第三十一話 傷つき傷つけ愛う者達Ⅲ――敗走の少年
戦場に突如として現れたその大男が、全ての盤面をひっくり返してしまった。
規格外にして規定外。常識その物をぶち壊すような暴挙。
まるでカブトムシ相撲に人間の横綱を乱入させるような、反則じみた行為。
寄操令示の造り出した寄生虫によって身体の支配権を奪われ、勇麻に向けて一撃必殺の攻撃を放った天風楓も、そしてその攻撃の直撃を受けて消し飛ぶハズだった東条勇麻も、眼前に広がる理不尽極まる光景に、ただただ唖然と口を開くしかない。
驚愕に固まった二人の瞳に映った物、それは映画か何かのようなあまりにも突飛で非現実的な光景だった。
天風楓の放った、大災害そのもののような威力を誇る一撃、『嵐撃終焉』を掌一つで受け止める。
常識どころかこの世の理からも外れていそうな事をしでかした隻眼の大男の乱入は、インパクトの面において東条勇麻がこれまで遭遇した物全てを上回っていた。
しかもその男が天界の箱庭を管理運営するこの街の頭脳であり心臓とも呼べる組織、『創世会』と敵対関係にある『背神の騎士団』の団長だと名乗りだしたのだ。
これで驚くなという方が無理な話だ。
それに、
(……スネーク。どこかで聞いた事があるような………………ッ!? そうだ、あれは確か黒騎士と戦った時に勇火が……)
スネークという名前には実は勇麻は聞き覚えがあった。
勇麻の記憶が正しければ、あれは黒騎士との死闘の際、勇麻のピンチに駆けつけた勇火が発した名前だ。
その人物の力を借りて勇麻を助ける事に成功した、とか何とか。確かそんな内容の事を言っていた気がする。
あの後、すぐに黒騎士が復活し、しかも南雲龍也の姿で勇麻達の前に立ち塞がった為、すっかり思考の外側に追い出されて、今の今まで有耶無耶になっていたのだ。
「おいおい、いつまで固まってるんだ? ボウズに石化の魔術をかけたつもりは無いんだがな」
既に『嵐撃終焉』は止み、楓も大技の反動があるのかさらなる攻撃を仕掛けてくる気配もない。
先の一撃の膨大なエネルギー量が原因なのか、空気の焼け焦げたような匂いが鼻をついた。
破壊の嵐の中に堂々と割って入ったその男は、少しばかり呆れたように笑って勇麻に左手を差し出している。
反射的に掴んだ手は、とてつもない力で勇麻を引っ張り上げた。
半ば強引に立ち上がらされた勇麻は、混乱と困惑の極みの中で、それでも何とか形式的に、やや疑問形ではあったがお礼の言葉を捻り出した。
「あ、ありがとう、ございます……?」
困惑したような、どこか煮え切らない謝礼にスネークは僅かに顔をしかめて、
「男からの、しかもそんなへなへなした礼なんて貰っても嬉しかねえがな、まぁ貰っといてやるさ。あとその堅苦しい敬語はやめてくれよ。俺は日本のくだらん縦社会が大っ嫌いなんだ」
「は、はぁ」
曖昧に頷いた勇麻にスネークは一度頷くと、それからぼりぼりと頭を搔いて、
「ったく、何をボサっとした顔してやがる。お前さんにはやるべき事があるんだろう? 違うか?」
またも呆れたような顔でスネークはそんな事を言ってくる。
出会ってから僅かな時間で、何度この男を呆れさせたか分からないが、それでも勇麻も自身自分に呆れたくなる心境だった。
むしろ怒りと言ってもいい。
そう、彼の言う通りだ。今の自分はこんな事をしている場合ではない。
目の前で苦しむ幼馴染の少女をどうにかして救い、既に敵の手に落ちたと思われるアリシアも助け出して、仲間すら欺いて寄操に挑みかかったかもしれない余りにも水臭い友人をぶん殴って、寄操令示のクソ野郎を倒さなければならないのだ。バラバラになってしまった他の仲間達の行方も気になる。
とにかく言えるのは、勇麻にとっては一分一秒が取り返しのつかないくらいに重要な物であり、今のように馬鹿みたいに呆けている時間は在ってはならないという事だ。
確かこの男、スネークの助力が勇麻を助けたのは事実だし、これ以上なくらいに感謝はしている。
とは言え、いつまでもこの男とのお喋りに興じている時間はない。
後に予定が詰まっているのだ。
勇麻はすぐにでも楓を助け出し、アリシアや他の皆も助けなくてはならないのだから。
