麻の軽口に返事をする和葉の表情にはややうんざりしたような色が見え隠れしており、この人混みそれ自体は鬱陶しく思っているだろう事がよく分かる。
和葉の言葉通り、殺気に満ちているとも言える朝の市場は、人々の威勢のいい罵声やら怒声で溢れ返っていた。
そこらじゅうで起こる乱痴気騒ぎに流血騒ぎの正体は、もはや恒例の“値切り喧嘩”だ。
表示される値段が気に食わない場合、店側と客側の殴り合いで勝者が値段を決める事ができるという、まさに弱肉強食の未知の楽園ならではの独自のルール。
初めてこれをみた時は軽いパニック状態に陥った物だ。未だにこれを素通りするのは自分でもどうかとは思うのだが、これがこの街独自の文化なのだと言われては、強く否定する事もなかなかできない小心者の勇麻なのだった。
どこか頭を真っ白に白熱させる独特の雰囲気に当たられないよう、気を引き締めつつ、人混みをかき分けるようにして前へ。
二人は第二内周区から第一内周区へと向かおうとして。
「いたっ、」
いきなり足を止めた勇麻の背中に、和葉が鼻の頭をぶつけてうめき声をあげた。
「……ちょっと東条くん? いきなり立ち止まらないで貰えるかしら。あなたのせな……、僧帽筋中部に鼻をぶつけたじゃない」
「いやわざわざ言い直さないでいいわ背中って言えよ筋肉フェチ。思いだしたように属性発揮するんじゃねえ」
「そんなことより」
取って付けたような和葉の台詞に辟易した勇麻の苦言は秒で無かった事にされた。
和葉はまるで何事も無かったかのように話を逸らして、足を止めた勇麻の視線の先を覗き込んで、
「そんなことより、東条くんたら何をして……って、あなた。まさか……」
微かな好奇心を湛えていた和葉の顔が、その視線の先にあるものを見てげんなりと萎れていく。
とある疑惑を確信へと変えた九ノ瀬和葉は、未だに熱い視線を送り続ける勇麻を一瞥すると、
「あなた、この期に及んでまた例の病気……?」
勇麻に続いて今度は和葉が呆れたような声をあげたのだった。
「病気って言うんじゃねえ。つか、いくら値切り喧嘩だからってアレは見過ごせねえだろ」
勇麻の視線の先にあったのは、市場に店を構えているらしき筋骨隆々の大男に、一〇歳前後の少年が壁際に追い詰められている光景だった。
大柄な男は拳を振り上げており、今にもその幼い少年を容赦なく打ち据えようとしている。もう逃げ場を失った少年は青ざめたその顔に恐怖の色を浮かべ、今にも振り下ろされる鉄槌を見上げて固まってしまっていた。
勇麻の言いたい事、やろうとしている事を瞬時に理解した和葉は溜め息と共にもみもみと己のこめかみに手をやって、
「……あのねえ、東条くん。あなた今の自分の状況分かっているの? 一刻も早くアリシアちゃんとやらの居場所を特定しなきゃならないのに、こんな事やってる暇が本当にあると思っているの? 私達を探している怪しい気配の正体もまだ掴めてないのに、寄り道なんてしてる余裕はないんじゃないかしら」
「確かにな」
和葉の正論に、勇麻は一秒と経たずに即答した。
だがそれは、和葉の主張を肯定する物ではあったが、己の主張を曲げる物ではなかった。
「けど、ここでアレを見なかった事にするのは俺には無理だ。前にも言っただろ? 俺が人を助けるのは俺が納得いかないからで、要は自己満足の為だって。別にこの世界で起きる悲劇から何もかもを救くおうだなんて思い上がっちゃいないよ。けど、それでも助けられるものは助けたいんだよ。勇気の拳だって、きっとそう望んでる」
言うが早いが、勇麻は和葉の返答を待たずに飛び出してしまった。
「あ、ちょっと! 東条くん!? まだ話は終わってな――」
必死に引き留めようとして言葉を投げかけるも、既に和葉の話などてんで聞いていない少年に、何かを諦めたように和葉は息を吐いた。そして、疲れたような表情で独りごちる。
