第※話 思惑蔓延る世界の行く先は……
天界の箱庭中央ブロック第一エリア。
治安維持部隊である神狩りの本部や裁判所などの様々な重要施設が集まる中央ブロックは、この街の中枢だ。
そんな他ブロックとは一線を画す中央ブロックの中でも、とりわけ第一エリアはさらに特別で重要度の高いエリアだと言えるだろう。
『創世会』。
天界の箱庭の心臓にして頭脳といえる組織。
立法、行政、司法、その他ありとあらゆるこの街の全てを司り、さらには天界の箱庭最大の研究機関でもある最重要機密機関。
徹底的な情報管理という名の規制によってその全貌は謎に包まれていて、誰もが知る名前であるにも関わらず、誰一人としてその実態を知る者はいないという、この街最大のトップシークレット。
堂々と日常の中に屹立する都市伝説。
そんなこの街の頂点に立つ組織の本部ビルが、この中央ブロック第一エリアに聳え立っているのだ。
本部ビル周辺には大量の神狩りが常時配置されていて、少しでも不審な人物が近づこうものなら即座に数多の強力な神の脳力者によって包囲され、身柄を確保される事になるだろう。
その練度の高さは、たとえ干渉レベルAクラスの神の能力者に攻め込まれても落ちる事はないと噂されている程で、まさに難攻不落の城塞と化していた。
そんな大仰な警備によって守られたビルのその中、外の警備と比べて不自然な程に人のいないその空間に年齢不明の男が一人。
「……ふむ、君達の時間の尺度に合せるのならばここは……久しぶり、と。そう言うべきなのかね?」
薄暗闇に浮かぶ蝋燭の微かで不確かな灯りが揺れるたび、影がゆらゆらと蠢く。
等間隔にどこまでも無限に続く蝋燭の並びは、その目で追いかけていくと頭がおかしくなってしまいそうだった。
それくらいに、この部屋――空間はあまりにも巨大で、縮尺がおかしい。
そんな広大な空間にポツンと鎮座するアンティーク物の肘掛に手を組んで優雅に腰掛けるのその男は、その身の周りにあるどんな調度品にも負けぬような優雅な微笑みを浮かべていた。
特徴的な――むしろ特徴を探すなと言われるほうが難しいような男だった。
一九〇に届くだろう身長。
さらに足元まで伸びる長い髪の毛はくすんだ死の灰色。
白髪染めに失敗したような中途半端さからは、髪の毛が随分と痛んでいるのが察せられる。見ただけで年齢を感じさせる色だった。
けれどそうすると、不自然なのはその顔立ちだろう。
目鼻立ちの整った端正な西洋風のその顔は、誰がどう見ても二〇代前半。
若く美しい瞳に灯る妖しい輝きは、何とも形容しがたい危険な妖艶さと老獪さに満ち溢れていて、いくつもの時代を眺めて来たであろう事を感じさせる。
どこか古びた死灰の髪の毛との取り合わせは、誰がどう見てもアンバランスで違和感しか感じない。
その身を包む白を基調とした簡素な衣服には、贅沢な装飾も、何も施されていない。
むしろ前時代を彷彿とさせるような、質素な物だった。
薄明りを受けて輝く健康的で滑らかな若々しい白い肌とは対照的に、爪はボロボロで酷く欠けて腐ってしまっていた。
どこまでもちぐはぐで、見る者にどうしようも違和感を与える年齢不詳のその男。
全体的に評すると一言、気味が悪い男だった。
そしてその男の独り言のような言葉に応える声が一つ。闇の中から浮かび上がる。
「シーカーチャンおっひさー! ちゅーかまーじで懐いんですけど。だって俺チャン達『三本腕』の一人“白衣チャン”が殺されちゃって『二本腕』になってから開催すんのって今日が初めてチャンだし? 最後にやったのなんて四か月も前だぜ? いやーくっそ懐かしいわー」
「ふん、相変わらず不快な言葉遣いをする餓鬼だわい。クライム=ロットハート。儂は貴様の顔を見ずに済んだこの四か月が名残惜しゅうてならんわ」
「お、じいチャンもおっひさー!」
