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第15話 闇夜の逃走


 森に響き渡る咆哮が聞こえたのは、森が夕闇に沈もうとしている頃合いだった。


「な、なんです!?」


 トトの耳がぴくり、と蠢き、尻尾は落ち着きなくわさわさと彼女の背後で蠢いていた。

 勿論、その声は南那達の耳にも届いていた。


「聞こえたか」


「聞こえない理由ないでしょ。なんかが吠えた声?」


 麻美と不安そうに顔を見合わせる。

 どうしよう、と周りを見た時、一人だけまったく違う行動を取っている人間を見つけた。


 未来だけが、動いていた。


「未来さん?」


 彼女は即座に地面に手を当てると、一転して険しい顔をした。

 そして続け様に地面に耳を当てる。

 目をつぶって集中する姿は、まるで地中からの音を聞いているようだった。


「お嬢」


 いつも飄々として焦り一つ無いお嬢様。

 そんな未来の滅多に見せない切羽詰まった様子に、琉覇も僅かに緊張を増したように見えた。

 しかしその声がまるで聞こえないように、未来は地面に耳を澄まし続ける。


 誰もが、彼女の行為を固唾を呑んで見守っていた。

 ただ一人、未来だけが、多分危険な《《何か》》を察知している。

 そんな気がした。


「皆、ここを発つ準備を。松明を忘れないで」


 耳に手を当てたまま、やや硬い声で未来はそう言った。


「未来さん、一体どうしたの? 何が起きるの?」


「今すぐここを発たないと不味い」


 彼女はすっくと立ち上がると、森の奥を見やる。

 まるで暗闇の中に潜む何かを射抜くように。


「いや」


 未来にはきっと見えていたのかもしれない。

 そこからやってくる何か。

 だが――


「もう遅いか」


 どすどすという異音と共に。

 

 森の奥から、誰かが走ってくるのが見える。

 不格好に、それでも全力で、必死にこちらに向かってくる人影が一つ。

 

 それは、何れかの班に付いていた随行員(サポーター)の一人に見えた。


「おおーい!」


 随行員は走りながら必死に叫ぶ。


「助けてく――」


 その声は最後まで放たれる事はなかった。

 

 走っていた彼の体が突如、まるで何かに押し出されたように横に吹っ飛んだからだ。

 大の大人がまるで人形のように吹き飛び、近くの木へと叩きつけられる様はまったく現実味を感じられなかった。


 森の闇が、ぬうっと巨大なシルエットを伴い南那達の前に現出する。


 まるで悪夢のように、それは現れた。


 空の月すら覆い隠すような超大な熊。

 凶猛さすら隠さぬ威容を誇るそれが、今彼女らの前に姿を表した。


 ずぅんと地響きを立てながら、巨大な、あまりにも巨大な熊がのっそりと闇から姿を形作る。

 その身長は大凡4メートルか、それ以上か。

 間近であれば仰ぎ見る必要が有るほどの大きさを誇り、それは獣というよりも、獣以上の何かのように見えた。

 

 巨獣の目が、怪しく光る。


 そしてそれは間違いなくこちらを捉えていると、遠目にも解った。

 

「走れ」


 再び未来が言う。緊張を帯びた声で。


「すぐに逃げるぞ。早く!」


 いつも落ち着いてお嬢様然としている未来が声を荒げるのを聞くのは初めてな気がする。

 南那は場違いにも、呑気にそう思った。


「えっ?」


 動き出そうとしない南那の手を、未来が引く。

 強制的に動き出した体は既に走り出していた琉覇や麻美に続いて、無意識に駆け出していた。


「ありゃなんだ、なんだ!? でかいってレベルじゃねえぞ!!!」


 琉覇が走りながら叫ぶ。


 彼も珍しく、焦っていた。

 顔には恐怖の色が溢れ、怯えた様子すら感じた。

 漫画から抜け出してきた、バトルジャンキーみたいな言動をする彼が、焦りを見せていた。


 

