第六話 探索開始Ⅰ――横暴なる情報屋
九ノ瀬拳勝と命を削るような喧嘩を繰り広げ、疲労困憊の勇麻はぺたりとその場に座り込んでいた。
何というか、ここから一歩も動きたくないという気分だ。
アリシアを早く見つけ出す為に喧嘩に応じたと言うのに、これでは本末転倒感がヤバい。
「はいはいちょっと動かないでねじっとしていて」
痛覚倍増で身体に受けたダメージに比べて精神的な消耗が尋常じゃない勇麻の肩に手を置きながら、和葉がそんな事を言ってきた。
が、勇麻が注目すべき問題はそこではない。
「……何してんの? もしかしなくてもむっつりスケベさん?」
ぺたぺたと、何かを確かめるように勇麻の身体を──シャツの下に手を突っ込んで地肌を直接──その小さな掌で触ってくる少女に、じっとりとした疑惑の視線を向ける勇麻。
あまりにも自然に触ってくる物なので振り払うタイミングを逃してしまったのだが、この少女は一体何をやっているのだ?
襲い来る疲労感に身体を動かすのも億劫な勇麻の視線での抗議。だが
だが和葉はそんな抗議の視線など意に介さずに、お触り……もとい触診作業を続けたまま口を開いた。
「あなた、それが今から治癒をしてくださる私に対する態度なの? 今すぐ改めないと、後悔するような半端な治し方にしてやるわよ」
「え、なに。和葉ってば治癒系の神の能力的だったの?」
純粋に驚く勇麻。
一方の和葉も、なにやら不意を突かれたようで戸惑いに目を大きく見開き、しどろもどろに、
「か、和葉って……。いきなり名前呼びなんて、馴れ馴れしい人ね。まったく」
「お前にだけは言われたくない言葉だな、それ。つーか普通にお前の兄貴と呼び方被るからなんだけど。拳勝って言いにくいし……って、おい! お前さっきから本当にどこ触ってんの!?」
「うるさいわね集中できないわ」
むしろ色々集中できないのはこちらの方だ。
頑張って意識していない風を装ってはいるものの、女の子の細くてすべすべして若干ひんやりとした指先が、勇麻の胸だの脇腹だののうえを滑るように動いているのだ。
治療という名目があるせいで強く抵抗できないのも辛いが、ただの治療だというのにやましい事を考えてしまう自分の情けなさの方がもっと辛い。
「拳勝くんとしては、東条の旦那には親しみを込めて名前を呼んで貰いたいもんだけどなー」
「つかそもそも、俺の個人情報漏れすぎじゃない? なんで神の力や天界の箱庭出身ってのまでバレてるのさ……?」
名前については和葉が教えたにしろ、隠していたはずの出身までバレていたのはいただけない。何故なら、下手をして情報を漏らせば背神の騎士団のおっかない連中から何をされるか分かった物じゃないからだ。
というか、本気でどこで知ったのだろうか。勇気の拳の事まで知られているとか、実はネット上に自分の個人情報がばら撒かれているのではないかと恐怖を感じる東条勇麻。
極めて真剣に悩んでいる勇麻の様子に、和葉は呆れたような半眼で溜め息をついて、
「本気で気づかれないとでも思ってたの? 何というか、随分なお花畑具合ね。あなたみたいな平和ボケした神の能力者、今じゃ天界の箱庭くらいにしかいないわよ」
「……そんなもんかね」
「そんなもんよ」
と、一通り勇麻の身体を弄った……もとい確認した和葉は満足げに一息つくと。
「さてと、それじゃあ始めましょうか」
区切りをつけるように言った和葉の瞳に真剣な色が宿る。
再び勇麻の右肩に右手を置くと、精神を集中させるように瞳を閉じ深く息を吸い込んで、短く一言。
「『貼り付け』」
それだけだった。
淡い薄緑の光りが勇麻を包んだと思った次の瞬間――
――その短い言葉一つで、先の戦闘で受けたダメージや疲労、傷などが綺麗さっぱり無くなったのだ。
消滅。
そう、治ったとか、そんな次元ではなく。跡形もなく、微塵の形跡も残さずに消えた。
まるで巻き戻しでもしたような有り様に、勇麻は声も出ない。
ただ自分の身体と意味不明の現象を引き起こした張本人である九ノ瀬和葉との間を、何度も驚愕の視線を往復させた。
