第七話 暗雲たる空Ⅲ――食後の対話は寒空の下
勇麻達の暮らす学生寮は天界の箱庭北ブロック第五エリアの学生たちの居住区にある。
第五エリアは基本的に中学生以上の学生たちの居住区であり、学校施設に学生寮やマンション、アパートなどが多く立ち並ぶエリアだ。小学生も住んでいない事も無いが、比率で言えば中学生と高校生の数が断トツで多い
エリアの特性上、娯楽施設はほとんどゼロに近いものの、学生が日常生活を送る為に必要な店舗は一定数揃っている。
財布に優しいお手頃さで知られるイタリアンなファミレスもその一つだ。多忙な金欠学生にとっては、短時間で格安の料理をそれなりのボリュームで提供してくれる店舗の有無は割と死活問題で必須事項なのだ。
そんな訳で、きちんと『ほうれんそう』もできないバカ弟の事は放置してゼリアを訪れた勇麻達一行。
夜八時前の夕食時とは言え今日は平日。店内のテーブルを占拠する客数もまばらで、空席の方が目立つくらいだった。
特に待つことも無く、勇麻達はウェイトレスさんに案内された席に座った。
パンドラは今までこういった店に来た事がなかったのか、その薄紫色の瞳をやけにキラキラと輝かせながら、初めて遊園地を訪れた子どものようにキョロキョロと辺りを見回している。
物珍しげにワイヤレスチャイム――店員を呼ぶ時に押すベル――を指でつついたり、覗きこむように眺めたり、まるで魔法の書物を見つけたかのようにメニューを開いて感嘆の声をあげたりしていた。
ペット同伴可だった為店内に入る事を許可されたエルピスも、パンドラに抱きかかえられたまま、やや警戒心を抱きつつ周囲の匂いをしきりに嗅いで鼻を鳴らしている。周りから漂う良い匂いが、犬の嗅覚を刺激するのだろう。
外食に行くと宣言した時のポカンとしたパンドラの様子から何となく予想はしていたが、この反応を見る限り、勇麻の予想は正しかったらしい。
おそらくパンドラは、ファミレスなどという外の食事施設を使った事がないのだ。
好奇心のままに初めて見る物全てを吸収しようとするパンドラ。
今の彼女にとっては、こんな格安イタリアンレストランでも、宝の宝庫であり未知の詰まった冒険の場なのだ。
勇麻は、そんなどこか微笑ましくも悲しい光景を眺めて、ぼそっと零すように言った。
「……まるでちょっと前のアリシアだな」
「む、私はあんな風にちょろちょろしていなかったぞ。落ち着きのあるれでぃの振る舞いをしていたはずなのだ」
「まあ確かにな。緊張で身体ガッチガチで、右手と右足が同時に出てたくらいだもんな。……そうなると、むしろエルピスに近いか」
「な、ペットと同等の扱いだと……!?」
「まあ、居候の穀潰しって、言い換えるとそうともとれるわな」
納得がいかないとばかりに頬を膨らませながら否定するアリシアだったが、パンドラの様子が気にかかるようで、彼女から視線を外そうとしない。
やはり、その姿にどこか自分を重ねて思う事があるのだろう。
パンドラとアリシアは性格は違えども、どことなく共通点が多いような気がする。
友達の作り方さえも知らず、奴隷だの下僕だの時代錯誤な事を口走り、ファミレスを訪れた事も皆無という世間知らずで常識知らずなパンドラは、長い間実験施設に監禁されていたアリシアの状態を彷彿とさせるのだ。
それ以外にも、その身に纏う常人離れした独特の雰囲気や容姿。
幼いながらに何かしらの事情を抱えている(パンドラは推測に過ぎないが……)点。
年齢住所現在所属している学校すら不明、などなど……。
色々と謎が多く、自分の事をカミサマだと名乗るどこか意味深なこの少女は、端的に言ってアリシアと同じ匂いがするのである。
勿論、物理的な話ではなく、雰囲気や感覚的な方の話だ。
そして、パンドラがこの年になるまで外の世界に触れられなかった原因こそが、彼女の抱えるであろう何らかの事情に関係あると勇麻は踏んでいたのだが……。