「多分巌塊熊(グラドレム)って奴ですぅー!」


 全力疾走しているトトが、涙声で言う。


「滅茶苦茶デカくて固い熊ですぅー! 山奥にしか居ないって聞いてたのにぃー! そういえばここ山の中でしたぁー! 最悪ですぅー!」


 う゛に゛ゃぁぁぁぁ!と泣きながら足を止めないトトの様子から、その大熊がとてつもなくやばい存在だと、その場に居る誰もが理解した。


「ていうか熊って滅茶苦茶足早いんだよね!?」


 麻美も息を切らせながら、それでも走る。

 止まったら死ぬ、とばかりに、顔を真っ赤にして走る。


「車くらいの速度で走るってわたし聞いた事あんだけど?」


「確か時速40kmくらいは出るらしいよ?!」


「どう考えても逃げらんないじゃん!」


「絶対すぐに追いつかれて――」


 今どうなってるのか、それを知る誘惑に抗えなくて。

 振り返った南那は、信じられないものを見た。


「未来さーん!?」


 なんと未来が足を止め、巨大熊に向き合おうとしているではないか。


 ――いやいや無理でしょ絶対無理でしょ?

 

 もしかして「ここは俺にまかせて早く行け」とか言うパターン? あかんて、それはあかん。どないせいつーんじゃい。

 唐突な出来事に、南那の言語野は混乱をきたした。


 未来は腰に下げている麻袋から何かを取り出すと、巨大熊に向かってそれを投擲した。

 美しいアンダースローで投げられたそれは、まるで吸い込まれるように熊の顔面に直撃する。


 ギャウ!!!

 

 熊はまるで藻掻き苦しむように、顔面を押さえて悶え始めた。

 顔を拭いさるよう、器用に手を使いながら、それでも涙目でこちらに鋭い眼光を送ってきている。

 

 一方の未来はそれを見届ける事無く既に反転し、こちらに走ってくる姿が見えた。

 彼女はプロのランナーのような無駄の無いフォームで駆け寄ってくると、またたく間に一同に追いついた。


「早」


「嗜み程度には、走り込みもしていてね。フルマラソンだって完走できるよ」


「このお嬢様なんでも出来るな……」


 そろそろなんでもお嬢様だからで説明できるラインを越えてきてるんじゃないか、と南那は改めて思った。


「とりあえず足止めはしてきた。少しの間だが、距離は稼げるはず」


「何か投げてるみたいでしたけど、なんなんですか?」


 未来は南那の問いに、悪戯っぽい笑みで答える。

 場を和ませ、安心させるように。


()()()()()()()()()()って奴だよ。万が一危険な獣に絡まれた時の為に、刺激物が詰まった目眩ましを作っていてね」


 胡椒とか香辛料をちょっと拝借してね、と。

 

「まあ隠れて作る必要が有ったから、一個しか用意できなかったんだが……なんでも備えておくもんだね。正直使う羽目に陥るとは思ってなかった」


「で、どんくらいの時間稼げると思う?」


 いつになく真剣な様子で、琉覇は訪ねた。


「一分行けたら感動するレベルだね」


「一分……」


 それが長いのか短いのか、南那には判断つかなかった。

 

「はっきり言うが、逃げ切る事は不可能だ」


 そう、未来は断言した。


「あちらの方が遥かに足は速い。そして、暗くなってきた今、私達は灯りを消す事はできない。消したら最後、臭いに敏感なあちらだけが有利な状況になる。そして灯りを付けている限り、それを目印にあいつは追ってくるだろう」


 ――つまり、私達は迎撃しなきゃならない。あの化け物を。

 

