第零話 己を探し求む怪物
汝、天より授かりし『智』を欲するのならば、我にその代価を差し出し覚悟を示せ。さすれば我、天より授かりし『智』全てを汝に授けん──『天智の書』第零章第零節より抜粋。
☆ ☆ ☆ ☆
薄暗い──窓や蛍光灯なんて物は無い。ただ一つの光源である蝋燭の炎がごく僅かに揺れるたびに、その少しばかりの灯りに映し出された、鹿の剥製や額縁に飾られた絵画、無骨な甲冑の影達が不気味に揺れる。
まるでアンティークな吸血鬼物の映画にでも出てきそうな気味の悪い部屋に、その男はいた。
埃を被ったカビ臭い古書を閉じると、年齢不明のその男は年季を感じる、やけに豪勢な肘掛けに腰掛け、満足そうな笑みを浮かべた。
「……試作型の経過は順調。これならば十分に『特異体』の複製に入ることができる」
男はどこから取り出したのか、赤いワインの注がれたグラスを口に運び、愉しげな声を上げる。
我慢しようとしたがこらえきれずに、口元から漏れてしまった、という様な声だった。
「くっくくく、あぁ。ようやくだ。ようやく私は私を知る旅路に着くことができる。ここまで随分と遠回りもした。気の遠くなるような時間を過ごした。だが、それも今日までだ。今日を境に世界は変革を遂げる。退屈な日々は終わりを告げ、彼ら人類は新たな一歩を踏み出すのだ」
いつの間にか、男の手の中にあったはずのワイングラスは、一本の試験管にすり替わっていた。
男は試験管の中身を愛おしげに眺める。
まるで、貴族の夫人が宝石を扱うかのように、丁寧に優しく滑らかな手つきで、その試験管をポケットの中へしまった。
男は余韻に浸るかのように、しばらく肘掛けに身を預けていたが、やがて唐突に立ち上がると口の端を歪めて笑みを作った。
「ははっ、ははははははははッ!!」
笑いが止まらない。
男は胸中に思い描くビジョンに思いを馳せる。
ここまで来るのにあれほどの時間を要したと言うのに、不思議と自分の進めている計画が、成功に確実に近づいていることを理解した。
間もなく始まる計画は、例外なく全世界に激震を走らせるだろう。
男は今日、文字通り歴史の創造者となるのだ。新しい生命体の誕生とも言える偉業を前に、世界はなす統べなく形を変えるだろう。
この計画の過程で、例え世界が滅びる事になっても男は後悔しない。
男にとって、そんな些事はどうでもいい事だ。
大事なのは結果であって過程ではないからだ。
だから男に躊躇いは無い。
例えその行為が決定的な破滅を呼ぶとしても、その手は決して止まらない。
「ははははははは──」
だが、ここで一つ。
男にとって予定外の出来事が起きた。
地割れでも起きたか、と錯覚するような轟音と共に、薄暗かった部屋に赤い稲妻が走ったのだ。
否、
空間に亀裂が走った、とでも形容すべきだろうか。
亀裂から声が聞こえる。
男の声だ。
「よぉ、久しぶりだな。探求者」
「……まさか、その不愉快な面をこんなタイミングで見ることになるとは。私もつくづく運が無いらしい」
突如、目の前の空間を引き裂いて現れた、好戦的な笑みを湛える大柄な男は、年齢不明の男に親しみを込めてこう言った。
「俺がそれをやらせるとでも思うか?」
「予定外の出来事ではあるが、予想外の事態では無いな。君の過去から考えれば至極真っ当な判断だ。ただ正直鬱陶しいがね」
「アンタのやろうとしてる事は間違っている。それが分からない程アンタは馬鹿じゃ無いはずだ。俺だってアンタみたいのとやり合いたくは無いんでね、黙って俺の要求を聞いちゃくれんかね」
大柄な男の言葉が癇に障ったのか、男は少し不愉快そうに口の端を曲げた。
「間違っている? どの口が言っているのだ脳筋め。君ごときが私の計画を知った風な口を聞くな」
「知っているさ。何百年か前に一度、巻き込まれたもんでな」
大柄な男は不敵な笑みを崩さずそう言った。そもそもが断られる事を前提の言葉だったのだろう。その顔には一切の動揺が見られない。
しばらく二人の会話が途切れる。
やがて男の目線が大柄な男の首もとへ移る。
「ふむ。そのネックレス……。まだつけていたのか。未練がましい奴め」
「あぁ、これか。これは戒めだよ。未練が無いと言われれば嘘になるがな。それにコレをつけてると、アイツと一緒にいるような気分になれるんでな」
大柄な男はどこか愛しげな、似合いもしない優しい視線を首もとのネックレスに向けると、その鎖をジャラリと指で遊ばせる。
その仕草からは、ネックレスに対するというより、敬愛する誰かへの思いを感じた。
「くだらぬ。人外である君が愛を語るか。やはり私は君のことが好きになれそうに無い、ハッキリ言って嫌いだ」
「おぉ、そりゃ奇遇だな。俺もだよ」
二人の間に和解は存在しない。会話すら成り立たない。
各々の言葉は最後の確認事項なのだ。
お互いがお互いに最後通牒を突きつけているだけ、その先に待っているのは血で血を洗い、拳と拳をぶつけ合う、醜い争いだけだ。
「やめる気は無いんだな?」
「愚問だな。何のために私が、今日までを過ごしてきたと思っている?」
身が焼けるような緊張感に包まれる中、二人の距離がほんの少しずつ縮まっていく。
まるで一秒を何百にも等分したような、濃密な時間が流れる。
今、両者は相手の毛穴から吹き出す汗、上下する胸とその鼓動、呼吸の音、全てが手に取るように分かるのだろう。
時間が引き伸ばされ、思考の速度の限界を突破した者にのみ、見る事ができる景色。
それを見る両者の瞳には、それぞれ殺すべき敵の姿が映っていた。
彼我の距離が五メートルを切る。
刹那、
二つの影が音速を超えて激突した。
戦術も武術もクソも無い。
ただ真正面からの衝突。
互いに、挨拶代わりだとでも言うようなその攻撃は、常人のそれを逸していた。
もはや、物理法則すら無視するその動きは、この世の生物の挙動ではない。
余りの衝撃波に、男達がいた薄暗い部屋が――否、空間そのものが内側から弾け飛んだ。
二人の化け物の衝突の中、年齢不明の化け物は、やはり愉しげに口の端を曲げるとこう呟いた。
「さてと、そろそろ世界を変えてみるとしようか」
世界に数人といない人智を超えた怪物同士の死闘がここに幕を開けた。