第八話 協力要請Ⅰ――待ち人は古書を抱きし白い少女
学生寮への帰路は、自然口数少ない物となった。
俯き、口元に手を当てて何かを考えるようにして、ここではないどこかへと瞳の焦点を合わせている勇麻と、そんな勇麻の様子を時折心配そうに横から覗き見ているアリシア。
二人の間に会話はなく、何度かアリシアが話掛けようと口を開きかけるものの、勇麻の煩悶として切羽詰まった表情に声を掛けるのを躊躇い、結果として諦めたように押し黙ってしまう。
普段ならそんなアリシアに言葉の続きを促す勇麻は、アリシアが何か言いたげな事に気が付きもしなかった。
……何か、あの会話の中に確かに存在した大切な事を見落としたのではないか。
そんな考えが勇麻の頭を支配し、いくつもの仮説や疑い、予想が頭の中で打ちたてられては、即座に否定されていく。
老執事の言った言葉の意味が、分からない。パンドラの行動を決定するものは全てパンドラ自身の意志であり、そこには何者の思惑も意図も存在しない。その言葉に、嘘があるようには思えなかった。
けれど、誤った道を進もうとするパンドラを、自分ではどうする事もできないのだと弱々しく嘆いた老年の従者の言葉の真意が掴めない。
そういう存在として造られた、とは一体――。
「――……分かんねえ……それともやっぱり、俺は何か重大な勘違いをしているってのか……?」
ボソっと独り言を零しながら勇麻は髪の毛を掻き毟って、唸るように舌打ちした。
初冬の刺すような冷たい空気が海風に乗って勇麻を震えさせる。空気が、いつも以上にその鋭さを増しているような気がした。
老執事の語ったように、ピリピリとした不穏な空気が辺りを包んでいるのが原因かもしれない。
ほぼ全方位から、大きくなったり小さくなったりしつつも絶え間なく聞こえてくるサイレンは、神狩りの警備車両の鳴らす物だろう。
どこかで……否、天界の箱庭の様々な場所で、彼らが出動しなければならないような事態が起きているのだ。
一瞬、勇麻は身体の中から湧き上がる衝動に突き動かされるような感覚を覚えて――
「――……」
深く溜め息を吐いて、首を横に振った。
別に、治安維持組織である神狩りが出動するような事態は、神の脳力者達が住まう天界の箱庭では珍しい事でも何でもない。
そんなのに一々反応していたら、身がもたないに決まっている。
というか、今も鳴りひびいているこのサイレンだって、どんな事件が原因で鳴っているかも分からないのだ。
案外迷子の子供を発見したとか、速度違反の車を追いかけているとか、そんな物かもしれない。
そもそも、勇麻が事件の現場に駆けつけなければならない理由など、どこにも無いではないか。
今までも見過ごしていた物を、今回も普通に見過ごして何が悪いというのか。そもそもどうしてこんな風に、自分自身に対して言い訳のような事をしているのか。
そこからして自分の思考回路が意味不明だ。
(――って、ホントに何考えてんだよ、俺。これじゃあまるで、動かない方が良い理由を探してるみたいじゃねえかよ……)
戦う為の言い訳ではなく、逃げる為の言い訳を探している自分がいる事に気が付き、勇麻は自己嫌悪に顔を歪ませる。
かと言って、どうしようもない。
こんな精神状態では、例え事件現場に行ったところで勇気の拳は満足な力を発揮する事もできないだろう。
そんな鬱屈とした気分でさらに十分ほど歩き続けると、ようやく学生寮が視界に入ってきた。
いつも通りの、己の日常。その帰るべき場所へと帰還した安堵感に、無意識に張っていた肩から力が抜けていく。
後はゆっくりとお風呂に入って、だらだらと寝るまでの時間をアリシアや勇火と過ごして、明日に備えて眠るだけ。
そんな風に思考のギアをチェンジしようとした時だった。
月明かりさえ届かない闇の中に、佇む一つの影に気が付いた。
東条勇麻の帰るべきいつもの日常。その風景に一つだけ、異物とも呼べる物が混じり込んでいる。
勇麻は訝しげに眉を寄せ、困惑のままに口を開いた。
「どうして、お前がここに……」
異物は勇麻の問いかけを軽やかに無視すると、その隣を歩くアリシアへと視線を向けて、優雅な立ち振る舞いで頭を下げてこう言った。