「……スネークさん」
「あぁ硬い硬い。スネークでいい」
ひらひらと、スネークは頭の横で適当に手を振って言う。
勇麻は頷くように一度息を唾を飲んで、
「スネーク、俺を助けてくれたことには感謝してる。本当にありがとう。おかげで助かった。でもここは、天風楓の相手は、俺に任してくれないか? 楓がこんな風になっちまったのは、俺のせいなんだ。俺がコイツを巻き込んで、信頼も裏切った。だから、俺がここで決着をつけねえと、ケジメをつけねえとダメなんだ」
スネークは何も言わない。
巌のように固まったその厳しい表情からは、碌に感情を読み取る事もできない。
ただその巨大な虎のように雄々しく鋭い視線が勇麻を値踏みするように顔を舐め、酷く心を粟立たせる。
何かに責め立てられるように、大男の反応も待たず勇麻は急ぎ早に言葉を続けた。
「アンタならもう知ってんのかもしれないけど、アンタの部下もこの事件に巻き込まれてる。あんま聞きたくない話かもしれないけど、そいつらもどっかで負けちまった可能性が高い。なあ頼むよ、そいつら、俺の無茶な案に快く協力してくれて、その結果こんな事になっちまったんだ。本当なら俺が何とかしなきゃいけないってのは分かってる。筋が通らない話だってのも重々承知だ。でも、それでも頼むよ。アイツらを助けてやってくれよ。アンタ、アイツらの団長なんだろ? だったら……」
「なぁ、ボウズ」
短い言葉が勇麻を遮り、
「悪いがこれ以上、お前さんとあのお嬢ちゃんを戦わせるわけにはいかねえ」
意味を理解するのに、体感時間では一分以上の時間を要した。
意味を理解して、言葉の意図を察して、それからは早かった。
まるで枯草に火を放ったかのように、あっと言う間に怒りという名の炎が燃え上がる。
「――……………………………………………………は?」
気づけば、無意識のうちに身体が動いていた。
勇麻は凄まじい勢いでスネークに詰め寄ると、その胸倉を掴みあげる。
相手が化け物のような強さを秘めているとか、圧倒的に格上であるというくだらない事実など、全て吹き飛んでいた。
ただただ胸の内で燃え盛る感情のままに、額に青筋を浮かべて激を飛ばしていた。
「……一体何を言ってるんだ、アンタ。楓を……俺にあの子を見殺しにしろって言うのかよ!?」
激しい感情をぶつけられた当のスネークは、自分の胸倉を掴む少年の手を極めて軽い動作で振り払うと、少しばかり鬱陶しげに、
「話が飛躍しすぎだ馬鹿野郎。俺が何の為にはるばる地球の裏側からこんな血塗れ遊園地に来てやったと思ってやがる。お前さん達を助太刀してやる為だっつーの」
「だったら!! ……だったらさっきのは、どういう意味だ」
思わず荒げた勇麻の声が一段階低く、小さくなる。
勇麻も自分が必要以上に熱くなっている事を自覚してか、意図的に間を作ってどうにか己をクールダウンしようとする。
それでもその瞳には強い怒りの感情が宿り、明らかに戦闘力では敵わないであろう大男を鋭く睨み付けている。
しかしスネークはそんな勇麻の眼光に一切動じる様子を見せず、オールバックを掻き上げながら、
「回りくどいのは好きじゃねえしな、この際はっきり言うぞ。今のボウズじゃあのお嬢ちゃんを助けられねえって言ってんだよ」
「……なんだよ、ソレ。俺じゃあ楓を助けられないから、力不足で邪魔だからどけって、後は全部俺にまかせてお前はケツ巻いて逃げろって、そう言ってんのか……?」
「ものすごく偏見に満ちた切り取り方をすれば。まあ、そうなる」
スネークの顔には厳しさと勇麻の心情を慮るような色があった。その相手に情けを掛けるような余裕さが、まるで自分の発言全てが正しいのだと信じて疑わない事の証にも思えて、ますます勇麻の怒りに油を注ぐ。
ふざけるな。
頭の後ろがびりびりとざわめき、熱くなるような感覚。
後から遅れてやって来た分際で、何て傲岸不遜で、何て傍若無人なのだろう。
東条勇麻は天風楓を救わなければならないのだ。そうでないと、ならない。
自分が招いた悲劇の責任を取らねばならないのだから。