華奢な背中を猫背に丸め、その背中まである金髪と耳鼻を飾るゴタゴタしたピアスが特徴の軽薄そうな若い男――クライム=ロットハートに闇の中から呆れたように声を返したのは、これまた線の細い禿髪の老人だった。
齢七〇後半には達するであろうその老人は、しかし触れれば折れそうな見た目とは相反する恐ろしい“圧”を放っている。
それも当然、この老人こそが闇に紛れ血に汚れた『創世会』直属の特殊部隊『汚れた禿げ鷲』のトップに立つ人物コルライ=アクレピオスなのだから。
コルライは額にやや青筋を浮かべながら、
「だからその呼び方はやめいと言っておるだろうに。……ケッ、近頃の若いモンはどいつもこいつも年上に対する敬意が足らんわい」
「クライム。それにコルライも、よく来てくれたな。我が同志達よ」
柔らかく微笑掛けるシーカーにコルライも柔和な笑み――勿論作り笑いだが――を浮かべて、
「これはこれはシーカー殿、何を水臭い事を仰られる。貴殿の呼びかけに応じるなど当然の事。このコルライ=アクレピオス。いついかなる時も召集があれば盟友の元に馳せ参じる所存でありますぞ」
「そうそうしょーゆーこと。俺チャンもやっぱシーカーチャンには色々恩義? 的なのは感じてるからさー、いつだって力貸しちゃうぜ?」
無限に浮かぶ蝋燭同様に闇の中に浮かぶ二つの影は、実際の人間の物ではない。
ホログラム映像によって映し出されたただの立体映像だ。ただし、リアルタイムで回線がつながっている。要するにちょっと高性能なテレビ電話のような物である。
「ふむ、なかなかに嬉しい事を言ってくれる。私は君達のような同志を持てて幸せだな。……それで、そこにいるのは君の部下かい? コルライ」
問うようなシーカーの視線の先に浮かぶその人物は、シーカーからではその表情を認める事はできない。
暗闇で顔が見えない、という訳ではない。
不気味に笑う不吉な仮面によって顔そのものが包み隠されているからだ。
素顔を仮面で覆い隠した男、黒騎士はいつものように不遜で不真面目な態度で文句を垂れるでもなく、ぴたりと口を閉ざしたまま身じろぎひとつせずにそこに存在するだけの影のようにそこに在った。
まるで己の感情を真っ暗な影の中に閉じ込めてしまったかのように。
「おいおい、じいチャンよぉー。もう忘れちまったのか? それともー。もしかしてアルツってんの? ……俺チャン達『三本腕』以外をこの場に連れてきちゃダメじゃんかよー」
「余程殺されたいらしいのぅ、若造」
「え? 若く見えるって? やだなー俺チャンをおだてたってルールは変わんないぜ? じいチャンよー」
照れ照れと上機嫌に頭を搔くクライム=ロットハートに、コルライは呆れたように鼻を鳴らして、
「……ふん、その『三本腕』の儂が許可したのだ、問題あるまい。『三本腕』が二本に成り下がったと知られては、周囲に示しがつかんだろうてな。なれば人員の補充をせなばなるまい。そこで儂から一つ、推薦しようと思うてのぅ」
「ほう……。それで彼を――黒騎士君をここに呼んだ、という訳か」
「知っての通りコヤツは儂直属の部下、儂やそこの餓鬼とも遜色ない潜在能力を秘めておる。まだ若いが、功績も実力も申し分ない。新たな『三本腕』の一角に加えるには十分だと思うがのぅ」
推し量るような笑みを浮かべるコルライに、しかしシーカーは一切顔色を変える事なくこう切り返した。
「ふむ……。確かに魅力的な申し出ではある――が、済まないなコルライ。『三本腕』の補充は必要ない」
「なに……?」
ほぼ確信を持って持ちかけた提案を蹴られ、困惑と動揺を隠せないコルライを無視して、シーカーは話を先に進めてしまう。
「……さて。挨拶はこの辺りにして、そろそろ今回の議題に入るとしようかね」
「議題ってあれだべ。この前のネバーワールドの件だ」
切り替えも速く突き出した人差し指をくるくる回しながら言うロットハートに、シーカーは首肯を返す。
