第三十三話 語る者Ⅱ――過去と傷と
遡る記憶の底。
いつも夢に見る光景があった。
現実感に溢れた、妙にリアルなあの夢。
それは過去の記憶だ。
高見秀人という少年が、まだごくごく平凡で幸せな少年だった──と思い込んでいた――頃の記憶。
今思えば実にくだらない、きっと、どこにでもあるような話だったのかもしれない。
悲劇と呼ぶには生ぬるく、平凡な日常と呼ぶにはいささか歪んでいたあの日々。
それを思い出すたび、心の柔らかい部分がちくちくと痛む。そんな記憶の中の物語。
☆ ☆ ☆ ☆
高見秀人は極めて裕福な家に生まれた一人っ子だった。
兄妹がいなかった高見は、両親から大きな愛情を受け、すくすくと元気に育った。
上昇志向の強い両親だったからだろう。彼が物心つくころには、その大きな愛情はいかにして高見秀人という人間を立派な成功できる人間に仕立て上げるかに向けられた。
バイオリンに英会話に書道にゴルフ乗馬テニスに弓道。そして勿論勉強。両親はありとあらゆる様々な習い事を高見に受けさせた。
そして幸か不幸か、高見秀人は“ヒトマネ”が得意だった。両親がやらせた習い事のことごとくを高見秀人は極めて高い次元でこなして見せた。
高見の両親も習い事の先生や沢山のコーチ達も、そんな彼をやれ天才だ神童だと誉めそやした。
(どうしてほかの子はこんなに簡単な事ができないんだろう……?)
そう高見が疑問に思い、周りの大人に持ち上げられ続けた結果、同年代の子供達をどこか小馬鹿にしたような視線で見るようになるまで、そう時間は掛からなかった。
そうして高見秀人は、何の問題もなく、ごくごく順調に親の敷くレールの上を何の疑いも持つこと無く進んで行った。
だが、そんな彼の順風満帆に見えた人生は、既に少しずつ狂い始めていた。
……いや、そもそも始まりからして狂っていたのかもしれない。
両親の高見少年に対する接し方に変化があったのは、彼が小学校にあがった辺りからだった。
何を話しかけても優しく笑いかけてくれていた両親の顔から、突如として笑顔が消えた。
まるで腫れものを扱うかのように接してくる反面、高見を見る彼らの瞳から愛情の色が消え、恐怖の色が見え隠れし始めたのだ。
今思えば、丁度あの時期は学校入学前の身体検査があった頃だ。
新入生の健康状態をチェックすると共に、神の力の有無を調べる為の身体検査。
入学時の身体検査は義務付けられている為、ほとんど親はこのタイミングで自分の子供が神の能力者なのかどうかを知る事になる。
とは言え当時の高見少年に、身体検査と両親の態度の変化を関連付ける事などできるハズもない。
両親から嫌われた、そう思いこんだ高見は、なんとかして両親を振り向かせようと、今まで以上の努力を続け、そして今まで以上の結果を出してきた。
けれど、両親の高見を見る視線に愛情の色は戻らない。
それどころか、日に日に悪くなる一方だった。いつしか両親が彼を見る瞳の中に、恐怖を通り越して憎悪や嫌悪すら浮かぶようになってきた頃、高見少年は既に小学五年生になっていた。
親からの愛情を失っていた高見は、自然と外側に愛情を求めるようになっていた。
同世代の子供を小馬鹿にしていた悪癖が収まったのは、親の豹変が彼に与えたいい影響の一つだと言っていいだろう。
高見はその明るい人柄と、どんな事でも努力するその真面目さから、どんどん同世代の友人を増やしていった──などと言う事にもならなかった。
始めは仲良くしていた子供達も、高見秀人の異常なまでの能力の高さを目の当たりにすると、最初は驚き、やがて嫉妬し、最終的には恐れすら抱き、彼を避けるようにどんどん傍から離れて行った。
誰もが皆、その圧倒的才能を嫌悪したのだ。
サッカーが得意だった少年は高見にこう言った。
『サッカーなんてもうしない。おまえのせいでサッカーが嫌いになった』
クラスで成績トップだった少年はこう言った。
『おまえを見てたら勉強するのが馬鹿らしくなってきたよ。所詮凡人じゃあ何をやってもかなわない。頑張るのも馬鹿馬鹿しい』
