第九話 協力要請Ⅱ――新たな敵の名
入り組んだ秘密の地下通路の奥深くまで進み、現在地が全くもって分からなくなった頃。レアードの足がようやく止まり、目的の場所に辿り着いた事を知らせた。
地下通路は巨大な迷路と化していて、古典的ではあるが、これ自体が一つのセキュリティシステムとなっているようだ。
ちなみにこの迷路、一つでもルートを間違えれば終点に辿り着く事なく永遠と地下空間をさまよう事になるらしい。実際ここまでレアードの案内で止まる事なくゴールまでたどり着いた勇麻だったが、あまりにも道筋が複雑過ぎて、もう一度訪れるどころか、帰り道さえも分からなくなっているような状態だった。
とは言え今から訪れるのは背神の騎士団の本部なのだ。
この程度のセキュリティはあって然るべきだろう。
通路の壁に隠された機械の一つにレアードが二十二桁からなるパスワードを入力する。ロックの外れるような音がして、そのまま頭上の天井にカモフラージュされた隠し扉を開くと、歯車の噛み合う機械音と共に仕掛け階段が降りてきた。
勇麻達は女性を抱えたままのレアードを先導にそれを登って地下特有のややどんよりとした空気を突き破る。すると、どこかの建物の空き部屋へと出た。
「ここが、本部……?」
「誰もいないのだ」
背神の騎士団本部は、勇麻の予想に反して質素で簡易的な造りだった。
部屋でありながら地下からの玄関としての役割も持っているからかも知れないが、それにしたって何も無い。
別段普通のビルの一室と思わしき室内は、掃除が行き届いており清潔さは保たれているものの、豪華な調度品や高価な家具などは一切見あたらず、手広で空虚な印象すら与えていた。
部屋の真ん中にポカリと開いた地下への階段と、壁に取り付けられた通信機器。気休めとばかりに置かれた簡素な休憩用のベンチがポツリと置いてあって、物寂しさを加速させる。
その癖、妙な年季と使い込みを感じるあたり、ここが本部として長年正常に機能している証拠なのかもしれないが。
「こっちだよ」
レアードの後ろに続く形で玄関部屋から通路へと出る。通路からまた通路へと渡り歩き、自分達のいるこの建物が地下通路と同じく、かなり複雑に入り組んだ造りをしている事に気付いた。
特徴的だったのが、どこかの部屋に通じているのかと思った扉の向こう側が、また同じような通路だった事だろう。
個室へ繋がる扉と通路へ繋がる扉があるようで、全貌を把握するのは背神の騎士団の団員でも難しそうだ。整合性がなく、一見普通に見せかけて、建築の常識が一切通用しない自由奔放な造りとでも言えばいいのだろうか。
巨大組織の本部、というより子供の秘密基地のスケールを馬鹿でかくしてみた、と表現した方がしっくりくる。
こんな所にも、この組織を率いるあの男の性質というか性格が現れているのかもしれない。
数分後、さらに地下深くへと潜り――最初に辿り着いた部屋を地下一階とするならおそらくは地下三階だろうか――レアードによって二人が案内されたのは病院の手術室にも似た空間だった。
病室、という単語に、ほんの一瞬勇麻の表情が曇る。
消毒の匂いと、眩しい白さに染められた少し大き目の部屋には、病室に置いてあるようなベッドが五つ程並んでいる。そのベッドの上に、性別も年齢もバラバラな四人が、丁寧に寝かされていた。
四人とも意識を失っているらしい。
レアードは五つのベッドの内、まだ埋まっていないベッドのうえに、肩に担いだ女性を仰向けに横たわらせる。
レアードはチラリとベッドの上に横たわる人々に目線を送りつつ、息を吐いた。
「さっきのあれを見て分かったと思うけど、今天界の箱庭では神の能力者が突如暴徒化する現象が起きていてね。ここで眠ってるこの五人は、いずれもその暴徒化していた神の能力者って訳だ」