(この手紙の文字からは、どうも悪意は感じないしなー。パンドラ自身、この『爺や』って人に懐いてるっぽいし、かなり信頼を置いてるみたいなんだよなー……)
ま、迎えに来るって手紙に書いてあったし、色々な事を確かめるのはその時でいいか、と。勇麻は思考を切り替える。どちらにせよ、パンドラが複雑な環境下で育ったてきた事については間違いないだろう。
我ながらお節介だなーと思いつつも、こうして知り合い仲良くなって、友達になった以上はそれを看過するつもりもなかった。
それが正しい事なのか間違った事なのかはともかく、友達の一人もできないような生活をパンドラに強いているのであれば、容赦なくお節介な人になろうと、そう決めて。
「ゆうま、アリシア、何をしているのじゃ! はやく料理を頼もう!」
「ん、ああ。分かった、分った。分かったからナイフとフォークを握りしめてテーブルをガンガン叩くのやめなさいお行儀悪い。というか、パンドラはもう食べたいモノ決まったのか?」
「まだじゃ!」
「堂々とまだなのかよ。……まあいいや、それじゃあ、ちゃっちゃと決めちゃおうぜ」
今は皆で食卓を囲む事の喜びを噛み締めようと、そう勇麻は思うのだった。
騒がしくも楽しい食事の時間はあっというまに過ぎた。
調子に乗って東条家のお財布事情を考慮せず山ほど注文しようとしたパンドラの脳天に軽く拳骨が落とされたり、頼んでもないドリンクバーを勝手に使ったアリシアとパンドラのせいで追加オーダーをする羽目になったり、ウェイトレスさんから直接料理を受け取ろうとしたパンドラが旗付きお子様ハンバーグプレートを盛大に床にぶちまけて大泣きした結果、店員さんが平謝りしつつ新しく作った料理を持ってきてくれたり、パンドラがトイレに行くと言ったきり店内で何故か迷子になっていたりと、ちょっとしたハプニングはいくつかあったものの、特に大きな問題もなく、楽しく賑やかな時間を過ごす事ができた。
(さてと、帰りは迎えに来るって書いてあったけど、どうするつもりなんだ? 連作先はおろか、お互いの名前だって知らないってのに……)
会計を済ませた勇麻はどこか他人事のように頭の中でそう言うと、今も店の外で仲良くじゃれ合う二人と一匹に目をやった。こうして眺めていると、何だか本当に仲の良い姉妹のようにも見えてくる。
思えばアリシアの知人友人は、勇麻自身を含め彼女よりも年上の人間ばかりだった。パンドラが何歳なのかは知らないが、少なくともアリシアより年上だという事は無いハズだ。
年下の妹のような存在が出来た事が、アリシアもきっと嬉しいのだろう。
パンドラとじゃれ合う彼女の顔は、どこかお姉さん風をふかせているようで、得意げだ。
微笑ましい光景に胸を満たしつつ、勇麻はさてどうしたものかと視線を巡らす。当然、パンドラの保護者を名乗り出るような人物の姿は見当たらない。
パンドラの方から何か連絡をするのかとも思ったが、ケータイなどを持っているような素振りはないし、彼女自身に件の爺やと連絡を取る気が無さそうだ。
となると、今日はこのまま居候一人と一匹追加になるのか……と、勇麻が早計に全てを投げ出した結論に落ち着こうとしたその時だった。
「パンドラお嬢様」
声は、闇の中から響いた。
数瞬前まで確かに誰もいなかった街路樹の下、その老人は立っていた。
――執事服の良く似合う、白髪の好々爺だった。
年齢は八〇を越えるであろうに、曲がる事なくきりっと伸びきった背筋。年齢を感じさせない精悍な顔立ち。口元には柔和な微笑を浮かべ、その瞳には理知的で聡明な輝きが今も強く灯っている。
どこからどう見てもただ者には見えない。
「お、じいや……!」
老執事の声に気が付いたパンドラが声をあげる。
パッとあげた顔に喜色が浮かぶのを見ていると、パンドラとこの執事とが極めて好ましい関係にある事がよりはっきりと分かった。