漫画家を目指していた女の子は言った。
『結局、高見くんみたいに才能のない私には無理な話だったんだよね。……気付かせてくれてありがとうね、ホント。私がいかに馬鹿な夢を見ていたか、ようやく分ったよ』
考古学者を目指していた子も、パティシエになりたかった子も、消防士に憧れていた子も、みんな。みんな。みんな……
凄まじすぎる才能の輝きは、ただそこに存在するだけで人々を傷つける。
太陽に近づきすぎたイカロスが、その翼を失ってしまったように。
眩しさを超えた痛い程の輝きは、ただの暴力に他ならない。
高見秀人という存在は、その言葉を体現していたのだ。
高見の存在が彼ら彼女らの希望の翼をへし折った。その事実に高見自身が気が付いた時には、もう全てが手遅れだった。
家庭にも学校にも居場所がない。
あれだけ高見の事を神童だ天才だと褒め囃していた先生達も、いつしかあまりの出来の良さに畏怖や気味の悪さを覚えていたらしい。めっきり話掛けられることが無くなってしまった。
そんな高見を孤独から救ったのは、一人の転校生だった。
セミが五月蠅くなってきた、とある初夏の事。
整った顔つきを仏頂面に歪めた、けれどどこか病弱そうで儚げな印象を与える線の細い少年。
黒板に書かれた名前は、佐沼翔人。
史上最年少の天才ピアニスト。
そんな肩書きを持つ、自分以外の圧倒的才能の塊との出会い。
それは高見秀人という少年にとって、初めての経験だった。
☆ ☆ ☆ ☆
圧倒的才能はそこに存在するだけで誰かを傷つける。
転校生の少年がクラスの中で浮き始め、疎まれるのに、そう時間は掛からなかった。
そのあまりにも眩い圧倒的才能の前に、誰もが恐れを成したのだ。
けれど、同じ領域に立つ天才はその才能に触れてなお傷つく事はない。
高見秀人と佐沼翔人。
爪弾き者同士、そして圧倒的才能を持つ天才同士、引き合い惹かれあうのは当然だったのかもしれない。
「すごいな翔人ってば! 俺っちさ! 俺っちさ! こんな風に誰かに『勝てない』って思ったの初めてだ!」
「ふん、そんなの当たり前だろ。君と僕とじゃ費やしてきた時間が違うんだ。最初は勝てなくて当然じゃないか。でも、うん。君は……見込みがあるよ。少なくとも僕より上達は早いくらいさ」
悔しげにそう言った佐沼翔人は、けれどこれ以上ないくらいに楽しげだった。
最高の遊び相手を見つけた子どものように、無邪気に笑った少年の顔からはいつの間にか仏頂面が消えていた。
高見と翔人は放課後、よく佐沼の自宅で遊んだ。
最初は翔人がピアノを弾き、それを高見が聞いているだけだったが、高見が翔人にピアノの教えを乞い、翔人が教え始めてからは互いに切磋琢磨するかのように二人で鍵盤と向き合う日々が続いていた。
高見の成長速度は目覚ましいものがあったが、それでも佐沼翔人の実力は圧倒的だった。
どれだけ高見が急ペースの数段飛ばしで階段を登ろうとも、視界にすら入らないような先を佐沼翔人は進んでいるのだ。
「なぁ翔人ー。いいだろー俺っちにも教えてくれよー。どうやんだよそれー」
「秀人はたまには自分で悩んで上達するべきだ。なんでもかんでも僕から教えてもらえると思わないこと。いいね?」
「んだよケチぃー」
「なんと言われようと教えないからね」
「……んな事言って、この前で出した課題があっさりクリアされたのが悔しかっただけの癖に」
「なにか言ったかい? 秀人」
「ふふ、相変わらず仲が良いよね。カケちゃんとタカちゃんって」
「あ、海優ちゃん。起きてたんだね。あ、もしかして翔人が五月蠅かった?」
「あはは、大丈夫だよ。それにいつまでも寝ていられないもの。私だって、はやくカケちゃんやタカちゃんと一緒に学校に行くんだから」
「だいたい秀人はいつも調子が良すぎるんだよ。そんな軽い態度じゃ伸びる物も伸びなくなるぞ。海優からも何とか言ってやってくれないか?」
「えー、わたしは好きだけどなー。タカちゃんのそういうとこ」
「へっへー、ほらみろどうだ翔人」
