第二十八話 狂乱怒涛Ⅳ――裏切り者の覚悟
『………………………………』
少年からの提案を黙って聞いていたその大柄な男は、しばらく考え込むように無精ひげの生えた顎に手をあてていた。
やがて口を開いた男の顔にはいつもの自信と余裕に満ち溢れた不敵な笑みは無く、真剣さの中に苦い色を帯びた表情へと変わっていた。
『なるほど、話は分かった。が、あまりにも危険すぎる。団長の俺には団員の安全を可能な限り考慮する義務がある。とてもじゃないが、その案を認めるわけにはいかん』
何事にも動じず、どんな圧倒的ピンチであろうと、その絶対的な強さを持ってして全て覆してしまうこの男の鋼のような精神を、自分の発言一つが揺さぶっているのだと思うと、やけに感慨深い物がある。
それだけの事実で、まだ目の前の男にとって自分は価値のある存在なんだなと少年は自覚する事ができた。
まだ自分は必要とされているのだ。
それを意識すると不思議と胸が熱くなる。
まだ大丈夫。まだ、繋がっていられる。
筋骨隆々の隻眼の大男は強い意志の宿った瞳で少年の目を真っ直ぐに見据えている。まるで真意と覚悟を問いただすような視線だった。
だが少年は、その視線をはぐらかすように笑って、
『って言われてもねー。俺っちくらいしか適任者がいないんじゃ、やる以外の選択肢なんてないっしょ?』
『そういう事を言っている訳じゃねえ。いいか、やり方なんていくらでもある。別の方法を選んだって……何なら、俺が直接出向けば……』
『それは駄目だ。スネーク、アンタには最優先事項があるだろ。むしろ本当の意味でヤバいのは「あっち」の案件だ。アンタがこの件に携わっている余裕はないハズだぜい』
『……ったく、口先だけはいっぱしになりやがって。ホント可愛げのねえムカつく小僧だぜ。昔はもうちょっと可愛げがあったってのによ』
『スネーク、アンタだって分かってるだろ。現状、俺っちの案が一番現実的で効果的だ。違うか?』
どうにか少年を説得しようとしている男の言葉を、少年自身が遮る。
事実、もっとも効果的で効率的な案を提案したのは少年だ。目の前の男に、現状あれ以上の案も反論の言葉もあるとは思わない。
少年の言葉に押し黙り、だがそれでも黙考を続ける大男に、
『なあスネーク。俺っち達の目的はなんだよ? 「創世会」を、そして今の天界の箱庭って枠組みをぶっ潰して、真の意味で神の能力者の為の楽園を築く事だろ? なら、こんな所で止まってる暇は無いはずだぜい。例えいくらかの犠牲を払う事になっても、それが大局を見据えた物なら払うべきだ』
犠牲を払わなければ届かない事だってある。
あと一歩、あとほんの少し。何かの歯車が狂っていたら、ほんの少し歴史が変わっていたら、その手に掴めたかも知れない勝利。
しかしどんなに惜しくても、負けて死ねば意味など欠片も無い。
当然だろう。それが命と命を懸けた殺し合いなのだから。
あと一歩にも、ほんの少しにも何の意味も無い。
だが、それは。
逆に言えば何らかの要因一つで勝てたかもしれない未来があったという事だ。
何かを犠牲にしていれば、きっと手に入れられた勝利。
ならばそれを手繰り寄せる為に、必要な掛け金は払うべきだろう。
例えそれが──
『──関係ない人達を巻き込む事になっても、か?』
『……ああ、そうだ。何も出来ずに全員見殺しにするよりかは遥かにマシな選択だろ』
即答、とまでは行かないも、少年は躊躇いなくそう言い切った。
スネークと呼ばれた男の鋭すぎる視線が、さらに細められ対峙する少年を真っ正面から切り刻む。
男は、問う。
『覚悟は、あるのか?』
一瞬、目の前の男がもう一回り巨大化したのかと思った。
空気が張り裂けるような、錯覚。
いいや、違う。
(これは……)
それは本来、有り得べかざる現象だった。
怒気のような、圧倒的なオーラを放出する男の周囲の空間が異常をきたしているのだ。
もちろんオーラなどという曖昧な物は可視できるよう物ではない。
あくまでそれは人の持つ感覚上の曖昧で確実性のない不確定情報であり、錯覚に近いクオリアに過ぎない。
だが、少年にはハッキリと見える。
スネークの放つ、圧倒的で絶望的なまでの、この世の物とは思えないエネルギーの奔流が。
(くっ……相変わらず、おっかないとかそんな甘っちょろい次元じゃねえな、この人は……ッ!?)
