第79話 怪物の目覚め
未来は中央の手術台へと向かう。
そこに横たえられているのは、無惨な姿になったカロ。
最早人の形を保っておらず、このままでは命を失うのは時間の問題であった。
意識が朦朧とするのだろう。
やはり視線は茫洋としており、どこも見ていないようであった。
ただ浅く呼吸し上下する胸が、辛うじて彼女が生きている事を表していた。
そして涙が流れるその双眸は、彼女が苦痛を感じている証左だった。
「すまない」
未来は優しくカロの頭を撫でる。
「私はいつも、間に合わない。私の手は誰も救えない」
母の代わりに、姉のように、少女の頭を撫でた。
「私はどうしようもなく無能だ」
撫でられ続けるカロの顔が、少しだけ笑ったように、未来には見えた。
未来も柔らかに微笑み返す。
それは、あの懐かしい日と変わらぬようなやりとりだった。
「さよなら」
未来は柔らかに、カロの命を終わらせた。
苦痛なき介錯で、少女を安らかに天の国へと送った。
これ以上の苦痛を味わわぬよう。
現実の悪夢を、静かに終わらせた。
最早動かなくなったカロの髪から、リボンを外す。
かつて少女に送ったそれが、最も悲しい形で未来の手に戻った。
そんな事は、一切望んでいなかったというのに。
未来はただリボンを強く、固く握りしめた。
バタン!と、未来の背後で強く扉が開く音がする。
そこに現れたのは、総隊長のヴァランタン・ド・ボーランとその部下であった。
「見つけたぞ、侵入者」
彼はドクの反応が消えた事で、侵入者が研究室に入り込んだと推測した。
そして真っ直ぐにそこへ向かい、彼は見事に自身の推論を裏付ける事となった。
「上手く陽動したものだが」
ボーランはゆっくりと腰にかけられた剣を抜いた。
刈り取るものと呼ばれるそれは、剣と呼ぶにはその厚みが薄く、そして鋭利な形状をしていた。
仄かな明かりですら反射し輝くそれは、さながら銀の剣のようであった。
「狙いが研究室というのはわかり易すぎる。その単純さに救われたよ」
ボーランは王国正式剣術の構えを取る。
最も強く、最も使い易いこの剣術を、多くの騎士たちと同じく彼は愛用していた。
彼の部下も、その背後で剣を抜く。
騎士が二人。
内一人は、総隊長まで上りつめた強者。
十二分に脅威と見做せる戦力だった。
未来はゆっくりと振り返る。
その顔はやはり能面が如き無表情。
「剣を抜き給え。その程度の慈悲はあげるよ」
これはボーランなりの騎士道であった。
無抵抗の相手を斬るのは騎士に有るまじき行為。
正面より叩き切るべし。
そう言い放ってから、ボーランは眼の前の女が無手である事に気づいた。
――武器一つ持たないだと?
そう思ったのも刹那。
睨めつけるようにしていたその視線で、彼の持つ刈り取るものを認めた未来が、一言放つ。
「寄越せ」
「は?」
ボーランが答えるより早く、未来の足元が爆発した。
未来の踏み込みが床を爆裂させ、彼女の体を恐ろしい速度で進ませる。
それは跳ぶというよりも、真横にスライドするような異常な動きだった。
そしてたった一足で彼女はボーランの真横に辿り着いた。
再び、爆発。
まず未来の足元が爆発した。床は粉々に砕け、破片が周囲に飛び散った。
堅き石造りのそれはまるで脆くなった砂壁の如く破裂し、飛び散った。
もう一つ、爆発が起きていた。
未来は間髪入れず、ボーランの横顔に掌を叩き込んでいた。
人の視認能力では見る事も困難な速度のそれが着弾した瞬間――
打たれたのと反対側のボーランの頭部が、破裂した。
まるで頭の中からショットガンの一撃をブチ撒けたように。
ぐずぐずになった脳組織と、砕け散った頭蓋骨の破片が頭の皮膚を突き破り、反対側へと突き抜けていった。
筋繊維一本一本を独立して稼働させられる程の常軌を逸した未来の身体操作、そして異常なまでに高められた彼女の技術から叩き出される掌打の威力は、まるで鉄球が高速で叩き込まれたかのような衝撃をボーランに与えていた。
しかしそれ以上に恐ろしいのは、強力な衝撃力よりも打撃の貫通速度。
音より速いそれは最早打撃ではなく衝撃兵器と言って差し支えのないものに昇華されていた。
体の外面が音速を超えれば、その体はズタズタに引き裂かれる。
しかし生み出す衝撃力のみならば、それは起こらないのだ。
結果、彼女が振るう打撃に触れたものは、こうして吹き飛ぶ事になる。
まるで爆発物を体内に仕込まれたように破裂する。
常識を越えた怪物の打撃。
それが遂に、この異世界でも披露された。
天音寺未来がこの世界に来てから、戦闘を行う程の脅威に未だ出会った事は無い。
しかしそれでも打撃を用いてしまう程に、今の彼女の心は昂っていた。
ぐらりと崩れるボーランの手から、刈り取るものを奪い取る。
そしてそのまま確かめるように、傍らに居た部下を三度、斬りつけた。
呆けた顔をした部下は、尚も突然の恐慌に固まっていたが、唐突に斬りつけられ我に返ったようだった。
死を覚悟した彼だったが、剣閃が振るわれた後は傷跡一つ無い。
「は、ハッタリか」
そうしてボーランの下へ駆け寄ろうと、体を捻り――