「久しぶりだね。神門審判アリシア。……いきなりで申し訳ないんだけど、僕たちに、アナタの力を貸して欲しい。同じ背神の騎士団の同志として、アナタと『天智の書』の力を」
勇麻達の暮らす学生寮の前。
そこに立っていたのは背神の騎士団所属の金髪長身の西洋人――レアード=カルヴァートその人だった。
☆ ☆ ☆ ☆
──詳しい事は歩きながら話す。
そう言ったレアードの言葉通り、三人は早足に夜の天界の箱庭を歩いていた。
「なあ、おい。結局何なんだよアリシアに頼みたい事って」
「相変わらず小うるさいヤツだ。人が話始めるまで静かに待つこともできないのか。犬の方がまだ利口だな」
「こちとらおまえ等の事情に巻き込まれてんだよ。状況説明を求める権利くらいはあると思うけど?」
「僕としては君を巻き込んだつもりは無いのだけどね。僕が力を貸して欲しいと頼んだのは神門審判のアリシアであって、東条勇麻などという田舎者に付いてきてくれと頼んだ覚えは一欠片もない。勝手に顔を突っ込んでおいて、図々しい事このうえないとは思わないのか? 日本人なら日本人らしく、少しは遠慮深さってものを見せて欲しいものだけど、君みたいな神経が図太い人間を日本人と同じ括りにしては日本人に失礼か」
「……お前さ、憎まれ口叩かないと碌に会話もできないの? そんなんじゃ話相手すらいなくなるぞ。いやマジで」
「ふん、余計なお世話だ。別に会話相手を求めて組織に入った訳じゃない」
「話し相手は姉ちゃん一人で充分ってか? やっぱり真のシスコンは言う事が違うな」
「……悪いが、今、姉の話を出されて正気でいられる自信はないんだ。少し黙っていろ」
「今までが正気だった事に驚きだよ」
お互いに一通り罵声を浴びせ合うと、レアードも言葉を返すのが面倒になったのか、最後の小言は無視された。
剣呑な視線を交錯させたまましばらく沈黙が続き、やがて視線を外したレアードが何かを切り替えるように声のトーンを一段落下げてこう尋ねた。
「東条勇麻、君はニュースを見る人間か?」
「あん? 何でまたいきなり」
「その様子だと、知らないようだね」
露骨なため息を吐き、レアードは手元のスマートフォンを操作する。
勢いよく勇麻の顔面目掛けて突きつけられた液晶画面の中では、何やら殺気立った大勢の人々がプラカードや横断幕を手に大きな道路を埋め尽くしている動画が再生されていた。
彼らが何を叫んでいるのかは分からないが、少なくとも友好的な内容で無いことは理解できる。
言葉や表情から溢れ出る怒りの感情が、その集団を埋め尽くしていたからだ。
中には警官隊と衝突したのか、血を流している若者の姿も見受けられた。
「これは……」
「痛そうなのだ……」
「世界各国で突発的に発生した、デモの映像だ。半ばというか、ほとんぼ暴徒になりかけてるけどね。彼らの主張は神の能力者の人権の撤廃。天界の箱庭を含める、神の能力者を受け入れている実験都市の解体とそれに代わる新たな収容施設の建設……ってトコかな。簡単に言うと神の能力者排斥運動みたいなものか」
レアードは懐にスマートフォンをしまって、
「元より、そうした活動を行っていた団体は外の世界には数多くあった。が、今回は規模と速度が異常だ。まるで石油タンカーに火を放ったみたいに、爆発的な勢いで世界各地でこの手の運動が激化している」
「ふむ、デモの事は私や勇麻も何回かテレビでやっているのを見たのだ。ただ……」
痛々しい光景に目を細め言い淀むアリシアの言葉を、勇麻が引き継いだ。
「あぁ、ここまで酷い状況になってるなんて思ってもなかった……」
勇麻達がニュースで見た映像は、当たり障りの無い部分のみを抜粋して編集した物だったのだろう。
勇麻達がニュースで見た映像やキャスターの読み上げた記事からでは、ここまでの大事になっているとは予想する事はできないだろう。
ここまで多くの人が神の能力者に対して悪感情を抱き、自分が傷つく事も厭わずに行動しているという事実に、自分の心が想像以上に衝撃を受けている事に気づく。
思った以上に、勇麻は自分達に向けられる差別の目への体性が無いのかもしれない。
勇麻たちが外の世界にいた頃、まだ幼い弟の勇火に向けられる奇異と畏怖の混じった視線に言いようの無い恐怖を感じた事もあるが、それだけだ。
