第四十二話 殺意と憎悪の芽吹きⅡ――不可視の揺らぎ
一人殺せば人殺しで。
十人殺せば殺人鬼。
百人殺せば英雄で。
千人殺せば神様だ。
……ならば問おう。
英雄と人殺し。そこにある罪業の数は、どちらが上だ?
☆ ☆ ☆ ☆
時間が飛んで、どこか世界にピントが合わない。
録画しておいた映像を知らないうちに早送りしてしまい、中途半端な所から眺め始めているような、違和感。実際に経過した時間と、自身の身体で刻まれた時間とにどこか差異がある。間違い探しや騙し絵のような感覚があった。
(何が、起こった……?)
……熱い。
拳が異様な熱を放っている。
(夢……? いや、違う。俺は、何をしていたんだ? 何かを見ていたはずのに、思い出せない)
いや、正確には、溜めこまれた凄まじい熱量をどうにか放出しきった直後、とでもいうべきか。
とはいえ、未だ勇気の拳は健在だ。依然として勇麻の感情に呼応した身体能力の上昇は働いている。貫かれた左腕は完全に力を失い、ただぶら下がるだけの飾りと化したが、それでもまだ戦う事はできる。
異常など、どこにもない。
そう、どこにも。勇麻の身体にはどこにも異常など見受けられない。
――ただ、
「……?」
拳を振り抜いた姿勢で固まる自分と、まるで内側から弾け飛ぶように絶命した、亀とナメクジなどを掛けあわせたような容貌の触手の主。そして、
「げふっ……、ごぼっっ!!?」
苦しげに押さえた口元から、まるでダムが決壊したかのように大量の血液を吐き出す寄操令示というこの光景は、どこまでも異常ではあったが。
「な、んだ。今の……」
勇麻の眼前。
こちらも主が爆発四散した事で力を失った触手から解放された高見が、助かった事も忘れてただ茫然とそんな言葉を呟いていた。
胸元にへばり付いていた虫も内側から木端微塵に弾け飛んでいて、『ネバーワールド』爆破のカウントダウンの数字が進む事はもう二度と無い。
そしてこれは勘なのだが、おそらくネバーワールド中に配置した寄操令示の虫という虫が同じように内側から爆発四散して絶命したのだ。どういう訳か、そんな確信にも似た勘が勇麻にはあった。
あれほど泣きじゃくっていた幼女は、どこかポカンとした顔で勇麻を眺めている。
アリシアまでもが、いつもは眠そうなその瞳を丸く見開いて拳を振り抜いた姿勢で固まる勇麻を凝視していた。
まるで空気が凍りついてしまったかのような静寂。
その中心に自分がいるという事に、数十秒程の遅れを伴って気が付く。
戸惑い、困惑して、しかしその前に、今この瞬間が千載一遇のチャンスだという事も理解できて、
「高見! その子とアリシアを!!」
勇麻の叫びにようやく我を取り戻した高見が、ハッとした様子で一つ頷く。
呆けた顔に真剣さが戻り、唇を引き結ぶと同時。高見とカナちゃんの姿が虚空に消え、アリシアの元へと再出現する。
動かぬ死骸となった触手を引き剥がし、なんとかアリシアの腕を掴んだ高見が消え、再び現れた時には、既に勇麻の背後に彼らは居た。
「高見、これは……」
「安心していいぜいユーマ。アリシアちゃんも、この子も無事だ。これと言ったケガもねえ」
寄操令示との戦闘で激しく傷ついた高見は既に満身創痍の様子だったが、幸いなことにアリシアとカナちゃんに大きな怪我は見当たらない。
その言葉に一瞬混乱も忘れてホッと息を吐く勇麻。しかし高見は、険しい顔を崩そうとしなかった。
視線を勇麻から逸らすと、今もまだ大量の吐血を続ける寄操令示に油断なく目を向ける。
「……話は後だ、ユーマ。お前が何をやったとかそういう理屈はともかく、“お前の一撃で寄操令示の創り出した虫達は全滅した”。奴自身も深いダメージを負っている。どう動くにしても今がチャンスだぜい」
さらりと告げられた言葉に、誰よりも驚愕したのは勇麻だった。
辺りに散らばる寄操の創った昆虫達の爆散しただの肉片と化した死骸。そして、ペンキを零したような勢いで血を吐き出す寄操令示。
この破壊を、この景色を自分が……?