自分の上半身が、空中へとズレるのを感じた。
未来の剣閃はあまりに鋭く、面が密着していた状態ではまるで無傷のように見えたのだ。
しかし繋がっている訳ではない。
ほんの僅かでもその均衡が崩れれば、容易く分かたれていく。
彼は自分の上半身が落下するのを感じ、呆然とした。
そして地面に落ちると同時に、その首が胴体より放たれ、転がった。
首に一度、腹に二度。
そこまで斬られて尚、彼はその事が自覚できていなかったのだ。
未来はそんな二人を省みる事も無く、踵を返す。
向かった先は、壁面に並ぶシリンダーであった。
彼女はそのシリンダーに向けて、神速の突きを放った。
その切先は正確に溶液の中浮かぶ子供たちの心臓を射抜く。
それをシリンダーの数だけ繰り返した。
彼らは苦痛も無く天へと旅立っていく。
地獄から解放され、永遠の眠りへと。
未来は一人一人子供たちをシリンダーから取り出すと、丁寧に彼らを床に横たえていく。
子供たちの体には、騎士たちより奪ったマントがかけられていた。
その胸より下が隠された姿は、まるで眠っているかのようにも見えた。
最後に、ザバの下へと向かう。
「君たちを、トトの下へ帰してあげたかった」
ザバとカロの亡骸を、隣り合うように並べる。
最早二人には繋ぐべき手も存在しない。
それでも未来には、二人が手を取り合っている姿が見えていた。
「いつかまた、この街に訪れた時」
二人の瞼を、静かに閉じる。
眠るかのようなその様子は、とても安らかに見えた。
「君たちが成長して、立派になった姿を見てみたかった」
未来は二人の頬を、ゆっくりとさする。
もうかつての温もりも失いつつ有るその場所は、悲しい程に冷たかった。
「私はただ、君たちのような人々が幸せに暮らしてくれれば、それで満足なのに」
未来は目を閉じる。
それは悼みと、痛みを伴った祈りだった。
「だというのに」
ゆっくりと、未来は立ち上がる。
ゆらりとしたその様は、幽鬼のように。
「お前達はなんで」
それとも、悪魔のように。
「そこまで私を怒らせ、不快にばかりさせる」
彼女の威容は、既に人を越えていた。
ボーラン総隊長に招集された数名の騎士が、研究室へと向かっていた。
ソンブルイユ卿が魔法使いを抑えてる今、総隊長が予想する、居るかもしれないというもう一人の侵入者の捜索と捕縛が彼らの第一目標となっていた。
そんな騎士たちの眼の前で、ゆっくりと研究室の扉が開いていく。
ぎいい、という鈍い音と共に、開いていく。
そしてそこから、それは現れた。
「ヒッ」
反射的に、彼らは息を呑んだ。
それはまるで女のように見えた。
だが、女であるはずがない。
そこから感じる圧。
――殺気。
あまりに濃密なそれは、人が出し得る限度を越えていた。
ハッハッと騎士たちの息が、短く細くなっていく。
あまりの恐怖に、過呼吸が始まっていた。
彼らとて一人前の騎士。
戦場に立ち、敵の殺気をもろに受けた事は幾度と無く有る。
だが、これは違う。
こんなものは、違う。
これは殺気なんて生易しいもんじゃない。
人が殺意を出してるんじゃない。
殺意が人の形を取っている。
そうとしか、彼らには思えなかった。
最早騎士たちには、眼の前の人物が黒く塗りつぶされた名状し難き異常な生物としか認識できなくなっていた。
「あまり、私を怒らせるな」
柔らかく、甘い声。
それが廊下に響き渡る。
しかし彼らにはまるで地獄から響いてくる宣告にしか聞こえなかった。
「我慢強い私も、そろそろ限界だ」
それが一步、進んでくる。
ばたりと、一人倒れる音が聞こえた。
限界を越えた恐怖が、騎士の一人を絶命させたのだ。
残る者達も、最早指一本動かす事すらできなかった。
ただ震え、自らの内側から湧き出る衝動を抑えるのに精一杯だった。
彼らは内なる恐怖が自分の体を食い破らないよう、必死に耐えていた。
人は人と戦う事はできる。
魔族とだって、なんとか戦える。
だが化物と出会った時は、その暴威が過ぎ去るのをただ願うしかない。
その事を、若い騎士たちは今思い知っていた。
また一步進んでくるそれが、言葉らしきものを零す。
「そんなに見たいのか」
――私の暴力を。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
これが言う暴力とは一体なんなのだ?
こんなものが示す暴力とは、一体如何なるものだと言うのか?
脳が理解を拒む。
思考を拒否し、空転する。
「ヒッ、ヒヒヒヒイッ」
一人がけたけたと笑い出す。
脳を蹂躙した恐怖が、その精神を崩壊させていた。
一步、一步それが進む毎。
一人、また一人と騎士は発狂し、倒れていく。
ある者は身を縮こまらせ、赤ん坊のように泣き叫び。
ある者は恐怖に目を見開き絶命していた。
それが戦うまでもない。
真の恐怖が降臨した時、その存在そのものが世界の脅威であり、威力であった。
怪物はただそこに居るだけで、人を破壊し得る存在なのだ。
騎士たちが倒れ伏す床を、未来は静かに進んでいく。
行くべき道は分かっている。
地下へ。
そこが、全ての終着点だと、彼女は感じていた。




