第二十一話 避けられぬ戦いⅢ――負けて負けて負け続けても
夜の天界の箱庭を、雷光が鮮やかに染める。
迸る光の乱舞に踊るように身を預け、軽やかな身のこなしで迫りくる雷撃を回避していく。
走る勇火に寄り添うように、その横を並走する勇麻は、時に近づき拳をまみえ、時に離れて雷撃を回避する。
まるで遺伝子構造の二重螺旋のような軌跡を描きながら、喰らい付き、食い破り、二人の神の能力者が交錯しながら地を駆ける。
「しつこい……っ!」
勇火が叫び、雷撃がその振るった腕の先から放たれる。
紫電一閃。
致死の威力を伴った一撃を、潜り抜けるように回避して、勇麻が逆に距離を詰める。
拳を巌のように硬く硬く握りしめて、開き直るように堂々と一言。
「それも俺の売りだ」
短く、真正面にそのまま突きだすような捻りを加えた右ストレート。
予備動作の少ない一撃に、勇火は回避を取れない。勇麻に対して防御は悪手だと理解している勇火は、直撃の寸前に咄嗟にバックステップを踏み衝撃を緩和しつつこれを受ける。
周りの空気を巻き込んで発生する拳圧を追いぬいて、拳が炸裂した。
勇気の拳によって強化された一撃に野球ボールか何かのように勇火が吹っ飛ぶ。その交錯の間際に『雷翼』から放たれた電撃が勇麻の左腕を伝って全身を焼いた。
「ぐっ……!」
痺れ、身体が硬直するのを感じる。
動きが鈍る勇麻に、『雷翼』ですぐさま体勢を立て直した勇火が殺到。体勢を整える間など与えまいと、連続して雷撃を放つ。
血混じりの赤い唾を飛ばして、勇火が叫ぶ。
「……見苦しいって言ってんだよ、アンタの時代は終わったんだ。負けたヤツが……いつまでもでしゃばってんじゃねえ!!」
背中の雷翼をはばたかせて、瞬時に距離を詰めた勇火が電撃を纏った拳を打ち込む。
――一撃。
右の拳が打ち抜くは鳩尾。痺れた身体では反応することさえ儘ならない。
余りの衝撃に勇麻の足が地から浮き、息が詰まる。
――二撃。
両肩を掴まれ畳み掛けるような膝蹴りが、さらに同じ部位に突き刺さる。
鈍い痛みと、神の能力者の馬鹿げた力に内臓が圧迫され、血反吐を吐いた。
――三撃、四撃。
下がった頭部に、まるでハンマーを叩き付けるかのようなヘッドバットが叩き込まれ、衝撃に頭がグラつき意識が飛びそうになる。ふらついた身体がたたらを踏んで、生じたスペースを最大限利用した豪快な回し蹴りが、電撃を伴って放たれる。
直撃を受け、勇麻の身体が吹っ飛ぶ。
けれど。
「……どうして、倒れない……っ!」
口から気泡混じりの血反吐を垂れ流す東条勇麻は、その顔に浮かべる笑みを崩す事もなければ、膝を地に付く事もなかった。
ダメージがない訳がない。
勇火の雷撃は確かに勇麻の身体を貫き、雷撃を纏った拳脚は、そのボロボロの身体を的確に打ち据えている。
事実勇麻の吐く息は荒く、左目蓋のうえは青く腫れ上がり、まともな視界も確保できていない。
口からは絶えず血が流れ、内臓が狂ったのか咳き込むと血が混じる。
それでも、倒れない。
意地と意志。気力と根性だけを頼りに、戦場に立ち続ける。
東条勇火の全力、その全てを受け切り、なお笑う。
「負けた奴がでしゃばるな、か。……確かに、俺みたいな何もかも失敗したヤツに、上から目線で何か言われるのは鬱陶しいんだろうよ」
言葉の内容とは裏腹に、勇麻はいっそ清々しいくらいの笑みを浮かべていた。
自分でも笑ってしまうくらい、きっと東条勇麻は今、爽快感に満ち溢れた表情をしている。
勇火などきっと、意味が分からず内心首を傾げているに違いない。そう想像して、ますます愉快な気分になる。
そこで一度息を吐いた勇麻は、何かを切り替えるようにスッと笑顔を引っ込める。そして極めて真剣な顔でこう問いかけた。
「けどな、勇火。俺に向かって言ったのと同じセリフを、高見の前で口にできるか?」
「……なんで高見センパイが、出てくる」
「俺が高見の元に辿り着いた時、あいつは既に奇操令示に敗北していた。でも、アイツは何度負けても奇操に挑み続けたぞ」
「そんなの……でも結局、……最後の最後まで、高見センパイは勝てなかったじゃないか……っ!」
「ああそうだよ。アイツは最後まで敗北者だった。でもな、満身創痍でも、諦めた方が簡単な状況でも、身体が動かないような状況下でも、あいつは最後まで自らの手で活路を切り開こうとした。敗者で在り続けながら、一発逆転の一手を探り続けた。負けながらに勝利を諦めなかった。誰もが決したと思った勝負を投げ出さなかった! その不屈が、悪足掻きが、奇操令示を倒したんじゃねえのか? ……大切なのは勝ったか負けたかじゃねえ。負けて、それでも何が出来るかだろ!!」
奇操令示を裏切り奇襲を仕掛けたはずが返り討ちにあった時も。
一度は倒したと思った奇操が、再び復活した時も。
