第八話 それでも東条勇麻は
「……はぁ」
最初に折れたのは勇麻だった。
ため息と共に両手を上げると、肩を竦めて降参の合図を出した。
「分かったよ、降参だ。そういうことにしておくよ、だからそんな顔でこっちを見ないでくれ……」
「む。なら、わたしの感謝もちゃんと受け取ってくれるのか?」
女の子は頬を膨らませたまま、上目遣いで勇麻を見つめながら首を傾げた。
だからそんな風に下から覗きこんでくるなんて反則だろ、と勇麻は心の中で激しく毒づく。
何というか、こんな仕草で思わず顔を赤くしてしまう自分に腹が立って、わざとぶっきらぼうな調子で、
「……あぁ、どういたしましてだよ、この野郎」
確かに、彼女が誰に何を感謝しようとそれは個人の勝手だ。そこに勇麻が介入する権利は微塵も無い。
少々癪に障るが、ここは首を縦に振ろう。それが頭のいい対応というヤツだ。
彼女の言葉が的外れな妄想だと言うことは分かっている。その上で気持ちを抑え込め。どうにもならないと理解しろ。それを背負う事だってよくよく考えれば自分のせいだ。
言い訳を重ねるようにして、勇麻は自分の心に何とか折り合いをつけて、荒ぶった感情を鎮火していく。
「うむ。分かればいいのだ。分かれば」
勇麻が何を考えているかなどつゆも知らずに、少女は偉そうに腰に手を当てながら満足げに笑った。
今日初めて見るその笑顔は少し固く、笑い慣れていないような不自然な印象を見るモノに与えてくる。
……表情筋が上手く使えていない、というか。笑い方を誰にも教えられなかった子供のような――
――何か不吉な予感を覚える。
だが、その見た目の年齢にそぐわない様々な点が少女のミステリアスかつ非現実的なお人形めいた雰囲気、美しさを強調しているのもまた事実で。
そんな少女の笑みへ対する感想とは別に、彼女が普通の女の子のように心の底から笑っている姿を見たい、そんな事を考えている自分がいる事に勇麻は気付いて、慌てて思考を振り払うように話を変える。
「まぁ、俺に感謝うんぬんの話はどうでもいいんだ」
その言い方に少女がまたも「むぅ」といった調子で何かを言いたそうにしていたが、勇麻はそれを片手で制した。
一々遮られては一向に話が進まない。まずは聞きたい事を聞かせて貰う。
そんな意思を瞳に込めて、やや緊張しながら少女を真っ直ぐに見つめ、
「……お前さ、さっき罠がどうとか言ってたけど、それって俺が戦ったイルミとナルミ――あー、あのイカれた黒髪姉妹と黒騎士なんて名乗ってた仮面ヤロー達と関係ある事って考えていいんだよな? あいつらも、お前の事を標的とか何とか言ってたみたいだし……お前、あいつらに狙われてるのか?」
軽率に踏み込むべき内容ではない。そんな事は分かっている。
だが、今回に関しては東条勇麻はそれを尋ねずにはいられない。
黒騎士と名乗った仮面の男。あいつは、勇麻にとっても因縁のある相手なのだ。
奴は自分の事を「お前と同じ二代目だ」などと言っていた。もしその言葉が事実なら、勇麻と黒騎士は今日初めて顔を合わせたという事になる。だが、勇麻にはどうしてもあの男が初対面だとは思えないのだ。
そして、仮にあの男と会うのが今日が初めてではないとすると、やはりあの男こそが龍也にぃを――
……仮面の男の発言の真偽はともかく。ヤツとはもう一度会わねばならない。……いや、再び相見えるだろうという根拠なき確信があった。