「海優がそうやって甘やかすからコイツはさらにいい気になるんだぞ? この前だって、僕が折角教えたことを……ぶつぶつ……ぶつぶつ……」
そして彼らの日常を語るうえでもう一人かかせない人物がいる。
二人の演奏やくだらない会話を聞いて微笑を浮かべる盲目の少女。朝香海優。
彼女は佐沼の幼少期からの知り合いだった。
目が見えないだけでなく、幼い頃から身体が弱い彼女は今までの人生できちんと学校に通った事も無いのだと言う。言い方は悪いが、いわゆる不登校の少女だった。
そんな海優の唯一の遊び相手が、幼い頃から付き合いのある翔人だった。
そこに最近新たな友達が加わったことに、海優は最初はとても驚き、そして同じくらい喜んでくれた。
「カケちゃんが友達を連れて来てくれたのは、タカちゃんが初めてだったから。それまではね、あの子、ずっと一人だったんだよ。わたし以外にだーれも友達いなかったんだから」
高見少年と朝香海優が仲良くなるのに、そう時間は掛からなかった。
いつしか高見と翔人の二人だった日常が、三人の日常へと変化していた。
そんな三人の何気ない日常が、高見にとっては生まれて初めて得た本当の意味での安寧だった。
「ほら、あの子って誤解されやすいでしょ? 本当はとっても優しいのに、どうしてかそれを隠そうとしちゃうような子だから」
少し寂しげにそう言った少女の閉じられた視線は、窓の外の夕焼けに溶けて行く真紅の街並みを眺めているようにも見えた。
光を映さない瞳で、それでもそんな運命に抗うかのように。
「……ねえタカちゃん」
「ん、なに?」
「いつまでも、カケちゃんの隣に居てあげてね。あの子、ああ見えて寂しがり屋さんだから」
「おうよ。勿論、海優ちゃんと三人で一緒な」
にひひと笑って当たり前のように答えた言葉に、海優は無言で微笑を浮かべるだけだった。
やがて高見は、許される限りのほとんどを佐沼邸と朝香海優の家とで過ごすようになる。
学校が終わってから翔人と二人で朝香海優の家へと走り、佐沼邸で夜を越した。
翔人の両親は厳しくも優しい人で高見が親について尋ねられた時に複雑そうな顔をしたのを見ると、それ以上は何も言わずに食事を振る舞い、まるでここにいるのが当たり前のように高見に接してくれた。
彼女自身のどうしてもという希望もあって、身体の弱い海優を連れ出して野山にピクニックに行ったり、海に行ったりもした。
海優の親御さんにはこっぴどく叱られたが、最後にはどこか彼女の両親も嬉しげにしていたのが印象的だった。
それとは対照的なまでに高見の両親は己の息子の事など些かも心配しておらず、どころか息子が家に帰らない事を喜んでいるようなふしすらあった。
夏休みなど、実家に帰るのは一週間に一度くらい。それなのに連絡の一つも寄越さないのだから、両親が自分のことを全く考えていない事が馬鹿でもよく分かる。
けれども高見は、もうそんな事を悲しいとも思わなくなっていた。
だって、自分を見てもくれない両親といるよりもずっと満たされた時間がそこにあったのだから。
「なぁ翔人、起きてる?」
「……なんだよ」
「海優ちゃんってさぁ、お前の幼馴染なんだよな」
「あぁ、そうだよ」
「翔人ってさ……、海優ちゃんの事が好きなの?」
「ッ!? げほっ、ごほっ!? ……。」
「なぁ、翔人――」
「――僕は、あの子に聞いて貰いたいんだ。“世界の色”を。僕は、その為に……」
「――そっか。それは、アレだな。俺っちも頑張って応援しないとだよなっ!」
「馬鹿言うな、秀人。お前には、……最後まで手伝って貰うからな」
照れ隠しなのかそっぽを向いて紡がれた親友の言葉に高見がニカッと笑い、二人で窓の外の夜空に想いを馳せた。
幸せで、毎日が楽しく、充実していた。
認められるとは、生きていてもいいんだと他者から求められるというのは、こういう事なのだ。
『ああ、幸せだ』。
この時高見は、心の底からそう思えたのだ。
そしてそんな幸せに溢れた時間は、一年もの間続いた。
季節は巡りまた夏が来て、高見秀人と佐沼翔人は小学六年生になっていた。
