第一〇話 作戦会議Ⅱ――協力関係
「お前の『神器』が凄いのはよく分かった。分かりましたから、頼むからもうしまってくださいお願いします」
色々と変な汗が身体中から噴き出している勇麻の言葉にアリシアがようやく従ってくれたのは、それから五分後の事だった。
アリシアはあれから、『天智の書』に関する事をもう少しだけ話してくれた。
まず、『天智の書』を使用する事にもアリシア自身の体力が必要だという事。
そして使用する際の体力の消耗具合が激しいので、一日に連続して多くの事は調べられないという事。
文章として一度残された物なら、ある例外を除いて、既に削除された情報でも引き出せるという事。
『天智の書』に浮かび上がる謎の文字は、仮に契約者以外の人間が見たとしても、誰も知らない未知の言語で書かれている為、読む事はできないという事。
だが、契約者が許可を出した人間のみ、限定的にその文字の意味を理解することができるようになるという事。
「……ようするにこの本、お前がいないと読めないって事か。だったら、最悪これが連中の手に渡ったとしてもお前を渡さなければ問題ねえって事になるな」
となると、やはり連中の狙いはアリシアであると考えて行動した方が良さそうだ。
仮に、本来の目的が『天智の書』の方にあったとしても、アリシアという鍵がなければ肝心の宝にあり付くことが出来ないのだから。
「……うむ。確かに勇麻の言う事はもっともだ。その本は私以外の人間が持っていても何の意味も無いし、仮に、奴らに天智の書の中身を見せてやったところで、私が許可しない限りこの文字の意味を理解する事は不可能だろう」
アリシアは天智の書を閉じ、座卓の上から回収する。
少女の胸元に紐でぶら下がった『天智の書』がなぜ自重で開かないのか少し気になったが、その辺りも“神器だから何でもアリ”の一言で済んでしまいそうだ。
「だが、この本は何としても守りきらねばならない。私にとってこの『天智の書』は、ただの『神器』以上の価値を持っているのだ」
「『神器』以上の価値……? それは、どういう意味だ?」
「うむ、そもそも私の神の力はただの人間に扱いきる事は不可能な力だったらしくてな。私自身詳しい事は分からないのだが……私がこの『天智の書』の契約者に“選ばれた”理由も、『天智の書』を御す為では無く、私の神の力を制御するための実験の一つだったと聞いているのだ。望みは薄かったのだが結果的に実験は成功、『天智の書』による補助が必須という条件付きでだが、私は自分の神の力を制御できるようになった。だがその結果、今の私は『天智の書』の補助を受けている状態の中で、常時〝神の力を半暴走〟させている状態なのだ。もし奴らに『天智の書』を奪われ、仮に補助を受けられない状態になったとしたら――」
そこでアリシアはわずかに息を呑むような間を開け、表情を変えずに、
「――私は自分の神の力の暴走に巻き込まれて、三日と保たずに廃人になってしまうだろう」
そんな衝撃的な事実を、表情一つ変えず、何ともなしに言った。
……やはり東条勇麻は大馬鹿の愚か者だ。
彼女は、最初から言っていたではないか。
――『私には「天地の書」が必要で「天智の書」にも私が必要なのだ』と。
――『「天地の書」と契約していなければ、私は今日まで生きる事が出来なかった』と。
だからこその第一目標。
この『天智の書』さえ奪ってしまえば、アリシアは生きる為に連中に否応なく従うしか道がなくなる。
連中は『天智の書』さえ回収できてしまえばいいのだ。だってそうすれば、後はアリシア自ら進んでその身を差し出す他なくなるのだから。
まるでそれは時限爆弾付きの首輪のように思えた。
アリシアに『天智の書』を与えた人間は、こうなる事を分かっていたのだろうか。
アリシアを縛る楔として『天智の書』が機能すると分かったうえで、その実験とやらを進めていたのだろうか。
確かなところは分からない。これ以上、事情を聞いてはいけないと理性が訴えている。
けれどもアリシアを追い込むこの状況に、人為的な悪意を感じるのも確かだった。
「……」
二人の間を得体の知れない沈黙が包んだ。
アリシアは勇麻が突然押し黙った理由が分からないらしく、どこか困惑した面持ちで勇麻の顔を覗きこんでくる。
まるで人に慣れていないそのアリシアの態度すら、今の勇麻には酷く勘に障る。
アリシアを雁字搦めに縛り上げる、囚人を縛るような楔の数々。廃人化。半暴走。記憶。神器。補助。制御。実験。契約者。神の力。
そしてこれまでのアリシアの不穏で不可解な発言の数々。
変化に乏しく、笑顔一つ満足につくれない不器用すぎるアリシアという純白の少女。
勇麻はそれらの意味を理解したくもないのに理解してしまい、理解した上であえて何も考えないようにして、溜め息を一つ吐いて立ち上がった。
「む、どこへいくのだ?」
首を傾げて尋ねるアリシアへの返答などこれで十分だ。
「ちょっとトイレだ、……興味あってもついてくんなよ」
羞恥の感情など知らないようなアリシアでも、流石にムッと来たのか。無表情のまま座卓の上の麦茶入りのグラスを投げられそうになったので、慌ててその場から退散した。
☆ ☆ ☆ ☆
バゴンッ!!