「……多分だけど、東条くんが考えているような事態じゃないと思うわよ? ……全くもうっ、アレも未知の楽園ではよく見る光景だから、気にしないでいいって言おうと思ったのに。あのお人好しは止める間もなく先走っちゃうんだから……」
そして何かを諦めたような顔で立ち尽くす和葉が見たのは、大柄の筋骨隆々の店主が、背後からいきなりやってきた少年の拳に壁諸共殴り飛ばされる衝撃映像だった。
☆ ☆ ☆ ☆
『――おいアンタ! こんな小さな子供相手に暴力振るって、そこまでして金儲けがしたいってのか!? その無駄にでけぇ図体でちまっこい事しやがって……いい加減にしろよこの人でなし野郎がぁあああああああああッッ!!』
そんなスペシャルイケてる啖呵と共に、振り向きざまの店主の顔面に会心の一撃を放った皆のヒーロー東条勇麻が一転、
「本っっっ当にッ! すみませんでしたぁああああああああああああ!!」
地面に頭をめり込ませる勢いの深々とした土下座を敢行しているのには深い訳があった。
「ったく、ふざけんのも大概にしやがれってんだよ。アンタのおかげで盗人の悪ガキには逃げられるし、冤罪で顔面はぶん殴られるしで散々だってんだ。どう落とし前つけるつもりだってんだ? あぁッ!?」
「いやもう本っっっ当にすみません! 全てわたくしが悪うござんした! かくなるうえは、さっきの悪餓鬼はこの東条勇麻めがとっ捕まえて来ますと言うかなんと言うか!!」
顔の半分を蜂に刺されたように真っ赤に腫らした大柄な店主に対して、涙声で全体的に言葉遣いがおかしくなっている勘違い男東条勇麻。
筋骨隆々の大柄な店主は、値切り喧嘩で幼気な小さな子供を痛めつけて虐めていたのではなく、商品を盗み逃げようとする悪餓鬼を壁際まで追い詰めていた所だったのだ。
そうとも知らずに被害者の店主をぶん殴り盗人が逃げる時間を稼いでしまった東条勇麻には逃亡幇助の疑いが掛けられていたりいなかったり。
そしてこれは余談なのだが、予想した通りの展開過ぎて、とある少女に呆れるのを通り越して逆に感心されつつある領域にあるのを勇麻は知らない。
盗人に商品を取られ、無駄にでかい図体の人でなし野郎と罵られた挙げ句顔面を殴り飛ばされた不運な店主はもう勇麻の顔も見たくないと言った調子で、
「ンならこんなとこで地面に額こすり付けてねぇでとっとと行っちまえこの大馬鹿野郎! つうかぶっ殺されたくなかったらあいつの盗った分のお代はテメェが置いてけやボケ!!」
雷のような殺気さえ籠った怒鳴り声が響いた。
そのあまりの迫力に、悲鳴と共に投げ捨てるように言われた金額をその場に置き、勇麻のおかげでまんまと逃げおおせた盗人の少年を追いかけ始める勇麻。
無駄に勇気の拳の身体強化を発揮して走る勇麻の姿は土煙を上げながらあっという間に消え、少年の走って行った方向へと消えていく。
……地震雷火事オヤジとはよく言った物だ。あのオヤジ超怖い。下手したら本気で殺されかねないのではないかとさえ疑い始めた勇麻。
もしかしたら、あの骨太の腕が子供に振り下ろされる前に止められたのは何にせよ僥倖だったのかもしれない。
おっかない筋骨隆々店主から商品を奪った悪餓鬼に勇麻が追い付いたのは、彼が走り出してから僅か五分後の事だった。
一五〇〇メートル走直後のような荒い息を吐きながら、東条勇麻は涙目のまま口の端に笑みを浮かべた。
視線の先にいるのは間違いなくさっきの盗人小僧だ。
ボサボサのオレンジ色の髪の毛を、目深にフードを被って誤魔化しているようだが、その明らかに特徴を隠そうとしている不審な格好が逆に勇麻の目を集めた。
大柄な筋骨隆々の店主の店から商品を盗んだ一〇歳前後の少年は、物凄い速度で走ってきた勇麻を見て、森の奥地に住む珍獣でも発見したような表情を浮かべている。
「ぜぇ、はぁ、やっと。はぁ、はぁっ、……追いついた」
「げ、お前はさっきの変なヤツっ! な、なんだよ。分け前が欲しいのか? 何を狙ってあんな真似したか知らないけど、この食いもんは俺のだぞ」