世界が処理する事のできる許容量を一瞬で超える。
処理不良を起こし、逃げ場を失った異常なまでのエネルギーが空間と時間に干渉し始め、一時的にスネークの周囲の時空を歪めているのだ。
少年はふざけた笑みを消し去り、真剣そのものな表情で一度唾を飲み込んで、
『あぁ、全ての責任は俺っちが──』
『責任の話じゃない。何の罪も無い命を殺め、その十字架と命の重み全てを背負っていく覚悟があるのかと聞いてるんだ』
その虎をも殺しそうな威圧に、しかし少年は慣れた物で“表面上は”怯えを見せる事なく、真っ正面から向き合い。
『あるさ』
真剣な顔の中に、何かを達観し諦めたような笑みを浮かべて、どこか物悲しげに肯定した。
『罪だろうと命だろうと、何だって背負ってやる。俺っちには、目に見える物が必要だ。それを手に入れるためなら何だってやってやる』
確かな成果が欲しかった。
目に見える結果が欲しかった。
でなければ、きっと少年が此処に居てもいい理由が消えてしまうから。
――そんな歪んだ勘違いを、しかしスネークは分かっていてなお止める事ができない。
それに気が付かせてやるのは、人ならざるスネークの役目ではないからだ。
彼自身、もしくは彼の事を大切に思ってくれる誰かが、事実に気づかせてやらなければならない。
スネークは胸元の似合いもしないネックレスに、その太くゴツい指先で一度触れて、
『……分かった。作戦実行を許可しよう』
『了解。……まあ大船に乗ったつもりでいてくれていいぜい。団長』
『ふん、小僧が大口を叩くようになったもんだ。どうせなら結果で俺を驚かせてみて欲しいモンだがな』
『誰に向かって言ってるんだ? この『猿真似』こと、高見秀人に任せとけって』
少年──高見秀人は、笑顔でそう言い切ったのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
PM 15:26:36
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「けふっ」
どぼ、どぼだぼ。
可愛らしい声とは裏腹に、どす黒い赤が口から零れ落ちて地面にグロテスクな水玉模様を描く。思わず口に手を当てると生ぬるいドロリとした感触を得た。
己の口から流れ落ちる赤を、どこか信じられないような瞳孔の開き切った瞳で眺めて、寄操令示はぎちぎちと壊れた人形のように首を動かした。
視線を下に。
乱暴に下腹部に突き立てられた『土』や『岩石』をベースに形作られ短剣は、刀身の周囲に『水』を纏っていた。
意志ある水流は、傷口から伝うように寄操の身体に纏わりつき、絡め捕るようにその身体を拘束していく。
動けない。
それだけではない。
寄操令示を特別たらしめていた力の源泉が、淀み滞っているのを感じる。
寄操の知らない所で、何か取り返しのつかない事態が進行している。ようやくいくらかの焦燥を覚えるが、既に遅かった。嫌な予感の通り神の力を発動する事ができない。
神の子供とさえ称された力が、完璧に封じられている。
何が起きたか分からない。
分からないから、知らないから、寄操令示は何が起きたのかを尋ねるより他なかった。
今も仲良く肩を組み、いつも通りの飄々とした態度で笑う『ユニーク』のメンバーへと疑問を投げかける。
「タカ、ミン……?」
寄操のすぐ横。未だ薄ら寒い笑いを張り付ける高見からの返事はない。
その代わりに、至近距離から鉛弾がぶち込まれた。
パンッ! さらに乾いた銃声が二発、三発四発と連続して、その度に寄操の幼い身体が面白いくらいに血を噴き出して跳ねまわる。
まるでダンスを踊るかのように、寄操の中で痛みが踊り狂った。
ツンと鼻をつく硝煙と鉄錆の匂い。
途切れた銃声に思い出したかのように寄操の身体が力を失ってグラリと傾き、そのまま地面に倒れて真っ赤な血の花が咲いた。
高見はそれを実に愉快げに眺める。