「うむ。それについては……彼から説明をして貰う事にする」
と、そう言ってシーカーが視線を向けた先に再び新たな人影が浮かび上がっていた。
黒騎士含めた三名の視線がシーカーの後を追い、その人物へとたどり着く。
そこにいたのは三人が良く知る男だった。
白衣を身に着けた、神経質そうなその男は――
「――承りました、シーカー様」
――ッゾッ!!! と、その瞬間。
どこかで荒々しい殺意の波動が、ほんの一瞬吹き荒れた。
「な、んだと……!?」
「あっるぅえー!? 白衣チャンじゃんっ! なんでいんの? 白衣チャンって殺されたんじゃなかったのー?!」
だが時間にして一秒にも満たない僅かな拍動に、この場にいるほとんどの人間は気が付かない。
……例外である者二人と……そしてさらに別の意味で例外たる一人を除いて。
「ええ、確かに私は殺されて死にましたよ、クライム=ロットハート様。私を殺した者も、おそらくこうしてここに立っている私を見れば驚くに違いありません。なにせあの時、確かに私の心臓は時を刻む事を放棄したのですから」
白衣の男は、にっこりと他人行儀極まりない満面の笑みを浮かべて、頭の中が疑問符で埋め尽くされているであろうロットハートに頷く。
「ええ~。あっ、じゃああれだべ! じいチャンの神の力で……」
「……。確かに儂は死者を愚弄する死肉漁りの王ではあるが、故に死者蘇生などという大それた力はないわい。不本意ながら貴様とも長い付き合いだろうに、いい加減理解しろやい……」
悔しさをかみ殺しながら呆れたように言うコルライに、白衣の男も苦笑気味に同意して。
「確かにコルライ様の力なら似たような事も可能かもしれませんがね。まあ、これが私の神の力という訳です」
「ちょっと俺チャン初耳なんですけどー! ちゅうか、え、マジで!? 白衣チャンって神の能力者だったのかよー。今まで黙ってるなんて塩くさいぜー」
「教えるも何も、私自身死んで初めて気が付いたのですよ。もっとも、シーカー様は気が付いておられたようですが……」
「……前々からたかが暗殺の極意を齧った研究者風情が何故『三本腕』に、とは思っていたのだがのぅ。しかしなるほど、不死の秘儀をその身に宿した鬼の子であったか」
「コルライ様もお酷い事を仰られる。長い付き合いだと言うのに、私の事をそのように思っていらしたのですか?」
「たわけ。白々しい作り笑いをしおってからに。甚だ不快だ、腹黒小僧」
コルライは己の目論見が失敗した苛立ちを隠そうともせずに不機嫌げに鼻を鳴らすと、凄まじい“圧”を放つ眼力で白衣の男を睨み付けた。
一触即発の空気に、しかし空気を読まない男が無遠慮に疑問をぶつける。
「つーかつーか、白衣チャンってば一体どこの誰に殺されたワケ? 自分殺した奴の顔見たんっしょ?」
遠慮ない質問に対してどこか意味深な間があってから、白衣の男の視線がこの部屋のとある一点を一コンマばかりの時間――されど明確に射抜いた。
遅れてニコリと笑って、
「………………さぁ、どうでしょうかね」
「えー、白衣チャンってばけち臭え~。いいじゃんかよー、俺チャン達にも教えてくれちゃってもサー」
と、ここで会話を断ち切るように柏手が一つ打たれる。
それを合図にピタリと話し声が止み、視線が一気にシーカーの元へと集中した。
「談笑はそこまでにしようか。……黒騎士君も、今日はそこで聞いていてくれて構わない。コルライが君に説明する手間が省けるだろうしな。……始めてくれ」
はい、と短くもはっきりとした返事を返したのは白衣の男だ。
彼は、懐から資料のような物を取り出すと、咳払いを一つして。
「ではまず、今回のネバーワールド爆破テロ事件についての事後報告から。……寄操令示を首謀者とした小組織『ユニーク』による一連の事件による総死者数は二八七三名。うち三七名が天界の箱庭外からの一般人観光客だった模様。なお、負傷者も含めると六〇〇〇以上まで膨れ上がる見込みです。さらに爆破によってネバーワールドの被った被害総額は一二〇兆円以上にのぼります」