「いるか馬鹿!」
反射的に叫ぶ勇麻に、声変わり前なのかいがいと可愛らしいソプラノボイスの少年はびくっと肩を縮める。が、それでも強がるように強気な態度を崩そうとはしなかった。
「だ、だったら何の用だってんだよ。……テメェ、やっぱり獲物を横取りしにきた同業者か!」
目つきを鋭くして懐からナイフを取り出した少年を見て、勇麻は表情を変えぬままジロリと少年を一瞥して、
「ふんぬっ」
そんな鼻息と共に、一瞬で距離をゼロにすると、霞むような速度で動いた勇麻の右手が少年の握るナイフを叩き落とした。そのまま地面に転がる刃物を蹴り飛ばし、建物と地面の隙間にナイフが吸い込まれていく。
「いでっ!?」
「子供が刃物なんか持つんじゃねえよこの馬鹿! 石に躓いて転んで怪我したらどうすんだ! 危ないだろ!!」
「は、はぁ!?」
どこか見当違いな指摘に素っ頓狂な声をあげる少年。勇麻を見る少年の目が、完全に頭のおかしな不審者を見るソレへとどんどん変わっていく。
「おい、お前……」
「だからなんなんだよ!?」
「さっき、あのおっかないおっさんの店から品物盗んだってのは本当か……?」
低く、唸るような声だった。
まるで獣の威嚇のような威圧に、強気を曲げない少年もたじろぐように後ずさる。
「……あ、ああ。そうだぜ! 悪いかよ。俺が何盗もうがアンタにゃ関係ないだうぎにゃぁっ!!?」
「物欲しかったら金払えボケェエエエエエエエエエエエエエエ!」
開き直る少年の脳天に、割と加減抜きの拳骨が落ちた。
瞳に決壊寸前の涙のダムを建造した少年は、頭頂部を両手で押さえながらぎゃーぎゃー喚き散らす。
「あにすんだよ! さっきから意味分かんねえよアンタ!!?」
「あのな。商品を金も払わず勝手に持っていったら泥棒なんだからな」
腰に手をあてて溜め息と共に諭すように教えてやると、さらに激しく噛み付かれた。
「知ってるわ! アンタ俺のこと舐めてんのか!?」
「ほら、盗んだ分のお金さっきの強面のおっさんに払いに行くぞ。俺も一緒に行ってやるから。……お、俺が独りで行くのが怖い訳じゃないからな! いやこれホントに!」
「はぁ? いやマジに意味不明なんだけど!? てか離せっ、おい手首掴むな引っ張るな~腕もげる~ッッ!!」
またも無駄に発揮される勇気の拳の膂力にわずか一〇ばかりの少年が逆らえるはずもなく。飼い主のリードに抗う仔犬のようにずるずると地面に跡を残しながら引き摺られていく盗人の少年。
往生際悪くキンキン声で叫び散らすも今の状況では負け犬の遠吠えでしかなく、周囲の注目は集めるものの誰も少年を助けようとはしない。流石は弱肉強食の未知の楽園だ。
「ば、バッカじゃねえの!? だいたい盗賊の子供に盗みをすんなって、どんなおめでたい馬鹿だよ! アンタカエルの子供に水の中で息すんなって言ってるようなモンだぞ!?」
「はあ? 親がどうとか、そんなの関係ねえよ」
ばっさりと。東条勇麻は少年の主張を一言で斬り捨てた。
そうしてしっかりと、そのまま少年の目を見据えて。
「お前はお前だ。悪いことは悪いし、良い事は良い。お前がどんな人間かを決められるのはお前だけだ。勘違いすんじゃねえ」
その言葉に、少年は不意を突かれたように目を見開き呆けたように口を半開きにしていた。
固まって、いつまでも動こうとしない少年を促すように勇麻は顎をしゃくる。
「ほら、行くぞ」
「……ん、」
何故だか妙に大人しくなった少年の手を引いて、勇麻は先ほどの筋骨隆々のおっかない店主の元へと謝罪に向かうのだった。
何を言わずともしっかりとこちらの手を握り返してくる少年の手の柔らかな感触が、何故だか勇麻には微笑ましく思えた。
☆ ☆ ☆ ☆
おっかない筋骨隆々の店主へのごめんなさいイベントを乗り越えた勇麻に次なる試練が待ち受けていたのだった!