「お、おまっ、これ……」
「はいお終い。じゃあ次、兄さんね」
拳勝の治癒もまた一瞬だった。
今度は左手を拳勝の肩に置くと、勇麻の時と同じように一言「貼り付け」と短く唱える。
ただそれだけで、やはり先の戦いで受けた傷やダメージの一切が消滅した。
まるでDVDの巻き戻しみたいに。
「ッッ!? ……………………ッ!?」
顎が外れるかと思った。
はっきり言って何が何だか分からない勇麻に、何も特別な事はしていないという顔でさらりと和葉が言う。
「まあ驚くのも無理ないわ。私のこれは、普通の治癒とは少し違うのだし」
「少し違う……? 冗談じゃねえ。少しなんて物じゃないだろ。治癒なんて次元を軽く超えてるじゃねえか! これじゃ、これじゃまるで……、いや、時間遡行……時間への干渉だぞ!?」
時間への干渉。
神の力は確かに既存の物理法則を超越する力だ。
その莫大な干渉力でもって世界へと干渉し、世界と事象を捻じ曲げる。その世界へと干渉する力の程度を干渉レベルと呼称し、Eマイナス~Aプラスまでの十段階で分けられている。
例えば、小さな火の玉を起こす程度の干渉力では、干渉レベルはEマイナスからEプラスの域を出ない。
例えば、周囲の空気を掌握し、風を自由自在に操る事のできる干渉力を持つ天風楓は干渉レベルAプラスう最強の評価を得ている。
逆に言えば、干渉レベルAプラスでさえも、周囲の空気や風を操るまでに留まっているのだ。
時間への干渉となれば、それこそまさに神の御業。干渉レベル『Sオーバー』の所業である。
自分のやっている事の凄まじさを理解していないのか、和葉はやや気恥ずかしげに笑って、
「まあ確かに私の神の力は『概念系』ではあるけども、そんな大仰な物ではないわ。私がやっているのは、いわば“コピペ”よ」
またよく分からない単語が出てきた。
勇麻は初耳の何やら難しげな単語に顔を顰めつつ、
「ジ、ジェネ……? ってか今何て言った? コピペ……? っていうと、あのコピペか? 学生のレポートの頼みの綱の?」
「そ、私の神の力は『横暴なる保存者』。掌で触れたモノの状態を記憶、保存し、後から張り付けるように上書きする事のできる力。ま、一応干渉レベルはAマイナスはあるわね。戦闘向きじゃないけど」
九ノ瀬和葉は掌で触れた物の状態を記憶、保存する事ができる。さらにその保存した情報を、対象に上書きする事ができる神の能力者だ。
つまり、戦闘前の東条勇麻の状態を保存し、戦闘後の疲弊しきった状態の勇麻に『ソレ』を上書きすれば、ダメージを受けていた身体は元の無傷な状態に戻るという訳だ。当然疲労も残らない。
おそらくは喧嘩の始まる直前、勇麻の肩を叩きながら謝罪の言葉をかけてきたあの時に、戦闘前の勇麻の身体の状態を保存していたのだろう。
「ちなみに、魂だとか精神だとか、その辺りの存在があやふやな物は私も保存できない。だからなのか、過去の状態に身体を上書きしても、当人のそれまでの経験や記憶が消える事はないわ。あまりにも出来過ぎた不具合だとは思うけれど、これも人間の神秘って事かしらね?」
この力を駆使する事で、和葉は疑似的な治癒を行っている。
もっとも、保存した情報は三十分で破損してしまう為、それ以上経過した場合は一切の治癒ができなくなってしまうらしいが。
和葉の説明に納得を示した勇麻には、けれど一つだけ残った疑問があった。
「……なあ、その説明だと神の力を使う前に俺の身体をぺたぺた撫でまわしてたのが謎なんだけど?」
「ああ、旦那には言い忘れてたけど、うちの妹は筋肉フェチだから。あれは単なる趣味だぞ」
ぞわり、と。悪寒が走って。
「いやぁああああああああああああああああああああああああ何だか良く分からないけど大切な何かを失った気分んんんんんんんんんんんんんんん!!?」
東条勇麻は良く分からない謎の涙を流したのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