パンドラはアリシアの手を引きながら、その老執事の元へと走り寄って行って、
「じいや、あのな。今日はな、この二人のおかげで楽しかったのじゃ!」
「そうでございましたか。それは良かったですね」
そんなパンドラを柔和な笑みを浮かべて迎え入れる老人はアメジスト色の美しい髪の毛を丁寧に撫でつけると、次に視線をアリシアと勇麻に向けた。
老執事は、そのまま腕を折り恭しく頭を垂れ一礼する。
「……そちらのお美しい白いお嬢さん。我が主、パンドラお嬢様と仲良くして頂き、ありがとうございます」
「む、私は感謝される事をした覚えはないのだ。ただ私の友達と遊んだ。それだけの事なのだ」
「……これは失礼致しました。なるほど。友達、ですか。……いいお言葉だ。私も耄碌しましたな。確かに、友情に感謝など不要。それ以前に、そんな物は最大の冒涜だ。重ねて失礼を謝罪申し上げます」
「むむ、別に謝罪も求めていないのだが……」
どこか困ったように頬を搔くアリシアを優しい視線でしばし眺めてから、次に老執事の視線が勇麻を射抜く。
そして今度も、アリシアの時と同じように慇懃に腰を折って頭を垂れお辞儀する。
「……此度はパンドラお嬢様にお付き合い頂きありがとうございます」
「アリシアも言ってたけど、感謝なんていらねーぞ、別に。全部俺がやりたくてやった事だ」
「ええ。承知しております。失礼な事を言っている自覚もあります。故にこれは私めの自己満足。どうでもいい感傷に浸る哀れな年寄りの言葉として聞き流していただきたい」
言って老執事は再び深々と頭を垂れた。
勇麻はその言葉に特に答えなかった。答える意味も、理由も特に見当たらなかったのだ。だって、友達と喋って遊んで一緒にご飯を食べる事は、絶対に感謝をされるような特別な事ではないから。
だがそれでも、目の前の老人がパンドラに友達が出来たことに安堵と喜び、感動を覚えている事は疑いようも無く理解できた。
それはつまり、親愛の情はパンドラからの一方通行ではなく、この従者と幼き主人は確かな絆で結ばれている事の証明でもあった。
何というか、孫思いの人の良いおじいさんにしか見えない。
いよいよ、勇麻の抱いていた疑惑そのものが疑わしくなってくる。
眉間に皺を寄せ、何やら複雑で難しい顔をする勇麻に、顔を上げた老執事が少しだけ破顔する。
それから、老人はまるで勇麻の心の中を読んだような言葉を投げかけてきた。
「――よろしければ少し、話をしませんか。何やら聞きたい事がおありのようだ。この老骨でよろしければ、お相手になりますぞ」
☆ ☆ ☆ ☆
「今夜は月が見えませぬな。それにこの天気、一雨来そうだ……」
老執事の言葉通り、頭上の夜空は星ひとつ見えないどんよりと重い曇り空だ。
吹き荒ぶ冬の風に、どこか雨の匂いが混じっている。こうなると、本当に一雨来るかもしれない。
周囲に人影は見当たらない。
少し離れた所で、パンドラとアリシアが遊んでいるが、二人の会話がこちらに聞こえないのと同じように、勇麻と老執事の会話もまた彼女達には聞こえない。
「……さて、と。まず一つ確認を。アナタ様が聞きたい事は、パンドラお嬢様に関わる事ですね?」
「!?」
「なに、そんなに驚くような事ではございませぬ。アナタ様がこの老骨めに話があるとするならそれは、パンドラ様の事意外にあり得ない。アナタ様と私の中での唯一の共通の話題でございますからな」
勇麻としてはそもそも、老執事に聞きたい事があると見抜かれていた事が衝撃だったのだが、そちらに対してのフォローや言い訳はなかった。
「……とはいえお嬢様に真摯に向き合ったのであれば、疑問を抱くのも当然なのでございます。あの方の人生は、少々以上に波乱に満ちている。あまりにも数奇で悲劇的だ」