「それで? 何か言い訳はあるのかしらね。東条くん」
「滅相もございません……」
何も言われずとも地べたに直接正座する勇麻に、呆れたようなジト目を向けてくる和葉の視線は回避できそうにないのだった。
そしてそんな勇麻の隣では、ベンチに座った少年がきちん代金を払ったチキンやらサンドイッチやらを口一杯に頬張っていた。
勿論、少年はお金を一銭たりとも持っていなかったので勇麻の自腹である。
もう逃げ隠れする必要はないと判断したのか既にフードは外しており、朝焼けのようなオレンジ色の髪と顔を堂々と露出させている。
若さゆえのきめ細かい肌に、くりっとしたまん丸い青い瞳。そして男の子らしい粗野な口調の似あわない声変わり前のソプラノ。
よくよく見るとこれがまた整った中性的な顔をしており、それが何だか頭に来る平凡顔の東条勇麻なのだった。
もしオレンジ色の髪の毛が短めに切り揃えられていなければ少女だと勘違いしかねない。
「……はぁ。途中まではおもしろいくらいに私の予想通りだったのに、まさかソレを拾ってくるなんて。流石に考えてもいなかったわ」
「ふぉれほははんはほのはろうっ!」
「……東条くん通訳お願い」
「いや、分かんねえよこんなの。てか、普通に全部飲み込んでから喋れよな、行儀悪い」
和葉からの無茶ぶりに首を振って、勇麻は物凄い勢いで食べ物を嚥下していく少年を窘める。
少年は頷きながら豪快に喉を鳴らして全て飲み込むと、
「うっ、んん~~~っっっ!!?」
食べ物が詰まったのか喉を押さえて咽返ってしまった。
「あ、馬鹿っお前。そんな急いで食べるから。ほら、水飲め水」
勇麻は、先ほどのチキン屋で買った自分のお茶を少年に差しだす。すると少年はほんの一瞬だけ目を丸くして躊躇うような素振りを見せたが、勇麻がその逡巡に気づく前にひったくるようにコップをもぎ取り、大慌てのまま一息に飲みほした。
げほげほと激しく咳き込む少年の背中をさすってやる勇麻を見て、和葉は白い目でいっそ憐れむようにボソッと呟く。
「本気で気づいてないのねこの人……」
「あん?」
「気にしないで、なんでもないわ。ヒーロー様」
「?」
どことなくツンケンした態度の和葉に首を傾げつつ、勇麻は生死の淵から帰ってきた少年に改めて尋ねる。
「それで、なんだって泥棒なんてやろうとしたんだ?」
「あいかわらずよく分かんねえ事聞くあんちゃんだな……。こんなの別に、みんなやってんぜ?」
「あのな。さっきも言ったけど他のヤツはどうでもいいんだよ。今はお前の話してんの! なあ、値切り喧嘩なんてのがあるこの街でも、一応は違法っちゃ違法なんだろ?」
同意を求めるように和葉へ視線を向けると、和葉は瞳を閉じながらコクンと頷いて、
「ええ、そうね」
直後、踏ん反り返ってとんでもない事を言いやがった。
「でも私も小さい頃はよくやったわよ。兄さんが囮で注意をひきつけてる間に、裏口からひっそりとかっさらうの。まさに完璧な連携だったわね」
「あー、そーいえばお前ら兄妹はそんな感じだったな……」
基本、ルールがルールとしてまともに機能しないのがこの未知の楽園である。天界の箱庭のような治安を維持するような組織が存在しないのだ。何をやっても裁かれないこの街では、弱肉強食という自然の摂理のみが揺るぎない絶対の基準だ。逆にルールが己を守ってくれない事を理解しているからこそ、そう簡単に他人に手を出そうとは考えないのは救いなのだろうか。
なんだか、個人個人の間で核抑止力みたいな不可視の睨みあいを永遠とやってる印象のある物騒な都市である。
和葉の答えに少年が「ほらみろ」とでも言いたげな謎のドヤ顔をしているのが若干頭に来る。
「ま、まあ。あそこのお馬鹿なお姉さんもお前には関係ないからな」
「……あなた、自分のやってる事を都合よく棚上げしようとしていない? 現在進行形で救いがたいお馬鹿なのはどう考えても東条くんよね?」
「と、とにかくだ。盗みなんて馬鹿な事すんのはやめろよ? 見たとこ、お前は生活には困ってなさそうだしな」
「げ、な、なんで分かんだよ、そんなの」
勇麻の指摘に明らかに狼狽えている少年を指差して、やや呆れたように、