皆の力を合わせて倒した奇操令示が本体ではなく、奇操の核が薄衣透花という少女だと発覚した時も。
高見秀人は、抗う事を辞めなかった。
寄操の心臓のトリックに気が付く事が出来たのは、高見が何度も敗北を重ねながらも、勝利する事を諦めなかったからだ。
一番最初の敗北がなかったら、きっと高見でさえあの神の子供達の力の真相には届かなかっただろう。
だから無意味なんかではない。
敗北は、負けると言う事は、誰かによって否定され貶められていいような事ではない。
「……だとしてもっ、あんな結末は俺は認めないッ! 高見センパイ一人が犠牲になって、それで何もかもめでたしめでたしだと? ……アンタ、言ってたじゃねえかよ。俺のやり方は間違ってるって。何かを踏み台にして成しえた平和に、意味なんてないんだろ? だったら否定しろよ! アンタが認めちまったら、それこそ救いなんてどこにもねえじゃねえかよ! ……ふざけるな。本当に本当に、ふざけるなァぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!」
『雷翼』が、爆ぜた。
普段の勇火の雷翼よりも一回りも二回りも大きくなっていた木の葉型の翼が、ついに原型を失った。
不定形に形を変え、捩じれ、蠢き、まるで一種の生き物であるかのように脈動する。
それはまるで勇火の怒りを体現するかのように、荒々しく、雄々しい龍の翼のようだった。
対する勇麻は、そんな弟から目を逸らす事無く、静かに確固たる口調で告げる。
「――否定させない。高見秀人が命を懸けて敗北して掴み取った物を、守ろうとした者を、俺は。否定させない」
「もう、いい。御託はうんざりだ。今度こそ全部終わりにしてやる。偶然なんか起こりえない、絶対的な勝利ってヤツをこの手に掴み取る」
再び静寂が場を満たす。
互いに無言のまま視線を交わす時間がどれだけ続いただろうか。
体感にして長く、実際にして数秒も無いであろう空白の後、東条勇火が瞳を閉じて静かに口を開いた。
「……一鳴り総じて灰塵と化せ。雷光招来――」
怒りを内包した詞が静かに告げられる。それと同時、勇火の背中の『雷翼』が、龍の姿を象ってクレヨンで塗りつぶしたような漆黒の天空へと駆けていく。
まさに神龍の如きその神々しさに、雨音が止み。世界が仮初めの静寂に包まれる。
神々しく光り輝く龍の姿が分厚い灰色の雲の中へと消えて、そして。
「――神鳴……ッ!」
闘いの終焉を告げる起句が、厳かに告げられた。
☆ ☆ ☆ ☆
「あぁ、そうだよなぁ。“できるできないで悩むなんざらしくねえ”よなぁ、まったく」
東条勇麻は笑っていた。
心が。
気持ちが。
精神が。
これ以上ないくらいに晴れやかで。
これ以上ないくらいに明快だった。
(高見。俺さ、ようやく分ったよ)
迷いも躊躇いも、心に掛かった靄のような鬱屈とした重苦しさはその全てが跡形も無く吹き飛んでいた。
高見を救えなかった己の無力さへの嘆きも。失望も絶望も。そんなマイナスでネガティブな感情へ折り合いをつける為のピースを、東条勇麻は手にしていた。
(立ち止まってる暇なんてないってのに、一度や二度の失敗でいちいち挫けてたらお前に笑われちまうよな。……あぁ、そうだよ。お前は何度負けて何度絶望を味わっても、思考を止めなかった。前に進む事を諦めなかった。だからこそ、今俺達は此処にいる)
守りたい者がいた。守りたい世界があった。
拳を握る理由に足ると、勇麻自身が認め、心に誓った物があった。
そしてとある一つの大きな戦いの果てに、東条勇麻はその大切なモノを取りこぼしてしまった。
その日以来、勇麻はずっと自分を責め続けてきた。
自分の力不足が原因で、無力さ故に、大切な物を失った。
自分のこれまでの行いに意味なんてあったのか。誰かを助けたいと、そんな願いを抱くのは分不相応で出過ぎた願望だったのか。
南雲龍也の代役をこなす事もできないくせに、己が胸の内から湧き上がる物に従い拳を握ろうなどと、どれだけ思い上がっていた事か。
考える時間だけは腐る程にあったから、腐る程に考えた。考えて考えて考え抜いた。
それでも結論は出ず、行きついたのは自堕落な生活だった。
悲劇の主人公ぶって、己の弱さと向き合う事からも逃げて、怠惰な日々を無為に過ごしてきた。
心の内で自分をひたすらに責め続け、過去に思いを馳せつづけた。
でも、それは結局。ただの逃避だ。
立ち止まればそこで終わる。
成長も前進も発展も逆襲も反撃も逆転も打開も反抗も何もない。
それは、立ったままに死んでいるのと同じだ。
敗者は敗者のまま、永遠に敗者復活のチャンスなど巡ってはこない。
ならば無惨に敗北した勇麻にできる事はなんだ。
過去の敗北を嘆き、己の弱さを嘆き、取り返しのつかない結末を嘆き、物思いに耽る事か?
