第17話 凱旋と嫉妬
それに音は無かった。
あまりにも鋭利で堅牢な光のワイヤーは、音すら生じさせずその首に食い込んだ。
勢いに乗った数トンの質量が、空中に固定された細き死の刃を受け入れていく。
柔らかな毛皮も、鋼のような筋肉も、岩のような骨さえも。
何者もそこを通ることを許されぬと、世界に拒絶されたかのように、音もなく上下に分かたれていく。
怪物に相応しい、丸太の如き太さを誇る巌塊熊の首。
ワイヤーが括り付けられた木を半ば掘り起こし、斜めにしながら、その半ばまでワイヤーは食い込み、やがて首がちぎれるかどうかという所で止まった。
巨大な巌塊熊の体は一度ワイヤーにもたれかかるように止まる、
そしてそのまま崩れ落ちるように、びくんと体を震わせ、その場にずぅんと音を立てて倒れていった。
倒れ伏す途中、体より噴き出す鮮血が、月明かりの下で紅い霧となって舞っていった。
「……やったのか?」
倒れ込んだ琉覇が、後ろを振り向きながらその様子を確認する。
土まみれになった彼の顔は、未だに固さを保ったままだった。
「こいつが首を切り離されて生きていられる程とんでもない生物ならどうしようもないが」
未来もゆっくりと、木の上から下りてきた。
彼女は万が一となれば他の者たちを逃がす囮となる為、ワイヤーを張った木の上に潜んでいたのだ。
「倒せていると考えてみて良いんじゃないかな、これは」
倒れ伏す熊を眺める未来にも、安堵した表情が浮かんでいた。
「…………ッしゃあ~」
琉覇はごろんと寝転がり、大の字になる。
大きく大きく息を吐いて、溶けていくかのように全身の力を抜いた。
鍛え抜かれた肉体を持った男でも、すぐに立ち上がれない程気力も体力も消耗しきっていた。
間違いなく人生でも最大の大一番。
たった3秒だが、これまでの人生で最も濃密な3秒だったと自信を持って言える。
そう琉覇は心の中で自負した。
「う゛わぁぁぁぁぁん!」
トトも大きな声を上げて涙を流す。
麻美にしがみつきながら、子供のように――見た目通りに――泣きじゃくった。
一番不安だったのはこの少女だっただろう。
なにせこの状況で何一つ貢献する術が無かったのだから。
なんの希望も無く逃げ惑わなければならない。
それは想像を絶する負荷となって、小さな体を蝕んでいた。
向こうの木陰では、隠れ潜んでいた帆も「本当かよ……」と呆然とした表情をしている。
まさかあんな化け物を倒せるとは露ほども思っていなかった表情をしていた。
南那もぺたんと腰を下ろす。
緊張が一気に溶け、恐怖と歓喜が綯い交ぜになって心に押し寄せてきた。
た、たすかったあ……。
南那の心も安堵に包まれる。
これ程までに、生きている事に感謝した日は無かっただろう。
――終わった。
全員が今、同じ気持ちを共有していた。
時間にすれば一時間も無かっただろう。
だが全てを賭けた一時間だった。
己の命を勝ち取る為の、彼らが人生で初めて向かい合った生存競争だった。
それを越えたカタルシスは、まさに筆舌に尽くし難い感覚を彼らに齎していた。
誰もが言葉を発する事ができない。
無駄に浪費され続ける時間は、彼らがこの短時間で失ったリソース――気力か、生命力か、それともそれ以外の何かか――の大きさを表しているようだった。
動く気力すら無いとはまさにこの事だ。
精根尽き果てるという言葉の意味が今の南那にはよく解った。
死力を尽くすというのはこんなにも自らを消耗させるのだと。
「これからどうする」
天を仰いでいた琉覇が、ぽつりとつぶやく。
「戻って休むのが一番良いんだろうが」
困惑した様子の未来は、まるで疲れを見せていない。
他の四人には普段とあまり変わりがないように見える。
きっと未来さんも疲れているはずなのに、心配させないようにしてるんだ……。
大人だなあ、と南那は少なくない感動を覚えた。
「動けそうかい? 皆」
「わたしはなんか……ははっ」
麻美は歪な笑いを浮かべていた。
縋り付いていたトトはいつの間にか眠っていたようで、彼女に抱きかかえられて静かな寝息を立てていた。
「動けるけど動きたくないやっていうか。あと見て解る通り動けないかなって」
「私もちょっと」
南那も麻美の意見に同調する。
まだ体力は残ってる。だが、もう動きたくない。
今はただ、休みたい。
それが彼女の本音だった。
「僕はまあ、自分じゃちょっと歩けないし」
帆は憎々しげに自分の足――捻挫した足首――を見やった。
「琉覇次第だよ」
「俺も動きたくねェ~」
琉覇は大の字になって寝そべっていた。
「今目をつぶったらこのまま眠っちまいそうだ」
でも危ないよな、と彼は続ける。
既に時刻は夜半。
なんの準備も無い場所で野営は自殺行為に等しかった。
「幸いここは【堀】に囲まれた場所に見えるだろうからね」
少なくとも三方は通り抜けられない場所に見えるはずだと。
未来は冷静にそう言う。
「だからあと一方向だけ気をつければなんとかなるよ。夜の番は私が務めるから、君たちはゆっくり休んでくれ」
「流石にお嬢だけに任せるわけにはイカンでしょ」
「今回私は大分楽をさせて貰ったからね」
ちょっと紐を括り付けただけさ、と未来は肩を竦める。
「徹夜もそれなりに慣れている。ここは私の顔を立てると思って、仕事をさせてくれ給えよ」