それを背神の騎士団団長などという嘘かホントも分からない看板をぶら下げただけの男が、部下達の危機に間に合わずに今更やってきた男が、どの面下げて何を語っているのだ。
勇麻の怒りがどんどん熱を帯びていく。
「ふざけんな……」
気が付けば怒りのままに口を開いていた。
いい意味でも悪い意味でも勇気の拳などと言う力をその身に宿した東条勇麻という人間は、感情的だった。
そしてこの場においてそれは、最悪の方向へと作用した。
「ふざけんじゃねえ! 楓は俺が助けなきゃならないんだ。俺は約束したんだ。これまでも、そしてこれからもずっとアイツの味方でいるって! だいたい、アンタが背神の騎士団の団長だっていう証拠もないだろ。こんな怪しい奴に、楓の身を任せられねえって言ってんだよ!」
止まらない。
まるで針でつつかれ破裂した風船のように、言葉の嵐が吹き荒れる。
割れた風船が再び膨らむ事がないように、取り返しのつかない想いと暴力が吐き出される。
「こっちが黙って聞いていれば、遅れ来たくせに偉そうに。何なんだよ! 俺だって、俺だって実力差がある事くらい分かってんだよ! でも、それでも、だからってやる前から全部勝手に否定してくれてんじゃねえよ! アンタが強いのは分ったよ、だからって、納得なんてできねえんだよ! あの子は俺に謝ったんだ。俺が全部悪いのに、文句を言われて、口汚く罵られ、憎まれて当然なのに。そんな俺に、泣きながら謝ったんだぞ! だったら助けなきゃだろ。俺がやらなきゃいけねえだろ。これであの子から逃げてアンタに全部投げ出したら、全部終わった後に俺は、俺は……どの面下げて日常に帰ればいいんだよ!?」
己を痛めつけるように叫ぶ少年はボロボロで、今にも何かが破綻してしまいそうな危うさを秘めていた。
それに対してスネークは微塵も揺るがない。
確かな信念で、ちっぽけな少年に対峙する。
そこには少しの妥協も驕りもない。それがどんなに滅茶苦茶な言葉であろうと鼻で笑って馬鹿にする事も無く、ただ真摯に真正面から対等に一人の男の言葉を受け止める男の姿があった。
「ぜぇ、はぁ……」
「……」
勇麻は言葉を吐きつくし、スネークは何も語らない。
再び、互いの呼吸さえ聞き取れそうな静寂がホール内に戻る。
スネークの気配を感じさせない静かな息遣いと、肩を激しく上下させる勇麻の荒い息遣い。そしてどこか無機物のように規則的すぎる楓の息遣い。
やがて静寂を破るのを嫌うかのように、ゆっくりとスネークが口を開いた。
「……ボウズがあのお嬢ちゃんを本気で助けたいって事はよーく分った。じゃあ一つ聞こうか。寄操令示の寄生虫に身体の芯まで蝕まれたあの子を、お前さんは一体どうやって助ける気だ?」
「どうやってって、そんなの――」
何を今更そんな当然の事を。そう鼻で笑おうとして、
言葉の続きが、出てこなかった。
「――…………………………、」
ドッ、ドッ、ドッ、
心臓の鼓動音が、静かな空間の中で嫌に頭の中に反響した。
視界が、ぐにゃりと歪む。
それは現実に空間が歪んだとか、そんな大仰な事が起きた訳ではない。
ただ、勇麻の中にあった一つの確信めいた物が、信じて疑わなかった大前提が、根本から捻じ曲げられたのだ。
寄操令示の虫によって身体をボロボロに凌辱されつくした天風楓を、どうやって助けるのか。
その方法。
質問の意味、それ自体は至極単純だ。
だって、東条勇麻は天風楓を助ける為に、何度地を舐めても立ち上がっていたのだから。
だから、勇麻はスネークにその決まりきった答えを告げるだけで良かった。
くだらない質問に、くだらない答えを返せばそれで良かった。
「どう、やって……?」
なのに。
そんな簡単な、それでいて今もっとも重要な事を聞かれて、東条勇麻は即答する事ができなかった。
ドッ、ドッ、ドッ、喧しい音がその間隔を縮める。
脈打つ心臓が、なにかに焦るようだった。
考える。
考えて、思案して、熟考して、長考して、思考して、黙考して、愚考して……。
「…………………………………………………………………………………………」
その場で崩れ落ち、地面に膝を突く音が響いた。