どんな形になるにせよ、決着を付けることになるだろう。勇麻だけではない。相手も同じ事を望んでいるような気がしたのだ。
だからこれは必要な情報収集。
決して彼女が心配でこんな事を尋ねている訳ではない。あくまで東条勇麻が東条勇麻の為に、彼女の事情を知りたいと思った。それだけだ。
純白の少女は、勇麻の問いに答えるべきかどうかをしばしの間逡巡して、
「……うむ、ここまで巻き込んでしまったのだ。何も説明しない、という訳にもいかないか」
一度、目を閉じ。やや眠たげな碧眼が再び勇麻の凡庸な瞳を覗きこんで、
「お主の言う通りなのだ。私は今、複数の者達に狙われているみたいなのだ。先の連中は初めて見る相手だったが、私を狙う組織の者なのだろう」
組織。
という事はやはり、彼女を狙うあいつらは本当に――
「……アイツらは自分達の事を背神の騎士団だって名乗ってた」
背神の騎士団。
得体の知れない、都市伝説にたびたび現れる謎の組織。
曰く──組織を構成するメンバーは人間ではないとか。
曰く──彼らに捕まったが最後、自らの存在を証明するもの全てがこの世から消されてしまうとか。
曰く──彼らはその気になれば世界を支配できる程の最強の戦力を保持しているとか。
曰く──彼らは『天界の箱庭』の崩壊を企んでいるとか。
「……アイツらは一体何者なんだ。何が目的でこんな事をしてる。お前は、どうしてそんな危ない連中に追われてるんだ?」
つい熱くなって、矢継ぎ早に質問を繰り返してしまう勇麻に対し、少女は少し困ったような顔で首を傾げ、
「む? むむ……あんち、ごっどないと……? ……すまないのだ、少年。連中が何者なのか、実は私にもよく分からないのだ」
あまり表情の動かない顔で、眉が申し訳なさそうに動いて、
「ただ、連中の狙いが何なのかは分かるぞ」
今度は少しだけ自信ありげに眉をピンと立て、少女は首から下げていた古書を座卓のうえに置いた。
……ここで少し、勇麻は女の子の言動に微かな違和感を覚える。
それは本当に小さな、普通なら見落としてしまうような物。だが、よく考えてみるとやはり何かがおかしい。まるで騙し絵を見ているような感覚――
(――この子、背神の騎士団を知らない……?)
思い当たったソレは、一見なんともない事柄であるように思える。
だが、背神の騎士団という単語は、天界の箱庭に住んでいれば嫌でも耳に入ってくるような単語だ。
テレビのワイドショーから電車の中吊り広告。勇麻のように友達同士の会話の中で話題にあがる事だってあるだろう。
背神の騎士団に関する噂や都市伝説は、それくらい多くこの街に存在している。
その手の話に疎い勇麻でさえ、ある程度の詳細を話せるくらいだ。
天界の箱庭に住んでいて背神の騎士団を知らないというのは、ネス湖に住んでいてネッシーを知らないというようなモノなのである。
そんな勇麻の疑念を知ってか知らずか、少女は内緒話でもするかのように声量をやや落として、
「連中の狙いはまず間違いなくこの『天智の書』なのだ」
「天智の書……? これを、あいつらが狙ってるって言うのか? ……確かに、めっちゃ古そうだし、価値あるモンなのかも知れねえけど……」
何と言うか、背神の騎士団のイメージに合わない。
それに、初めてこの本を見たとき、謎の誘惑に駆られてページを捲った勇麻はこの本の中身を知っている。全てのページが白紙で中身のない本だった事に勇麻は酷く落胆したのだ。
背神の騎士団が、中身のない古本など求めるだろうか?