 その宣言は、あまりにも無謀に思えた。

 無謀だったが、あれから逃げられるか?と言われたら確かに無理に思える。

 かと言って迎撃って、そんな無茶な。


「無茶苦茶、だろ、そんなの!」


 息も絶え絶えに――体力の無い彼は、既に限界ギリギリなのだ――帆は叫ぶ。


「あいつ、ヒグマよりデカいだろ! ヒグマだって人間がどうこうするの無理だって、僕ですら知ってるって!」


「でもやらなきゃ死ぬ」


 琉覇は努めて平坦に、冷静にそう言った。

 それはまるで自分にも言い聞かせているようにも聞こえた。


「死ぬんだよ、俺達」


 死。


 余りにも現実感が無い言葉だ、と南那は思う。

 こうしてあのバカでかい熊が追いかけてきている今ですら、それがすぐ隣に有るなんて思えなかった。


 日本に居た頃は、死なんて遠い出来事だと本気で思っていた。

 だから分からない。


 それがどれだけ恐ろしく、耐え難いものなのか。

 理屈を理解していても、感情が伴わない。

 ふわふわとして、実感できないのだ。


 自分の終わりというものが。


「まずは時間を捻り出さなきゃならない。策を練るにも、対応するにも」


 そう言って、未来は帆を見る。


「時間稼ぎの要は君だ。帆」


「はあ!? 俺!?」


 どう考えても無理だろと、彼の表情は雄弁に物語っていた。

 

「……確かに、走りながらどうこうできる能力(チート)って、帆くんだけですよね」


 南那は考える。

 この状況で琉覇と未来の能力は殆ど意味が無い。

 麻美は仕込みが必要で、そして当の南那も役に立つ要素は見当たらない。


 そうなると現状、帆の恩寵(チート)「音を5秒遅らせる能力」だけが走りながら使用できて、かつ周囲に作用し影響を与えられる能力になる。


 なるほど確かに、この場でなんとかできるなら帆以外居ない。


「ちょっとあいつの様子を見たけどね、頭はなかなかに悪く無さそうだった」


「なるほどねェ、そういう事」


 何を言いたいのか理解したのか。

 琉覇は、ニヤリとした笑みを浮かべた。

 

 同時に。

 地面が僅かに揺れる感覚を覚えた。

 巌塊熊(グラドレム)とかいうデカい熊が、煙幕弾から立ち直り、こちらに向かってきている音に間違い無かった。


「ひえええ、来るよ!」


 遠目であまり大きく見えなかったそれは、物凄い勢いで、周囲に浸透していくような錯覚を覚える速度で急速に視界を占領しつつあった。

 このままでは遠からず追いつかれるのは目に見えていた。


「帆。とにかく走りながら周りの音を全部遅らせろ! とにかく、全部だ! 出来るだろ!」


「出来るけど!」


 ああもう解ったよ!と半ギレしながら帆は自分の能力を行使する。

 傍目には分からないが、彼は走りながら、目に付くもの全ての「音」を適当に、手当たり次第に遅らせまくっているのだろう。


 夜闇に聞こえていた小さな音――虫の音や木々のざわめきが、一斉に消えて無くなった。


 そしてその動きに合わせて、琉覇も手に持った投石機で、タイミングを測りすれ違いざまに木の表面を連続で叩く。


「上手く行ってくれよ」


 走る琉覇の額に、汗が一筋流れる。

 それを拭う事もせず、彼は賢明に同じ動作を繰り返し続けた。

 

 

 

 その頃、巌塊熊(グラドレム)は夜の森を木々をなぎ倒しながら爆走していた。

 眼の前をうろつく《《我が子を殺した不埒者》》を殺す為だ。彼女は怒りに燃えながらも一方で冷静に、森の王者として敵を追い詰めようとしていた。


 「ヒト」という生命が脆弱である事を彼女は十分に熟知していた。

 しかし数が多く、ひたすら群れる。

 彼女はそれらが虫のように群がる生命であると理解できていた。

 彼女が恐れるのは非常に大多数で集まり抵抗される事だった。

 それは避けなければならない。つまり、各個撃破だ。

 

 彼女は必死に逃げ惑う六体のヒトを視界に収めた。

 もうあと数歩も走れば手が届く距離に行けるだろう。自らの牙と爪でそれらを引き裂く事を夢想し、ほくそ笑んだ瞬間――

 

 

 

 パァン!

 

 

 

 彼女の足元で突如発生する、炸裂音。

 如何程の痛痒も無い。

 しかし。

 

 

 

 パァン! パァン! パァン!

