第七話 東条勇麻は英雄《ヒーロー》にあらず
「本っっっっ当にすみませんでしたっ!!」
鼻にティッシュを詰め込みながら全力で土下座をかましたのは、東条勇麻の人生において初めての経験であった。……ちなみにこ鼻血は目の前の女の子の裸を目にして出た訳ではない。ケジメとして自分の顔面を自分でぶん殴った時に噴き出した物だ。
額で地面を舐めるように頭を下げ続ける東条勇麻。その姿に、勇麻の眼前──正確には座卓を挟んだ向かい側に──座る一二、三歳くらいの少女はあまり表情を変えぬまま、少しだけ困ったようにぴくんと眉を動かした。
「もう大丈夫なのだ。すみませんもなにも、私は初めから怒っていない。そろそろ顔を上げて欲しい。お主がその様子では、私としても困るのだ。……それに、もし悪いと言うのならお風呂を勝手使った私が一番悪いのだ。ごめんなさい」
少女はあまり抑揚の無い声でそう言い、勇麻に向かって頭を下げる。
彼女の喋り方は見た目の年齢に対して口調がしっかりしているというか、落ち着き払ったものだった。ただ、幼い子供特有の素直さが滲みだしており、それが余計に少女の年齢を分からなくさせる。年相応にも、見た目より幼そうにも、見た目より大人びても見える不思議な子だった。
「ちょ、待った待った、謝らないでいいってば!」
頭を下げる少女を止めようと必死で首を振る勇麻。
少女はとりあえずの着替えとして、脱衣所に置いてあった勇麻のYシャツに身を包んでいるのだが、ただでさえ小柄な彼女に男子高校生の衣服は大きすぎたらしい。
頭を下げた拍子に、Yシャツが肩からずり落ちそうになっている。
おかげで大きく開いた隙間から僅かなふくらみを有する胸元がチラチラと覗き、こちらを誘惑してくるという大変危険な展開になってしまっていた。
……ちなみに例の古書は、こんな状況でも肌身離さず首から紐でぶら下げている。よほど大事なモノなのだろう。
そんな自身の危うさに全く気が付かず、少女はようやく顔をあげてこてりと納得いかなそうに首を傾げ、
「む、何故なのだ? 勝手にお風呂を借りたのは、私なのだぞ」
「いや、お前に謝られたらそれこそ俺の立つ瀬がないって。〝女の子の裸を見た上に、その子に頭を下げさせている卑劣漢〟なんてレッテルを俺に貼らないでくれ頼むから!」
勇麻の必死さが伝わったのか、女の子は「む、そうか?」などと、今度は逆方向に首を捻ひねりながら頷いて、一先ず納得してくれた。
……これでようやっと、話の本題に入れる。
勇麻は気を取り直して、
「ええっと、それで。この状況から察するに、お前が俺をここまで運んでくれたのか?」
「うむ、その通りなのだ」
「じゃあ、傷の手当をしてくれたのは」
「うむ、それも私なのだ」
少女は勇麻の問いをあっさりと肯定してから、にゅっと座卓から身を乗り出して顔を勇麻に近づけて、何かを思い出したように言葉を付け足した。
「あ、傷の治療といっても、血液とともに流れ出てしまった生命エネルギーを一時的に補っただけの応急処置なのだ。傷口が閉じた訳じゃないから、安静にしていないとダメなのだぞ。すぐに傷が開いてしまうからな」
そんな心から勇麻を心配しての忠告も――
(きょ、距離が近い……)
……風呂上りの少女の透き通った白磁の肌と、純白の長髪からはシャンプーともまた違う良い匂いがする。薄く艶めく唇が目の前にあって、吸い寄せられそうになる。
――そんな情報でばかり埋め尽くされてしまって、勇麻の頭にはあまり入っていないようだが。
勇麻は、キャパオーバーを起こしながらもその場しのぎをするようにどうにか鈍い頭と舌を回転させて、
「お、おう。分かった。安静にしとくよ、ありがとう……」
言っている事は半分も分からなかったが、要は傷口を塞いだ訳ではなく、失った体力を回復させた、という事だろうか? 傷は包帯を巻いただけだから、あまり動いたらまた血が出るぞ、と。
もしかすると彼女はそういった治癒系統の神の力を持っているのかもしれない、と勇麻は適当に解釈した。
しどろもどろの勇麻は、内心の動揺を悟られないように、何とか少女から視線を逸らして、誤魔化すように話題を変える。
「あー、でもあれだな。何て言うか、その……よく俺をここまで運んでこれたな? ほら、パッと見その細腕じゃあ、自分より大きい男を運ぶなんて無理そうに見えるけど、意外と力持ちだったり?」