「お前な、外周区に居た親のいない孤児なんかはこんな綺麗な服は着てなかったよ。ちょっと薄汚れてるのは、大方家出して丸一日ってトコだろ」
勇麻とて、一日の暮らしに困窮している外周区の孤児達に人の物を盗むのを止めろだなどと綺麗ごとを抜かすつもりはない。
この厳しい環境下で彼らが彼らなりに生き抜こうと努力した結果を、部外者の勇麻がどうして責められよう。そんなものは偽善よりもなお醜い独りよがりだ。良い事をした気になっているだけの愚か者だ。
もっと根本的な、彼らが盗みをしなくても生きていけるような世界を作ってからでなければ、そんな戯言を吐く資格は無い。
だが、この少年は違う。盗みなどという犯罪に頼らずとも、十分に生きていける立場の人間だ。
なら悪行を悪だと断じ注意する事に、勇麻は何の躊躇いも覚えない。
気負いなく少年の隣に座ると、
「……で、家出なんてしたって事は、母ちゃんと喧嘩でもしたのか?」
ポンと頭に手を置くと、少年はどこか気恥ずかしそうに口を窄めながら、
「……、破ったんだ」
「?」
「約束、してたんだ。昨日は、母ちゃんの仕事が休みの予定だったから、一緒に過ごせるって。そう言ってたのに……急に面倒事が舞い込んだとかなんとか訳わかんない事言って。約束、破ったんだ」
わなわなと肩を震わせ、俯く少年はどこまで行っても未だ親に甘え足りない一〇歳の子供でしかなく、約束を破られた事に腹を立てて家を飛び出したなんて暖かい理由に、勇麻は場違いにも笑顔を浮かべてしまった。
「な、なんで笑ってんだよ! ば、馬鹿ァ!」
「いやさ、お前、母ちゃんの事ちゃんと好きなんだなって」
「ッ!?」
顔を真っ赤にして固まった少年に、勇麻はまた笑いかけてくしゃくしゃとオレンジの髪の毛を撫でつけながら、
「なにも恥ずかしがる事じゃねえだろ。それだけお前は母ちゃんの事が好きだし、しっかり母ちゃんから愛情貰ってるって証拠じゃねえかよ」
何故だかさらに真っ赤に染まっていく少年の様子に首を傾げながら、勇麻はニカっと歯を見せて笑う。
「大事にしろよ、それはこの世界で何物にも代えがたいモンだからな」
☆ ☆ ☆ ☆
そこからは何故か巡り巡って少年の愚痴大会が始まった。
いくつか分かったのは、この些か口の悪い少年が以外にもお喋り好きだったという事と、少年の母親は何やらとんでもない伝説を山ほど抱え皆から慕われる人気者で少年もそんな母親が大好きだという事実だった。
止まらない文句から深い愛情が伺えてしまう事に本人は気づいていないようだが、そこもまた微笑ましい。
「んでよー、昨日は外周区は大騒ぎだったんだぜ。なんでも変なカッコした頭のおかしな二人組の男女がいきなり酒場に乗り込んできたとかでよー」
「ぎくぎく」
露骨に挙動不審になる勇麻の背中が、少年から見えないところで小突かれる。
視線を向けなくとも分かる。この容赦はないけど大した威力のない攻撃は運動音痴の和葉だ。露骨に動揺するなという事だろう。
……平常心平常心。
「なんでもばけもんみてえなチチしたケバい女と。間抜けなちょびヒゲつけたドウテイ? 臭いめがね野郎なんだってさ」
思わず背後から殴りかかろうとしたモンスターオッパイケバ女こと九ノ瀬和葉を目力全力の視線で押しとどめ、悪気ゼロの言葉に深く傷つくもポーカーフェイスを保つ童貞くさい間抜け眼鏡こと東条勇麻。
……平常心は大切なのだった。
しばらくその話題が続いて気が気ではなかったが、唐突に話題が変わるのは子供の良い所だ。
壊れたレコーダーのように、不意に話しが別方向へ吹っ飛んでいく。
「そんでなー? どいつもこいつもひでえんだぜ? 皆寄ってたかって俺の事を母ちゃんの子供だから母ちゃんの子供だからって、変に特別扱いしやがるしさー。まああいつらの言いたい事もわからねえでもないんだけど、その、ほら、あんちゃんも言ってたけど、俺は俺っていうか、さ……」
「ああ、その通りだ。お前の母ちゃんが凄かろうが何だろうが関係ないよ。しがらみやら肩書きなんてクソ喰らえだ。お前はお前で自分に胸張って生きてけばいい。お前を決めるのはお前自身なんだ。決して、他の誰かじゃない。……まあ、正直言って、俺なんかが言えた事じゃないんだけどな」