☆ ☆ ☆ ☆
それは小学校生活最後の夏。
夏休みを一週間前に控えた、梅雨真っ盛りの雨の降るどんよりとした日だった。
朝香海優に関するその知らせが、高見の頭にガツンと強大な衝撃をもたらしていた。
「海優ちゃんの容体が……?」
「……あぁ、あまりよくないらしい」
「で、でもそれって、命に関わるような物じゃないんだよな? な?」
「……」
「……。マジかよ……」
「ごめん、秀人には言っておくべきだったよな。……ごめん」
「そんな、そんなんで謝られても、翔人も海優ちゃんも、誰も悪く無いじゃんかよ……」
「海優、来週の月曜には入院の為に大きな病院に行くって……」
「ってことは……」
「そうだ。次の週末のコンクールがラストチャンスだ。それを逃したら、今度はいつ海優が外に出てこれるか分からない……。だから、僕の持てる力全てを出し切るんだ。そうすれば、きっと……」
“世界の音”を彼女に聞かせたい。
決意と誇らしさの中に少しの気恥ずかしさを混ぜてそう高見に語った翔人も、まさかこんなにもリミットが訪れるのが早いとは思っていなかったのだろう。
そもそも高見は、あの優しい少女の身体がそんなに悪い事さえも知らなかったのだ。
海優の事を高見に告白した翔人の顔には、明らかな焦燥が見て取れた。
窓の外の暗雲とした灰色が、おかしな寒気を高見に与えていたのを覚えている。
☆ ☆ ☆ ☆
夏休み最初の日曜日。
佐沼翔人のピアノ公演の日であり、朝香海優の入院前日でもある。
彼ら三人にとって、とても大切な日。
国内屈指の巨大な音楽ホールの扉の前で、高見秀人は携帯で時間を眺めながらイライラとその場で足踏みをしていた。
行きかう人々に目を凝らして、それでも目当ての姿が見つからない事に溜め息を吐く。
「なにやってんだよ翔人のヤツ。もうすぐ時間だってのに……」
既に他の演者の演奏は始まっていた。
翔人は最年少の天才ピアニストという触れ込みもあってか注目度が高く、順番自体は最後の方だ。
とはいえプログラムは順調に進んでいて、翔人の出番までもう三十分を切っている。
朝香海優は既に彼女の両親と一緒にホール内の客席に座って、翔人の出番を楽しみに待ちつつ演奏を聞いているハズだ。
その隣に座っていた高見は、トイレと彼女に嘘をついてホールから抜け出している状態なのである。
これ以上座席に戻らなければ、彼女も何かあったのかと心配するかもしれない。
体調があまりすぐれない海優に無駄に負担を掛ける訳にはいかない。ここで待っているからと言って、何ができる訳でも無いし、時間的にも結構な時間外に出ているのが現状。もう戻るしかないのか。
そんなもどかしい思いに、髪の毛を掻き毟ったその時だった。
今までずっと沈黙を守ってきた携帯が甲高い音を発したのだ。
着信だ。
慌てて耳を当てると、聞きなれた声が聞こえてくる。
間違える訳がない。佐沼翔人だ。
「何やってんだよ翔人! もうすぐ時間なんだぞ。……え? 事故……?」
怒りも露わにした怒鳴り声は、だが数秒と続かなかった。
受話器の向こうからの言葉に、ただただ頭が真っ白になった。
翔人から告げられた話に、どう反応をすればいいのか分からない。
ただ、何も考えないまま、その言葉を反芻していた。
「翔人の、おばさん達が、事故って、そんな……」
それは今朝八時ごろ、翔人の両親の乗っていたバスが事故に巻き込まれたという内容の、些か以上にショッキングすぎる話だった。
二人はすぐに病院に運び込まれ、母は何とか意識を取り戻したが父は意識不明の重体。翔人はつい先ほどまで病院に居たと言うのだ。
「そ、それで。お前、どうすんだ……え、今こっちに向ってるのか?」
翔人も最初は今日の演奏を中止するつもりだったらしい。予断を許さない状況で連絡を取る暇が無かったのと、海優への想いからどうしても決断できなかったのもあっただろう。今の今まで中止の連絡が入っていないのは、翔人が諦めきれない証拠であった。
