第十一話 喧騒に染まる街Ⅱ――意外な犯人
茫然自失とその場に座り込んで、どのくらい経っただろうか。
それさえ分からなくなって、そこでようやく東条勇麻は再起動を開始した。
(勇火……お前があんな風に何かを悩んでいたなんて、俺は何も……)
衝撃は予想以上に大きい。
予期していなかった方向からの奇襲に、ごっそりとナニカを抉られたのを自覚する。不意に横っ面をブン殴られたような衝撃に、心がついていかない。
『だって俺達は、失うばかりだったじゃないか』
呪詛のように吐き捨てられた最後の言葉が、勇麻の胸に釣り針のように突き刺さっている。
かえしが傷口に引っ掛かり、抜ける気配はまるで無い。それどころか針を抜こうとすればする程、傷口をさらに傷つけるばかりだ。
『ネバーワールド』という地獄で見た物。聞いた物。感じた物。失った物。
それは、勇麻だけでなくあの地獄を生き抜いた誰もが得た物だ。
きっと勇火もまた、何かを感じ何かを思い何かに悩み、必死で考えに考え抜いて、そして自らの意志で行動しているのだろう。
その結果が、あの冷たい瞳と冷たい言葉へと集約したのだと思うと、気付いてやれなかった自己嫌悪と結果として勇火を思い悩ませる要因となった己の愚かさ無力さに押し潰れそうになる。
自分以外の他者が抱える悩みなど知ろうともしなかった。
自分の事を考えるので精一杯だった、という言い訳をするほど恥知らずになるつもりはない。
けれども、自分の事で手一杯だったのは紛れもない事実でもあった。
勇気が足りない。
死力を尽くしてなお、本当に守りたかった物さえ取りこぼした男に、本当に誰かを救う事などできるのだろうか。
だって、勇火の言う通りだ。
東条勇麻は、結局のところ敗北したのだから。
高見秀人を……犠牲にする事しか出来なかったのだから。
勇気の拳もきっと、こんなくだらない宿主を笑っているに違いない。
「はは……。弱いな、俺……」
自嘲する言葉にも、力がない。
掠れたような響きだけが、誰の耳に届く事も無く肌寒い夜の街へ消えていく。
それでもどうにか立ち上がって、ふらふらと、以前よりも頼りない足取りで勇麻は再び走り出した。
勇気の拳はまだ東条勇麻を見限ってはいない。弱体化は、発生していない。
立ち上がる事に意味なんてあるのか。
拳を握って、それで何ができる。
東条勇麻に、一体何ができる。
……自信なんてない。
……根拠なんてない。
……強く何て、ない。
けれども、今は。今だけは東条勇麻は絶対に止まれない理由を手にしていたから。
東条勇麻は東条勇火の兄なのだ。
兄とは、間違った道に走った弟をぶん殴ってでも止める者の事を指すのだ。そして後残っているのは、たった数年先に生まれ出てその成長を見守ってきた年長者としてのちっぽけなくだらないプライド。
今の勇麻を支えるのは、ただそれだけ。
「……まだ、終われない」
無茶で無謀な弟を止める為にも、騒動の元凶を叩く必要がある。
目的地は端から決まっていた。
中央ブロック第一エリア。
天界の箱庭の心臓であり頭脳でもある最高決定機関『創世会』。その本拠地。
特に当てなどないけれど、『創世会』の幹部だと言う人間に会いに行くのだ。これ以上に相応しい場所もあるまい。少なくとも闇雲に街を走りまわるよりは、まだ可能性があるハズだ。
足取りは魂の抜けたように軽く、心もうまく定まらないまま東条勇麻は夜の街を再び駆けていく。
☆ ☆ ☆ ☆
天界の箱庭中央ブロック第一エリア。
さまざまな重要施設が密集するこのエリアは、当然天界の箱庭随一を誇る警備の強固さを持ち、それに伴う治安の良さでも有名である。
中央ブロックに足を踏み入れた時点で、あれだけ騒がしかった爆発音や喧騒が、嘘みたいに遠くに消えて行ったのは、きっとそれと無関係ではないだろう。
……単純にこのあたりに住居を構える人間は『ネバーワールド』を訪れる客層とはズレているせいかもしれないが。
「確か、このあたりか」
十年以上天界の箱庭に住んでいるとは言え、『創世会』本部ビルを訪れた事など小学校の社会科見学の時以来だ。
しかも当然のごとく中には入れず、建物の前でガイドさんの説明を聞いただけである。
風化してしまった記憶を頼りにああでもないこうでもないと呟きながら進んで、どうにかたどり着いた頃には、冬場だと言うのにじっとりと背中が汗ばんでいた。
「これが、『創世会』本部ビル。……ッ!?」
特徴らしい特徴のない、巨大で無骨な印象を与えるビルだった。