「ほう、外の人間がそれだけの数死んだか」
「ああ、これは非常に好ましい展開だと言ってもいいだろう。なにせ、必須最重要数値『憎悪』の上昇は必須事項なのだからね」
「ええ。現在、世界中にネバーワールドでの出来事が報じられた結果、数値は既に目標上限値の七六パーセントまで到達しています。今現在も、微速ではありますが上昇中です」
「にしても少々回りくどくはないかのう。“わざわざ寄操令示などという餓鬼に偽の命令と情報を与え、ネバーワールドを襲わせる”など、コストがかかり過ぎているわい。憎悪の感情を広めたいのであれば適当な手駒を外に出向かせて適当に人間を殺せばそれでよかろうに」
自作自演のマッチポンプ。
今回のテロ騒動を一言で表すとすれば、これに尽きるだろう。
なにせ、直属の上層部を装って寄操令示を『天界の箱庭』しいては『創世会』へとけしかけさせたのは他ならぬ『創世会』トップのシーカー自身なのだから。
ネバーワールドがテロの標的になる事も、『創世会』爆破などと言う無茶な要求が出されるのも、そして要求が通らず、寄操によって大勢の犠牲が出るのもその全てが織り込み済み。
全ては世間の感情論を煽る為。神の能力者に対する憎悪や差別の波を再び起こす為。
「いやー全然分かってないなー、じいチャンってばサー。それじゃ意味ないジャン?」
意外な事に今の今まで会話を静観していたクライム=ロットハートが、そう言って割り込んで来た。
自分より年下の人間に意見を否定されたコルライは、面白くなさそうに眉を寄せてクライムをねめつける。
が、ロットハートはどこ吹く風といったように、突き刺さる視線を受け流す。
「これって要するにできるだけ大勢の人間チャンに俺チャン達神の能力者の事を憎んでほしいって話だろ? だったらテロってブランドも、テロを起こす場所のブランドも、重要だと俺チャンは思うぜ?」
確かにコルライの言う通り、わざわざ新人類の砦に属する寄操令示に接触してその行動を操るというのは、コストもリスクも高い。
だが、わざわざそんな事をするからには、それ相応の付加価値はあるという事なのだ。
「だってよ、ただ外で神の能力者が暴れ回るってだけなら別にそこまで珍しい事件じゃねーし、多分世界全土には伝わらないっしょ? それに、被害者だとかその家族の憎悪は神の能力者全体じゃなくて、その犯人チャン一人に注がれるワケじゃん。……でも、あの『ネバーワールド』で『神の能力者』によるテロ事が起こったら? そのテロ騒動に世界中から訪れた神の能力者に対して比較的友好的な一般人が大勢巻き込まれてその命を落としたら? しかも、『天界の箱庭』は人質を助ける為の行動を一切取らなかった。つまり、一般人含めた人質全員を見捨てちゃったワケだけど……これってもう、憎悪の矛先はテロリストチャン一人じゃ収まんないよね?」
そもそもだ。ネバーワールドを含む西ブロックのいくつかのエリアは、外部の人々――つまりは神の能力者ではない一般人との友好と交流を深める事を目的に作られたエリアでもある。
未だ激しい神の能力者への哀しい差別が少しでも無くなるようにと、人と神の能力者とが再び手を取る事ができるように、と。そんな願いを込めて作られたのがこの『ネバーワールド』だ。
だからこそこのエリアは外からやってくる一般の観光客の為に常時開放されているし、外からやってくる人々も、そんな友好の意に応えて、天界の箱庭や神の能力者を信じているからこそ、この外界から隔離された化け物達の最後の楽園へと足を運んでくれるのである。
いわばネバーワールドという場所は、人と神の能力者の和平の象徴なのだ。
そんな象徴的な場所で信用を、その好意を、天界の箱庭が裏切ったら?