試しにもう一度、パラパラとページを捲ってみる。目の前の少女に止められるかと思ったがそんな事は無かった。……考えてみれば、勇麻が倒れている彼女そっちのけで『天智の書』を勝手に見た事も、意識のあったこの子は知っているハズなのだ。
勝手に気まずくなりながらも、なら遠慮はいらないなと、次々にページを捲る。
分かってはいたことだが、結果はさっきと同じ。どこまで捲っても白紙のページが続くだけ。
確かに独特の雰囲気を持っているとは思う。
勇麻自身、一度はその不思議な魅力に惹かれもした。
だが肝心の中身が空白なのでは、やはりどうしようもないと思うのだが――
「――なあ、どうして連中は、内容の無い白紙の本を欲しがっているんだ?」
素直に思った事を尋ねた勇麻に、女の子は何故かきょとんとした顔で小首を傾げた。
「内容がない?」
「ああ。だって、ほら。ページ真っ白じゃん。こんな読めない本持ってたって何の意味も無いだろ」
「? 何を言ってるのだ? 勝手に読まれたら困るから、読めないように白紙になっているに決まっているだろう」
「……?」
「うむ。少年はときどきすごくおばかな事を言うのだな」
「なっ、ば、ばか……!?」
憐みすら籠った溜め息が少女から出る。
なんか常識を知らない子扱いをされているのだが、この子に非常識扱いされるのは納得がいかない。
結局何がどういう事なのか、少女の中では先の一言で天智の書についての説明は完結してしまったらしく、それ以上詳しい説明をしてくれそうな気配はない。
何だかこっちから尋ねるのも癪なので、ひとまずは保留にして、勇麻は話を先に促す。
「……分かった。とにかく連中の狙いはその本だ、と。そういう事でいいんだな」
「うむ」
「だったら、……一応言ってみるだけだから気を悪くしないで欲しいんだけど……この本捨てて逃げちまえば、お前まで追われることはないんじゃねえの?」
「それは無理なのだ」
少女はすぐさま首を振って否定した。そして、間髪入れず、機械のようにスラスラと。
「私には『天地の書』が必要で『天智の書』にも私が必要なのだ」
「ええっと……すまん、ちょっと言っている意味が……」
「むむ。分かりにくかったか? うむ、もっと簡単に言ってしまうと、私は『天智の書』がないと何もできない。神の力も碌に使えなくなって困ってしまう、と言う訳なのだ」
……訳なのだって。
「……本がないと力が使えないって、なんだそりゃ。そんなの今まで一度も聞いた事ないぞ。てか、お前の神の力って、治癒系スキルじゃないのか? てっきり、俺の事も神の力で治してくれたんだとばかり思ってたんだけど」
「うむ。そうだぞ。私が治したのだ」
「……? いや、ごめん。どういう事? その本、実はお前にだけ見える医学書とかそういうオチ? お前って治癒系の神の能力者なんだよな?」
「うむ、確かに私の力は治癒にも使えるが、それだけではないぞ。私の神の力はな、色々と出来るのだ」
よくぞ聞いてくれましたとばかりに、無い胸を精一杯に張る少女。
その様子から察するに、喜んでいるのだろうか……?
表情を変えぬまま得意げなポーズを取るシュールな少女へ、勇麻は仕方なく先を促す。
「と、言いますと?」
「うむ。まずだな……ビームが出せる」
「他には?」
「色々出せる」
「……えーと、四次元ポケット的な?」
随分雑な紹介だった。
あんまり適当なので勇麻のツッコミも相応に適当になっていた。
説明とは、何も分からない人に細かく噛み砕いて行われる物のはず。
噛み砕くどころか調理前の食材が出てきてしまった気分だ。
「うむむ、分かりずらかったかな? もっと簡単に言うと『出す』と言う表現より『開いて呼び出す』と言ったほうが正確だな。重要なのは『こちら』と『あちら』を繋ぐ扉を現出させること。〝異なる世界〟との繋がりを形成し、その扉を開き〝異なる法則〟を扱うこと。それこそが私の真骨頂とも言えるのだ」
「………………………………」
今度は噛み砕き方の方向性を間違ってしまったらしい。
何を言っているのかさっぱり分からない。
彼女の神の力についても、とりあえず保留とする事に。後で実際に見せてもらう方が早いだろう。