「む、言い忘れていたが、お主を運んだのは私一人ではないぞ。弟くんに手伝って貰って、二人掛かりでここまで運んだのだ」
「弟くん? え、なに、お前って勇火の知り合いなの?」
「? いや、そういう訳ではないぞ。ただ単に、お主の弟くんに手伝ってもらっただけだ」
「?」
ちなみに、その勇火はというと、お客様をもてなすためのお茶菓子を買いにデパートへ行っているらしい。勇麻の夕食もついでに買ってきてくれるとの事だそうだ。
……何だか今日は、いつも以上に勇火に迷惑を掛けている気がした。
後で何かアイスでも奢おごってやるか、と勇麻は適当に考える。
「……そっか、なんにせよ悪いな。ホントに助かったよ、ありがとう」
「いや、礼には及ばん。というより、むしろ礼を言わなければならないのは私の方なのだ」
そう言って少女は突然立ち上がると、パタパタと可愛らしい足音を響かせて勇麻の目の前まで駆け寄ってくる。
腰まである美しい白髪が揺れるたびに、甘い匂いが勇麻の鼻腔を刺激する。
……どうして同じ人間なのに野郎と女の子とでは、こうも匂いが違うのだろうか。
勇麻はまるで何かに化かされたかのように、その白髪から目を離せなくなっていた。
それはまるで、目の前で揺さぶられた猫じゃらしに対して本能的に反応してしまう猫のような、そんな抗いがたい衝動だった。
純白の少女は勇麻の前で正座すると、その場で深々と頭を下げた。
少女の頭が勢いよく動くのに合わせて、白い髪の毛もまた大きく揺れる。
「さっきは、私を助けてくれてありがとう。少年、お主は、私の命の恩人なのだ。なんとお礼を言えばいいか分からないが、その……本当に感謝している。ありがとう」
それは心のこもった感謝の言葉だった。口先だけの言葉では無い、本心からの嘘偽うそいつわりのない言葉。
何の打算も、何の損得勘定もなく、見知らぬ自分なんかの為にその命を投げ打った勇麻に対する女の子の精一杯の心の言葉だ。
だが、女の子から投げかけられた言葉の内容とは裏腹に、勇麻の顔色は優れなかった。
心の内側が、針に刺されたようにチクリと痛む。
「あー、その、何だ。見てたのか。……俺はてっきり、気絶してるモンだと思ってた」
勇麻は少し照れたような笑みを浮かべようとして失敗し、複雑な心境で苦い笑いを浮かべた。
アレを、見られた。その事実だけで、勇麻の胸は鋭利な針で突き刺されたように鋭く痛む。
勇麻が見たとき、間違いなく彼女は気を失っていたハズ。すぐに目を覚ます様子もなかった彼女が、どうして勇麻の行動を知っているのだろう。
顔を上げた女の子は、勇麻の複雑そうな表情には気付いていないようだった。
あまり表情を変えずに答える。
「うむ、説明が難しいのだが……実はあの時、私はとある罠に掛かってしまってな。『肉体』と『精神』を強制的に分離させられていたのだ。意識はあったのだが、自分の肉体と繋がらず、身体を動かせない状態だった。幽体離脱のようなもの、と考えると分かりやすいかもしれない」
要するに、傍から見れば完全に意識を失っているように見えるが、その実視界は生きていて、その間の記憶もしっかりあるという事か。
「ははは、そっか。なんかカッコ悪いトコ見せちまったな。カッコつけて飛び出したはいいけど、返り討ちに合うだけで何も出来なかったし。まさかあんな情けないトコを見られてたとは――」
「――情けなくなんかない」
声が、東条勇麻の自嘲を遮った。
少女は、勇麻がそうやって自分自身を蔑むのが我慢ならないのか、ムッとしたように頬を膨らませて勇麻に詰め寄る。
「お主はカッコ悪くなんかない。見ず知らずの他人の為に命懸けで戦える少年は、確かに大馬鹿者なのだ。……けど、絶対にカッコ悪くなんかない……!」
「……」
正直驚いた。
少女は、真剣な眼差しで勇麻を見つめていた。
自分が馬鹿にされた訳でもないのに、目の前の彼女は明確な怒りの感情をその碧い瞳に湛え、勇麻のことをじっと見据えている。
少女は自分を助けた東条勇麻に、本当に心の底から感謝しているのだろう。
だから自分の恩人が馬鹿にされたという事実が耐えられなかった。馬鹿にしたのが当の本人であっても。