勇麻の両親が神の脳力者を差別しない人だったという事もあるだろうが、天界の箱庭に住んでいる限り、こうした神の脳力者に対する差別に触れる機会はそこまである物ではないのだ。
「どういう訳か、創世会は今回の件について緩くではあるが報道規制を敷いてるらしい。外の世界の報道機関の方が、今回のこの騒動について取り上げているくらいだ。まるで僕達神の能力者に、この致命的な流れに気付かれたくないみたいに」
「……外の世界の状況は何となく分かった。でも、それが今の俺達の状況と何の関係があるんだ?」
「関係ならあるさ。それはだね……」
三人の会話に割り込んで来た靴音が、レアードの説明を中断させた。
「……っと。なんだ、僕らの会話を盗み聞きしてたんじゃないかって言うレベルの丁度いいタイミングだね。説明の手間が省けそうだ」
「なん、だ……? この人達、様子がおかしくないか……?」
レアードが皮肉を込めた軽口を叩き、肩を竦める。その視線の先に立っていた三名の来訪者は、その誰もが様子がおかしかった。
「……力を」
「……特別を」
「……絶対を」
二十代前半くらいの女が一人と、大学生くらいの男一人と中年サラリーマンが一人。焦点の合わない虚ろな目で虚空を睨み、同じ単語を何度も何度も壊れたラジカセのように繰り返している。
ふらふらと酔っ払いのように頼りない足取りで、横から手で押せば簡単に倒れてしまいそうだった。
タチの悪い酔っ払いか何かか? と、勇麻が適当に考える。横ではアリシアが、小首を傾げてそのおかしな挙動の三人を眺めている。レアードただ一人が、何か事情を知っているような様子だが、特にこれと言って説明する気もないらしい。
そして三人の内の一人が、勇麻達の事を視界に捉えた瞬間だった。
耳を凝らさなければ聞き取れないような呟きが一転、自らの喉を引き裂くような絶叫に転身した。
「ッ!? アリシア、さがれ!」
絶叫と共に拳を振りかぶり真っ正面から突っ込んでくる男に、勇麻は反射的に腕を横合いに広げ、アリシアを庇うように一歩前に出る。
男は、そんな勇麻の動きなど全く意に介していないのか、そのまま全力で振りかぶった拳を振り抜いた。
骨と肉の衝突する、思わず目を瞑りたくなるような生々しい音が響き、頬骨を思いっきり殴られた勇麻の靴底が僅かに跡を引いて後ろに下がる。
が、
「そんな拳……効かねえよ……ッ!」
勇麻の足裏が、体勢を整えるようにそのまま地面の上を滑る。
そのまま身体を半身に、返す刀で引き絞った拳を前方の男へ目掛けてまっすぐに打ち出した。
先ほどの音を数倍に増幅したような音が響き、勇麻に襲いかかった男の身体が宙を舞う。
感情……つまりは気持ちの乗っていない、乱暴にただ振るわれただけの拳で倒れるような柔な道を歩んできたつもりはない。
精神論など馬鹿馬鹿しいと笑われるかもしれないが、東条勇麻の神の力はその精神論を具現化したような力なのだ。
「レアード。これはどういう、事だ! 説明……しろ……ッ!」
さらに続けて跳びかかる男と女をそれぞれ右のローキックと左の裏拳で牽制しつつ、勇麻はレアードに叫ぶ。
対して事態の説明を求められた金髪の長身は、それが何でも無い事であるかのように、
「あぁ、外の暴徒と一緒さ」
「なに?」
「言っただろ、関係ならあるって。おそらく彼らは、何者かの神の力による干渉を受けている。……おっと、気を抜くなよ東条勇麻。次が来るぞ」
「な、おまっ……他人事みたいに言ってないで手伝えよこの馬鹿野郎……ッ!」
喧騒の匂いを嗅ぎつけてきたのか、追加補充された虚ろな瞳をした人の集団に呑み込まれ、勇麻の姿が人ごみに消えていく。
☆ ☆ ☆ ☆
ボロ雑巾のような有り様になりながらも、どうにか暴徒と化した人々の群れから脱出した勇麻はレアードとアリシアと再び合流していた。
数が集まり過ぎた為、本来の目標であった勇麻を見失った人達は、手当たり次第に暴れ回っているような酷い状態になっている。食事の途中で餌をお預けされた猛獣のようだ。
何の策も無しにあの集団に飛び込むのは得策じゃないと、素人の勇麻でも分かる。
それに多勢に無勢を覆せるような強力な神の力を持っているならまだしも、勇麻の力は多対一に適しているとは言い難い。