「それは、つまり。何かあるのか……? 俺が予想したような、あってはならない何かが。……俺は、アンタが悪い人だとは思えない。だけど、それでもあの子を取り巻く環境は絶対に異常だと思った。だって、あの子は『友達』って言葉の意味さえも知らなかった。まるで、生まれて初めて外の世界に触れた幼子みたいに、どうでもいいような事にさえ目を輝かせていた。……あの子は一体どこの誰のどんな思惑に巻き込まれている? アンタは何を知っている……?」
思い出すのは、かつて勇麻に助けを求めたアリシアの不安に満ちた顔。
九年間もの間、実験体として研究機関に監禁され続けたアリシアの、悲劇的な運命。地獄のような、けれど大切な失われし過去の記憶。
もしパンドラが、アリシアと同じようにそんなどうしようもない何かを抱えているとするならば。
「何を知っているか……そう問われれば、全てを、でございます」
老執事は躊躇う事無く、そう言い切った。
それはつまり、自分自身もパンドラを巻きこむ何かの関係者であると認めるような物だ。
けれど、続く言葉が勇麻を混乱させた。
「全てを知る私は、けれどパンドラお嬢様の為に何をする事もできませぬ。所詮私は従者です。パンドラお嬢様の事を如何に思おうとも、パンドラお嬢様の命に逆らう事は出来ません。……パンドラお嬢様は、あのお方はどこまでも純粋だ。簡単に悪にでも善にでも染まる。さながら無限の可能性を持つ透明なキャンパスだ。けれど、全ての可能性をその身に宿すという事は、破滅の運命さえも背負うという意味なのです。透明な水に一滴の絵の具を垂らせばどうなるかなど明白。誰かの悪意的な意図によって、色はいくらでも捻じ曲がる」
「何を、言っているんだ? あの子は、パンドラは、そんな簡単に悪に染まったりしねえだろ。確かに、物事を知らなすぎるし、そのせいであまり良くない発言をする事もあった。でもそれは、周りの人間が教えてやればいい事だ。もっと信頼してやってもいいだろ。アンタが育てたあの子は、ちゃんと素直でいい子じゃねえか」
相手に理解させる気の無い老執事の言葉に動揺した。故に勇麻は思うままに言葉を並べ、そこで自分が言及している話題がズレている事に気づき、慌てて修正する。
「……と、ちょっと待ってくれ。問題は、話はそこじゃねえ。あの子が良い子なのは今更論じるまでもない事だ。俺が聞きたいのは、あの子が何に巻き込まれているかについてだ」
「巻き込まれている? ……一つ、誤解がおありのようだ。パンドラお嬢様は、自らの意志で全ての事をなさっておられる。そこに他者の意志など介在する余地はない」
予想外に鋭い声色で告げられたその言葉を理解するのに、勇麻は少しばかり時間を要した。
僅かな空白の時間の後、周回遅れだけは必死に避けようと、勇麻の理解を求める声が響く。
「…………え、ちょ。待ってくれ。話を整理させてくれ。要するに、パンドラがあの歳になっても世間知らずで、友達って言葉さえも知らないような生活を送って来たのは、全部アイツ自身の意志であって、誰かに強制されたからとか、あの子の生活環境が過酷だからとか、そういう訳じゃないって事か?」
「ええ、その通りです。パンドラお嬢様の行動を決めるのは、全てパンドラお嬢様自身だ。そこには誰の意志も意見も思惑も、何一つ存在しません。勿論、この老骨のものも含めて」
「でも、それじゃあ。あの子は、自らそう望んだ結果、世界を、世間の事を何も知らないままあの年齢まで成長しちまったって言うのか……!? 同年代の友達もいない、他者とのコミュニケーションの取り方も、社会の常識も無い、まともに外に出る事も無いまま、ずっと今まで過ごして来たって言うのか……!?」
確認するように繰り返すそれは、疑問への解答でも肯定でもなく否定を求めた言葉だった。
けれど、
「ええ、そういう事です」
余りにもあっさりと、それが当然の事であるかのように、老執事はゆっくりと首を縦に振った。
その言葉が、その態度が、どこまでもどこまでも東条勇麻を苛立たせて、気が付けば勇麻は叫んでいた。
