第終話 掴み損ねのハッピーエンドは遠く
「知らないうちに、こんなに重くなってたんだなぁ……」
背中の感触を改めて確かめるように背負い直しながら、思わずと言った風に独り言が零れ落ちた。
今も勇麻の背中には、意識を失ったままの勇火がいる。
勇火が小学校低学年の頃はよく遊び疲れた勇火をおぶって公園から寮まで帰ったものだ。お互い学年が上がり、勇火がしっかりしてくるにつれて背負う事もなくなっていったが、あの頃が嘘のようにずっしりとした重みを感じる。
きっとそれは、成長した証拠なのだろう。そして同じく、決して無視できない時間の経過も。
――勇麻と勇火の激突から既に三十分の時間が経過していた。
あれだけ煩かった雷鳴混じりの雨はもうピタリと止んでいる。街中で暴れ回っていた暴徒達も、あれだけの騒乱が嘘だったかのように静かだ。街にはいつの間にか、穏やかな静寂が訪れていた。
レアードが言っていたように、勇火が打倒された事が騒動を収束させるためのトリガーになったのかもしれない。
とはいえ、事態が収束した今となってはどちらでもいい事だった。
もし本当に、勇火が何らかの方法でクライム=ロットハートに操られていたのだとしても、憑き物の取れたような顔を見れば全てが終わったのだと分かる。
今の勇火から、先ほどまでのような危うさは感じられない。
とはいえ、あの主張の全てが何者かによって作り出された偽物だとは勇麻は思わなかった。
思ってはいけないのだと、そう思った。
あの思いは、確かに東条勇火の中にある物であり、勇麻と命を懸けて戦った勇火は、偽物でも紛い物でも無く、間違いなく東条勇火自身なのだから。
きっとクライム=ロットハートなんて男が関わらずとも、勇麻と勇火はいずれぶつかり合う事になっていただろう。
二人にとってそれは、必要な事だったから。
だから勇麻は決して忘れてはならないのだ。
勇火の心の声を。
叫びを。
その思いを。
これからもずっと、例えどんな関係になろうとも、二人は兄弟という切れない絆で結ばれているのだから。
そうでなければあの殴り合いは全く無意味な物へと成り下がってしまう。
(……それにしても、今回の騒動の大元の元凶、クライム=ロットハートは結局見つけられなかったな。アイツをどうにかしない限り、根本的な解決にはならないんだろうけど。……うーん、こっちについては背神の騎士団の連中と話し合って、後日どうにかするしかなさそうだ)
レアードが負傷した件は既にシャルトルに伝えてある。
会話口から聞える雑音からは何やら全体的に忙しげな印象を受けたものの、重傷を負ったレアードの回収に向うだけの人員は確保できるとの事。
きっと今頃、背神の騎士団専用の治療室的な場所で適切な処置を受けているはずだ。
「さて、と。後の事は後から考えるとして、とりあえず今はさっさと戻りますか。俺も流石にゆっくり寝たいしな。アリシアもいい加減待ちくたびれてるだろうし、早く帰ってやらねえと」
スマホで時間を確認してみれば、既に深夜の十二時半を回っていた。いつの間にか日付を跨いでしまっていたらしい。
夕飯を食べ終わり、寮の前でレアードと会ったのが八時半過ぎくらいだから、四時間以上外を走り回っていた計算になる。
疲れるのも当然と言えば当然だ。
とはいえ、勇麻はこの疲労感が嫌いではなかった。
全てをやり遂げたマラソンの直後のような気の抜ける感覚と。夢と現の合間を彷徨うような、筋肉に力の入らない状態。
そんな脱力感にも似た、心地のいい倦怠感が身体を支配している。