レアードなら問題なく対処できるのだろうが、当の本人にあの暴徒達を相手にするつもりがないようだ。
レアードは全く心の籠っていない称賛の拍手を送りながら、ぬけぬけとこう言ってのけた。
「うんうん。生き餌役ご苦労、東条勇麻」
「生き餌言うな、せめて囮とか陽動とか何か言い方ってのがあるだろ……」
ぜえはあと吐く息荒く言葉を返す勇麻の言葉にも、先ほどまでの余裕はない。
膝に手を突いて肩を上下させる勇麻の顔を、心配の色を薄っすらと滲ませたアリシアが下から覗き込んで、
「大丈夫だったか、勇麻?」
「ああ、俺は何とかな。そっちこそ、そこの腹グロ金髪ノッポに変な事されなかったか?」
「うむ。レアードは私には優しいからそんな事はしないのだぞ」
「そういやそうだったな。……シスコンだけじゃ飽き足らず、ロリコン属性まで追加なのか……」
「何か言ったかい? 東条勇麻」
「なんでもないです」
レアードがごっつい棍棒のような両手剣を地面から創製し始めたので慌てて首を振って否定した。
素手と鈍器で殴り合えばどちらが有利かなど馬鹿でも分かる。
「つーかお前、具体的にそれ何やってんの? 人攫い? ……いよいよ本格的に犯罪に手を染めたって認識でいいのかそれは?」
じっとりとした目で勇麻が睨むのは、レアードがその肩に担いでいる女性だ。
まるで物干しざおに掛けられた布団のようにぐったりとレアードの肩の上で意識を失っているその様は、荷物のような扱いにも思えて少し不憫だった。
さきほど勇麻が撃退した、暴徒化した住民の一人だろう。
いよいよ特殊性癖を通り越して、実行犯か。現行犯逮捕なのか……と、勇麻がくだらない事を考えていると、レアードは付き合いきれないとばかりに首を振る。
「馬鹿を言うな。サンプルを確保しただけだよ」
「サンプル?」
「忘れたのか? 勇麻。レアードは言っていたのだ。この人達は神の力による干渉を受けている、と。ならば問題解決の為に、どんな神の力が彼らに干渉しているのかを調べるのは当然の事なのだ。そして、その調査の為には実際に干渉下にある人物を確保するのがてっとり早い。……おそらくそれが、私の呼ばれた理由でもあるのだろう?」
己の首からぶら下げられている古書に優しくその手で触れながら、アリシアは真剣さの宿った蒼い碧眼でレアードの真意を問いただした。
レアードは首肯を一つしてから、そのモデルのような端正な顔に微苦笑を浮かべて、
「流石は神門審判だ。どこぞの出来損ないと違い、理解が速くて助かるね。アナタの仰る通りだ。背神の騎士団の同志としてアナタに頼みたいのはまさにそれだ。今起きている住民達の暴徒化の原因を、アナタと『天智の書』で調べて貰いたい」
予想していたのか、特に驚く気配のないアリシアと、分かりやすく驚愕と動揺の気配を晒す勇麻。
そんな両者それぞれの反応を気にも留めず、レアードが手近なマンホールの蓋を軽々と持ち上げると、そのまま迷いない動作で下水道へと飛び降りて行った。
「……は」
「……消えたのだ」
ややあって、二人が続いて降りてこない事に気がついたのだろう。少しばかり苛立ち混じりの声が、二人を急かすように地の底から這い上がってくる。
「何をやっているんだい? アリシア。こっちだ。早く」
「……はぁ、ほんとブレないな」
指示語が告げるように、全てアリシアに向けた言葉なのだろう。
別に東条勇麻は呼んでいないし必要もない。何なら今から帰って貰っても構わない、という露骨なまでの意思表示を感じるのは、流石に邪推が過ぎるだろうか。
勇麻は溜め息を一つ吐きながらアリシアに目配せすると、下水道へと通じる剥き出しの鉄製のタラップをアリシアを背負いながら降りて行く。
下水道内は予想よりは清潔で、少しばかり鼻を刺す刺激臭さえ気にしなければ何の問題もなく通路として活用できそうではあった。
「で、なんでまたこんな所に?」
「地上だと誰の目があるか分からないからね。下水道から、地下の隠し通路に出るのさ。なにせこれから向かうのは背神の騎士団の本拠地なんだから」
そんなとんでもない爆弾発言が、レアード=カルヴァートの口から飛び出したのだった。