「さっきいきなり襲い掛かってきたヤツらも、その暴徒化したヤツらだったって事か? ……え、つーか。あんなにいるの?」
「今のところ暴徒化の原因は不明。不特定多数の人間に何の前触れも無く突発的に発症する点から最初は伝染病とかバイオテロだとか臆測の域を出ない噂も飛び交ったみたいだけど、今じゃそっちの線はほぼ無いって話になってる。僕ら背神の騎士団も、神の力による何らかの干渉があったと見ているんだけど……」
「ふむ。調べてもこやつらに干渉しているはずの神の力が何なのか分からない、と」
痛いところを平然と突いてくるアリシアにレアードは肩を竦めて、
「まあ、そういう事だね。強力なプロテクトでも掛かっているのか、少なくともウチ精神感応系の神の能力者じゃ、分かる事はほぼ無かった」
「そこで、アリシアと『天智の書』の出番って訳か」
「そういう訳だ。……アリシア、アナタにはこの五人について分かる限りの事を調べて貰いたい。今はとにかく情報が欲しい。どんな些細な事でも構わない。人手不足もあいまって彼らの個人情報さえ満足に調べられていないような状態だからね。彼らに共通項でもあれば、敵がどうやって標的を定めているのかが分かるかもしれない」
「うむ、やってみよう。ただ、『天智の書』で調べられるのは、あくまで文章として書かれた事柄についてだけなのだ。……この場合はこやつ等に関連する記述、もしくはこやつ等自身が書き残した文章のみ閲覧する事ができる訳だ。検索の過程で出てきたキーワードからさらに踏み込んで他の事象について調べる事もできるのだが、敵の正体や神の力まで掴めるかは……」
アリシアの『天智の書』は強力無比な『神器』だ。
契約者であるアリシアが知りたい対象に対する情報を、白紙のページに次々と浮かび上がらせるこの神器は、情報収集能力において突出した物を持っている。
が、数多くの制約があるのもまた事実である。
その制約の一つが、アリシアが明確にイメージできる物(つまり、アリシア自身の目で見た事のある物や既知の物)でなければ検索する事ができない。というルール。
そしてもう一つが、『天智の書』で得る事ができる情報は文章として書かれた事のある物、つまり文字媒体に依存した物のみという点だ。
『天智の書』はアリシアの思考イメージから検索対象を読み取り、検索対象に関連する文章全てを浮かび上がらせる魔本ではあるが、逆に言えばいくら関わりがあっても映像や音声を媒体とした情報は取得する事ができないのである。
世界中の本から日記、果ては恋文やノートの落書きまで、文章として一度でも書かれた物であればありとあらゆる情報を収めてはいるものの、決して万能ではない、という訳だ。
どこか申し訳なさげなアリシアの告白に、レアードは顔色一つ変える事無く頷いて、
「構わないよ。これだけの規模で被害を出すような干渉力だ。元より、ある程度の候補は絞れている。後は、先にも言ったようにその推測を一押しする何かが欲しい」
「え、これをやったヤツに心当たりがあるのか? どんな神の力が使われてるか、何も分からなかったんじゃなかったのかよ?」
レアードの言葉に引っ掛かりを覚え、意外そうな声をあげたのは勇麻だった。
てっきり背神の騎士団は完全にお手上げ状態で、アリシアに頼る以外にどうしようもないのかと思っていたのだ。
それが意外な事に、現段階でも犯人の目星はついているとレアードは言っているのだ。これが事実ならば、別にアリシアを頼る必要もないだろうと勇麻は思ったのだが……。
「ああそうだね、実際、調べた限りじゃこれっぽっちも分からなかったのさ。でも別に、原因が分からなくても、どんな現象が起きているかくらいは分かる。集団催眠じみた洗脳にも似た症状と言い、今回の件に、精神感応系統の神の脳力者が絡んでいる事は間違いない。それにさっきも言ったように、自然と高ランクの神の能力者に限られてくるしね。なら後は、細部を詰めて条件の絞り込みをするだけだからね」