緊張感から完全に解き放たれたリラックス状態、とでも言えばいいのだろうか。
そんな風にだらしなく弛緩しきっていたその時だった。
勇麻の前にその人物が現れたのは。
「……よぉ、東条勇麻チャン。それとも、『二代目』チャンって呼ぶべきか?」
それは、意識と意識の隙間を的確に突くタイミングだった。
路地の陰から顔を覗かせた軽薄そうなその男に、勇麻は一瞬思考が停止した。
初めて見る、知らない顔だった。
何度も脱色を繰り返してボロボロになった、背中に掛かる程度の長さの金髪。耳や鼻には無数のピアス。じゃらじゃらと首からぶら下げた大量のネックレスやチェーンが男が動くたびに音を立てる。
目元に隈の浮かぶ、目つきの悪い一重目蓋がよりその人物の人相を邪悪なものにしていた。
華奢な背中を猫背に丸めた軽薄そうなその男は、好意ではなく悪意の滲み出る笑みを湛えて、勇麻を凝視している。
じぃっと、こちらを見るその視線に“目と目が合って心の中を見透かされているような奇妙な悪寒”を覚えて、思わず後ずさりながら無意識に言葉が零れた。
「お前は、誰だ……?」
言いながら、けれど勇麻は確信めいた物を抱いていた。
間違いない。相対して分かる強者の空気。邪悪なる者の気配。
寄操令示のような、ある種の純粋さを保ったままの子どものような無邪気な悪なのではない。
悪意によって悪を成し、嗜虐心によって人を傷つける。己を悪と自覚し、なお誰かの悲鳴に心をくすぐられ歓喜する根っからの悪党。外道。邪悪。“東条勇麻が滅すべき悪だ”。
そしてこのタイミングで勇麻の目の前に姿を現しそうな人物とくれば、答えは一つしかない。
「またまたぁ、ほんとは分っちゃってんだろ? そうだよ。勇火チャンの心にちょちょっと細工をしたのも、この街で暴動を起こしたのも。今も世界中で起きてるお祭り騒ぎの発端さえも……! 全部まとめてこの俺チャンの仕業って訳っしょ」
「お前が、クライム=ロットハート……」
「しょーゆーこと。さ、自己紹介も済んだことダシ? 本題チャンに入ろうぜ。時間は有限、夜遊びは大好物チャンだけど、つまんねえ話はさっさと済ませるに限るからな。俺チャン校長センセイの話とか爆睡するタイプでさぁ、勇麻チャンってば真面目そうだけど一言一句聞き漏らさずにお話聞いてる派?」
「……のこのこ俺の前に顔を出したって事は、ぶっ飛ばされる覚悟があるって訳だな?」
「いやいや、勇麻チャンってば早計すぎっしょ? 俺チャン、しばらくはこの街でコトを起こす気はないぜ? いやマジで。これモノホンにマジだから。……ま、ちょっと予想外の事態が重なり過ぎて、しばらく火消しに忙しくてサ。動きたくても身動き取れないってのが正しいんだけど」
と、ここで初めて、勇麻はクライムの右肩から先がなくなっている事に気が付いた。
ちらりと覗いたのは、些か奇妙な断面だった。
切断されたでも、引き千切られたでもない。
着脱可能な人形の腕を、リアルに人間に実装した、とでも言うべきか。
気持ちの悪い違和感ばかりが先行して、うまく言い表す事ができない。
(……いや、それよりも誰がこれをやったんだ? こいつは『創世会』の幹部の一人。あのレアードがあっさり敗北しちまうような強敵だ。それに手の届くような奴が、背神の騎士団以外にいるってのか?)
そこまで考えて、そう言えばと勇麻は一つの会話を思いだす。
あの時レアードは言っていた。クライム=ロットハートは逃亡した、と。
つまりこの男は勇麻が研究室を訪れる前に何者かと戦い、そして敗北していたのだ。
これをやったのは当然レアードではない。ならば、一体誰が……?
