第二十六話 狂乱怒濤Ⅱ──終われない者達の小さな一歩
膝を抱え、俯いたままどれだけの時間が経っただろう。
どんよりとした重い空気が少年を頭ごなしに押さえつけ、顔を上げる事さえ許さない。
視線はいつまでも床と自分の靴とを往復し、思考は数えるのも面倒な回数空回りを起こしていた。
感情を発露する事にも疲れたのか、真っ赤に充血した瞳はもはや力無く光を失っている。
ただただ疲れた。
もう何もしたくない。
そんな無気力な思いばかりが、少年の胸中を埋めていた。
「……なあ、おい。お前」
だから初め、その声が自分に向けて掛けられた物だと東条勇火は理解できなかった。
「なあ、聞いてるのか?」
「……」
聞こえていたからと言って、別に返事を返してやる義理はない。
勇火は声を無視するように、一層強い力で己の膝を抱きかかえる。
まるで、機嫌を損ねた子どもが拗ねて強がるような、そんなどこか見ていられない行動だった。
声の主も勇火のだんまりを故意的な物だと理解したのか、これ見よがしな溜め息で対抗してくる。
……嫌な奴だ。
「なあ、お前、アイツの仲間なんだろ? いいのかよ、いつまでもこんな所に居て」
「……アナタこそ。いつまでそこで死んだフリをしてるんですか? とっくに意識は戻っていたんでしょう?」
「……へっ、無気力はお互い様って事か。まあこんな所で小さくなってるようなヤツはどいつもこいつも、俺と同じ常識人って訳だ。良かったな、お前はキチガイの兄と違って、至ってマトモな感性の持ち主みたいだぞ?」
「アナタと一緒にしないでください……」
皮肉げに語る声を両断し、勇火は目を強く瞑る。何かを振り払うかのように。何かから逃げるように。
本当に嫌なヤツだ。
勇火は声の主――才気義和を、この短いやり取りからそう評した。
勇麻の一撃で建物の外に吹っ飛ばされた才気を、引きずって屋内に連れ戻したのは勇火だった。
これでも一応人質達の身柄を任されたことにはなっているのだ。安全を保障されている屋内の外に出てしまった才気を安全な場所に引っ張って来るのは勇火の最低限のやるべき事だった。
かといって、気絶した才気に特別な手当などをした訳ではない。
本当に屋内に引っ張ってきてそのまま横にして放置していただけだ。
何か手当をしてやろうと思える程の気持ちを、兄とこの男とのやり取りから勇火は得る事ができていなかった。
「考えてみるとホント理不尽だよな。アイツらが負けたら俺達も殺されるんだ。まったく、自殺志願者どもの巻き添えで死ぬなんてホントいい迷惑だよ。一生呪ってやる。……ま、地獄やら天国やらがホントにあればの話だけど」
「兄ちゃんが……兄ちゃん達が負けるもんか」
「ここに閉じこもってる奴に言われても説得力がないな」
「……うるさい、黙れ」
「お前に指図される筋合いもない」
「……」
頭の奥がちりちりと弾けるようだった。
才気の挑発するような声に、静謐に包まれていた勇火の中の湖面に感情の波が立ち、その思考を怒りが埋めていく。
八つ当たりにも似た、どこか自暴自棄な衝動が込み上がる。衝動的に神の力を行使しそうになり、押さえつけるように自分の腕に爪を食い込ませた。
バヂィッ、と薄い闇の中に一筋の青白い火花が走ったが、それだけ。それ以外は、何もない。
人質達が軟禁されている薄暗い部屋に、再び気の重くなるような静寂が戻る。
あの会話以降、勇火をからかう事にも飽きたのか才気は口を閉ざしている。
気まずい静寂の中、誰かの諦めたような啜り泣きが聞えて、それが無性に勇火の癇に障った。
今も人質を解放しようと必死に戦っている人間へのこれ以上ない侮辱に思えたからだ。
だからと言って、既に諦めモードの彼らを糾弾する資格なんて勇火にはない。
勇火もここで蹲って泣いている彼らと同じで、戦いから――全てから逃げ出したのだから。