にこやかに笑いながらも、未来は自分の意見を曲げるつもりは毛頭無いようだった。
「……じゃあ、お願いしていいですか」
そしてその誘惑に抗える程、最早気力も何もかも南那には残っていなかった。
「すみませんけど、わたしも」
そう言うと、麻美は糸が切れたように倒れ込み、トトと絡み合うようになって眠り始めた。 もう、限界の限界。
あっというまの、爆睡だった。
「……なんかあったらすぐ起こしてくれよ」
琉覇もしぶしぶと目を瞑る。
「……ありがとうございます」
帆も控えめながら、感謝の意を示した。
「ゆっくり休むといい」
松明を持ちながら、未来は微笑んだ。
「明日はこのデカブツを処理して、凱旋するんだからね」
積み上げられた獲物を見ながら、中島健人を始めとする特別組は満足げな表情を浮かべていた。
狩猟が終わる三日目の昼。
砦の前にはそれぞれの班の成果物が並べられていた。
まるで森中の動物が狩られたのではないかと言うほど、そこには剥ぎ取られた皮が幾重にも積み重なっていた。
特に特別組のものは数十体にも及ぶ鹿・狐等の皮が大量に積まれており、一目で別格の成果だと誰の目にも見て取れた。
「だらしねえなあ、他の連中はよー!」
ニヤニヤとしたいやらしい笑みを浮かべながら、梶間浩輔が声をあげた。
「お前らもうちょっと真剣にやれないのかよー。弛んでんじゃないのー?」
「雑魚は雑魚って事だよ」
大島毅は見下したように吐き捨てる。
「できない奴に期待しても仕方ないだろ?」
「それもそうだな、わるかったわ」
浩輔はニヤつきながら辺りの連中を見回す。
皆彼から視線を逸らすように、顔を背けていた。
その表情には悔しさと屈辱が隠しきれてはいなかった。
「しかし勝負にもなんなかったな」
山下大和も、つまらなそうに言う。
しかしそこには、当然の結果という傲慢さが添えられていた。
「当たり前だろが。俺達は勇者だぞ」
健人の言葉には、客観的には傲りが、主観的には自信がにじみ出ていた。
彼は最初から負けるなど微塵も考えていなかった。
優秀な自分たちこそが頂点なのだと自然に考えていた。
何故なら、自分は世界を救う勇者なのだから。
そう、信じ切っていた。
にわかに、向こうがざわつき始める。
何事か、と特別組の四人が向こうを見ると、そこには衝撃的な光景が有った。
六人の少年少女達が、巨大な獣の皮を、必死に持ち上げてこちらに向かってきているではないか。
折りたたまれているだろうそれは、それでも1メートル四方ほどの大きさを保っていた。
それから考えると実際の大きさは遥かに大きいのだろう。
よたよたと、しかし確実に。
彼ら――保護組は、巨獣の皮を砦に運んでいた。
「これ、ちょっと大きいんスけど」
どす、とその皮を規定場所に置いて。
琉覇は、そう尋ねる。
「やっぱり1匹分なんスかね。これ」
「ご、5匹分くらいにはなるかな……」
検品していた騎士も、戸惑ったような様子で、精一杯の一言をひねり出した。
「やっぱデカブツよか数かぁー! ま、しゃーないな!」
全ての獲物を収め終わった後、保護組は帰っていった。
明らかな《《異常な戦果》》を誇る事もなく、いつもの事のように。
「すごいな……巌塊熊の成体だぞ」
「状態も悪くない。これは使えるな」
「犠牲が出た一班はこいつの仕業か? あいつらが返り討ちにしたのか……」
巨獣の皮を広げ、ひそひそと言葉を交わし合う騎士たち。
その声色は、困惑と興味とそして楽しげなものに彩られていた。
その様子を、嫉妬に駆られる目で見ている一人の少年の姿が有った。
中島健人、その人である。
「ギッ……ギギッ……」
彼は強く歯を噛みしめていた。砕けんばかりに強く、強く。
――なんで。
この狩りの勝利者は間違いなく自分たちだろう。圧倒的な戦果。間違いない。
冷静に考えればそうだ。
――なんで。
記憶に残るのは誰か?と言われたら、保護組に違いない。
誰も成し得ていない、大きな戦果。
ちまちまと雑魚狩りに勤しんでいた自分たちと違う、大物狩り。
どちらがより良く見えるかなど、明白だった。
――俺達だって、やれた。あいつが俺達の眼の前に来たら簡単に倒せたのに。
唯一無二という成果が何故自分の手に舞い込んで来なかったのか。
何故あんな連中に与えられたのか。
あの熊を捨てなければ良かった。
いや、持ってきていたらもっとデカい熊を持ってる方が余計目立つんじゃないか?
じゃあ俺達は。
俺達は、絶対コケにされるようになってたって事か?
健人のその思考は、彼の心を暗黒に染める。
「ギギギギギギギ」
健人のストレスが最高潮に達する。
自分たちが尊重されない、そんな状況に彼は耐えられなかった。
自分たちこそが注目され称えられるべきなのだ。
そこに瑕疵が存在してはならない。
他の人間は自分たちを彩る脇役なのだ。
そう、本気で思っていた。
最早人の言葉すら発する事もできない。
獣そのものまで退化した彼の想念は既に人では無かったのかもしれない。
たった二週間で肥大化させられた自我はそれと反比例するかのように人間性と精神性を削ぎ落とし、醜いモンスターへと変貌させていた。
――いつか殺してやる。
中島健人に宿った幼い殺意。
それを知るものは、未だ誰も居なかった。