「ふっざけんな……。ふざけんなよ! アンタ、あの子の従者なんだろ!? だったらそんなの、あいつの親とアンタの責任じゃねえか。パンドラは悪くねえ。むしろあんな子供に、そんな過剰な自由を与える事の方が間違ってるんだよ! 何もかも縛り付けるのも間違ってるけどな、それと同じくらい何もかも放ったらかしにするのも間違ってるんだよ! 子どもが正しい方向へ進むように導いてやんのが、保護者の責任ってもんじゃねえのか? あの子が、何も知らないまま世界に出て、それで一番苦しむのはあの子だって、何で誰も気が付かない……! どうしてこんな誰の目にも明らかな問題を、アンタみたいな大人が放置してるんだ!」
年齢的にも、そしておそらく人間としても明らかに目上の相手に対して使うべきではない手荒な言葉で、勇麻は老執事に噛み付く。
だが、それでも、目の前の聡明な老人の無責任な言葉に、どうしても我慢がならなかったのだ。
心の中に巣くう真っ黒な何かが破裂しそうになるのだけは懸命に堪えながら、それでも思ったままの飾らない言葉を叩き付けた。
感情的になって吐き出した言葉に後悔はある。だが、反省するつもりは微塵もない。なぜなら勇麻には、自分が言った事は決して間違いではないという確信があったから。
そして老執事も、つい先ほどの鋭い語調が嘘のように疲弊しきった表情で瞳を伏せ、勇麻の言葉に弱々しく頷いたのだった。
「……返す言葉もございません。アナタ様の言う通り、誰かがパンドラお嬢様を、正しき方向へと導いてやらなければならなかった」
「だったら――」
「ですが私には、それが不可能なのです。私は、パンドラお嬢様の命に逆らう事はできない。例えパンドラお嬢様が選択を違えようとも、私では、お嬢様を見守る以外の選択肢を掴み取る事ができない。なぜなら私は、“そういう存在として造られた”から」
「? それは、一体どういう――」
どこか婉曲した不可解な回答に思わず首を傾げる勇麻。しかし老人は勇麻の疑問に取り合う事無く、少しばかり早口にこう続けた。
「……少しばかり喋りすぎてしまいましたかな。もう、夜も遅い。それに、先ほどからなにやら辺りの空気が殺気立ってきている。今日はこの辺りで、お暇させてもらいましょう」
老執事がパンドラの名を呼ぶと、パンドラはアリシアの手を引きながら満面の笑みと共にこちらに駆けてくる。
「なんじゃ、じいや。もうゆうまと話とやらは終わったのか?」
「ええ、お嬢様。ですから、そろそろ私達も帰りましょう。いつまでも“東条勇麻殿”にご迷惑を掛ける訳にはいきませぬ」
「む、それもそうじゃの。じゃあなアリシア、ゆうま。今日は楽しかったのじゃ。また明日な!」
「うむ。また明日なのだ」
「……お、おう。じゃあな。つーか、明日も来る気まんまんなのかよお前……」
手を振りながら後ろ向きに歩きはじめるパンドラとは裏腹に、老執事はその場で立ち止まったまま勇麻から目を逸らそうとしなかった。
やがて、こんな言葉を残して、彼はパンドラの幼い背に続いてその場を後にしたのだった。
「東条勇麻殿、図々しい申し出だという事は百も承知です。ですが、もしできるのであれば、これからもパンドラお嬢様の事をよろしくお願いいたします。……それでは。帰り道、くれぐれもお気を付け下さい」
無邪気な微笑を浮かべエルピスを抱えたまま手を振るパンドラに手を振り返しながら、しかし内心、勇麻は得体の知れない恐怖にも似た感情を覚えていた。
(……あの爺さんの前で一度も名前なんて名乗ってないってのに、どこで俺の名前を知ったんだ……? それに、造られたって……あの言葉の意味は一体――)
もやもやとした後味の悪い感触だけが残り、老執事との対話はその幕を閉じた。
パンドラという少女についての謎ばかりが深まった、というどうにも割り切れない結果と共に。