肉と骨を壁に叩き付ける、鈍く痛々しい音が響いた。
トイレの壁に己の拳を叩き付けて、勇麻はただただ怒りに震えていた。
なんとなく理解してしまった彼女の置かれていた環境の意味を考え、そしてそれを理解するまいとした自分に嫌気がさして、どうしても冷静じゃいられない。
右の拳が熱い。
回転数が上がる。
勇麻はトビそうになる感覚の中、うわ言のようにボソボソと何かを呟く。
「……彼女が抱えるものを俺なんかが背負う事はできない。俺には関係ない。彼女の過去になにがあったとか、そんなものは関係ない。俺は、俺の為に戦う、いつも通りただそれだけだ」
でも、と勇麻は再び拳を握りしめて、
一撃。
ドゴォッ! という先ほどよりも凄まじい音と共にその拳を壁に打ち付けた。
「許せない事ぐらい、俺にだってある」
その一撃を受け、トイレの壁の一部が粉々に崩れ落ちた。
いいだろう。
そこまでして少女の運命を握りつぶそうとするなら相手になってやる。
主人公でもなんでもない、ただの偽物の手であっけなく潰されてしまえばいい。
敗北など糞くらえ。
この戦い、どんな泥沼に陥ろうとも絶対に一泡吹かせてやる。
悪意にはそれ相応の報いを与えねばなるまい。そしてそれは別に、英雄の手でなくても事足りる。
小物は小物どうし、惨めな戦いに興じようではないか。
勇麻はそのまま振り返らずにドアノブに手をかける。
……しばらくして我に帰った勇麻は、弟である東条勇火への謝罪内容に頭を悩ませることになった。
☆ ☆ ☆ ☆
トイレから帰った勇麻は話の最後に、いくつか質問をした。
まず一つ気になったのが、彼女が逃走の途中に掛かってしまったという罠についてだ。
「うむ、私が掛かった罠も、おそらくは神器だろうな。神の力にしてはそれを使う気配が無かったし、精神と身体を分離するなど普通の眠り薬などでは不可能だろう」
やっぱりかと、勇麻は内心溜め息をついた。
敵の中にも『神器』を扱う人間がいる。
となると、神の能力者だけに警戒していればいい訳でもない。『神器』などという得体の知れないイレギュラーの介入についてまで頭を悩まさなくてはいけなくなりそうだ。
「……っと、今度こそ最後に一つ。アリシア、今のお前は神の力が使えないって話だったよな。確かオーバーヒートしたとか何とか言ってたけど」
「……うむ。今の私は全く力が使えない。役に立てず、ごめんなさいなのだ……」
「いや、責めてる訳じゃねえよ。ただ、その使えない期間ってのは、あとどれくらいなんだ?」
「む……完全に復活となると少なくとも二週間は掛かってしまうぞ」
「二週間か、長いな……一発だけならどうだ?」
アリシアの身に宿るのは『天智の書』の補助ありきでようやく使えるような神の力だ。結局詳細はよく分からなかったが、強力な力である事は間違いないだろう。
なら、その力を利用しない手はない。
別に、連中に大ダメージを与える必要なんてない。
ようは、背神の騎士団がアリシアを追えない状況を作ればいいのだ。
例えば、真っ昼間から強力な神の能力者同士の大規模な戦いが発生して、有無を言わずに神狩りが出ざるを得ない状況を作りだす、とか。
いくら背神の騎士団が強大な組織だとは言え、所詮は秘密裏に作られた裏社会の組織だ。
天界の箱庭相手に真正面からケンカを売るにはそれなりの準備がいるはず。
天界の箱庭公式の治安維持部隊である神狩りを動かす事が出来れば、そうそう派手な動きはできなくなるはずだ。
神狩りと背神の騎士団の全面戦争、という構図に仕上げてしまえれば完璧だ。その混乱に紛れてしまえば、様々な細工ができる。
「一発だけなら三日か……いや、二日もあれば大丈夫だと思うぞ」
「……二日か。よし、それなら何とかなるかもしれない。――いや、何とかしてみせる」
決意を固める勇麻の表情に何を思ったのか、アリシアが何か顔を曇らせて、