「まあいいや。よく分からんけど、そんなに凄い神の力なら、あんな連中にも負けないんじゃねえの?」
「うむ、その通りなのだ。私がその気になればあんな連中イチコロなのだ」
「さいですか……」
イチコロなのかい。殺されかけながら戦ったおじさんの努力は何だったんだよ、と勇麻は心の中で付け加えるように呟いた。
もしかして勇麻が余計な手出しをしなければ、ムクリと起き上がった少女が一人で全てを解決していたとかいうパターンだったりして……。
「で、じゃあなんでイチコロにしなかったんだ?」
「そ、それは……」
「なんだよ、言い淀むなんてめずらしいな」
「……」
「いや、言いたくないなら無理には聞かないけど――?」
女の子は勇麻の声が耳に入っていないのか、目をつぶりながら、何やら小声でブツブツ言っている。
声がちいさくてはっきりとは聞こえないが、どうも自分を鼓舞する内容のようだ。
少しして何やら決心が着いたらしく、その場で拳をぎゅっと握ると、少女はとても言いにくそうに、
「その……実は、だな。そのことで少年に相談が……あったり、なかったり? するのだ」
ないのかよ、とは茶々入れない。なにやら切実そうな匂いがするし、ここでツッコむのは可哀想だ。
「相談?」
「うむ。……私の神の力は、出力だけで言えばかなり強力なのだと思う。……現に追手の何人かはこの力で迎撃しているのだ。だけど……その、私の力には致命的な欠陥があるのだ」
「致命的な欠陥?」
「うむ、なにぶん私の神の力は燃費が悪くてな。短い期間にそう何度も使っていいような物ではないのだが……私は追っ手から逃げ切る為に今日だけで七回も力を使ってしまったからか、おーばーひーと? と言うのか? その、しばらく力を、使えそうにないのだ」
つまり、と一呼吸置いて、
「なんというか、今の私には身を守る術が何も、ないのだ。だから……その……」
俯く少女の表情は一見、これまでと変わらないように思える。だが勇麻にはその表情が常より硬く、ひどく緊張しているように見えた。
まるで自分を奮い立たせるように強く唇を噛み締め。そして覚悟を決めたのか、一度その碧い瞳で勇麻を真っ直ぐに見据えると、一呼吸置いてから地面に打ち付けるような勢いで頭を下げた。
案の定、勢いが良すぎた少女のお辞儀にごぢんっ! と鈍い音がして、
「今日一日だけでいいのだ。私を、奴らから匿っては貰えないだろうか……っ! 無理なお願いだとは分かっているのだ。けど、私はもう嫌なのだ。あんな所で独りぼっちで一生を過ごすだなんて、もう耐えられないッ」
少女は泣きそうな顔をしていた。
両目一杯に涙のような水滴を溜めて、けれど一滴も零さずにいる少女は、もしかすると泣けないのかもしれない。そう思った。
「自由、というものを知りたいのだ。自分で生きてみたいのだ。広い空を見たい。明日を夢にみたい。誰かと一緒に、いたい……っ」
噛み締めるような少女の言葉は全てが真実。
感情の起伏が少ない、表情をつけることがあまり得意ではないであろう少女の、精一杯の心の叫びだった。
女の子のその行動――己の思いを打ち明ける、ただそれだけの事に、どれだけの覚悟が必要だっただろう。
勇麻はこの子の事を何も知らない。彼女がどんな事情を抱えているのか全く分からないし、言葉の端から想像することくらいしかできない。
それも、想像するだけ無駄な事。
だって、これまで彼女が話してくれたことなんて、きっと氷山の一角にすぎない。それなのに、話の端っこを聞いただけでも、彼女がとてつもなく厄介な問題に巻き込まれているという事だけは分かってしまう。それほどまでに、彼女が抱える闇は深い。
おそらく、彼女が抱える問題は、一介の高校生に解決できる範疇をゆうに超えている。
敵は強大だ。背神の騎士団なんていう都市伝説級の怪物どもを相手に、東条勇麻にできることなど何もない。でしゃばったところで死体が一つ増えるだけ。
ここはおとなしく、神狩りに女の子を保護してもらうのがきっと正解だ。
きっと、誰も彼もが持っているらしい人生の模範解答にはそう載っているはずだ。
「……勿論、タダではと言わない。ちゃんと、お礼はするのだ」
だが、本当にそれでいいのか?
