第十四話 それぞれが対峙する壁Ⅰ――届かぬ剣
レインハート=カルヴァートはよく笑う女の子だった。
優しくて、いつだって元気一杯。そんな感情豊かな二歳年上の姉を、弟のレアードは幼い頃からずっと慕っていた。
共に公園を駆け回り、一緒に遊んだ幸せな記憶は、今でも色褪せる事無くレアードの宝物となっている。
二人に両親はいない。
……正確にはカルヴァート姉弟の両親はレインハートが四歳、レアードが二歳の時に交通事故で亡くなっている。
姉のレインハートはまだしも、レアードに両親の記憶はほとんどなかった。
だがそれでも、レアードが寂しいと思う事はなかった。
泣きそうな夜も、心細い不安な夕暮れ時も、どんな時でも微笑む姉が傍に寄り添っていてくれたから。
両親が死んで、身寄りの無くなった二人は天界の箱庭内の施設で保護されていた。
両親も神の能力者だったカルヴァート姉弟は生まれた時からこの街で暮らして来た。ようするに天界の箱庭以外の場所を知らないのだ。
外の世界に触れたことがない彼らは、そのため外からやってきた神の能力者の子供達のように一般人からの悪意や差別意識に触れる事もなく、楽園の中ですくすくと伸びやかに健やかに育っていった。
人の嫌がる事をやってはいけない。
人の喜ぶ事をしてあげましょう。
あいさつは大切です。
ごめんなさい、ありがとうを言える子になりましょう。
そんな当たり前の事を、当たり前にこなせる子どもとして幼少期を過ごせている事が、神の能力者としてどれだけ幸福な事か。
幸せに包まれている限り、おそらく彼らがその事実に気が付く事はないのであろう。
そして気が付かない方が良い真実も、世界にはきっとある。
けれど、だからこそ。
その純粋さ故に、目を付けられた。
今から十四年前。
レインハート=カルヴァート六歳。
レアード=カルヴァートに至っては僅か四歳の時だった。
レインハート=カルヴァートが、何者かによって誘拐されるという事件が起こった。
彼女を攫った黒幕の名はクライム=ロットハート。
当時既に『創世会』の幹部『三本腕』の一角としてこの街に君臨し、『実験』を名目に多くの人を攫い人の感情や精神を弄繰り回し、使い潰してきた狂人だった。
当時僅か四歳。ようやく神の力が発現したばかりのレアード=カルヴァートにできる事など、何一つとして無かった。
ただ泣いていた。
途方に暮れた、と表現するのが正しいかもしれない。
自分の無力さを嘆く事もできず、そんな方法さえ分からず、現実と虚構の狭間でただ目の前から姉が消えてしまったという事実に声をあげて泣く事しかできなかったそんな幼い少年に。
「なあ」
一人の大きな大きな男が、声を掛けた。
無精ひげを蓄え右の瞳に稲妻型の刀傷を走らせた大男は、身を屈めて少年に問う。
「おいガキんちょ。お前さん、姉ちゃんの事が好きか?」
「……ひっぐ、ぐず……うん」
「姉ちゃんを助けたいか?」
「ずびっ……うん、っ、でも。でも、ぼぐ、でぎなっ……お姉、ぢゃん、どうやっで、だじゅけ……るの、か。……分からないよぉ……!」
嗚咽に塗れて言葉にならない少年のその想いを、しかししっかりと男は受け取って、笑いジワをその顔に刻み付けた。
「そうか。……だったらしょうがねえ。俺が手伝ってやる。お前さんの姉ちゃんを、大切な人をお前さん自身の手で助ける為に、俺がお前さんの剣となろう」
「ぼ、ぼく。たじゅ、っ……助げで……くれるの……?」
「いいや、そうじゃねえ。俺にできるのは手伝いまでだ。姉ちゃんを助けるのはお前さんだよ」
「ぼく、が……助ける……?」
「ああ、そうだ。いいかガキんちょ、俺にできるのはあくまで手助けだけだ。本当の意味でお前の姉ちゃんを救えるのはお前しかいねえ。その事を絶対に忘れるな。これから先、死んでもお前が姉ちゃんを守りきれ」
男の言葉に幼いレアード=カルヴァートはしっかり頷く。頷いて、滲む視界を拭って、差し伸べられた巌のような手を取り再び立ち上がる。
「……、ぼく、レアード=カルヴァート」
「そうかい、俺の名は……そうだな、スネークとでも呼んでくれや、レアード」
年齢も、力の有無も関係ない。
肩を並べた男二人による救出劇が、今ここに幕を開ける。
☆ ☆ ☆ ☆
上段から振り下ろされるレアード=カルヴァートの一撃が、クライム=ロットハートの痩身を叩き潰す。