結論を述べると、少女を助ける為に命を投げ出していた男は、少女を助ける為の具体的な方法を、何も知らなかった。
楓の身体を犯す虫をどうすれば排除できるのか、何も知らないばかりか、考えてすらいなかった。
どう考えていても抜けていてはならないパーツが抜けていた事実に、世界と自分に絶望したように肩を震わせ、東条勇麻は俯いている。
そんな少年の姿を見て、スネークは大きな溜め息を一つ吐いた。
「……別にお前さんを責めるつもりはねえ。けどな、そんな酷い状態で、自分の目的すら抜け落ちちまうような精神状態で、お前さんは本当に自分の守りたい物を守り切れるのか?」
「俺は……」
「何度も言うがお前さんは決して間違っちゃいねえ。目の前で大切なモンを尊厳の欠片も無く踏みにじられたんだ。取り乱さない方がどうかしてる。もし逆にお前さんがこの胸糞悪い光景を見て言葉の一つ乱さずに冷静に御託を並べられるような人間だったら、俺がブン殴ってやったところだ」
殴られなくて良かったな、とスネークは笑う。
「俺も長く生きてきた中で、こういう景色はそれこそ掃いて捨てる程に見てきた。けど……ダメだな。いくら見ていくら経験を積んでも、こういうのは駄目だ。生理的に受け付けねえ」
独り言のようなその言葉にはどこか棘があるように感じた。
「大切な者同士、互いが互いを思いやるが故に傷つき、傷つけられて、それでもなお相手の無事を思って笑って死ぬ……。ふざけやがって、良かれと思ったその好意が、残される側の気持ちを踏みにじってるって事にどうしてか誰も気が付かねえ。かと言ってそんな悲劇の連鎖を、このまま見逃してやるつもりもねえがな」
その棘は、他人に向けた物ではない。
自分自身を戒め、過去の選択に後悔し、自分を責め続けるような、己に向けた棘だ。
その時勇麻は、あれだけ大きく強そうに見えたその男が、一回りも二回りも小さくなったように見えた。
「アンタは……、」
その先に続くハズだった問いかけを、しかし勇麻は飲み込んだ。
いや、呑み込まざるを得なかった。
スネークという男の蒼く澄んだ聡明な獣のような瞳が、あまりにも悲哀に満ちた色を浮かべていたから。
「……とにかくだ、ボウズ。お前の戦場はここじゃねえ。今すぐここを離れろ」
「ま、待ってくれ」
勇麻は慌ててスネークの言葉を遮る。
確かに彼の言っている事は正論だが、それでも勇麻にだって譲れない物があるのだ。
「確かにさっきまでの俺は冷静じゃなかった……けど、今の俺は戦えるハズだ。……確かに実力はアンタには及ばねえけど、アンタの力になるくらいなら――」
だが、勇麻のその言葉にスネークは予想以上に苛立った声を返してきた。
「――ボウズ、これ以上俺に言わせんじゃねえよ……」
「……?」
「お前さんは、これ以上あのお嬢ちゃんを泣かせるつもりなのか?」
「泣かせる……? 俺が、楓を、そんな訳が」
一体何の話をしているんだ?
勇麻にはスネークの言葉の意味が理解できなかった。
だって、東条勇麻は天風楓の涙を止める為に拳を握っているというのに、勇麻が楓を泣かせることなんて、ある訳が――
「お前さん、気が付いてねえのか?」
「気が付いてないって、だから一体何の事を――」
スネークの言葉を否定しようとした、その寸前。
『やめて。嫌……だよ、もうやめてよぉおおおおお!!』
「――!?」
唐突に脳裏に蘇ったのは少女の慟哭だった。
記憶の中の楓は泣いていた。
泣いて、叫んで、助けを求めていた。
ボロボロに顔を歪めて、これ以上勇麻くんを傷つけたくないと、そう泣き叫んでいた。
その事に、今の今まで気が付かなかった。
今更のように気が付いた自分が、どれだけ間抜けで自己中心的な人間なのかを思い知らされた気がした。
急に押し黙った勇麻に何かを感じ取ったのか、スネークはそれ以上の追及を止めて、一つ溜め息を吐いた。
「……とにかくだ。ボウズとあのお嬢ちゃんをこれ以上戦わせてやる訳にはいかねえ。あのお嬢ちゃんは、自分が傷つく事よりも自分の力がお前さんを傷つけちまう事に涙を流すような子だ。あんな哀しい涙は、どんな理由があろうとも流さしちゃあいけねえんだよ。自分を慕ってくれる女に涙を流さすなんざ、男としてあっちゃならねえことだ。……たとえそれが、意地や誇りを捨てる事になってもな」