それでも翔人がまだ意識を取り戻さない父の元を離れて公演を決行する決意をしたのは、一足早く意識を取り戻した母の説得があったからだそうだ。
しかし……
「電車が遅延……!? 冗談だろ……」
道路の交通状況を鑑みてタクシーではなく電車を選択した結果、翔人の乗り込んだ電車の路線で人身事故が発生。予定よりも大幅に遅れてしまう事が予想されているらしい。
電車から降りて交通手段を変更しようにも、翔人の乗った車両は線路上で停止。乗務員に必死で頼み込んだもののその場で待機が命じられ、今現在身動きの取れない状況だと言うのだ。
『秀人、僕は……僕は。ちくしょう! どうしてこんな事に……ッ!」
必死に平静を装おうとして失敗した翔人の悲痛な声が、高見の鼓膜と心を激しく揺らした。
だって、こんな仕打ち、あまりにもあんまりだ。
高見は、まるで自分の事のように悔しくて、涙が出そうになっていた。
世界の全てが高見と翔人にケンカを売っているような、そんな孤独感と虚無感に包まれる。
何とかしてやりたい。
けれど、高見に何ができる。
数多の才を持ち、天才だ神童だと恐れられてきたとは言え所詮は十二歳の子供でしかない。
高見にできる事など、子どもに可能な領域からはみ出た物ではないのだ。
(何か、俺っちにできる事はないのか……)
佐沼翔人は言う。
このままじゃ、何の為に意識不明の父の傍を離れたのか分からない、と。
このままじゃ、何の為に今日まで頑張っていたのか分からない、と。
彼にはどうしても届けたい音があった。
その音を、どうしても届けたい人がいた。
その事を誰よりも知っていたのは、他の誰でも無い、高見秀人だった。
知っている。
全部、全部、全部。
彼の想いも、努力も、苦悩も、焦燥も、苦労も、挫折も、栄光も、この一年間、ずっと隣で眺めてきたのだから。
翔人が音を届けたかったその誰かは、今日を最後に入院してしまう。
このままでは翔人にその機会が与えられることなく、その誰かさんは消毒臭い真っ白な密室に閉じ込められ事になる。
彼女が出てこられる保証も、翔人が演奏を聞かせてやれる機会がまた来る保障もどこにもない。
大前提として、佐沼翔人は時間には間に合わない。
彼に与えられた演奏時間はおよそ四十五分。
つまり、翔人の出番までの時間を考えればおよそ一時間。それまでの時間をどうにかして稼げば、あるいは……。
(あるじゃんかよ、俺っちにもやれることが!)
誰よりも、その姿を見てきた。
誰よりも、その音色を聞いてきた。
誰よりも、その強い想いを感じてきた。
ならば、
「……なぁ、翔人。俺っちに考えがあるんだ」
幼い子供ながらに必死に考えた稚拙で幼稚な打開案。
それは、一種の賭けでもあった。
高見秀人だからこそ取りえる、たった一つの手段。
あまりにも無茶苦茶で現実味に欠けた親友のその提案に、佐沼翔人は絶対の信頼を寄せて一言。
『――頼んだ……ッ!』
これが運命の分かれ道であるとも知らず、少年は一歩。致命的な歩みを踏み出した。
☆ ☆ ☆ ☆
胸が見えない鎖か何かでぐるぐるに締め付けられているかのように息苦しい。
身体の中で太鼓の音が大きく響き木霊する。
視界が歪む。嘔吐感を伴った気持ち悪ささえも覚える。落ち着きなく視線を彷徨わせると、沢山の視線が突き刺さり、ますます身体中の筋肉がかちこちに硬直していくのが分かる。
今までの人生で感じたこともないような、極度の緊張感が己の身体を支配し、まるで自分の物ではないような錯覚さえ覚える。
これだけの人がいるにもかかわらず、場を包むのは息遣いさえ喧しく感じるような静寂。
ローファーとフローリングの床の鳴らす靴音一つ一つにさえ気品を求められているような、そんな錯覚を覚えてしまう。
それでも一歩、一歩と自分の居る場所が現実であることを確かめるように進むと、そこに漆黒の輝きを見せる大きな鍵盤楽器が鎮座していた。
白と黒のコントラストが少年を誘う。その中で少年は一度客席側へと向き直って、もはや人物としてではなく光景として眼前一杯に広がる観客へと一礼。