「……な、なるほど」
察しの悪さをまた小馬鹿にされるかと身構えていた勇麻だったが、想像以上に真面目な返しを受けて反応に戸惑ってしまうような微妙な空気が流れる。
レアードは、そんな勇麻の反応など気にも止めず、一つ静かに息を吐き出す。
そのやけに落ち着いた仕草が、まるで余裕のなさを覆い隠すカモフラージュのように見えたのは勇麻の考え過ぎだろうか。
「さて、と。今のこの街の状況は分かって貰えたかな。実は今、僕らも少し忙しくて人手不足でね。いつまでもこっちの案件に時間を掛けていられないんだ。さっそくで悪いんだけど、始めて貰えるかな。アリシア」
真っ白な少女は静かにその言葉に頷いて、
「――汝、天より授かりし『智』を欲するのならば、我にその代価を差し出し覚悟を示せ。さすれば我、天より授かりし『智』すべてを汝に授けん」
『神器』を起動させる詞を紡いだ。
詠唱の完了と同時。純白のページに黒が溢れ出し、文字と情報の津波がアリシアを呑み込んだ。
「……当該当条件での検索を開始。……脳内へのアクセス許可を承認。……イメージの同期の完了を確認。検索開始を承認。……完了。……条件を再設定。条件に基づきより重要性の高い資料のピックアップを開始……」
膨張する宇宙のように、膨大な文字列が古書から濁流の如く溢れ出しアリシアを包むヴェールと化す。一しきり竜巻のように暴れまわった黒のインクの奔流は、しばらくすると帰るべき場所へと戻るようにページの中へと還って行く。
見たこともない形象文字のような物が、踊るようにページの上を脈動し、それは一つの意味ある文章を形作っていく。
パラパラと。白紙の上に文章が形成されると共に、風も吹いていないのにページが捲られ、新たに顔を出した白に次々と黒が刻まれていく。
既にアリシアの脳内イメージとリンクしているのか、文字列はひとりでにのたうち回り意味を刻んでゆく。
そして、アリシアが閉じていた目をゆっくりと見開くや否や、すぐさまその内容に瞳を細めた。
情報の海にその身も思考も沈め、膨大で莫大な文字列の中から必要な情報のみを抜粋し、処理していく。
神憑ったような半覚醒状態となったアリシアが、人工知能搭載の機械のような口調でボソボソと独り言を呟き始める。
「……安藤明理、笹倉謙人、枚倉麻里、大里聡美、米沢洋司、年齢性別容姿に神の力。身体的特徴、生活環境、さらには主義主張や趣味趣向も……、共通点はゼロ……否、違う? ……該当件数一。偶然にしては出来過ぎ……ならこれは……?」
疑問系の言葉に首を傾げると同時。
本の世界にのめり込む純白の少女が、ひときわ激しく身体を打ち震わせたかと思うと、独りでに動いていた黒のインクがその動きを止めた。
「……」
乾いた音と共にひとりでに古書が閉じ、答えを待ち望む沈黙だけが世界を支配する。
やがて、ゆっくりと顔をあげたアリシアが、熱の籠った長く細い息を吐いた。
「……結論から言おう。この五人の性格や神の力などに共通する点は一切見られない。住民を暴徒化させる神の力があったとして、標的になる条件は無作為の完全ランダムだとしか思えないのだ。……でも、たった一つだけ。偶然だとは思えない、無視できない共通点があったのだ」
アリシアはそこで一度言葉を区切って、
「こやつらは皆、『ネバーワールド』で起きたテロ事件を経験している。あの事件の生き残りなのだ……」
「え、それってどういう……」
理解の及ばない勇麻に変わって、レアードが一際深いため息をついた。
「やはりか。考えたくはなかったんだけど、最悪の展開になりそうだ」
「おい、それってどう言う意味だよ」