今目の前にいる女の子は、涙をこらえて、こんなどうしようもない男に頭を下げている。
きっと彼女は今日まで辛い目にあってきたのだろう。誰よりも泣きたいはずの彼女が涙をこらえ、恐怖を勇気で押し殺し、見ず知らずの相手に対して全てを曝け出して、命を懸けて助けを求めている。
断られるかもしれない。見捨てられるかもしれない。裏切られるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。呆れられるかもしれない。
きっと、そんな思いばかりが心の中で渦巻いていたことだろう。それらを押し殺して、一言を捻り出すのがどれだけ難しい事か。それが分からない勇麻ではなかった。
なにより、それほどまでに追い詰められた女の子のたった一つの願いを、自分可愛さに拒絶する。
それで正しいと、本気で思っているのか?
……いや、いいはずが無い、そんなの絶対に間違ってる──と、映画や漫画なんかの主人公なら、きっとそう言うのだろう。
(……はぁ。そういうのはまっぴらごめんなんだっつーの)
だが、勇麻は正義のヒーローなんかじゃ無い。人の為に戦って死ぬなんてまっぴらごめんだし、できることなら面倒事には関わりたくすら無い。
少女の話だって正直ナンセンスだ。
確かに、彼女には寮まで運んでもらい、怪我の手当までしてもらった恩がある。とは言えそれとこれとでは秤が釣りあわない。あきらかに天秤が片方に大きく傾いている。
それに、仮に引き受けたとして勇麻ごときで彼女を匿いきれるだろうか? 相手は強大な組織、顔も名前も知られた。どこに潜伏しようとも確実に勇麻達の居場所は見つかるだろう。
そこからどうする? まさか、女の子を狙う組織の人間が現れるたびに、勇麻が命がけで戦い、倒していけばいいのか。そんなの命がいくつあっても足りる気がしないし、役目をこなす自信もない。
端的に言って不可能だ。
だから――
「――俺は誰かの為に戦えるような人間じゃない。お礼なんていらない。どれだけ金を積まれても、それは変わらな――って、ちょ、ちょっと待った、お前ワイシャツのボタンに手を掛けて何してやがる!?」
「む、なにと言われればお礼の準備なのだ」
大慌てで服の前を押さえる勇麻にこてりと可愛らしく小首を傾げる純白の少女。勇麻が貸した男物のワイシャツは既に第二ボタンまで外れていて、少女のなだらかな胸元が大きくはだけてしまっている。
ワイシャツを押さえる弾みで何か柔らかい物に触れなかった気がしないでもないが、今のは不可抗力だ。無罪を主張する。
「何故お礼で服を脱ぐ!?」
「む、男の人はこういうことをすると喜ぶって、前に教えて貰った事があったのだ。……少年は私にこうされても嬉しくないのか?」
……誰だか知らないがくだらん事を吹き込んだアホはぶち殺そう。東条勇麻はそう決意した。
「……っ。いいから服はちゃんと着ろ。何を拭きこまれたか知らないけど、身体は大切にしろ。そんな事されても俺はお前の為になんか戦えない」
「そんな……」
交渉は決裂した。
勇麻がボタンを締め直し、拒絶を突き付けられた少女の手が力無く垂れ下がる。
最後の希望から見放された女の子は俯いていた。
そのきれいな顔は絶望に埋め尽くされている。
それもそうだろう。一度は自分を絶対絶命の窮地から救い出してくれたヒーローに見捨てられたのだ。
その精神的なダメージは計り知れない。
きっと彼女は勇麻ならまた助けてくれるはずだと淡い期待を抱いていたに違いない。
信じていたのだろう、この人なら、最後の希望になってくれると。私の英雄になってくれると。
だが現実は無情だった。
少女が懸命に伸ばしたその小さな手は、いともたやすく弾かれた。
終わった。
終わってしまった、全て。
だが、少女はそれでも涙だけは流そうとしなかった。
絶対に泣くもんかという彼女の意地が、再び噛み締めたその唇から伝わってくる。
強い、と勇麻は思った。
だからこそ、彼女の要求は決して呑めない。
要求は、呑めない。
絶対に。
勇麻は女の子の提示した条件を、はっきりと蹴飛ばしてやる為にその口を開いた。
女の子の顔すら見ずに、斬り捨てるように否定する。
「……ああ、そうだよクソったれ。お礼なんていらない。……全て終わった後に、『ありがとう』って言いながら笑うお前の顔があれば、俺はそれで充分だっつってんだよ。――話は最後まで聞けって教わらなかったのかよ、ばか」
☆ ☆ ☆ ☆
「……………………………………え?」
思考に空白が生じた。
一瞬、いや、すでに十数秒近く、少女の思考回路は停止している。
今、目の前の少年は一体何と言った?