にわかには信じられない圧倒的暴力の痕跡に、言葉を失う勇麻。
高見は、その微妙な表情の変化に敏感に気が付き、
「まさか、覚えてないのか……?」
「……」
「なら、なおさら後回しだ。今は奴とのケリを付ける事だけ考えようぜい」
戸惑いを隠せない勇麻を気遣ってのその言葉も、今は勇麻の不安を煽る物でしかない。何が起きたかは分からない。でも、尋常じゃない何かを自分が行ったのだという事だけは、状況証拠から察する事ができる。
あの寄操令示さえも圧倒してしまうような何かを……。
「――い、おい、聞いてるのか!? ユーマ!」
「……!? あ、わ、わるい……」
心此処に非ずな様子の勇麻に、些か呆れと焦燥、そして心配の入り混じったような顔を向ける高見。
正論すぎる言い分ではあったが、勇麻の思考を正常値まで引き戻すには足らない。
「なぁ、高見……」
高見は溜め息を一つ吐いて、現実を直視させるように言う。
「ユーマ、俺っちが言うのも何だが、気を抜くのは後にしてくれ。俺っちも気にはなってたがユーマ自身に自覚がないとなると、今ここでしていいような話じゃねえ。それに寄操令示の野郎、あの出血量で失神する素振りすら見せやがらねえ」
「……ちょっと待ってくれよ、高見」
「俺っちだって気にならない訳じゃないんだ。でも後にしろ、ユーマ」
「だから待ってて!」
声を荒げた勇麻に、高見が驚いたように目を丸くする。
勇麻は自分の呼吸が荒いのを自覚して、落ち着かせる為に一拍間を置いてから、改めて高見に視線を向けた。
「俺が言いたいのは“そっちじゃない”、そうじゃないんだ。高見、お前も気づいてんだろ、なあ。……そもそも、おかしくないか?」
高見は早急に会話を切り上げたがっているようだったが、勇麻が折れそうもないのを見ると、断念したように瞳を瞑って素早く言葉を返した。
「……なにが」
「寄操令示はお前に心臓を貫かれたはずだ。お前だってあいつの心臓が止まったのを、確認したんだろ?」
勇麻の問いに高見は厳しい顔のまま。返事はない。だがそれは、否定ではなく肯定の沈黙だと言う事を勇麻は理解していた。
高見秀人は背神の騎士団の諜報員として、少なからず暗殺系統の任務を経験している。
“プロ”である高見が、標的の生死確認を怠るなどありえない。
「それなのに何で? どうして寄操はあんな風にピンピンしてやがったんだ? いくら神の能力者の身体が頑丈で、いくら神の子供達がその中でも特別な存在だからって、おかしいだろ。アイツらだって生き物だ。酸素が無けりゃ息が出来なくて死ぬし、心臓を貫かれたら当然生きていけないハズだ。今だって普通に考えたら異常だろ。身体の中の血ほとんど失って、どうやって命を繋いでんだよ、あいつは」
高見はしばらく考えるように黙り込むと、彼自身も整理がついていないのか、探り探りの言葉を吐き出した。
「……俺っちは、あいつを殺したのはこれで今日二度目だ」
「なに?」
「俺っちが一度目に寄操を殺した時、ヤツは目の前でバラバラに解けやがった。俺っちが寄操だと思って戦っていた相手は、ミリサイズの小さな昆虫の集合体――つまりは奴の造り上げた精巧なダミーだったって訳だ」
ご丁寧に内臓から血液まで極小サイズの虫で再現済みのな、と高見は付け加えるように言う。
「それは……今、目の前にいる寄操令示も偽物だって言いたいのか?」
「……分からねえ。けど、あの男ならどんな手を隠していやがっても驚かねえよ。なにせ、ネタ晴らしされるまでダミーの存在に俺っちが全く気が付かなかったんだからな。正直あのまま死んだふりをされていたら、俺っちは完全に寄操令示を殺したと勘違いしてただろうな」
「そんなの……本物と区別のつかない偽物なんて、本物よりも性質が悪いじゃねえかよ」
「おっしゃる通りだよ、くそったれ。それに、今の俺っち達に、奴が本物かどうかを確かめる術はない。実質、現状じゃ対応しようがない」