全面鏡張りのその建造物は、見上げるような高さまで積み上がっていて足元の勇麻を威圧してくる。
固く閉ざされた扉の前には、数多の神狩りが配備され、白血球の如くこの街の頭脳であり心臓でもある『創世会』を守護して──いなかった。
「これは……」
死屍累々。
精鋭揃いで干渉レベルAクラスの神の能力者が相手だろうと、平然と渡り合い、劇はすると噂されている天界の箱庭きっての実力集団が、成す術も無く地に倒れ伏している。
警備は完全に瓦解し壊滅していた。
争った形跡が見当たらない事から、その悉くが音もなく奇襲を受けて倒れたのだと推測できる。
顔を覆う黒く無骨なヘルメットを外し、息を確かめる。
「まじかよ。息、してねえ……」
勇麻の顔から一瞬で血の気が引いてゆく。
自分の喉から絞りだした声が震えている。こんなにもあっさりと人が死んでしまっている現実に、認識が追いつかない。追いつきたくない。
呼吸を止めた彼らの誰もが、その顔に驚愕さえ浮かべる暇も無く、静かに息を引き取っている事が分かる。
まさに暗殺者の業。
その恐ろしいまでの手際の良さに足元から這い上がるような勢いで鳥肌が立つ。
次の瞬間だった。
「──ッ!?」
目の前の死体が、その可能性を告げていた事も大きかっただろう。
どこか既知感のある殺気の香りを敏感に感じ取った勇麻が、本能に任せ大きく後ろに飛び退くと同時。
勇麻の頭上から垂直に降り注いだ日本刀の一閃が、今の今まで勇麻の居た地点を容赦なく切り裂いた。
「チッ、」
下手人は短く舌打ちをすると、間髪入れずに“間近の空間を蹴り”タイムロスゼロで最突撃を図る。
狙われたのは体幹ど真ん中。強化された身体能力をもってして回避は不可能なタイミングで、正中線目掛けて繰り出される正確無比な鋭い刺突に、勇麻は咄嗟に左腕を突き出していた。
左腕をみすみす差し出すような愚行。
致命傷を負うよりはマシだと判断しての行為だとしても、左腕を切断などされた暁には出血多量によるショック死の可能性も否定できない。
どちらにしても、生き残ったところでまともな痛みで満足に戦えもしないだろう。
勝利を──すなわち相手の死を確信した下手人の頬に歪みのような昏い笑みが走る。
それでも勇麻は、防御ではなくあくまで真っ正面から敵の一撃を受け止めるという強気の意志で、勇気の拳の弱体化を回避する事を優先した。
直後、勇麻の左の掌と鋭い日本刀の切っ先とが衝突して、
キィンッ! と、甲高い音を放った。
「な……ッ!?」
肉を突き破り骨まで達するかと思われた刀は、しかし少年の左の掌を前に火花を上げて真上に弾かれる。
驚き、息を飲む気配が伝わる。
襲撃者の動きが、一瞬ではあるが確実に止まった。
そして勇麻は、その隙を逃さなかった。
「悪いけど、鉄でも斬れるようになってから出直して来い……!」
一歩で敵の懐へと詰め寄ると、全体重を掛けた右の一撃を容赦なく叩き込む。
殴打の衝撃が手首に跳ね返り、下手人の身体が宙を舞う。
が……。
「今のを凌ぐかよ──」
驚異的な反応を見せた下手人は、勇麻の拳が直撃する寸前に刀を拳の軌道上へ放ってクッションとし一秒にも満たない時間を稼ぐと、自らは眼前の空間を蹴って後方へ跳び、拳の威力を減衰させたのだ。
防御ではなくあくまで回避。勇気の拳への対応としては、一〇〇点満点の回答だ。
そしてそれは当然、この神の力を知っているが故の反応であった。
「──イルミ」
名前を呼ばれた少女は吹き飛ばされた刀を拾い上げると、返答の代わりに純粋無垢な殺意に満ちた荒んだ瞳を勇麻に向けた。
隠す気もない殺意が、刺すように勇麻の肌を刺激する。
既知感があるのも当然だ。
何せ、ほんの四ヶ月前にその濃密な殺意を真っ正面から浴びたばかりなのだから。
汚れた禿鷲所属の双子の姉妹の妹の方。
『壁面歩行』をその身に宿す漆黒のドレスに身を纏った黒髪黒眼ショートヘアーの少女──イルミが、日本刀を片手にそこに立っていた。
「ナルミ、ごめんね。また殺せなかった……」
ブツブツと呟かれる独り言は、まるで隣にいる見えない誰かに話しかけているかのようで気味が悪い。
「相変わらずみたいだな、イルミ」
「……しつこくてしぶといヤツは嫌い。話し掛けないで。私が殺してやるから」
とりつく島もないとはこの事だろう。
敵愾心の塊のような視線を投げつけられ、その純度の高い感情の切っ先に、思わずたたらを踏みそうになる。