少女は自分の耳が少年の言葉を、自分の都合のいいように勝手に解釈したのだと疑った。
それぐらいに、話の流れと噛み合っていない返事だった。
何度も何度も少年の言った事を頭の中で反芻した。答えた合わせで必死に間違っている箇所を見つけるように、何度も何度も。それが事実である方が嬉しいハズなのに、必死で間違いを探し続けた。
だけど、
「だから、さ。……ああっ、もう! 何度も言わせるんじゃねえよッ」
少年は少女の顔も見ずにそっぽを向いて、どこか恥ずかしげにボリボリと頭を搔くと、
「お前をそうやって泣かせるヤツは俺が全部ぶっ飛ばすから、その……そんな顔、しないでくれ」
匿う、とかそんなレベルの話しではない。
目の前の少年は、助けると。はっきりとそう言った。
今度こそ、聞き間違いでも何でも無いのだと少女は何となく理解した。
正直未だに意味が分からない。
目の前の少年は、少女が抱える事情を全て知っている訳でも、少女と旧知の間柄な訳でもない。
はっきり言って、今日出会ったばかりの赤の他人だ。
自分で頼んでおいて何だが、そんな、何の義理も無い赤の他人を、命を失うリスクを負ってまで無償で助けるなどと宣なんて、正気の沙汰とは思えない。
第一、少年は『自分は誰かの為に戦える人間じゃない』と自ら言っていたではないか。
発言と行動が絶対的に矛盾している。
ちぐはぐだ。
第一先ほどの会話の流れからして、絶対に自分の頼みは断られる流れだったではないか。
野球をやっていたハズが、急にピッチャーがテニスラケットを使って、サーブで投球してきたような物だ。
そんなの変化球に対応できる訳がない。
でも、
意味は分からなくても、矛盾していても、
目の前の少年の言葉に、つかの間とは言え少女の心が救われたのも、また確かだった。
☆ ☆ ☆ ☆
勇麻は自分の目の前で呆けたように固まり続けている女の子を見て、思わずため息を吐いた。
だからこんな事をするのも言うのも嫌だったんだ、と心の中で頭を抱えながら、
「だから、さ。……ああっ、もう! 何度も言わせんじゃねえよッ」
気恥ずかしげに頭をボリボリ掻いて、
「お前をそうやって泣かせるヤツは俺が全部ぶっ飛ばすから、その……そんな顔、しないでくれ」
我ながら何を言っているんだと思う。
自分の正気を疑う。
こんなの自殺志願者とそう変わらない行為だ。
こんな大口を叩いておきながら、今この瞬間も勇麻の足は生まれたての小鹿みたいに震えているし、極度の緊張で口の中は砂漠みたいな有り様だ。
怖い。恐ろしい。
実際に戦っている最中だって怖くなかった訳ではない。死ぬかもしれないと思う場面もあったし、実際に敗北して殺されかけもした。ただ、あの時はいちいち“まとも”に恐怖してる余裕すらなかっただけだ。
だが、今は違う。
冷静になり、改めて先の戦いを思い出すだけで、死への明確な恐怖が、勇麻の身体から力を奪いとっていく。
それこそ、少しでも気を抜けば膝から崩れ落ちてしまう程に。
今、彼女に大口を叩いたのは、そんな自分の恐怖心を紛らわす為でもあった。それくらいに、東条勇麻という男は情けないただの学生だ。
何度も言うが、東条勇麻はヒーローなんかじゃない。英雄には成れないし、正義の味方も気取れない。
誰かの為に戦って死ぬなんてまっぴらだし、面倒事には関わり合いになりたくないと思っている。
いくら特殊な力を持っていようが、東条勇麻はただの高校生に過ぎない。
個では組織には適わない。