岩と土とを固めて形成された無骨な棍棒じみた両手剣が、風を切って唸りをあげる。
刃で斬り裂く、というよりも、その重量と硬度でもって、相手を真っ正面から殴打によって叩き潰すような一撃だった。
クライムの身体能力は神の能力者としては平凡以下のレベルだ。
反撃はおろか、レアードの一撃を避ける事さえ儘ならず、岩の鈍器に潰され地面の染みと化す姿が容易に想像できる。
彼の神の力は確かに強力ではあるが、所詮は絡め手専門。
舞台の裏側から黒幕として状況を操り動かす分には脅威だが、一度舞台上に引き摺り上げてしまえばたった一撃で粉砕できる程度の相手でしかない。
逆に言えばクライムとの戦いにおける肝はそこにある。
いかにして、裏方でこそこそと暗躍しようとするクライム=ロットハートをスポットライトの当たる局面まで引っ張りあげる事が出来るか否か。
そしてレアードは、既にその勝負に勝利していた。
ならばあとは、予定調和に、流れ作業的に、既に勝敗の決している戦いに見合った結末を与えるだけでいい。
それで終わる。
クライム=ロットハートの復讐に、十四年にも及ぶ因縁に、ようやく決着を付ける事ができる。
別に相手を舐めている訳ではない。これまでの戦闘データを照らし合わせ、あくまで客観的かつ冷静に下したクライム=ロットハートへの評価がそれだった。
長年追い続けた仇敵。
絶対に打倒すると決めていた男。
そんな相手を前にしたこの死闘は、レアードにとっては絶対に負けられない戦いであると同時に、負ける要因を極限まで削ぎ落とし排斥した戦いでもあった。
なにせ十四年だ。調べる時間も考える時間も山ほどあった。
全ては筋書き通り。
だからこそ、クライム=ロットハートはレアード=カルヴァートの初手の一撃を回避する事ができずに、ここで敗北する。
なのに。
そのはずなのに。
――地面を砕くような轟音が鳴りひびいた。
それは、棍棒のように無骨な両手剣が、地面を痛烈に叩いた音だった。
「……ッ!?」
躱された。そう頭が理解するまでに、それなりの時間を要した。
クライム=ロットハートは、まるで後出しじゃんけんをするかのような気楽さで、レアードの一撃を軽々と躱してみせたのだ。
横に一歩。
左横に僅か一歩分ズレる。ただそれだけの動作で、レアードの攻撃は無力化されてしまう。
「なるほどなるほどなるほどチャン。先手必勝、時間を掛けずに速攻で真っ正面から叩き潰すって判断は正解チャンっしょ。なにせ俺チャンと対峙すればするほど情報チャンを抜き取られる危険性が増すんだから。“丁度、こんな風に”」
「くっ、貴様……ッ!」
「おおっと、確かに対俺チャン用に戦術が最適化されてる。ほぼ完璧なプリセットを組めているっぽいな。……が、大前提として俺チャンにその情報、戦術を知られていなければってのがもう致命的じゃね? 相手の思考を読める俺チャンに秘密の作戦なんて組んだトコで全部ご破算になるってなんで分かんないかなー?」
にやにやとした笑みを浮かべてそんな事を言いながら、クライム=ロットハートはレアードの攻撃を踊るように躱し続ける。
横に一歩ズレる。僅かに首を横に傾ける。唐突に右足を伸ばして足を引っ掛ける。すれ違うように身体を半身にズラす。
たったそれだけ。
それだけの動作で、レアードの攻撃はクライム=ロットハートの僅か一ミリ横をすり抜けていく。
「くそ、くそが……っ!」
「キヒッ、ヒヒヒ……。あーダメダメ。点から面への攻撃へと変えても無駄無駄。無駄ちゃんよぉ!」
礫の散弾はクライムの影を打ち抜き、振るわれる殴打はギリギリで躱され掠りもしない。地面を突き破って勢いよく生じる岩石の鉄槌は、その悉くがクライムがたった一歩後ろに下がるだけでその効果圏から抜け出されてしまう。
「キヒッ、ヒヒヒ……! なぁ、どうしてこんなにも攻撃が当たらないんだと思う? 俺チャンに思考を読まれているから? 俺チャンを倒す為に組んだハズのプリセットが筒抜けだから? ……お前、俺チャンの右目についても調べてきたんだろ? これだけ相対して一度も視線が合わないってのは妙だもんなぁ。警戒してるんだろ? で、何が書いてあった? 俺チャンと目を合わせるとどんな恐ろしい事が起きるって???」
「黙れ……!」