未知の楽園一の情報屋改めむっつり筋肉フェチ女九ノ瀬和葉による“コピペ”という名の治癒も終わった一行は、そのまま情報の共有を終えた後、いよいよ問題解決――すなわちアリシア奪還と、はぐれてしまったスピカとレインハートとの合流の為――に行動を開始する。
現在三人は作戦会議の円をつくるようにして地面に座っていた。
既に勇麻から話すべき事は全て伝えた。今回のアリシア奪還の鍵である情報屋の和葉は、情報を反芻するように目を閉じ、じっと黙っている。
そんな作戦会議直後の一時の沈黙を破ったのは、勿論この人物だった。
黒髪に所々金色の混じった少年は唐突に顔をあげると、袖をたくしあげ威勢もよくこう切り出す。
「ま、だいたいの事情は理解した。で、俺は何をブッ飛ばせばいい?」
「いやちょっと待て、さてはお前何も理解してないな?」
最高の決め顔で戯言をほざいた拳勝にツッコミを入れる常識人枠こと東条勇麻。だいたいどこに居ても、勇麻のこのポジションは変わらないらしい。
とはいえ、拳勝の言葉は問題の本質を捉えてはいる。
すなわち。
「東条くんはそのアリシアちゃんとやらを攫った組織、もしくは人物について全く心当たりがない……と」
そう。
アリシアを攫った連中も、エレベーターから降りた直後に勇麻達を強襲した集団も、その正体が依然として掴めない。
前者はそもそも目撃情報すら無く(護衛の連中は姿を見ることなく気絶させられた)、後者は組織的な犯行故に個人の特定が難しい。特徴らしい特徴と言えば、全員が全員のっぺりとした個性の無い黒服に身を包んでいたくらいだ。
とはいえ、それは誘拐犯などという存在が実在すればの話だ。
(……いや、確実にいるはずだ。だって、アリシア自らあの場所を離れるなんて状況は、何をどう考えても想像できない)
実際はアリシアが自らの意志で天界の箱庭を離反し未知の楽園へと向ったのか、何者かによって誘拐されたのか、それさえも定かではないような状況だ。
だが勇麻はアリシアが何者かによって攫われた、もしくは何かをネタに脅されている事を前提に行動している。
「なあ、実際のところ今の未知の楽園で組織だった戦闘行動が出来る組織ってのはどのくらいあるんだ? 無政府状態って事は、犯罪集団みたいなモンも増えそうな気がするけど」
「そうね、確かに東条くんの言う通りよ。今の未知の楽園には犯罪集団や裏稼業の組織なんかは掃いて捨てる程にはあるわ。でも、無秩序にそれらの組織が存在する訳じゃないの。それらの集団を束ねるトップグループが存在する」
「それはつまり……、崩壊した『操世会』に代わってこの街を支配する組織が存在するって事か?」
「ええ。三年前に起きた反乱、その首謀者たる『Sオーバー』の“聖女様”を慕い旗に掲げる組織『逃亡者の集い旗』。それが新しい支配者の名よ。そして同時に、今回の事件の容疑者の名でもあるわ。何せ、全てが崩壊した今のこの街で天界の箱庭相手に事を構える事が出来るのは、あの連中くらいだもの。あなたの連れを攫ったのがどこの組織かなんて関係ないわ。だって、最終的に糸はそこに繋がっているのだから」
そう。別に、敵が何者なのか分からなくても問題はないのだ。
細い枝先を辿れば必ず大樹の幹へと到達するように。過程を省いて結論を導いてしまっても、得られる結果は同じ。
この街で暗躍する中小の組織は数あれど、それを束ねるだけの力を有する大きな組織は一つだけ。
ならば全ての大元で元凶である『逃亡者の集い旗』を叩けばいい。
枝先から幹へ至るように、幹から枝葉の一つへ辿りつく事もまた可能なのだから。
そうして静かに指標は定まった。
なら後は、
「じゃ、ブッ飛ばすヤツも決まった事だし、さっそく行きますか。妹よ」
「ええそうね」
「「『逃亡者の集い旗』の本拠地に」」
頼もしい声が重なって反響し、ひび割れた地下の街に響く。
その声に押されるような形で勇麻も立ち上がると、ぐっと拳を握りしめ瞳に強い決意を湛えて、一言こう続いた。
「ああ、どこへだって行ってやるさ。アリシアを連れ帰る為なら」