「あ、これ? まあ今の勇麻チャンが気にする事じゃないジャン? そんな事よりも、気にしなけりゃならない事が起きちゃった訳だし」
勇麻の視線に気づいたクライムがはぐらかすようにそう言う。
そのどこか勇麻を嘲笑うような態度に、勇麻の苛立ちは加速する。何より今回の件の黒幕に対してぶつけたい怒りは一つや二つでは到底足りないのだ。
目を細め、瞳に剣呑な色を宿しながら、勇麻は確かめるように問いかける。
「……お前、何を言っているんだ? 勇火はもうアンタの神の力の干渉下から抜け出している。街で起きていた暴動だってもう収まった。お前がこれ以上動かない限り、何も起こりようのない状況まで事態は改善されているんだ。……お前、やっぱりまだ何かするつもりな――」
「――だあー、最後まで話は聞けってーのッ! ……ったく勇麻チャンってば校長センセイの話に納得いかなくて反論しちゃうタイプかよ。元気なのはいいけど、後々苦労するぜ、その元気さ」
大きな声をあげて勇麻の言葉を遮ったクライムは、苦笑に肩を揺らす。
そうして、勇麻がまた文句をその口から捻りだす前に、クライムが口を開いた。
「いちいち声を荒げるのも面倒だし、単刀直入に言っちまうぜ? ――『神門審判』が天界の箱庭から離反した」
――絶句した。
意味が分からなかった。何故ここで急にアリシアの話が出てくるのか。離反とは? そもそも天界の箱庭を統治管理している『創世会』とアリシアを含めた勇麻達は敵対関係にある。
とっくの昔に袂は分たれている。今更離反も糞もないはずだ。
こちらの動揺を誘っている?
やはり何かしらの悪意を持っての接触を試みているのではないか?
そんな様々な可能性を模索しようとする勇麻に、
「『神門審判』は、複数の侵入者と共に島を離脱。向った先は――『未知の楽園』、だそうだ」
嘘だ。
「それで、騎士様はいかがするんですかいね? お姫様を救出する旅に出る? それとも彼女の意志を尊重して放置プレイ? ま、俺チャンとしては何でもいいんだけどサ。勇麻チャンが神門審判の楔として正常に機能しないと判明した以上、神門審判は放置できねえ。俺チャン達にとって不利益な行動をとるなら消すしかないっしょ。でも、生憎こちらも忙しくてね、できれば小娘一人に貴重な時間チャンと人員チャンを裂きたくないみたいな? だからこうして管理者たる勇麻チャンにお知らせに来てやったっつー訳」
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ……ッ!!
「勇麻チャンが回収に動いてくれるなら、『創世会』としても些事に気を取られないで済む。勇麻チャンが傍観者を決め込むっつうなら、『創世会』が動いて神門審判に対してそれなりの対処をする。こんな感じか。ま、そういう訳だから二、三日の内に考えといて――」
「嘘だッッッ!!!」
今度は勇麻の叫びに言葉を遮られたクライムが、眉を顰める。
肩を震わせる勇麻は鬼のような形相でクライムを睨むと、拳を固く硬く握りしめて、顔の前で横薙ぎに振るった。
それだけで発生した横薙ぎの拳圧が、クライムの傷んだ金髪を撫でるように揺らしていく。
「嘘だ。ふざけるな。アリシアが離反した? それはつまり、あいつが自らの意志でこの街から出て行ったって意味か?」
「……そうだって言ってるっしょ」
「ふざけるな。アリシアが、俺達に何も言わずに自分の意志でこの街から出ていくなんてありえねえ。……どうせお前らだ。……どうせお前らがまた何かしたんだ! そうに決まっているッ!!」
絶対に否定しなければならない。
――なぜ? それはどうして?
そんなものは決まっている。
許せないから。
アリシアの存在を利用して心に揺さぶりを掛けようとする卑劣な邪悪を、東条勇麻は許す事ができないから。
そんな戯言を、真実だと認める訳にはいかないから。
――憎いのか? 東条勇麻は、目の前の男が憎いのか?
クライム=ロットハートは街の人々を操り、自らの手を汚さず罪なき人々の手を汚して悲劇を演出した。自分は舞台裏で安全な位置から高見の見物をしていた悪党だ。そのうえ、弟の勇火までもを操り、利用した。
そんなクソ野郎が、憎くない訳がなかった。
ドス黒い感情が、胸の裡から湧いてくる。
その正体も分からぬまま、湧き出た膨大な黒が勇麻のちっぽけな心を呑み込み染めあげる。
――殺せ。アイツらは悪だ。東条勇麻が殺すべき、憎むべく悪党だ。だから殺せ。情けも容赦も不要。一切の手加減なく殺戮し尽せ。正義を体現しろ。正義のままに悪を滅ぼせ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ……ッ!