まるで今までの鬱憤を晴らすかのように。
仰向けに倒れた寄操にはどうして高見がこんな行動を取ったのか、全くもって理解が及ばないのだろう。必死に首を傾け、どこか途方にくれた子どものような顔で高見を見据えていた。
高見としてはその困惑したような視線は快感でしかなかったが。
「どうだキソちん。四姉妹の応用技は?」
嫌らしいニヤニヤ笑いで尋ねる。
声は無く、汚い吐血の音がしただけだった。
とはいえ高見も別に返事など期待していない。
「寄操令示。アンタの神の力は確かに強力だ。特殊能力から運動性能、何から何まで自由自在に生命をデザインする『冒涜の創造主』。自分で助言しておいて何だが、干渉レベルAプラスの天風楓の全力攻撃さえも無力化する“風除けの効果を持つ虫”には俺っちも流石に驚いたぜい。……リソースを割かせる為とは言え、こりゃ想像の埒外のバケモンを生みだしちまったんじゃねえか、ってな」
言葉を重ねるうちにも高見に油断の感情はなく、さらに寄操を縛る力を強めていく。
『地』を操り、倒れた寄操の手足を盛り上がった地面が拘束。
流れの象徴である『水』と静止の象徴たる『地』を掛けあわせる事によって力の流れを強引に『堰き止める』合わせ技。
さらに『水』による干渉を強め、セルリアとセピアが『対天風楓戦』で行った戦術を緻密に再現していく。
セルリア達から複製した神の力、『始祖四元素』。本来はAマイナス相当の干渉レベルを誇るその力は複製の過程で劣化し、せいぜいBマイナス程度の範疇に収まっている。だがそれでも、たった一つの神の力で四つの属性を操れるのは驚愕としか言いようがない。
高見は神の力の制御で割れそうになる頭の痛みを無視して、さらにストックされている三つの神の力の内の一つ――対寄操令示用にわざわざ組み替えた神の力――に力を切り替える。
割れんばかりの頭痛を無視し指を鳴らす。
どういう理屈なのか普通じゃありえないような清らかな音が響き、うすピンク色をしたフィルターのような膜が高見を中心に半径五メートルの空間にドーム状に展開される。
外からの観測と干渉を封じる特殊な結界を張り、寄操と自分を異空間へと区切ったのだ。
これで五感による観測は不可。最初から高見達を目視で捉えていたならともかく、後から援軍が駆けつけたところで高見と寄操の存在が気づかれるような事はない。
寄操の方から外部に助けを求めようにも、あらゆる通信手段は遮断される。頼りの虫達へ助けを乞おうにも、神の力を封じられた寄操では命令を飛ばす事さえできない。
いわばこれは寄操令示の為に組み上げた『巨大な虫カゴ』と言った所か。
「念には念を、だ。悪く思わないでくれよキソちん。俺っちもそれだけアンタの事を評価してるって事なんだからさ」
干渉レベルAマイナス。高見の劣化複製はその目で“見た”神の力を複製し再現する神の力だ。複製し一度に蓄えておける神の力は三つ。新しい神の力を複製するには、三つのストックの中から任意の物を一つ削除する必要がある。
ただし“見る”という行為はかなり広義的な解釈がされていて、実際に目の前で神の力を観察をする必要はない。
その神の力を使用している映像さえあれば、それだけで複製が可能なのである。
つまり、だ。厳密には高見のストックの数はほぼ無限。高見秀人が常に持ち歩く大量のメモリーカードの中身を少し確認すれば、あっという間に衣替えは完了する。
今回も高見は勇麻達と戦った時とは異なる対寄操令示専用の『デッキ』を組んで来ていた。
「タカミン、君は。君は、僕を……裏切る、の?」
切れ切れの声から寄操の感情を窺う事はできない。こんな状況にも関わらず、目の前の少年は何を考えているのか理解不能で気持ちが悪い。
質問には答えない。
ただただ自己満足的に、高見秀人は言葉を凶器のように振るう。