――未知の楽園に到着してそうそうスピカとレインハートとはぐれた時はどうなるかと思ったが、現状は悪くない。
迷子になりかけた時に偶然巡り合った日本人の少女は自称ナンバーワンの情報屋で、彼女の協力を得る事に成功した。さらに彼女のツテで凶悪な神の力を扱う用心棒(兄)という頼もしい仲間も加わった。
アリシアを連れ去ったであろう黒幕もすぐさま判明した。向うべき目標地点は明確。間違いなく、勇麻はアリシアに近づいている。
幸先の悪すぎるあのスタートが嘘のようだ。
むしろ今はアリシア探索はすこぶる順調だと言ってもいいくらいだろう。
……だというのに、何故だろう。胸騒ぎが収まらない。頭を襲う妙な違和感と不安。そして焦燥感がなくならない。
電話線が混線を起こしているように、どこまでも曖昧で耳の中に水が入った時のような違和感ばかりが勇麻の心に溝をつくる。
現状を素直に喜んでいいのかと、そう訴えかけてくる。
上手く行き過ぎているのが自分でも恐ろしいのか。慎重になり過ぎていて無駄な心配をしているだけなのか。
原因不明の違和感と不安とを頭の隅に抱きながら、それでも勇麻は焦燥を振り払って前を見据える。
きっと視線のその先に、求める少女がいるのだと言い聞かせて。
本当にこれでいいのか? 本当は聞こえたはずのそんな声を無視する形で。
☆ ☆ ☆ ☆
……と言う訳で。
九ノ瀬兄妹をメンバーに加えた勇麻は、未知の楽園の外周区から壁を越えて内側――第二内周区を訪れていた。
バウムクーヘンや樹木の年輪のような造りをしている未知の楽園は、三つの壁によってほぼ同心円状に区切られている。
先ほどまで勇麻達がいたのが円の一番外側の外周区。壁を一つ隔てた先に第二内周区。さらにもうひとつ壁の先が第一内周区。そして最後の壁を越えた先に広がる中心区。
内側へ行けば行くほど豊かで、力を持った神の能力者が闊歩するのだと言う。
「なんつーか、ほんとに外周区とは比べものにならないくらい人が増えたな……」
事実、勇麻達が今いる第二内周区も外周区とは比べものにならない程の活気に満ちていた。
街の造りの関係上、穴の空いたドーナッツのようになっている第二内周区のカーブがかった道には数多くの露店が賑わい、そこを行きかう人々の顔には笑顔が溢れている。とても同じ都市の街並みだとは思えない。
「まあ、外周区に残ってるヤツなんざ、俺ら兄妹みたいな物好きか力の弱い女子供くらいのもんだからな。それもほとんど孤児だし」
勇麻の独り言に反応したのは拳勝だ。その両手にはいつの間に買ったのか、肉まんのような形状の食べ物が入った紙袋が握られていた。
拳勝は蒸したてのアツアツを一息に頬張り、はふはふと空気を送って口の中の食べ物の熱さと格闘している。
勇麻も拳勝から一つ分けて貰ったそれを口に頬張る、一噛みした瞬間、甘い肉汁が口いっぱいに広がり幸福感が勇麻を包み込んだ。
味は肉まんとそう大差ないが、こちらのは生地がどちらかというと餅のそれに近い気がする。
勇麻は、肉まんのような食べ物を飲み込みつつ、
「もぐんぐ。……孤児って、ここにはそういう子供達の保護施設もないのか?」
「保護施設? そんなものないわよ。昔は“そういう名目の冷たい実験施設なら腐るほどあった”けど、『操世会』の崩壊と共に研究者諸共消滅してしまったわね。自分の身は自分で守る。それがこの街で生きていく鉄則。小さな子供でも知っている常識よ」
和葉の口調はいっそ冷徹で、自分の言葉に何の疑問も抱いてない人間の言葉だった。何が良くて何が悪いとかではなく、単なる常識として、当然の事実として彼女は残酷な決まりを語っていた。
その余りの言いように、勇麻は思わず閉口してしまう。
育ってきた環境の差、と言ってしまえばそれまで……なのだろうか?
例え、文化や暮らしに違いがあっても、人として守らなければならない道徳や倫理は、不変であるべきではないのか?
親のいない子供達をできることならば理不尽から守ってやりたいという願いは、けれど誰だって抱く当たり前の想いではないのか?