それから何かを切り替えるように一息つくと、改めて鍵盤へと向き合う。意識を集中して、そして――
――流れるような手つきで、鍵盤を叩きはじめた。
高見秀人の思いついた打開策。
それは、どう考えても無謀な子どもの浅知恵でしかないように思えた。
佐沼翔人の替え玉として演奏し、翔人が会場に到着するまでの時間を稼ぐ。
幸い、背丈や体型はそう変わらない。
後はかつらで髪型を誤魔化して、声をうまく真似て、タキシードを着こなすだけ。長くおろした前髪で表情を隠しさえすれば、そう簡単に正体がバレる事はない。
舞台上にあがってしまえば後はこっちの物だ。翔人が来るまで、なんとか誤魔化し切れればそれで構わないのだから。
後々問題になろうがそんな事は知った事じゃない。今日、この瞬間に間に合わないような事があれば、翔人はきっと一生後悔する。
ほんの少し。僅かな時間でいい。彼女に音を届ける為の時間を稼ぐ。
それくらいの事ならば、高見秀人にだってできる。そう思っていた。
(ヤバい、ざわめきが大きくなってきたような気がする……!?)
最年小天才ピアニストとして名を馳せている佐沼翔人目当てに訪れた客も多いのだろう。外見ではうまく騙す事ができても、演奏の技術的な物までコピーできている訳ではない。
耳の肥えた客達は、その音色の明確な差から確かな違和感を感じ取っているのだ。
(――集中しろ。一挙手一投足に全神経を払え)
自分が一番分かっている。
(――イメージしろ。アイツの演奏を、あの音色に極限まで近づけるんだ)
その域まで自分が達していない事を。
けれど、何度も何度も脳裏に焼き付くほどに見てきたはずだ。
その姿を。
(――違う、もっと。もっとだ。中途半端なクオリティで満足するな。俺っちは……いや、今の僕は。“今は僕が佐沼翔人”なんだから!)
刺すような痛みが頭を襲う、極限の集中力が高見の脳にまで負担を掛けているのか。それとも今まで経験したことのないような緊張感に、身体がついていけていないのか。
(――何も心配する必要はない。佐沼翔人にできる以上の事をする必要はない。自分で言ったハズだ。他の子供にできて俺っちにできない事はないんだから)
次第に音が変質していく。
高見秀人という個性を消したその先、毎日のように高見秀人が聞いていた音へと、少しずつディティールを詰めていくように、どこかぼやけていた音に命が宿っていく。
ざわめきや騒音が薄れ、やがて誰も彼もが目の前の少年の奏でる生きた音色に心を奪われるように瞳を閉じていく。
(――佐沼翔人にあって高見秀人に足りない物を数えろ、足りない物を補うために必要な物をリストアップしろ。自分自身の中にある物で佐沼翔人を再現する為に必要な要素、理論値の構築。並びに実行。全てを自分自身に最適化させつつ“オリジナル”を模倣する。大切なのはイメージだ。佐沼翔人がピアノを弾いている姿を思い浮かべ、それに俺っち自身を重ねろ)
目の前にあるかのような映像が脳裏に浮かび、現実の高見秀人と記憶の佐沼翔人が折り重なっていく。
どこか意識に靄がかかっているような、心地のいい感覚が高見を包んでいた。それは超一流のスポーツ選手が陥るゾーンにも似た、超集中状態だ。
今の高見秀人は、本人にさえ自覚できない次元で高レベルの演奏を行っていた。
そして――
(…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あれ?)
――気が付けば、全ての演目が終了していた。
結局、最後の最後まで佐沼翔人は現れなかった。
演者が最年少天才ピアニスト佐沼翔人ではない全く無名の別人にすり替わっている事に誰一人として気が付く事なく、惜しみない割れんばかりの大喝采がステージ上の少年に贈られた。
生まれて初めて受ける多数の他者からの莫大な感情の嵐に、しかし高揚感など微塵も浮かばなかった。
視界の端、盲目の少女朝香海優が光の映らない瞳から涙を流して、夢中になって拍手をしている姿が、高見の胸の中にどす黒く重い物を落として行った。