「……。何度も言うがアンタの神の力は確かに強力だ。正面から挑めば十中八九アンタに届きさえしないで俺っちは終わるだろうな。だけど、アンタ自身はどうだ? 配下の虫を除いたアンタ本体に、俺っちを退けるだけの力はあるのか? ……およそ半年前から接触を始め、そしてここ数週間。俺っちはほぼ全ての時間アンタと行動を共にしてきた。アンタの信頼を得て、アンタの本体に近づく為に。この機会を得る為だけに、この手を血に染め、罪のない人々を殺す事にも加担してきた……っ」
楽しげだった口調が一点、後半からは苦虫を噛み潰すような色に変わる。
『寄操令示という邪悪を打ち滅ぼす』。
そんな大義名分を掲げた所で、高見のやってきた行いは決して許されるような物ではない。
罪のない一般人が巻き込まれる事を是とし、必要な犠牲と切り捨てた。
共に死地を潜り抜けてきた仲間に刃を向け、愚かにも自分のような人間を最後まで友達だと信じ続けてたお人好しまで傷つけた。
見捨てた命がどれだけあったか分からない。
救えた命がどれだけあったか分からない。
ただ高見はそれらを諦め、時には加担すらして、二度と戻らない命を奪った。
これだけは覆りようのない事実だった。
苦しみ苦しみ抜いた地獄の果て、ようやくたどり着いた殺しの舞台。
歓喜などない。ようやく全てが終わるという諦観にも似た自暴自棄な解放感だけがすぐ近くに転がっている。
しかし後悔はない。
これが高見の選んだ道であり、高見の求めた結末なのだから。
“誰にも真似出来ない。高見秀人という人間にしか不可能な任務をやってのける”。それでようやく、高見秀人は自身の存在価値を証明する事が出来るのだから。
結果を残さねばならない。そうしなければ自分には生きている価値はない。
生きる為、高見秀人は自分の価値を証明する為に他者を真似、欺き、殺す。
唯一無二の価値を欲する彼の神の力が『他者の力を劣化複製する物』だというのは何の皮肉だろうか。
否、それでは順序が逆だ。そんな力しか与えられなかったからこそ、高見秀人は特別を欲したのだ。
複雑な思いを胸に抱き、噛み締めた唇からは鉄錆の味がした。
目の前の男を殺し、息苦しさから解放されたい。そんな欲望を意志の力で抑え、あくまで背神の騎士団の団員として使命をまっとうする。
高見は死刑宣告を告げる裁判官のように、足元の寄操を冷たく見下ろした。
「背神の騎士団工作員高見秀人。――冥土の土産にでも覚えとけ、お前を殺す男の名だ」
言って高見は、銃口を寄操の額めがけて照準して――
――くすっ、
嗤い声を聞いた。
「……。死ぬのが怖くて気でも触れたか?」
必死に堪えていたのに我慢できずについ漏れたような、人の神経を逆撫でする嗤い声の出所である少年――寄操令示は、口から血を垂れ流したまま高見を見上げている。
かたかたと、瞳孔の開き切った目で肩をゆすって嗤うその姿は壊れた西洋人形みたいでひたすらに気味が悪い。
「いやぁ、だってさ。うん。ようやくタカミンが裏切ってくれたと思ったら可笑しくって」
「……何を訳のわからない事を」
「だって、折角タカミンをびっくりさせる為に手の込んだ仕掛けを用意したのに、使わないで終わっちゃったら僕が馬鹿みたいだろ?」
ぐきり、と嫌な音と共に寄操の首が直角に曲がる。確実に首の骨が折れる角度で首を傾げる寄操から、しかし嗤い声は消えない。
首のうえに横むき置かれた頭が笑うその様は、ホラー映画の中でしかお目に掛かれないような異様な光景だった。
このまま鼓膜に張り付いてしまうのではないかと錯覚するほどに耳障りなその怪音は、未だに首の折れたその少年の口元から響いている。
ゾッと、説明不可能な寒気が高見の身体を走り抜け、反射的に引き金を引いていた。弾倉が空になるまで、無我夢中に馬鹿みたいに引き金を引き続ける。
銃声が連続して響き、寄操の脳幹を鉛玉が貫き破壊する。痺れるような反動が跳ね返り、人肉を打ち抜く確かな手応えを高見に伝えた。肉と脳漿が飛び散り赤い血しぶきが高見の服に撥ね返る。