「でも……あんな干乾びた何もない場所で、幼い子供達だけでホントに生きていけんのか? 俺が見た限りじゃ、お前ら以外の住人なんてあのガラの悪いハゲ共か、幼稚園児くらいの子供くらいしか見かけなかったぞ。あれじゃいくら何でも無理があるだろ……」
「あー、確かに最近子供の数がめっきり減ったかんなー」
互いの価値観と見てきた世界の差を痛感し、僅かな違和感を抱きつつも言葉にした勇麻の疑問に、最後の肉まんを食べ終えた拳勝が親指についた油を舐めとりながら軽く答えた。
どこか論点のズレたその言葉に、けれど勇麻は眉を顰める。
「減った? 前はもっと大勢いたってのか?」
「ええ。本来、外周区にいる子供は数十人で徒党を組むのが常よ。幼い子供達は家事やら雑事を、年長者たちが壁の内側の内周区で働いたり、盗んだりして稼ぎを得る。でも半年前から、そういった徒党の年長者達が揃いも揃って『子供狩り』によって連れて行かれてしまってるのよ」
「……ちょっと待ってくれ。『子供狩り』だって……?」
『子供狩り』というあんまりな単語に己の耳を疑う勇麻に対して、和葉は特にこれと言った感慨も無い様子で言葉を続ける。
「そ、『子供狩り』。逃亡者の集い旗の連中が一〇歳以上の子供を大量に仲間に引き入れてるみたいね。それも外周区の孤児や貧しい子供達を中心に。ま、無理やり攫ったりとか、そういう話でもないみたいだから“狩り”って言うより“集め”って言った方が正しいかしらね?」
「……逃亡者の集い旗の連中が? でも、どうしてそんな事を……」
「さあ? 私も情報屋として色んな噂話を耳にするけど、正直その件の連中の狙いについて確たる情報は持ってないの。一応この街の最暗部、踏み込むにはそれなりの覚悟がいるもの」
「つってもそれに今から土足で踏み込むんだけどな」
「まったく、兄さんは気軽でいいわね。自分以外の全てが喧嘩相手なんてふざけたスタンスじゃ、覚悟も糞もないんですもの。それにいつも巻き込まれる妹の気苦労も考えてほしいものよ」
話の重さと反比例して、どこか気の抜けた兄妹達のやり取りにペースを乱される。
どうやら和葉も拳勝も、逃亡者の集い旗の『子供狩り』についてはさほど重く考えていないらしい。
だが勇麻はそうは思わない。
もしアリシアを連れ去ったのが逃亡者の集い旗だと言うのならば、その行動の一つ一つが何らかのヒントになるような気がするのだ。
子供を集めた理由。
アリシアを攫った理由。
その二つが、何らかの形でリンクしているのではないか。
そもそも逃亡者の集い旗は何を目的としてそんな事を行っているのか。
様々な疑問が頭を埋める、がそれだけ。いくら考えてもそれらしい答えはでない。
いくら勇気の拳と言えども、脳みそまでは強化する事はできないらしい。
「……はぁ」
すぐ隣の兄妹の騒がしいやり取りも、眼前に広がる街も、外周区とは打って変わって平穏そのもので、逃亡者の集い旗などという悪意の存在など微塵も感じ取る事ができない。
そう。人々の笑顔でにぎわう市場はまさに平穏そのもので――
――しばらくして勇麻は、その異常に気が付いた。
「……なあ、あれは何をやってるんだ?」
「ん? 何って。見ての通りだろ。なあ妹よ」
勇麻の問いに、何を尋ねているのか分からないと言うような顔で首を傾げる拳勝。
妹も同じような反応で、目の前で繰り広げられている光景を日常と信じて疑っていないらしい。
彼女は言う。
「ええ、そうね。見ての通り、商売人とお客様による商品の取引以外の何に見えるのか、私としては甚だ疑問だわ」
「いやあの互いの胸倉掴みあってボッコボコに殴り合ってるようにしか見えないんだけど……」
八百屋の店主らしきムキムキマッチョと、野菜を買いに来たらしい温和そうなおじさんとが、ガラの悪い不良もびっくりの取っ組み合いの掴み合いを始めていた。
いや、それだけじゃない。よくよく周りを見渡してみれば、そこらじゅうで取っ組み合いの殴り合いが展開されている。しかもそのほとんどが、店側と客側による争いだ。
市場を行きかう人々の笑みも、そのほとんどが荒々しさに塗れた征服者や狩人の笑みだった。