叫ぶレアードをぐるり囲むように地中から生じた岩壁から、さらに槍のようにごつごつとした岩杭が、クライムを貫かんと勢いよく水平方向に飛び出す。その乱雑な刺突の暴風をも軽々と受け流すと、クライムは手品のタネを嬉々として疲労するかのように、口の端を悍ましい形に歪める。
「ここで“意図的に開示した俺チャンの情報が活きてくるって訳”よ! 右目に関する情報を得たお前は例えそれがブラフやハッタリだとしてもこの右目を警戒せざるを得ない。俺チャンは戦う前からアドバンテージを一個追加しちまえてるって状況だ。……相手の顔を見ずに戦うってのはなぁ、もうそれだけでやり辛いんだよ。人間ってのは自分で思っている以上に相手の表情から様々な情報を読み取る生き物だ。それを封じられたお前は、五感の一つを喪失したに等しい。そんな状態で、万全の力を振るえるか? 俺チャンは無理だな。どんなに強くて素早くたって、目隠しした相手の攻撃を躱すなんて訳ないじゃん? それに加え、俺チャンはお前の思考を読み取る事が出来る訳だ。さぁーて、ここで純粋な疑問なんだけどさー背神の騎士団クンに本当に勝ち目なんて残っているのかな???」
「クライム……ロットハートぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
喉を引き裂くような大絶叫が木霊した。
抑え切れない怒りを咆哮に変え、レアードは全力で大地を蹴った。
今日この日の為に緻密に組み上げてきた全てが無意味。ならばもう何もいらない。何も考えない。ただ感情のままに、思いのままに莫大な力を振るい目の前の仇敵を叩き潰す。
血の涙でも流しかねないような鬼の形相で、レアード=カルヴァートがクライム=ロットハートに迫る。
「お前に……! お前のせいで姉さんは……レインハート=カルヴァートは、喜怒哀楽の半分を失った……ッ! どんなに楽しい事があっても、どんなに面白くても、どんなに嬉しくても、どんなに幸せでもッ! あの人はもう笑う事すらできない!!」
レインハート=カルヴァートはクライム=ロットハートに誘拐された際に、喜怒哀楽のうち嬉しさや喜び、楽しさなどの感情を『強奪』されている。
知識、言葉としての意味は知っているけれど、その感情を理解できない。なぜなら楽しさを感じる機能が、レインハートの中からごっそり消滅しているのだから。
友達と遊ぶ楽しさも、褒められて嬉しいと感じる事も、温かい食卓を囲んで幸せだと思う事も、挑戦した事がうまくいった時の喜びも、それらの感情を彼女が感じる事はもう二度と無い。
明るかった姉の表情から笑顔が消え、楽しさも喜びも嬉しさも何もない、人生を生きるうえでの希望を失ってしまった姉を、レアードはたった一人で支え続けてきた。
初めて会った時にスネークに言われた「本当の意味で姉を救えるのはお前だけだ」、という言葉の意味が、まさかこんな物だとは思いもしなかった。
それはまさに、ゴールも何も無い終わらない生き地獄。
喜びも嬉しさも幸福も感じられない姉に安らぎはない。
ただ唯一レアードにできる事は姉の感じる不快感を――不安や絶望、悲しみなどの負の感情を極力排除する事だけだった。
この身は全て、姉の為だけに捧げてきた。そんな自分の人生に満足していたし、少しでも姉が救われるなら、いくらでも己を犠牲にしようと心に決めていた。
だけど。
だから。
二人の人生を滅茶苦茶にしたクライム=ロットハートだけは、いつかこの手でぶち殺そうと決めていた。
絶対に許せないこの男を、背神の騎士団の任務という正当な理由を笠に、残酷に残虐にぶち殺す事のできるこの日を、ずっとずっと待ち望んできた。
一対一でクライム=ロットハートと対峙する為に、協力してくれた東条勇麻やアリシアにはこの場所を告げなかった。
姉のレインハートがこの事を知ればレアードの復讐を止めようとするのは目に見えていた。だから、ほんとは分り切っていたハズの犯人を、わざわざ『天智の書』を使ってようやく暴いたように演出した。
あくまで背神の騎士団の任務の一貫なのだと、建前を振りかざした。
そこまでして。そうまでして、ようやく掴んだ機会。
なのに。
「僕は決してお前を許さない。心の底から笑顔を浮かべるという機能を、そんな人としての当たり前の感覚を、お遊び半分で奪った貴様を!!」