断じて違う。
薄汚く足掻き続けること。
それこそが、負け犬である東条勇麻にできる、最大最強の反撃なのだ。
「……一鳴り総じて灰塵と化せ。雷光招来――」
瞳を閉じた勇火が、厳かに呟いた。
(未来に目を向ける事を恐れていた。――また何かを失うかも知れないから)
天高くへと昇る雷の龍を見ながら、勇麻の思考は誰も追いつけない速度へと加速されていく。
(明日へ踏み出す一歩を躊躇っていた。――また失敗を重ねるかも知れないから)
雷の龍が曇天の空に吸い込まれていく。分厚い雲の中へと飲み込まれた龍の姿は、今の勇麻のいる位置からでは確認できない。それでも分かる。
何かが、凄まじい勢いで天から迫ってくるのが。
(“できるかできないか”。それでたった一度できなかったからって、俺は諦めちまってた。でもそれじゃ駄目なんだ。何も変わらないし、何も生まれない。一度や二度の敗北で足を止めてたら、永遠に俺の手は届かないままだ。たった一度の“できない”に囚われるなんて馬鹿らしい。“俺は今まで何の為に立ち上がってきた”? “そこに認められない結末が、抗いたい何かがあったから”だ! そうだろ!? なら負けはしても終わってなんかいねえ。俺はまだ、『高見を失った勝利』を一ミリだって認めてないからだ!)
嘆く間があるのならば前を見据えろ。
絶望する余裕があるなら拳を握れ。
立ち止まるくらいなら地を這ってでも前進しろ。
高見秀人は何度失敗しても、どれだけ敗北を積み重ねても、決して下を向かなかった。
それはきっと、高見秀人にはどうしても認めたくない結末があったからだ。
抗いたい何かがあったからだ。
曲げたくない物があったからだ。
できるかできないかは問題じゃない。
高見秀人は、きっと命懸けで、立ち止まる事なくそれを実践していた。
であれば、より未熟な勇麻が立ち止まっていていい道理などないではないか。
(きっと俺はまた、いつかのどこかで誰かに負けるんだろう。守ろうとした物を取りこぼす日だってまた来るかもしれない。泣きたくなる時も、諦めたくなる時も、絶望する時だって来るんだと思う)
失敗しようとも敗北しようとも、どれだけ惨めで情けなくてもカッコ悪くても、歩みを止める事だけは許されない。
今度こそ己の守りたかった物を守るために、東条勇麻が無駄にできる時間など、存在しないのだから。
(でも、もう迷わない。進むべき道は見えた。できるかできないかなんざ関係ねえ、例えどんな艱難辛苦障害障壁が立ち塞がろうとも、この歩みは止めない。何度失敗しても何度敗北しても何度負けを積み重ねても、終わってなんかやらねえ! 立ち塞がる壁が歩みを止めると言うのなら、その全てを勇気の拳でぶち壊してやる!)