まるで戦場のような様相を呈する市場を前に、我を忘れて唖然と口を開く勇麻。
数秒後、ようやく再起動を果たした勇麻は、何事も無かったかのように目的地を目指して進んでいく二人の背中に大声を掛けた。
「いや商店街の喧騒とかそんなレベルじゃなくてマジの闘争が始まってるんですけど!?」
どこから手を付ければいいのか分からない大参事を前にパニック状態に陥る勇麻。
けれどその声に振り返った二人は、勇麻が何をそんなに慌てているのか本気で分からないらしく、
「何をそんなに焦ってるのか知らないけど、市場で殴り合いなんて当たり前でしょ。誰だってタダで買い物できた方が嬉しいし、店側だって客から出来るだけお金を巻き上げたいんだから」
「……は?」
エスカレーターで歩かない人は左側に並ぶんですよ、と言われた時の関西人みたいな顔になる勇麻に、和葉は訝しげに眉を顰め、冗談をかわすかのように衝撃的な言葉を吐き出す。
「は? って、なによその反応。もしかして、あなたの街じゃやってない事なの?」
「天界の箱庭どころか世界中のどこでもやってねえよ! どこの世紀末都市だよマジで!?」
もう頭がこんがらがって思考を放棄したくなるのだが、未知の楽園では物品の売買の際に値段が気に入らない場合、腕っぷしの強い方の要求に従うという暗黙のルールが存在するらしい。
結果として市場の名物となっているのが、この“値切り喧嘩”なのだそうだ。
客側が勝てば無料で、店側が勝てば法外な値段で物を売り買いするという、まさに弱肉強食のルール。
中には用心棒を雇っている店もあったり、最初から法外な値段を設定して喧嘩売る気満々の店があったりと、かなり過激で加減を知らない殴り合いが行われる事で有名なのだそうだ。
頑丈な神の能力者が殴り合う為、死者が出たことがない事が唯一の救いだ。
ちなみに、この辺りで一番の儲けをあげているのが大型の総合病院なのだそうだ。実に何とも生々しい話だ。
とりあえず勇麻としては、医者が怪我人をボッコボコにする姿は見たくないので、院内では値切りを巡った熱いバトルが行われない事を願うばかりである。
「……ま、旦那が暮らしてた街じゃ考えられねえような光景かも知れねえけどさ、これでも反乱が起こる前よりはマシになったんだぜ?」
隣を歩く拳勝の顔は賑わう市場へと向けられており、その表情を窺う事はできない。
「ええ、そうね。上位のごく一部の人間ばかりが得をするシステムが蔓延っていたあの頃と比べれば、今は誰にでも平等にチャンスが与えられているんだもの」
『操世会』が法を破った者を一切罰しなかった結果、好き勝手に法を犯して利益に溺れたのは小汚い権力を牛耳る大人達だったそうだ。
天下りに賄賂、横領。その他もろもろ……。
法を犯しても罰せられないというのは、そういう人種の人間にとってはとても生きやすい世界だったらしい。
そして何よりもこの街で権力を握ったのは、法も倫理も無視した研究・実験を続ける研究者達だったと言う。
「淀んだ世界そのものを浄化した“聖女様”、か……」
とある『Sオーバー』の少女――いわゆる“聖女様”の起こした反乱によって『操世会』が崩壊し、未知の楽園は変貌した。
どうあがいても汚い大人達の掌の上で踊り続ける他なかった管理された世界から、実力さえあれば誰でものし上がる事の出来る規律無き弱肉強食へ。
だがそれは、やはり何処まで行っても歪で酷く歪んでいて。
外周区の錆びれて風化した様を見てきた勇麻としては、とてつもなく自分勝手な事ながら納得なんて一ミリもできない話であった。
子供狩りの話も、親のいない孤児達が理不尽な思いをし続ける常識も、その何もかもが。
例えその胸に湧き上がる想いが、偽善的な物であったとしても。
「ま、なんにせよ旦那にぁ関係ねえ話だ。ここに目的の物はねえ、さっさと先に進もうぜ」
眉間に皺を寄せていた勇麻を見て拳勝がわざとらしく明るい声をあげる。
その心遣いに感謝しつつ、勇麻は少しだけ足を速めて騒乱に賑わう市場を後にした。
一言二言、聖女様とやらに物を申してやろうと決意しつつ。