 

 

 

 断続的に音は続く。

 巌塊熊(グラドレム)は反射的に止まってしまった。

 2トンを超える重量が急制動をかけ、地面を抉りながらなんとかその勢いを殺す。


 彼女は足元をきょろきょろと見回す。

 ヒトは脆弱だ。

 しかし何をしてくるか分からない。

 時には、自分を脅かす事もある。これがそうでないと、どうして言えるのか。

 この巨大な熊の脳に、猜疑心が生まれる。

 もしかしたら、という思考。それが今彼女の足をこの地に縫い付けていた。

 

 

 

「ほんとに止まった!」


 音と共に足を止めた巨大熊の動きを見て。


 驚き半分、嬉しさ半分。

 麻美は喜びの声を上げた。


「フェイントやブラフっていうのは、半端に頭回る奴程引っかかる」


 投石機(スリング)で木を叩き続けながら、琉覇が言う。

 それが発するであろう音は、全て帆の恩寵(チート)が先送りにしていた。

 そしてそれが巌塊熊グラドレムの真横で炸裂し、この巨大な獣を混乱させていたのだ。


「とことん馬鹿ならこんなもん知らねえで突っ込んでくるし、頭が切れる奴ならすぐに見切ってやっぱ突っ込んでくる」


 後ろでは、巨大な熊が――先程までは恐ろしく感じられたのに――愛嬌の有る仕草で、自らの足元をきょろきょろと見回していた。


 先程までの恐ろしさは少しなりを潜め、愛着すら感じさせるものが有った。

 もしここが動物園のような安全の保証された場所であったなら、それは微笑ましい光景だったかもしれない。


()鹿()()()()()程度が一番やりやすいんだわ、こういうの」


 琉覇の見立ては、正しかった。


 巌塊熊(グラドレム)はその巨体に見合わず、知能も他の熊よりも発達していた。チンパンジーと同程度、と表現するとその知能の高さは伺い知れる。圧倒的なフィジカルに高い知能。人が戦うにはあまりにも生物的格差が大きすぎる相手と言えた。

 

 だがその知能故に、得てしまったものがある。

 

 想像力。

 

 「もしかしたらこうなるかもしれない」という、まだ起こってはいない可能性を検討する力。それはつまり、自発的判断が必要になったとも言えた。

 他の獣のように反射的に、刹那的に行動するのではない。

 自分が今何をしてこれからどうするのか、想像力を得てしまったが故に自らが想像した複数の可能性から何を選び取るか、意思決定が必要になったという事だ。

 そして判断と決断というプロセスは時間というリソースを食いつぶすものなのだ。

 

 元の世界なら楽園の林檎に詰まっていただろうその知性の罠を、帆の恩寵(チート)は今この熊に叩きつけていたのだ。

 

 おそらく彼女は、疑心暗鬼に囚われながら進む事になるだろう。おっかなびっくり、慎重に。全力疾走ではなく、ゆっくりと歩きながら。それは保護組にとって貴重な時間を捻出するだろう。少なくとも、幾許かの猶予を生むのは間違いない。


「に、逃げ切れるのか!?」


 この事態を引き起こしている帆の声も、僅かに弾む。

 絶望の中から俄に希望が見えてきたのだ。

 死んだような瞳が少し生き返ったようだった。


「いや、無理だわ」


 だが琉覇は一言で否定する。


「頭が回るなら、虚仮威しだって事もじきに理解する。大丈夫そうだって判断したら追ってくるだろうよ」


 琉覇は一つ失念していた。


 闘技者である彼は、とことん楽観を排除する。楽観は油断に繋がり、油断は敗北を生むからだ。

 だからこそ、彼のような人種は自分の強さを信奉する一方、最も最悪な現実を常に想定して事に望んでいる。


 しかしそれは彼だからだ。戦う事を日常としている男の認識だ。

 そして普通の人間はそうではないのだと忘れていた。


 彼は決して現状を悲観していた訳ではない。

 ただ冷静に状況を俯瞰し、それに対応したかっただけ。

 だがその言葉が、普通の人間にどう聞こえるか。

 彼は考えていなかった。


 よたよたと走っていた帆の体が、ふらりと揺れる。そのまま崩れるように倒れると、勢いのまま地面を少し滑り止まった。

 