……世界からの評価がどうなってしまうかなど、火を見るより明らかだろう。
「よーするに、注目度とインパクトが違うんだよ。冴えないオヤジが大麻持ってたところでニュースの話題にゃならないけど、超有名野球選手なんかが薬やってたら爆発的に広がるーみたいな?」
「理解はできるが、その例えは些か俗すぎはしないかのう……」
感心すればいいのか呆れればいいのか分からないと言いたげな、微妙な表情で固まるコルライ。
「……話を先に進めてもよろしいでしょうか。コルライ様」
「ふん、勝手にせい」
「では改めて。……寄操令示の所属する『新人類の砦』は今回の件について過失を認め、こちらと交渉の席に着く事を承認。『創世会』の提案に乗り、寄操令示によって受けた被害総額を『創世会』が肩代わりする代わりに、新人類の砦から『寄操令示』と『咀道満漢』の所有権を譲り受ける事に成功しました。……と、まあここまで全てが予定調和の茶番なのですが、表沙汰にはこういう事になっておりますので、一応確認を願います」
「……それで、あちらの経過はどうなっているのだね」
「は、被験体〇五〇〇二――『咀道満漢』は無事“加工”できそうです。許容量も十分かと。寄操令示の方ですが、こちらもバイタル、脳波ともに正常。神の力の使用も、問題ないかと。ついでにネバーワールドで回収させていたエネルギー量も、今回の騒動で早くも必要最低値まで溜まったのを確認いたしました。さらにそちらとは別件ですが、以前接触に成功した“彼女”ももう間もなく動き出すかと」
「へぇ~、じゃあなに。シーカーチャンの計画は順調ってことでオケなの?」
「やれやれ、ようやくだのぅ……。ここまで来るまで随分待たされたわい」
どこか感慨深くそんな事を呟いたロットハートとコルライ。
とはいえ、彼らも随分と長い時間シーカーと共に計画を進めてきたのだ。当然、感じるところもあるのだろう。
そしてそれは、長年シーカーを支え続けてきた白衣の男も同じだった。冷静な仮面の裏で、燃えるような情念が滾っているのが分かる。
シーカーもまた、その若さと老いの混在した顔に満足げな表情を浮かべていた。
「うむ、そうだな。私の探求の旅路も、あと僅かばかりで終焉を迎えるだろう。だが、まだ全てが終わった訳ではない。ここから先も皆の協力が必要不可欠だ」
シーカーは己の三本の腕を見渡すようにそれぞれに視線を向ける。
「戦争だ」
知識全てを追い求めるその男は、未だ見ぬ激動を思い浮かべて嗜虐的な笑みをその顔に張り付けていた。
「戦争が始まる。忌々しいあの男は、おそらくまた私の道の前に立ち塞がるだろう。ならば、今度こそ粉々に砕いて見せよう。狡猾の蛇よ……」
探求者と狡猾の蛇。
両者が三度ぶつかる時は、すぐそこまで迫っていた。
☆ ☆ ☆ ☆
何かがおかしい。
難しい話は分からない。このもやもやを具体的な言葉にする事など、ようやく小学校に上がったばかりの少女には分からない。
でも、確かに何かがおかしかった。
『……天界の箱庭にある巨大遊園地『ネバーワールド』で起きた爆破テロ事件。多くの一般人が犠牲となったこの凄惨な事件は、神の能力者の手によって行われた犯行だったことが判明しました。複数名の神の脳力者によって構成された組織によるこの連続爆破テロ事件に巻き込まれた一般人の被害者の総数は三八八名。内、一〇七名が怪我を負い、二三名が爆発に巻き込まれ死亡、一四名が依然行方不明となっています。この事態を非常に重く見た国連は神の脳力者に対する取り締まりの強化を進める方針で合意、さらに、一部過激派からは基本的人権の剥奪を求める声まであがっています。なお、以前から神の能力者を生物学的に人間と同列視する事に疑問の声を投げかけていバトラー博士は……」