その言葉は、きっと何よりも正しくて。誰よりも正義に満ちている。
そんな気がした。
だって。
正義の味方は悪を打倒し、正義の味方は必ず最後に勝利を掴む。
何故なら正義は常勝で、圧勝で、連勝で、先勝で、必勝で、完勝で、楽勝で、全勝で、戦勝で、万勝なのだから。そうであるべきなのだから。そうでなければならないのだから。
皆が笑って、皆が幸せで、皆が納得のいくハッピーエンド。
その皆の中に、悪は一切合切必要ない。
一つの染みが純白のドレスの価値を台無しにしてしまうように、一粒の邪悪は純白の平和を凌辱し穢していく。
だから滅ぼす。
完璧に、完全に、一ミリの塵も残さずに抹消して抹殺する。
正義の力を持って、正しき世界を作る。
正しき力の前に悪しきは屈するべきなのだ。
世界を暖かい光で満たす為、その逆は絶対にあってはならない。
故に。
正義が英雄であるべきならば。
英雄とは、幾百の命を奪った果てに到達する頂きであるのならば。
正義の味方は、悪を殺し尽す存在であるべきなのだ。
だから。
「殺してやる……! お前は“俺が憎むべき悪”だ。だから、今ここで殺す」
右手が熱い。
勇気の拳……ではない。莫大な熱量を持っているにも関わらず、冷たく底冷えするような何か得体の知れない力が、右手に集約されていくのを感じる。
――勝てる。
そんな確信が、勇麻の中に生じる。
圧倒的だった。解き放つ前から分かる。こんな力を持っていて負ける方がどうかしている。この圧倒的な力があれば、東条勇麻は誰にも負けない。それこそ、この世を支配する神様とかいうヤツにだって勝利する事ができる。
最強の英雄として、それこそ全て笑顔のままに全てを救いきる事ができる。
両脚を肩幅に開く、力の集約されて右拳を、勢いよく解き放つその刹那――
「――つうかさ、俺チャンが言うのも何だけど。ソレ、やめた方がいいっしょ? ――勇麻チャンってば呑み込まれかけてるぜ? 憎悪チャンに」
「見苦しい、今更なにを――」
「殺しちゃうぜ、ヒトを」
「――ッ!?」
意表を突いたその言葉に、ハっと我を取り戻した。
殺意と憎悪の張り付いた顔が、驚愕に歪み。凝り固まった憎しみが解けていく。
それと同時に右拳に宿りつつあったナニカが、急速にその力を減衰させていく。
……今自分は、何をしようとしていた?