「汚れた禿鷲のお前が、どうしてこの人達を殺した。『創世会』とグルになって悪さしてるテメェらにとって、ここの警備は重要なモンなんじゃねえのかよ」
「アナタ、馬鹿ね。私、殺してなんかないわよ、多分。ナルミに教わった経絡とかいうツボを突いたから、軽い仮死状態になっているだけ。……そんな事も分からないの?」
「……生憎、普通に生きてると仮死状態を見分けられるような能力は身に付かないんだわな。これが」
「ふーん、そう。でも安心して、アナタはちゃんと殺すから」
「安心できる要素が一個もねえよ……ッ!」
会話にもならない言葉の応酬を経て、少女の疾走により再び戦端が開かれる。
大地という制約を越え、眼前に広がる空間をその両の足で踏みしめて駆ける少女の疾駆は、ジグザグに三次元的で複雑な軌道を描き勇麻に襲いかかる。
『壁面歩行』。
垂直に反り立つ壁だろうと、天井だろうと、直径一ミリに満たないピアノ線の上だろうと、足の裏を接地するナニカがあれば、足の裏を吸いつけるように固定し、そこを『足場』にする事が可能な神の力。
東条勇麻に目の前で姉のナルミを倒されて以来目に見えて強力になったその力で、今や彼女は空をも自由に駆け回る。
(おそらく、空気中の塵や埃なんかを足場と認識してるんだろうけど、そうなると対策のしようがない……! 当たり前に空気中に存在する以上、風を操る神の力でも無い限り、空気中の塵を除去するなんて芸当できっこねえ!)
背後。勇麻の背中を縦一文字に斬り裂く斬撃が走る。
勇麻はそれを、前方に飛び込むようにして回避。前回り受け身の要領で地面を転がり、そのまま反動をつけて起き上がる。
と、既に目の前に少女と日本刀の切っ先が迫る。
首を狙って放たれた袈裟切り。弾かれるようにして蹴り上げた勇麻の右足が日本刀を振り下ろすイルミの腕を外側から叩き、斬撃の軌道を逸らす事で対応する。
「そもそも、何でお前が此処にいる。神狩りを仮死状態にした理由だって、さっきの話からじゃ何一つ見えてこない!?」
得物のリーチという利点を潰す為に自ら懐へと飛び込んでいく勇麻に対して、イルミは牽制するように柄尻を突き出し殴打を繰り出してくる。
「ナルミが、待ってる。だから殺す。トウジョウユウマ、全部お前のせいだ。だからお前は死ね。殺されろ……!」
顔面を殴られ、歯が砕ける。けれど勇麻は痛みも衝撃も無視して前へ。怯み、退き、距離が開けば、そこは刀の間合い。前へと踏み込むよりほかに、活路は無い。
「ぐ、……ナ、ルミ? まさか、お前の姉ちゃん、に。何かあったのか?」
「うるさい、……うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!!」
遠慮も配慮もなく踏み込む勇麻の言葉に、イルミが怒り狂った雄叫びをあげた。そのまま癇癪のように振るわれる蹴りと拳を、流れるような体捌きで全て回避し受け流す。
「ナルミをいじめたお前も! やくそくを破った黒騎士も! 絶対に殺す。殺してやる。だから死ね。私に殺されろォ……ッ!」
激昂し、理性を失った獣のように少女が吠える。
姉への深い愛情が、少女の殺意と憎悪の燃料と化しているのだ。
勇麻の死角から死角へと跳ぶように走るイルミに翻弄される。
致命傷はギリギリで回避できても、追いすがる白刃が、確実に勇麻の肉を削る。
少しづつ。けれど確実に。ダメージの蓄積は東条勇麻を致命的なラインへとじりじりと誘い込む。
「黒騎士だと? なんでここで、……くっ! アイツの名前が出てくる……!?」
「黒騎士が、あいつがッ! ナルミを売った! 守るって、私がめいれいを聞いてるうちは守るって言ったのに! あいつは嫌いだ。嘘付きだ。だから、殺す。ナルミをいじめる奴は、全部私がぶち殺す。お前も黒騎士も“あのクライム=ロットハートとかいうヤツ”も全部ッ!!」
一際鋭く迸った一撃が、ついに勇麻の左肩を深々と抉り削った。
肉が裂け、噴水のように飛び散る血潮に、イルミの頬が斑に赤く染まる。
脳味噌を刺すような痛みが走り、勇麻の顔に苦痛の色が見え隠れする。
だが、勇麻の頭を穿ったのは、肩を斬り裂かれた痛みよりも少女の放った言葉にこそあった。
未だにこめかみをハンマーで殴られたような衝撃を感じつつ、勇麻は確認するように尋ねた。
「お前今、……クライム=ロットハートと、そう、言ったのか……?」
水面下で蠢く何かが確かに繋がった。
そんな気がした。