「……なあ、勇麻。本当にいいのか? 確かに私は匿って欲しいとお主に頼んだのだ。だが、何もお主が無理にヤツらと戦う必要は無いんだぞ。傷だって完璧に治った訳ではないし、また殺されそうになるかもしれない。それに元々私は、奴らに見つかった時点で逃げる事は諦めるつもりだったのだ。だから、一日匿って貰うことだって、起きたら奇跡だなって思っていて……だから、私は……」
ごにょごにょと、自分の気持ちをうまく言葉に出来ずにいるアリシアの表情からは心配の色が見て取れた。
それは勇麻が思っていたより、暖かい色をしていた。
きっとアリシアは、勇麻に必要以上の負担を掛けたく無いのだろう。
だからこそ、『助けてくれ』ではなく『匿ってくれ』だったのだ。
自分も助かりたい、だけど、関係ない人を巻き込むのも耐えられない。
その相反する二つの気持ちの狭間できっと彼女は揺れているのだ。
……優しい子だと勇麻は思った。
こんなくだらない自分と違い、アリシアは純粋に心の底から他人の心配をする事ができる。
自分も大事だけれども、他の人にも傷ついて欲しくない。
それは、正常な人間の反応だ。当たり前の優しさだ。正しき慈愛の心だ。
だからこそ、
勇麻はそんなアリシアの頭に水平チョップをかました。
「馬鹿言うんじゃんねーよ」
「あうっ!?」
ばちこーんと叩かれた頭をさするアリシア。悔しいが、いちいちリアクションがかわいい。
勇麻はこの短い間で、表情があまり変わらないのも何だか彼女らしいと思えるようになっていた。……絶対に、口に出すつもりはなかったが。
「無理も何も、俺はもう連中の一人をぶっ倒しちまったんだぜ? どう考えてもブラックリスト入りだろ、コレ。お前を助けようが助けまいがどのみち狙われるんだ。それなら、たいした神の力も持ってない俺一人で連中と戦うよりも、お前と協力して戦った方が色々と得策だろ?」
「それは……でも、結局それも私のせいではないか……」
頭を押さえながらさらに落ち込もうとするアリシアに、勇麻は溜め息を吐いて、
「馬鹿、思い上がんじゃねえよ。確かにあそこで倒れてるお前を助けようなんて思わなきゃ、こんな事にはならなかったかもしれないけどな。あの黒騎士とかいう野郎は俺の事を最初から知ってるっぽかっただろ? 二代目だの初代だの訳分からない事言ってたしな。多分だけど。遅かれ早かれアイツと俺は戦う事になってたんだよ。むしろお前と一緒に巻き込まれたのはラッキーとすら言えるんだ。分かるか?」
「むむむ……、いや、でも……言われてみれば、そんな気もするような……しないような」
あまり納得いかない様子のアリシア、だが勇麻は反論の隙を与えぬよう、強制的にその話題を終わらせた。
「分かったら余計な心配すんな。俺なら大丈夫だ。二日くらいなんとかするさ。傷だって別にどうってことはない。こう見えても生命力には自信があるからな、多分ゴキブリ並みだ」
アリシアはまだ納得のいかないような表情を浮かべていたが、勇麻のその表情に何かを感じたのか、
「……分かった。心配しない事にする」
しぶしぶといった調子で頷き、何かを切り替えるように目を瞑る。やがてゆっくりと目蓋を開けたアリシアは、その顔に笑みを浮かべた。
だがその笑顔は、どこかまだぎこちない物だった。
造りものの笑顔みたいでうまく笑えていない。
「よし、決まりだな」
だからこそ、ここは目一杯の笑顔で笑い返すのが正解な気がした。
いつかこの少女がその顔に、本物の笑顔を浮かべる日が来ることを願って。
「その代わり、アリシアが復活したらたっぷり力貸して貰うからな。俺とお前のためにも、お前の力が必要なんだ」
「うむ。まかせておけなのだ……!」
アリシアは限界ギリギリまで胸を張ると、ポンと自分のその小さな胸を叩いた。
頼ましい限りだ、と勇麻は笑った。