テレビから聞こえるその言葉の意味も、今何が起きているのかも、少女には分からない。
でも、傷ついたのは少女達だけではないはずだ。
神の能力者の人達だって、痛くて、怖い想いをしたはずなのだ。
あの暗くて恐ろしいレストランの中に一緒に閉じ込められていたからこそ分かる。
だって、皆怯えていた。
怖かったのは、みんな一緒なのだ。
「カナ!」
リビングに入ってきた母が、ニュースを見ている少女を見て悲痛な金切り声をあげる。
飛ぶように伸びた手がリモコンに向かい、テレビの電源を落とした。
少女が抗議の声を上げようと母の方を振り向いた瞬間。勢いよく駆け寄ってきた母が、少女の矮躯を強く強く抱きしめた。
声をあげるタイミングを逃してしまった少女の耳元で、気丈であろうとする弱々しい声が響く。
「ごめんねカナ……。いいのよ、アナタは何も気にしなくていいの。大丈夫だから、もう、あんな怖い事にはならないから。私が馬鹿だったの……。もう、あんな恐ろしい所には行かない。“あんなの”には関わらない。だから……ごめん、ごめんね……?」
背中を震わせて涙を流しながら許しを乞う母の背中を、少女は小さな手をたどたどしく動かしてよしよしと懸命に撫でた。
「でもね、お母さん。あのね、かなね、おねえちゃんに良い子良い子して貰ったんだよ」
だって、母は言っていたのだ。
何も悪い事はしていないのに恐れられてしまう人達がいるのだと。
その人達は本当は優しくて――中には本当に怖い人もいるのだけれど――私達と何ら変わらないのだと。
「あのね、えっとね、……かな、怖かったけどね。みんなも怖かったの」
そして少女は知っていた。
あの時、怖い怖い虫に捕まった少女を助ける為に戦ってくれた少年や少女がいたことを。
真っ白くて、蒼い目をした綺麗なお姉さんが、優しく少女の頭を撫でてくれた事を。
それなのに。テレビの人はそんな優しい人達ばかりを悪者にしようとする。
少女を助けてくれた英雄達を、誰も彼もが後ろ指さしてのけ者にしようとするのだ。
先生は言っていた。いじめは、仲間外れはいけない事だと。
お母さんは言っていた。正しいことは、正しいと。間違っている事は、間違ってると言わなければならないと。
誰もそれに気が付いていないならば、少女が、それを教えてやらなければならない。
右手に握ったピーター=サンの緑の帽子が、少女に勇気を与えてくれるような気がした。
だから……。
「だから……。だから、みんな。みんなが仲良くしなきゃ、かなヤダよぉ……。ひっぐ、ぐす、やだっよぉおおおぉぉぉ……」
そこまでが限界だった。
まだ幼い少女には、自分の気持ちや考えを明確な言葉として伝える能力が備わっていなかった。
その心に巣くう嫌なもやもやを形にしようとすると、胸が痛くて苦しくて、どうしようもなく涙が流れ出てしまう。自分の考えが伝わらないもどかしさも相まって、もう、収まりそうになかった。
――何かがおかしい。
その違和感に気付いた者が、一体どれだけいたのだろうか。
正しい流れである事を強制するかのように。まるで地図の上を赤いペンでなぞって、正しい道だけを示すかのように、何かがある方向性へと誘導されていく。
きっと、侵食は既に始まっている。
少女の慟哭は遥か彼方の彼らの楽園へはおろか、僅か一センチ先の温もりにさえ届いていなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
闇の中、顔も名前も無いどこかの誰かが呟いた。
――絶対にぶっ殺す。
昏い光を瞳に湛え、その誰かは闇の中に溶けるように消えていく。
全てを捨て去った復讐者の復讐劇は、まだ終わらない。