しかし不気味な嗤いは止まらない。殺した程度では収まらないのか、それとも脳を破壊されても寄操令示という化け物を殺す事は叶わないのか。
全身から嫌な汗が湧きあがる。
今までに経験したことのないような焦りが高見の冷静な頭脳をじりじりと炙るように焼いていく。
高見は劣化複製で操る力を再び切り替える。両手の掌に宿るは炎と風。『始祖四元素』で最も攻撃的な組み合わせだ。
直後、爆発。
空気が震え、熱波が駆け抜けた。
冷静さを欠いて至近距離で攻撃を放った結果、爆風の煽りを諸に受けた高見の身体も宙を舞った。
まともに受け身も取れずに背中から落下する。爆発の衝撃波と墜落のダメージの二重苦が高見を襲う。
まともな呼吸を取り戻すのに、それなりの時間を要した。
……冷静に考えればここまでする必要なんてなかった。なんて事を今更に思いつつ、高見は神の力使用の痛みに歪む頭を右手で押さえ、膝をついて何とか立ち上がる。
だが、ここまですれば流石に……。
「あはっ、あははははははははっははははははははははははははははははははははっはははっはははははッ!!!」
「くッ!?」
消えない。
真っ黒なカーテンの向こう側。
首の骨が折れ、爆発の直撃を受けた寄操令示の嘲笑は、むしろその勢いを強めて周囲に響き渡る。
愕然とする高見の前で、黒煙が晴れていく。
「――!?」
あまりの光景に、普段から細められている高見の目が驚愕に見開かれた。
高見の目の前。
嗤い続ける寄操令示の身体が、わらわらと解けていく。
まるで砂の城を突き崩すように顔の形が崩れ落ち、同時に足が、腕が、胴体が、次から次へととめどなくボロボロに崩れ落ちていく。
人間が腐敗する様子を早送りで見せられているかのような、おぞましい光景だった。
まるでレゴブロックで作った巨人がバラバラとそのパーツを崩していくように、寄操令示を構成していた何かが、バラバラと解けて分かれ、散らばっていく。
これほど凄惨な絵柄だと言うのに、不自然にも流血はない。
分解、としか表現できないようなその現象を前に立ち尽くす高見。
しかしよく見ると、その正体がわかった。
虫だ。
数えるのが馬鹿馬鹿しいくらい膨大な数の、小さな虫の群れだ。
おそらく億や兆などという数では足りないであろうミリサイズの小さな生命達が、骨格から内臓から血液から表面の皮っ面から何から何まで全てを、寄操令示を構成していたのだ。
高見の服に付着していた寄操の返り血までもが思い出したように動きだし、群れへ合流する為に移動していく。
バラバラと解けたミリサイズの虫達の群れは、それ一個で一つの生命のようだった。
ぶわぁッッッ!! と、昆虫系が嫌いな人間でなくとも鳥肌の立つであろうおぞましい音と共に、虫の群れが地を這う津波の如く高見目掛けて押し寄せ、そして足元を走り抜けていった。
「……」
絶句するしかない高見の元。
周囲の建物の屋根から、新手の人影が舞い降りた。
そいつは可愛らしい童顔で、中性的な髪の毛をふわりと風に靡かせる。
死んだ魚のような、感情の一切映らない漆黒の瞳。
まるで作り物のような笑顔を貼り付かせた、まだマネキンの方が人間らしい人形のような不気味な少年。
捻り出すようにして何とか紡いだその言葉は、ボロボロに震えていた。
「寄操……令、示……?」
「やあタカミン。『こっち』の僕で会うのは初めまして、だね。うん」
頭が真っ白になった。
何がどうなっているのか理解が追い付かない。いや、追いつくことを恐れている。
それでも、どれだけ現実逃避をしようとしても、目の前の光景が起こった出来事を端的に表していた。
「偽物、だと……」
高見が寄操本人だと思って接していた人物は、最初から最後まで極小の虫で構成された精巧なダミーに過ぎなかった。
標的へと届いていたハズの手は、無情にも全く関係ない物を掴んでいた。
最初から、全てが筒抜けだった。
裏切りも、策略も、本当の狙いも何もかも!!!