すでにこちらの素性はあの黒騎士にばれている。
イルミとナルミが撃破されたことを知れば、すぐさま女の子の確保に動き出すだろう。
イルミとナルミは勇麻にとって格上の相手だった。勇麻がナルミを倒し、あまつさえイルミといい勝負ができたのは奇跡に近い偶然だ。敵が勇麻のことを舐めきって油断してくれたからに他ならない。 ナルミが撃破され、イルミが敗北寸前まで追い詰められた事を知れば、連中だって全力で勇麻の事を狩らざるを得なくなる。
都合のいい偶然は、二度は起こらない。
仮に次の刺客を一人を倒したとして、それがどうなるというのか。
またぞろ次の刺客が少女と勇麻の命を狙って現れるだけのいたちごっこが続くだけ。
追手が尽きるまで命がけの戦いを繰り返すなんて馬鹿げている。とてもじゃないが命がいくつあっても足りる気がしない。
この際はっきり言おう。
東条勇麻にこの女の子を助けるのは不可能だ。
だから――――
――――だからと言って、それを理由に見捨てられる訳がない。そんな暴挙は、絶対に許されない。
東条勇麻がこの女の子を見捨てて放り出す事だけは、絶対に許されない。
だって、あの人なら――龍也にぃなら、絶対にこの子を見捨てたりしないから。
笑顔とともに救い出してしまうだろうから。
だから、退く訳にはいかない。
誰かが傷付くのを黙って見ているくらいなら、自分が傷ついてやるとそう決めたから。
そうまでしてでも、貫かねばならない物が勇麻にはあった。
我ながら馬鹿だとは思う。
まさか目の前の少女も、そんな理由で助けられるなんて夢にも思っていないだろう。
きっと女の子の目には、東条勇麻がヒロインのピンチに駆けつけてくれたヒーローのように映っているはずだ。
最高にカッコいい、自分だけの英雄に。
勇麻が許せないのはむしろその事だ。
自分に向けられる感謝と尊敬の視線も、背中に響く自分への声援も、みんな大嫌いだ。
いつだって勇麻が拳を握る理由は、自分の中にこびりついた憧れへの罪悪と、逃れようのない義務感。罪の意識だけ。――この拳は、自分の為にしか握れない。
理由なんて過去にしかない。
東条勇麻は過去の亡霊にいつまでもしがみついている。
相手にも自分にも理由を求めない東条勇麻は、きっと彼女から助けを求められなくたって、こういう選択をしていた。
そこにあるのは独りよがりで気持ちの悪いエゴの塊だ。
その行為は誰かの代理品でしかなく、その正義はきっと正義の味方のふりであって、正義でも味方でも何でもない。
そしてそれらはきっと偽物と評されるべき紛い物だ。
それでも勇麻は、それらしく振舞う為に、無理やりその顔に笑顔のような物を浮かべた。
偽物だろうが紛い物だろうが何でもいい、道化のように演じてやろうではないか。
英雄を。
紛い物の主人公を。
「そう言えば言ってなかったな」
「?」
「名前、俺は東条勇麻。お前は?」
差し伸べられた手に視線を下げ、もう一度こちらを見る女の子は、未だに信じられない物を見るような顔をしていた。
やがて勇麻の手を取ると、酷く現実味を失った、ふらふらしたうわずったような声でこう答えた。
「……アリ、シア。私の名前は、――アリシアだ」
――それが紛い物の英雄と空っぽの少女の邂逅。
この出会いはきっと、数ある道筋の中の一つの分岐点に過ぎない。
この出会いが無くても、きっと世界は正しく廻り続けただろう。
されどこの出会いは、きっとこの先の未来を左右する。