「帆!」


 帆は気持ちが切れてしまった。

 これだけ全力を振り絞って、限界まで頑張って。それでも駄目だと言われて。

 そこまでやっても尚どうしようもないと突きつけられて――心が折れた。


 甘い夢が必要だったのだ、彼には。

 恐怖を和らげるような都合の良い希望を今は与えておくべきだった。

 琉覇はその事に気づけなかった。

 

 帆は倒れ伏して、静かに涙を流していた。

 倒れた時の衝撃で肌が露出した部分は擦り切れ、倒れた拍子に捻ったのだろうか、足首はやや過剰に曲がっていた。


 未来が倒れた帆に素早く駆け寄ると、その体を抱き起こす。


「体の方は……骨折等は無いな。だが足首を打撲したか」


 彼女は手早く帆の体を触診し、その状態を把握していく。

 その素早さは彼女に応急処置の経験が有る事を物語っていた。


「琉覇、君が帆を背負ってくれ給え。もう彼は走れない」


 帆が倒れ伏す姿を見て、一瞬灯った希望が、すぐに暗くなっていくのを南那は感じていた。


 南那自身も、自身の心に冷たいものが生まれつつ有るのを自覚せざるを得なかった。極限状態による興奮で騙されていた彼女の脳が、現実を受け入れつつある。

 巨大な熊に標的にされ襲われているこの状況で生き残るなんてできるのかと。

 

 ただ子供のように泣きじゃくる帆の姿を見て、気づいてしまった。


 麻美も呆然と帆の様子を見ていた。

 その顔に浮かぶ表情を、なんと表して良いのか南那にはわからなかった。

 あまりにも複雑で、名状しがたい顔をしていた。

 しかしそれが好ましいものでない事だけは、嫌と言うほど理解できた。

 

 普段は元気いっぱいのトトも、今は麻美にすがりつくようにして怯えているのみだった。不安げに涙を浮かべ、ぎゅっと彼女の服を掴んでいる。

 仕事で頼りになるこの少女はまだ自分たちより幼いのだと、漸く実感した。


 琉覇はただ、目をつぶり天を仰いでいる。

 苦々しい顔をしながら。


「南那」


 その声に南那はっと我に返る。

 

「これを、君が持っているナイフで適当な幅を持った帯状に切り裂いてくれ」


 そう言って未来が投げて寄越したのは、彼女が纏っていた麻のチュニックであった。


「保持帯にする。琉覇の両手を空けたい」


 彼女は一際真剣な声で、再度声をかける。

 

「時間に余裕は無い。急いで」


 頭が真っ白になっていた南那は、ただ言われるがままにその麻布をナイフで切り裂き始めた。

 もう何をしていいか分からない。それでも、手は動いた。


 5センチ程の幅に、未来のチュニックを縦に引き裂く。

 これで何本かの帯布を作って結び合わせれば、それなりの長さになるだろう。

 そう思い、無心にナイフを滑らせていたが――

 

「あれ?」


 とある部分で、ナイフが止まる。それ以上進む事を拒むように、がっちりと。

 幾ら力を入れても刃が進む気配はなく、文字に引っ張られるように布が歪むだけでそこから先へと進もうとはしなかった。


 それは、「みく」と名前が書かれた部分だった。

 これは洗濯時にどれが誰の着物かすぐに解るようにと南那が能力で入れたものだった。

 なにせどれも似たような色や作りをしているので、誰のものか分かりにくかったのだ。

 

 その光る文字がまるで全てを拒絶するように、ただナイフの刃が進むのを止めていた。

 

「もしかして――」


 彼女の脳裏に、天啓が閃いた。

 唐突に、しかし当然のように。

 衣目川南那は、己の能力の真価に、その時ようやく気づいたのだった。

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