「簡単な話だよ。ある一定の条件下にある不特定多数の人間に、これだけ大規模に干渉できる神の能力者を僕は一人しか知らない。新たな真実を掴むつもりがとんだ答え合わせになってしまったって心境かな。……敵は創世会幹部、シーカーの『三本腕』が一人。クライム=ロットハートで間違いないだろうね」
☆ ☆ ☆ ☆
街が火の海に沈み、人々の阿鼻叫喚が木霊する。
突如暴徒と化した人達によって小綺麗に整った天界の箱庭の街並みが崩壊していくその光景は、まるでいつかの地獄の焼き直しみたいだった。
崩壊し、壊れ行く日常に対し、人々の反応は様々だった。
恐怖と涙を浮かべて命からがら逃げ出す人。
我が家が破壊されていくのを、茫然自失と立ち尽くし眺める人。
暴れまわる神の能力者に、果敢にも立ち向かおうとする人。
身内が突然暴れ出し、取り乱して周囲に助けを求める人もいた。
何が起きているのか分からない。
けれど明確に感じる。
これはあの時と同じだ。状況も規模も違えど、目の前で進行しているこの非日常は紛れもない悲劇だった。
悲劇の香りを前にして、けれど救いは訪れない。
願い求めた英雄はまだ遠く。求めるだけじゃだめだと自分を奮い立たせようとしても、震える膝に力は入らない。入ってくれない。
噛み締めた唇から、鉄と屈辱の味が滲む。
ただただ悔しかった。自分にはこの悲劇を打開するだけの力があるはずなのに。
その華奢な腕を一振りすれば、それだけでこの悲しみの連鎖を食い止める事ができるはずなのに。
はずなのに。はずなのに、はずなのに……!
誰かを救えるはずの力は、少女の思いには応えてくれなかった。微塵も。これっぽっちも。
(なんで……、なんでこんな……ッ!)
誰かを救えるだけの力をその身に宿した少女――天風楓は、何もできない無力な自分に憤り、もどかしさに歯噛みするしかなかった。
(今こそ、こんな時だからこそ力が必要なのに、それなのに……わたしは……っ!)
逃げ遅れ怪我をした人に肩を貸して、人々の避難を手伝おうとする楓を責める人など誰もいないだろう。
むしろ彼女の行為は賞賛を受ける類の物であり、実際、楓に肩を支えられた女性は何度も感謝の言葉を述べている。
けれども、他の誰が責めずとも天風楓自身が許せなかった。
本来ならば、この諍いさえも止められるだけの力が自分にはあるのに、それを満足に振るう事もできない腰抜けな弱い自分に強い怒りを感じる。
力を行使しようとする度に、腰が抜けるように身体から全ての力が抜けていくのだ。
原因は彼女の心。
ネバーワールドでの戦いで負った深い心の傷が、今も楓を縛り続けている。
(……こんな時に戦えないなんて、何の意味もないよ……っ、何でわたしはこんなに、弱いままなの……っ!)
ガラスに爪を突き立てるような不協和音が楓の心の中を掻き乱す。
自分で自分を壊してしまいそうな、そんな危うさが今の楓にはあった。
無力感に打ちひしがれ、結果としてその代償を払わされるのは罪なき人達だというその事実が、本人も気が付かないうちに楓の心を蝕んでいく。
まさに悪循環だった。
抜け出せない迷宮に迷いこんでしまったような絶望感。
きっかけ一つで、また力は戻ってくる物だとばかり思っていた。必要となれば、向き合う時がくれば。その時がくれば。そんな都合の良い事ばかりを考えていた報いがこのザマだった。
悲劇に対して目覚めるハズの勇者の力は失われたまま。
魔王の復活を指を咥えて眺めているしかない。
風を司り、全てを薙ぎ払う圧倒的な力も、その象徴たる背中に生じる竜巻の翼も。その全てを天風楓は失ったまま。
こんな非常事態だと言うのに、天風楓の神の力『暴風御手』は発動する気配も見せなかった。
理由など、分かり切っている。
──ただ、怖いのだ。
大切な人を自分の手で、自らの神の力で痛めつけた時の体の芯から凍えるようなあの感触が、あの恐怖が、楓の心を縛り付けて離さない。