どれくらい時間が経っただろうか。またしても才気がもぞもぞと動く気配を勇火は感じ取った。
「なあ、お前このままここでジッと待ってるつもりか? あのヒーロー気取りの兄貴の所に行かないでいいのか?」
「……アナタから指図を受ける筋合いはありません。それとも兄に負けたからってその腹いせに弟に八つ当たりですか?」
「かもな。俺はアイツもそのお仲間も嫌いだし」
才気はあっさり認めて見せて、でもな、と言葉を区切り。
「俺は俺も嫌いなんだよ。それらしい言い訳ばかり並べて、すぐに諦める俺が」
のそり、と。緩慢な動きで立ち上がった才気に、東条勇火は驚いたように目を見開いた。
信じられない物を見るような声で、勇火は男に問いかける。
「……諦めたんじゃあ、なかったんですか?」
「あぁ、諦めたさ。正直、死のうがどうなろうがもうどうでもいい。ただ、どうせ殺されるんだ。だったら最後に悪あがきくらいして、俺を見下しやがったあのヒーローもどきに一泡吹かせてやろうと思ってな」
ふざけた調子でそう言った才気の瞳には、しかしこれ以上ないくらいの覚悟が灯っているように思えた。
何か、重要な何かがその姿にはあるような気がして――
――驚愕に固まったままの勇火は、ふっと、脱力したように笑いを零した。
それはどこまでも自然体な笑みで、テロリストが現れてから勇火が初めて見せる笑みだった。
「……そう、だよな。良かったんだ。別に、そんな大きな物を背負わなくても。ただ俺は、俺が生き残る為に立ち上がれば良かったんだ。誰かの為じゃない。自分の為に、戦っても良かったんだ」
気が付いたのだ。
重い。余りにも重い十字架を意識して、足が竦んでいた。
責任とか、重圧とか、使命とか。絶対とか。
そんな物をたかが一学生である自分が背負う必要なんて、きっと始めからなかったのだ。
始まってしまった事も、手遅れな事も、まだどうにかなる事も、そんな数ある要素など、一切関係ない。
立ち向かうのは己の自由。立ち向かわないのも己の自由。自分如きの選択で世界が大きく変わる事なんてない。きっと、自分が戦っても戦わなくても勝つときは勝つし、負ける時は負ける。そういう物なのだ。
いい意味でも悪い意味でも、東条勇火の存在などその程度の価値しかない。
自分の小ささは、この数時間で嫌と言う程思い知らされたばかり。ならば、大した意味なんてないからこそ、東条勇火は再び自分の足で、結果を恐れず立ち上がる事ができる。
死ぬも生きるも自分の選択次第。
責任は立ち上がった者だけにあるのではない、“選択”した者全てに生じるのだから。部屋の隅で頭を抱えて縮こまるのもまた、己の命を懸けた選択なのだ。
ならば、立ち上がるという選択に対して文句を言われる筋合いなど、全くもって存在しない。
残る問題は自分自身に降りかかる死の恐怖。それのみ。
「なにをぶつぶつ言っている? 兄弟そろって気色が悪いな」
「――俺もですよ」
「は?」
唐突な言葉に眉を顰める才気に、驚くほどに簡単に立ち上がれた東条勇火は笑って告げる。
恐怖がない訳でも、命が惜しくない訳でもない。
でもそれでも、この簡単な事実に気が付いてしまった今。東条勇火は全てが終わった後に後悔が少ない方を選択したいと思えたのだ。
「俺も、一泡吹かせてやらなきゃならない相手を思い出したんです」
けれど少年達は気が付かない。
一つ一つの選択は確かに小さく、世界を動かす程の力は無いのかもしれない。
彼ら個人個人の存在など、きっと歴史にとっては何て事のない取るに足らない要因でしかないのかもしれない。
けれど、その小さな選択の積み重ねが、小さな存在の集結こそが、巨大な運命のレールさえも切り替えるだけの力になるのだと言う事に。
知らず踏み出したその一歩は、しかし、いずれ大きな意味を持つ一歩へと変じる可能性を秘めている。
踏み出したその一歩に遅すぎた事なんて無い。
まだだ。
まだ、何も終わってなどいない。