「……ダミーは確かに厄介な問題だ。でも、もし仮に目の前の寄操が偽者なら、それはそれで逆に好都合だ。だってそれはつまり、本物の寄操令示は“死の危険から身を隠す必要がある”って事だ。不死にはネタがあるって事になる。攻略可能だって言うなら、それならそれで構わない。でも問題は、“そうじゃなかった場合”だ。寄操令示が死なない他の理由を、見つけ出さないといけなくなる」
「つっても、言ってるだけじゃ何も始まらねえぜい。奴のギミックを探るにしても、グダグダ悩んでお喋りに興じる時間もそんなにないっぽいしな。……それで、頭の整理は済んだか? ユーマ」
不死にさえ思える寄操令示。一体どういう理屈で、何が起こっているのか。それはまだ分からない。
だが、高見の言う事も正論だ。
机に向かって根強く考え、論議を交わす時間など無いし、
動揺している場合でもない。
「そう、だよな……。よし」
ひとまず、だ。
高見も言っていたことだが、勇麻がどうやってあの寄操令示をここまでの状況に追い込んだのか、それを考える事は実に無意味だ。勇麻自身、混乱してはいるし、集中できていない自覚もある。
けれど、何があったかなど些細な事だ。
重要なのはただ一つ。アリシア達の救出に成功し、寄操令示は傷ついている。今が絶好のチャンスだという事。勇麻はその事実だけを噛み締めていればいい。
しかし寄操の不死問題に関してはそういう訳にもいかない。
これは勇麻達が乗り越えなければならない問題であり、目下最大の壁であることは間違いない。
寄操を殺すにしても退けるにしても、こうも無尽蔵に立ち上がられてはこちらに勝ち筋など一ミリも生じないだろう。
(落ち着け、しっかりしろ。ここで手を誤れば、また大切な人を失う羽目になる。今やるべき事、その最善を選べ)
勇麻は自分の中の何かを切り替えるように一度大きく息を吸い込み、
「高見、ひとまずアリシアと女の子を安全なところに頼む。それから、泉の応急処置を頼めるか?」
その短い指示を、場馴れしている高見は一瞬で冷静に処理した。
全ての状況、可能性を鑑みて、その上でこう問い返す。
「ユーマお前、一人でやる気か?」
「馬鹿言え、俺一人じゃ勝ち目なんかねえよ。けど、ゾンビのカラクリ解き明かすにしても、誰かが体当たりで調べるしかねえだろ。全身ズタボロの俺に、謎解きと決着の両方を担える余力はねえ。俺がどうにかしてアイツの不死のカラクリを解き明かす。だから……後は分かるだろ?」
勇麻の“嘘の言葉”に高見は何かを考えるように瞳を閉じると、数秒後に力強い声でそう答えた。
「……分かったぜい。けど、これだけは約束しろ。死ぬなよ」
高見は小脇に女の子を抱え、アリシアの手を引いて後ろに転がる泉達の元へと空間移動で虚空を渡り移動する。
その背中に、胸の内で勇麻は頭を下げた。
(……悪いな高見。でも、俺はやっぱり皆を巻き込みたくない。あいつは、俺がケリを着ける)
アリシアが何か言いたげな顔でこちらを見ていたことにも気づいていた、しかし勇麻はそれさえ黙殺した。
今すぐ駆け寄りたかったし、喋りたい事も山ほどあった。けど今すべきことは他にある。
(……アリシア、後でちゃんと謝る。だからゴメン。でも、まだ終わっていないから……)
目の前の敵の瞳はまだ死んでいない。
勇麻は警戒を新たに、顔の前に右の拳を構えながら少しずつにじり寄るようにその距離を詰めていく。
「う、うっうっ!? げぇほッ、があああっ……あッっごがァッ!!?」
寄操は、悶えるようにその身をくねらせ、熱した鉄板のうえに落とされた虫のように疼痛に踊り狂う。
まるで内臓全てを破壊され尽したかのように、凄まじい量の赤黒い液体が滝の如き勢いで流れ落ち、寄操の足元にちょっとした水溜りを作っていた。
膝を折り地にうずくまり、はらわたを庇うように下腹部を両手で押さえる。
ビクンビクンと寄操の身体が発作のように震えるたび、またさらなる血が吐き出される。
しかし寄操は、苦悶の表情の中にニヤリと満面の笑みを浮かべて、
「はぁ、はぁ……は、はははっははッッッ!! げほっ、ごぶっ……。なんだ、君の魂がよく見えなかったのは、そういう事だったのか。うん。それは当然だよね、だって、“二つ”あったんだもの。そんな器に…………げほっ…………意識をっ………………されない訳がない。僕も大概だとは思うけど君も大概、化け物じゃないか。はははっははははっははははは!」
