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幽遊白書感想 「仮の善」と「悪の美学」

作者: 相浦アキラ

幽遊白書のネタバレがあるので苦手な方はご注意ください

 前々から冨樫義博氏の漫画は他の漫画と決定的に何かが違っていていると感じていました。それは作風の違いという言葉で片付けられるレベルの話では無く、とにかく本質的に何かが違うとしか言いようがなくずっと言語化出来なかったのですが、最近分かるようになってきた気がします。つまり「冨樫氏は善と美を分離させて描いているのではないか」と言う事です。


『世の中に善と悪があると信じていたんだ。戦争もいい国と悪い国が戦ってると思ってた。可愛いだろ?だが違ってた。』という仙水のセリフからも見て取れるように、冨樫氏は善悪を絶対視している訳でないようです。むしろ悪のどこまでも愚直な生き方を圧倒的な美として描いています。しかし当然ながら誰もが美だけ追求していては社会は滅茶苦茶になります。秩序を守り社会を安定させつつなるべく個人の尊厳を守らなければなりませんし、その為に人権や法律や社会体制といった「仮の善」というものを認めなければなりません。ジョージ・オーウェルの「1984」で描かれたディストピア社会でさえ、優れた作家の視点は破壊的な革命を「仮の善」とする事はせず、人間を超えた時間と自然による解決にのみ希望を託しました。


 中には「仮の善」を嘲笑うように唯美主義的な露悪に走った作品もありますが、そういった作品もまた流通や言語といった社会のインフラに支えられている訳ですし、そもそも人様に自分の作品を見せるという行為が完全に社会的な行為である訳です。その事を知ってか知らずか「仮の善」を冷笑し美だけ追求しているようでは、親の脛齧ってる癖に臆面もなく反抗して見せる子供のように浅薄で軸の無い作品となってしまうのは畢竟です。この辺りは善悪の彼岸を標榜するニーチェ哲学にも共通している問題点だと思います。ニーチェはソクラテス以前の古代ギリシャを理想としているようですが、病弱なニーチェがスパルタにでも生まれていればすぐにでも崖から突き落とされて殺されていたかもしれません。キリスト教を批判するのは勝手ですがキリスト教の「仮の善」に助けられて自分が生きているという観点も持つべきだったと思います。


 話がそれてしまいましたが、冨樫氏は青年漫画的な殺伐とした世界観で作品を描きながらも、幽助という主人公を通して「仮の善」をしっかり提示するという優れたバランス感覚を持ってて、そこが単なる露悪作品とは一線を画しているという事です。幽助はある程度ドライな面や粗暴さや闘争心を持ちながらも根っこに優しさと義侠心を持った少年漫画然とした主人公として、単なる善の反対に留まらない愚直なまでの美学を持った悪と対決していきます。


 そしてもう一つ重要なのが「善が必ずしも美と結びつかない」という視点であります。「鬼滅の刃」なんかは鬼殺隊=善=美(=自己犠牲=謙虚=優しさ=人間性)と鬼=悪=醜(=歪んだ自己保存=傲慢=非人間性=反社会性)が明確な対立軸の上でぶつかって行くのですが、幽遊白書では先述した通りやんわり「仮の善」があるだけで絶対的な善悪の構図は描かれず、美や精神性に関しては悪側の方に分があり作者の魂が籠っているのも明らかに悪側であります。


 特に魔界トーナメント編のラスボスである戸愚呂弟は印象に残るキャラクターです。彼は元々人間でかなりの実力者だったのですが、なすすべなく弟子達を妖怪に殺された事で何かが壊れてしまいます。それから彼は修行して強くなり弟子を殺した妖怪に復讐を果たすのですが、恐らく強くなりすぎて歯ごたえの無さに失望したのでしょう。老いて弱くなっていく事を良しとせずついには自身も妖怪となり自身の全力をぶつけられる相手をどこまでも求めていきます。彼の根底には弟子を守れなかった自分を許せない、敗北しなければならないという強い自己破壊の意志があり、徹底的に追い詰め覚醒した幽助に敗北した後に、1億年拷問を受け最後には魂が無に帰すという最悪の地獄に自ら進んで堕ちていきます。


 仮に主人公の幽助が戸愚呂弟のように仲間たちを妖怪に殺されたらどうするでしょうか。頭に血が上って何が何でも勝とうとするでしょうが、相手が人間だったら恐らく殺す事はしないでしょう。幽助は自分の不甲斐なさに怒り破滅的な事もするかもしれませんが、やがてどこかで踏ん切りをつけて彼なりに前に進んで行くことでしょう。贖罪の為に自分から地獄に落ちるというのもいまいち想像できません。


 こうして比較してみると、戸愚呂弟より幽助の方が「正しく」ちょっぴり大人とも言えます。しかし生き様の美しさ、巨大な自意識に囚われながらも自意識を破壊しようとする人間的な意志でいったら戸愚呂弟の方に軍配が上がるのではないかと思います。もちろん先述した通り戸愚呂弟を善として描いたり彼の生き方を推奨する事はできないのですが、戸愚呂弟の生き方を美として描く事は作品として当然許される訳です。ある意味では幽助は主人公でありながら、寧ろ戸愚呂弟の引き立て役になっているとも取れます。もちろん「戸愚呂弟は老いていく人間としての生から逃げた」という批判も繰り返しなされていて、そこに冨樫氏の優れたバランス感覚が現れています。


 ただ魔界トーナメント編の次の仙水編が終わってからは魅力的な悪が登場せず、作品の軸がいまいち無くなってしまったのは残念でした。まあ冨樫氏は本当は仙水編で終わらせたかったのに売れていたので編集から無理に続けさせられていたそうなのであまり批判しても仕方ないかも知れません。寧ろ悪役不在による終盤のグダグダ感から逆説的にそれまでの幽遊白書の優れたバランス感覚が明白になっているとも言えます。作品と言うのは単純に真善美の要素を適当に散りばめていけばいいというものではなく、全体の構成やバランスを考えながら組み立てていかなければ軸の無いフワフワしたものにしかならないという事でしょう。




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