自分の力が、また誰かを傷つけてしまうのではないか。
楓の意志とは無関係に振るわれる風の暴力が、大切な誰かを切り裂いてしまうのではないだろうか。
そんな悪い想像ばかりが脳裏によぎり、ますます楓に身動きを取れなくさせていた。
それでも、立ち止まる事だけは嫌で、強くありたいという思いだけは手放したくなかった。だから、脆弱な己の心に抗おうと楓は走る。惨めでもみっともなくとも自分にできる方法で抗い続ける。今自分にできる事を、全力で行う。
そうすればきっと、がちがちに怯える楓の弱い心も、また恐れずに一歩前へと踏み出せる時が来ると信じて。
助けを求める人に肩を貸し、怪我人の手当てをして、親とはぐれてしまった子供の手を握った。精一杯の笑顔を浮かべて皆を励まし、きっと大丈夫だと根拠もない無責任な言葉で場を鼓舞した。
見せかけでも、虚勢でも、それで誰かが救われるなら。強さを張れる。強く在ろうと。己を奮い立たせる事ができる。
そしてまた、助けを求める人の力になるために人混みへと飛び込んで行く楓は──正面、すっと視界の端から現れた人影と、衝突してしまった。
「きゃ!?」
「っ、と……」
そのままバランスを崩し、地面に尻餅を着く楓。
臀部に軽く衝撃が走る。
どうやら人にぶつかってしまったらしい。
熱中し、焦るあまりに周りが見えなくなっていたのだろう。
誰かの為に行動しようとして、人に迷惑を掛けていては世話が無い。本末転倒もいいところだ。
「あ、あの、すいませ──」
軽い混乱状態にある楓は、尻餅を着いたまま慌てて謝ろうとする。
が、衝突相手のどこか気の抜けたソーダみたいな声が楓の謝罪を途中で遮った。
「あぁ、俺チャンなら平気平気。良いって事よ。むしろカワイ子チャンとぶつかれてラッキー的な? スケラキちゃん発動的な?」
「は、はぁ。ええっと、……すけらきちゃん……?」
「まあとにかくそんな訳だから、俺チャンよりそっちの方が心配っしょ。ほれ、立てるか?」
顔をあげた楓の視線の先、そこにいたのはボサボサに傷んだ腰まで伸ばした金髪が特徴的な、チャラついた格好の若い男だった。
首からネックレスやらチェーンやらをジャラジャラとぶら下げたその男は、上から覗き込むようにして楓を見つめていた。
どこか面白い物を見るように細められたその瞳と目が合う。瞬間、理由は分からないがかすかな悪寒が楓の背中に走り、鳥肌が立った。
(……ッ!?)
流れるような自然な動作で、さも当たり前であるかのように倒れた楓に手を差し伸べた辺り、格好に見合わずに紳士で優しい心の持ち主なのかもしれない。
……先ほど感じた悪寒のような物はきっと気のせいだろう。初対面の相手にそんな印象を抱くなど、失礼にも程がある。
楓はそう頭の中でやや強引に結論付けると、今度はしっかりと「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えつつ、“男の手を取って立ち上がった”。
触れた手は生き物の物とは思えないほど冷たく、奇妙な感触を楓に伝える。
楓は何だか居心地が悪く、そのまま重ねて頭を下げた。
「あ、あの、こんな時にすみません。わたし、焦ってたみたいで、周りをちゃんと見ていなくて……」
「だからいいって、俺チャンが好きでやった事だし、ホントに感謝ちゃんされるような事をやった訳じゃないから」
男は、ニヤリと全てを見透かしたような人の悪い笑みを浮かべて、適当に手を振った。
そのあらゆる意味で軽薄そうな態度に、楓は何と返答していいか分からない。
結局、こちらに背を向けてふらふらと離れていく人影を眺めるしかなくなった。
「……なんだったんだろう、今の人」
天風楓は知る由も無い。
今彼女が接触したその人物が何者なのか、そして、楓から遠ざかる彼の顔に刻まれた凄惨な笑みの、意味なす所も。