「……言ってる意味が分からねえよ。でも、もう何だっていいよ。寄操令示、お前はもう終わりだ。いや、終わりにしよう」
途切れ途切れの奇操の言葉に引っかかりを覚えつつ、しかしそれらを意識の端から強引に締め出す。
余計な事を考えている余裕などないのだ。なにせ相手は寄操令示。神の子供達などと呼称される正真正銘の化け物なのだから。
「へえ? げほっ、ごほっ! ……僕が、終わり? ……どうやって?」
「お前のその下卑たニヤケ笑いは見飽きたって言ってんだよ。お前が不死だろうが何だろうが、こんなくだらない悲劇はここで断ち切る。“俺”で終わらせる。理由もなく多くの命を奪ったお前を倒すのに、理由も根拠も必要ない。取るに足らないような俺みたいな雑魚に、お前は倒されるんだよ! ……丁度、意味も分からず地に這いつくばる今みたいにな」
「げほっ、がぼっっ……っ、へぇ。そうかい。うん。いいよ、続きをやろう。……君の魂、意地でも開いてみたくなった」
どれだけ致命傷を負っても、まるでゾンビの如く立ち上がる寄操令示。
不死にさえ思えるこの怪物を打倒する為、東条勇麻は己が身を賭す覚悟を決める。
――つい先ほどまで抱いていたはずのドス黒い殺意や憎悪が、いつの間にか霧散している事にも気が付かずに。
☆ ☆ ☆ ☆
結局の所、その程度の物だったんだな、勇麻。
お前が信じ、俺が信じたいと願った希望は、結局の所、その程度の価値しかなかったんだ。
くだらない。
実にくだらなくてつまらない、予定調和な結末だ。
俺の願いは何もかも、全てが無駄だった。意味がなかった。徒労でしかなかった。
俺が勇麻に託した希望は、願いは、たった今絶たれたんだ……勇麻、お前自身の手によって。
俺は人生最大の勝負に勝ち、人生最大の賭けに負けた。
お前は安易な力に頼り敵を打ち滅ぼして勝利を掴み、それを否定していたハズの自分に負けた。
要はそういう話だ。
確かに、その方向性へと誘導をしたのは俺だ。
そういうチューニングを行われた存在として、お前がその流れに乗らざるを得ないように演出した。
結果、全ては俺の思惑通り、想定通りに進んだ。
進んでしまった。
奇跡は起こらず、運命は覆されず、アクシデントは発生せず、予想外はなく、想定外はない、突飛な出来事も、奇天烈な事象も、常識も定石も定説も破られない。予定は予定のまま。着々と段階的に進んでいく。
何もかもが手筈通り、まるで攻略本に沿ってゲームを攻略しているようなそんな気分だ。
高揚感も何もあったものじゃない。
だからこそ、俺は絶望した。
俺はな勇麻、お前にだけは、否定して欲しかったんだよ……。
お前ならそれを否定してくれると、勝手ながらに俺は無邪気に信じていた。
奇麗事を、奇麗事のままに押し通してくれると。
それこそ、子供の絵空事のように。
親が子供を、無条件で信じてしまうように。
……分かっている。
酷く自分勝手な話だという事は、自分がどれだけ馬鹿げたことを言っているのかは頭では分かっているつもりだよ。
それでも俺は、信じてみたかったんだよ。お前が見せてくれた、希望を。
俺が信じたいと思えた、東条勇麻という男を。
……もう一度言おう。
道しるべを示したのも、
最後の一線を超えるよう働きかけたのも、確かにこの俺だ。
だがそれでも、最後の最後。その引き金を引いたのは勇麻――お前自身だ。
この選択はな東条勇麻、お前自身の意志で行われたものなんだよ。
どれだけ否定しようとも、殺意と憎悪に身を任せた破壊はさぞかし気持ちがいいだろう。
圧倒的な力ってやつは、それだけで人の心を折っていく。
それは力を扱う自分自身も例外じゃない。
勇麻。きっと、お前はもう戻れない。
自分だけで乗り越えられない壁にぶつかった時、きっとまたこの力を頼るだろう。
……歓迎しよう。ようこそ正義側へ。
東条勇麻。
これでお前も、血も涙もないクソッタレな英雄様の仲間入りだ。