「……」
スネークの言葉に、ぎゅっと血が滲むほど強く拳を握る。
途切れ途切れに紡いだ独白は、怯える子供のように震えていた。
「……俺は、本当は分ってたんだ。楓の声を、俺は聞いていたはずなのに……なのに!!」
東条勇麻はただ守りたかったのだ。
自分の周りの大切な人達と、その人達が暮らすその世界を。
ただそれだけで、それが失われるのが、傷つけられるのが許せなくて、だから恐怖を跳ね除けて立ち上がった。
それなのに、何もできなかった。
その大切な人の一人に裏切られたと想い込み、彼の真意に気が付いてやることもできず、馬鹿みたいに敗北し気を失っている間にも次々と仲間は倒れて行った。
自分のせいで守りたかったハズの人達が傷ついた。
全て悪いのは自分だ。
自分の間違いは、犯した罪は、責任は自分で背負う。
そんな使命感や義務感にも似た執着が勇麻の心のうちに蔓延っていた。
大切な物を傷つけ続ける寄操令示も、そして何も救えなかった怠惰で愚かな自分自身も許せない。
そんなどこか危うい思想に頭の中を占められていく事に何の疑問も抱かなくなる程には、バランスを欠いていたのだ。
そしてそんな不安定な勇麻の心にトドメを刺したのが変わり果てた幼馴染の少女、天風楓のあまりにも悲惨な姿だった。
寄操令示の虫によって身体を好き勝手に蹂躙され弄ばれたあの姿は、既にボロボロになっていた勇麻に耐えられる物ではなかった。
怒りに身を焦がし、東条勇麻はどうしようも無く憎んでいたのだ。
間に合わなかった自分自身と、そして、寄操令示を。
楓の声を、気持ちを無視して、がむしゃらなまでに楓を助けようとしていた。
結局のところ東条勇麻は恐れていたのだ。
まるで、怒られるのを恐れる子供のように。
まるで、呆れられるのを恐れる子供のように。
まるで、嫌われるのを恐れる子供のように。
免罪符が――赦しが欲しくて、
敗北を――失敗を埋め合わせようとしていた。
「……楓を泣かせる奴は許さねえとか、馬鹿みたいじゃねえかよ。俺が、誰よりもそれを許しちゃいけない俺が、泣かせてた……!」
懺悔の言葉も、何もかもが虚しかった。
他の誰でもない東条勇麻の弱さが天風楓を泣かせてしまったのだから。
しかし、天は許しを乞う時間など与えてはくれなかった。
「……ボウズには悪いが、反省会の時間もなさそうだ」
言うが早いか、スネークは振り返りもせずに目にも止まらぬ速さで裏拳気味に拳を振るう。
それだけで至近に迫っていた風の圧縮弾が粉微塵に爆散した。
スネークの背後、十数メートル先に依然涙を流しながら攻撃を放ち続ける少女の姿があった。
大技の反動で神の力が使えない時間が終わったのだ。
ここから先、また先ほどのような死と破壊の弾幕がまき散らされるだろう。それを望まぬ少女の手によって、他の誰よりも少女自身をボロボロに傷つけながら。
「さてと、決断のお時間だ」
スネークは先ほどとは打って変わって不敵な笑みをそのイカツイ顔に浮かべている。
一回りも二回りも大きくなったようなごつい背中は、少しばかり悔しいけどこれ以上なく頼もしく思える。
「とは言っても選択肢も糞もねえ。……まあ、そもそも俺を信用できねえってんなら仕方がねえ。お前さんはここに残ってお嬢ちゃんの心をズタズタに傷つけながら、俺がボウズの代わりに寄操令示をぶっ潰すのを待ってればいいさ。その場合、全てが終わった後で俺がボウズをぶっ飛ばすがな」
「……ほんと、選択肢も糞もないな」
「やるべき事は、分かってるんだろ?」
そんなもの、わざわざ考えるまでもなかった。
アリシアという少女を助けたい。
天風楓の涙をもう見たくない。
高見秀人を見捨てたくない。
泉修斗や弟の勇火と一緒に、いつもみたいに馬鹿をやっていたい。
結局、勇麻はこれまでの何て事のない日常が何よりも大切だったのだ。
勇麻たちの過ごすあの世界が変わってしまうのが嫌だった。
幼い頃に経験した、大切な誰かを失う事による変化など、味わいたくなかった。
これまでと何も変わらない楽しい日々が、ずっと続けばいいと、子どもみたいにそう思っていた。