「ようやくタカミンの驚いてる顔が見れて僕は嬉しいよ! うん! 満漢ちゃんとも相談してさー、どうしたらタカミンがびっくりしてくれるか話合ったんだけどさー。うん。テロの決行日をワザと早めてみたり、君に友達たちの始末を任せてみたりとか、そりゃまあ色々試したのに全部何食わぬ顔で突破しちゃうからつまらなかったんだ。うん。でもようやく裏切ってくれたね! 僕はさ、君と遊ぶのを楽しみにしてたんだよ。うん。ねえタカミン。さあ、次はどんなことをして僕を楽しませてくれるんだい?」
毒づく気力さえ起きなかった。
全てが無駄で、何もかもが悪手。
寄操令示を殺す為、それだけの為に犠牲になっていった人々の死は何だったのか。
何もかもが犬死だったのか。
平和の為の、必要な犠牲のハズだったのだ。
それなのに、高見秀人が多くを犠牲にして手に入れたチャンスで殺した相手は寄操令示の偽物だった。
全ては本物の寄操令示の掌の上で弄ばれていただけ。
一体高見秀人の行動に何の価値があったのだろうか。
握っていた拳が解け、力なく垂れ下がる。
それでもどうにか口元に笑みを浮かべようとして――失敗して、それでも強がるように、いつもの軽い調子で言葉を紡ごうとする。
「あっちゃー、マジですかい。は、ははは。流石の俺っちもこれは予想外だ。一本取られたって奴だな。……俺っちが全く気が付かないレベルのダミー、ね。ふざけやがって。……ちくしょうが、ホントに、ふざっけんなぁあああああああああ!!!」
激昂する高見を嘲笑うように笑みを横に広げた寄操令示は、本当に楽しそうに言った。
「さあ、遊びの続きを始めようか。それとももう終わりかな? うん」
自分の仕事に対する矜持も自信も、その何もかもを踏み砕かれた。
正真正銘の敗北だった。しかも真っ向からの実力勝負ではない。嘘やブラフにハッタリといった高見本来のフィールドでの敗北。
それは少なくない絶望と衝撃を高見の心に与えていた。
取り返しようの無い多くの命を失い、得たものは何も無い。
全ての責任は、手柄を欲するあまり誤った判断をした高見秀人にある。
だって、殺したのだ。
高見の行いが、何の罪も無い大勢の人々を。
スネークが言っていた言葉が、今更になって大きく高見に圧し掛かる。
何の罪も無い人々の命を奪い、その命を背負っていくという覚悟。
「……っ」
くらくらと明滅する視界を、振り払うように頭を振った。
責任を取らなければならない。
いや、違う。高見秀人の覚悟をここで証明しなければならないのだ。
犠牲になった人達が、本当の意味で何の意味もなかった無駄死にで終わらない為に。
失敗のツケは自分で払う。寄操令示はここで殺す。
例え自分の命を差し出す事になろうとも、それだけは成し遂げなければならないのだ。
高見秀人は拳に再び力を込める。自分の手で今度こそふざけた狂人との決着をつける為に。
「……あまり俺っちを舐めるなよ、クソガキが。こんなふざけた幕引きで引き下がれるほど、俺っちは落ちぶれちゃいねえ」
どこからか取り出したのか、高見の手には現代的なデザインの片眼鏡があった。
よく観察すると、つるの部分にメモリーカードを挿入するSDスロットがついている。
高見は片眼鏡を掛けると、さらにポケットから巻物状のカードホルダーを取り出し、素早い挙動で収められているメモリーカードを抜き出してSDスロットに挿し込んだ。
三つのストックという上限を無視するためのデバイスを装着し、高見秀人は一二〇パーセント以上の実力を発揮する。
「そうこなくっちゃね! うん。さあ遊ぼう! タカミン! 脇道にそれ、全くもって本題とは無価値で無意味で無関係な、僕の為だけのくっだらないお遊びでその命を綺麗に散らしておくれ!」
「お前みたいな男には、既視感満載の二番煎じで充分だってんだよ。猿真似のありふれた神髄、今から見せてやる」