ほんと、誰よりも過去のしがらみに囚われている分際でよく言うと自分でも思う。
未だに己を縛り上げる過去の罪。向き合ってきたつもりでいても、未だ決別しきれない過去と自分の心の弱さが嫌になる。
南雲龍也という偉大すぎる英雄の影に憧れ、勝手に押しつぶされそうになっている勇麻に言えたような事ではないのは重々承知だ。
でも、自分の事を棚上げして告げたその言葉は、しっくりと勇麻の心にハマっていくような気がした。
幼きあの日。紛い物の英雄を、南雲龍也の代替品を望んだのは勇麻自身だ。
そう在りたいと望んだ結果、東条勇麻は歪ながらも確かにそのように在れた。間違いだらけの人生の中で、けれど紛い物の英雄として救えたものも確かに存在する。
在り方を望む事は、きっと確かな何かを呼び寄せる。
だからこれからは東条勇麻として在る事を望めばいいのだ。
紛い物の英雄でも南雲龍也の代替品でもない。
過去の贖罪でも免罪符を得る為でもない。
心の底から湧き上がる衝動に立ち上がり、自分だけの拳を握る理由の為に戦う。
そんな在り方を強く望み続ければ、きっといつか――
「そんな事ねえよ!」
そんな自虐的な勇麻の言葉を、何も知らない少年は首を大きく振って否定した。
「あんちゃんはっ、その、何て言うか……。ああああああああとにかく! あんちゃんの言葉で元気づけられたヤツだって確かに居るんだからよ。そのなんだ、けっこうカッコ良かったっつうか、……もっと自信持っていいと思うぜ、俺は」
それは何の根拠もない言葉だっただろう。
勇麻の過去を知らない、たかが一時間そこら関わっただけの赤の他人の言葉。
でもそれは、
「……ああ、ありがとな」
勇麻の心に暖かな力を与えてくれる言葉でもあった。
少年の家は外周区にあると言う。
「それで、結局わざわざ家まで送るのね」
「仕方ねえだろ。このまま家出を続行されても色々面倒なんだし」
「はぁ。何かあったら関わる前提なのがもう恐ろしいわね。この人たらし」
「なんだそりゃ」
何やらご機嫌でスキップを踏む少年の背を見ながら進む勇麻と和葉は、来た道を戻り第二内周区から外周区へと戻っていた。
相変わらず和葉のご機嫌がやや低めなのが気になるが、まあわざわざ来た道を戻っているのだ。運動嫌いの和葉でなくとも、うんざりするのは仕方ないのかも知れない。
と、前を進んでいた少年の歩みが唐突に止まった。
「このあたりでいいよ」
「なんだよ、家まで送るぞ」
「いいって、流石にもう家出を続ける元気もねえよ。盗み無しじゃ飯にも満足に在り付けねえしな」
くるんとその場で回って笑う少年の朝焼けの髪の毛が跳ねる。
なにか毒気が抜けたような笑顔に、勇麻もつられて笑顔が浮かぶ。
こんな風に笑えるのだ。きっともう、盗みなんて馬鹿な真似はやらないだろう。
「あ、そうだ。折角だし名前教えてくれよ、あんちゃん」
「あー、そういえばまだ言ってなかったっけか。東条勇麻だ、よろしくって言うのも今更だけど、まあよろしくな」
少年は己に差し出された手を見て「ふーん、トウジョウユウマね。おっけ覚えた覚えた」と何かを噛み締めるように口の中で一度その名を反芻して。
ふっと、滑らかな動きで勇麻との距離を詰めると。
「俺はミランダ。“ミランダ=フィーゲル”だ。また会いにこいよなユウマ。何なら、婿に貰ってやっても構わねえからよ。俺の初間接キスを捧げたんだから、そこんとこ忘れんじゃねえぞ!」
ぎゅっと勇麻の指に自らの細い指を恋人同士のように絡ませ、まるで少女のような愛らしい笑顔で、そんな事を言ったのだ。
呆然とする勇麻を尻目に、ミランダはイタズラげにウィンクして、絡ませた手を解いて離れていく。
というか――
「……は?」
「あら、まだ気が付いてなかったの? “彼女、女の子”よ」
「はぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!?」
本当に嬉しそうに、跳ねるように駆けていく小さなオレンジ髪の背中を尻目に、東条勇麻のこの日一番の絶叫が響き渡ったのだった。