ぐじぐじうじうじと、悩み、俯く時間はもう終わりだ。
――寄操令示を知った。
――友を失う悲しみを知った。
であれば。
後はその恐怖を乗り越えるのみ。
恐怖を乗り越えんとするその瞬間にこそ、人に勇気は宿るのだから。
そして、
「――」
東条勇火が終焉を齎す起句を告げる、その寸前だった。
「――うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」
時をほぼ同じくして――ほんの一瞬勇麻の方が早く――動いた。
しかし互いの距離は五メートル。勇火が切り札を発動させるのと勇麻の拳が届くのとでは、明らかに勇火の方が速い。
間に合わない。そして、
「――神鳴……ッ!」
終わりを告げる僅か四文字が、勇麻の耳朶を打った。
次の瞬間。
文字通り、神が嘶いた。
視界を埋め尽くす純白の閃光。一拍遅れて響く、雷を司りし神龍の鳴き声。
まるで神話の一ページを眺めているようだった。
走馬灯のようにコマ送りになる視界の中、確かに見えた。天から龍の姿を象った稲妻が堕ちる、その瞬間を。
轟いた破壊の怒号は荒々しく、しかし同時にある種の神秘を内包しているようにも思えた。
その莫大なエネルギーは、人はおろか、直撃すれば巨大なビルとて消し炭になりかねない。
瞬間火力だけを見れば、天風楓にさえ匹敵しかねない恐ろしい一撃。
光りの速度で落ちたその一撃は、故に回避不能。
終わりを告げるその瞬間には、勝敗は既に喫している。
まさに一撃必殺。
莫大なエネルギーの直撃を受けた東条勇麻は、塵一つ残さず消滅する。
だがそれは。
あくまで当たれば、の話だ。
「な、んだ。……それ、はッ!?」
東条勇麻は、やはり火傷一つ負っていなかった。
けれども今回は、勇火が無意識の内に勇麻を味方と識別して雷撃が通らなかった訳では断じてない。
ならば一体何が起こったか。
まず一つ。
『神鳴』の直前。東条勇麻は、東条勇火に接近する為に動いた訳ではなかった。
さらに一つ。
東条勇麻はその場で左腕を真上に振り抜いた体勢で固まっていた。
最後に一つ。
東条勇麻の左腕の肘から先、本来義手が付いているはずの左腕部分が、影も形も無くなっていた。
「まさか、アンタ、まさか……!!」
おまけに一つ。
東条勇麻は勇火との最後の会話の最中、義手を接続する為のジョイント部分を解除していた。
その状態で、腕を全力で天空目掛けて振り抜けば、すっぽ抜けた金属製の義手はどうなる……?
「左腕の義手を、避雷針代わりに……!?」
「御名答、だ!」
ドバッッ!!
それは、地面を蹴り上げる踏み込みの音だった。
短い回答の直後、東条勇麻の身体が爆発的な加速を持って東条勇火へと殺到した。
片腕を失い、身体のバランスを制御する事さえ困難な状態だとは考えられないその速度に、全力の一撃を放った直後の勇火は反応できない。『雷翼』全てを消費した今、自動迎撃も働かない。
そもそも、目で追う事さえ儘ならない。
僅か一秒、それが勇麻が勇火の懐に入り込むのに要した時間だ。
そして次の一秒を時計が刻む頃には、おそらく勇火が望まない形で決着がついてる。
完全な丸裸。無防備。
敗北が頭によぎったその瞬間、東条勇火は己の勘だけを頼りに全力で横っ飛びに身体を投げ出していた。
その動きについて行こうして、けれど左腕がない勇麻は上手く己の身体を制御する事が出来ず、バランスを崩しかけてしまう。
右足を踏ん張り、どうにか転倒する事は防いだが、まともな一撃を放てるような体勢ではない。
次の一手までの時間が生まれる。
掴みかけた勝利が、失った左腕から零れ落ちるのを感じる。
勝負の行方が、再び分からなくなる。
「ハッ、片腕がないって事忘れてたか!? そもそも挙動を保つバランサーが欠けているような状態で、まともな拳を放てる訳がないんだよ……ッ!」
なのに。
「問題はないさ」
東条勇麻の瞳に燃える炎は、その勝利だけを確信していた。
回転率が、上がる。
勇気の拳が、今日最大の回転数を刻む。
迷いなく伸びた右腕が、転がる勇火の身体を掴み、強引に手前に引き寄せる。
そして。
「拳はもう必要ないからだ……ッッ!!!」
――これは幕引きの為の儀式のような物だ。
だって、きっともう。
拳は互いに、届いているのだから。
お寺の鐘を鳴らすような鈍い音が、盛大に炸裂した。
――ヘッドバッド。
最後の最後。ただの頭突きで勝負を決した少年は、その勝利の痛みに顔をしかめるようにして、けれど最後に清々しく笑ってこう言った。
「これで俺の勝ちだ! 勇火!」
意識を失い白目を剥いて倒れた少年から黒い靄のような物が飛び出し、虚空へと消えていくのを勇麻は確かに見た気がした。