「……ん? あっ、あーあーあー! 思いだしたぜ! いたなーそんな子ども。確かあれだ、特定の感情チャンを奪う事によって操り人形は造れるのか? みたいな思考実験で消費したんだっけかなー? でも恐怖とか不安とかそういう感情チャンを残しちまったせいで全然うまくいかなかったんだっけなー失敗チャン失敗チャン。俺チャンってばおっちょこちょいだぜ☆」
てへ、と片目を瞑り舌を出し、頭部にこつんと握りこぶしをぶつける仕草を見せるクライム。
そのふざけきった態度に、レアードの頭が沸騰を通り越して爆発した。
「ふっ、ざ……けるなぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!」
怒涛の勢いで盛り上がる足場と共に、猛スピードでレアードがクライム=ロットハート目掛けて跳躍する。
巨大な岩石の両手剣を振りかぶり、大地を砕かんばかりの勢いで、全身全霊の一撃を解き放たんとする。
それを見て、クライムは余裕の笑みを崩す事無く、
「だからさぁ、無駄チャンだってのがどうして分っかんないかねー」
レアード=カルヴァートに誤算があったとすればただ一つ。
クライム=ロットハートをスポットライトの当たる表舞台に引っ張り上げたと、そう錯覚していたこと。
彼が立っているここはまだ、怪物の胃袋の中でしかなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
中央ブロック第一エリア。
『創世会』本部ビル。
全面鏡張りの巨大な建造物の足元に、大仰な装備に身を包んだ大勢の男達が倒れていた。
非番であったのに緊急招集を掛けられた黒騎士は、周囲の状況を仮面の隙間から一瞥すると、面倒臭げに天パ気味のクセのある髪の毛を搔き毟って言った。
「あーくそちくしょう。今日は非番だってのに俺を呼びつけやがって……あの糞ジジイ、いつかぶっ殺してやる……」
「にしても酷いっすねー、これ。全員綺麗に仮死状態。とりあえずウチの救護班に召集掛けましたけど。……一体誰が何の目的でこんな事を」
「目的は知らねーが、誰がやったかは一目瞭然だ。……はやまりやがってキチガイバーサーク女め」
珍しく本気で苛立たしげに吐き捨てた黒騎士に、田中(仮)が驚愕を露わに
「ええ、それってもしかしてイル
「声がでけーんだよ馬鹿野郎。誰に聞かれてるか分かんねーんだぞ」
馬鹿正直な田中(仮)の言葉を影の腕で遮った黒騎士は、しばし黙って思案する。
(……こいつらをぶっ倒したのは間違いなくイルミの馬鹿野郎だ。殺さなかったのはヤツなりの精一杯の配慮なんだろうが……シーカーの野郎のお膝元でこれだけ暴れていたら、捕捉されてない訳がない。だったらわざわざ分かり切ってる犯人の捜索、捕縛なんてモンを命じる意味は……チッ、こっちの独断専行に対する牽制か。イルミの反乱を俺が主導してるとでも思ってんのか? ……どっちにしても、疑いを掛けられてる以上『三本腕』に対する手札を集めていられる余裕はなくなっちまった訳だ。……クソが、イルミの馬鹿野郎。超絶面倒臭えタスク増やしやがって……ッ!)
『三本腕』に対抗する為に揃えられた『手札』は、未だクライム=ロットハートの要する最大戦力『氷道真』への一枚のみ。
いくら黒騎士と言えども、心もとないにも程がある。
確かに黒騎士は汚れた禿鷲NO.2の座に君臨するだけの戦闘力を有してはいるが、その頂点に立つ『三本腕』の一角コルライ=アクレピオスの足元にも届かない。
そのコルライと同格の敵、クライム=ロットハート。そして『白衣の男』。
どちらも、今の黒騎士がまともにぶつかれば苦戦は避けられないだろう。
状況を打破する為の、何らかの切り札が必要なのだ。
だいたい、『三本腕』の殺害はあくまで目的に至る為の通過点に過ぎない。黒騎士が本当に殺すべき敵は、人間の枠を超越した正真正銘の怪物なのだから。
「それで先輩、これからどうするんです?」
「あー、あれだ。ぶっちゃけ、今の状況は割と最悪ってヤツだ。あのバカのおかげでいらん疑いから別ルートで俺の裏切りが発覚する可能性さえ出てきやがった。……だからこの状況を逆手に取る。疑惑を拭い、信頼を勝ち取り、そんでもって中枢にダメージを与える。あの老害どもは俺を泳がせて尻尾を掴むつもりだ。つまり、今はまだある程度自由に動ける。付け入る隙はいくらでもあんだろ。……この黒騎士を侮った事、地獄の底で後悔させてやる」
仮面の奥。
悪夢の名を冠する漆黒の騎士の顔が、凄惨に歪んだ。