例え、最後の最後で敗れようとも、きっと彼女にとって東条勇麻はヒーローだったのだろう。
自分の為に拳を握って強敵へと立ち向かっていくその姿に、何かしら特別な感情を抱くのは何も不思議なことでは無いのだから。
だがそれは、見当違いの的外れもいいところな彼女の妄想の産物だ。
東条勇麻がヒーロー? 当の本人から言わせてもらえばそんな戯言はただの笑い話にもならない不愉快で価値のない妄想だ。
だがきっとこの女の子はそれを認めはしないだろう。どれだけ勇麻が自身を蹴落としても、少女の中では東条勇麻は既にヒーローとして完成してしまっている。
東条勇麻が英雄であると、彼女はもう信じ込んでしまっている。
……確かに、それが如何に妄想の産物に過ぎないのだとしても、彼女にとって『東条勇麻に救われた』という事は紛れも無い事実なのかもしれない。
彼女視点の物語があったとしたら、東条勇麻は間違いなく悪を挫くじき少女を助ける『正義の味方』なのだろう。
だが、
だからこそ痛いのだ。
感謝の言葉も、憧れも、何もかもが痛い。
その言葉にしっかりとした想いが伴えば伴うほど、重く、深く、のしかかる。
勇麻は、自分が誰かの為に戦うヒーローじゃない事をよく知っている。
彼が拳を握るのは、いつだって自分の為だ。
誰かの為ではない。
その行為の結果として、今のように『ヒーロー』として賞賛されてしまう事はあるかもしれない。
彼女がそう思ったように、他人の目から見たら東条勇麻という少年は、誰かの為に拳を握れるような男なのかも知れない。
けれど違うのだ。
勇麻自身がそれを一番理解しているからこそ、こうした他者からの好意にも似た感謝の眼差しが、どうしようもなく痛い。
まるで自分が他人を騙だましてその人から好意を受け取っているような、そんな罪悪感にも似た不愉快な気持ちになる。
そして、今更ながらこんな事をしてしまっている自分に、滑稽さすら感じてしまうのだ。
今になっても未練がましく、東条勇麻は過去の亡霊に自らしがみついている。
それが勇麻は許せない。
けれど、しがみつく事を辞めてしまう事のほうがきっと勇麻は許せない。
だからいつまでも変わらない。
東条勇麻はどこまでいっても本物にはなれない。――決して。絶対に。
「……違うんだよ、俺は誰かの為に戦えるような人間じゃない。今回だって、別にお前の為に戦った訳じゃないんだ。……お前に感謝される様なことをした覚えは一つも無いし、そもそも俺はあのイルミとかいう女に負けている。勝手に出しゃばって、勝手にやられただけだ。――ほら、こんな奴に感謝するなんて筋違いだろ?」
そう、感謝されるようなことなんて何一つしていない。
勇麻はただ、彼自身が抱える『とある事情』のせいで戦わざるを得なかっただけなのだから。
こう言っては何だが、その事情が無ければ、あのイルミとナルミとか言う訳の分からん姉妹が出てきた時点で倒れる少女を見捨てて猛ダッシュで逃げていたかもしれない。いや、きっとそうだろう。
要するに少年には戦う理由が、彼女達に立ち向かう義務があった。
それだけ。
拳を握った理由など、それ以上でもそれ以下でもない。
戦わなければならなかったから、結果だけ見れば少女を助けようとしたように見えてしまった。ただそれだけの話。
こんな自分勝手な奴に感謝の言葉を送るなんて筋違いも良いところだ。
だが、純白の少女はそれでも譲らなかった。
依然として怒りに頬を膨らませたまま、頑なに感謝を受け取ろうとしない東条勇麻に言い返す。
「そんな事は無いのだ。それに、例えお主の行動理由が何であろうと、私が助けられた事は事実だ。それを勝手に出しゃばって、勝手にやられただけだと言うのなら、私がお主に感謝するのも勝手なはずだ。そして何より――」
女の子は、そこで一度言葉を切った。
真っ直ぐ、その碧い瞳で勇麻を見つめる。
それだけで勇麻は、その瞳に自分が吸い寄せられるような錯覚に陥った。
目を逸らす事ができない不思議な魔力がそこにはあったから。
「――私の目には、そんな風には見えなかった」
耳の痛くなるような沈黙が二人の間を支配する。
女の子も勇麻も、身動き一つしない。
まるでこの部屋だけ時間が停止してしまったようで、
ただ無言で、互いに見つめ合うだけの時間がしばらく二人の間に続いたのだった。