右拳に集約しつつあったエネルギーは既に霧散している。だが、その感触だけは残っていた。
こんなとんでもない力を加減もせずに放出すれば、まず間違いなく、それを向けられた人間の命など微塵も残らない。
確実に、絶対的に殺してしまう。
それも一人どころではない。一気に百人殺したって余裕でおつりが返ってくるだろう。
「俺は、今……人を、殺そうとして……」
自分が今、何の躊躇もなく目の前の男を殺そうとしていた事実に、驚愕よりも恐怖を覚えた。
身体が震える。
“怖い”。
恐ろしい。
嬉々として命を奪おうとしていた自分が、この世の何よりも恐ろしい。東条勇麻では、その恐怖に抗おうとすら思えない。
己の中に巣くう恐怖に屈したその瞬間、東条勇麻を“勇気の拳の弱体化が襲った”。
背中の勇火共々、力無く膝から地面に崩れ落ちる勇麻を横目に、クライム=ロットハートは何事も無かったかのようなケロリとした顔で、お辞儀をするように腰を折り曲げながら観察するように勇麻を眺めた。
「へぇー、ほうほう。それにしてもよく『視る』とだいぶ酷い事になってるなー。不安定極まりないって言うかー、何かすげー不自然な感じがするぜ。今の勇麻チャンの精神状態ってば『初代』ちゃんクリソツじゃん。むしろコレ、洗脳の類に近い物を感じるんだけど気のせい? つーか、何? 勇気の拳って俺チャンと同系統の神の力チャンだった訳? たっはーっ、なんか勇麻チャンてばまんまブラックボックスって感じだわ。色々おもしれぇー」
おそらく、勇麻に関する何かについて言及しているのだろう。
だと言うのに、クライム=ロットハートの発する言葉の意味する所が分からない。
勇気の拳の弱体化によって、まさか脳みそまで弱体化しているのではないかと疑ってしまう。
「あ、なに。ほうほう。もしかしてそういうカラクリちゃんだった訳!? はー、なるほどねェ! そうかそうか『二代目』ってのは要するにそういうコトかぁ! 勇気の拳にうまく干渉できれば、こういう使い方も確かにできるか! まんま文字通りの『二代目』。『希望を託した』ってのは、そういう意味か! キヒッ! キハハハハ!! なーにが『希望の拳』だよ。笑っちまうよなぁこんなの。勇麻チャンってば、これっぽっちも信用なんてされてねえんだものな!!」
「お前、何を知っ、て……」
「でもま、“その様子を視る”に勇麻チャンが今後どう動くかも大体察しはついたわ。これで安心安心。てかそんなに神門審判が大事なん? つか、ナニ。もう執着の域って感じじゃね? うへぇー、勇麻チャンってば、ストーカーちゃんの資質とかありそうでマジ引くんだけど」
「お前っ、何を。ふざけた事を……!」
アリシアの事について追及された途端、勇麻を得体の知れない感情と激しい怒りとが襲った。
それは紛れもない凌辱だ。
泥にまみれた手で、宝物のアルバムをべたべたと穢すような、決して許される事はない蛮行。
それ以上、言わせてはいけない。
暴かれてはならない物を、侵入を許さない領域にズケズケと土足で踏み入ろうとするクライムに、弱体化したまま勇麻は力の限り吠えた。
だが、クライムはそんな勇麻を嘲笑うかのように核心に触れる。
屈みこんだクライムは、地に伏しうつ伏せに倒れたままの勇麻の顎を鷲掴みにすると、グイと強引に持ち上げ覗き込むように視線を合わせて、
「――不安だったんだろ? 怖かったんだろ? 神門審判の笑みが自分以外の誰かに向けられるコトが。自分から離れて行ってしまうコトが。……実際こうして神門審判は自分の足で勇麻チャンに背を向け離れて行った訳だけど。……さて、悪夢が現実となった感想はどんなモンなんだい? 東条勇麻チャン??? ――クハ。キヒヒッ! ヒハハハハハハッッッ!!?」
立ち上がる力さえ奪われた勇麻を尻目に嘲笑をあげつつ、後ろ手に手を振るクライム=ロットハートの背中が遠ざかっていく。
怒号は届かない。
地面に食い込んだ爪から血が流れる。
東条勇麻はただ、ひたすらにその後ろ姿を眺めているしかなかった。
その背中が見えなくなるまで、ずっと。ずっと。
☆ ☆ ☆ ☆
寮へと戻った勇麻が見たのは、たった一言。少女の文字で短く書かれた書置きだった。
『■■■■、すまない』
ぐちゃぐちゃと上から真っ黒に塗りつぶされた文字については、もう判読のしようが無かった。
それでも最後に残されたその短い言葉から、少女の思いが滲み出てくるような錯覚を、勇麻は感じていた。
そう――錯覚だ。
だって勇麻は、その少女の事をもっとずっと分かったような気で居たのだから。
だからこれはきっと、錯覚でしかない。
純白の少女の姿はどこにも見当たらない。
もう、下手くそな笑顔を浮かべる少女は、勇麻に笑いかけてくれない。
この日、東条家から居候が一人消失した。