ヒーローへの憧れも、背負った十字架にも勝る、それが東条勇麻の想いだった。
ならば、自分は今何を成すべきか。
その答えは勇麻が考えていたよりも、思いのほか単純だったらしい。
瞑目し、しばらくの沈黙の後。片膝をついて立ち上がり、意を決したように瞳を見開いた勇麻はようやく口を開いた。
「……あぁ。行ってくる」
その言葉を待っていたとばかりにスネークが不敵に微笑んだ。
「なら、決まりだな。行ってこいよ“東条勇麻”。なぁに心配いらんさ。今ならまだ間に合う。失ったもの全部、ぶん殴って取り戻して来い」
言ってスネークは振り返りもせずにポケットから何かを取り出すと、それを勇麻目掛けて放り投げた。
受け取るとそれはプラスチックで作られた透明なケースだった。
サイズはシャーペンの芯のケース程度で、中に大豆サイズの黒っぽい豆粒のような物が二粒ほど入っている。
「俺からの選別だ。死にそうになったら食え」
「これは……?」
「丸薬だ。簡単に言うと痛み止めの一種。一時的に疲労とダメージを全快したと身体に錯覚させるってドーピングって所だ。勿論副作用はあるが……ま、今から明日の事を気にしても仕方ねえだろ。使いどころはボウズに任せる」
正直言って怪しさはマックスだったが、ここでスネークが嘘をつく理由も思い当たらない。
勇麻は黙ってうなずくと、二粒あるうちの一つを口に含みつつ、プラスチックケースをポケットにねじ込む。
しっかり噛んで呑み込むと、不思議と今までのダメージや疲労がどこかへ消えていくような感覚があった。
「すまない、助かる……!」
「礼は生きて帰ってきたら聞いてやる。時間も無いぞ。いいから行け」
「ああ……っ!」
それは紛れもない敗走だった。
楓からすれば、守り切れ無かった者に背を向け、無責任に他人に全てを投げ出したようにしか見えなかったかもしれない。
そう思われても構わないし、事実なのだから仕方がない。それに、勇麻はそれ以上にひどい事を楓に強いてきたのだから。
食いしばった歯が、ギシギシと軋む。
悔しさと無力さ、己の愚かさを噛み締めて、そして再び顔を上げた。
「……待っていてくれ楓。俺が、必ずお前を助け出すから。必ずみんなで帰れるから」
迷いない瞳には、確かな決意が灯っていた。
「全ての元凶、寄操令示をぶっ飛ばす」
☆ ☆ ☆ ☆
「――勇麻、くん……。わたし。信じてる、から……」
儚く小さな少女の呟きは、騒がしい風の爆音に乗って溶け入るように消えて行った。
少年は彼女の信頼を裏切ったなどと言っていたが、当の少女の方は変わらずにあの少年の事を信じているらしい。
スネークはそんな二人のやり取りを眺め、そして満足げな笑みをそのイカツイ顔に浮かべた。
「なあ龍也、俺は楽しみで仕方がねえよ。お前さんが信じ託した希望、あの少年の行きつく先が」
今は無き同志と先の少年とを重ね、その面影に問いかけるようにスネークは独り言を呟く。
「けどよ、それと同じくらいに俺は龍也が恐ろしい。いくら正義の為なんて大義名分を掲げていようが、こんな事ができちまう龍也も俺も狂ってる。だから期待してるぜ、南雲龍也に再び会わずに済む結末って奴をな」
スネークはその笑みを自嘲気味な物へと変貌させながらそんな事を言った。
すると、回りくどいのは嫌いなんじゃなかったのか? という問いかけがどこかから聞えた気がした。
やはりスネークは自嘲気味な笑みを浮かべたまま、
「……回りくどい事は嫌いだが、必要とあれば俺はなんだってやるさ。お前だってそうなんだろ、南雲龍也?」
そうして、何かに区切りをつけるように改めて少女の方へと意識を戻す。
「さてと、我ながら損な役回りだが――」
スネークは笑みを自嘲気味な物からやや不敵な物へと変えて、腕を折って身体の前に、
「お嬢ちゃん、俺なんぞで申し訳ないがしばしお付き合い願おうか」
まるで紳士のように恭しく頭を垂れた。
干渉レベルAマイナス。寄操の昆虫によって操られ、万全の状態で力を発揮できるとは言い難いが、それでも強大なその少女の前に、歴史上最強クラスの化け物が立ちふさがる。




